2019年08月17日

航空事故3-記者団が抗議

小説とかドラマが好きなのは、フィクションの中にしかない、真実に出会えるからである。一方、私が書くのは自分の曖昧な記憶と直接耳にしたことだけで、事実を示す裏付けが無い。それでも自分が思う真実を伝えたい。それでフィクションというオブラートに包んで語ることにした。根拠のない思い込みで人様に迷惑をかけることは避けたいと思う。

A空港での業務は何から何まで異常だった。一応、A市が管理する空港とはなっていたが、人的にも物的にも体制が整っていなかった。今なら有り得ないけれど、55年も昔のことだから仕方がない。1945年の敗戦で日本の航空業界は既に壊滅していて、再開したと言っても発展途上のヒヨコ程度だった。

元々この空港は緊急着陸に対応できない。故障した航空機が高度を取れなくなり、周囲の山脈を越えられなくなったのだ。当該機が陥った状態は草原に不時着するのに似ていた。ただ滑走路があることと何人かの係員が居ることだけが違っていた。

旅客機が緊急着陸すると言うのに、大きめの消火器を手押し車に載せて一人で滑走路に向かっている人を見た。まるで戦車に向かって竹槍を構えているような感じだ。胴体着陸に対応するには化学消防車が必要である。皆が想定外の出来事に遭遇して、右往左往していた。手に負えなくても何もせずには居られない心理状態に陥ったのである。

A空港出張所は鍵をかけて建物内立入禁止とした。もちろん忙しくて手が回らないことは確かだが、やましいことがなければ記者たちを中に入れても問題はない。見せるのも取材協力だが、見られたり聞かれたくないことがあるから鍵をかけて閉鎖したのである。

結局、正しい情報は東京が先に得ることになり、現地の記者たちは面目丸つぶれになった。後日、現地記者団が抗議のために出張所に押しかけた。そして口々に取材拒否はけしからんといった。

意外にも所長は平然としていた。そして大勢の記者を前にして「あなた方は出張所開設の時、挨拶に来ましたか」と逆質問した。記者たたちはキョトンとしていた。私も挨拶とはこの期に及んで何を言うのかと思った。しかし所長の言うことにも一理あった。

緊急事態で忙しい時は関係者とか記者とかは顔を見て判断している。顔を知らない人を記者と名乗るだけで入れる訳には行かないと、所長は言った。結局、お互いに連携を密にして緊急事態にも対処しようと言う前向きな話になってしまった。意外も意外、こんな言い訳がスンナリと通ってしまったのだ。

本当は事故の痕跡を消したり、口裏合わせなど、いろいろあったが伝聞だ。私が聞いた話が事実とは限らないので具体例を書くことは出来ない。記者団からは更なる追及はなかった。隠蔽の事実を裏付ける情報を持っていないのか、抗議活動が一定の効果を挙げたので良しとしたのか分からない。

大まかな事実関係は一応明らかになったが、具体的な隠ぺい行為は闇の中となった。以上は、今78歳の私が24歳の時、A空港着任二ヶ月の新人の時に遭遇した事故の記憶である。機長の冷静な対応で着陸後火災も起こさせずに死傷者ゼロ、まさに歴戦の機長(旧軍出身)の腕だけが頼りの緊急着陸だった。壊れた機体は後日、解体し撤去された。
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2019年08月10日

航空事故2-謎の鍵?

A空港出張所はたった6人、一応無線・通信・管制とか別れているが、清掃、除草、除雪、雑用等何でもこの6人でやらなければならない。この事故にも無い知恵絞って全力で対応した。役に立ったかどうかは別としてね。

警官に野次馬を着陸帯から退去してもらいメデタシ・メデタシとは行かなかった。管制塔に帰ろうとして、一階の事務所に入ったら、出張所員と知らない人が揉めていた。この所員は体格が好くて頭は短髪で、べらんめえ口調で話すヤクザ風の人だ。

「鍵かけてあったろ。どうやって入った」と、見知らぬ男を問い詰めている。
「開いてたよ。○○新聞の○○だ。事故の取材に来た。所長に伝えてくれ」
「俺が鍵をかけたんだ。開いてる筈はない。出て行け」
と言って記者を押し出してしまった。実はこれが後で問題になる。

「鍵かけたのにな〜」と所員は首をひねってブツブツ言っている。所長は気配りの行き届く人だった。こんな時こそ日頃お世話になっている航空会社にお返しをしなければならないと決心していた。良い意味でも悪い意味でも家族的、お世話したり、してもらったりの関係である。法令が介入する余地はない。それらは表向きの話と考えているようだ。

所長は会社の隠蔽工作に協力する決心をした。事故機は飛び続け、ニュースは全国に刻々と伝えられている。この時点での成り行きは流動的である。つまり隠蔽が成功するか失敗するか分からない。しかし、経験則では成功する確率が高い。全てが明らかにされるとしてもマスコミが騒いでいる今よりも、下火となった頃の方が良いとの判断である。

記者に対応した所員は所長の命令を素直に実行しただけ。所員は30歳近いが現地での新規採用だ。職を転々とした後で、この職に就いて1年もたっていない。こんな事故に遭ったら私同様、何も考えないで上司の判断に従うだけである。

ところで、新聞記者と所員が揉めていた鍵の問題だが、両方とも言い分は正しい。その時は気付かなかったが、鍵を開けたのは私だった。鍵は中からは簡単に開けらるが外からは鍵を持っていない限り開けられない。

言うまでもないことだが、所員が鍵をかけた → 私が外に出るために開けた → 記者が入って来た→ 私が帰った時に揉めていた、との順番である。この問題はA空港出張所の取材拒否問題としてマスコミから追及される切っ掛けとなった。
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2019年08月03日

初めての航空事故

1964年、A空港着任2ヵ月後、航空事故に遭遇。定期便が着陸に失敗し片側の車輪が破損、片車輪による胴体着陸を決行した。事故機は緊急着陸準備のため空港上空で旋回飛行を続けた。長時間の上空飛行で事故を知った沢山の野次馬が車でやってきた。この時代自家用車を持つ人は前任地東京では少しだけ、この地方の豊かさを知った。

大勢の野次馬は立ち入り禁止の着陸帯(安全のため設けられた滑走路周辺地域)に侵入した。管制塔に事故機から無線で要請があった。「危険だから着陸帯に入っている人達を退去させてください。片足で着陸するので滑走路を大きく外れます」。

なぜか、私が状況を知らせて立ち退かせる役目を命ぜられた。新人の私は管制塔に居ても何もできない。ようやく役目を与えられて張り切った。しかし、広大な着陸帯に散らばる大勢の群衆を退去させられる筈がない。愚かな私は、やってみて初めて分かった。

何百人のも野次馬に向かって声を振り絞って「危険ですから下がって下さい」と怒鳴っても何の反応もない。不思議な顔をして私を見る人がいるだけだ。「この人、気は確かかな?」と思われたらしい。無駄なことだが個別に説得を試みた。

「危険ですから下がってください」
「アンタ誰だよ」
「空港に勤務する管制官です」
「カンセイカンってなんだよ?」
「パイロットが緊急着陸するから危険だと言ってきたのです」
「危険なのは飛んでる方だろ」
「人が邪魔で着陸できないと、あなた方を退去させるように頼まれたのですよ」
「今、飛んでるじゃないか。話せるわけないぺ」
「とにかく、ここは立ち入り禁止です」
「もっと、前に沢山いるだろ。あいつらに言え」

私は普段着、制服も制帽もなくメガホンも、笛も持っていない。第一、訓練も受けていないし、こんな仕事は初めてだ。10人くらいに声をかけたが、クタクタになっただけ、一人も動いてくれなかった。このときは何かあったら私の責任と思って、必死になってやっていた。後で考えれば、本当にやるべきことは何らかの方法で警察に知らせることだ。

機長と交信しながら私に命じた先輩管制官も冷静さを失っている。機長の要請をそのまま見習管制官の私に伝えたのだ。交信は一緒に聴いているから分かる。電話もインターフォンも少人数では対応できない。すべては話し中だ。周囲はテンテコマイで何も機能していない。先輩は警官への伝令として私に命じたのかも知れない。私だってそのくらいの知恵はあるが、現場に行くと警官が一人も見えないのだ。

疲れ果てた頃、警官が何人か来た。ピーと警笛を吹いてメガホンで「ここは立ち入り禁止、あそこまで下がりなさい」といって、警棒で行先を示すと、近くの人達が下がり始め、その後はゾロゾロと付いて行った。警官は予め機長の要請を聞いているようだった。

警察に知らせるべき人は、私たちの他に、航空会社、市役所(A空港の管理者)、主な空港使用者である陸上自衛隊等いろいろある。そのうちのいくつかが機能したのだと思う。後で分かったことっだが、ドタバタして役に立たなかったのは私だけではなかった。

九割の関係者は役に立っていなかったと思う。それに緊急着陸の邪魔になった関係者も多かった。一例を挙げれば、街から駆けつけた消防車、滑走路の端で止まって着陸の妨げになっていた。消防車との通信手段がないので無免許の同僚が車を運転して退去させに行った。消防官は着陸した飛行機を後ろから追って消化するつもりだったと言う。

更に事態を拗らした人もいた。そもそもこの空港は人的にも物的にも緊急着陸を支援する体制はなかったのだ。以上は私の朧気な記憶に過ぎない。時の経過と共に記憶は薄くなり、それを補うように想像の部分が増えて行く。結局はフィクションとなってしまった。
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2019年07月27日

着任したばかりで転勤希望

訓練所でやるのは航空管制官の基礎試験、これに合格しないと現場に行けない。従って、真面目に勉強すれば、最終的には誰でも合格する筆記試験だ。難しいのは現場の実技試験に合格することである。私のように適性のない者にとっては特に難しい。

一番難しい。といってもA空港なら話は別である。仕事そのものが易しいからだ。だからノロマの私でも、何の不安もなく一発で合格した。しかし、合格しても仕事範囲は所属する空港に限定される。これが最大にして唯一の問題だった。

転勤したら新人として、そこで働くための資格を取らなければならない。ノロマの私は危機感を抱いた。管制官と言う仕事は運動選手と同じように適性9割努力1割である。私のような者がA空港に3年も居たら他所では使い物にならないくなる。職を転々とした挙句ようやく就いた安定職場だが、居場所がなくてはやって行けない。

ところで当時、指導的立場にいた先輩管制官は米空軍の訓練を受けてきた。出来が悪いと不適格と決めつけられ、第5空軍司令部経由で本省に連絡が行く。そして職種変更になる。米空軍の現場で認められた人たちだけが管制官になれたのだ。当然、仕事が苦手な人への評価は厳しい。口には出さないがエリミネイトすべきと考えている。eliminateを辞書で引けば、除去する、ふるい落とす、殺す、まである恐ろしい言葉だ。

先輩の苦労話は山ほど聞いていた。A空港にいては、いつまでたっても仕事が覚えられないと、心配になってきた。着任して半年もしないのに、40名の管制官が働くB管制所に転勤希望を出した。所属長に内緒で直接本省に意思を伝えたのだ。マナー違反の感じはするが、背に腹は代えられない。

当時の管制官は忙しい空港だけに配置されていた。A空港は数の上では、かなりの交通量だったが実態は違っていた。スピードの遅い軽飛行機が秩序正しく、整然と離着陸を繰り返す空港だった。空の交通整理を役割とする管制官の必要を感じさせない空港である。

陸上自衛隊の軽飛行機が交通量を押し上げていたのだ。離着陸訓練はタッチ・アンド・ゴーと呼ばれ、着陸したら、直ぐに離陸するので、1機で交通量は2、これが繰り返し実施される。しかも自衛隊と言う組織の中で規律を保ちながらの訓練である。

定期便は1日に3便程度と極めて少なかった。その時は情報を流すだけで、自衛隊機は自主的に離着コースから離れてくれる。仕事は楽だが新人としては凄く焦る。居れば居るほど本当の仕事が分からなくなって来るような気がするのだ。

定年までA空港に居られるのなら熱望するが、そんなことは有り得ない。転勤が遅くなれば年を取り、もともと遅い頭の回転が更に鈍くなる。一刻も早く現状から抜け出したかった。義理と人情を考える余裕はまったくなかった。全部で6人(管制官3人)と言う小さな職場では嫌われて当然だ。その時は、何でみんなでイジメるの、と思っていたけどね(笑)。
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2019年07月20日

訓練所から現場へ

航空管制官の一回目の公募は1954年だが、私の応募は、それから10年たった1964年のことだった。航空保安職員訓練所で新規採用者の名前を呼ばれたが、なかなか呼ばれない、少し心配になったが最後に呼ばれたときはホッとした。

卒業の時は最初に呼ばれたが成績順と思う。訓練所の勉強は、暗記が殆どだ。私はノロマだから覚えるのが遅い、その代わり忘れるのも遅いのだ。職を転々とした私は、何回か初任者訓練を受けたが、どこでも訓練中の成績だけが良くて現場に行ったら全くダメ。これを繰り返していた。身体能力が著しく劣っているのだ。音痴もその一つに過ぎない。

仕事の厳しさ、あるいは自信があるのか知らないが、羽田を希望する訓練生が多かった。私は最も不人気なA空港を希望した。人事担当者は「君の成績なら羽田にも行けるよ」と言いながら、ホッとした顔をしていた。不人気官署に、本人の希望に反して押し込むのは大変なのだ。私は愚かにも暇な空港で楽をすれば後で困るとは気付かなかった。

A空港からは「宿舎あり」との連絡が入ってホッとした。給料が安いので、自分でアパートを借りると月給の半分近く持って行かれる。生活費を相当切り詰めないとやって行けない。私に限らず社宅の有無は求職者にとっては最大の関心事だった。

A市に行くと、いろいろメチャクチャなのでビックリした。先ず物価が高い。東京ではラーメンを35円で食っていたのにA市では80円だ。トーフは一丁10円だったのにA市では40円だ。値引きが常識の家電製品は全て定価販売だった。話は戻るが、A空港に着任の挨拶に行った時はビックリした。宿舎があるという話が嘘であることが分かったのだ。

「ところで、宿舎どちらでしょうか?」
「新婚の人が居てね……」
「私が入る宿舎はあるんですか!」
「アンタ独身だろう。宿直室に泊まったらいいよ」

結局、規定の宿直手当ももらわないで、毎日宿直することになった。後で知ったが当時はよくある話。規則なんてあって無いようなもの。そんな状態で得する人も損する人もいる。一種の無政府状態だが、独特の決まりごとがあり何となく仕事はこなされれていた。

数人しか居ない小官署では規則通りやっていては、スムーズに行かないことは分かるけれど、私は馴染めなかった。それに暇過ぎて管制官としての仕事が身に付きそうもない。3年も居たら私のようなノロマは、完全に仕事が出来なくなる。そのことを恐れて札幌への転勤希望を出した。1年半くらいで転勤になったが、そのときもビックリすることがあった。

札幌に着任すると、遅いと言って叱られた。昨日までA空港で働いていたのに何故遅いと言うのか理解ができなかった。結局、A空港から何も聞いてないことが分かった。半世紀以上前のことだが、理不尽な目に遭うといつまでも覚えている。

実は転勤前にA空港でこんなことがあったのだ。
「〇ちゃんが東京から帰ってこないんだよ。帰ってくるまで働いてくれないか?」
「一日の発令ですからダメでしょ」
「いいんだ、いいんだ、発令があっても1ヶ月も来ないヤツもいるんだから。札幌にはちゃんと話しておくから大丈夫。発令日に合わせて慌てて行くヤツなんかいないよ。観光しながらノンビリ行ったらいいんだよ。アッチは40人、コッチは3人だよ。ドッチが困るか考えればわかるだろう。アンタは融通が利かないからダメなんだ」

汽車の旅は退屈なので、上司が仰るようにノンビリと酒を飲み飲み、風景を楽しみながら行った。札幌に着いたときは出来上がっていたが、訓練所で3ヵ月先輩の友人に電話をした。「あんた何処にいるんだ?」と、いきなり先輩の非難するような声。

「札幌駅……」
「直ぐに出頭しな、5日も遅れているのに何の連絡もないと心配しているから」
「汽車で飲みながら来たから酔っているんだ。明日出頭するつもりだ」
「ダメダメ、直ぐに行きな。俺まで文句言われてるんだ」

訳も分からないまま直ぐに事務所に行ったが、それが仇になった。今度来たヤツは凄い酒飲みだ。5日も遅れて来て着任の挨拶とか言っていたが、酒の匂いがプーンとして、顔が真っ赤っかだった。とか誤解されたが、やっとまともな職場に来たと安堵した。
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2019年07月13日

六本木ヒルズの原点

六本木ヒルズとか表参道ヒルズとか聞いても私には全く関係のない別世界の話と思っていた。森ビルは高さ330メートルの超高層ビルを建てる計画があり、2022年度の完成時には日本一高いビルになる見通しである。私が森ビルの一室で働いていたのは、4階建てで空調なしのビル。しかも屋上に建てたプレハブ小屋なので、夏はうだる様な暑さだった。

ウェブサイト森ビルの歴史の冒頭に「森ビルの歩みは、今の感覚から言えば比較的小さな、1棟のビル建設からはじまりました」と書いてある。1955年森不動産設立、最初に竣工したのが西新橋2森ビル、1956年のことである。零細な貸しビル会社と思っていたが、66年後には日本一の高層ビルを建てる会社になるのだから驚きだ。

西新橋2森ビルは後に第2森ビルと呼ばれるようになった。その後、森ビルは発展し続け2003年には六本木ヒルズオープン、2018年にMORI Building DIGITAL ART MUSEUM: EPSON teamLab Borderlessオープン となる。この辺りになると私にはサッパリ分からない。しかし、マスコミを賑わす大した不動産会社になったことは間違いない。

航空管制官として札幌管制部で働いていた頃、札幌に整備される予定の「航空路レーダー情報処理システム」の実験システムが出来た。我々田舎の管制官は東京まで見に行った。そこは立派な高層ビルなのでビックリした。第○○森ビルとかの名が付いていたが、ここでも私には全く関わりのない世界と思っていた。

思い返してみると、私が管制官になる前に働いていたのはインド通信であり、事務所は第2森ビルの中にあった。何となく気になるので念のため森ビル 歴史・沿革で検索すると、一番最初のページに私が働いていた第2森ビルの写真が載っていたのでビックリした。

とても懐かしい。6年間も職を転々として苦労が多かったが、ここだけは天国のような働き場所だった。「ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」と書かれていた。

1957年くらいの写真と思う。なんと古い長屋の隣だ。私が勤め始めた1961年でも近所に長屋が残されていた。このあたり一帯は空襲に遭わなかったようだ。4階建てのビルの屋上にプレハブ小屋が建っていて、インド通信を含め3社が入っていた。空調が無いから夏は猛烈に暑かった。

森ビルは屋上にプレハブを建てたりして、地味な商売をしていたが、今は六本木ヒルズ等多数の高層ビルを持つ大不動産会社になっている。ウェブサイト森ビルには「国際的に評価される品質を提供することで外国企業を多くテナントに迎える、という森ビルのオフィス事業の特色も、この賃貸ビル第1号から始まっていました」と記されていた。

偶然にも私は、この賃貸ビル第1号で働いていたことになる。そのことを58年後に知った。大したことではないが無職の爺さんとしては、好い思い出を掘り起こした気分だ。今度は何が出てくのかな。ブログを書くのが次第に楽しみになって来た。
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2019年07月06日

運が一番努力は二番

中卒以来職を転々として6年もたつと、自分がいかに肉体労働に向かないか分かって来る。職業安定所に行って、給料は安くてもいいから楽な仕事を、と言ったら「楽な仕事なんてない!」と一蹴された。本当はあるのに一々相談に乗るのが面倒なのだ。

ところで、兄の紹介で凄く楽な仕事にありつけた。別に好意からではない。学生だった兄が高い時給のアルバイトに移る為に、私を後釜に据えたのが「インド通信東京支局」だった。

私は英語を使いものになるまで勉強して、苦手な肉体労働から脱出する夢を描いていた。学校に行く金はないから勉強は一人でするつもりだ。仕事は留守番と簡単な配達だけだから信じられないほど楽だった。この状況なら出来るとヤル気もりもり湧いてきた。

インド人の支局長は取材のため出歩き、顔を合わすことは少ない。一人勤務だから時間を自由に使える。気疲れしないし、時間を有効に使える、それに食べるもの以外に金を使う必要がない。その結果、金が貯まれば夜間の英語学校にも行けるだろう。

21歳になっていたけれど勉強するには遅いとか考えたこともなかった。別に大したものになりたい訳ではなく、食えればいいのだ。インド通信のアルバイトでは、先の保証はないし健康保険もない。何とかして定職につかなければならない。

仕事は数か所の配達と留守番だけで月収1万5千円だ。休みはないけれど行く所がないから要らない。一人だから好きなことが出来る。全ての時間を就職試験勉強に使った。お金をもらって広い個室を得たようなものだ。自由に使えるタイプライターまである。

配達は都電に乗って新橋(NHK)、有楽町(朝日新聞)、九段坂(インド大使館)、霞が関(外務省)とまわるだけだから、1時間もあれば充分だ。配達時は単語カードを持って単語を暗記することにした。都電は学生が乗ると満車状態だが立ってても出来る。

事務所の仕事はテレタイプ情報を受けて整理するだけ、電話も客も滅多に来ない。支局長でさえ毎日は来ないし、来ても直ぐに取材に出かけることが多い。机に向かって受験勉強をしていれば、仕事をしているように見える。それが英語の勉強と分かっても、支局長は仕事の為と誤解してくれる。インドでは月収1万5千円は高給取りだそうだ。

有楽町と聞いて思い出すのは、ビルのほとりのティー・ルーム。そこでとった昼食代わりのホットケーキとミルク。美味しくて安いのが気に入って、毎日のように食べていた。中卒以来苦節6年、世の中にこんな楽な仕事があるとは夢にも思わなかった。

楽な仕事は探しても見つからない。運が全てと思う。兄がしていたアルバイトだから詳しい事情を知っていた。だからやる気にになったのだ。使用者は英語しか通じないインド人、一人勤務で休みなしと聞いただけで怖気づく。しかしその実態は、留守番と配達だけだから英語はカタコトで充分だ。人は運さえ好ければ生きられるし、その逆もある。
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2019年06月29日

数字の発音(航空無線)

ノロマだから現場の仕事は苦手だが、管制業務については興味深く感じていた。失業者の私を救ってくれたのが、この仕事だった。当時、航空管制官は問題のある職種として話題になっていた。殆どはマイナスイメージである。責任の割に給料が安いという報道が多かった。ある雑誌にはボロ服を着て管制塔に勤務する惨めな姿も載っていた。

不人気なのが何よりだ。就職のためには絶好のチャンスと思った。職を転々としたが虚弱体質の私にとって肉体労働ほど辛いものはなかった。断って置くが、汗をかいて終わる程度の労働は大好きだ。働いた後のビール程うまいものはないし、好く眠れるので充実感さえ得られる。もし私に人並みの体力があれば転職など考えなかったと思う。

精一杯力を出しているのに、もっと出さなければならない状況が辛いのだ。同僚が軽々持ち上げているものを担げないのも情けないしね。努力しても乗り越えられないものがあることを知るのに数年もかかってしまった。世間は教科書に書いてあるほど甘くない。とにかく辛い肉体労働から解放されるのが唯一の目標となった。

不人気職種にオリンピック景気が重なるという、社会情勢に助けられて航空管制官に採用された。そこは面白いというか、風変わりな英語を使う世界だった。例えば、世界中のパイロットや管制官が使うように定められているフォネティックコードがある。そこで数字の発音に発音記号でなく異なる英単語を使っているのが面白かった。

1 oneはWUN ワン、どういう意味か分からない。とにかく発音はWUN。
2 twoはTOO トゥー、両方とも発音は同じと思うが分かり易い。
3 threeはTREE トゥリー、「th」の発音は苦手だが国際的にも問題なのかな?
4 fourはFOW-er フォウアー、大文字にアクセント。
5 fiveはFIFE ファイフ 、濁らない方がクリアに聞こえるのだろうか?
6 sixはSIX シックスで発音は同じが、人によりSEXと聞こえるのは気のせいか?
7 sevenはSEV-en セブン
8 eightはAIT エイト、意味は分からないが確かにエイト、「gh」は要らない。
9 nineはNIN-er ナイナー、判別し易く聴き易い。
000 thousandはTOU-SAND タウザンド、国際的にも「th」は嫌われている?

「英語表記は読み方を表すもので、つづりは通常の英語と変わりません。また、カタカナ表記は分かりやすく似せたもので、正しい発音とは若干異なる場合があります」との注意書きがついていた。記憶を呼び戻すためネット情報を参考にした。蛇足になるが、英語を知らない私の感想も付け加えてみた。 

ノロマなので現場の仕事は苦手だった。退職したら一日も早く忘れたいと思っていたので、沈黙していた。10年たったら懐かしくなり、ある出来事がきっかけで喋りはじめた。時間がたっても記憶は残るが嫌な思いは消えてしまう。そして懐かしさだけが残っている。

記憶−嫌なこと=懐かしさ。今となっては全て懐かしく、思い出しては楽しんでいる。これが老人というものかな? もしそうならば老人生活は楽しい。おまけに金もかからない。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』通話表
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2019年06月22日

泣き虫ガキ大将

小学2年くらいの時、ガキ大将はペンキ屋の息子、タケちゃんだった。メンバーは10人ぐらいと思うが、近所の小学生全員がタケちゃんの引率で学校に通っていた。放課後遊ぶのも一緒、そして小生意気なアオガクのガキどもを苛めるのも一緒だったのである。

アオガクとは青山学院初等部の生徒のこと。われわれ公立小学校生徒はヨレヨレでマチマチのボロ服なのに、彼らはパリッとした制服制帽姿だ。給食に焼きリンゴが出るそうだ。彼らの親は金持ちなのに、私らの親は職人と商人ばかりだ。オマケに私のような貧乏人も少なくない。地元の子供たちは羨ましさを吹き飛ばすはけ口を求めていた。

アオガクは颯爽とした制服姿で、我が町内を何の遠慮もなく通る。ただ通学しているだけだが地元の子供たちにはそう見える。だから苛めたのだ。「お前らここを何処の校区だと思っているんだ」とか言って因縁をつける。

渋谷区の学校では校区内で遊ぶように注意する。だから小学生は校区を自分の縄張りのように思っている。私立の学校には関係ないけれど、言いがかりだから正当な理由など必要がない。アオガクの生徒は物も言わずに逃げて行く、それを地元の子供が追いかける。少しだけ追いかけて喜んでいるだけで、決して暴力を振るったりはしない。

ある日突然状況が変わった。「お前らどこの校区……」とか言いかけると、「文句あるか!」とデカい声、見ると、ガキ大将のタケちゃんが押されて転がされ、仰向けになって倒れている。相手は今まで見たことがない、相撲取りみたいな体格のアオガク生徒だった。苛められた生徒が用心棒を頼んだに違いない。お金持ちには敵わない。以後、地元の子等はアオガク生徒に対する苛めを止めた。恐れおののいてしまったのだ。

苛めと言っても追いかけるだけで暴力を振るう訳ではない。仕返しと言っても押したら倒れただけだ。ただ力の差があり過ぎて悲惨な結果になってしまった。タケちゃんはシクシク泣いて立ち上がれなかった。彼は唯一の最上級生としてガキ大将となった。年功序列でなったのだから実力もなく意気地がない。それでもタケちゃんを中心にして行動していたから不思議だ。戦時中に空襲を警戒するために実施された集団登校の名残と思う。
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2019年06月15日

取り越し苦労の種は尽きない

人には言えない私の自慢、身体は弱いが、ひとつだけ強い所がある。それは何処かは言えない。拷問するぞ、と脅かされば、土下座して「すみません。嘘をつきました。許してください」と言う。お前に強い所などある筈ないと納得してもらえるだろう。

だけど私には人並み外れて強い箇所があるのは事実だ。しかし口には出せない。もちろん書くこともできない。黙って一緒に墓場に入るつもりだ。私自身のことだからね。

言えば聞いた人が気味が悪いと思うから言わない。だけど本当は、とても良いことなので自慢したい。言いたくてウズウズしているけれど、沈黙は金。毎日のように迷っているけど結論は沈黙。老後をのんびり暮らしたいなら、言わぬが花。

誰もが持っている、人には言えない自慢話、誰も言わないから、決して表に出ることもない。こんな話をしても共感してもらえないし、嫌悪感を与えてしまうかも知れないと心配する。こうして、決して明かすことができない密かな自慢が、個々の身体の中で育って行く。

こんな自慢話が心の中から溢れ出たのが小説と思っている。私は教養も知識もないのに考えることが大好きだ。世の中のすべてを自分が分かる範囲で一生懸命、しかも面白半分で考える。小説やドラマにに出てくる、強い人も勇気ある人も、立派な人も純粋な人も、情け深い人も極悪人も、すべては著者の自慢のような気がする。

自分の代わりに架空の人物に自慢させているのだ。それなのに私は、テレビドラマを観て感動のあまり泣いている。同時に目薬を差したばかりなのに涙と一緒に流して勿体ないと嘆き、もう一度指し直すべきかと思案している。昔に遡れば、こんな私にも心の底から好きな人がいた。口が裂けても言えない自慢話である。

たまに、からかい半分で「中波さんでも好きな人居たでしょ」とか聞かれる。「ハゲで音痴なのに居るわけないでしょ」と言うと、不本意ながら納得されてしまう。生まれつきハゲでもないし、音痴なんか歌わなければ分からないのに、なんでアッサリ納得するのだ!

そんなに素直に頷いて欲しくないという気持ちと、話さなずに済んで良かったという気持が、私の心の中で対立して争っている。だから何も言えない。沈黙は金、私の心の中で金がドンドン溜まって行く。溜まりに溜まって暴発したら大変だ。そこらじゅう金だらけになってしまい、後の掃除が大変だ。幾つになっても取り越し苦労の種は尽きない。
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2019年06月08日

ネコは怖いよ

終戦後3年、私は8歳ぐらいの頃と思う。養父が肺病に罹り生活がどん底に落ちた。貰い物を食べたりして一家6人がかろうじて飢えをしのぐ有様だった。そんな時に、横浜で飼っていたタマがやって来た。3年前に引っ越したときに残してきた飼い猫である。

こんな遠くまで来るとは驚きだ。今なら母が気まぐれで、似たような猫を拾って来たと疑う。しかし、子供の私は母を信じ、猫は超能力のある恐ろしい動物と恐れた。

ともかく食うや食わずの我が家では猫を飼う余裕は無い。三日もたてば、行き当たりばったりの母でも、そのことに気が付く。そして、兄に捨てて来るように命じたが、一人で行く度胸はない。12歳の長男を頭に兄弟三人で捨てに行った。

思いついたのは家の近くにある青山学院の広大な敷地。豊かな学生・生徒が通うキリスト教系の学校だからエサぐらい与えてくれるだろうと考えた。出入口から一番遠い所まで塀に沿って歩き、投げ入れて帰って来た。小学校から大学まである広大な敷地が塀に囲まれている。ここなら大丈夫と一仕事終わった気分でホッとした。

ところがタマは、翌日には家に帰って来たのでビックリ! 超能力があるような気がして気味が悪かった。化け猫の話はよく聞くし、横浜から我が家の場所を探り当てたタマだから、全てを理解しているように感じるのだ。当然、捨てた私たちを恨むだろう。

猫を恐れた三兄弟は、タマが遠くで幸せに生きる方法を一生懸命考えた。電車は使えないので渋谷川に流すしかない。しかも、タマの安全を第一に考えなければならない。

三人の結論は船を作って流すことになった。遠くにたどり着いて誰かに飼って欲しいのだ。未知の飼い主宛に手紙を入れて置こう。近くでタマが船から脱出して、泳いで岸に着くかもしれない。屋根を作って人の助けがないと出られないようにしよう。遠くまで行くのだからエサを入れて置こう。

いろいろ考えたが、実行の目途は立たない。そもそも、渋谷区がが史上初めて遭遇する飢餓の時代で餓死者が続出し、我が家もその渦中にあった。ネコのエサどころか、自分たちの食い物も無く途方に暮れていたのだ。

何時の間にかタマは居なくなっていた。エサの在る所に行ったのだろう。今は中島公園の近くに住んでいるが、カモもハトも、皆そうしている。ヒトを含めた動物はエサのある所まで移動する。見つけるまで移動する。そして見つけることが出来なければお仕舞だ。
タグ:渋谷
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2019年06月01日

インタビューの思い出

最近の新聞を読むと、JR札幌駅周辺の再開発が進み、北側が発展して南側が停滞しているように見える。ものは考えようで、札幌を南北に分けると、未来の北、歴史ある南が見えて来る。南側には古い建物も残されているし、多くの神社、寺がある。200万都市札幌が未来の街と歴史の街として、それぞれの特徴を生かして発展することを願っている。

ところで、在職中は真面目と思われていた。職場ではノロマで口の回らない人は嫌われる。チームワークだから当然だ。一方、仕事には決まりごとが山ほどあるから、よく知っている人も必要である。コロコロ変わる方式・規定類を覚えるのは大変なのだ。

ノロマの私は、規定類を真面目に覚えることで存在感を示そうとした。勉強と言っても、その場その場に必要なもので、将来役立つわけでもない。ホントに真面目は楽じゃない。だが9年間も職を転々として、やっと見つけた職は辞められない。ひたすら定年退職だけを楽しみにして懸命に働いた。退職して自由になると街を歩いているだけでも楽しかった。

「面白い所ありますよ」と若者が声をかけてくれた。
「買い物に行くところですから」
「〇〇〇、買いませんか?」
「牛乳を買いに行くんです」
「お乳も出ますよ」
幸せになった私は客引きにも真面目に応えた。実は近くに格安牛乳を売る店がある。

2003年にホームページ「中島パフェ」を開設した。その後、引っ込み思案の私が、「オレがオレが」に変わって行った。私は自由、もう引っ込む必要も思案することも無いのだ。そんな時代が10年続き、そこを頂点にしてホームページも自分も下り坂となる。

頂点気分で収録したのが札幌人図鑑、改めて聴くと恥ずかしいけれど懐かしい。滑舌も悪く口も回らないのに、臆面もなくよく喋ったものだ。当時は「中島公園教信者」の気持ちになっていた。喋れば喋るほど功徳になると信じていたのだ。愚かなりわが心。
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1.変遷を重ねた中島公園 2.中島パフェ物語 3.札幌市を縦軸と横軸で

インタビュアーの福津京子さんは冒頭で次のように紹介してくれた。「札幌人図鑑第200回で上田市長が話す『札幌の1年を大通公園で紹介できる・・』エピソードを聞き、札幌の街並を縦軸でも見て欲しいと語ります」。私が日頃から考えていることなので感謝!

収録の最初に札幌人図鑑の歌を福津さんと一緒に歌うのだが、短いとはいえ音痴の私が何とか歌えたのは所属するカラオケクラブのお陰と、これも感謝!

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2019年05月25日

水に流して欲しいのに

午後の散歩から帰ると、二人の見知らぬ作業員が来ていた。下の階で水漏れがしたので調べに来ていると言った。管理人から事前連絡がないので、テレビ報道でよくある不要工事詐欺かと思った。水漏れ調査は壁の中を観るカメラまで使って入念に行われた。

結局、漏水箇所は不明で調査は翌日まで続くことになった。その日は私が所属するシニア団体の交流会があり出席する予定だ。調査に立ち会う必要もないだろうと思ったが、これが大間違い。この問題はかなり複雑だった。

家では調査中だが全てを忘れて交流会を楽しむことにした。しかし気になって仕方がない。話題はなぜか漏水事故になってしまう。交流会に相応しくないから口にしない方がいいだろう。そうは思っても階下の水漏れが気になり上の空。

何時の間にか回転テーブルから料理をとるためのフォーrクを使って食べていた。気が付いてフォークを取りに行ったのはいいのだが、懐かしい人に会ったので少し話し込んでしまった。皆さんをお待たせして申し訳ないことをした。心ここにあらずの状態は続く。

水漏れ調査が気になる。壁に穴をあけて中の写真を胃カメラみたいのを使って調べていた。10時間もかかっても水漏れ箇所は不明。今頃二日目の調査に入っているはずだ。そう思うとビールを飲んだ赤い顔しては帰れない。オレンジジュースに切り替えた。

会場では何時も面白い話をしてくれるゲストの先生が、要請に応じて、為になる話をしてくれている。私たちは生まれただけで奇跡と話していた。そう思うと隣の人も奇跡の人に見えて来た。とにかく、さまざまなタイミングが重なり合った「奇跡」の結果だそうだ。人間は奇跡で始まり、終わったら鬼籍なんだ。覚えがないのに起こる水漏れも奇跡かも知れない。

話を聞いていても、水漏れが気にかかる。調査は延々と続きそうだが、費用は誰が払うのだろうか。調査員の人数は延べ6名、しかも残業付きだ。半端じゃないと思う。普通、依頼した人が費用を持つのだが、私から依頼はしていない。調査すると言うので協力しただけ。水漏れ箇所は10時間調べても分からない。延々と続くかも知れない。

会場ではビンゴが始まり番号の照合に専念した。しばらくするとビンゴになり賞品を取りにいった。係りの人がそれぞれ紙袋を持って立っていて、好きなものを取って下さいと言った。適当な紙袋を取ろうとすると、この中から取ってと言われて見ると沢山の小袋が入っていた。やっとその中の一つと理解した。今日は何をやっても上の空。水漏れ問題は何処にいても頭から離れない。いい加減に水に流したいのに。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75歳以上)

2019年05月18日

Dさんがうるさい

不思議なことに、子供の時の方が死を身近に感じ怖かった。高齢になったら余り考えなくなった。この傾向は年を重ねるにしたがって強くなった。今は何事も起こらないような気がして呑気に暮らしている。だから何の覚悟もしていない。子供どころか幼児と同じだ。そう思うと、何だか国からオッパイをもらって生きているような気がしてきた。

家では誰かさん(以下、Dさん)の尻の下でぬくぬくと、何不自由なく暮らしている。こんなことで良い筈がない。何時かとんでもない試練に遭うだろう。そういえば最近は水を飲みそこなって息がつまり、呼吸ができなくなったことがある。

このままでは死んでしまうと大騒ぎ、先ず咳き込む真似をしたが上手く行かないので、大声を出して怒鳴ったりしてみた。空気を通すつもりだったが、Dさんがビックリした飛び込んできた。のたうち回ったら息が出来てホッとした。時間薬が効いたのかも知れない。

これで一安心だが、病院で診てもらえとDさんがうるさい。念のため耳鼻咽喉科で検査したら、異常なし。「息が出来ないと思ったら、鼻で少しずつ吸い込んでみなさい」と助言してくれた。次に息が出来なくなった時やってみると、息が少しずつ通った。大成功!

また食事中に突然、息が出来なくなった。Dさんは背中を叩こうとする。それを制して、ジッとして静かに鼻で空気を吸う、しばらくすると正常に戻った。非常時の対処法が分かったので、一件落着。しかし、Dさんは病院に行って診てもらえと言う。

何回も言われて面倒なので、以前に行った病院とは違う耳鼻咽喉科に行った。セカンドオピニオンで、この問題を打ち止めにしてもらうためである。予想通りここでも検査は合格、「フラツキがあるようなら神経内科で診てもらいなさい」と言ってくれた。黙っていればよかったのに、バカな私はそのまま報告。今度は神経内科に行けと、Dさんがうるさい。

私は78歳と6ヵ月、体は少しずつ壊れて行くものと思っている。少しずつがいいのだ。急に壊れて欲しくない。壊れるに従い、少しずつ寝る時間が多くなり、目が覚めなくなったらお仕舞と考えている。しかし、Dさんは病院に行って治してもらえと言う。治ればいいのだが難しいと思う。こんな私を治すには不老長寿の薬が必要だから。

「Dさんって誰?」
「誰かさんです」
「誰かさんって誰?」
「Dさんです」
「そりゃそうだよね」
Dさんは大抵のことには頷いてくれるのに、病院に行けとうるさい。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75歳以上)

2019年05月11日

私の一番長い日(後編)

私の入院第一夜は素晴らしい個室で始まった。酸素吸入の可能性があると言うことで個室が割り当てられたのだ。病状は特に息苦しくもないので嬉しかった。午前の点滴が終わると、妻に持ってこさせたパソコン等の荷物を使いやすいようにセッティングした。

身体はきつかったが、こうしていると夢がドンドン膨らんできて楽しい。まるでホテルにカンヅメにされた締め切り前の人気作家のような気分だ。すっかり空想モードに入ってしまった。ドアをノックする音が聞こえる。「おやっ、編集者かな?」と、一瞬の勘違い。

先ほどの看護師さんだ。言いにくそうに、アレコレ話していたが、けっきょくは「酸素が必要な人が来たので、直ぐに出て欲しい」と、いうことだ。何たることだ! 太鼓判を押したばかりではないか。しかし、命に関わることに変更はあり得ない。諦めるより仕方がなかった。

夢はあえなく萎み、忙しさに拍車がかかった。とにかく移動準備だ。広い個室に散らばった荷物を一ヶ所にまとめると、昼食の時間もない。食欲もないけれど、なんとも忙しくてやりきれない。大急ぎで6人部屋へ移ったが疲れ切ってヘトヘトだ。

増えてしまった荷物でベッドのまわりは足の踏み場もない。ともかく、隣の人に挨拶をした、「はじめまして、よろしくお願いします」と簡単にすますと、
「宍戸譲二です。84歳です」と、丁寧に応じられたのでやり直し。
「中波三郎。67歳です。風邪をひいてこの病院に来たら検査して、即入院となりました」
「そうですかぁ。お客さん少ないからね〜」
「……?」

昨日の院長先生のセリフ、「直ぐに入院。外出はいいよ」を思い出した。肺炎と言って見せてくれたあのCT写真の白い影は、加工したのだろうか。画像処理ソフトの「ぼかしツール」を使えば私でも出来る。一瞬、こんな疑問が頭をよぎった。

もうクタクタのヘトヘトだ。午後の点滴をしながら眠ってしまった。目が覚めると17時。入院しても忙しいのに、点滴の落ちる速度がやけに遅い。20時からは地元のFMラジオに出なければならない。時間が気になってイライラした。

胸もムカムカした。点滴が終わると18時になってしまった。食欲が全くないのだ。食後の薬の為、少しだけ食べてみたが味が無い。砂を噛むよなとは、こんなことかと思った。とにかく、地下鉄中島公園駅から地下鉄に乗って、放送30分前の19時30分までに円山のスタジオに行かなければならない。ケチな私はタクシーの利用を思いつかなかった。

やっとの思いで受け持ちの放送を終わらせて家に着くと22時、やることがいっぱいある。電話連絡は病院に帰ってからでも出来るが、メールはネットが使える今夜の内にしなければならない。とにかく破らなければならない約束が山ほどある。外出許可を受けているのに、時間がないと焦っている。判断力が鈍っているのだ。「入院するから行けない」とだけ書いて送るのが精一杯と思った。いろいろ気にはなるのだが疲れて寝込んでしまった。

目が覚めたら夜中の3時、とにかくメールを出さなければならない。なにぶん前触れ無しの入院だから簡単な説明が必要だろう。しかし、どこの誰に何を書くかがまとまらない。考える時間はないので、所属している団体500人宛てのメーリングリストに流してしまった。こうして長い長い一日が、日にちをまたいで終わった。

役目があって毎日のように出番と締め切りがある暮らしは有意義で楽しい。体内には義務感の虫とハシャギ過ぎの虫が同居している。普段は別々に動いているからいいのだが、義務感虫とハシャギ虫が一緒になって動くと大変だ。ハシャギ虫には理性がない。こんな時は倒れる。今はノンビリと穏やかに暮らすように心がけている。朝起きると気分は良好、幸せ感いっぱいだ。ただし腰と頭が痛くなくて咳が出なければね。
posted by 中波三郎 at 16:53| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年05月04日

私の一番長い日(前編)

今はノンビリ暮らしているが、60代はいろいろあった。ああ、くたびれた。2008年2月14日は波乱万丈。「短編ドラマ」のような一日だった。なんでこんなことになってしまったのだろう。13日夕方、中島公園近くの病院での話である。

「今すぐ入院ですか。それは困ります。明後日ではダメですか?」
「直ぐ入院して下さい。外出はしてもいいですよ」
即入院の緊急性と、「外出はしてもですよ」というおおらかさ。この落差は一体なんだろう。私にはピンとこなかった。

ともかく、パソコンや電話で連絡しなければいけないことが山ほどある。外出できれば家に帰れるので全てを処理できるのでホッとした。この時は、明日が私にとって「いちばん長い日」になるとは夢にも思わなかった。

運命の2月14日の朝はバス・トイレ付きの個室で始まった。まるでホテルのシングルルームのようだ。広さも調度品も充分である。うるさい同居人の居る我家より快適だ。

当時は退職して自由の身になったばかりだったので張り切っていた。恥ずかしいから書かないが何でも手を出した。つまり毎日のように出番と締め切りがあったのだ。ジッとはしていられない。突然の入院について多数の関係者に知らせなければならない。メールの下書きを手帳に書いていると何か音がする。ドアがノックされているようだ。

「おはようございます。担当のA(看護師)です。酸素吸入の可能性があるので個室に入ってもらいました。何か心配なことはありませんか?」
「吸入が必要でなくなったら、この部屋追い出されるのですか?」 
一番気になることを聞いた。
「どうぞ退院まで使って下さい。部屋割りは私の責任でやっています」
頼もしい看護師さんだ。

太鼓判を押されて一挙に夢が膨らんだ。「よ〜し、ここを書斎にしてバンバン書いたるぞ」。病気で入院していることなど忘れて、気分も上々だった。さっそく、妻に電話してパソコンとか持ってきて欲しい物をアレコレお願いした。ブツブツ言っていたが、何とか説得する。

朝の9時から11時までの2時間は点滴中だった。妻が来て頼んだ荷物を置くと「寂しくなければ帰るからね」と言うなり私の返事を待つことなく、さっさと出て行ってしまった。まもなくデパートの開店時間である。なるほどと思ったが、これが「一番長い日」の始まりになるとは夢にも思わなかった。

後編へ続く、更新は5月11日(土)、よろしくお願いします!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年04月27日

苦い思い出

捕鯨問題で国際的に揉めている。反捕鯨国の反対意見は理解できないことも多い。しかし、反対意見が圧倒的に多いのなら獲らなければいいと思う。不味いから食いたくないのだ。これは小学校の給食で嫌々クジラを食った私の偏見。美味しいクジラ肉を食べれば一瞬で変わると思う。何処かで安くて旨い鯨肉を食べたい。

クジラでは苦労したが、給食の苦労と言えば小学時代のA君を思い出す。1950年代と言う遠い昔だが、A君は何故か服は着っぱなし、風呂も入っていない感じだ。ちょっと不潔な感じのA君が給食当番になった。

その頃の清潔・不潔は各家庭の経済状態に起因していたので、A君に清潔にしろと言っても無理。金が無くては銭湯にも行けないし、貧乏暇なしだから、命に直接影響のない洗濯は後回しになる。ところでA君の鼻は寒さと温かい料理に反応して、シチューの入ったバケツの中に鼻水を落としてしまった。寒い冬だったからね。

それを見た女生徒の一人が「私、食べない!」というと、女生徒全員が食べないと言い出した。私はシメタと思い大喜び。もちろん腹いっぱい食べた。同じ思いの男子生徒は少なくない。たちまちバケツは空っぽになった。

鼻水落としたA君はホッとしていたが、すきっ腹かかえて、給食食べ損ねた女生徒たちの心中は穏やかでなかったと思う。今と違って都会の食糧事情は最悪だった。栄養の大部分を給食に頼っている生徒も少なくなかった。

鼻水なんかかき混ぜれば何のこともない。食べたい女生徒も沢山居たと思う。しかし乙女心は悲しいものだ。見栄の張り合いで食べるとは、どうしても言えなかったのだと思う。

この「給食食べない事件」の主役は二人。この二人さえ居なければ多くの女子生徒が空腹の苦しみを味わわずにすんだのだ。一人は「私食べない」と言ったお金持ちのお嬢さん、もう一人は食べ終わると直ぐに、空の食器を持ってバケツに向かって突進した私だ。

空前の大空襲に遭って77%を焼き尽くされた渋谷区は、戦災の爪痕が5年たっても残っていた。逆に貧富の格差は拡大していた。お嬢さんは黙って食べなければ好かったのだ。私はしばらく様子を見るべきだった。そうすれば「事件」には発展しなかった。いつも人の後から行動する私が、この時ばかりは迅速に動いた。苦い思い出である。
タグ:渋谷
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2019年04月20日

幸せは外にある

2007年10月の中島公園は「サクラマス遡上騒動」で大喜びだった。こんな話は聞いたことがないし、二度と起こらないだろう。現にあれから12年たつのに起こる気配もない。遡上なら川を上るはずなのに下ってきている。それでも皆喜んでいた。
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中島公園に現れたサクラマス。

しかし、サクラマスの死骸をカラスが突っつくのを見かけるようになってからは人々の反応は変わってきた。このまま放置してはまずいのではないかと。
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10月に入るとサクラマスの死骸があちこちで見られるようになった。

滅多にない珍事なので「鴨々川に迷い込んだサクラマス」について一部始終をウェブサイトに記録した。それはさておき、取材中に悔しいこと楽しいこと、いろいろあった。

サクラマスを驚かさないように、そおっと写真を撮っていると、後ろから声がする。
「あ〜、だめだめ。 もっと姿勢を低くしないと」
振り向くと年配だが、かなりお洒落な女性が立っている。二コリともしないで見ず知らずの私に上から目線で指示するのだ。文字通り上からね。

「私、写真屋に勤めていたのよ。カメラ持ってこなくて残念だわ。低くしないと水面が反射して写らないよ。腰が高すぎるよ、もっと低く!」
こちらはモニターを見ながら撮っているので、反射しているかどうかは言われなくても分かるのだ。それでも彼女は指示を連発する。もしかして私は奴隷オーラを発散させていたのかも知れない。だから人様は私の動作を見ると何か命じたくなるのだ。

「もっと低く、水面ギリギリで撮るのよ」
無茶を言っちゃー困る。そんなことできる訳がない。身体は固いし腰痛持ちだ。しょうがない。終わったフリして立ち上がることにした。

「あら、もう帰るの?」
”あなたがいたのでは落ち着いて写真も撮れません”と言いたいのはやまやまだが、口から出さずに飲み込んだ。

「いろいろご指導ありがとうございます。きっといい写真が撮れていると思いますよ。こちらがホームページのアドレスです」と言って名刺型のチラシを渡す。どんなに悔しくても、これだけは忘れない。当時はアクセスもバンバンやる気モリモリ、宣伝活動に余念がなかった。あのころ私は若かった。気持ちだけね。

「そ〜ぉ。これからなのにぃ」
しばらく木の陰に隠れて、彼女が立ち去るのを見届けることにした。

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サクラマスが来た地下鉄幌平橋近くの鴨々川。足元のサクラマスを撮る人。

「さあ、撮るぞ!」と再び川に近づくと、今度は違うおばさん。
サクラマスをじっと見て「美味しそうだね」と一言。
「食べちゃダメだよ」
とモンクを言ってやった。江戸の敵を長崎で討つ!
「食べられないよ〜。 私、獲れないから〜。 ワハハハハハ、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、あ〜疲れた」
サクラマスはなかなか撮れなかったけれど、思いがけず笑いが取れてしまった。
しかも極めて簡単に。笑う門には福来る、先ほどの嫌な気分は吹っ飛んだ。

家に帰ってつぶやく。 
「大笑いすると気持ちがいいかも知れなせんね」
「そんなこと出来るわけないでしょ」
疲れるまで笑ってくれる、あの人を思い出しながら……。
「そうですね。つまらないことを言いました」
黙々と飯を食う。幸せは外にあると思いながら。
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2019年04月13日

コイの街すすきの

薄野は歓楽街として知られているが、もう一つの顔は鴨々川の流れる古の街である。そして「すすきの六条寺町通り」という小説の舞台にもなっている魅力的な街である。ところで、南9条橋から8条の藻山橋に至る鴨々川沿いは、私の好きな風情ある散歩道だが通る人は少ない。危ない街と思われているのかも知れない。
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手前に戻ると中島公園、前方に見えるのは南8条橋、そこから藻山橋(駅前通)までがコイの放流場、その先も放流場だが、そこで一区切りされている。

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藻山橋(南8条)上流の鴨々川。コイが越冬できるように川の中央が一段と深く掘られている。ただし冬のコイは深い所全体に居るわけではなく、橋の下で纏まって過ごしている。2019年3月下旬に通りかかると汚泥を取り除く作業をしていた。コイが一段と綺麗に見れるようになるだろう。薄野には別なコイもある。それが何かは言わぬが花。

ふと、昔のことを思い出した。およそ15年前のことだが、藻山橋から鴨々川をじっと見ていると、妙齢の婦人に声をかけられた。私と同じ様にコイを探しているのだろうか。011009hasi.jpg

「何か探しているのですか?」
「コイです」と私。
「楽しそうですね。見つかりましたか?」
楽しい気分もあるが、心配もしている。居るはずのコイが見えない。 

「いや、まだのようですね。冬は養鯉業者に預けてあるのです。そろそろ戻されてもいい頃なんですよ。川底を深く掘ってコイをここで越冬させる手もあるのに勿体ないですね。預かり料も安くないと思いますよ。

だいたい1メートルくらい掘ればコイも越冬出来る筈です。コイは冬の間はエサを食べなくても生きて行けます。この川は流れがあるので普通は凍らないのですが、凍ることも少なくありません。氷が解けてコイの姿が見えるとホッとすると思いますよ。時々そんなことを想像するのです。水温が上がって来ると……」。私は川を見ながら一生懸命説明していた。 

ありゃりゃ? 私に話しかけた女性が見えない。よくぞ聞いて下さいましたとばかりに、一気に説明したのだが、まったくもう、興味がないのなら聞かないでくれ!

数日して同じ場所を通ると、橋の上に例の女性が立ち、通りすがりの男性に声をかけている。なるほど、声をかけるのが彼女の「仕事」なのだ。そして私はカモと思われたらしい。ちなみに川の名はカモカモ川。私は御用済みの老人とは見られていなかったのである。80歳近くになって思うと65歳は決して老人ではない。

ところで薄野の鯉放流場だが、その後川底を深く掘り、今ではコイが越冬できる様になっている。冬の鴨々川では橋の下にコイの姿がよく見られる。私が見たときは横一列になって、コイは揃って上流に向いていたが動きがない。071205hasisitakoi.jpg
2007年12月5日撮影、2006年に川底は60センチばかり掘られコイは越冬している。

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私の愛読書となった「すすきの六条寺町通り」。この本の著者とは、道新コラム「朝の食卓」が縁で知り合った。文学のことは何も知らないが、文学館で特別展があるときは、よく一緒に行った。難しい説明は分からないから肯くだけだが、文学的雰囲気は好きだから楽しい。私に分かることは何もない。文学も美術も音楽も雰囲気だけは大好きだ。

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このコラムが縁で知り合った。薄野育ちだそうだ。コラムとは関係なさそうで在る。
タグ:札幌
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2019年04月06日

金は天下の回りもの

大空襲で80%弱が焼き尽くされた渋谷に、好んで住む人は居ない。金や頼るべき親戚がある人は一時的に暮らしの出来る場所に移動した。残ってバラックを作り住んでいた人達は、全力で働いて徹底的に節約し貯めていた。目的はただ一つ家を建てることである。そんな状況も知らずに、私たち母子4人は子連れ結婚という形で横浜から東京へ移住した。

一方、終戦直後の母親は横浜で文字通り歌って踊って楽しんでいた。昼は茶菓で子供を集めて歌唱指導、好んで歌ったのが「時計台の鐘」だった。母は食うや食わずで何の楽しみもない子供たちを見るに忍びないと言っていた。慈善活動のつもりだったと思う。

夜は父親(後に逃亡)が仕事関係で連れて来る、米軍将校等とダンスをすることもあった。女性社員と一緒に上品な接待をするためである。ついでに白状すると戦争中の母は海軍の宴会を取り仕切っていた。そして米軍は(日本)海軍より紳士的だと嘯くほど、変わり身が早やかった。戦争中も戦後も子育ては人任せにして仕事に没頭していた。

戦争中は皆苦労したと言うのは誤りだ。私は生涯で一番贅沢をしていた。その代わり戦後1年過ぎて貧乏が始まり2年目からはドカ貧だ。一方、空襲で強烈な恐怖を味わされ家を失った渋谷の人たちは、家族全員でアリのように働いていた。

空襲で全てを失った人と母とでは服装が全く違う。大きな家から小さなバラックに入る為には、多くの衣服を処分しなければならない。そのため上等な物しか手元に残らなかった。バラックは何処も同じような仮小屋だから、服装が貧富の差を表すことになってしまった。

こんなことで母のバラマキが始まった。近所の人を呼んで茶菓をふるまった。子供たちを呼んで歌ったり食べたりのパーティも頻繁に開いた。全ては地元の人達に溶け込みたい一心からだった。母としては出来ることをやって上げている、との気持ちもあったと思う。そんな時に養父が肺病に罹り事態は一変した。

母は金は天下の回りものと何時も言っていた。人のために使えば回りまわって自分の所に帰って来ると思っていたのだ。しかし誰もが全力で働き、金を貯え家を建てることを最優先にする、焼け跡のバラック住人には通用しなかった。

血の滲むような努力をして、区画整理前に新築した人達も道路に予定された部分には建てられない。その結果、道路予定地にはみ出しているのは、我がバラックだけになった。図らずも道路建設で唯一の障害物となってしまったのである。

除去が必要だたが、行政としては行先のない住民を追い出すことは出来ない。安普請ながら公費、即ち税金で家が建てられた。結局は皆の金で建ててもらったのだから、やっぱり金は天下の回りもの。回りまわって戻って来たのかも知れない。
タグ:渋谷
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