2023年06月03日

回答メール

人は簡単に勘違いして簡単に喧嘩する。しかし、仲直りは難しい。およそ一月前のことだが人生相談承りますと言う過去の思い出を書いた。念願の相談を受けたものの雑談に終わり、何の相談にもならなかった。

そう思ってメールをしたのだが、有難迷惑かも知れない。相談者は退職したばかりの古い友人A君、私より7歳若い。無職になって初めての二人暮らしに戸惑っているようだった。

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以下メールより抜粋
40年にわたる家族ぐるみの付き合いですから、ある程度の事情を知った上でのアドバイズです。下手な考え休みに似たり。先ず、やってみましょう。

1.奥様の言うこと為すことに反対しない
何事にも反対しないでください。二人暮らしを始めれば小さな差異も気になりますが大同小異。自由が一番大切です。相手の自由を尊重すれば、自由は自分に戻ってきます。

2.重要なことは奥様に相談しない
例えば命と経済に関する重要な決定の場合、二人にとって最良の選択は一つしかありません。反対されれば実行不可能になり、押し切れば信頼関係が破綻します。そして、話し合えば最良の選択から次第に遠ざかって行きます。

3.自分の部屋以外の家具配置を変えない
すでに家は奥様の城になっています。勝手にいじるなんてもってのほかです。特に必要がある場合は相談しましょう。

4.奥様の家事労働に感謝し、自分のことよりお手伝いを優先しましょう。感謝の気持ちを伝えれば伝えるほど、お手伝いは少なくなる効果があります。

5.奥様との共同作業はしない
必要な場合は流れ作業より分業を提案しましょう。

家庭は職場とは違い真面目で几帳面よりも、柔らかく優しい雰囲気作りが大切です。奥様の言うことを聞くことが何よりも大切です。受け入れ難い場合は「考えておく」と言えばいいのです。奥様は反対されるのは嫌いですが、実行を見届けるわけではないのです。これが職場との違いです。
以上、メールより抜粋

もし奥様がアル中かギャンブル狂としたら、簡単に解決策を見つけることはできない。幸い長い家族ぐるみの付き合いだから奥様の性格も分かっているから回答も簡単だ。これがテレビや新聞の人生相談とは違うところである。と言うのが私のウリだが独りよがりだ。相談はまったく無いので開店休業、既に閉店である。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2023年05月27日

秘密が一つ増えた

「地下鉄降りて階段を上ろうとしてもできないのです」
「あのねぇ、80過ぎて癌の手術2回して、放射線治療して階段で行く人など滅多にいませんよ。エレベーターを使えばいいでしょう。その為にどの駅にも付けてるんだから」

言われなくても分かっているが、階段くらい上れるようになりたい。私の知っている同年輩の人たちは階段どころか山にだって登っている人が多いのだ。私だってその十分の1は無理でも百分の1くらいはやりたい。しかし、出来ることと言えば平地で1時間程度ゆっくり散歩するぐらいだ。

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散歩中、自転車に轢かれそうになってビックリした。青信号で渡ろうとしたときのことである。もちろん車にとっては赤信号なので止まっている。そこに信号無視の自転車が突っ込んできた。私は反射的に止まったが自転車も急ブレーキ。

自転車を斜め横に見ながら一歩出ると同時に自転車も発車、ぶつかりそうになり停車、また歩こうとしたらまた発車、赤信号を完全に無視していた。自転車と私の間隔は僅か数センチ、ヒヤリとしてハッとする、を繰り返す数秒間だった。

赤信号をアッという間に3回も無視とは驚きだ。しかし見事に私を避けていた。自転車の若者にとって私は単なる障害物に過ぎなかったのだ。家に帰ってお母さん(妻)に話すと、意外な反応に又々ビックリ。危ない人は外だけではなく、家の中にもドッカリと座っていたのである。

「そんなところで道路を渡ろうとするから悪いんだよ」
「信号は青。車は赤信号で止まっているのですよ」
「あそこは危ないから渡ったらダメだよ」
「交差点ではないから横からくる車も無いのですよ」
「一度危ない目に遭ったからダメと言ったらダメッ!」

結局、信号無視の自転車はお咎めなし、悪いのは私と言うことになった。一度白と言ったら絶対に黒とは言わない人だ。理屈にならない理屈で、また押し切られてしまった。それでもお母さんとは仲良くしたいから、一生懸命考えたら不可解な発言の謎は解けた。

お母さんにとって自転車は問題ではない。あの場所が鬼門なのだ。キーワードは「一度危ない目に遭った」である。彼女は11年前に同じ場所で滑って転び骨折して手術のため入院したのだ。忘れもしない平成24年元旦、護国神社初詣の帰りのことである。

その後、初詣には行かないことにして現在に至っている。その流れで私も、その場所について通行禁止になったのだ。非科学的ではあるが気持ちは分かるる。あすこは絶対に渡らないことにしよう。もちろん渡っても話さない。仲良く穏やかに暮らそうと思えば秘密は増える。また一つ増えた。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2023年05月20日

一人でランチ

にこにこ️ 80代は毎日3食完全給食
「アンタはいいねぇ、いつも自分の部屋にいて、『ごはんだよ』と声をかければ食べに来て、食べ終わればさっさと帰るだけ。作って片付けるアタシは大変だよ。毎日3回もだからね」と愚痴られる。

何時からこうなったかと言えば、70代の末、80歳が見えたころからだ。舌癌がきっかけで入退院を繰り返し、それにコロナ禍も加わった。お陰で毎日3回完全給食になった。入院3回といっても、それぞれ1ヶ月程度だから殆ど自宅療養だ。3食昼寝付きだからとても有難いけれど気が引ける。
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かなり昔だが、「私作る人、僕食べる人」と言うテレビのキャッチコピーが女性差別として批判を浴びた。このキャッチコピーは直ぐに中止されたが、私の心に今でも残っている。これを何とかして「ボク感謝して食べる人、アタシ喜んで作る人」と言う雰囲気に変えられないかと考えた。

そして、次のことを実行。ご飯だよと呼ばれたら直ちに駆けつける。頂きます、ご馳走様でしたと挨拶。そして、出来るだけ多く「これ美味しいですね」と言い、笑顔で話しながら残さず食べる。この程度のことは食べるだけの人としては当然だ。口で言うのは簡単だけど実行となると楽じゃない。いろいろあるけれど80代は3食完全給食時代が続いている。

にこにこ️ 60代の昼食は二人別々
在職時代は朝食は二人でとり、昼食の全てと夕食の一部は外食。退職してからは昼食だけ別々にとっている。いろいろなグループに所属していたので、グループでのランチが多かった。それはそれで楽しいけれど、一人で食べるのも好きだった。例えば、こんな食事をすることもある。

せっかく一人なのだから、そのとき食べたいものを自由に選ぶ。先ず、何を食べたいか胃袋に聞く。「ご飯」と言ったら一番欲しくなるのはおにぎりだ。「おむすび せんごくや」に行くと、カウンターで食べているのは女性ばかり。女性は実によく美味しいものを知っている。

牛丼の「吉野家」では男性が圧倒的に多い。牛丼のご飯とおむすびのご飯とでは、天と地ほどの差があることを男性は知らないのか。「せんごくや」で明太子のおむすびと豚汁を食べる。費用368円なり。ここの豚汁は実に美味い。

食後には甘味が欲しくなるが、幸い隣はアンコの美味しい「サザエ」だ。サザエのたい焼きは最高だが焼き立てに限る。冷えて皮が柔らかくなると味は半減、パリパリ感がなくては食べる気がしない。近くのベンチを利用する。お茶は「せんごくや」から紙コップに入れて持ってきてある。 

3メートルほどしか離れていないし、ゴミ箱も近いので紙コップを棄てるにも便利だ。費用115円。ベンチなどで食べたくないが、ここで知っている人に会ったことがない。便利で安全な食べ場所である。

最後はスターバックスのショート・ドリップ・コーヒー、費用290円。ここは全店内禁煙なので安心して入ることが出来る。しかも、一人で来ている人が多いので、なんとなく落ち着く。これが一人の私が気ままに食べたいものを食べる昼食。費用合計773円、ただし15年まえの料金。最近のインフレでどのくらい上がっただろうか。この3年間は外食は一切しなかったので知る由もない。

にこにこ️ 70代は移行期
何事も自然に任せれば変化もゆっくりだ。60代の昼食別々から80代の3食完全給食に至るまでの移行期は70代。少しずつ静かに変わって行った。今思えばこんな感じ。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | その他

2023年05月13日

チョンマゲで景気回復(夢は正夢)

3年にわたるコロナ禍で借金に借金を重ねた日本の台所事情が危ない。無力の私にできることはないか一生懸命考えた。しかし、何も頭に浮かばない。だが待てよ、無力でも出来ることが一つある。それは夢を見ることだ。

「夢は正夢」と言う言葉もある。知識がないから筋の通った考えは浮かばない。いろいろ空想してたどりついた結論は明治時代に廃止されたチョンマゲの復活である。上手くいけば景気回復のきっかけになると思うのだが、どうだろうか?

先ず背景を考える。ハゲが差別用語かはギリギリのところにある。「禿頭症」と言い換えを迫ってい人さえいるほどだ。私は薄毛時代を含めるとハゲ歴50年のベテランだ。

にもかかわらず、20年前くらいからハゲも音痴も全く気にならなくなった。この二つは周囲の雰囲気次第で気にならなくなるものだ。決め手は周囲の環境であって自分の意思ではない。雰囲気さえ良ければハゲも音痴も気にならないものだ。懇親会もカラオケも気にせず楽しめる。

1968年のアメリカ映画『サルの惑星』を観ていて気付いたことがある。時間が経つにつれ猿の世界に慣れ、猿が普通で人間が動物の一種に見えてきたのだ。こんな試みはどうだろうか。ハゲばかり集めて映画を作る。3人ほど髪の毛のある人を出演させたら、同じような現象が起こるかも知れない。髪がフサフサな人を悪役にすれば効果抜群と思う。

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ところで、明治政府一番の失敗は明治4年発布の「断髪令」だと思いう。長い間続いた良き習慣を、欧米諸国に合わせて、あっさりと禁止してしまった。全く困った政府である。今さら髪型は自由だといわれても、一度失った習慣を元に戻すのは不可能に近い。まったく惜しいことをしたものだ。

古い話で恐縮だが「首都圏の女子大生に対して『髪の薄い男性は好きですか?』とのアンケート調査を行ったところ、『はい』が0%だった(道新2007年6月25日)」。好きといってくれた女子学生は、一人もいなかったのだ。善良な市民が何の落ち度もないのに、これほどの仕打ちを受けるとは驚きだ。明治政府の高官は「断髪令」を発令したとき、果たしてこのような事態を想定しただろか。

ローマ皇帝のシーザーはハゲを隠すため月桂冠を発明したそうだ。日本では武士から商人にに至るまで全員がチョンマゲを結える公平な習慣があったのだ。長い間続いたチョンマゲを止めるなんて、何と言う愚かなことをしたものだ。明治政府最大の失政である。チョンマゲをしていれば、髪が薄いか濃いかは問題にならなかったはずだ。ハゲだからといって女子大生に嫌われる必要はなかったのである。 

それだけではない。チョンマゲがもたらす経済効果は巨大だ。世界中の政治家が日本のチョンマゲを見て羨ましがり、世界各国で「チョンマゲ令」を発令されるかも知れない。ある調査によると、日本のハゲ人口は26%に対して、欧米は40%くらい占めると言う。政治家だけに限定すれば、更に跳ね上がるだろう。彼らが黙っているはずがない! 

そうなれば「髪結産業」は引っ張りだこだ。日本の髪結が世界中に進出して、景気回復の機関車の役目を果たすことも夢ではない。ハゲをカツラで隠すのではなく、全ての男性が頭を丸く剃ってしまうのだ。稀に見る逆転の発想、チョンマゲが疲弊した日本経済を救うかも知れない。

「馬鹿馬鹿しいけどジョークのつもりかい」
「夢です」
「実現性ゼロだね」
「夢は正夢、チョンマゲ時代にイギリスの洋服が世界中に普及すると誰が予想したでしょうか」
「チョンマゲは絶対無理」
「例えば、ドレスコードでチョンマゲとか」
「めんどくさいからダメ!」
「そこを老人力で何とか」
「メンドクサイことが大嫌い。それが老人なのだ!!」
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2023年05月06日

ユックリが大好き

私はユックリが大好きだから定年退職はとても嬉しかった。ただ自由になると、何もかも楽しくなるから大変だ。いろいろやって、いろいろ出会いがあって、楽しくてハシャギ過ぎて体調を崩した。そして、10年経ったら入退院を繰り返す羽目になり、心を入れ替えて静かにノンビリ暮らすことにした。この方が性に合っているような気がする。

ほとんど家事はしないが、朝食の紅茶は私がいれている。我が家の台所は狭いのでお母さん(妻)に「狭くないですか」と聞くと、キッパリと否定された。しばしば、ぶつかりそうになるが、私がいつもよけているので、お母さんは狭く感じないのだろう。私の台所滞在時間は一日10分程度だが、この狭さは気になって仕方がない。

夕べ、市内で夫婦で暮らしている息子が家に来て、そのまま泊まることになった。今朝は3人分の紅茶をいれなければならない。食器棚を見たがいつも使っている紅茶カップが見当たらない。

「ティーカップはどこですか」 
「食器棚に入っているよ」
「よく見たのですが、ありませんよ」
「どこ、見てんのよ! ここにあるじゃない」 
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「これは全部コーヒーカップですよ」
「そんなメンドウなこと言うから、何でも遅いんだよ!」 
「……」
「あんたみたいにノロマだったら、主婦は務まらないね」

在職中はノロマだから仕事はとても辛かった。チームワークだがノロマと思われたら誰もが一緒に働くのを嫌がる。だから機敏なフリをした。バレていなかったと思う。私よりもっと鈍そうな人がノロマと非難されていたから間違いない。本当は私の方が鈍いのだが機敏なフリが上手かったのだ。

現場では特に安全迅速な業務処理が求められていた。ノロマな私が逃れる唯一の解決法は現場から離れること。なんやかやと10年以上は現場を離れて事務室勤務等をしていたが、完全に現場を離れる道はない。8年間も職を転々とした半失業期の苦労を思うと退職する気にはなれない。不本意ながら定年退職まで偽りの人生を歩み続けた。

退職したらマイペースが夢だった。夢は実現したが、お母さんにまでノロマと非難される様になってしまった。しかし、ノロノロやるのはとても楽しい。同じことをしても急かされて早くやるのは苦しいが、ゆっくりやればとても楽しい。もう早いフリをしなくていいんだと思ったら、とても気分が楽になった。退職時の、この思いは一生わすれない。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2023年04月29日

人生相談承ります

独りよがりの駄文を書くのが大好きだ。駄文のネタは難しい本から拾ってくる。今回は心理学である。「生存者バイアスは認知バイアスの一つ。特に、生き残らなかったサンプルを除外してしまうことを指す」。これをヒントに私が作った造語が「成功者バイアス」である。

テレビや新聞の人生相談は的外れの回答が多い。原因は回答者に成功者バイアスがかかっているからだ。いくら相談者の悩みを汲み取ろうと努力しても成功者バイアスが邪魔して理解を妨げる。つまり、成功者は過去の苦労が現在の成功に繋がっている。ところが相談者は苦労の真っ只中、前途の希望が全くない。お先真っ暗だ。これでは話が噛み合わない。

ということで、成功者バイアスが全く無い私が人生相談を承ることにした。あるネットの掲示板で相談を呼びかけたが、反応は一人だけだった。しかも昔の職場の後輩だ。優しくて義理堅い人だから私を励ます為の相談かも知れない。しかし、そんなことは気にしない。初めてのお客さんとはそんなものだ。記念すべき一人目の相談者である。

どうも長年連れ添った奥さんとうまく行ってないらしい。私にも経験がある。今は楽しく暮らしている私として、いろいろ助言をしてあげたい。先ずは話を聞いてあげることにした。これが人生相談の第一歩だ。

「皮肉なことに奴隷の僕は、主人と呼ばれているんですよ」
「いいじゃないか。主人なんて夫の蔑称(別称)だ」
「二人暮らしは、どうしても主人対奴隷の関係になってしまうのです」
「と、言うと?」
「リーダーは一人じゃないとダメなのです」
「主人なんだろう。しっかししろよ」

「なりそこなったから、今は奴隷です」
「そうかい。思いつめない方がいいよ」
「恋の奴隷と言う歌があるでしょ。意味が分かります?」
「ノーコメント」

「モテる人は得ですね。私なんて奴隷です」
「恋の奴隷だろう」
「いえいえ、ただの奴隷です。ヒラです」
「無職なんだろう。役職にこだわるんじゃないよ」
「利口な奴隷になって主人を操ろうと思うんですよ」
「ずいぶん奴隷にこだわるね。勝手にしな」

「ところで、柳で暮らせと言う言葉がありますね」
「柳の下のホームレスかい?」
「風に逆らわずに受け流している柳は強風にも折れないでしょう。肩肘はらず、気楽に行こうと思います」
「中島公園では台風で一番よく折れて倒れたのが柳だよ」
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菖蒲池、鴨々川 沿いのヤナギが台風で次々と倒れた。

結局は雑談になってしまった。最初はこんなもんだろう。経験を重ねるうちに良い回答者になっていくものだ。そう思って待ち続けたが、3年後にもう一件相談があっただけだった。これについては以前のブログに載せたのでここでは省略。不本意ながら、これが私の人生相談の全てだ。

「俺も成功者だから人生相談には向かないね」
「先輩が成功者?」
「楽をしたいという長年の夢を叶えたからな」
「夢はそれだけですか?」
「他に何があるんだ」
「いろいろあるでしょ」
「俺に出来ることを教えてくれ」
「う〜ん… … (>_<;)コマッタ
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2023年04月22日

"th"の発音

カラオケが苦手な私は英語も苦手だ。そして、書くことも苦手なのに洋楽を歌って、駄文を書いている。苦手なのに何故? 答えは簡単、得意なことが何もないからだ。勉強も仕事も苦手だったが、スポーツ一般、麻雀、囲碁・将棋等何もかも苦手だ。唯一の自慢は82歳まで生きたことである。

体調は悪いが、心と口は元気だから幸せだ。ところで、最近観た映画で印象に残っているのは『コッホ先生と僕らの革命』。第一次大戦前、反英感情高まる帝国主義ドイツに、初の英語教師としてイギリスからコンラート・コッホが赴任してくる。劇場公開2012年の作品だがテレビで観た。

印象に残っているのはコッホ先生が英語の授業で"th"の(上下の前歯で舌先を挟む)発音を指導するシーン。ドイツ人の生徒だって"th"の発音を知らなかった。この事実は私をホッとさせた。

コッホ先生はイギリスや英語に対する偏見を植え付けれれていた生徒たちの心を開かせるため、授業にサッカーを取り入れた。現在のドイツサッカーの発展は、この人がいなければなかった。これは実話である。

映画ではドイツの少年が"th"の発音に戸惑っている様子が窺われるが、私は航空管制官になった途端に"th"の発音から解放された。管制用語では数字の3を意味する英単語threeはhを抜かしてTREEと発音するように定められている。これが国際民間航空機関(ICAO)の推奨基準である。

ちなみに、zero、one、two、three、four、five、six、 seven、eight、nineの発音は、ZERO、WUN、TOO、TREE、FOWer、FIFE、SIX、SEVen、AIT、NINerと定められている。ICAOフォネティックコードによる数字の発音が、このような英語で表記されているのが意外だった。

ところで、アメリカ海軍とNATO(北大西洋条約機構)加盟国海軍の通信は、「NATOフォネティックコード」として知られている。NATOではICAOと同様に3は TREE、5は FIFE、9は NINerのように発音される。"th"の発音は安全確実迅速を旨とする通信の世界では嫌われているようだ。

個人的思い出だが、日米共同の対潜特別訓練は1958年(昭和33年)に始まった。18歳になったばかりの私は護衛艦「あさかぜ」の電信員として日米合同訓練に参加した。

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在りし日の自衛艦隊、手前より「はたかぜ」「あさかぜ」
艦橋電話も電信員の仕事なので米軍との交信訓練をした。英語が分からないので米兵との通信は全てカタカナで対応した。もちろん、3はスリーでなく、NATOフォネティックコード同様にツリーと覚えさせられた。

いろいろな単語を紙にカタカナで書いて覚えたが、何とか米兵に通じてしまった。戦後初めての日米合同訓練は、末端においてはカタカナで始まったのである? 為せば成る、たとえ英語がわからなくても。元を正せば旗りゅう信号。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2023年04月15日

間違えられた男

昔の映画が好きでテレビで上映されるたびに録画して観ている。『間違えられた男』は1956年のアメリカ映画で実際に起きた、強盗犯に間違われた男の悪夢のような恐怖が描かれている。10年以上前のことだが私も他の男と間違われたことがある。映画ほど深刻ではないけれど、小心者の私を驚かすには十分な事件だった。きっかけは似た氏名の聞き違いだった。私の名はツバキヒロシだがツザキヒロシさんと間違われてしまった。

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血液検査のため、かかり付けの病院に行った。検査室の前では大勢の人が検査の順番を待っていた。まだまだ先だなと思って本を読んでいると、「ツバキヒロシさーん」と呼ばれたので検査室に入った。すると後ろの方で「オレの番だ」とブツブツ言っている人がいたので、聞いてみると、彼の氏名は「ツザキヒロシ」だった。

「間違えちゃあダメだよ。2回目だよ。しっかりやらなくちゃ」とか、看護師さんに文句を言っている。聞き違えた私が悪いのだが、彼が怒る本当の訳は後で知ることになる。

ツザキヒロシ? この名前どこかで聞いたような気がするが思い出せない。しばらくすると私の名がよばれた。検査室に入ると、ふとあることを思い出した。2ヶ月前、検査に行ったとき、このツザキさんと間違えられて「24時間ホルダー心電図」を装着されそうになったのだ。

採血されながら看護師さんに言った。「私、あの人と間違えられて24時間ホルダー心電図を付けられるところでしたよ」
「えッ、あなただったの! 病院中大騒ぎになったのよ。師長さんから注意があって…」

そういえば、今回の人物の確認作業は、前回に比べてやけに念入りだった。名前と生年月日を言わされ、さらに採血を依頼した医師名の確認もあった。さっき「間違えちゃダメだ」と怒っていたツザキさんの気持ちがやっと分かった。彼の場合は実際に心臓が悪いのだから深刻だ。その結果、念入りになった確認方法だ。私たち二人は、図らずも病院のマニュアルを変えてしまったのかもしれない。

偶然会ったツザキさんは、色の黒い暗い感じのヨボヨボな人だった。私が「ツバキヒロシですが…」と話しかけたが、押し黙ったままだった。これこそ本物の病人だと思った。尿酸値が高いだけで通院していた私とは違うのだ。

ここで「患者の取り違え事件」の概略を説明したいと思う。いかにしたら人間は他人と間違えられるか。どうしたら避けられるか、参考になるかもしれない。

採血が終わると診断である。看護師は「二診に行ってください」と言った。行ってみると、いつもと違う場所に「第二診察室」と書いてあった。いつもの場所と違うので看護師さんに聞いたら、ここで良いと言った。名前を呼ばれて診察室に入ると初めて会う医師だった。最近はよく変わるので「またか」と思っただけだった。

「検査の結果では血糖値がうんぬん…」と、先生。
「初めてですが一時的なものではないでしょうか」
「そうじゃあないよ。今日だって悪いし」
「もう、結果が出たのですか?」 結果が出るのは10時ごろのはずなのに、今は9時前だ。何か変だと思った。
「出てるよ。なにか心配事でも?」
「ときどきクラッと来るのですが」
「数値も悪いし24時間ホルダー心電図をつけなさい」

訳が分からないが、心配だから心電図検査を受けるけることにした。診察が終わったが、いつもと違って待っていてもなかなか看護師さんが説明にこない。

「ツバキヒロシさーん」。遠くの方から私を呼ぶ声が聞こえたが、あちらから呼ばれるはずがないので無視した。遠くの方から看護師さんが走ってきた。「ツバキヒロシさんですね。八診に来てください。二診の後、八診と言われているでしょ」と非難するよう言った。

「24時間心電図の予約したでしょ」と、さらに厳しい声で言いながら予約票を私の前に突き出した。
「あれっ? これ別の人ですね。私はツバキ、こちらはツザキ、人違いと思います。確認してください」
看護師さんの顔色が変わった。「ちょっと待ってください」と、慌てた様子で診察室に駆け込んだまま出て来ない。 

なかなか出てこないので別の年配の看護師さんに、一部始終を話したら、その看護師さんも室にはいったまま、なかなか出て来ない。しばらくすると責任者らしい年配の看護師さんが先ほどの看護師さんを従えて来た。

「ほかの人と間違えたようです。私たちも気をつけますが、患者さんも気をつけてください」と責任者が言った。
「名前を呼ばれたから診察を受けたのです。自分の氏名を見るチャンスもなかったのですよ。どう気をつければいいのですか?」と聞くと、黙って行ってしまった。 

この話を友人にすると、
「先生は誰だか分からなくても診察できるのか?」
「血液検査の数値があるからね」と、私。
「人は、要らないのか?」
「いなきゃダメだよ」
「そうだろう」
「いなけりゃ、血が採れないでしょ」
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2023年04月08日

寝たのはどっち?

2004年の春、音楽同好会「フォルテ」世話役のAさんからメールが来た。彼女は私の友人の友人で面識はなかった。「キタラ町内会の中波さん、コンサートに行きませんか?」というお誘いだった。そのような町内会はないけれど私は札幌コンサートホール・キタラから歩いて5分のマンションに住んでいる。親しげに誘われて何となく嬉しかった。

「聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団のマタイ受難曲」と聞いても全く馴染みがない。その頃の私は定年退職して自由になり、誘われれば何処にでも喜んで行く人だった。知らなくても皆んなが行っている以上、何か楽しいのではないかとの気分で動いていた。

「聖トーマス教会合唱団の歌声は柔らかく繊細で、受難曲冒頭の荘厳な合唱に心揺り動かされます」と言うことだが、さっぱり分からない。ところが、次の一言に心揺り動かされた。なんと「S席12,000円のところ2,000円」。言い換えれば、千円札2枚持って5分歩けばキタラのS席が待っている。一万二千円なら楽しい筈だ。心貧しい私はこう理解した。

これがきっかけでコンサートに行くようになった。音楽同好会は会員十数名でコンサートごとに事前参加申し込み制だった。少なくとも数名が一緒の席で鑑賞することになる。「マタイ受難曲」は難解だったが、今回はピアノ・コンサートで、お馴染みの「展覧会の絵」も演奏される。

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ご存知だろうか、イリーナ・メジューエワさんのピアノ・コンサート。私は知らずにお仲間と一緒に鑑賞した。会場は2階の小ホール。開演30分前に入って隣に座ったBさんと話していた。これもコンサートの楽しみの一つ。

「私、後期高齢者になったのよ」
「そうですか。顔の艶がいいし、声も若々しいので、そうは見えませんが」
「毎朝5時半に起きて1時間のウォーキングをしています」
「なるほど、それが若さと美しさの秘密ですね」
「おだてたって何も出ないわよ」
「それは言わないルールです」
「はぁ?」
「会場内は飲食禁止でしょ」

いよいよピアノリサイタルの開演。しばらくすると私は寝たようだ。ショパンのポロネーズとノクターン辺りまでは聴いていたが、バラード第3番 変イ長調 作品47くらいから寝ていたようだ。いつ寝たかプログラムを見れば分かるのだ。

その代わり後半のムソルグスキー「展覧会の絵」ではバッチリ目を覚ましていた。Bさんはどうかなと思って、見るとコックリやっていた。若く見えても、やはり朝の1時間ウォーキングの影響がでたようだ。

Bさんはコックリのときは丸くなる。ピアノ(弱)がフォルテ(強)に変わりジャーンとなるとピンとなる。ピアノで丸くなりフォルテでピンを繰り返していました。

「展覧会の絵」は強弱の激しい曲と思った。プロムナードはお馴染みだが、10枚の絵の部分が激しい。それでBさんが丸くなったりピンとなったりするのだった。

メジューエワさんは終始、無言でピアノを弾いていたが、アンコールのときに4語だけ発した。私には「ラフマニノフ、夫の絵、ラフマニノフ、ライラック」と聞こえた。とてもきれいな声だった。何も知らない私は、メジューエワさんのご主人はどんな顔だろうか、怖かったり優しかったり、激しく変化する顔を想像した。

帰りがけに掲示板をみると「本日のアンコール、ラフマニノフ 音の絵、リラの花」と書いてあった。外国人が慣れない日本語を使うと「オト」が「オット」になるのか。

「素晴らしい演奏でしたね。感動しました」とBさん。
「寝てたでしょ」と、ちょっと意地悪を言ってみた。
「とても気持ち良さそうに寝ていらしたわ」
あれれ? 寝たのはどっちだと言いたいが、素敵な人言われると素直に受け入れてしまう。
タグ:ときめく
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2023年04月01日

さようなら「中島パフェ」

ホームページ「中島公園パーフェクトガイド」、略称「中島パフェ」を開設してちょうど20年たちました。過ぎてしまえばアッと言う間の感じです。大変申し訳ありませんが、「中島パフェ」 は本日をもって更新を休止します。「中島パフェ」 開設につきましては、私が所属する札幌シニアネット(SSN)に大変お世話になりました。

20年も前のことですが、入会する少し前に「中島パフェ」は誕生していました。しかし、何も知らないで作ったホームページは公開するのが恥ずかしいほどの代物でした。

何とかしなくてはと思っている時に、テレビでSSNのことを知りました。渡りに船とばかりに入会したのです。目的はホームページ作成の勉強をすることでした。SSNには趣味・スポーツ・学習等、いろいろなクラブがありましたが、早速ホームページクラブに入れてもらいました。

そこで初歩から公開まで指導していただき「中島パフェ」は生き返りました。その後の人生は、喜びも楽しみも、そして学びもホームページと共にあったと言っても過言ではありません。すべては皆様のお陰と感謝しています。更新休止と言っても私はすでに82歳、終了みたいなものです。このような訳で更新休止に当たりお世話になった方々にお礼の気持ちを伝えたいと思いました。

ホームページと共に歩んだ20年の間で1番の思い出は、無職の私が「中島パフェ」管理人として北海道新聞コラム「朝の食卓」に執筆したことです。2009年1月から2年間です。

依頼された時は「文章は書けないのですが」と正直に伝えましたが、「こちらで直します」と言われ快諾しました。中卒で社会の片隅で生きてきた私にとっては夢の様な出来事でした。当時、私と喜びを共にしてくださったSSNの方々に心から感謝しました。その気持ちは今でも変わりません。
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2010年2月17日北海道新聞コラム「朝の食卓」上の画像クリックで拡大

振り返ってみれば、この辺りが「中島パフェ」 の頂点でした。開設10年の2013年あたりまでは何とか維持していましたが、その後は下り坂です。原因は私が技術の発展について行けなかったこと、そして体調不良です。一時、SSNも退会し休養していました。少し快復して再入会してからはお世話になるばかりで申し訳なく思っています。

タイトルは「中島公園パーフェクトガイド」ですが、今になって後悔しています。パーフェクトとは程遠い状態での更新休止です。今でも「中島公園パーフェクトガイド」で検索すると私のパソコンでは「中島パフェ」 がトップに表示されます。超誇大広告みたいで凄く恥ずかしい。

20年前の話ですが、札幌駅近くに「小倉パフェ」がとても美味しい店がありました。それで中島パフェがあっても良いかなと思い「中島パフェ」としました。しかし、これでは何がテーマか分からないと思い、後付けで「中島公園パーフェクトガイド」としました。 (^-^;) ゴメン
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(10) | 自由時代(61-74歳)

2023年03月25日

ただの子供じゃないんだよ

私の定年退職時、息子はすでに独立していたのでD子(妻)と二人暮らしになってしまった。退職当初は二人の間に、争いも摩擦もあったが、いつの間にか収まってしまった。特に話し合った訳ではなく少し工夫をしただけだった。

不機嫌な顔はあまり見たくないので、自室にこもり問題点を整理してみたら、一つのことが分かった。それはD子は家庭という職場の大先輩で自分は新人だということである。

私が外で働いている間に、D子は我が家に根を張ってしまったのだ。30年以上かけて張った根は深く隅々まで行き渡っている。根無しの私に勝てる見込みはない。

そこで大先輩をたてる新人になる決心をした。凝り性の私はその程度では満足せず、絶対服従の家来になった。家来だから自分の意見は口にしないで、命令を聞くだけである。

D子の命令は実に少ない。何もない日もあるので、私の仕事は一日平均30分くらいだ。お陰で自由時間はタップリある。毎日、心置きなく好きなことが出来るのだ。

家事のほとんどを自分の仕事として引受けてくれるので、感謝の言葉も自然に私の口から出る。これが笑顔の好循環の始まりとなり、穏やかで楽しい暮らしが続いている。

それでも会話がある以上は、行き違いもあり喧嘩になりそうなこともある。そんな時は直ちに謝る。これが「負けるが勝ち」の戦術。短期決戦は苦手なので出来るだけ早く手を挙げて損害を最小限に止める作戦である。

長い間一緒に暮らして分かったのはD子が裏表が無い正直な人であること。正直な人は自分も正直と思っている。そして、正直こそ一番大切と思っているのだから始末が悪い。正直なD子は自分が間違っていても気付かない。悪いのは自分ではなく私と決めつける。これが厄介なのだ。凄く強情で手が付けられない。

一方、私には人並みの裏表があるからD子には信頼されていない様だ。私が家来になったのはこの疑いを晴らす為だ。家来は何でも殿様の言う通りに実行する。これを繰り返すことにより信頼を得ることにした。しかし、家来と言っても何となくしっくりしない。働きが少なすぎて違和感を拭えないのだ。こんなことでは胸を張って家来とは言えない。

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ピッタシの関係を思いついた、それは母子である。D子がお母さんで私は子、年齢を除けばこの関係が一番自然で心地よい。それに、私だって中学生並みの手伝いはしている。そして、子供の仕事は勉強である。

このブログを書くのは国語の勉強。洋楽カラオケは音楽と英語の二刀流、毎日の散歩と週一のリハビリは保健体育だ。勉強の目的は認知症対策、80代を生き抜くためには重要な課題である。こんな風に大義名分も見つけた。ただの子供じゃないんだよ。エッヘン(・`ω´・)
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2023年03月18日

試練の洋楽カラオケ?

テレビで観ている歌番組は「NHKのど自慢」だけだが、クラシック音楽のドラマも楽しい。今観ているのは「リバーサル・オーケストラ」で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調に感動。昔観たのは映画「のだめカンタービレ」、そこで演奏されたクラシックにも感動。それなのにコンサートに行くと寝てしまうのは何故だろう。

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1ヶ月に1回は洋楽カラオケに行く。歌は苦手だが老人力がついているから大丈夫。老人力とは私の心に潜む未知の力、意地悪な人はモーロクと言う。英語で歌うのが好きだが、口が回らないしカタカナっぽい。それなのに何故と聞かれても答えられない。娯楽とはそんなもの、独りよがりだから楽しいのである。しかし、上達するためには試練も必要だ。

1曲目に歌ったのはアップテンポの「恋の片道切符」、チュウーチュウー・トレイン、汽車は行く〜と言う感じの歌だが、マスクがズレて気になって仕方がない。マスクがずれ〜る、ウ・ウ・ウ・ウ〜と想定外の試練に苦しむ。

反省して、2曲目はスローな曲にした。選んだのは「トゥー・ヤング」、若すぎると言う意味かな。1曲目に続き2曲目も、自分に似合わない曲を歌ってしまった。3分でいいから違う自分になりたかった… (^-^;) ゴメン

今回からかなり広いステージで歌うことになった。ならばマスクを外していい筈だと思った。とりあえず状況を偵察。座席の関係で後ろ側に位置するステージをチラリ、チラリと振り返って見た。皆んなマスクを外して歌っていた。マスクがズレる悩みは、何時ものように横並びで解決した。

ところが想定外の事態に遭遇して狼狽えた。マスクを外した途端に伴奏が突然聞こえなくなったのだ。ステージに立つ私にとっては、舌癌発症以来の緊急事態である。一体どうしたことだろう? マスクを外す時に耳に掛けた補聴器が外れて落ちたのだ。薄暗い中で足元にあるのを見つけてホッとした。たった数十秒間の出来事と思うが凄く長く感じた。

こんな失敗は2度としたくないので3曲目を歌う前にマスクを外し、代わりに両手で押さえて出番を待った。ところが前の人が歌い終えたので拍手をしようとしたら、手が離せない。マスクの紐を上に持ち上げて外せばよいことが分かったのは4曲目を歌うときからだった。勉強になったなぁ。

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現在私は補聴器訓練生、耳の聞こえが悪いので耳鼻科に行ったら3ヶ月間の補聴器トレーニングを勧められ実行中。補聴器は無料貸与だが紛失したら弁償である。ステージで補聴器を落とした時は本当にビックリした。耳からボロリと10万円を落とした様な気がした。(>_<;)
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2023年03月11日

ナラローウ

普通の人は中学1年から英語の勉強を始めるが、私は20歳になってから始めた。教科書の表紙には
「American Language Course 航空幕僚監部」と書いてあった。米空軍の作成だから、この航空幕僚監部の6文字以外は全て英文の教科書である。中卒以来働きずくめで勉強には縁がなかったので凄く嬉しかった。だから、62年も前のことなのに冒頭のダイアログを今でも覚えている。

Does this bus go to the train station?
No, but I can give you a transfer.
What bus do I take?
Take the bus marked Central station.
Where do I get off?
I will let you know.
Thanks a lot. 
Nat at all.

最初のダイアログは、こんな感じと記憶している。訓練方法、説明を含め教科書の全てが録音されていて学習マシンを使って自習できるようなシステムになっていた。教科書もテープも全てが英語なので中学の英語をサボっていた私には、雲を掴むような感じだった。聞いて覚えろと言われても最後の2行は繰り返し聴いてもタンクスアラッ、ナレローとしか聞こえない。最近知ったことだが、テンクサラーッ、ナラローウが「ネイティブも驚いた画期的発音術」だそうだ。(「怖いくらい通じるカタカナ英語の法則」池谷裕二)

我が家は生活保護家庭なので最初から中学を出たら働くと決めていた。だから英語、数学とかの難しい勉強はしなかった。これで良いと思っていたが、給料をもらいながら勉強する機会を与えられたら気が変わった。中卒以来5年も職を転々としたのは肉体労働者として働く力がなかったからだ 。何とかして飯のタネにしたいとの思いが込み上げてきた。

3ヶ月の英語訓練は米兵と電話で情報の受け渡しをする仕事のためだった。現場に行っら会話能力も向上するかと楽しみにしていたが、直ぐに行き詰まってしまった。結局他の部署に配置転換され数ヶ月後に依願退職する羽目になった。

そのころ東京はオリンピック景気で働き口は色々あった。新橋の森ビルにあるインド通信東京支局でアルバイトをすることにした。支局長はロンドンから赴任したばかりの日本語ができない記者、そこで雑用することになった。苦労するかも知れないが英会話の勉強になるかもと期待した。

ところが、支局長はほとんど外回りの取材、留守番していても電話も訪問者も滅多にない。苦労も無いけれど勉強にはならなかった。その代わり一人で自由に使う時間がいっぱいあったから英語の勉強をした。

月給15,000円だが、職場の付き合いもないし、友人もいないので月5,000円は貯金できた。東京は奥が深い、世の中にこんな楽な仕事があるのかとビックリして喜んだ。欠点は健康保険、年金が無いこと。これでは定職にならないが、就職試験の勉強をするには最高の環境が与えられた。

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冠婚葬祭、飲み会、その他あらゆる付き合いがないと凄く楽だし金も要らない。貯金が貯まったら夜間の英語学校に行くつもりだったが、オリンピック景気とか幸運に恵まれて1年もたたない内に定職に就くことができた。就職したら学校に行く必要もないし勉強も止めてしまった。就職のための勉強は職についた途端にゴールになってしまうのだ。本当はスタートポイントなのに飛んでもない勘違いをしていた。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2023年03月04日

男はつらいよ

恋愛とはおかしな言葉だ、英語で恋はLove、そして、愛もLove。ならば、恋愛はラブラブか? それならば、片思いこそ真のラブである。ラブラブ−ラブ=ラブとなる。自分なりに解けた。こう考えれば世渡りは楽しい。

Aさんは、病気一つしたことのない力持ち。山に登るときも疲れている人の荷物を持ってやるほどだ。そのAさんが不治の病に犯されてしまった。男らしい寡黙な人だったが今はよく話し、内容も以前とはずいぶん違う。柄にもなくロマンチックなことを言うようになった。その反面、妙に現実的な部分も出てきた。

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「ガラスの城」1950年製作、ミッシェル・モルガン、ジャン・マレー

「恋をしてるんだ。Bさんのことが何故か頭から離れない。片想いだから都合がいいんだ。お金はかからないし、トラブルの心配もない。おまけに振られる心配もないんだよ」
「そんなもんですか。私も倹約は大好きです」
「Bさんのことを思うと何か暖かい気分になれるんだよ。片想いなんて思っただけで恥ずかしいけどね」
「好いじゃあないですか。お金もかからないし」

「病気になって吹っ切れたよ。いろいろとな」
「いろいろ何ですか? 聞かせてくださいよ」
「嫌だね。誤解するから」
「Bさんは、明朗活発、頭脳明晰、美しい方ですね」
「そうそう、素晴らしい方だな」
「片思いでもですかぁ」
「まぁ、な」
「トラブルの心配も振られる心配もないから最高ですね!」
「… …  ムカッ(-_-メ)」

それでもAさんは気を取り直して話し始めた。話題を少し変えて恋愛談となるが、Bさんへの想いからは離れられない。
「恋愛をを3つに分け順番をつけてみたんだ。一番は相思相愛、二番は片想い、そして三番が恋愛もどきかな」

「なんで、哀れな片思いが二番なのですか?」
「恋愛もどきの悪いところは嘘をつくことだ。相手にも自分にもな。それに、見栄を張るので金もかかる。いずれ別れるか、一生猫被るかどっちかだよ」
「我輩は猫である」
「分かってるよ。丸くおさまりゃ何でもいいんだろう。片想いは、妥協はしない、見栄張らない、しかも純粋だよ」

「どこが楽しいのですか?」
「古い映画の話になるが無法松は幸せだったと思うよ。俺も無法松を見習ってBさんの為に誠心誠意尽くしてきた。何気なく尽くしてきた。この何気なくが一番大切なことなんだよ。自分の感情の片鱗も見せたことないよ」

「あなたは私にも、とても親切ですね」
「Bさんにだけに親切では、何気なくにならんだろう」
「なーんだ、目くらましですか」
「すまん」
「男はつらいですねぇ」
タグ:ときめく
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2023年02月25日

奥さんの話

共同住宅に住んでいるので住民は1階の郵便受けまで新聞を取りに行く。朝5時半ごろに来るがときどき遅れることがある。たいていの人は部屋に帰って出直すが、私とAさんだけは帰らないで新聞が来るのを待っている。Aさんは私と同年輩でマンション管理についてよく勉強している。総会では積極的に発言するが普段は穏やかな話好きな人だ。

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ロビーのソファに座って新聞を待っているのは二人だけなので、退屈凌ぎにいろいろな話をするようになった。たいていは近所の中島公園とか、いわゆる時の話題だが、その朝は珍しく奥さんの話になった。
「あの方が奥さんなのですね。先日ご一緒に歩いているのを初めて見ましたよ。綺麗な方ですね」
「何をおっしゃるのですか。顔は皺くちゃ頭は白髪です」

こういわれては返す言葉もない。「見ましたよ」だけでは愛想がないと思って「綺麗な方」を付け加えてしまったのだ。昔、尊敬する先輩がよく別れ際に「美人の奥さんによろしく」と言った。そのノリが移ったのかも知れない。返答に窮しているとAさんは話し始めた。

「家内は背が低く、年の割には顔が小さいのですよ。目がパッチリしているので、可愛いと言えば可愛いですね。だけど、髪が薄くダンゴッパナで皺があります」
「そうなんですか。ぜんぜん気づかなかったです」

「川柳で『老妻も角度変えれば美人なり』というのがありますが、これは本当だなと思いますよ。ところが、怒ると酷くて見ていられないですよ。ぶすっとしているからブスとか言いますが、ホントですね」
「川柳って面白いですね」
「私は家内の仏頂面が嫌いですから怒らすようなことは滅多にしません。家内が間違ったことを言っても逆らわないようにしています」
「そうですか。奥さん幸せですね」

「おや、新聞来たようですよ」とAさん。
「今朝は時間がたつのが早いですね」
「そうですか」
「ご馳走様」
「はぁ?… (>_<;)
タグ:ときめく
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | その他

2023年02月18日

故郷の渋谷を想う

懐かしい故郷というけれど、故郷のない人は増えていると思う。私もその一人だ。生まれたのは1940年横浜の貸家、しかも幼児だったので記憶も殆ど無い。一応、小中学校時代を過ごした渋谷を故郷と感じているが、人手に渡ってしまったので帰れる場所ではない。故郷は知らぬ間に失われた。

60歳の秋、中島公園の近くに転居した。近くを散歩してみると、少年時代に見た渋谷の風景にそっくりな場所があり、とても懐かしく思った。

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遠くに見えるのが転居した私の住居。この道路は砂利道、真っ直ぐな筈なのに道路にはみ出た家がある。幼少期の暮らしを思い出した。今でもこんな所があるのかと驚いた。そして、懐かしさが胸に込み上げてきた。

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こんな家がポツンと一軒だけある。子供の頃に住んだバラックを思い出し、とても懐かしい。ところで隠していたことがある。キーワードは生活保護、中卒、自衛隊である。この家との出会いが隠し事を書く切っ掛けとなった。恥じて隠そうとする思いより、懐かしく想う気持ちの方が強くなったのだ。これらを抜きにして自分の人生は語れない。

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転居した初めての冬に撮った市電電停「行啓通」は住居より徒歩2分の場所にあった。昔住んでいた家も都電電停「青山車庫前」より2分程度の所にあった。写真を見るとタイムスリップして70年前の都電電停に立っているように感じる。傾いた小屋を中心に広がる雑然とした風景が、そう思わせる。私にとっては懐かしい風景でる。

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空襲で焼き尽くされた渋谷区では、焼け残った神社が子供達の遊び場だった。当時の家から近い順に金王八幡神社、氷川神社、明治神宮等にはよく遊びに行った。転居先のマンションの近くに弥彦神社、護国神社、水天宮があり懐かしく思った。ただ昔の渋谷とは違って神社で遊ぶ子等は少ない。

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小学4年のとき洋画を観るのが大好きになった。それから5年間、古い洋画専門のテアトルSSに通い続けた。入場料が40円と格安なのが取り柄だ。家から20分程度歩いたと思う。歩いて映画に行くことが長い間の夢だった。中島公園を出て15分くらい歩けば映画館東宝公楽があると喜んだのは束の間、多くの映画館と同じように閉館した。

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地下鉄の階段は電車が来るごとに風がきて涼しい。夏は兄弟3人で涼みに行った。焼けトタンのバラックは茹だるような暑さだから青山6丁目駅に避暑に行くのだ。地下鉄の利用者は階段に黙って座ってる3人を見て浮浪者と思ったかも知れない。地下鉄は乗らなくても生活の一部だった。

あばら家、砂利道、電停、神社、映画館、地下鉄駅、どれも幼少期の思い出に繋がる。21年前に転居した山鼻地区の風景は、私が故郷と思っている昔の渋谷の片隅に似ている部分があって懐かしい。渋谷で暮らして10年、その後帯広、岩沼、福岡等20回以上の転居、そして、現住所に落ち着いて21年、ここを故郷と定めるに不足はない。残念ながら地元から浮いている。いつも根無草(^-^;) ゴメン
タグ:札幌 渋谷
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2023年02月11日

想定外の英語集中訓練

二十歳の私は生活に困って自衛隊入隊した。そして、新隊員教育終了前のある日突然、中卒程度の英語試験があった。成績上位15名の赴任先は一方的にK教育団と命じられた。そこで3ヶ月の業務用英語の訓練を受けることになった。

百点満点なのに23点以上が合格とは驚きだ。受験者120名の内、大部分がが20点前後に集中したドングリの背比べ。誰が上位15名に入るかは運次第と言っても過言ではない。5答択一試験だから何も知らなくても20%の正解がある。

高校に行く気がなかったので英語の勉強をしたことはない。ただ、アメリカ人二人と英語で文通していた。ZWYXコレスポンデンス協会という団体があり、ペンパルの紹介と手紙の翻訳をしてくれるのだ。翻訳された英文を書き写していただけだったが、少しは勉強になったかも知れない。ところで、80点程度の高得点の人も3名くらいたようだ。

その一人はA君だと思う。進学校として有名なR高校中退、勉強についていけなかったそうだ。それでも中学の英語はマスターしているはずだ。教育終了後、私と同じ現場に行った。その後、当時の教官から電話があり用事がすむと「ドロボーどうした?」と聞かれた。後で分かったことだが、A君には盗癖があり入隊後も時々やっていたらしい。

B君はS工業大学の出身のクリスチャン。いつも聖書と大きな辞書と教材を風呂敷に包んで持ち歩いていた。真面目な人だが、つまらないことに感心したり、反省したりする。ある日、同室のZ君が寝台にタオルを2本さげて大声で言った。「これは洗顔用、もう1枚はマスターベーション用」と。それを聞いたB君は「Zさんは正直で偉い」と感心し、「私なんか隠れてコソコソ」と反省していた。

C君は弁舌爽やかな人。心から英語が好きなようだ。いつもペラペラ喋りたいと言う感じだ。なぜかhaveをヒャブと発音する。私の聞き違いか、それが正しい発音かは分からない。以上A、B、Cの3人が80点くらいの人と思う。私を含めて残りの12人は押し並べて30点以下だったようだ。合格したのは翻訳書き写し文通のお陰かも知れない。

入隊当初はトラックの運転手になることを夢見ていたが思い直した。荷積みも荷下ろしもある。私の体力ではやっていけないかも知れない。運がついて英語訓練を受ける機会に恵まれたが、3ヶ月で就職の役に立てるのは無理。ここを英語勉強のスタートと決めた。義務教育なら中学1年からだから、8年遅れのスタートになってしまった。

教材はアメリカンランゲージコース、米空軍が作成した外国人向け教材。1960年当時としては珍しく内容の全てが録音されていた。ブースと呼ばれる英語学習室があり、間仕切りした個人学習スペースが数多く並んでいた。当時の日本では最先端をいく設備と聞いていた。

夜の自習時間に自由に使えるので大いに利用させてもらった。しかし、利用者は少なかった。ファイナル・チェック(訓練終了時の試験)はペーパーテストだけ。実技試験は英文タイプのみで英会話はなかった。

運に恵まれ、初歩の中学英語も分からないのに、給料をもらいながら3ヶ月間の集中訓練を受けられた。こんな機会は滅多にない。必要な機関があり、そこに送り込む訓練体制があれば、訓練を受ける人が絶対に必要であり、私もその一人。世の中は面白い。あちらこちらに想定外がある。

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薄野は想定外の雨。今のアイスワールド。 2002年2月9日
タグ:国内某所
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2023年02月04日

第二の運

3ヶ月の訓練終了後の赴任先は埼玉県にあるジョンソン基地内のフライトサービスだった。米兵との会話もタイプも苦手、おまけに不器用な私は5人の新人の中で真っ先に脱落した。職種替えして半年後に体調を崩し依願退職。ここに至るまでの経過は第一の運に書いたのでここでは省略。ただ3ヶ月の英語づけ訓練は勉強するキッカケにはなった。

職を転々として6年目に大発見をした。国家公務員試験は原則学歴不問のことである。そして、運良く驚くほど楽な仕事が見つかったのだ。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。

新橋のPTI東京支局で働くのは日本語を話さないインド人の記者と私の二人だけだった。記者はは取材に歩いているので、ほとんど一人勤務。月給1万5千円、但し365日休み無しで健康保険もない。仕事は留守番とテレタイプで受けた情報をNHK、朝日新聞、外務省、インド大使館、関係通信社に配達するだけだった。

一人じゃ淋しいという人には向かないが、私にとっては都合が良かった。時間を好きなように使えるからだ。8時間勤務中6時間は暇、配達も都電利用なので車内でも勉強できる。家に帰ってからの時間も加えればタップリ寝ても、10時間の勉強時間があった。

次の課題は何を受験するかだが、初級職は高校の勉強ができないし、年齢制限で1回しか受けられない。航空管制官なら中級職だから27歳まで6回も受けられる。後で知ることになるが、合格した同期の中に27歳の人も居た。それに専門科目が英語なので自習で何とかなると思った。

試験は短期大学卒業程度と定められていたので合格するには3年程度はかかると考えていた。先ずはお試しと思い受けてみたら受かってしまった。面接での英会話は初歩的なものだったが、筆記試験が凄く難しく絶対に受からない思っていた。それなのに受かってしまったので驚いた。後で分かったことだが、当時の状況は質よりも人数が重要だった。

時の運である。時代は東京オリンピック景気のさなかにあった。民間と比べて公務員、特に国家公務員の給料が著しく安いので人気がなかった。特に管制官はマスコミ報道で、仕事が厳しく給料が安いと知られていた。実際、60名の合格者のうち約半数が採用を辞退した。受験の時は学生服を着た若い人も多かったが、同期生の殆どは有職青年か失業者だった。これが第二の運、健康保険のある安定職に就くという私の夢は叶い、英語の勉強をする気が失せてしまった。

懐かしいPTI東京支局があった西新橋2森ビル
六本木ヒルズで知られている森ビルの歩みは1955年から始まっている。森ビル株式会社の歴史・沿革に次のように書いてある。「はじめに完成した西新橋2森ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」。インドの通信社というのが私が働いていたプレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)東京支局だった。焼け残った長屋の隣に建った小さなビルでスタートした会社が今では、日本を代表する総合ディベロッパーへと大きく発展した。最近になって知り驚いている。

西新橋2森ビルの写真 → 森ビルKK 歴史・沿革
タグ:都内某所
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2023年01月28日

第一の運

私が幼少の頃、我が家は小金持ちからどん底に落ち込んだ。明日は餓死かと思う日々が続いたが運に恵まれ生き延びることができた。本当に困った時には運がつくものと信じている。ところで、中卒で体力がなく不器用だと何処に行っても勤まらない。職を転々として、もうダメだと思った時に自衛隊に入った。これが私個人に運がつく始まりとなった。だから第一の運と思っている。

時の運がついたのだ。1960年当時の自衛隊は極端な募集難、自ら志願する人は少なく、多くは一本釣りと言われる口コミ採用だ。職安の付近で募集係が一対一で勧誘するのだ。衣食住無料で月給もボーナスも出る。健康保険もあって付属病院もあり、大型免許も取れるとか言って入隊を勧める。

1960年秋に虚弱体質の私も採用されて航空自衛隊熊谷基地で3ヶ月の教育を受けることになった。社会情勢もあって訓練は緩かった。募集係が必死に集めた約120名の隊員は金の卵のようなものだ。キツイとか言って簡単に止められても困るのだ。車両適正検査も合格、大型免許取って三年任期が終わったらトラックの運転手になるのが夢だった。

新隊員教育終了前に、突然、中卒程度の英語試験があった。そして上位15名は名古屋に行って飛行管理の教育を受けることになった。これでトラック運転手の夢は消えた。何も知らないで名古屋に行くと、一般英語1ヶ月業務用英語2ヶ月、計3ヶ月の訓練を受けることになった。

毎日がぺーバーテストから始まる。昨日習ったことは翌日にデイリーチェック、そして週末にウイークリーチェック、月末にマンスリーチェック、教育終了時はファイナルチェック。ファイナルに受かることが唯一の訓練目的だった。

一応、15時からは2時間の自衛隊らしい訓練をやることになっていたが、環境の整理という名目で翌日の試験に備えて自習をしていた。夕食後の自習時間を含めると毎日、10時間くらい英語の学習だった。中学英語も出来ないのに現場に行ったら米兵から電話を受けつつタイプするのが仕事だ。先輩ができる事は私も慣れれば出来ると思っていた。

訓練終了後の仕事は埼玉県ジョンソン基地で各地の米軍基地から、電話で送られてくる飛行情報を受けながらタイプすることだった。この仕事にも落ちこぼれて中途退職することになったが、英語を勉強するきっかけにはなった。

退職してインド通信(PTI)東京支局でアルバイトをしながら勉強した。1年後に英検2級を取った。高卒程度の試験だから中卒の私にとっては価値ある資格だった。

これが私にとって第一の運、募集難の自衛隊には人材が集まらなかった。中卒程度の英語試験を受けたが、3分の1くらいしか出来なかった。それなのに上位15名に入ってしまった。後で分かったことだが、入隊した120名のうち真面目に英語の勉強したことのある人は2、3名しかいなかったのだ。このような偶然に恵まれたのも運が良かったからだ。本当に困れば運が救ってくれる。そう信じていたらそうなった。

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中島パフェ」 とはマイ・ホームページ。画像をクリックすると拡大。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 転職時代(15-23歳)

2023年01月21日

楽しい洋楽カラオケ

こんなタイトルでは知らない人が読んだら、歌が上手で外国語もペラペラな人が書いていると勘違いするかもしれない。実は全く逆。歌は並外れた音痴、英語も中卒レベル以下で、21歳になってから3ヶ月訓練を受けただけ。

英語を好きになるきっかけにはなったが、定職が決まると勉強は止めてしまった。職を転々、半失業時代の勉強は生きる為だけのものだった。公務員なら病気になっても医者にかかれるし、病気休暇もあるぞと安堵した。

私は体力がなく不器用で感が鈍い。真面目でコツコツ全力で働けば何とか生きられる程度の人。それでも82歳まで生きられたのは運が良かったからである。

第一の運は、たった3ヶ月とはいえ給料をもらいながら英語の勉強に専念できたこと。第二の運は失業中の22歳で就職試験に合格したこと。二つとも時の運がついたのだ。そして、第三の運はタイトルにある洋楽カラオケとの出会いである。

私が75歳、後期高齢者になったころ所属するシニアネットのメールで洋楽カラオケ会の新規募集があった。そこには「洋楽が好きな人なら誰でもよいと書いてあった。しかし、全く歌えない後期高齢者は想定外かも知れない。それでも何とか受け入れてもらったのは運が良かったからである。

人に恵まれたのが1番の運、全く歌えないのに無視せずに励ましてくれた。身近に洋楽カラオケの会ができたことも運がついたからだ。日本中探しても私に歌わしてくれる会はないと思う。運がいい時は次々と良いことが続く。

私はいろいろやって、全てに見放されたて無趣味になってしまった。空想の中で歌って踊って楽しんでいた。現実には身体が動かないので踊るのは諦めた。しかし、口と心はまだ元気なので、これからも歌いたい。

2年間で3回入院した。暇な時間は歌を聴いていたら、自分の歌とは随分違うなと思った。退院してしばらくして歌って録音して聴いてみた。余りにも酷いので思わず笑ってしまった。すでに82歳、何とかしようと思ったがどうにもならない。でも楽しみたいので独自の練習方法を考えた。

道具はパソコンと操作が簡単なICレコーダーだけ。画面を見ながら歌って、録音を聴く。これを7曲1回ずつ繰り返す、合計45分の練習を毎日することにした。効果は不明だが、遊び半分で楽しいから続けられる。そして、自分でいいと思った3曲を恒例の洋カラ会で歌うことにした。

そのカラオケ会は私にとって唯一最高の晴れ舞台。外国語で歌う決まりが有難い。日本語でもいいよと言われたら決まりが悪くて英語では歌えない。それに、音痴で口が回らないから日本語でもダメなのだ。

入退院を繰り返し、今はリハビリをする身だ。毎日1時間の散歩も冬は厳しい。整形外科医院のリハビリも退屈で面白くない。補聴器のトレーニングは始めたばかり。やっぱり洋カラが一番楽しい。呼びかけてくれる人がいるから参加できる。とても有難いと感謝している。

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2023年1月8日 札幌コンサートホール・キタラで成人式。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2023年01月14日

仲よき事は美しき哉?

「仲よき事は美しき哉」とは言うけれど、仲良くなるのは難しい。ところで、82歳のヒロシは一つ下のユウコと二人暮らし。私たちは絶滅危惧種、名前がこの世から無くなろうとしているのだ。約80年前にモダンな名前として、颯爽と登場したヒロシとユウコだが今まさに消え去ろうとしている。

博、弘,宏、裕子、優子、夕子など、数え上げれば切りがないほどのヒロシとユウコが年を追うごとに減って行く。余りにも寂しいではないか。
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「まるで絶滅危惧種ですね」
「全ては変わる。観念しろ」
「何とか保護する道はないでしょうか」
「甘えんじゃないよ」
「ヒロインがユウコでヒーローがヒロシの映画を作るとか」
「無理ムリ、絶対ダメ」
「そう決め付けずに気楽に行きましょ」
「売れると思うか? 大赤字、会社倒産!」

最近の名前をみてもヒロキはあるけれどヒロシはない。ユウはあるけれどユウコはない。ホンの少し違うだけで絶滅危惧名前になってしまうのだ。「滅び行く名前の二人」が喧嘩などしていて良いはずがない。

そう思って、仲良くしようと努力しているのは私(ヒロシ)だけ。ユウコはごく自然にあるがままの人生を送っている。私だけが気をもんで我慢している。ときどき意識的にガス抜きをする。これも工夫の一つだ。

「私に悪いところがあったら、遠慮なく言ってください」
ユウコはこんな質問に、ウッカリ返事をすると損だということを知らない。一生懸命考えてからこう言った。
「家の仕事より自分のやりたいことを優先するのが悪いよ」
「例えば、どんなことですか?」
この質問に答えれば、更に墓穴を掘ることを予想もしない。
「え〜と、ゴミを直ぐに出さないことかなぁ」
「今月の目標はゴミを早く出すことにします」

今月と言っても残りは3日だ。これでは私の仕事は増えないのに不満だけは消滅する。こうして、二人で仲良く暮らすため日夜努力を重ねている。ユウコは決して私を褒めてくれないのだから、自分で自分を褒めてあげたい。

「自分を褒めて虚しくないか」
「三方良し、と言う表現をご存知ですか」
「いきなり何だ?」
「売り手良し買い手良し世間良し、のことです」
「それがどうした」
「家ではユウコ良しヒロシ良しで、世間は無し v(^_^ v)
「そして、ヒロシはユウコを騙し放題」
「いえいえ、それはあんまりです」
「なんだと?」
「仲よき事は美しき哉、と思ってください」
「盗人にも三分の理、とも言うな」
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2023年01月07日

ケチな夫婦

持病とコロナ禍で3年間の巣ごもり生活。最近少しは外出するようになったが、人に会うことは殆どない。これではネタがない。止むを得ず、自由に行動していた頃を思い出しては書いている。今回は15年くらい前の夏の話。あの頃の二人暮らしは薄暗く、楽しみも生き甲斐も外に求めていた。

Aさんに呼ばれていたので、病院の帰りに寄ってみた。心に傷を負っているので慰めてもらいたい気持もあった。
「精神的虐待を受けているのです。これってドメスティック・バイオレンスじゃあないですか」
「そう思うアンタが異常。早くお家に帰りなさい」
「用事があると言うから、来て上げたのですよ」
「草むしりでもしてもらおうと思ったけど、腰痛じゃあねぇ。亭主は膝がガクガクだというし。まったく情けない男ばかりだね。年は取りたくないものだ」
「お互い様でしょ。庭の草むしりぐらい自分でやってよ」
「公園の草むしりよ。皆でやろうと言ったでしょ」
「アレッ! 今日でしたか?」
「ヒマができたときパッとやらないと、いつまでたっても出来ないでしょ」

草むしりは体調不良ということで解放されたが、「帰って来なくていい」といわれているのに直ぐ帰るのも癪だ。中島公園をブラブラして、腹が減ったら「狼スープ」にラーメンでも食べに行き、その後で帰ることにした。

昨日は二人仲良く映画「相棒」を観に行ったのに、今日は「悪妻は百年の不作」と思い、顔も見たくない気分だ。本当に人の気持は移ろい易いものである。しかし、40年近くも一緒に暮らしていたら「仲良し」と言われても仕方がない。なぜ、仲良しなのだろうと考えてみた。答えは意外に簡単だった。二人ともケチだからだ。

妻の場合、「こんな家、出て行く!」と言っても、実家に帰るには旅費もいるし、手ぶらと言う訳にも行かないだろう。家の近くのホテルに泊まるにしても帰るまで、毎日お金がかかるのだ。

私だってマンガ「巨人の星」の星一徹のように叱りたい。「黙れ!」と一喝、ちゃぶ台ひっくり返したら、さぞかし気が晴れるだろう。その代わり、一食分の全てを失った上、お茶碗が割れるかもしれない。こんなことを考えているようでは派手なケンカなど思いもよらない。ケチケチしている間に40年もたってしまった。

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あれから更に15年以上たった。時の流れは早いものだ。最近は特に早い。振り返ってみれば、在職中は自己否定的人間だった。仕事が苦手で、趣味とスポーツが全然ダメだから肯定など思いもよらない。

退職したら思うがままに生きられるので、次第に自己肯定的人間になって行った。自由の身になったのだから、これも当たり前。なんでも見てやろう、やってみようと手の平返したように前向きになった。

その後、加齢による体調低下に応じて活動範囲を縮小、80代になったら家に引き籠り、静かに愉しく暮らしている。しかし、自分の生き方を肯定する気持ちは変わらない。状況が変わっても、これはこれで良いものだと思っている。
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2022年12月31日

ペットになりたい

「私たちの将来について大切な話があります」
は〜い!
「そんな大きな声を出さなくても聞こえます」
「洗濯機に返事したんだよ」
「私の話と洗濯機の自動音声とどちらが大切ですか」
「洗濯機に決まってるでしょ」

なるほど、言いたいことは分かる。洗濯機は毎日働いているのに私は何もしないで、汚れ物を出して食べて寝るだけだ。それではいけない。遅まきながら変わることを決意した。洗濯機や炊飯器にも負けない役立つ人間になるのだ。決心はしたものの私に何が出来るだろうか。不器用で体力もない、しかも病み上がりである。

お母さんは毎日3度の食事を用意して、洗濯に掃除、病弱の私に合わせて巣ごもりまでしてくれている。今までの様に威張らせてあげて、言うことを聞くだけでは足りない。私も役に立つ人にならなければいけない。出来ることとは何か? 一生懸命考えたら直ぐ分かった。食事の支度である。

「私も食事の支度を手伝いたいと思います」
「狭い台所に二人もいたら邪魔だからいいよ」
「私が一人で作りますから、テレビでも見ててください」
「絶対に嫌! 何を食わされるか分りゃしない」

そう言えば、退職直後、一週間交代で食事の支度をすることにした。一週間どころか、三日で止めさせられた。
「あの頃は嫌々やっていました。反省しています」
「あれで懲り懲りだよ」
「今度こそ心を入れ替えて… 」
「からだ丸ごと入れ替えなけりゃダメ!」

それでも、お母さんのために役に立ちたいとの思いは変わらない。そして、ペットになることにした。以前、猫を飼うことを提案したことがある。そしたら動物を飼うのはアンタ一人でたくさんだと断られた。ならば私がペットになろう。お母さんには癒しが必要だ。本当は素晴らしく気立がいい人なのにギスギスしている。

私がペットになる以上、ご主人様に忠実なだけではいけない。犬猫並みでは人としての誇りが許さないのだ。人間にしかできないことでご主人様のお役に立ちたいのである。家事が苦手な点では本物のペットも私も同じだ。一生懸命考えたら私には一つだけ彼らより優れた点がある。それは言葉、私が日本語を話せることである。

1日にご主人様を3回は言葉で笑わせる優れたペットになりたい。極めて難しい課題だが犬猫ペットに差をつけるとすると、これしか無い。それに私は言葉遊びが大好きだ。といっても得意ではない。しかし、好きなことをやり続けることは健康に良い。これだけは確かだ。

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ところで、私の言葉遊びも一区切り。そう思うとトイレに行きたくなった。便座の蓋を開けてビックリ! 出された物が鎮座していたのだ。レバーを押して一挙に解決。今日は大晦日、気持よく水に流そう。来年も楽しく静かに暮らしたい。
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2022年12月24日

演技上手はどっち?

60代から70代前半までは若者気分で元気よく、充実していたが不満も多かった。私はこの時代を「自由時代」と呼んでいる。思い起こせば、あの頃が懐かしい。とは言え、今の静かな生活も捨てたものではない。

「亭主、おん出してやったわ」
とAさんが、気炎をあげている。
「ホントですか」と、60代だった私。
「眠れないから、ラジオつけたり、本読んだりするでしょ」
「そうそう。私もそうです」
「そしたら、あのろくでなし、眠れないとか、あーだーこ〜だ〜いうのよ。眠れないのは私じゃあないの」
「ラジオはイヤフォンで聴きましょう」
と、思わずご主人の代弁。
るさいわねぇ! 部屋なんかいっぱいあるでしょ、好きなところに行って勝手に眠むんなさい!」

ご主人の代わりに叱られてしまった。そういえばAさんの家は大きい。グランドピアノを置いた居間の他、子ども部屋4室はすでに空き部屋、それに寝室、応接間、書斎まである。

「ご主人ビックリしたでしょう」
「出たっきり、帰ってこないのよ〜」
「家の中で寝ているのなら、いいじゃないですか」
「淋しくなったら、いつ帰ってもいいのよ。と言ってあげているのに、まだ帰ってこないのよ〜」
「優しいのですね。私なんか、もう帰って来なくていいと言われてしまいました」
「どこから?」
「病院からです」
「そう、病院から帰らないとすると焼き場に直行かな?」
「もっともっと酷いところがあるのですよ」

つい先日のことである。朝、病院に行こうとすると、お母さんの「服装チェック」。毎度のことだが、もうウンザリだ。出かけようとするとジロリと見てケチを付けるのだ。あぁ、叉か。と思いながらも、素直に「はいはい」と言っておく。朝から揉め事はゴメンだ。とりあえず、ズボンを脱いでステテコ姿でいた。

「何よ!その格好」
「ズボンを替える準備です」
「そんな、みっともない格好して、誰か来たらどうするの。時間がないから出かけるからね」
「はいはい、行ってらっしゃい」
続いて、小さな声で独り言「せいせいするわい」。これが聞こえてしまったようだ。厳しい言葉が返ってきた。
「病院に行ったら、もう帰って来なくていいからね!」

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病院に行ったきり帰れないとは如何なる場合だろうか。大学医学部の地下にある「ホルマリンプール」行きとか聞いたことがある。私の抜け殻も人体解剖用にプールに沈められるらしい。ひょんな調子で浮き上がると棒で突っつかれるそうだ。打ち所が悪いとバラバラに壊れてしまうとか?

ところで、80代の今から思うと60代はまだ若い。恥ずかしいことも含めて全てが懐かしい。既に男性の平均寿命を過ぎているのに、まだ生きている。楽しい二人暮らしだが口喧嘩は絶えない。そんなとき私は、直ぐに謝る。凄く喜ばれるからね。「この世は舞台、人はみな役者Shakespeare」だそうだ。二人のうち演技上手はどっちだろうか?
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2022年12月17日

ベンガル虎に会いに行こう!

とにかく謎の多い人だ。6年間の付き合いなのに話題が尽きない。今日もAさんの独演会。Bさん、Cさんも、なかなかな人物だが聞き役に終始している。私などはいうまでもなく「うなずきマン」だ。

「男でも度胸のないのはダメね。皆尻込みしているのよ」
「3週間も山歩きした後では仕事が忙しいのでは… … 」
「何が忙しいのよ! 怖いだけ。情けない男たちよ」

今ならベンガル虎に関する探索ツアーも旅行好きな人々には知られている。しかし、Aさんは「私がこの探検ツアーの最初の参加者」と言っていた。20年前のことだが、たった一人で行ったそうだ。旅行社の担当者自身さえ経験がなく、後で体験談を根掘り葉掘り聞かれたそうだ。

「誰も行ったことがないと言うのに、鈴木が待っているというのよ。なぁんだ日本人がいるじゃないの、と思ったらガッカリして気が抜けちゃったわ」
「好かったですね。ホッとしたでしょ」
「行ってみたら、言葉もろくに通じない現地人がいただけ。ジープ型の車に乗せられてジャングルに行ったのよ。その車がスズキなんだって」
「初めての日本人になれて良かったですね」
「何がよかったのよ!」
私の頷きは気に入らなかったょうだが、聞いた話を自分なりにまとめると次の様な次第だ。

船で川を渡り、ジャングル内のコテージに入る。食事中に突然呼び出された。何事かな? と思ったが、ガイドに促されるまま暗いジャングルを通り抜け、着いたところは真っ暗な小屋。明かりと言えば、時々つける懐中電灯だけ。小屋には外に向けて穴がいくつも付いていた。

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不安になって何か聞こうとしても、ガイドは指を口に当てて「シー」と言うだけだ。とにかく、この穴から外を見ろということらしい。同行の外国人4人も皆そうしていたのでAさんも穴に目をあてたそうだ。ガサガサと音がすると投光機が一斉に明かりを放ち、付近一帯は真昼のようになった。

そこには、杭に繋がれた羊のような動物と、それに食いついたベンガル虎の凶暴な姿があった。ようやくAさんも事態が飲み込めた。これがこのツアーの目玉。だから食事中にも関わらず呼び出されたのだ。 

虎は一旦獲物に食いついたら、光を浴びても逃げたりしない習性があるそうだ。暗い小屋も、しゃべるなという指示も、覗き穴も全てはこの一瞬のためにある。ガイドは「あなた方は非常に運が良い」と言った。ベリー・ラッキーを連発していたのでAさんも理解できたそうだ。それに参加者の全員が興奮して凄く喜んでいた。 

翌日はゾウに乗って更に奥地に進んだが、言葉の通じない「ゾウ使い」と二人だけの旅だった。道がないからゾウに乗るのだが、それよりも重要なのは安全保障。ジャングルには凶暴な野生動物がうようよしているので、ゾウの上が一番安全だという。ジャングルの景観、音、におい、風、すべてが素晴らしい。少し怖くて、だいぶお尻が痛くなったけれど、十分堪能したインド奥地ジャングルの旅だったそうだ。

話を聞いたのは2008年のことだが、凄く面白かったので書き留めて置いた。一応、事実確認のため最近の状況を検索してみた。
下のURLをクリックするとグーグルの関連情報表示。
 ↓
ゾウに乗ってのトラ探し?
もう一つ、バンダウガルに来たら是非体験して頂きたいことが一つあります。 公園内でのゲームドライブは通常、ジープで行いますが、 運がよければ、車の入れない薮の中をゾウに乗ってトラを見に行く (=タイガーショー)と呼ばれるオプショナルも体験していただけます。 ゾウの背中に乗って、道なき道を行きますので、激しく揺れることもあります! その為、ちょっとお尻が痛くなりますがトラを間近で観察できる人気のオプショナルです。 現地判断でのオプショナルとなりますが、是非機会があれば体験してみて下さい。
(『インドへトラに会いに行こう!!』のツボよりコピー)
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2022年12月10日

流れた歓迎カラオケ

水に恵まれた札幌で、まさかの断水。カラオケ店員はマニュアルに書いていない事態に遭遇して右往左往していた。準備中と言ったまま1時間も待たされた。

「一体どうなっているの、開店時間はとっくに過ぎてるよ」
「断水ですから飲み物料理などの提供はできません。トイレも使えません。カラオケだけはできます」
「そうゆうことは、もっと早く言ってよ」とAさん。

「腹減ったから近くのラーメン屋にでも行こうか」と、仲間4人で相談していると、
「この辺一帯、全部断水です」と店員の声。
「それも早く言ってよ〜。聞かなきゃ何も教えてくれないの!」と思わず切れてしまった。

飲食はともかく、トイレが使えないのは致命的だ。みんなそろってAさんのお宅にお邪魔をすることにした。飲んだり食べりしながらAさんは何時もの様に面白い話をいっぱいしてくれた。特にベンガル虎に会いに行こう!という探索ツアーの話が、聞いていて痛快だった。話に夢中になって、気が付けばご主人がいない。

「アレッ、ご主人様が見えませんが、どちらへ?」
「趣味やってんのよ。見たい?」
「何ですか?」
「煙がもうもうよ」
「見たい見たい」3人そろって見たいを連発した。 

Aさんはご主人と連絡をとりに行った。どんなことをやっているのだろう。私たちは期待に胸を膨らませた。
「煙がもうもうだって、ワクワクするね」
「マジックかもしれないよ」
「ダンナさん、口から火を吹いたりしてね」
「だから、煙でもうもうなんだよ」

案内されて2階に上がるや否や、煙の正体を知ってガッカリした。そこにはタバコをくわえ熱心に仏像を組み立てるご主人の姿があった。灰皿の上には吸殻がいっぱいで、それを完全に消してないせいか煙を立てていた。

傍には「五重塔の70分の1スケール銘木製模型キット」や、陽明門等の完成作品が置いてある。部屋の中には置き切れず、作品の置いてある別の部屋にも案内された。この家には部屋が10以上もある。しかも住人は二人だけ。作品は立派だし、ご主人のスキルもたいしたものだ。しかし、それ以上に重要な役目を果たしているのは大きな家である。 

狭いマンション住まいの私には思いもよらない趣味だ。人間は環境によって行動が左右される。私も大きな家に住んでいたら、別な人生を歩んでいたかもしれない。

「断水も終わったようだから、そろそろカラオケに行かない?」とCさんが言った。
「せっかくだから、ここでゆっくりして行ってよ」
と言いながらAさんはワインを持って来た。
「地下鉄駅近くに来たのに、戻るのはねぇ」
とワインをチラリと見ながら私。
「もう充分歓迎されたから結構よ」とBさん。

アッ!そうだ。今日は東京から3か月ぶりに帰って来たBさんの「歓迎カラオケパーテー」だった。どうやら皆さん思い出したようだ。
「歓迎カラオケ、流れちゃったね」
「断水なのに?」

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懐かしの画像、昔通った映画館は今ではカラオケ。
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2022年12月03日

口と心は元気

60代のとき見知らぬ人からお爺ちゃんと呼ばれて気を悪くした。80代の今はどうだろう。何故か比べてみたくなった。身体が衰えたのは言うまでもないが心はどうだろうか。

およそ15年くらい前だろうか、先輩とこの様な話をした。
「ショックですね」
「何が?」
「私のことお爺ちゃんと呼ぶのですよ」
「誰が?」
「最近、コイのことが気になるので、池を見ていると、後ろから声をかけられたのです」
「何て?」
「お爺ちゃん、池の中に何かいるの? と聞くのです」
「あんたはお爺ちゃんなんだから当たり前だろう」
と先輩は断定。相変わらず大雑把な人だ。

「先輩もお爺ちゃんですよ。それでいいんですか?」
「俺はお爺ちゃんだよ。孫がいるからね。だけど他人からお爺ちゃんとは呼ばれたことないね」
「子供はともかくお婆さんから言われたくないですよね」
「おや!お婆ちゃんだったのか。お気の毒様」
「いえ、お婆ちゃんは歓迎ですが、お互いにお爺お婆と呼び合わなくてもいいと思うのですよ」
「じゃあ、なんと呼べばいいんだ」

「普通でいいですよ」
「ふつうって何だ?」
「例えば、青年が池を見ていたとします。青年さん、池の中で泳いでいるのは何ですかと聞きますか?」
「ちょと、すみません。とか、失礼ですが、とか呼びかけるよ。見知らぬ人には丁寧にな」
「そうでしょう。少年少女、青年、爺とか区別する必要はないのです。池を見ているのは私ひとりなのです」
「そんなこと気にするなんて、ホントにあんたはお爺ちゃんだね。だから言われるんだよ」

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このような訳で私は60代で太鼓判付きのお爺ちゃんとなった。あれから15年以上たった80代の私はどう見えるだろうか。自慢じゃないけど、この間に入院5回、癌関連手術3回、放射線治療1ヶ月半、そして最近3年間はほぼ巣ごもり状態だ。さぞかしヨボヨボと思われることだろう。

とこれがそれは大間違い。人に会うことは滅多にないが、会った人からは必ず「元気そうだね」と言われる。お世辞でも慰めでもない正直な印象と思う。外見はそう見えるらしい。事実、口と心は今までにないくらい元気なのだ。

人は生きている限り悩みから解放されることはない。しかし、今まで生きてきた中で一番悩みが少なくなっているから不思議だ。選択の余地が少なくなったせいかも知れない。

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2022年11月26日

一人でペッタンコ

二人だけの朝食は、いつものようにテレビを消して話しながらとる。消化に良いといわれているが逆の場合もある。最近はほぼ巣ごもり状態で人に接する機会が少ない。どうしても、事件や社会問題が話題の中心になる。これがいけなかった。見解の相違でケンカになる場合が多いのだ。

「救急車で病院に連れて行かれても、帰りが大変だよね」
「命が危ないのに帰りの心配するのですか」
「入院できなかったら大変でしょ」
「なんとかなりますよ」
「病気なのに可哀そうでしょ」
「タクシーを呼べばすむ事です」
「夜中でタクシーは来ないのよ」
「救急車は負傷者や急病人を病院に運ぶ為にあるのです」
「困っている人を助けたっていいじゃない」
「救急車の仕事ではありません」
「なによ偉そうに。もうペッタンコしてやんない!」

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河川敷なぜか一人でペッタンコ淋しくないの土曜日の君
何が気に入らないのか、もう貼り薬をはってくれないと言うのだ。散々な朝ご飯になってしまった。その日は体調が良いので、久しぶりに部屋の整理をした。休み休みの作業だが、夕方になると腰が痛くなった。

「腰にこれを貼ってくれませんか。手が届かないのです」
「貼って上げないって言ったでしょ」

おや、覚えている。意外に執念深いなと思ったが、心配はない。私には奥の手がある。「ハリハリ失敗作戦」だ。自分で貼って、失敗するところを見せれば、テキは我慢ができなくなって、口を出したり手を出したりしてくるに決まっている。善は急げ、さっそく実行。

「なにやってんのよ、あんた! もったいないじゃない」
「ごめんなさい、又失敗。今度こそ上手くやります」
「もう、いいよ」
「何がですか?」

こうして作戦は成功したが、貼り薬2枚の損害をこうむった。クチャクチャにくっついて、使用できなくなってしまったのだ。不幸なことだが勝利の陰には尊い犠牲がある。

ところで「一人でペッタンコ」という製品がある。背中など貼りにくい部分にも、ひとりで湿布が貼れるそうだ。税込1025円だが、不器用な私では使いこなせないと思う。やっぱり貼ってもらいたい。
タグ:楽しい我家
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2022年11月19日

チンピラと熟年

男と言えば若いころは渡哲也だった。彼は「裕次郎二世」として期待されていたが、日活のアクション映画ではチンビラ役がピッタリだった。そして極めつけは実在のヤクザ石川力夫の生涯を描いた、第一回東映作品「仁義の墓場」。この映画のキャッチコピーは「おれが死ぬ時はカラスだけが泣く」。なんて格好いいのだろう。昔の映画はね。

石川は29歳で刑務所の屋上から身を投げて死んだ。独房に残された日記帳にはこう書いてあった、「大笑い30年のバカ騒ぎ」。昭和29年1月29日、自ら幕を引いた破滅の人生を彼らしく結んだつもりかも知れない。この映画は渡哲也の病気療養後の第一作。「病み上がりで本調子ではなかったが、それがかえって幸いして石川の不気味な迫力をいやが上にも増大した(Wikipedia)」。

ひたむきで哀れなチンピラ役がよく似合う渡哲也も、いい歳になったらどうなるのか心配だった。それが刑事役として大成功。テレビドラマ「大都会シリーズ」「西部警察シリーズ」とヒットは続いた。それでも「この先は?」と心配は尽きない。しかし、テレビドラマ「熟年離婚」をみて、何をやっても似合う人だなと、認識を新たにした。

ところで、渡哲也主演のテレビドラマ「熟年離婚」とは、仕事一筋で生きてきた男がが定年退職を迎えると、長年連れ添ってきた妻から突然離婚を言い渡されてしまう。そんなシーンから始まる夫婦の物語。男は戸惑うが妻は自立した女性として、第二の人生を歩みたいと考えている。

離婚届という紙切れ1枚で35年もの結婚生活が消えるのかと、困惑する夫は妻を全く理解していなかった。心を開いて徹底的に話し合うこともなかったからだ。

我が家の場合は状況は違うが、お互いの無理解については同様だ。妻のP子は私に不満をもっているようだが、私だって同じである。ドラマと違って心の中で離婚をしたいと考えたのは私の方だった。
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しかし、解決しなければならない問題が山ほどあった。離婚に伴う膨大な手続き、住居をどうするか、少ない収入、資産を二つに分けて生活ができるのか等、いろいろだ。こんな時にテレビドラマ「熟年離婚」が放映された。比べてみればテレビの夫は、経済的にも家庭的にも恵まれている。それでもあれ程の問題がある。

我が家の喧嘩原因は双方が我を通そうとすることにある。しかし、P子は絶対に我を折らない。そこから導かれる結論は、ただ一つ。私が折れれば済むことだ。そもそも、離婚して一人で気楽に暮らせる筈がない。

こう考えて、絶対服従3年間でP子を優しい「お母さん」に作り変えてしまった。過ぎ去った3年は凄く短い。相手を変えたければ自分が変わればいいのか。あまりにも簡単に解決したので、破綻も早いのではないかと心配になった。こんな時には若いころ流行ったあの歌が聞こえてくる。いいじゃないの幸せならば・今が良けりゃ・楽しければ。
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2022年11月12日

お喋りラジオ体操

私はハッピーリタイアメント以後の61歳から74歳までを自由時代と思っている。82歳の今になって振り返れば、恥ずかしいことばかりだが楽しい思い出も多い。

毎朝、中島公園でラジオ体操していた。ダラダラとお喋りしながら体操する、高齢者グループが目障りだった。彼らは元気いっぱい休むことなく体操を続けている。皮肉なことに、力いっぱい体操していた私が腰痛で入院してしまった。

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未曾有の台風にも負けなかった 2004年9月8日、台風18号で中島公園は被害甚大。それでもラジオ体操は休まず、倒木の中でも続けられた。 

退院後のラジオ体操は、家で妻のP子と一緒に楽しみながらやることにした。成功のコツは成功者の真似から始めよ、と言う。不真面目な高齢者グループを見習い、P子と向かい合って話しながら体操をすることにした。

今朝の話題はニュースで聴いたばかりの死亡事故。小学生が天窓の上に乗ったらガラスが壊れ、落ちて亡くなったそうだ。そんな所に乗る子が悪いと、P子が得意の自己責任論。私は管理する学校にも責任があると考えた。体操をやりながらだから、イチ、ニイ、サン、シ、の合間に短い言葉で言わなければばならない。誤解の生じ易い状況である。

施設は利用状態に応じた強度で造らなければならない。もし、不可能なら立入禁止など必要な制限をつけるべきだ。しかし、P子は作った人が悪いと受け止めたらしい。それを自分の料理へと連想させ、いきなりかみ付いてきた。

「私が作った料理が多いと言って残すでしょ。それなら自分で作ればいいのよ」
どうして、このような展開になるのか理解できない。
「それとこれとは別でしょう」
「同じことよ、あんたの兄弟はみんなそうなのよ。お兄さんも理屈っぽいしね!」
こんなことを長々としゃぺっていては体操にならない。

「ホラホラ体操が音楽に合っていませんよ」
「後ろ向いてよ!」
厳しい注文だ。顔も見たくないということだろう。 
「料理と事故は別でしょう」
「その話はもう終わったの!」

小学生の自己責任と言われても、はい、そうですねとは頷けない。造った者の責任も指導者の注意義務もあるのではないか。断じて同意できない。しかし、黙ってしまった。 

何か言えば「しつっこいね!」と返されて、それでお仕舞いだ。ラジオ体操は型どおり終了した。勝ったP子は朝食の支度にかかった。負けた私は、いつもの「紅茶サービス」をする気も失い、自室にこもってしまった。

しばらくして、P子が呼びに来た。
「紅茶番いないから、コーヒーにしたよ」
紅茶番とは私のことである。
「インスタントですね」
「当たり前よ。部屋で何していたの?」
「これからの人生について考えていました」
「どうして?」
「文句ばっかり言われているでしょう」
「そうかなぁ? 7割くらい嫌いだから言ってるかもね」
残り3割、まあいいか。野球なら打率3割で超一流だ。
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2022年11月05日

カラオケごっこ

退職して寂しいという人も居る。一方、退職して自由になり、趣味やスポーツを満喫できると楽しみにしている人も居る。ところで私は、スポーツはできないし趣味もない。それでも退職して楽しかった。仕事が凄く苦手だったので解放された奴隷のようにルンルン気分だった。

自由は楽しい、好きなことが出来るからだ。カラオケ、ダンス、マージャンにゴルフと、楽しんでいる人も多い。できれば私も楽しみたいが、それは無理。人には得手不得手がある。若いころなら「やればできるから、頑張りなさい」と言われればその気になる。しかし、この歳になると、生まれつきそうなのだから仕方がないと諦める。そもそも楽しむ為に頑張るなんて矛盾している。

そこで私が選んだ遊びは「記者ごっこ」。子供の遊びみたいなものだ。遊びだから自ら進んで取材などはしない。そのかわり、誘われればどこにでも行ってしまう。今日は苦手な大カラオケ会だ。果たしてどうなることやら。万一、歌えと言われたら逃げてやろう。
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道新コラム「朝の食卓」2010年6月23日投稿。画像クリック=拡大

大カラオケ会には50人くらい集まったが、いつもと違う華やかさがある。特に女性が美しい。同じシニアネットの仲間なのになぜこうも違うのだろうか? 少し考えてみた。ヒントは17年前のノートパソコンはかなり大きかったこと。

パソコンを背負っていないからお洒落ができるのだ。勉強会の後でも、皆んなそろってホテルへランチに行くことがある。重そうなリュックサックを背負った集団を、ホテルマンは何者に見ただろうか。登山でもない。旅行者でもなさそうだ。さては新手の行商人グループか? 

カラオケクラブ例会は新任のO部長の引き語りで始まった。実にうまい。うまいはずだ。往年の人気テレビ番組「ザ・ヒットパレード」で歌っていた経歴があるのだ。私が担当する地元のラジオ番組「山鼻、あしたもいい天気!」に、Oさんにゲストとして出演をお願いした。

その頃の私は記者ごっこだけでなく、放送ごっこもしていた。放送の前にOさんの歌も、ぜひお聴きしたいとの思いもあって、このカラオケ例会に参加させてもらった。ラジオでの話題は「音楽と中島公園」とした。Oさんがドン・ホーの歌を4曲選んでくれた。ハワイ公演、テレビ出演などの思い出話なども話してくれた。

ところで、カラオケ会で歌ってしまった。なんとなく歌わされるような雰囲気を感じたので、トイレに逃げ込んで時間をつぶして出てくると、なぜか私の番になっていて舞台に連れて行かれた。遅蒔きながらカラオケごっこもしてしまった。

「記者ごっこに放送ごっこにカラオケごっこか? なんでも『ごっこ』と付ければ済むもんじゃないよ」
「もの書きとはそうゆうものです」
「ほっ〜、もの書きと来たか。後光がさしてるよ、先生」
「よして下さい。拙い真似事ですよ」
「後ろが光ってるぞ〜」
 ムカッ(-_-メ)
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2022年10月29日

私たちの定年騒動

主婦に定年はない。それでいいのだろうか? 私はそうは思わない。それで思い切って「主婦の定年宣言」、結果は上々。しかし、そこまで行くのに紆余曲折はあった。

私の定年退職後しばらくして、妻のP子にも定年を言い渡した。妻にも定年があっていい筈だという、彼女の要望に応えたつもりだ。

「ご苦労さまでした。今日から貴女も定年です」
「じゃあ、アンタが家事をやってくれるんだね」
「やりません。私はすでに定年の身です」

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彼女は定年になって家事から解放される意味を理解していないようだ。共に家事から自由になることである。決して嫌な仕事を押し付け合うことではない。「じゃあ、誰がやるのさ!」と態度急変、えらい剣幕だ。私は何とか話し合いの糸口を見いだそうとした。

「我慢できなくなった方がやるというのはどうでしょう」
「… … 」
ふくれっ面の沈黙。話し合う気もないらしい。
「例えば、腹が空いた方がご飯をつくるとか…」
「ダメダメ、そんなの絶対だめ」
妥協点を探ろうとする私の努力は徒労に終わった。
「共同生活ですよ。貴女の思いどおりにはなりません!」
「… … … … … …  」
長い沈黙が怖いのでトーンを下げて反応を待つ。
「イコール・パートナーとして協力し合いましょう」
「協力協力って、一体アンタに何ができるの。何も出来ないくせに何がイコールよ。一人前のこと言うんじゃない!」

やはりキレてしまった。私がなだめ役になるより仕方がない。少し考えてみたらこんなことを思い出した。犬は序列の生き方をする動物で、上下関係により動くそうだ。人間だって動物には違いない。この線で説得することにした。

「いい方法を考えたので聞いてください」
「コンビニとか、コインランドリーの話なら聞かないよ」
「私があなたの家来になりましょう」
「家来?」
「何でも言うこと聞きますから気軽に命じてください」

P子は正直で単純な人だ。誰もが自分のような表裏のない人だと信じている。そして、自分が正しい主張をしたから私が分かってくれたと思ったようだ。表情が柔和になった。

それに彼女は「命じないと動かない部下」をもった経験がない。これがどんなにシンドイか分かってない。こうして「敗者なきウインウインの関係」が我が家の中で成立した。

「奥さんの命令をなんでも聞く? ヨボヨボになるまでこき使われてもいいのか」と、先輩は余計な心配。
「こき使いやしませんよ」
「それは甘い、家来になると言ったじゃないか」
「敵を知り己を知れば百戦危うからず……」
「どっちが皿を洗うかくらいのことで大げさだぞ」

在職中に、私は仕事P子は家事という習慣がで出来上がってしまった。P子の家事は身に付いた習慣だ。私に家事をさせようとしても、それは頭で考えたことに過ぎない。身体で覚えた習慣の方が頭で考えたことより強いのだ。一方、家でゴロゴロは私の身に付いた強い習慣、これも侮りがたい。

何でも気軽に命じてくださいと言ったところで、しばらくすれば頼むのが面倒になり、彼女が自分でやるに決まっている。こうして私はP子の家来になったが、殿様としての彼女は正直で情け深く、しかも自分で働く癖がついている。ズボラな家来としてはこんなに有難い殿様はいない。 

「主婦の定年はどうした?」
「あれは止めました」
「無責任だな。定年を言い渡したはずだろう」
「家来は殿様に従うだけです」
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年10月22日

3年ぶりのカラオケ

久しぶりに洋カラ(洋楽カラオケ)に参加したが、とても楽しかった。何となく歓迎されているような気がしたからだ。何故か、80過ぎたら自分にとって都合良く考えられるようになった。陰気な人から呑気な人に変わったようだ。

カラオケ会場は新しくて綺麗だった。装飾も洒落ていて、正面の壁全面がスクリーンになっている。オマケにソファーも座り心地が良い。ゆったりしたスペースがあり、自由に動けて居心地がよい。マイクも専用で使い回しがないのも有難い。新しい会場の印象はとても良かった。

久しぶりの洋カラだが、以前は男性が多かったのに、今回は女性7人、男性6人の参加だった。そして、以前に比べて華やかな感じがする。多分私が最高齢と思う。幅広いジャンルは変わらないが、新しい歌が多くなったような気がする。

こんなことを書いていたら、タイミング良く、所属するシニアネットのメーリングリストでカラオケについての投稿があった。参考のため抜粋させていただいた。

カラオケで歌う事で、脳の活性化や心身を安定させる。効果が医療機関で音楽療法として使われてるそうです。
歌う事で、口の中や周囲の筋肉が鍛えられ、誤飲防止になり、又ストレス発散に繫がり、免疫力UPに繫がる。
歌詞を暗唱し、人前で歌う事で、緊張感が増し、脳に刺激を与え、認知症防止に役立つようです。
「元気が出る・気分が晴れる・免疫力UPで認知症防止!」
Sシニアネットには「カラオケクラブ」があり、「心身ともに健康で、仲間と心の交流を深める」とあります。
(以上、SSNML、Oさんの投稿より抜粋)

そして、「皆さん参加しませんか」と結ばれている。私もそのような気持ちで65歳の時カラオケ会に参加した。80歳を過ぎたら、何が出来ないとか悩むのは止めた。仕事も苦手だったので人一倍一生懸命にやった。歌も苦手だが一生懸命歌えば楽しいし、自分の健康にも良いと感じている。聞き苦しくなければ幸いだが、果たして?

なぜ英語の歌を歌うのかと聞かれたことがある。下手なのに何故と言うことらしい。何にも答えられなかったが、ブログには書ける。英語が好きだからである。好きだけど日常会話もできないので歌っている。どんな形であれ好きならば口にしたいものだ。

私は好きなのに出来ない人。そのような存在を世間は認めないと思う。ファイターズが大好きと言いながらキャッチボールも出来ない人もいる。なぜ歌とか英語ではダメなのだ。何も分からないで楽しんでいる。 (^-^;) ゴメン

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いろいろあって家では歌えない。河川敷は広くて一人になれる場所だ。見通しがいいので周囲に人が居ないことも一眼で分かる。ここが私の専用ステージ。向こう岸を見ればダイサギが1羽。こちらを見ている、聴いているのかな?
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年10月15日

トイレの神様

早いもので結婚して56年、夫婦二人暮らしになり25年、家の中で幸せを見つけて5年たった。長い間、幸せは外にあると思っていたが、内にもあることに気づいた。

もちろん、仕事の中で幸せを見つけられれば最高だが、仕事は苦手だった。だから、仕事以外で幸せを見つけようと出歩いていたが、何も見つからなかった。こんな風に、幸・不幸について考えていたら、30年ほど前のことを思い出した。

福岡で勤務していた頃だが、同僚の元気がない。ボソボソと次のように話してくれた。奥さんが亡くなった、調理師をしている娘さんが職場で大火傷をした。数日後、猫が車に轢かれて死んだと言って涙ぐんでいた。奥さんの死、娘さんの事故については淡々と話していたが、猫が死んだのが一番辛かったと嘆いていた。慰める言葉も見つからなかった。

妻への愛、娘への愛、猫への愛、それぞれの愛は深さが違うようだ。ところで、我が家の愛は意外な所にあった。トイレが近いので溢れるほどの愛を注いでもらっている。

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便座を開けて立って用を足す。毎回「愛」を見ながら放水している。ところが、書いてくれた人は後ろ向きに座って用を足す。見えるのはドアだけだ。私だけの為に飾ったのだろうか。いずれにしろ有難い話だ。

コロナ禍と癌の手術と治療で巣ごもり3年になると、こんなことでも幸せを感じるようになる。これはホンの一例で、自分の生き方を変えたのが幸せ感の土台になったと考える。と言っても誉められた話ではない、自分の身体が弱ってきて人に頼るようになったのだ。

幸せは感謝する心から始まった。感謝は相手に伝わって私に返ってくることを知った。私は仕事が苦手だから家の仕事(家事)も苦手だ。自分が苦手なことをしてくれる人に感謝した。喜んでやってくれれば更に感謝は深まる。

二人企業の社長の気分になって、仕事(家事)をする人に感謝して褒める。そして、苦情を言ってくれるように促す。その仕事が大変ならば、私が代わりましょうとも言った。自分は凄くズルイと思う。仕事を代われとは言われないことを知りながら、代わると言っている。

小さな用を足すごとに、目の前の書が目に入る。トイレの「愛」を私への愛と思っている。気がつけば、自分に都合のいい方に思い込む人になっていた。神が私を生き易い人に変えてくれたのかも知れない。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年10月08日

代行さん

定年退職8年後、シルバー人材センターの紹介で近くの小学校で休日の日直アルバイトをすることになった。小学校の玄関は鍵が掛かっていたのでインターフォンを押した。

「はい、職員室です」
「学校管理で働くことになった中波です」
「はっ?」と言ったきり少し沈黙、周囲の人に何か聞いている気配がする。
「代行さんですね。どうぞ」

なるほど代行さんか、自分の仕事が現場で何と呼ばれているか分からせてもらった。シルバーセンターの仕事分野には学校管理と書いてあったので、そう告げたが通じなかった。その後、センターでの呼称は「学校日直」と改められた。
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日直代行の仕事はインターフォンで玄関の出入をチェックしたり、校内を巡回したり、休日の警備員みたいな役目もある。テレビドラマなら警備員が殺される場面から始まるが、私が体験したのはホンの小さな誤解から生じた極めて小さな出来事。それでも心に傷がついた。

「代行さん。変な音がするでしょ、調べてくれない」
年配の先生はイライラしている。短い曲の繰り返しのような音だ。先生はインターフォンを指差しながら言っている。常勤の先生が分からないことを日直代行に分かる筈がない。

「はい、分かりました」と、言ったところで、何を調べるか検討もつかない。それでも、じっと座っているより、その場を離れた方が気が楽だ。しばらく散歩してから職員室に帰り、「変ですね〜。後で教頭先生に報告します」と言って、一件落着のつもりだった。

パソコンで作業している年配先生の机に携帯が置いてあるのが目に入った。ふと、あることが気になったが、まさかそんなことがあるまいと心の中で打ち消した。しばらくすると、先ほどと同じ「着メロ」のような音が、また聞こえてきた。

年配先生は誰に言うでもなく「また、変な音がしてる。いやになっちゃうね。忙しいのに」。大きな声でつぶやくが、顔がこっちを向いている。暗に、もう一度調べろと促している。少々うんざりしたが、先ほどと違って、今度は若い先生も職員室にいた。忙しいのか、休日でも次々にやってくる。

若先生は「パソコンではないですか」と言いながら年配先生の机に近づくと「アラ!携帯じゃない。着メロですよ」と言った。それは私が言いたくても言えなかった一言だった。当たり前すぎて口には出せなかったのだ。

年配先生は携帯を取ると「ごめんなさい。気がつかなくて」と見えない相手に向って、ぺこぺこしながら、電話に出なかったことを詫びていた。「変な音」が鳴るたびに、調べてと促した年配先生だが、原因が自分の携帯と分かると、とたんに「代行さん」が見えなくなったようだ。
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年10月01日

Whyが大好き

下手な癖に駄文を書き続けている。もちろん、読者は少ないけれど幾らかの方々は読み続けてくれている。自己満足だが、「何時、何処で、誰が、何を」という事実から「何故?」を見つけるのが楽しい。文章の勉強は大切だが、頭がコチコチでできない。諦める部分はスパッと諦める。

いくら若気の至りとは言え、こんなことをした私は愚か者。そして、40年後にことの顛末を書いて喜んでいる、底知れない愚か者である。今の私は処方され沢山の薬を飲んで生き長らえている。この中にバカに付ける薬も入っていればいいのだが、無くても結構楽しく幸せに暮らしている。
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ところで、24歳のとき私がしでかした愚かなこととは、次のような事実だった。私はA子に手紙を忍ばせた菓子折りをあげた。A子は菓子折りを丸ごとB子にあげてしまった。B子は菓子だけを食べて手紙を私に返した。私は何故かB子に結婚したいと言った。B子は直ちに断り、後にC子を紹介してくれた。C子と動物園で会う約束をしたが来なかった。三日後、C子から交際お断りの手紙が来た。

何のことかサッパリ分からないと思う。この事実は144字だが、体験を「手紙」というタイトルで書いたら2954字に膨らんだ。事実から何故、何故と、Whyがいっぱい見つかって楽しくなってしまったのだ。
こちらをクリック! → ブログ「空白の22年間:手紙」

このブログ「空白の22年間」は自分自身の楽しみと自己紹介のつもりで書いている。人物等仮称も多いいが、できる限りの真実を書いているつもりだ。真実とは事実に対する偽りのない解釈であり、人の数だけ真実はある。しかし、正直に書くように心がけている。

事実を書くなら新聞記事の書き方が参考になる。つまり5W1Hの原則に準じて書けばよい。具体的には、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どうやって(How)である。私のように老後はのんびり暮らしたいと思っている人には絶対に書けない。差し障りが多すぎるのだ。

この中で一番書きたくないのがWho、人物が特定し易くなるWhereもなるべく避けている。出来るだけ正確に書いているのが背景となる時代、Whenである。何を(What)、なぜ(Why)、どうやって(How)だけを楽しんで書いている。中でも大好きなのはWhy、感じてもらえれば有難いが無理と思う。一人でWhyWhy、ワイワイ言って楽しんでいる。
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タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2022年09月24日

女性が羨ましい

昔、近所の病院に入院したが、患者どうしは仲良くやっていた。しかし、一人になりたいと思うこともある。そんな時は休養室に行って雑文の下書きをしたりしていた。コッコッと足音がするので反射的に顔を向けると目があってしまった。思わず、ニッコリ笑い挨拶を交わした。これがキッカケで年配の女性の愚痴を聞くはめになった。

「私、何の為に一人でガンバッテきたのでしょうね」
彼女は定年まで働いて、その後は新築のマンションを買って一人暮らし。夫は64歳の若さで亡くなったと言う。
「主人は貴方に似て前ハゲなの。何だか懐かしいのよ」
「そうですか」
軽く聞き流すふりをしたが凄く嬉しい。
「この歳で初めて入院したの。上と下が悪くてね」
「上と下ですか?」
「吐き気と下痢よ。こんなにやせちゃった」
「お若いのに大変ですね」

「甥に篠路の老人ホームみたいな所に連れて行かれたの」
「一緒に歩いていた方ですね。お子さんかと思いました」
「子供はいないし、迷惑かけられないから入らなければね」
「まだ若いから気が進まないでしょう」
「今まで一人で頑張って来たからね」
「ホームでのんびり暮らすのもいいかも知れません」
「寂しいよね」
「寂しいですね」
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「何か書いていたのでしょ。邪魔して悪かったね」
「いいんですよ。暇つぶしですから」
「話したら、なんだか気が晴れたわ。ありがとね」
「それは良かったですね。叉、話しましょう」
これでお別れと思ったが… … 
「あらっ! なに書いてるの。ちょっと見せてよ」
「嫌ですよ! 日記ですから」

親切な女性には敵わない。断ったのに、近寄ってのぞいた。
「なんかよく分からないねぇ」
「字が下手ですからね。ワードを使って書き直します」
「この字違っているよ。直してあげる」
「いいですよ。後でワードが直してくれるから」
「ワダさん?」

タイミングよく、休養室に年配の女性が入って来た。
「お友達みたいですよ」
「入院したばかりで、話し相手がいなくて寂しいんだって」
「そうですか」
「話し終わると、話してくれてありがと。とお礼を言うの」
と、言うが早いか私を置いて、お喋りに行ってしまった。

二人の女性は昨日会ったばかりというのに、まるで10年来の親友のようだった。こんなこともあって、書く気もなくしたので、病室に帰り隣のベッドの人に声をかけた。
「女性は素直に自分の気持を言えるから羨ましいですね」
「あんたもそうすればいいじゃないか」
「話し相手がいないから寂しいの、なんて言えませんよ」
「もっと気軽に、調子はどうかいとか言ってみな」
「調子はみんな悪いんですよ」
「みんな?」
「病人ですからね」

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | フィクション

2022年09月17日

幸せのスーパーメロン

ドラマを観ていると、こんなシーンによく出会う。男が女に「僕は貴女を必ず幸せにします」とか言っている。ずいぶん安っぽいセリフだ。私が幸せになるのは簡単だ。美味しいメロンが4分の1個もあれば充分である。

しかし、メロン4分の1で誰もが幸せになれると思ったら大間違い。そこまでに至るプロセスが肝心だ。大まかに振り返れば3年間だが、長すぎるので直近の3ヶ月の記憶をたどった。その頃、ある治療の副作用で味覚障害になり、口の中も粘膜炎で痛かった。それでも食べなければ体が持たない。
詳細→放射線治療、自宅→入院→自宅

生きる為に一生懸命食べた。痛くては食べられないので口の麻酔をしながら1日3食を完食。それを見た看護師さんが「カロリーが足りないので食事を増やしましょう」と言った。私の我慢は限界に達していたので、1階のコンビニで買い食いするからいいと断った。そうしたら、毎食後にプリンを付けてくれた。
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これを口に含んでブクブクすれば、口の痛みが和らぎ食事が出来る。

ところで定年後、4回入院したが病院の食事だけで済ました。食事も治療の内と考えたからだ。今回初めて、栄養補給のために買い食いをした。先ずはケーキと饅頭、すごく不味かった。病院の食事より格段と不味い。ジュース、チョコ、果物の缶詰、色々試したが全部不味くて、2度と食べる気がしなかった。

やっと見つけたのが、牛乳とソフトサラダと言う名の柔らかい塩せんべい。旨くはないけれど嫌な味もしなかった。ソフトサラダはカリカリという感触が好きだった。ご飯も薄切りの食パンも味がない点が好かった。本来の味はあるのだが私には感じない。つまり、食事をして美味いと思ったことはない。

退院して1ヶ月半もすると、味覚が徐々に戻ってきた。2ヶ月たったころには90%程度回復した。なぜか、お茶と高級ジュースは渋くて不味かった。高級なものほど回復が遅いのだ。ともかく、味覚回復は普通6か月、長い人は1年と言われていたのに2ヶ月でほぼ回復した。1年もかかった人は、私と違って食通だったと思う。世の中何が幸いするか分からない

味覚障害とは味を失うことでなく、美味いものを食いたくなくなるほど不味くすることと知った。舌癌手術後にした鼻から胃袋にチューブで栄養を送る方が楽だった。だけど、苦あれば楽ありとは本当だった。

味が回復して初めて食べたメロンが美味しかった。「幸せだなぁ、僕はメロンを食べている時が一番幸せだ」と心から思った。この幸せ感がなんとも言えない。幸せになるのは簡単だ、美味しいものを食べれば良い。

「メロン食べて幸せになりました」
「夕張メロンかい」
「スーパーメロンです」
「聞いたことないなぁ、高いだろう」
「ええ、凄く高かったですよ。安売りなのに1280円もしました」
「そうかい、どこで買ったの?」
「近所のスーパーです」
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年09月10日

不思議な入院

コロナ禍は入院生活を大きく変えた。面会と外出は禁止、そして4人部屋だが、同室者とは一言も口をきかないで1ヶ月間過ごした。私だけでなく他の患者も同様だ。お陰でとても静かな入院生活だった。

一方、13年前に近所の病院に入院した時は大違いだった。病室は雑談で賑やかだし、食事はテーブルを並べて喋りながら食べていた。押し並べて楽しい入院生活と思うが、入院初日は大変だった。しかも、不思議な入院でもあった。

「今すぐ入院ですか。ラジオがあるので明日にして下さい 」
「直ぐに入院しなさい。ラジオは出てもいいですよ」

即入院の緊急性と「ラジオは出てもいいですよ」というおおらかさ。この落差は一体なんだろう。私にはピンとこなかった。ともかく、スタジオには行けることになったのでホッとした。

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2008年2月ラジオカロス札幌「山鼻あしたもいい天気」

病室は6人部屋だった。ともかく、隣の人に挨拶、よろしくお願いしますと簡単にすますと、「山田太郎です。84歳です」と、丁寧に応じられたのでやり直した。

「中波三郎、67歳です。風邪をひいてこの病院に来たら検査して、即入院となりました」
「そうですかぁ。お客さん少ないからねぇ」

先ほどの院長先生のセリフ、「直ぐに入院。ラジオはいいよ」を思い出した。まさか、肺炎と診断して見せてくれたあのCT画像の白い影は「消しゴムツール」で加工したのではないかと、一瞬疑った。おじいさんとの話は延々と続きそうだが、ラジオの準備をしなければならない。「進行表」と「台本」をチェックしようとしたら看護師さんが点滴に来た。

「もうですか?」
「ラジオがあるから早くしてと言ったでしょ」
「すみません。お願いします」

もうクタクタのヘトヘトだ。点滴しながら眠ってしまった。目が覚めると17時。泥縄だが、点滴しながら放送をイメージしてみた。点滴の落ちる速度がやけに遅い。20時からの放送に遅れそうな気がしてイライラした。胸もムカムカした。点滴が終わると18時になってしまった。食欲はまったくないが、少しだけ食べて食後の薬を飲んだ。

大急ぎで円山のスタジオに向った。途中、地下鉄中島公園駅ででカロリーメイトをほおばったが、いつもと違って口の中がパサパサして食べにくい。スタジオに着き何とか1時間の番組を終了。タクシーを拾って家に着いたのが21時20分だった。病院の消灯が21時なので予め外泊許可をもらっていた。

家に帰ってもやることが山ほどある。メールはネットが使える今夜の内にしなければならない。とにかく破らなければならない約束がいっぱいあった。何となく気になったが、疲れて寝入ってしまう。

一眠りすると目が覚めた。夜中の3時だが、目が冴えて眠気がない。なにぶん突然の入院だ。誰に何を知らせるかが難しい。困り果てて、所属するシニアネット全員宛のメーリングリストに流してしまった。こうして長い長い一日が終わった。

この3年で3回入院したが、いずれも面会・外出禁止。一方、13年前の入院は面会はもちろん、外出さえ自由だ。糖尿病だから運動も治療の内とか言って、毎晩ダンスに通う患者もいた。私も徒歩10分の家に帰り風呂に入ったりパソコンしたりしていた。この新旧二つの入院を比べてみれば、面会・外出禁止の方が良いと思った。入院した以上、治療に専念して1日でも早く退院した方が良い。少なくとも1ヶ月以内の短期入院なら、この方がいいと思った。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年09月03日

さようならオシドリ

オシドリについてだが、今年の秋は今まで一番多いような気がする。しかし、あのカラフルで美しいオシドリの姿が全く見られない。この時期のオスは「エクリプス」と呼ばれる状態の羽毛へと変化しているので、メスと同じように地味な色をしている。しかし、10月頃になれば美しく変身するだろう。

オスが一斉に綺麗に変身すれば、中島公園の風景に彩りを添えてくれる。しかし現実は、そうなった試しがない。マガモは凍結するギリギリまで池で粘っているのに対し、オシドリはさっさと何処かへ飛び去ってしまうのだ。しかし今年こそ、カラフルで美しいオシドリのオスがあちこちで見られると期待している。

退院して久しぶりに中島公園を散歩するとアチコチにオシドリがいた。偶然撮ったこの写真にも3羽写っていた。手前の大きい2羽と石の上の1羽はオシドリだ。菖蒲池から鴨々川 まで至る所でオシドリが居たが、全部メス。一体カラフルで美しいオスは何処に行ってしまったのだろう。1羽も姿を現していない。

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左端下で正面を向いているのがマガモ。くちばしが黄色い。

だがこれは私の勘違い。非繁殖期である夏になり、エクリプスと呼ばれる状態の羽毛へと変化していたのだ。つまりオシドリはマガモ同様に、オスは繁殖期には美しい冬羽にしてメスにアッピールする。そして夏に近づけば夏羽に変わり、オス・メス同じ色になるが、見分けることはできる。

オシドリのオスはメスと違ってくちばしが赤い。上の写真はくちばしを見ても黒っぽいだけで色の違いがサッパリ分からない。今年の8月25日の撮影だが、うまく撮れていない。仕方がないので撮り溜めた過去の写真を使うことにした。

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2021年9月6日撮影 羽毛はメスと同じような地味な色。手前の1羽はメス。赤っぽいくちばしの2羽はオス。この日は中島公園に沢山のオシドリが来ていたので、都合よく並んでくれた。

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2021年4月17日撮影 くちばしが赤くカラフルなオシドリのオス。手前のメスはくちばしが黒っぽい。冬の繁殖期が終わっても6月頃までは冬羽のまま。メスと同じ色になり始めるのは7月ごろか?

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2021年4月8日撮影 上と同様、泳いでいるところも撮ってみた。撮り溜めた写真で判断すると、6月頃までのオスは綺麗な冬羽のままだった。私は見たままを書いているだけで、分からないことが多い。

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2021年9月2日撮影 この時期は一部のオシドリが繁殖期に備えてカラフルで綺麗な冬羽への変化が見られる。

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2015年9月11日撮影 この時期になると徐々に冬羽へと生え変わる。頭部は中央から線状に羽毛が生え変わっていく。こんなヘアスタイルの洒落男を見たことがある。

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2015年9月16日撮影 9月中旬にもなると殆どのオスは羽毛が変化してきている。変化の程度はいくらか違う。  

10月中には次の画像のように綺麗になると思うのだが、その前に何処かへ飛び去っている場合も多い。せめて10月いっぱいは居て欲しい。菖蒲池が凍結した真冬に鴨々川 に来ることもあるのだが、数は少ない。春の雪解け時にはよく見かける。

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野鳥については殆ど知らないのだが、21年間中島公園を散歩して来た。居る、居ない、多い、少ない等、見た目で分かることについて書いてみた。

「さようなら」とは言いたくないが、池が凍結すれば水鳥は必ず去って行く。でもオシドリは去るのは早すぎる、せっかく綺麗に変身したのだから、マガモのようにギリギリまで居て美しい姿を見せて欲しい。そうすれば中島公園がもっと楽しくなる。 

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最後に参考としてオシドリ親子、母のくちばしが黒っぽい。夏にはオスもメスと同じ色の羽毛になるが、くちばしは赤っぽくなっている。

posted by 中波三郎 at 13:38| Comment(0) | その他