2022年10月01日

Whyが大好き

下手な癖に駄文を書き続けている。もちろん、読者は少ないけれど幾らかの方々は読み続けてくれている。自己満足だが、「何時、何処で、誰が、何を」という事実から「何故?」を見つけるのが楽しい。文章の勉強は大切だが、頭がコチコチでできない。諦める部分はスパッと諦める。

いくら若気の至りとは言え、こんなことをした私は愚か者。そして、40年後にことの顛末を書いて喜んでいる、底知れない愚か者である。今の私は処方され沢山の薬を飲んで生き長らえている。この中にバカに付ける薬も入っていればいいのだが、無くても結構楽しく幸せに暮らしている。
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ところで、24歳のとき私がしでかした愚かなこととは、次のような事実だった。私はA子に手紙を忍ばせた菓子折りをあげた。A子は菓子折りを丸ごとB子にあげてしまった。B子は菓子だけを食べて手紙を私に返した。私は何故かB子に結婚したいと言った。B子は直ちに断り、後にC子を紹介してくれた。C子と動物園で会う約束をしたが来なかった。三日後、C子から交際お断りの手紙が来た。

何のことかサッパリ分からないと思う。この事実は144字だが、体験を「手紙」というタイトルで書いたら2954字に膨らんだ。事実から何故、何故と、Whyがいっぱい見つかって楽しくなってしまったのだ。
こちらをクリック! → ブログ「空白の22年間:手紙」

このブログ「空白の22年間」は自分自身の楽しみと自己紹介のつもりで書いている。人物等仮称も多いいが、できる限りの真実を書いているつもりだ。真実とは事実に対する偽りのない解釈であり、人の数だけ真実はある。しかし、正直に書くように心がけている。

事実を書くなら新聞記事の書き方が参考になる。つまり5W1Hの原則に準じて書けばよい。具体的には、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どうやって(How)である。私のように老後はのんびり暮らしたいと思っている人には絶対に書けない。差し障りが多すぎるのだ。

この中で一番書きたくないのがWho、人物が特定し易くなるWhereもなるべく避けている。出来るだけ正確に書いているのが背景となる時代、Whenである。何を(What)、なぜ(Why)、どうやって(How)だけを楽しんで書いている。中でも大好きなのはWhy、感じてもらえれば有難いが無理と思う。一人でWhyWhy、ワイワイ言って楽しんでいる。
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タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2022年09月24日

女性が羨ましい

昔、近所の病院に入院したが、患者どうしは仲良くやっていた。しかし、一人になりたいと思うこともある。そんな時は休養室に行って雑文の下書きをしたりしていた。コッコッと足音がするので反射的に顔を向けると目があってしまった。思わず、ニッコリ笑い挨拶を交わした。これがキッカケで年配の女性の愚痴を聞くはめになった。

「私、何の為に一人でガンバッテきたのでしょうね」
彼女は定年まで働いて、その後は新築のマンションを買って一人暮らし。夫は64歳の若さで亡くなったと言う。
「主人は貴方に似て前ハゲなの。何だか懐かしいのよ」
「そうですか」
軽く聞き流すふりをしたが凄く嬉しい。
「この歳で初めて入院したの。上と下が悪くてね」
「上と下ですか?」
「吐き気と下痢よ。こんなにやせちゃった」
「お若いのに大変ですね」

「甥に篠路の老人ホームみたいな所に連れて行かれたの」
「一緒に歩いていた方ですね。お子さんかと思いました」
「子供はいないし、迷惑かけられないから入らなければね」
「まだ若いから気が進まないでしょう」
「今まで一人で頑張って来たからね」
「ホームでのんびり暮らすのもいいかも知れません」
「寂しいよね」
「寂しいですね」
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「何か書いていたのでしょ。邪魔して悪かったね」
「いいんですよ。暇つぶしですから」
「話したら、なんだか気が晴れたわ。ありがとね」
「それは良かったですね。叉、話しましょう」
これでお別れと思ったが… … 
「あらっ! なに書いてるの。ちょっと見せてよ」
「嫌ですよ! 日記ですから」

親切な女性には敵わない。断ったのに、近寄ってのぞいた。
「なんかよく分からないねぇ」
「字が下手ですからね。ワードを使って書き直します」
「この字違っているよ。直してあげる」
「いいですよ。後でワードが直してくれるから」
「ワダさん?」

タイミングよく、休養室に年配の女性が入って来た。
「お友達みたいですよ」
「入院したばかりで、話し相手がいなくて寂しいんだって」
「そうですか」
「話し終わると、話してくれてありがと。とお礼を言うの」
と、言うが早いか私を置いて、お喋りに行ってしまった。

二人の女性は昨日会ったばかりというのに、まるで10年来の親友のようだった。こんなこともあって、書く気もなくしたので、病室に帰り隣のベッドの人に声をかけた。
「女性は素直に自分の気持を言えるから羨ましいですね」
「あんたもそうすればいいじゃないか」
「話し相手がいないから寂しいの、なんて言えませんよ」
「もっと気軽に、調子はどうかいとか言ってみな」
「調子はみんな悪いんですよ」
「みんな?」
「病人ですからね」

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | フィクション

2022年09月17日

幸せのスーパーメロン

ドラマを観ていると、こんなシーンによく出会う。男が女に「僕は貴女を必ず幸せにします」とか言っている。ずいぶん安っぽいセリフだ。私が幸せになるのは簡単だ。美味しいメロンが4分の1個もあれば充分である。

しかし、メロン4分の1で誰もが幸せになれると思ったら大間違い。そこまでに至るプロセスが肝心だ。大まかに振り返れば3年間だが、長すぎるので直近の3ヶ月の記憶をたどった。その頃、ある治療の副作用で味覚障害になり、口の中も粘膜炎で痛かった。それでも食べなければ体が持たない。
詳細→放射線治療、自宅→入院→自宅

生きる為に一生懸命食べた。痛くては食べられないので口の麻酔をしながら1日3食を完食。それを見た看護師さんが「カロリーが足りないので食事を増やしましょう」と言った。私の我慢は限界に達していたので、1階のコンビニで買い食いするからいいと断った。そうしたら、毎食後にプリンを付けてくれた。
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これを口に含んでブクブクすれば、口の痛みが和らぎ食事が出来る。

ところで定年後、4回入院したが病院の食事だけで済ました。食事も治療の内と考えたからだ。今回初めて、栄養補給のために買い食いをした。先ずはケーキと饅頭、すごく不味かった。病院の食事より格段と不味い。ジュース、チョコ、果物の缶詰、色々試したが全部不味くて、2度と食べる気がしなかった。

やっと見つけたのが、牛乳とソフトサラダと言う名の柔らかい塩せんべい。旨くはないけれど嫌な味もしなかった。ソフトサラダはカリカリという感触が好きだった。ご飯も薄切りの食パンも味がない点が好かった。本来の味はあるのだが私には感じない。つまり、食事をして美味いと思ったことはない。

退院して1ヶ月半もすると、味覚が徐々に戻ってきた。2ヶ月たったころには90%程度回復した。なぜか、お茶と高級ジュースは渋くて不味かった。高級なものほど回復が遅いのだ。ともかく、味覚回復は普通6か月、長い人は1年と言われていたのに2ヶ月でほぼ回復した。1年もかかった人は、私と違って食通だったと思う。世の中何が幸いするか分からない

味覚障害とは味を失うことでなく、美味いものを食いたくなくなるほど不味くすることと知った。舌癌手術後にした鼻から胃袋にチューブで栄養を送る方が楽だった。だけど、苦あれば楽ありとは本当だった。

味が回復して初めて食べたメロンが美味しかった。「幸せだなぁ、僕はメロンを食べている時が一番幸せだ」と心から思った。この幸せ感がなんとも言えない。幸せになるのは簡単だ、美味しいものを食べれば良い。

「メロン食べて幸せになりました」
「夕張メロンかい」
「スーパーメロンです」
「聞いたことないなぁ、高いだろう」
「ええ、凄く高かったですよ。安売りなのに1280円もしました」
「そうかい、どこで買ったの?」
「近所のスーパーです」
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年09月10日

不思議な入院

コロナ禍は入院生活を大きく変えた。面会と外出は禁止、そして4人部屋だが、同室者とは一言も口をきかないで1ヶ月間過ごした。私だけでなく他の患者も同様だ。お陰でとても静かな入院生活だった。

一方、13年前に近所の病院に入院した時は大違いだった。病室は雑談で賑やかだし、食事はテーブルを並べて喋りながら食べていた。押し並べて楽しい入院生活と思うが、入院初日は大変だった。しかも、不思議な入院でもあった。

「今すぐ入院ですか。ラジオがあるので明日にして下さい 」
「直ぐに入院しなさい。ラジオは出てもいいですよ」

即入院の緊急性と「ラジオは出てもいいですよ」というおおらかさ。この落差は一体なんだろう。私にはピンとこなかった。ともかく、スタジオには行けることになったのでホッとした。

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2008年2月ラジオカロス札幌「山鼻あしたもいい天気」

病室は6人部屋だった。ともかく、隣の人に挨拶、よろしくお願いしますと簡単にすますと、「山田太郎です。84歳です」と、丁寧に応じられたのでやり直した。

「中波三郎、67歳です。風邪をひいてこの病院に来たら検査して、即入院となりました」
「そうですかぁ。お客さん少ないからねぇ」

先ほどの院長先生のセリフ、「直ぐに入院。ラジオはいいよ」を思い出した。まさか、肺炎と診断して見せてくれたあのCT画像の白い影は「消しゴムツール」で加工したのではないかと、一瞬疑った。おじいさんとの話は延々と続きそうだが、ラジオの準備をしなければならない。「進行表」と「台本」をチェックしようとしたら看護師さんが点滴に来た。

「もうですか?」
「ラジオがあるから早くしてと言ったでしょ」
「すみません。お願いします」

もうクタクタのヘトヘトだ。点滴しながら眠ってしまった。目が覚めると17時。泥縄だが、点滴しながら放送をイメージしてみた。点滴の落ちる速度がやけに遅い。20時からの放送に遅れそうな気がしてイライラした。胸もムカムカした。点滴が終わると18時になってしまった。食欲はまったくないが、少しだけ食べて食後の薬を飲んだ。

大急ぎで円山のスタジオに向った。途中、地下鉄中島公園駅ででカロリーメイトをほおばったが、いつもと違って口の中がパサパサして食べにくい。スタジオに着き何とか1時間の番組を終了。タクシーを拾って家に着いたのが21時20分だった。病院の消灯が21時なので予め外泊許可をもらっていた。

家に帰ってもやることが山ほどある。メールはネットが使える今夜の内にしなければならない。とにかく破らなければならない約束がいっぱいあった。何となく気になったが、疲れて寝入ってしまう。

一眠りすると目が覚めた。夜中の3時だが、目が冴えて眠気がない。なにぶん突然の入院だ。誰に何を知らせるかが難しい。困り果てて、所属するシニアネット全員宛のメーリングリストに流してしまった。こうして長い長い一日が終わった。

この3年で3回入院したが、いずれも面会・外出禁止。一方、13年前の入院は面会はもちろん、外出さえ自由だ。糖尿病だから運動も治療の内とか言って、毎晩ダンスに通う患者もいた。私も徒歩10分の家に帰り風呂に入ったりパソコンしたりしていた。この新旧二つの入院を比べてみれば、面会・外出禁止の方が良いと思った。入院した以上、治療に専念して1日でも早く退院した方が良い。少なくとも1ヶ月以内の短期入院なら、この方がいいと思った。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年09月03日

さようならオシドリ

オシドリについてだが、今年の秋は今まで一番多いような気がする。しかし、あのカラフルで美しいオシドリの姿が全く見られない。この時期のオスは「エクリプス」と呼ばれる状態の羽毛へと変化しているので、メスと同じように地味な色をしている。しかし、10月頃になれば美しく変身するだろう。

オスが一斉に綺麗に変身すれば、中島公園の風景に彩りを添えてくれる。しかし現実は、そうなった試しがない。マガモは凍結するギリギリまで池で粘っているのに対し、オシドリはさっさと何処かへ飛び去ってしまうのだ。しかし今年こそ、カラフルで美しいオシドリのオスがあちこちで見られると期待している。

退院して久しぶりに中島公園を散歩するとアチコチにオシドリがいた。偶然撮ったこの写真にも3羽写っていた。手前の大きい2羽と石の上の1羽はオシドリだ。菖蒲池から鴨々川 まで至る所でオシドリが居たが、全部メス。一体カラフルで美しいオスは何処に行ってしまったのだろう。1羽も姿を現していない。

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左端下で正面を向いているのがマガモ。くちばしが黄色い。

だがこれは私の勘違い。非繁殖期である夏になり、エクリプスと呼ばれる状態の羽毛へと変化していたのだ。つまりオシドリはマガモ同様に、オスは繁殖期には美しい冬羽にしてメスにアッピールする。そして夏に近づけば夏羽に変わり、オス・メス同じ色になるが、見分けることはできる。

オシドリのオスはメスと違ってくちばしが赤い。上の写真はくちばしを見ても黒っぽいだけで色の違いがサッパリ分からない。今年の8月25日の撮影だが、うまく撮れていない。仕方がないので撮り溜めた過去の写真を使うことにした。

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2021年9月6日撮影 羽毛はメスと同じような地味な色。手前の1羽はメス。赤っぽいくちばしの2羽はオス。この日は中島公園に沢山のオシドリが来ていたので、都合よく並んでくれた。

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2021年4月17日撮影 くちばしが赤くカラフルなオシドリのオス。手前のメスはくちばしが黒っぽい。冬の繁殖期が終わっても6月頃までは冬羽のまま。メスと同じ色になり始めるのは7月ごろか?

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2021年4月8日撮影 上と同様、泳いでいるところも撮ってみた。撮り溜めた写真で判断すると、6月頃までのオスは綺麗な冬羽のままだった。私は見たままを書いているだけで、分からないことが多い。

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2021年9月2日撮影 この時期は一部のオシドリが繁殖期に備えてカラフルで綺麗な冬羽への変化が見られる。

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2015年9月11日撮影 この時期になると徐々に冬羽へと生え変わる。頭部は中央から線状に羽毛が生え変わっていく。こんなヘアスタイルの洒落男を見たことがある。

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2015年9月16日撮影 9月中旬にもなると殆どのオスは羽毛が変化してきている。変化の程度はいくらか違う。  

10月中には次の画像のように綺麗になると思うのだが、その前に何処かへ飛び去っている場合も多い。せめて10月いっぱいは居て欲しい。菖蒲池が凍結した真冬に鴨々川 に来ることもあるのだが、数は少ない。春の雪解け時にはよく見かける。

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野鳥については殆ど知らないのだが、21年間中島公園を散歩して来た。居る、居ない、多い、少ない等、見た目で分かることについて書いてみた。

「さようなら」とは言いたくないが、池が凍結すれば水鳥は必ず去って行く。でもオシドリは去るのは早すぎる、せっかく綺麗に変身したのだから、マガモのようにギリギリまで居て美しい姿を見せて欲しい。そうすれば中島公園がもっと楽しくなる。 

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最後に参考としてオシドリ親子、母のくちばしが黒っぽい。夏にはオスもメスと同じ色の羽毛になるが、くちばしは赤っぽくなっている。

posted by 中波三郎 at 13:38| Comment(0) | その他

2022年08月27日

夫婦喧嘩は所構わず

夫婦喧嘩は家の中だけとは限らない。街中、それも店員やお客さんで賑うお店の中で突発的に起こる場合もある。昔の出来事だが、店員に夫婦揃って手玉に取られ、罠にはまってしまった。まるで孫娘に操られた老夫婦のようにね。

新築のマンションの照明を買う為に、S駅北側の大きな電器店のショウルームに行った。そこで店員の計略と妻の強情の為、必要のないリモコンを大量に買わされてしまった。

店員は「ヒモは要りますか?」と聞いた。「いりません」と声をそろえて答えた。ここまでは私達の息はピッタリと合っていた。我家の習慣として照明の切り替えはしないので、壁にスイッチがあれば充分である。

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しばらくすると、私は店員がリモコン付きの照明を勧めていることに気が付いた。しかし、妻はまだ気が付いていない。と言うよりもリモコン付き照明の存在そのものを知らないのだ。ここで決定的な認識の違いが生じたのである。

店員はリモコンの説明を何もしないでヒモが必要かと聞く。明らかに新製品のリモコン付き照明購入へと誘導している。店員に確認を求めるべきだが、突然二人の認識が違った為、いきなり夫婦喧嘩になってしまった。興奮して店員の存在など眼中になくなった。

「リモコンなどいらないでしょう」と私。
「リモコンって何よっ? ヒモの話をしているのでしょ」
「リモコンなんか使わないでしょ」
「ヒモだって使わないよ。今までもなかったし」

妻はヒモは要らないの一点張りでリモコンは眼中にない。店員も二人の争いを見ていれば、リモコン付き照明を勧める意欲も失せてしまうだろうと、チラリと目をやる。しかし、店員は思いもよらぬ行動に出た。「お二人で話し合って、決まったら知らせて下さい」と言うが早いか、その場を立ち去ってしまったのだ。

なんたることだ。若き店員は我家の力関係をしっかりと見抜いていた。罠を仕掛けた猟師のように、一休みして帰ってくれば獲物は罠にかかっているとの算段だ。

「それで、リモコン付き照明を買ったのか」と先輩。
「店員に逃げられたら強情な妻には勝てません」
「奥さんはリモコンを使っているのか?」
「使うも使わないもリモコンなんか知りません」
「どうしてヒモは要らないと頑張ったのだ。奥さんは」
「ヒモの分だけ安くなると思ったのでしょ」

妻は騙されていることに気付かない。だが、一旦要らないと言った以上、それを押し通す力がある。もちろん、リモコンも要らない。私だけが余計な出費を悔やんでいた。ヒモなんか鋏で切ればすむことだが、言えばケチと言われる。自分が言ったことなど忘れているのだ。“o(><)o”


タグ:札幌
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2022年08月20日

仲直り

私がいろいろ活動して自由を楽しんでいたのは定年退職後の15年間だけだった。自由は素晴らしいことだが、いくらかのトラブルも付き物だ。80代は心ならずも持病とコロナ禍で巣ごもり時代になってしまった。静かに暮らし、それなりに幸せだが、時には自由時代を思い出して懐かしんでいる。

例えばこんなこと。その日は楽しい3人カラオケ。いつもの時間に、いつもの場所で1か月ぶりの再会だ。しかし、私たちの話に割り込んだBさんの一言で、危うく別れ別れで帰ることになるところだった。私はとぼとぼバス停へ、Aさんは車で颯爽と、左と右に泣き別れ。ひょっとしたら永遠の別れになったかもしれない。

実は、カラオケボックスに入った途端に楽しい気分も吹き飛ぶような「事件」が起こったのだ。原因は1匹の小さなハエ。トラブルの詳細はカラオケで喧嘩に書いたので、ここでは省略するが心にしこりが残ってしまった。 

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いつもなら「乗って行かない」と声をかけてくれるのだが、この日は違った。ハエの一件が尾を引いているようだ。  

「バス何時?」とAさん。
「40分くらい後ですね」

そばにいたBさんが口を出す。「歩いて行けばいいじゃない。真っすぐ行けば豊平川、後は簡単よ」。確かに道順は簡単だが、1時間以上もかかりそうだ。今日はバスで帰るつもりだったが、Bさんの一言で気が変わった。「乗せてくれない」と、Aさんに頼んだ。意外にもこころよく乗せてくれた。車の中でAさんがいった。

「歩くの嫌なの?」
「嫌じゃないけど、お名残惜しいでしょ」
そう」
「ハエのことではゴメンナサイ」

便乗させてもらっている身としては、生き物を踏み潰してはいけないとは言えない。我が家では家に蜘蛛などの虫が入ってきても、ティッシュで軽く掴みベランダに出すだけ。虫の脱出を確認してからティッシュを回収してゴミ箱に入れる。虫の生死は自然に任せている。

「踏み潰さなければ、1時間も2時間もブンブン飛び回ってうるさいでしょ」
カラオケ中はブンブンなど聞こえないとは言わない。
「お陰様で、ハエに邪魔されないで楽しいカラオケでした」
「バスがくるまで、お茶でも飲もうかと思ったのよ」
「今から行きましょうか?」
「もう、いいよ。話は済んだからね」

アレレ、謝らせてお仕舞いかと思ったが、ここはAさんの車の中。ジッと我慢だ。しかし、これで終わりではなかった。Aさんは決して謝らない。その代わり命令を下す。「いろいろありましたが、丸ごとひっくるめて付き合ってください」。後でメールにこう書いて来たので、思わず笑ってしまった。付き合って20年、巣篭もり中の今でも時々LINEで話したりしている。

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2022年08月13日

触らぬ神に祟りなし

「困りましたねぇ。どうしましょう」
「宴席だろう。お世辞に決まっているよ」と先輩。
「期待して待っていたら、悪いじゃないですか」
「それ
は絶対にない! 聞いたことも忘れているはずだ」

でも、万が一ということもある。「何を書くの?」と聞かれたのは初めてだ。なんとかしてAさんの期待に応えたい。すると、ある光景がパッと浮かんだ。私にとっては夢のような出来事だった。思い切って書いちゃおう。サプライズだ。

ある夏の昼下がり、Aさんから突然電話がかかって来た。
「私、わかる? 今あなたの家の前の公園。出られる?」
何だろう。こんなことは初めてだ。ともかく行ってみよう。公園はすぐそこだ。

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Aさんは私より年上で社交的でお洒落な人。パワフルで世界中歩き回っている。何もかも私とは正反対である。

ベンチのある広場に行ってみたが、見当たらない。やや遠くの方にスラックス姿の女性が一人。洒落た帽子にサングラス、足を組んでタバコをふかしていた。ひょっとしたらと思ったが、彼女はタバコを吸わない。アチコチ見渡したが、らしい人はいないので念のため近づいてみるとAさんだ。ニヤッと笑って開口一番こう言った。

「私、フランス映画みたいにタバコを吸いながら男を待ってみたかったの」。一瞬、これは先日のお詫びかな、と思うのには訳がある。とりあえずは「様になっていますよ。ジャンヌ・モローみたいです」と調子を合わせた。

実は数日前、Aさんの友達と3人でお茶を飲んだ。「ここは私が持ちましょう」と言うと、こともあろうに「私、男と認めた人からしか奢られたくないのよ」と来たもんだ。一瞬ムッとしたが、Aさん流の気遣いかなと思いなおした。

だけど、彼女はこの一瞬を見逃さなかった。だから、お返しに来たのだ。「男と認めない」を帳消しにするため「男を待つ」ことにしたのだと思う。

「よかったな。男になれて」
「誤解を与えるような発言は謹んでください!」
「なにっ?」
「いえ。何でもありません。私の誤解です」

Aさんにだまって書いたので、自分のことと気づいて怒るかな、とか心配になって落ち着かない。私は知人のことを書くときは慎重だ。本人に気付かれないように性格、年齢、出来事、言葉遣いに至るまでガラリと変えることにしている。

それから、しばらくして懇親会でAさんと再会。この記事は期待に応えて書いたつもりだが、今じゃ心配の種だ。恐る恐る、あさっての方向から探りを入れた。

「Bさんのブログ面白いですね」
「私、お仲間のブログには興味ないのよ。もっと面白いのいくらでもあるでしょ」

まさに先輩の言う通りだ「何を書くの?」と聞いたことなど完全に忘れている。やはり読んでいなかった。更に、読まれる気配など全くない。好いことを知った。瓢箪から駒だ。これからもジャンジャン書いてやろう。静かに余生を送っている私に、これほどネタを提供してくれる人は居ないのだ。

Aさんは私にとっては余人をもって変え難い人。神様のような存在である。触らぬ神に祟りなしとも言うけれど私は療養中、快復のために軽いストレスも大切だそうだ。

タグ:ときめく
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2022年08月06日

普通の人になりたい

「早く90歳になりたいですね」
「ヨボヨボになっても生きたいのか」
「今だってヨボヨボですが、楽しいですよ」
「そりゃ良かったね」

食欲など命を繋ぐための欲は色々あるけれど、美味いものなど金を出せば何時でも食えるし、他の欲だって爺さんになればパッと消え去ると思っていた。ところが、これが大間違い。食欲だけがパッと消えた。しかも、一瞬の内に。

放射線治療の副作用はいろいろあるが、私の場合は味覚障害と口の痛みだった。この二つが重なると食べるのが苦痛になる。腹が減るので食欲がない訳ではないが、食事は生きるための仕事になってしまった。

考えてみれば不思議な巡り合わせだ。45年間食うために仕事をして来た。定年退職したら途端に幸せになった。そして、20年たったら食事が仕事になってしまった。食わなければ生きては行けないから、最も重要な仕事になった。

怠けの罪で罰を与えられた様なものだ。味覚障害は6ヶ月の刑、比べてみれば、口の痛みの刑期は短かい。一方、しつこい味覚障害にも仮釈放がありそうだ。仕事ぶりが認められたからだ。「ワッ、凄い完食!」と毎食後、看護師さんに褒められた。私は模範囚ならぬ模範患者?

担当の医師は長い人は1年かかると言った。私は既に何不自由なく食事をとっているが、美味しくはない。この口に美味しいものを食べさせるのは勿体無い。お金もね。楽しみは3ヶ月先の私の誕生日までとって置きたい。後3ヶ月で完治と自己診断。先が明るいことも幸せの元である。

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病院で出会った唯一の友達、亡き妹に似て美しい。

「後8年で90歳、失われた過去を取り戻したいのです」
「取り戻して、どうする?」
「普通の人になりたいですね」
「そういえばアンタ、どこか変だ」
自分の思い通りにふるまっても、道に外れることがない様な人になりたいのです」
「もう遅いだろう」
「いえいえ、今が一番早いのです!」

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年07月23日

放射線治療、自宅→入院→自宅

サンマが一匹13,200円と聞いてビックリ。突然、昔の流行歌を思い出した。今日もサンマ、明日もサンマ、弁当のおかずもサンマ、サンマ、サンマ♪。今の自分は3年間入退院の繰り返しだから、 今日も病気、明日も病気、ビョッキ、ビョッキ、ブログの話題も病気♪ てな感じ。副作用で味覚障害、食いたいものが無くなった。それでも人生は楽しい。

前途に希望が持てるからだ。半年すれば快復するので、その日を楽しみにして一生懸命食べている。入院中は口が痛くて味がないので、医師に人工栄養を頼んだら断られた。その代わり、口に含んでブクブクする短時間麻酔をもらった。まともな味がしないのだから、口が麻痺していても差し支えない。お陰で、1日3食完食!看護師さんに褒められた。

放射線治療は全部で30回、半分程度は通院、副作用が激しくなる後半は入院した。面会禁止の病室で寝てばかりいては退屈なので、院内散歩をした。

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病室は5階だがエレベーターで上がって、12階からの風景を楽しむ。左を見れば街並み、右側は山々。いつもベットの周りをカーテンで仕切った狭い世界で暮らしている。ここに来れば広い世界を見て気分転換ができる。

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夜は無人の1階で水族館気分を味わう。日中は混雑している待合室も夜は無人、近寄るとサカナたちは寄ってくる。面会禁止の私は寂しい。水槽に閉じ込められたサカナも寂しそう。私たちはは気が合うようような気がして、お互いに心震わせている?

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「ひまわり分校」の小中学生が描いた作品。当分校は、ある札幌市内小・中学校の病院内分校。入院中の学習指導、仲間と学習で心の安定、学習意欲の持続を図る病院内学校だそうだ。81歳の私にとっては、こんな学校があったのかと驚いたり、感心したり、幾つになっても新しい発見がある。

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案内表示があるから歩き回っても迷子にならない。この病院は大きくて、闇雲に歩いていると自分の病室に帰って来れない恐れがある。

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温室を抜けると中庭に出られる。そこは外気に当たる唯一の場所。この病院は散歩するには、もってこいなのに外出禁止。中庭に出れば上を向けば青い空と白い雲が見える。外の空気は清々しい。患者が外気に触れられる唯一の場所なのに空いていた。知らない人が多いようだった

放射線治療が終了して一週間は副作用のピーク。その後、治療薬をボストンバックがいっぱいになるほど持って退院、在宅療養に入る。病室が自宅に変わっただけだった。

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放射線治療で荒れた肌を快復するローションをいっぱいもらった。散髪に行ってもヘアカット・オンリー、使って良いのは石鹸と、このローションだけ。

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これを口に含んでブクブクすると短時間の麻酔がかかる。1日3食3回使うのですぐに無くなってしまう。5本もあると結構重い。通院中はタクシーで持ち帰った。

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その他、痛み止め、うがい薬、荒れた肌に塗る軟膏など両手で抱え切れないほどもらった。

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極め付けは人工唾液、口が乾いたらシュッシュとやればツバキが入る。喉が乾くのも副作用の一つ、年がら年中、夜中に起きてもカラカラだ。昼は水を飲むが、夜はシュッシュで間に合わす。欠点は変な味、副作用のせいだと思う。

私は無職で旅行もしないでノンビリ暮らしている。病気のお陰で思わぬ体験ができた。人工唾液、こんな便利なものがあるとは夢にも思わなかった、新発見がいろいろあるのも病気の楽しさだ。苦しい時、痛い時は必死に耐えていて、不幸とか思う余裕がない。結局、いつも幸せである。
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年06月01日

更新中止のお知らせ

訪問ありがとうございます。
入院するので、しばらく更新は中止します。
快復したら早速ブログの更新から始めたいと思います。
今後もよろしくお願い致します。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | その他

2022年05月28日

なるようになる

最近2回のブログでは、楽しかった退職直後のことを書いた。なぜか懐かしくて、とても良い気分転換になった。過去の良き思い出と未来の希望の間で心が揺れている。それでも私は「幸せ本線」に乗ったまま、なかなか不幸せにはなれない。先のことを心配してクヨクヨする苦労性から、土壇場になるまで気付かないノンキ者に変わったのだ。人間とは上手く出来ているものだ。状況次第で幾らでも変化する。

5月16日から放射線治療に入った。毎日照射して土日は休み、全部で30回の照射で6月24日が最終回となる。副作用のピークは照射終了時から一週間後ぐらいと聞いている。そうすると退院は6月下旬から7月初旬辺りと思う。現在は通院中だが、6月2日から入院することになっている。照射15回目くらいになると副作用が激しくなるそうだ。

照射を終了してから数ヶ月間が、組織回復の最も大事な時期だそうだ。ケアや生活上の注意事項を継続する必要がある。例えば、タバコは一生禁止。これは大丈夫、タバコを止めて30年以上経つ。飲酒は数ヶ月間禁止、これはちょっと長いかな。忘年会も新年会も自粛だ。飲まないで参加する人も少なくないが私には無理、酒に弱く意志も弱すぎる。

先日、息子夫婦が自宅に見舞いに来てくれた。嫁さんが「退院したら温泉でゆっくりして下さい。プレゼントします」と言ってくれた。お言葉に甘え、一泊で良いから予算はタップリと注文も付けた。ニコニコして「楽しみにして頑張って下さい」と言ってくれた。それなのに、最近になって温泉は照射終了後、数ヶ月間は禁止と知った。結局、プレゼントは自宅にクーラーを付けてくれることになった。

放射線治療の副作用として、口の渇きや味覚障害などは半年から2年程度にかけて徐々に改善するそうだ。ずいぶん気の長い話だ。しかも、100%元に戻ることはないと言う。残念ながら、温泉に行けるのも、適量の酒が飲めるのも年が明けてからである。

照射終了後、しばらくは毎週診察、そして1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年、その後半年毎の定期受診。放射線治療科医師が確認するまで診察と検査は続く。高齢の私にとっては一生、癌と二人連れで過ごす感じだ。それでも楽して、ノンビリ幸せに暮らしたいと思っている。願っていれば、何となくそうなりそうな気がする。ともかく、土壇場になるまで気付かない。そうするしかない時は、そうなるから有難い。
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2022年05月21日

カラオケデビュー?

月末になれば再入院、今は自宅療養中、こんな時は昔を思いだす。60代はいろいろな出会いがあって楽しかった。今は書くことだけが楽しみになってしまった。僅かながら読んで下さる方々に感謝。有難うv(^_^ v)

2002年の暮れのことだった。いい年して蝶ネクタイをして舞台に立って歌う羽目になった。平穏な暮らしをしている私にとっては、定年退職後最大の危機。こんな苦労までして「やさしい英会話」にしがみつくのには訳がある。

以前に参加した高齢者向け講座は幾つもあったが、すべて三日以内に止めていた。今度ばかりは1年は続けようと固く誓った、と言うよりも同居人に誓わされたのだ。

そして、クリスマス音楽祭の日がやって来た。意外なことに皆んな楽しそうだ。しかし考えてみれば当たり前、嫌な人は来ないのだから。どうやら受講生の義務と感じていたのは私だけらしい。好きな人だけで歌えば済むことだった。友達がいないからこんなことも知らなかった。とは言え収穫はあった。それは自分の殻を破ったことである。 

音楽祭には、4年で4回参加した。「英会話」といっても年末の音楽祭に備えて半分くらいは歌の練習だ。ただ歌うだけで特別な指導があるわけでない。だから4年間も続けられたのだと思う。隣でAさんが、きれいな声で歌っているのが聞こえる。小さな声で合わせたつもりで歌ってみると、なかなか気分がいい。こんなことを4年間も続けてきた。

ある日、Aさんがカラオケに誘ってくれた。長い付き合いなので、下手もオンチも承知のはずだ。その上でのお誘いなので喜んで応じた。一年たっても上達はしないが、充分楽しめた。上手いも下手も、パチパチもない。ひたすら順番がきたら歌うだけだが、これがなかなかいいのだ。お喋りに夢中で私の歌など誰も聞いてない。すべてが自然だ。自分達がやりたい様にしていたら、楽しいカラオケ会になってしまった。

「そろそろカラオケデビューしたいのですが…」
「そお」
「有料で行きたいと思っているの
ですが…」
「当たり前でしょ」
「こんなメニューでいかがでしょうか?」
「なになに? ハトポッポ
10円、青い山脈100円、二人の世界1000
円、何よこれ? 意味わからない」
「私への歌代です。賛成してくれたでしょ」

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年05月14日

お金とお足

私は井の中の蛙。在職中は皆、同じ様な給料をもらい同じ様な暮らしをしていた。定年退職して1年たったら家庭の事情で老人福祉センターの無料講座を受けることになった。当然、貧乏な老人が市の援助で勉強させてもらっていると思っていた。ところが、これが大間違い。

「このコート10年も着ているんだけど、15万もしたかと思うとなかなか捨てられないね」とAさんは何気なく言う。えっ、そんなに高いのとビックリした。それなのに、「今日は土曜日なので高いのよ。一人380円だって」とボヤいている。このギャップは何処から来るのだろうか? 因みに私のアノラックはベトナム製で7800円だが、カラオケで380円は安いと思っていた。

15万のコートをハンガーから外して触ってみた。手触りが良くて気持いい。手にとって見るとふわりと軽い。いい臭いがした。こんな高級なコートに触ったのは初めてだ。在職中、私の周りで着ている人など居なかった。住む世界が違う様な気がする。退職して初めて知る別世界体験だ。元公務員の私は老人福祉センターでは中流と思っていた。全く私は世間知らず。井の中の蛙とつくづく思った。

「いつまでも触ってないで、さっさと、曲選んで、あんたが先よ。一番若いんだから」。そうなのだ。ここでは私が一番若い。こうして、月1回のカラオケは始まった。始まったら最後、3人で3時間休み無しの3交替。お喋りは騒音の中で残った二人が大声でする。終わった頃には、もうガラガラのへとへとだ。3人は福祉センター、無料講座の仲間だった。皆んなで一緒に歌ったこともあるので音痴なのは知られていた。それなのに誘ってくれるのが嬉しかった。

カラオケも終わって料金の精算となった。「今日は土曜日だから、高いんだって。一人380円よ!もう土曜に来るのは止そうね」とAさんは言った。15万円のコートと、このしみったれた発言のギャップが、私には面白かった。長い間働いていた以前の職場では、絶対にあり得ない。何もかも明け透けなのも心地よかった。

30%割引、飲み物無料券、シニア割引等、ありとあらゆる割引を駆使しているので、安いときは150円のこともあった。何でもご主人が社長なので法人カードが使えるらしい。バブルのころは薄野をほぼ独占していた法人だが、運良く私も残り滓の恩恵を受けた。 

帰りがけのロビーで、ふとAさんの足元を見ると洒落た靴が目に入った。「いい靴ですね」と言った。一見、普通の運動靴の様に見えるが洒落ていて高級感があった。

「分かる? 足を怪我したとき、姉が見舞いに100万くれたから、25万で買っちゃった」
「そうですか。世界中の山歩きをした健脚へのお礼ですね」
「違うわ。痛みに耐えた自分にご褒美よ!」

世界中の山歩きをしていたAさんは、皮肉なことに藻岩山を下山の時、足を折って入院した。彼女はキリマンジェロを登頂、エベレストやK2ではトレッキングの経験もある。体力はもちろん、お金もかかる。必要な時は使うが無駄遣いは苦痛のようだ。

Aさんは老人福祉センターで2階の教室に行くにもエレベーターを使う。山でもないのに歩くのは、体力が勿体無いと言っていた。金も足も無駄には使わない。そう言えば東京で表具師をしていた養父はお金を「お足」と言っていた。この二つには共通なものがあるのかも知れない。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年05月07日

心に太陽を持て

スポーツもゲームもできないし、車も無いし旅行する気もない。こんな私の唯一の気分転換は、書いて心のうさを晴らすこと。腹に溜まったモヤモヤも嘘のように消えて行く。

ブログは心のうさのすてどころ。酒は涙か溜息か。思わず馴染みの歌詞が次々と浮かんでくる。だが歌への想いは増すばかり。愛されたくて愛したのではない。燃ゆる思いをぶつけただけ。自分の思いのまま文章を書こうと思っても、頭に浮かぶのは歌詞ばかりで、どうにも止まらない!

早いもので癌との付き合いが始まって10年もたってしまった。始めチョロチョロと言う感じで、今は中パッパという気分だ。一時、こんな人生は終わった方が好いと思っていたが、今はもっと長生きしたいと思っている。大して苦しんでいないのだから、こう思って当然だ。3回の手術も私が寝てる間に済んでしまった。

初めて舌癌の疑いを持たれたのは、およそ十年前、かかりつけの歯医者さんが舌のぐあいが変なので口腔内科で診てもらった方が良いと、H大病院に紹介状を書いてくれた。病院では7年間にわたり、大勢の先生が私の舌を診てくれたが、いずれも経過観察、舌の組織を取って調べることもなかった。

状況が変わったのは通院して8年目の2020年1月のこと。舌の疑わしい部分の組織を取って調べたら陰性。ああ良かった、これで病院通いもお仕舞いかなと思ったら、なお疑わしいので別の場所の組織を取って調べると言う。結果はまたもや陰性。疑いは晴れたと安心したのは束の間、更に、舌の一部を切り取って調べなければ確認できないないと言う。

そして舌癌と診断され8月に手術をした。疑いがもたれて8年目、本格的に調べて8ヶ月目に手術は終わり退院となった。八と八とは末広がりで縁起が良いと喜んだ。ところが広がったのは癌の方だった。舌癌がリンパ節に転移したのだ。

手術1年3ヶ月後、今回も転移の疑いはあるが断定はできなかった。PET等の精密検査をを繰り返した結果、癌と診断された。2022年3月25日入院、29日手術、そして4月9日に退院と決まった。今度こそお仕舞いだ。治ったらああしよう、こうしようと楽しいことが頭に浮かんで来た。

病み上がりだから先ずは家でできるオンライン会合(Zoom)から始めよう。外出できるようになっらカラオケだなとか自分なりの予定を立てていた。私が所属しているシニアネットでは各種クラブ活動が盛んだ。そしてZoomでの活動もある。学習会が盛んだが、勉強は苦手なので笑いヨガや落語で笑い、手話で歌って楽しむ。そして体調が戻ったら、いよいよカラオケだなとかワクワクしてきた。

ところが、退院直前に癌が再発する可能性が高いので更なる治療が必要と聞いてガッカリした。再入院も必要だと言う。人生の一番美味しいところを闘病闘病で暮らすなんて勿体無い。治療なんて止めて自由に暮らそうと決めた。緩和ケアも悪くないモルヒネやって安らかに、と思ったら吹っ切れた。

それなのに、日が経つに連れて時々怖くなるんだから嫌になる。優柔不断は死ぬまで治らない。更に考え直して、治療を受けることに決めたらホッとした。私は決断のできない人。こんな自分が面白いと感じ思わず笑ってしまった。

考えてみれば、私は運が良い。先生方は丁寧に調べ尽くして癌を見つけてくれた。もし、見つかっていなかったらどうなったかは私でもわかる。今回も肉眼で見えない癌の種を顕微鏡で見つけてくれた。そして、放射線で焼いて根治してくれると言うのだ。こんな有難いことはない。唇に歌を持て心に太陽を持て(ツェーザル・フライシュレン)

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年04月30日

秋が楽しみだ

2020年の年明け以来、ウィズ・ガン。癌と二人連れだ。こんなヤツとは縁を切りたいのにピッタリくっ付いて離れてくれない。2020年8月には舌癌の手術。これでお別れかと思ったら2021年末にリンパ節に転移の疑い。今年3月29日に手術、今度こそお別れと思ったのに、なお癌の虫が蠢いていると言うのだ。放射線で焼き殺してあげると言われても、ハイそうですかとは喜べない。いい加減にして欲しいのだ。

私は20年以上の長期にわたり「幸せ本線」にに乗っている。時々喜怒哀楽、いろいろ感じることはあるが、それは本線の停車駅のようなもの。不幸せがあっても短時間で過ぎて、再び幸せ本線を走り続ける。しかし、今回の「哀」は停車時間が少々長かった。前方に大事故があるような感じだ。

退院が決まりホッとしたとき先生は、更なる治療が必要だが、私の同意が必要だと言った。「エッ! まだやるの」、これが偽らざる思い。手術を終えたばかりで、後遺症で首から顎にかけて切った部分が腫れてバンバンだ。更なる治療とは撃ち漏らした癌の種を放射線で焼くというものだ。1ヶ月半にわたり30回の治療が必要で、後半は喉が痛くなり飯が食えなくなるので入院が必要とのことだ。退院したら直ぐ入院と聞いてガッカリ。

思わず血の気が引いて寒気がした。念のため、断ったらどうなるか聞いてみた。最終的には緩和ケアということになるが、ウチの病院ではやっていないので、H病院を紹介する。今までのデータを付けた手紙を書いてくれると聞いて、それもいいかなと思い、不安は吹っ切れた。しかし、結論は先延ばし。先生は奥さんも含め3人で話し合いたいと言う。

なぜこんな問題で私が迷うかと言うと、もらった文書「病状説明と今後につきまして」にある次の文言が気になった。そこにはこう書いてあった。「*術後治療をしない選択をしても再発しないで過ごせることもあるし、治療をしても再発することもあります」。これだったら、残りの人生は楽しく生きて、寿命が尽きるのを待つ方が好いと思ったのだ。

その後、お母さんを交えて3人で話し合いをした。お母さんは放射線治療を受けた人は、その後どうなったのかと、先生にしつっこく聞いた。先生は元気に生きている人が多いですよと言った。二人のそんなやりとりを聞いているうちに、放射線治療を受けるのも良いかなと思い直した。そして、「お仕舞いにしましょう」と思った時と同じ様にホッとした。

と言うことで、少なくとも後3ヶ月は癌と二人連れ。28日に事前の準備として歯を抜いて、放射線治療に必要な仮面(シェル)を作った。歯は落ち着くまで抜いたまま、顎から肩にかけて右側の首に傷、床屋も行けないし髭も剃れない。

笑えばひん曲がった口に歯が抜けている状態では、人前には出る気もしない。楽しみは秋までお預けだ。幸い今はマスクをするのが常識の時代。マスクと帽子で顔は隠れるので中島公園散歩だけはできる。コンビニも百円ショップにもね。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 80歳以降

2022年03月24日

更新休止のお知らせ

「アハハッハー、ひん曲がった笑いだって。どんな顔するんだろう。面白いね」。この陽気さには何時も救われている。思わず私も笑ってしまった。先生は「後遺症で口が引きつるかも知れません。笑う時とか… … 」と言っただけだ。お母さんにかかると何もかも笑い話になってしまう。

現在の状況を暇に任せて考えてみた。私は幸福という名の電車に乗っているような気がする。リンパ節癌とか言われただけでは不幸になれない。依然として幸せのまま笑って暮らしている。「土壇場駅」に着くまで、この感じは続くだろう。そこで初めて苦しみ、ジタバタするのだ。しかし、終わってしまえば直ぐにでも、幸せに戻るに違いない。

遠い過去を振り返れば不幸という名の電車に乗っていた感じだった。その頃でも楽しい時も嬉しいこともあったが、直ぐに不幸せに戻ってしまった。幸不幸はどちらも長期に及ぶもの、そして喜怒哀楽は短期に留まるものと思う。いずれにしろ、一旦幸せになったら簡単には不幸に戻れない。

PET検査による画像を見せてもらったが、鮮明でとても綺麗だった。ガンの部分がキラキラと輝いていて美しい。私の体の一部だが間もなく切り離されてしまう。本体より先に天国に行くのだろうか。小さな星になって夜空に輝くのかも知れない。医学は天文学に似ている。分からないことが多すぎて、空想の世界を無限に広げて行くことができる。

一昨年の8月、病室から手術に行くとき「全身麻酔すると、綺麗な幻影が見えるから楽しんで来て」と励まされた。しかし、見たのはストレッチャーが猛烈な勢いで走り、手術室や廊下の風景が、車窓から見る風景のよう流れていただけだった。今度こそはと期待している。手術時間が前回の3倍だから、きっと美しい幻影が見られると思う。

「私が逝ってしまったら、良い人を見つけて… … 」
「冗談じゃない! オトコはアンタ一人で懲り懲りよ。毎日三度の飯を食わして、掃除して洗濯して、トイレ汚してもそのまんま。オマケににケチくさい… …  」
「はいはい、分かりました。こちらを見て下さい」
「なにそれ?」
「私が密かに溜め込んだ財産目録です」
「エッ! アンタただのケチンボじゃないんだね」
「どうぞ、心置きなく一人暮らしを楽しんで下さい」

こんな事情でブログの更新はしばらくお休みにします。又、良くなったら再開したいと思います。カラオケにも久しぶりに行けるのではないかと楽しみにしています。Zoomでの手話や笑いヨガは、リハビリ中でも参加出来るので有難いですね。皆様との再会を楽しみにしているので、よろしくお願いいたします。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(3) | 80歳以降

2022年03月19日

パソコン落ちこぼれ

私にとってパソコンとは小うるさい古女房のようなものだ。その心は、自分は正しいと文句ばかり言って動こうとしない。初めて買ったのは1980年と早い。当時は「マイコンを使えこなせないサラリーマンは失格」とか雑誌等で盛んに煽っていた。しかし、その割に普及はしていなかった。マイコンとは マイクロコンピュタの略で、気持ちとしては「私のコンピュータ」である。ただ、NEC等、パーソナルコンピュータとして売り出したメーカーも少なくなかった。

買ったのはシャープMZK2E RAM領域32KB(MBの間違いではない)、本体とテープレコーダー(HDの代用)とキーボードが一体となっていた。凄く重かったので外装は鉄製と思う。別売りのプリンタも買ったので25万円もした。その時の月給は14万だった。苦しい家計をやりくりしている妻子の手前、一生懸命勉強したが何の役にも立たなかった。しかし、酒を止めることに成功した。その後、富士通、アップルと、時流に合わせて次々と買い換えた。

1995年に颯爽と登場したのがウィンドウズ95。マック・ファンとしては洟も引っ掛けなかった。それがコロリとウィンドウズに変えた理由は、エクセル98バージョンアップに、マックが直ぐに対応しなかったからだ。エクセル98のVBA(Visual Basic for Applications)を使うため、長年の友、マックを捨てたのである。正確にはMicrosoft Officeに搭載したVBAだが、エクセルしか使ったことのない私は、このように理解していた。VBAは私が初期に必死に勉強した、素人向けプロブラミングの知識を生かせるソフトだった。

職場で電卓を使って三日もかかる1ヶ月分の統計作業をVBAを使って5分で処理して、周囲をアッと言わせた。この快感は忘れられない。しかし、それも束の間、私の「計算処理プログラム」は、作るのに半年もかかり、他の仕事には全く応用できない代物だった。だけど面白かった。お陰で酒も止められた。暇な時間を全てプログラミングに注いだからね。

最近、20年間はパソコンの勉強は嫌々やっている。やらなければ、ホームページやブログの更新が出来ないから仕方がない。この10年間は、パソコンの勉強は全くやらなくなった。分からないことはオンライン.サポートに頼っているが、上手くは行かない。トラブル続きで何も分からなくなってしまったし、やる気も湧かない。それでも情報発信したい気持ちが残っているので更新し続けている。

「パソコン役に立った?」と聞かれれば、酒やめられたとしか答えようがない。お陰で81歳まで生き延びられた。きっかけを作ってくれたパソコンに感謝!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年03月12日

その手は食わない

早いもので、カラオケを始めて16年もたつ。しかし、持病の悪化とコロナ禍の自粛で最近は、2年以上行っていない。持病が良いかなと思った頃に必ず新しい波がやって来る。こんな時は昔の出来事を懐かしく思い出す。以下は同年配の3人でカラオケに行くようになって1年たった15年前の話。

共通点と言えば、カラオケ初心者ということだけ。個性豊かと言えば体裁は良いが、実態は何もかもテンテンバラバラの破茶滅茶カラオケ会。それぞれが自由に歌って楽しんだ。10年くらい続いたが、1名亡くなり、1名上手になり、私だけがそのまんま。10年間、ビールを飲みながら楽しんでいた。酒に弱いので酔った勢いで歌っていたのだ。

1ヶ月に1回、キチンと行ってキチンと飲んで、バラバラに歌った。ところが12月3日は3人の都合がつかず中止になってしまった。私達のカラオケは3人で休みなしの3時間だからほぼ歌い放題。私の身体の中に月に1回、歌いまくるリズムが出来上がってしまっていた。

「どうしても歌いたいならオレが一緒に行ってやるよ」
「先輩に私の歌を聴かせるわけには… … 」
「なんだ、オンチか。聞いてないから心配するな」

と言われても歌の上手い先輩と一緒では気楽に楽しめない。ダメで元々と思いながら、お母さんに声をかけてみると、あっさりとOKした。「この日がいいね」と言うので、予定表を兼ねているカレンダーの12月7日の欄に「フタカラ」と書き込んだ。お互いにカレンダーを見ながら、それぞれの予定をたてる習慣になっている。

さて、明日はいよいよ始めての「フタカラ」だなと思って、カレンダーを見ると、「フタカラ」の字に重ねて、二本の線が引いてあることに気が付いた。

「何ですか。この二本線は?」
「食事に誘われたので消したの」
「約束破るなら、ひと言いって下さい」
「あら! アンタだって、黙って書くじゃない」
「消すときはひと言断るのが常識でしょう」
「書くのも、消すのも一緒じゃない!」

一度同じと言ったら、いくら説明しても絶対に違うとは言わない。不本意ながら黙ってしまい、気まずい沈黙が続いた。

「この人、知ってる。落語家なのよ」と突然の話しかけ。
「… … …」、ご機嫌とっても無駄だと黙っていた。
「手が震える病気になったんだって、鳩に豆やろうとして、手のひらに豆のっけたら、手が震えて豆が左右に動くもんだから、鳩が困ってしまったんだって、アハハハハ〜」
「… … …(一人で笑え)」
「面白いね。アハハハハ〜」

私が傷ついているのに、なんて鈍い人だろう。仕返ししてやろうと思った。私はその落語家の真似をして、手のひらに豆を置いた形で、お母さんの前に突き出して、手が震える真似をしてやった。そして、左右に激しく振ってみた。お母さんは困った鳩の真似をして、一生懸命首を左右に振った。 
「アハハハハ〜」
「ワハハハハ〜」
どうやら降参したらしい。それならそれでも好い。

こうして、喧嘩にならずに済んだ。良い人はどっちだ? 
「どっちもどっちじゃないか」
「はっきりして下さい」
「夫婦喧嘩は犬も食わない」
「そんなこと言わないで」
「その手は桑名の焼き蛤(はまぐり)」
「豆だけは食べて下さいね
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年03月05日

良い食べ手

どうやら食事の役割についての私の考えは、間違っていたようだ。長い間、お母さん(妻)が作り手で私が食べ手と思っていた。しかし、世間一般では作り手とは生産者のことで、食べ手はそれを使って料理して食べる人らしい。ただ食べるだけの人など論外、蚊帳の外である。

私はあらゆるジャンルで蚊帳の外、仕事を含めてまともに出来ることは何もない。そして、弱虫なのに勇敢な人が大好き、勉強ができないのに勉強が好き、それと同じように音痴なのにカラオケが大好きだ。おまけに、食べるのは大好きなのに料理は嫌いだし、グルメ情報にも全く興味がない。

それでも食の世界で何が出来るか懸命に考える私、愚か者につける薬はない。結論は一流の食べ手になること。と言っても世間では通用しない。家の中で良い食べ手になることである。その第一は「地産地消」、生産者と消費者が顔見知りになること。二人暮らしなら仲良くすることかも知れない。メシの時だけいい顔するなんて恥ずかしいからね。

第二は余さず食べること。自慢じゃないけど我が家の食品ロスは限りなくゼロに近い。ケチだからと言っては身も蓋もない。毎回、美味しいものが適量出るとは限らない。どうしても食べ切れない時は「後で食べます」と言って残す。なんと!次の食事の時、ちゃんと出てくるではないか。最初はビックリしたが、その後は覚悟した。美味しい美味しいと自己暗示をかけて凌いだ。成せばなる。

第三は挨拶と賛辞である。「いただきます」と「ご馳走様」は欠かさない。普通に美味しかったら、これ凄く美味しいですねと言う。「どこが美味しいの」と聞かれても、そこまで深くは考えていない。テレビの夫婦インタビューで「奥様のどこが好きですか」と聞かれたダンナのような気分だ。困った時は「全てです」と答える。

もし、私がお母さんのどこが好きかと聞かれたら「正直なところです」と迷わず答えるだろう。ところが、この正直が曲者だ。定年退職後は、この正直さ故に長い間苦しめられた。アンタは間違っている私が正しいと、自分の思いを正直にぶつけて来て一向に怯まない。正直な人は相手も正直と思うらしい。仲が悪い時でさえ私は正直者と思われていた。

ところで、退職後に二人暮らしを始めた頃は食事については交代でやろうと言っていたのに、三日で音を上げた。私が作ったものなど不味くて食えないそうだ。掃除・洗濯等させようと思っても気に入るようには出来ないので、何でも一人で抱えている。何にもさせないのは気の毒に思ったのか、我が家の財布を任された。私は何も出来ないけれど、正直な人と思われているようだ。誤解させて(^-^;) ゴメン
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年02月26日

天才募集

定年退職して数年後のことだが、数人の高齢者グループで忘年ランチ会を開いた。そして、毎度お馴染みの話題で盛り上がっていた。もしも宝くじで3億円当ったらどう使おうという、あの話である。

「私なら豪華客船に乗って世界一周旅行がいいな」
「とりあえず2億円の豪華マンションを買おうかな」
「たった3億なんか何時の間にか無くなっちゃうよ」

こう言い放ったのは、国内外問わず1年の半分くらいは旅行しているAさんだった。突然、こちらを向くと、「貴方さっきから黙っているけど、何に使いたい」。急に振られた私は、その場の空気も読めず本音を漏らしてしまった。

「苦学生の奨学金にに使いたいです」
「お金の使い方しらないの?」
「お金は教育の為に使うのが一番良いと思いますが…」
「いいから、いいから、次のひと〜」
残念ながらこの素晴らしい提案はAさんには通じなかった。

ひと回りした後で、再び私に回って来たので続きを説明… … 
「ケチっぽいのに、考えることだけは気前いいのね」
「医療と教育は無料であるべきです」
「空気を読めないのはダメ。亭主より格好の悪い男もダメ」
「ご主人はヨボヨボのガリガリと伺っておりますが…」
「痩せても枯れてもH大スキー部のキャプテンよ」
「そんな昔のことを言ってはダメですよ」

私の学問への憧れは強いが、勉強はしたくない。だけど中学で出会ったような天才と話をしたいのだ。テレビや本の伝聞だけでは物足りない。生の天才と話したい。

「例えば、T大生に捨てられたシングルマザーの子とか、頭がよくても金が無い子が居るでしょ」
「それで貴方が奨学金?」
「3億あれば10人くらい面倒みれますよ」
「貴方、宝くじ買ってないんじゃない」
「ありますよ」
「10年以上前? それとも大昔かな、一等百万円とか」

何故分かるのだろうか。ズバリと言い当てられてしまった。ところで、私は空想が大好きだ。貧しいけれど才能のある人が埋もれている。そんな人を見つけて、支援して一流大学を出す。そして友達になってもらう。お互いの幸せのために良いと思う。しかし、空想が現実になることは無いだろう。思い余って天才募集!

「もしもし、私は天才です。お話しましょう」
「ありがとう。電話とは言え願ったり叶ったりです」
「ロボットですが、いいですか?」

AIでいいから叶えてこの願い
中学時代の友人とは → 天才ユガワ君

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2022年02月19日

誰が7億円当てたのか

[米女性が宝くじで830億円 単独では北米史上最高当選額],こんな見出しが目を引いた。当選者の氏名、顔写真が大きく載っている。喜びに溢れた表情で「仕事辞めます」と言っていた。その他、いろいろな個人情報も公開。テレビでも同じような報道を見たことがある。おおらかなものだ。しかし、日本では誰が年末ジャンボを当てたか報道されない。

もし私が7億円当たったとしたら報道して欲しくない。しかし、中には報道して欲しい人もいるかも知れない。それなのに、何十年もの長きにわたって、宝くじの大当たり報道に接したことがない。考えてみれば不思議だ。本人が同意しても、公にしてはいけない決まりがあるのだろうか?

ただ、「宝くじ当せん者レポートはどんな人?」とのアンケート調査の結果は、「宝くじ公式サイト」で公表されている。しかし、任意調査で全て匿名なので雰囲気が分かるだけで、公正さの証明とは程遠い。

冒頭に紹介した海外の事例とは大違いだ。実名でインタビューに応じ、大喜びした当選者が職業、家族、大金の使い道を語る。こんな姿を見れば、公正に当たりくじを引き当てたことに疑問の余地はない。一方、日本の場合は当選者について何も語らないので、色々な憶測がなされる余地がある。

ネットでは、予め大半の1等を抜き取っているとか、高額当選くじが存在しないとか、バレたらマズい事実は往々にして隠蔽されるとか、好くない噂が流れている。いずれも匿名の無責任な書き込みと思うが、当選者の公表がないことが、こうした憶測を生むのだと思う。

公正な宝くじの運用、及びその検証はどうなっているのか、ネットでチョコっと検索しても出てこない。と言っても、10分足らずの作業だったが気になった。こんなことはチョコっと検索すれば直ぐ出てくると思っていたので意外だった。

もし私が7億円引き当てたとしたら、公表して欲しくない。いろいろなトラブルに巻き込まれそうな気がするのだ。だから公表しないことには賛成だが、公表しない理由と宝くじが公正に運営されていることを、誰もが簡単に知ることが出来る方法で知らして欲しいと思う。

「知ってどうする」
「当たるかもと思い、安心して買って楽しめるでしょ」
「7億円当たるとしても、確率二千万分の一だぞ」
「そうなんですか」
「交通事故で死ぬ確率は、7億円当たる確率の百倍以上だ」
「そうなんですか」
「7億円当たる前に交通事故でお陀仏だよ」
「そうなんですか」
「お前はそれしか言えないのか!」
「言えません」
「何か言えよ」
「その前に寿命が尽きるでしょ」
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年02月12日

退職したら家事は半々?

またもやコロナ禍で巣ごもり暮らしだ。暇になると色々思い出す。定年退職後の二人暮らしもその一つだ。在職中は私は仕事、妻は家事と一種の分業が成り立っていた。それが退職して家でブラブラするようになるとバランスが崩れた。二人とも思惑が外れてイラつき始めたのである。

私は虚弱体質で極端に疲れやすかった。仕事から帰るとご飯食べて直ぐ寝てしまう弱い人。妻は私が仕事を辞めてしまうことを恐れて、懸命に支えてくれた。だから二人とも定年退職を凄く楽しみにしていたのだ。

待ちに待った「ハッピーリタイアメント、さあノンビリするぞ!」と喜び勇んだのは、つかの間。厳しい現実が待っていた。期待に反して、なんだかんだと居心地が悪い。しばらくすると自分の立場に気付いて愕然とした。

我家はいつの間にか妻の支配下にあり、私は単なる新入りに過ぎなかった。二人にとって「家でノンビリ」は長年の夢。ここは天下分け目の関ヶ原、お互いに負けられない状況だ。私は創意と工夫で、この難局を打開する決心をした。妻も自分の城を守る決意は固く一歩も譲る気配はない。

新入りの私は、先ずは敵を知ろうと威力偵察。半年もすると、二人暮らしのコツを覚えた。嫌・駄目・出来ないはご法度。一生懸命やる必要はない。とりあえずは「うんうん、それもいいね」と首をたてに振れば、万事OKだ。

「家事は半々」と言われても驚くことはない。「うんうん、それもいいね」と言って置けばいいのだ。別に、何時からと言われた訳ではない。だが「明日からやって」と言われたら、少々知恵を働かさなければならない。

「うんうん、いいね」は決まり文句だから、そのままで良い。難しいのは後半だ。間違っても「出来ない」と言ってはいけない。そんなこと言ったら、厳しい訓練が待っている。妻は決して甘くはない。「予定があるので三日後からやります」と、とりあえずは先送りする。三日後に同じことを言ってくることは滅多にない。

敵の弱点は充分研究してある。妻は忘れっぽいのだ。しかし、忘れっぽい妻が三日も覚えていたとしたら、ただ事ではない。毅然とした対応が迫られる。

「食事は支度から皿洗いまで私がやりましょう!」
「ホント? 頑張ってね」
「ご飯できましたと言うまでテレビでも見てて下さい」
「上げ膳据え膳ね」
「出したものは残さず食べてください」

結局、三日ももたなかった。私は「良い作り手」になれなかったし、妻は「良い食べ手」になれなかった。そして、其々の得意分野を生かすのが良いと悟ったのだ。事態は何も変わらないのに争いはなくなった。ポイントは家事は半々、との提案に両手を挙げて賛意を表したことにある。こんなことで良いのだろうか。小ズルくて(^-^;) ゴメン

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2022年02月05日

心の中の目

先日、久しぶりに兄から電話があった。長話になったが、お前、とても良い人と一緒になったねと言われて答えに窮した。素直に「はい」とは言えないのだ。と言うのは私が十年以上もかけて悪妻を優しいお母さんに作り替えたと思っていたからだ。今考えると正直で良い人に巡り会ったと思う。

母親には恵まれなかった。食卓を一緒にした記憶がないし、愛された記憶は全くない。子供の私は常識が邪魔をして、母親の本心を見抜くことが出来なかった。生活保護と私の親孝行に頼る自分勝手な人と気づいたのは二十歳の頃だった。

話は戻るが、定年退職をきっかけに妻とのトラブルが始まった。この先は二人で暮らすしかないのだから、自分が変わることにより、相方を優しいお母さんに変える決心をした。長年夢見ていた、憧れのお母さんを作ることにしたのだ。

二人暮らしは単純だ、相方は自分を映す鏡のようなものだから、変えたいのなら自分が変わるしかないのだ。それを知らなかった私は丁寧に説明して理解を求めたが、全く効果がなかった。考えてみれば当たり前だ。相手は鏡の中の私だから。クドクド言って聞かせても反発されるだけで、話など何も聞いてもらえない。言うだけ無駄だった。

とは言え、現状は悲惨だから変えなければならない。ヒントはドラマの中にあった。ヒーローは変身して自分を変えることで、周囲を変えていく。一対多数だから大変だ。とても普通の人にできることではない。ただし、二人暮らしなら話は別だ。相手は一人なので一対一、普通の人でも相手を変えることが出来る。簡単に言えば、自分が優しくなれば、いずれ相手も優しくなる。態度を改めれば良いのだ

先ずは絶対服従と決めた。そんなことかと思うのは、現実を知らない人の反応だ、冷たい戦争中の二人暮らしは会話も接触も少ない。従って、服従するチャンスも少ないのだ。四六時中、絶対服従、絶対服従と心の中で唱えていなければ、千載一遇である服従のチャンスを逃すことになる。

チャンスを捉えるより大切なことがある。それは、服従しながらも優しい目をしていること。それがなければ相手を変えるのは無理。そして、会話も接触も少ない時は、相手が変わるとしてもホンの少しである。しかも、こんな状態が延々と続くのだから辛抱が必要だ。

心が折れそうになっても私には、優しいお母さんを得て幸せな暮らしをするという、最終目標がある。「求めよさらば与えられん」とは本当だった。お母さんと呼べる人は居なかったが、妻を優しいお母さんに作り替えてしまった。

「肝心なのは目力、力を付けるのに5年はかかりますよ」
「目力?」
「目はその人の心の中を映し出す鏡と言われています」
「それがどうした」
「目を見れば、その人の心の様子が分かるのです」
「本心がわかるのか?」
「態度が服従でも目が反抗していたら逆効果なのです」
「なるほど、肝心なのは目力だな」
「そうなんです!」
「アンタ、目が赤いぞ。力の入れすぎだよ」

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2022年01月29日

耳は不思議ね

幸せ本線に乗っているから悩まない。苦しいことがあっても治れば直ぐに本線に戻ってしまう。ところで、耳が悪くなっても自分では分からない。だが、今のテレビは音量をデジタル表示してくれる。音量を上げれば数値が上がるので、嫌でも難聴を自覚してしまう。

目には老眼鏡、歯に入れ歯、ついに耳には補聴器になってしまった。一般社会をを戦場に例えれば、私は無敵の特殊部隊の隊員と空想した。暗い所では暗視鏡、耳は高性能受信機を装備して世の中で戦っている。しかし、入れ歯の隊員を空想できなかった。高性能入歯で噛付きとかどうかな?

難聴は不思議だ。聞こえてくる方向が分からないし、大きく聞こえる音もある。洗面所で歯を磨いていると、少し離れた居間からお母さんの話し声が聞こえ、電話かなと思った。声が緊張しているのが気になって居間に行った。そこには誰も居なかった。トイレ前にスリッパがないのでトイレでもなさそうだ。電灯が点けっ放しなのに気付いて消した。

突然、玄関の方から大きな声がしたが、緊張感が更に増している。一体どうしたのだろう? 玄関に行ってみたが誰もいない。覗き窓から外を見ても誰も居ない。その時、お母さんの叫び声が聞こえた。外ではないらしい。一体何があったのかと緊張して戻り、トイレの前でお母さんを見つけた。

「勝手に換気を止めないでよ。臭いでしょ」と怒鳴られた。なるほど、歯を磨いていた時、居間で声がすると思っていたけど、トイレだったのか。換気は止め忘れていると思って止めたのだ。それでも臭くてゴメンと謝った。自分の出したウンコの匂いだから我慢しなさいとは言わない。家事全般はお母さんの仕事で、我慢は私の唯一の仕事と割り切っている。

「人が入っているのに、何で電灯を消すのよ」と立て続けに叱られた。そう言えば、あの時はかなり怒った声だった。私も緊張して玄関に走った。状況把握も方向も間違っていた。補聴器は付けているけれど、左耳だけだ。右耳は聞こえないので方向が分からない。私は不思議だと思いながらも錯覚を楽しんでいた。スリル満点で緊張したが神秘的でもあった。

難聴は不思議だ。音の世界が変わる。方向、音質も変わる。補聴器を付けても大きくなるだけで聞きにくいときもある。感覚が今までの自分と変わるから不思議だ。

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2022年01月22日

浅知恵

世の中は思い通りには行かないものだ。一生懸命調べて考えたのに、悪知恵と一蹴されてしまった。

定年退職して家でブラブラしていた頃、ある新聞記事が目を引いた。見出しはこうだ、「妻が怖くて退職言えず…」「生活費稼ぎの為ひったくり」。当時は妻と二人暮らしで、何かと虐げられていた。他人事ではなく身につまされる記事だった。私だって妻が怖いから働いているフリをしたい。

ならば、給料をもらっているフリもしなければならない。幸い私にはへそくりがある。新聞記事の男みたいに「生活費稼ぎの為ひったくり」などをする必要はない。使いきったら失業したと言えば済むことだ。何よりも「仕事しています」と言う雰囲気を出すことが肝心だ。

先ずは就業規則だ。勤務時間は10時から16時、週休三日制、年次休暇は50日。こんなものでどうだろう? これで規則に基づいて働いている感じが出てくると思う。役職は課長ぐらいにしようかな。時には上司に言われて仕方なく、と言えるような歯止めも肝心だ。何から何まで自由では「働いている感」が滲み出てこない。

名刺は業者に頼む、パソコンで作ったような名刺では課長の貫禄が出てこない。給料明細書はパソコンで作れる。幸い私はプリンタを持っていない。妻はネットプリントでコンビニで出力とは夢にも思わないだろう。ネットでもらった暗証番号をコンビニの多用途プリンタに打ち込めば、20円で明細書が印刷される。経費としては安いものだ。

大切なのはオフィスだ。これがなくては折角用意した課長の椅子の置き場がない。実は耳寄りな話があった。ある人が事務所に借りたワンフロアの半分を自分が使用して、残りを又貸している。6脚の事務机があって、事務机1脚分の場所を月9500円で貸してくれる。電話の取次ぎもしてくれるし、郵便物なども各机ごとに振り分けてくれる。しかも、一階が喫茶になっているので、お客様の応接も出来るのだ。

これなら名刺に固定電話の番号も入れられるし、住所も世間に知られた伝統あるビル名を使える。勤め先オフィスとして、充分機能するのではないか。長年連れ添った妻を騙すには最低限、この程度の準備は必要だ。

新聞記事の男は、妻が怖くて退職したことを言えなかった。その気持ちは分かるが、何の準備もしないで働いているフリはまずかった。それが「生活費稼ぎのためにひったくり」に繋がったのかも知れない。配慮が足りなかったと思う。

「友人の友人が机を一つ借りていて、趣味のサークル活動の事務局として使っているそうです」
「何を考えているのか知らんが、働きたいのなら真面目に働け。働いているフリなどとんでもない!」
「友人の友人が4月の(本職)移動で地方に転出するそうです。そこを借りられればオフィスの問題も一 挙に解決して、憧れの『仕事』ができるのです。楽しみですね」
「アンタは人の言うこと、何も聞いてないね」
「奥さんが怖くてひったくりなんて可哀想ですよ」
「俺は悪知恵が働くお前より、ひったくり男が好きだな」
「そうですね。私もです」
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2022年01月15日

さえずりたい

昨日、久しぶりに長電話をした。話しの中でAさんが自分自身の壮絶な人生を語ってくれた。とても感動したので、私も40年以上前のことを打ち明けたくなった。それは「音痴なのに歌うな」と叱られた情けない話だ。初めて人に話してスッキリした。簡単に言うと次のような出来事だった。

職場の懇親会で皆が順番で歌うことになった。大きな会場なので遠慮したが、歌えと言われて歌った。三日ぐらいして、近所の友人三人で飲む機会があった。散々飲んで12時を過ぎた頃、目の据わったB君に「お前は音痴なのに何故歌うんだ」と叱られた。頼まれても歌ってはダメだと絡んできた。家に帰ったのが午前2時頃だから、随分長く絡まれていたものだ。

B君はベロンベロンに酔っ払っていて、このことを覚えていなかった。彼はほとんど意識のない状態で、胸に溜まっていたことを一気に吐き出したのだ。正直に言ってもらって目が覚めた。私が歌うと不快に感じる人がいることが分かったのである。以後、25年間人前で歌ったことはない。

それなのにカラオケに行くようになったのには訳がある。65歳の時、Cさんにカラオケに誘われた。Cさんは、あるカラオケ会に入ったが歌えないので練習をしたいと言う。練習仲間として選ばれたのが、音痴の私と仲良しのDさんだった。ビールがジョッキで一杯付いて、150円と言う破格の安さだ。それに三人で三回の誕生日にはケーキが付く。法人カードを持っていて、各種割引を駆使するとこうなるそうだ。

その頃、地元を語るFMラジオで放送委員の一人として中島公園の話をしていた。公園だけで1時間はもたないので、私が所属するシニアネットのカラオケ会の会長にゲストのお願いをした。カラオケ会を知る必要があったので、取材のつもりで例会に参加した。歌うつもりはなかったが、無理矢理舞台に立たされて(楽しく)歌ってしまった。カラオケは健康にもいいのですよと誘われ、その後の例会にも参加するようになった。

当時のカラオケ会は酒を飲みながら歌うのが普通だった。私は酒に弱いので直ぐ酔っ払って、我を忘れて歌ってしまう。それから10年もすると、飲まないで歌うのが普通になってきた。それでも私はさえずりたいのは、動物としての本能かも知れない。小鳥のようにピーチクパーチク。皆様のおかげで楽しく歌わさせてもらっている。今は持病とかコロナ禍の影響で休んでいるが、例会に参加できる日が来ることを楽しみにしている。

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2022年01月08日

やめましょう

1月4日に4回目の検査を受けたが、結果は変わらないので専門家の判断に委ねることになった。現在の状況は癌転移の観察を続けるか、手術をするか二つに一つ。結果は近日中に出る予定。ブラブラしているのも勿体ないので、少しでも病状回復の為、私に出来ることはないか聞いてみた。

先生は「普段通り生活していて結構です。癌を早く見つけて直ぐに手術することが第一です」と言った。しかし、私が普段通りに出来ることは食べて寝る事。そして20年近く続けていて、習慣になっている公園散歩と、ブログやホームページの更新だけ。他のことにはなかなか手が付けられない。

一年の計は元旦にあるというけれど、元旦は何となく過ぎてしまった。新年の抱負は書き損なったので、似たようなものを書くことにした。一応、現在の気持ちを素直に書いたつもりだが、これで良かっただろうかと自問している。

気分転換に独りよがりの老人会を考えてみた。世の中は金と才能のある人に支配されている。そして、彼等が自分の基準で才能ある人を選んでいる。何とかしてこの基準を変えたい。もし無能な人が世の中を支配すれば変えられる。良し悪しは別として変わる。怖い感じもするけどね。

新基準が出来れば、音痴の人にレコード大賞(の様なもの)を与えることが出来る。悪文の人に芥川賞(の様なもの)も与えることが出来る。不可能なことも可能となるのだ。なぜ、老人会かと言うと、自分が無能と見極めるには永い年月が必要だからだ。私は50年もかかった。

それに、老人だから末永く吹きだまってもらえる。若者だったら進歩して去ってしまう。だから、才能がなくても認められたい老人には、今と違う基準が必要だ。無能な老人は団結して新しい基準を作るべきである。世の中は1%の天才と9%との怠け者と90%の真面目だが報われない人で構成されている。民主主義国なら多数決が機能するはずだ。

試みに、無能老人会の決まりを作ってみた。
1.入会資格
  しょうがない人、一度も賞をもらえなかった人
2.対象作品
  意見、川柳、絵、写真、その他メールで送れるもの
3.表彰の決まり
   種 類:むいみで賞、むなしいで賞、やめま賞
   審査員:当分の間ボク

「なんだ、これが新年の抱負か。ふざけるな!」
「抱負のようなものです」
「意味がないだろう」
「むいみで賞、もありますよ」
「バカバカしい」
「笑って暮らしましょう」
「むなしいねぇ」
「そうですね、やめま賞」
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2022年01月01日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
昨年は手術した舌癌のリンパへの転移が疑われ、12月は3回の検査をしました。その結果、年明けの4日に4回目の検査を行うことになりました。年末の27日の入院予定がキャンセルされたので、一先ずは安心しています。

新年は、これからの抱負などを書いてみたいと思いましたが、次回に延期します。4日の検査結果を聞いてからにします。このような訳で、1月8日(土)に今年の予定などを、希望を含めて書きたいと思っています。

万一入院ということになっても、それはそれで良いことと思います。お医者さんたちが治してくれるのですから。今年もよろしくお願いいたします。

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明治17(1884)年、社殿を現在地に建立。中島公園界隈で一番古い神社。後方に薄野の高層ビルが見える。
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2021年12月25日

生活習慣は強い

2年間お世話になっている口腔内科の先生から「27日からの入院はキャンセルしました」と言われてホッとした。今年の正月も今までどうりに家で過ごせる。

心配で何も手が付けられなかったと言っても、中島公園散歩とホームページ、ブログの更新は行っている。18年も続けたことは習慣になっているので、自然に体が動くのだ。

全身倦怠感やリンパ節の腫れなどの自覚症状はない。ただ、超音波検査(エコー検査)の結果で異状が見られたので、造影CT検査と悪性リンパ腫・PET検査とかの検査をしたようだ。その結果が曖昧で「切ってみて癌が無かったら困る」と先生は言っていた。それでは私も困る。と言うことで27日からの入院はキャンセルされた。

手術の必要性は1月4日のエコー検査で、癌らしきものが大きくなっているかを見て判断することになった。私の考えでは小さくなっていると思う。退院後6回はエコー検査を受けているが、引っかかったのは今回だけ。たまたま何かが癌風に見えたのではないかと思っている。

今は悩みと言っても深くはない。例えば、歌が大好きなのに音痴で悩む。もの覚えが悪いので「手話の勉強」で悩む。これらと同じ程度だ。おおまかに言えば悩んでいない。

幸い私は幸せ本線に乗っている。小さな悩み事があっても、過ぎ去れば直ぐに本線に戻れる。入院がキャンセルになった今は、一先ず幸せに感じている。来年も今までと同様、静かで幸せな明るい年になると思っている。

ところで、お母さんが珍しく私にクイズをだした。「アタシの今年一番良かったこと当ててごらん」。いきなりそんなこと言われても無理だ。一日三度のご飯の支度をしたり、掃除洗濯ばかりしていて、気晴らしの外出もしていない。どこに良いことがあるのかサッパリ分からない。

「自分のことばかり考えているから分からないんだよ」
「すみません」
「入院がキャンセルされたことでしょ」
「心配してくれてありがとう」
「はぁ?」
「私のことを心配……」
「いろいろメンドクサイんだよ」

なるほど分かった。お母さんにとって食事用意、掃除洗濯は日常の習慣なのだ。そう言えば私の散歩、ウェブサイト更新も毎日の習慣である。誰でも習慣でやっている日常作業以外はメンドクサイものだ。何故か和田弘とマヒナスターズの『潮来船頭さん(作詞:古川静夫)』の歌詞を思い出した。
それでいいんだ いいんだよ
漕いでギッチラコとヨー 泣いている
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2021年12月18日

雨垂れ石を穿つ

世の中は複雑すぎて、自分の力では何もかも思うように行かない。しかし、退職して二人暮らしになれば話は別だ。相方を説得して好きなように生きられる。

相手が一人だから対応が簡単で、効果の確認も正確に評価できる。失敗したら止める。成功したらやり続ける。簡単に言えばこれだけで良い。といっても予め決めなければ、一歩も前に進めないことがある。それなりの覚悟も肝心だ。

決めるべきは、この先一緒に暮らすか離婚するかである。先ず離婚について考えた。宣言、諸手続き、一人暮らし、その他諸々について、三日三晩懸命に考えた。結論は私の様な怠け者には絶対に無理。苦しくても一緒に暮らした方が、より楽でより幸せだ。

このまま一緒に暮らす方が良い。そう決めれば、どう生きるかは簡単に結論が出る。二人で仲良く楽しく暮らす方法を考えて、実行するだけである。

幸い相方はアル中でも薬物中毒者でもない。ギャンブルには興味がなく、浮気もしたことないし、鬱陶しい親戚もいない。お洒落が大好きな浪費家でもない。おまけに物を盗まないし暴力も振るわない。もちろん嫌なところも沢山ある。

自分勝手で我が儘で、私を常識のない人と軽蔑している。しかも、自分本位で人の都合など全く考えない。自分は正しく私が間違っていると主張、私の言い分など絶対に聞かない。

こんな人といかに幸せに、いかに楽に暮らすかを考えた。相方は法令をキチンと守る常識的な人、しかも外面は悪くない。欠点は私に対する態度だけ。これだけを直せば理想的なパートナーになり得る。どうすれば私が幸せになれるか、真剣に考えたら一時間もしないで解決法を思いついた。

結論は簡単だ。自分自身を嫌われている人から、好かれる人に変えればよい。ヒントは大好きな恋愛ドラマの中に山ほどあった。女性に好かれる為に、滑稽なほどの涙ぐましい努力をする。例えば、「男はつらいよ」の寅さんのように。こんなことは人前では絶対に出来ないが、第三者が居ない二人暮らしなら可能だ。楽ちん暮らしは私の夢。やる気満々!

嫌われ者から好かれる人になるには忍耐が必要だ。30年間も嫌われ続けてきたから、好かれる人になるのに15年もかかってしまった。その方法は? 具体的にはこちらをクリックすればリンク一覧 を表示 → タグ/楽しい我家 

まるで、 雨垂れ石を穿つような、忍耐に忍耐を重ねるような作業だった。「終わりよければすべてよし」と思っているが、果たして今は終わりだろうか。考えればきりがない。
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2021年12月11日

公園で出会った二人

定年退職後の十年間は何とも言えない開放感を味わった。嬉しくて楽しくて、全ての人々を友達のように感じていた。そんな気分の時に中島公園のホームページを開設した。それが縁でいろいろな機会に恵まれ、いろいろな人たちと知り合うことができた。Aさんもその一人。ボランティア活動で知り合った絵の上手な女性だった。

ある日、Aさんからメールが来た。少しドキドキしながら開いた。「猫とハーモニカのことだけど、ひょっとして貴方も興味があるかと思ってね。どうもハーモニカではないようです」との書き出しだった。猫ではなく「牧神パン」と書いてあるので違和感を覚えた。正式な彫刻名は「猫とハーモニカ」だし、壊れた耳を修復すればネコそっくりだ。

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中島公園百花園の「猫とハーモニカ」札幌市公文書館所蔵。百花園は廃止され、跡地は「香りの広場」と呼ばれている。耳のある猫の像は写真でしか見たことがない。

032nokotohmnk.jpg
20年前に「香りの広場」で見た時は既に耳が欠けていた。

その後、Aさんがキタラのコンサートに来る機会があったので、開演前に一緒に猫の像を見に行った。
「猫がハーモニカを吹いているように見えますが……」
「ギリシャ神話の神でパンです。パーンとも発音します」
と、Aさんはキッパリと断定した。
「口にくわえているのはハモニカでしょ」
「パンの笛、パンという半獣神が作った笛です」
「そう言えば、胸のあたりが獣っぽいですね」
コンサートの開演時刻も近づいたので、こんな話をしながら短い散歩は終わった。

数日して、Aさんから「中島公園でデートしませんか」とメールが来た。何となくワクワクしたのだが。「……『猫とハーモニカ』のハーモニカは『パンの笛』でした。この楽器は実在しております。何と、パンの笛を自作して演奏をしている方にお会いしました。日曜日午後に中島公園にいらっしゃるそうです。ご都合が良ければ、いらっしゃいませんか」。日時を決めて特定の場所に集まるのもデートなのか。勝手に誤解して恥ずかしかった。

待ちに待ったその日がやって来た。中島公園菖蒲池の看板近くのベンチで話しながら、二人で待っていると、柔らかい笛の音が聞こえてきた。

「パンの笛の音色ですよ。スペイン・カタロニア民謡の『鳥の歌』です」とAさんが言うので、少し歩いて反対側の岸に行ってみると、若い男性が演奏する姿が見えた。初めて聴くパンの笛は素晴らしい。しばらく聴き惚れていた。

その方は竹笛太郎と名乗っていた。アマチュアのパンフルート演奏家で知識は深く、いろいろなことを教えてくれた。「パンの笛」は、世界最古の管楽器で一般的にはパンフルートと言われている。広島で盛んで、日本にもプロの演奏者が10人ほどいるそうだ。

110821pannofue.jpg
太郎さんのパンフルート。文字部分を拡大(下)。

110821stradivalius.jpg
知る人ぞ知る
ヴァイオリンの名器。太郎さんの意気込み、ジョークそれとも偶然の一致。私のハモニカにも書こうかな。

今は中島公園を散歩する程度で、静かに楽しく暮らしている。後にも先にも自ら進んで自由に活動していたのは、この退職後十年余りだけだった。
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2021年12月04日

恥かき人生

私の恥かきは2種類あり、それらが人生を心豊かに楽しくしてくれた。一つは何事も人並みに出来なくて悩む、消極的恥多き人生。もう一つは、能力もないのに、やたらに手を出した積極的恥かき人生だった。いずれも、恥かき最中は一生懸命で後になってから恥ずかしくなった。

何故か長い間、楽をすることだけを目的として生きて来た。今は殆ど全ての家事をお母さんに任せて、楽をさせてもらい幸せだ。「私が長生きできたのは、お母さんのお陰です」と、三日に一度はお礼を言っている。

定年退職後は仕事から解放され自由を謳歌した。羽目を外して出来ない事にまで手を出して散々恥をかいた。これが積極的恥かき人生の始りである。切っ掛けは中島公園についてのホームページの開設だった。

開設1年半後にテレビ局から取材があり、新聞のインタビューもあった。これが切っ掛けで、活舌が悪く満足に話せないのに地元のラジオで中島公園について話した。そして、その道の達人と誤解され、ろくな文章も書けないのに新聞にコラムも書いた。毎回のように担当記者が直してくれた。ここに書いたような文章では新聞には載せられない。

人前で話したことがないのに講演まで依頼され、あちこちで恥をかいて来た。つまり、やらなくてもよいことを沢山やり続け、恥をさらし続けたのだ。そう思ったのは後になってから。当時はやる気モリモリで一生懸命だった。大抵の皆さんが若い時やっていたことを高齢になってやり始めたのだ。

今思うと何か夢を見ていたような気がする。食う為に働く、私にとっては奴隷の様な労働を続けてきた反動だと思う。せっかく自由になれたのだから、何でもやってみようと言う思いが強すぎた。振り返ってみると45年にわたる消極的人生は、現在の幸福感の種になっているような気がする。そして、積極的に恥をかいた定年後の十年も懐かしい。

不思議なことに積極的恥かきは、カラオケ部門で未だに続いている。音痴なのに75歳で始めた洋楽カラオケでは、思いっきり恥をかいた。しかし、歌っている時は何も考えない。伴奏から大きく遅れた時は、懸命に追いつこうとした。ラジオも講演も同じだった。失敗すればするほど真剣になった。

今のように平穏で幸せな人生を送っていると。苦労した遠い昔も、ジタバタ独り相撲を取っていた定年後の年も懐かしい。恥をかきながらも楽しくて充実していた。

長い間退職後を楽しみにして働いて来たが、期待した通りで良かった。余裕ができたら、恥を全くかかないのも勿体ないと思った。そして、カラオケを残すことにした。

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2021年11月27日

キツネとタヌキ

11月20付け北海道新聞に掲載された「読者の声」について、ある女性(89歳)の投稿が目を引いた。見出しは「結婚69年 初のラブレター」。入院した93歳の夫を心配して書いた、妻の手紙のことである。夫は5通の手紙を大切にして持ち帰った。高齢夫婦の心温まる心の交流が羨ましい。

去年の夏、私も手術のため入院したが、同じようにコロナ禍で面会禁止だった。だが、お母さんは手紙を一度もくれなかった。記憶をたどれば、知り合ってから56年間、手紙は一回ももらっていない。投稿を読んで寂しい現実を思い知った。

退院してから1年もたってから、トイレにこのような書が貼られた。意外も意外、お母さんも80歳になるのに、やってくれるではないか。今まではタヌキ(私)が一方的に騙し勝ち続けて来たが、キツネとタヌキの騙し合いが始まったのだ。
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「ありがとう、あなたに出逢って、よかったです」と書いてある。何回読んでもホッコリする。お母さんは黙って貼ったが、私も何故か聞かない。それで良いと思うのだ。分からない方が楽しいこともある。

現実は出逢って良かったどころではない。やれ、引き出しが開けっ放し、トイレの電気も点けっ放しとか、細かいことにくどくどと煩い。毎日のように小言を言われ、反駁もできずに腹を立てている。少しは控えてほしいものだ。

それなのに、トイレでオシッコを流してないとか、何回も言われて悔しい。一方、私はお母さんが大きいのを流し忘れても、黙って流すだけ、何事も無かったように水に流す。火の始末と違って、大事に至る可能性が全くないからだ。

お母さんには何を言われても言い返さない。例えば、オシッコを流さないと言われても、貴女だって流さなかったとは決して言わない。グッと堪えている。情けは人の為ならず。

口で言うのは簡単だが、これに慣れるのに十年以上かかった。しかし、慣れてしまえば極めて簡単なことだ。独りよがりでいいから、自信を持つことが肝心だ。そして小言も排出物と一緒に、一気にジャーっと流せばスッキリする。この時背中を押してくれるのが画像にある2枚の書なのだ。キツネの計略かも知れないが、タヌキは黙って受けてたつ。
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2021年11月20日

念願の立派な病気

80歳を目前にして舌癌に罹り、手術の為入院することになった。初めて癌という世間でも認められる立派な病名を付けてもらって、ある意味で、とても嬉しかった。その喜びは深海竜宮病院に書いたので、ここでは省略する。

自慢するようで恐縮だが、珍しい癌だ。有名人としてはテレビドラマスチュワーデス物語の堀ちえみさんが罹っている。

幼少の頃は健康だった。10歳から元気よく走って新聞を配っていた。その頃は私が配達するのを待っている人がいて、「エライね」とか言ってお菓子をくれて励ましてくれることもあった。そんなことで、配達するのも楽しかった。

それから5年後の春、中学三年になっていた私は、坂を上るのが辛くなり走って配れなくなった。子供の頃、お菓子をくれた人に「新聞が遅い」と叱られた。体調は悪いが、学費は必要なので配達は止められない。今の常識では病院に行くべきだが、その頃、病院に行く人は滅多に居なかった。

働かなければ食ってはいけないが、体調が悪いまま働くのは凄く辛い。何をやっても続かず、8年ばかり職を転々。その結果肉体労働は、どうしても出来ないことが分かった。

何か事務的な仕事はないかと探したが学歴で無理。調べてみると、国家公務員試験だけは、受験資格で学歴を問われないことを知った。つまり、短大卒業程度の中級職も中卒で受けられる。20歳以上28歳未満の年齢制限があるだけだった。

年齢の関係で高卒程度の初級職は無理、27歳まで受けられる中級職を受けることにした。21歳のとき、兄の紹介で「インド通信東京支局」でアルバイトを始めた。実働2時間程度で、6時間は一人で留守番という、楽で暇な仕事だった。誰も居ないから一人で試験勉強ができるのだ。お陰で2年後に航空管制官試験に合格できた。

スポーツを楽しんだり、レジャーも盛んな職場だったが、私の健康状態は相変わらず悪い。仕事が終わったらさっさと寝る。目が覚めたら、本を読んだり、テレビを観たりの休養生活だった。付き合いで飲んだり旅行に行ったりするが、自由時間の全てを休養に当てた。

体調が悪く、息切れがして疲れ安い状態は続いていたので、病院にはよく行って、検査もよくやった。しかし、検査結果はいつも異常なしだ。その度に健康になるという望みは絶たれた。こんな状態が40年以上続き、虚弱体質と諦めた。

2年前は舌が痛くて飯も食えなかった。食える物もあるが塩気があれば痛い。牛乳、生卵、お粥、豆腐等いろいろあるが、塩気がなくては美味しくない。どうか立派な病名が付きますようにと祈った。舌が痛いのに異常なしなら心配だ。舌癌と言われてホッとした。これで痛いのが治る。病名が付くこと、これが快復の第一歩である。
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2021年11月13日

片付け恐怖症

忘れるスピードは若い時が歩く速さとすると、高齢になると飛行機ぐらい速くなる。例えば、用事があって部屋を出る。そして、さて何で出たのかなと考える。これが超高速物忘れ。あるいは、物を何処に入れたか忘れて年がら年中、探し物をするようになる。これは認知型物忘れだろうか?

整理整頓は好きだったが、60代で億劫になり、70代で次第に怖くなってきた。80歳になると、大切な物が行方不明になる。つまり、大事なものは泥棒に盗まれないように、慎重に場所を選んで仕舞い込む。そして分からなくなる。もう、こうなると病気である。だから私は「片付け恐怖症」。

以前は、テレビやラジオも好きな番組を選んで観たり聴いたりしていた。その結果、偏った好みと偏った考えを持つ偏屈な人になってしまった。その反省か、最近は番組名も分からずに流していることも多くなった。

坐っている時はテレビとビデオを楽しみ、寝ている時はラジオを睡眠薬代わりにしている。いずれも番組を選ばず、気ままに流している。自分では源泉掛け流し方式と思っている。しかし、知らずに放送に影響されて洗脳される場合もあるそうだ。落とし穴は何処にあるか分からない。

巣ごもり中は、それなりに日々の暮らしを楽しんでいた。しかし、コロナ緊急事態も解除、世の中は動き出している。身近なところでは、お母さんも買い物、習いもの、友達付き合いに動き出した。

一方、私は巣ごもりも留守番も大好きだ。特に楽しいこと、あるいは生き甲斐になる事もやってはいない。それなのに幸せだ。不安がないからだと思う。私はこの状態を汽車に例え、「幸せ本線」に乗っていると思っている。これに乗っている限り脱線しても直ぐに復旧、幸福になる。

70歳を過ぎた頃から、物を動かすと何処に移したか忘れるようになった。一見、ゴチャゴチャしていても、置いたままなら何とか探し出すことができる。残念ながら、「そのまま置いておく」以上の整理法は、未だに見つかっていない。

テレビでゴミ屋敷のような高齢者の部屋を見ると、いずれ、ああなるのかなと思ってしまう。それでも整理整頓するのは怖い。だが、不安を感じないから幸せである。片付けなければ良い。それでいいのだ!

「その内出てくるだろうと楽しみにしています」
「珍しく楽観的だなぁ」
「私が分からないのだから、泥棒も見つけられませんよ」
「おめでたいねぇ」
「11月ですから、おめでとうには早すぎます」
「長生きするよ」
「もう、しています。81ですからね」
タグ:楽しい我家
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2021年11月06日

不安なければ幸せ

いきなり、むさ苦しい部屋の画像で申し訳ない。
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この部屋で幸せな余生を送っている。幸福とは不安の無いことである。二人暮らしの住居は80平方メートル余りだが、自由に使える空間はこの部屋だけ。居間、寝室等、その他の部屋は全てお母さんの管理下にある。私には鉛筆一本置く自由もない。それなのに幸せだ。不満はあるけどね

「誰? 洗面所に箸と丼、置いたの!」
「ごめんなさい。急用ができて下げるの忘れました」
「何で洗面所に丼なの!」
「お茶漬け食べていたら、暑くて汗がダラダラ……」
「夏だもん、暑くて当たり前でしょ」
「風が通る一番涼しい場所で食べたかったのです」
「アタシが居なけりゃゴミ屋敷になっちゃうね」

その日は、この夏一番の猛暑だった。それに、箸と丼の置きっぱなしぐらいで目くじら立てないで欲しい。整理整頓は良いことだが、やり過ぎは迷惑だ。居間も整然としていて、雑誌一冊置く余裕さえない。

私は雑然とした自分の部屋が大好きだ。一番のお気に入りはベッドだ。枕元には本、小型オーディオ、ラジオ、そして、鉛筆とメモ帳が置いてある。スマホも寝転んで楽しめる。

装飾品は何もないが、テレビとパソコンがあれば、いろんな画像を見せてくれる。それに窓からの景色は、春夏秋冬時々刻々と変わり、厭きることはない。

幸せ列車に乗っている限り、不幸な事態に遭遇しても直ぐに幸せに戻る。一年前は癌に罹り手術も失敗、一日で2回も手術をして苦しかった。手術後の治療にも不具合があり、三日三晩苦しんだ。しかし、終われば直ちに幸せに戻った。

全ての医療従事者が全力で取り組んでくれた。治る確信があり不安は感じなかった。どんな状態でも不安がなければ、苦しさは一時的。治った途端に幸せに戻ってしまう。

不安は退職して自由になったら消し飛んだ。新聞の見出しに「働く女性自殺3割増」とあった。不安に取りつかれるのは苦しい。一部の人は死を選ぶ。幸福とは不安のないことだ。
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2021年10月30日

老人になれない事情

時が過ぎるのは早いものだ。明日が来ればもう81歳。自分が老人であることは分かっているし、ヒトとしても生きすぎた。それなのに老人である様な気がしない。何故だろう?

子供の頃に見た老人と違うからかな。その頃の老人は身体の動く限り働いていたし、働けない人は家で静かに大人しくしていた。老人が集団で歌って踊ったりして、遊んでいる有様を見たことがなかった。それなのに、今の私は歌って踊って楽しみたいと思っている。これで良いのだろうか?

10歳の頃から新聞を読んでいたのに、老人の殺人とか傷害、窃盗等の記事を読んだ記憶がない。「荒くれ老人」が増えたのは何時からだろう。その頃の犯罪の主流は若者だった。その若者が老人になって、老人犯罪が増えたのだろうか?

犯罪のような極端な場合は別としても、老人の自覚がないのは何故だろう。60歳の頃は80歳以上が老人かなと思っていた。80歳になったら90以上が老人と感じていた。90になれば95以上が老人と思うに違いない。いつまでたっても自分より年上が老人で切りがない。

最近、老人とは老人には見えない幻のようなものかなと感じている。あるいは自分の顔が見えないから自覚が出来ないのかと思い、手鏡を買って自室に置いた。

「鏡に向かって、これは老人であると言ってみました」
「そうかい」
「英語でティス・イズ・ロージンとも言ってみました」
「ロージンは英語でないぞ」
「カラオケが英語だからロージンだって……」
「発音はキャリ・オゥ・キィだ」
「ともかく、何を言ってもダメでした」

やはり、一人ではダメだ。比較の中で徐々に老人と自覚するようになるのだ。多分、祖父母、両親、子供の三世代で暮らせば、嫌でも老人と感じると思う。しかし、覆水盆に返らず。今になっては遅すぎる。

「どうにかなりませんか?」
「胴はは首から下だ」
「何ですかそれ?」
「島崎藤村は言った。人生は大いなる戦場である」
「意味が分かりません」
「胴が首に繋がっていれば良いじゃあないか
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 80歳以降

2021年10月23日

中島公園で失われた2景観

ある情報によると中島公園内には100種5,530本の樹木があると言う。倒木も植樹もあるが、現状もこの数値に近いと考えられる。時には台風に襲われ樹木が何十本も倒れることもある。それでも、周辺の木々は成長し続けるので、台風被害の痕跡は時がたてば分からなくなる。

ところが、台風や危険木伐採で様変わりした景観が二カ所ある。一つは地下鉄幌平橋駅から行啓通の西に延びている道路のポプラ並木。もう一つは中島公園西側を流れる鴨々川沿い遊歩道のヤナギ並木。共に素晴らしい景観だが消失した。

ポプラ並木は2004年9月8日の台風18号で一挙に倒壊し消滅した。一方、ヤナギ並木は30年以上かかってじわじわと減り、今年も危険木として3本が伐採された。1988年に64本あったヤナギは5本に激減、消滅寸前の状態である。

1.2004年9月8日、台風で消滅したポプラ並木
2001年に中島公園近くに転居して一番気に入ったのが、天を突くように林立する行啓通のポプラ並木だった。残念ながら、台風18号で一挙に倒壊し消滅、今は見る影もない。

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ポプラ並木は台風で全て折れた。そして、伐採された。
画像は公園近くに転居した2001年11月3日に撮影。

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20年たった今は、まるで別な道路の様だ。
2021年10月22日撮影。

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台風第18号で軒並み折れたポプラ並木は後に伐採された。
画像は台風翌日の2004年9月9日に撮影。
過去の詳細はこちらをクリック → 行啓通のポプラ並木

2.じわじわと消滅間近のヤナギ並木
『中島公園百年』 山崎長吉著に次のように書かれていた。「中島橋から川ぶちにシダレヤナギが続く。札幌で一、二といわれるヤナギの街路樹は詩情を誘うに十分なものがある。その数64本。(中略)鴨々川のヤナギは京都の鴨川のヤナギ並木を模して、川ぶちの料亭鴨川(南12条西6丁目)が植えたともいわれている」。転居して11年もたつのに何処の話か分からなかった。読後すぐに現場らしき所に行ってみた。

2012年秋深まる頃だった。川とは鴨々川で、中島橋とは中島公園北西側の入り口に架かる橋。そこから料亭鴨川跡地までは遊歩道になっている。ところが、64本あるはずのヤナギは21本しかない。詩情を誘うに十分な並木は大半のヤナギを失っていた。最早ヤナギ並木とは言い難い状況だ。その後も減り続け、2021年となった今は5本となり消滅寸前である。

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2002年8月にはヤナギ並木もかなり見られた。

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2002年10月2日の台風第21号でヤナギが倒木、その後、危険木と診断された木も伐採された。2002年10月15日撮影

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そして、ヤナギ並木は分断された。並んだヤナギの切り株が侘しい。2002年10月19日撮影

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その後も台風による倒壊と危険木診断による伐採が繰り返された。今年、2021年秋も危険木として3本伐採された。

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危険木はこのように表示される。

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2021年10月4日、かろうじて残ったヤナギ並木だが、右側の一本は危険木と決定され、既に伐採されている。64本あったヤナギは5本に減った。

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中島橋と公園橋の間(日本庭園・豊平館裏)はヤナギ5本、イチョウ5本で14カ所が樹木升のみの状態になっている。画像の両端がイチョウ、その間は樹木升のみ。

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一方、札幌コンサートホール・キタラ裏はほぼイチョウ並木に代わっている。遊歩道の左が鴨々川そしてキタラ。

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以前、倒木したヤナギの跡にヤナギの若木を捕植したことがある。多くを失い、残ったのは左端の一本だけだった。この環境でヤナギを育てる難しさを痛感させる出来事だった。
2012年11月5日撮影。
過去の詳細はこちらをクリック → 鴨々川のヤナギ並木

3.私が考えたこと
詩情豊かなヤナギ並木の復活を願う。と言うのは簡単だが実現は難しい。それでも何とかして復活させて欲しいと思う。元々あったのだから、何らかの方法があると思うのだ。キタラ裏(公園橋、料亭鴨川跡地間)は既に大部分がイチョウ並木に代わっているので、それでいいと思う。

しかし、日本庭園・豊平館裏(中島橋、公園橋間)はイチョウは5本だけ、そしてヤナギが5本、大部分は放置され、樹木升だけが残されている。その数は14カ所、並木にするには十分だ。これは放置しているのでなく、ここにヤナギ並木を復活する方法を真剣に検討しているのかも知れない。

現にキタラ裏には25本のイチョウが、ヤナギの跡に捕植されイチョウ並木になっている。何らかの意図があって樹木升がそのまま残されていると思う。この辺りの風景は国指定重要文化財豊平館、同じく日本庭園内の八窓庵、レトロな街路灯、そして、料亭鴨川が植えたと言われるヤナギ並木で構成される札幌の歴史ゾーン。何とかして復活させようと研究、努力中。私はそう思いたい。

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樹木升に咲く可憐な花はヤナギを待っている?

4.後書き
10年以上前と思いますが、中島公園の歴史を書きたいと考えいろいろ調べました。その結果、私のような素人には無理と思いました。専門知識、知力体力が必要です。私に出来ることは、唯一つ、「記録を残すこと」と考えました。自分が見たことを写真や文章で残すこと。これに尽きると思い、このブログを更新中。よろしくお願いいたします。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年10月16日

為せば成る

カラオケも行けない巣ごもり生活を始めて2年たった。舌癌発病にコロナ禍が追い打ちをかけたのだ。1年半前のことだが医師に癌と言われた。病名が付いた以上は治してもらえると思い、ホッとして「そうですか」と言った。看護師さんが微笑みながら「怖くないのですか?」とささやいた。痛くて飯が食えないのに異常なしと言われる方が怖い。

何であれ、病名を付けてもらうことが快復の第一歩だ。長年、体調が悪くて病院に行っても異常なしと診断され続けた。14歳の時、息苦しくなり、やたらに心臓がドキドキするようになった。それ以来、人並みの動きをすると、息切れがするし疲れが酷い。その状態は現在に至るまで続いている。その為、退職し無職になってとても嬉しかった。

数年は張り切っていろいろやったが、自由な活動といっても、やはり人並みの体力がないと難しいことが分かった。周囲の人に合わせられないと、心ならずも存在自体が迷惑になることがある。いろいろやって、いろいろ楽しんだが、いろいろと疲れた。自由な活動もやっぱりダメだった。

妻は家でゴロゴロしている私に家事をさせようとしたが、出来が悪いので諦めた。その代わり何をしてくれても、嫌味たっぷりだ。憂鬱な状態は十年以上続いたが、発想を変えて解決した。夫婦関係を母子関係に切り替えたのだ。私は子供になってお母さんを尊敬することにした。そして、言葉使いに気を付けて、言うことを聞く良い子になるように心がけた。

ある日、トイレで用を足していると、突然電灯が消えて真っ暗になり、いきなりドアが開いた。そして叱られた。
「臭い! 電気も点けないで何してんの!?」
「ごめんなさい」
と謝った。トイレに入るため、お母さんは電灯を点けるつもりで消したのだ。そして、開けたら私が座っているので驚いたのだろう。良い子を演じている私は、口答えをしない。

こんな対応を三年も繰り返していたら、とても優しいお母さんに変わってしまった。もちろん喜んで私の世話をしてくれる。私は、ことあるごとに「この歳になるまで生きてこられたのはお母さんのお陰です」と言う。体調が何時も良くない私としては、嘘偽り無い本当の気持ちだから素直に信じてもらえる。ちょっと変だが、80歳の母と81歳の子になった。二人暮らしなら何にでも成れる。為せば成る。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般