2018年02月24日

ここが極楽

目が覚めたら明るい洋室にいた。私は清潔な白いシーツの上に一人で寝ていた。一体ここは何処だろう。誰かに担がれた一瞬の記憶がある。そうだ、ここは小学校の保健室に違いない。だが何故ここに運ばれたかが分からない。痛いところもないし苦しくもない。ここに来るまで何をしていたか一生懸命考えたら思い出した。鉄棒だ。

記憶が徐々に戻り全てが繋がった。弁当がないので昼休みに一人で鉄棒をしていたのだ。皆が食べているのに、食べない私が居たら悪いような気がして校庭に出たのである。

実は、その前に先生から注意された。「弁当を人に分けてやったり、もらったりしてはいけません」。そう言われるまでは、皆楽しく一緒に弁当を食べていた。弁当を持たない私も皆からもらって喜んで食べていたし、先生も黙認してくれた。

学校が大好きだった。優しく親切な生徒も少なくなかった。弁当が無くても分けてくれる人が居る。一人が弁当箱の蓋に何か入れてくれると、それを持って教室の中を「ちょうだいちょうだ」と言いながら歩き回る。多くの生徒が入れてくれる。皆、ニコニコ笑っている。

小学3年の私は無邪気な子供だった。弁当で悩んでいる生徒の存在には気付かなかった。粗末な弁当を恥じて、隠すようにして食べている生徒が見えなかったのだ。このことを先生が知り、子供たちの助け合いと黙認することを止めた。

先生に注意されたばかりの生徒たちは黙々と弁当を食べている。私は何となく居場所がなくなったような気がして、校庭に出たけれど誰もいない。仕方がないので一人で鉄棒をして遊んだ。そして落ちて気絶した。やっと過去と現在が繋がりスッキリした。

その出来事以来「ちょうだい」と言う言葉は使えなくなった。小学4年からは新聞配達を始め、学校に必要な金と小遣いに不自由はしなくなった。子供から少年を飛び越えて一挙に大人になったような気がして誇らしかった

私の夢は中学を出たら働くことだった。実現した。在職中の夢は楽をすること。これも退職して叶った。今の夢はこの状態が永遠に続くこと。人は不可能と言うが、生きたまま極楽に来たのかも知れない。そして時計の秒針のように同じ所でクルクル回っているのだ。生まれた時は1年365日で回っていたが、今は60秒で一回りの気分である。
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2018年02月17日

優しい人たち

小学3年の私はバラックで暮らしていることをひた隠しにしていた。近所の子供たちも同じ学校に通っていたのだから隠せるはずはない。それでも隠していた。バラック暮らしについては生い立ち2-東京へに詳しく書いたのでここでは省略する。

敗戦後4年目の渋谷は復興めざましく、安普請ながら木造住宅街がほぼ完成していた。その中で焼けトタンのバラックは嫌でも目立つ。不思議なことにバラックの子供として差別を受けたり虐められたりした記憶は全くない。だから同級生にはバレていないと思い込み必死になって隠し続けたのだ。私は周囲の暖かい配慮に守られていたのかも知れない。終戦後の混乱した時代だが小学生でも一定の常識をもっていたのだろう。

それでも皆の中に溶け込むのは難しい。転校生のA君だけは私がバラックに住んでいることを知らなかった。友達になると私を家に呼んでくれた。彼は勉強も出来て気も強かったがクラスには馴染めないようだった。家はとても大きく、優しそうなお母さんがお菓子を出して歓待してくれた。今でも夢のような楽しいひと時を覚えている。

何回か遊びに行くうちに「君の家に遊びに行きたい」と言われ、困ってしまった。あの惨めなバラックを見られるのかと思うと、ぞっとした。何とか断ろうと、いろいろ理由をつけてみたが、「君だって僕の家に来たのだから」と言われては万事休すだ。

嫌々我が家に向かう足取りは重かった。家の前に連れて行くのは、どうしても嫌なので家の見える高台に連れて行き「あすこ」と指をさした。A君は一瞬言葉を失ったが、直ぐに全てを理解したようだ。そして「君の方が恵まれているよ。僕の家なんか借りものだ」と言った。バラックに住んでいることを知られたら絶交されると思っていたのでホッとした。

A君は小学3年でも人の気持ちを思いやることが出来る。私にとっては驚きだ。あの優しそうなお母さんの教育のお陰かも知れない。社会全体が混沌とし、弱肉強食はびこる時代だが優しい人も少なくなかった。手ぶらで遠足に行くとお菓子をくれる同級生もいた。そのことは単純に喜んでいたのに、バラックのことは必死に隠すのだから矛盾している。実際にはバレていたのだが。それでも楽しく暮らしていたのは優しい人たちに守られていたからである。今もそうかもしれない。
タグ:渋谷
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2018年02月10日

消え去る事実

仮に善を白、悪を黒とすると、国も会社も家族を含むあらゆる組織も灰色だ。そして個人も灰色。それらが白黒混じり合って複雑な社会を作っている。ドラマなら面白いが現実だから楽じゃない。どこに真実があるのだろう。

片隅で働く私でも在職中に2回、新聞の1面をにぎわす大事件の関係者になった。いずれも話題性抜群で何週間にもわたる大キャンペーンが続いた。1件は新聞中心、もう1件は週刊誌中心の報道と記憶している。

その経験の中で分かったことは、報道された内容の大部分は事実だが、肝心なところは殆ど抜けている。再発防止に一番役に立つ情報が心ならずも隠される。関係者は退職覚悟でなければ話せない。喋れば世の中の為には良いが身近な人に迷惑が及ぶ。そのうえ話した本人は失業だ。

在職中はいろいろな矛盾に向き合わなければならない。もっとも衝撃的だったのは仕事中に突然発狂した人を見たこと。私の上司で正義感の強い人だった。目つきが全く変わってしまい、何というか視線が中空を漂っている感じだ。意味不明なことを口走っていた。間もなく救急車が来て病院に連れ去られた。彼は陰で「世直し課長」と呼ばれていた。

業務移管で米軍から日本に引き継がれて間もない職場は、群雄割拠状態で混乱していた。この辺りは事件の核心なので記したいと思った。しかし実際に書き出してみると、それぞれの事件は余りにも複雑怪奇で書けない。たとえ書いても友人だった関係者に迷惑をかけるだけで終わるような気がしてきた。

このような思いは誰にもあると思う。誰もが矛盾した灰色の社会に属し、特殊な体験をしている。しかし表に出ることはない。多くの人は心の中にしまって墓場までもって行く。より良い社会を築くために貴重な情報が肉体の消滅と共に消えてしまう。実に勿体ない。ビッグデータを解析できるようになったのだから何とかして歴史に反映してほしい。
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2018年02月03日

天国の百万円アパート

マンションはアメリカでは一戸建ての豪邸の意味だと言う。ビル型の共同住宅ならワンフロア占有の豪華なものでなければマンションとは呼ばないそうだ。それでは、私の住んでいるマンションは何と言うのだろう?

コンドミニアムだそうだ。愚かな私はその方が高級と思っていた。芸能人などが「休暇はハワイのコンドミニアムで過ごします」とか言うからだ。近所の「佐藤マンション」などは、ボロボロで倒れそうな木造モルタル作りだ。アパートとマンションの違いはどこにあるのだろうか。いろいろ考えていたら昔のことを思い出した。

1953年、渋谷の宮益坂に11階建ての宮益坂ビルディングが建ち、分譲価格は百万円の豪華マンションとして評判になった。日本初の分譲マンションには今では考えられない従業員が配置されていた。それは青い制服に白手袋をしたエレベーターガールである。当時は「天国の百万円アパート」と呼ばれていた。

実はその「天国」に入ったことがある。そこはアイドル歌手の住む部屋だった。アルバイトで「ふすま」の張替えに行ったのだ。中学生だった妹が弁当の差し入れに来た。こんなことは初めてだ。アイドルの部屋を覗きに来たに違いない。あまり自慢にはならないが、私が貼り替えたふすまが芸能雑誌「週間明星」の片隅に載った。

アイドルが「お母さん、このふすまの柄はよくないですね」と言っていた。母子の背景には私が心を込めて張り替えたふすまが写っていた。一生に一度の珍事である。「今は幸せかい」を歌うたびに思い出す。このビルが渋谷のマンションの走りで、その後に建った安アパートは何々マンションというような名前が多くなった。

我家の前にも木造モルタル2階建ての「金一マンション」と言うような名のアパートが建った。マンションと言う名がなぜ定着したのだろうか。語源である英語では豪邸と知ってからは、マンションに住んでいると言いにくくなった。「日本語ではアパートよりも大型の共同住宅を表す一般名詞」とされているのにね。

その豪華マンションのエレベーターだが、職人やアルバイトなどは乗れない。それなのに間取りは6畳と4畳半の和室の2DK。何ともアンバランスなことだ。今の私はこんな狭い所にお金持ちが住んでいたのかと、思わず笑ってしまうのだ。

渋谷区宮益坂に建った日本初のマンションは建て替えのため取り壊されるそうだ。私が13歳のときに誕生した「天国の百万円アパート」は一足お先に天国に行く。あのような豪華な建造物が、私の寿命より短い使い捨てとは驚きだ。

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2018年01月27日

空白の22年間

幼児の私はどんな顔、そして少年の時はどうだったのだろうか? 写真は無いし、見せてくれる人も居ない。ただ零歳時の母子写真1枚だけは大切に持っている。私の存在を示す唯一の物証である。年をとるにつれ、それに続く空白の22年間が気になって来た。

23歳の頃だがアルバムを含む荷物を東京の人に預けて、遥か彼方の北海道へと旅立って行った。預けられた人にとっては迷惑千万な話である。東京の小さな建具屋さんの家で、1階は仕事部屋と夫婦が住む部屋、2階は子供部屋と貸間という間取りだった。暮らし向きは貧しく6畳一間の家賃6000円を生活費のたしにしていたようだ。

やっと定職に就いたばかりの時だが兄と二人で借り、3000円ずつ負担していた。私の月給は1万円余りだから食うのに精いっぱいだった。それなのに兄は部屋を出た。何の前触れもなくある日突然いなくなり何の連絡もない。もちろん家賃も払って行かない。

にっちもさっちも行かなくなり6畳一間の同僚の部屋に転がり込んだ。狭いので生活の為の最小限の荷物しか持ち込めない。他の荷物は大家さんに一時預かりをお願いした。

大家さんにしてみれば間借人が二人そろって、何の価値もない荷物を置いて出て行ってしまったのだ。おまけに預けっぱなしで何十年も何の連絡もない。一方私は目の前の生活に追われて、昔預けた荷物のことなどすっかり忘れていた。

職に就いて20年もたつと生活も安定し昔を懐かしむ余裕がでてきた。そして大家さんに預けたアルバムのことを思い出した。しかし一言の連絡もしないで長い間放置していた。今更ノコノコと行ける訳がない。第一住所氏名も電話番号も知らない。一生懸命探して見つけたとしても、荷物は処分されたかも知れない。

その後もアルバムを見たい思いは募るばかりだ。しかし探して見つかったとしても三日くらい楽しむだけだろう。無い物は貴重に見えるが、手にした途端に普通の物に変わってしまう。あれこれ想像していた方が楽しいかも知れない。

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