2019年03月16日

コロコロからソーセージへ

最近、自分はウンコを作る機械ではないかと思うことがある。口から材料を入れて機械本体である身体を適当に動かし、良いウンコ作ることに専念しているような気がするのだ。中島公園に関するウェブサイトを更新するのも、歌うのも良いウンコを作るためだ。公園の取材では機械を動かすように足を動かしているし、歌っては内臓も動かしている。

在職中は毎日のように下痢をを繰り返していたが退職したら何時の間にか治っていた。一方、楽しみにしていた二人暮らしは、期待に反してギクシャクしたものだった。何故だろうと問題点を整理したら、WFは家庭という職場の大先輩で自分は新人だからと理解した。

そこで大先輩をたてる新人になる決心をした。凝り性の私はその程度では満足せず、絶対服従の家来になってしまった。ただし、命令を聞くだけで忖度はしない。ここが肝心である。気を利かせて二人の為に良い事をしようと思えば、新たな争いの種になる。

予想通り命令は実に少ない。仕事チョッピリで自由時間がイッパイ、毎日好きなことして暮らしていて嬉しくないはずがない。私の笑顔はWFにも伝染した。感謝の言葉が自然に口から出るようになると笑顔の好循環が始まり、穏やかな暮らしが続いている。

外交問題が解決すると、内政が気になって来た。つまりWFと上手く行っていると、自分自身の内臓が気になって来たのだ。在職中の慢性下痢症が治ったが、便秘とコロコロウンチが気になって来た。下痢は20年以上続き、その後の便秘とコロコロは10年以上続いていた。しかし、慢性だから仕方がないと、その都度売薬で対応し放置していた。

1年くらい前のことだが、WFが薬を飲んでいたので、何の薬か聞くと「良いウンコが出る薬だよ」と言うので私も飲んでみた。1ヶ月飲んだらコロコロウンチは治ったが、柔らかいのが1日に何回も出るので止めた。そして一週間くらいたったら意外にも、太くて長いソーセージの様なのが出たのだ。まるで絵に描いた様な立派なウンコを見て思わず感涙!

1ヶ月間、薬を飲んだだけでコロコロが長いソーセージに変わったのである。いつも完璧とは行かないが、コロコロウンチだけは出なくなった。これは大きな収穫だ。いろいろ試行錯誤が続いたが、毎朝、コーヒー、ヨーグルトに黄粉とオリゴ糖と果物、そしてパンを欠かさない。いつの間にか私は、良いウンコを作る機械の気持ちになってしまった。

終戦直後に流行った、明るい感じの「リンゴの唄」を御存じだろうか? リンゴのところをウンコに変えて歌えば私の気持ちがよく分かると思う。

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タグ:札幌
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2019年03月09日

ジョークも音痴

ジョークも音痴で掛け合いも苦手だから誤解されることもある。ところで、定年前は職場一番の年寄りだが、老人福祉センターに行ったら一番若くなってしまった。老人から一挙に若者気分だ。まるで第三の青春だからだから、ワクワクもドキドキもある。私なりにね。

ある夏の昼下がり、Aさんから突然電話がかかって来た。「わたし、分かる? 今あなたの家の前の公園、ちょっと出られる」。なんだろうとドキドキ。小さな期待と不安が入り混ざった。ともかく出てみよう。公園はすぐそこだ。

中島公園ほぼ中央の芝生の広場は「香りの広場」と名付けられている。広場は彫刻とバラの花に囲まれ、所々にベンチがある。デートの場所としても悪くない。Aさんは私と同年配で、お洒落な人。社交的で何もかも私とは正反対だ。年上のご主人とは、豪邸で二人暮らし。趣味は乗馬とゴルフ、それに海外旅行と優雅なものだ。

香りの広場に行ってみたが見当たらない。見渡すと、やや遠くの方にスラックス姿の女性が一人。洒落た帽子にサングラス、脚を組んでタバコを吹かしていた。遠目では分からないが若くて美人。 ひょっとしたらと思ったが、彼女はタバコを吸わないし若くもない。

アチコチ見渡したが、らしい人はいないので念のため近づいてみるとAさんだ。ニヤッと笑って開口一番こう言った。「私、フランス映画みたいにタバコを吸いながら男を待ってみたかったのよ」。幾つになっても、こんなセリフが似合う人だ。ワクワク。

一方わが身を省みればハゲで短足、それでも何か気の利いたセリフを、言わなければいけないような気がした。間を置けば間抜けな感じになる。「似合ってますよ。様になっています」とか、慌てて言った。ありきたりのことをね。 

ところで、この日から数日前、Aさんの友達と3人でお茶を飲んだ。遠来のお客様をもてなすつもりで、「ここは私が持ちましょう」と言った。そうしたら「私、男と認めた人からしか奢られたくないのよ」と断られてしまった。情けないけれど仕方がない。思わずショボクレタ。

後で考えると悪いのは私。Aさんは高齢を前提に冗談を言ったのだ。よくあるパタンなのに、まともに反応し黙り込んだ私がバカだった。笑って終わる筈なのに気まずくしたのだ。ともかくAさんは私の機嫌を直しに来てくれた。有難う。

もし私がジョークの分かる人となら、Aさんは遠くから中島公園まで足を運び、フランス映画の真似事などしないで済んだのだ。公園には駐車場がないから有料駐車、シガレットケースとライターは旦那さんのを無断拝借とか、それなりの苦労はあったと思う。ジョークに応えられないと、知らずに迷惑をかけてしまう。修業が足りないのは確かだが、難しいものだ。私は運動音痴で歌っても音痴、これも音痴の一種かな? 

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2019年03月02日

最後の親睦旅行

年を取って、先ずエンジンから劣化して来た。もう10年以上も旅行したことがない。私と言う車はポンコツになったのだ。走る代わりに旅行の思い出を書いてみた。来年は80歳になる。人様の迷惑も顧みず、人生の目標が細く長く生きることに変わってしまった。こんな私でも60代は元気だった。所属するシニア団体の親睦離旅行に参加したりして楽しんでいたものだ。11年前の旅行は個人的にはミステリー旅行にするつもりだった。

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勝手ながら旅行関係説明資料は一切読まない。説明会では居眠りと空想を楽しんでいた。ドラマは予備知識なしで観た方が面白い。旅行もそうだろうと思ったのだ。迷子にならないことだけは注意した。団体旅行だから後ろの方に並び、ひたすら前の人に付いて行く。迷子になったらお仕舞だからね。耳にはイヤーフォンを付け好きな音楽でも聴くことにした。これでミステリー旅行が可能と考えていた。

バスを降りると空港に付いた。集合場所と時間を確認すると、出発までの待ち時間を一人で空港内をブラブラして過ごしていた。自由に行動できるのは、こんな時しかないので大切なひと時だ。相変わらず空は青く雲は白い、日本中どこに行っても同じ空。おまけに何処の空港も似たり寄ったりの造りだ。ふと仙台空港も時流に乗ってタワーを新しく建て替えたようだと思った。後になって分かったことだが、そう思ったのは私の錯覚だった。

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高くそびえるタワーを見ながら物思いにふけっていると、シニア団体の世話役さんに声をかけられた。「あら、中波さんじゃない。こんな所で何しているの。もうじき出発ですよ」。出発? 東北旅行、仙台。私の脳は漸く現実と繋がった。千歳空港を歩いている内に起きた錯覚だった。空港には個性がない。千歳にいながら仙台に居ると思い込むほど個性がない。いずこも同じ青い空と白っぽい建物。それでもミステリー旅行は大丈夫。団体に付いて行きさえすれば可能と考えていた。

素晴らしい空・陸・海の旅だった。東北から北関東にかけて空から、海から、陸から見た。空の旅は速いが、上から下を見る限りゆっくりと進んでいた。いつも下から見上げている雲が、下にあるから面白い。雲が切れると大きな川が見えたりする。

800キロにも及ぶバスの旅も快適だった。ガイドさんの方言が心地よく耳に響く。ここは東北と、しみじみと実感した。立派な瓦葺き屋根の豪邸が延々と続く。漁師の家と聞いてビックリした。つい先日、「燃料がこんなに上がっては漁師は食えない」とテレビ報道があったばかりだ。思わず、豪邸の中で腹を空かしている子等の姿が目に浮かぶ。何となくチグハグである。

帰りは茨城県の大洗港から大きな船に乗った。食事のとき、隣のテープルは男性一人に女性5人、楽しそうな笑い声が絶えない。こちらは男性5人で黙々と食事をとり酒を飲む。隣のテープルも二人ばかり抜けたが、相変わらず賑やかだ。

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思い切って「楽しそうですね」と声をかけると、「どうぞ」と私も仲間に入れてくれた。初めから終わりまで楽しい旅だった。ミステリー旅行は単なる予定、こだわることもない。イヤーフォンで耳を塞いで人の後ろを歩いてみても大して面白くもなかった。状況に応じて予定を変えるのも旅の楽しみ。振り返ってみれば11年まえのこの旅行が私にとって最後の旅行となった。今でも思い出して楽しんでいる。
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2019年02月23日

昔のネットは好かった

今から15年以上前のことだが新聞の人生相談が好きだった。しかし答えが現実離れしていると思うこともある。例えば人の輪に入りなさいとか難しいことを簡単に言う。必要なのは、いかにして入るかだがスッポリ抜けている。何故だろうと考えたら直ぐに分かった。誰でも自分の経験を重視する。回答者は魅力的な人気者、しかも世渡りの達人で、人の輪に入ことなど朝飯前だ。ショボクレタ老人とは全く違うのである。

これは社会の底辺で暮らしてきた私の思い込みかも知れない。ともかく回答者は何らかの成功を収めて何らかの地位に就いた人である。そんな人より、同じレベルの人が相談に乗った方が好いのにと考えた。そんな訳でネットで人生相談をやりたくなった。せっかく誰もが発信できるツールが出来たのだからね。

私が抱いていた長年の夢が実現する環境が整ったのだ。パソコンがネットに繋がると、さっそく「メル友コーナー」に登録。「人生相談承ります」と掲示板に書き込んだ。さて、忙しくなるぞと、待ち構えたが一週間たっても一通のメールも来ない。

「変だな〜、パソコンの故障かな?」と思って、5人の同年輩の見知らぬ男性に、質問を兼ねたテストメールを送った。3人の親切な男性から返信があった。内容はみな同じようなものだ。「メル友に登録したらメールが来ると思ったら大間違いですよ」とあった。

苦節6年、ようやく相談者が現れたので、張り切って相談に応じたのが、前回に書いた「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」である。たった1回の「人生相談経験」で何かが分かるとは思わないが、相談者は必ずしも役に立つ回答を求めているのではない。私が気楽に趣味の相談を始めたのと同様に、気楽に相談する方も多いようだ。退屈しのぎにね。

その後、「相談者」とは週一くらいの割合で1年ほどメールの交換をした。プライバシーに関することなので書けないのは残念だが、まさに人生いろいろと思った。叱られたりもしたが、未知の人と匿名で内緒話ができて楽しかった。15年以上も前のことだが、ネットでの自由を謳歌できる時代だった。トラブルに巻き込まれる懸念など全く感じなかった。昔のネットには安全・自由で好かったなぁと懐かしんでいる。ちょい悪だけどね。

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タグ:国内某所
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2019年02月16日

夫婦喧嘩は犬も食わない

およそ15年まえのことだが、人生相談を受けたことがある。本当は違うかも知れないけれど、その様な感じのメールをもらったのだ。「定年退職した夫が家でゴロゴロしていて、何もかもかみ合わない二人暮らしに、ウンザリしている」と言うような内容だった。

念のため確認すると酒乱でもないしギャンブル狂でもない、浮気もしない普通の人だそうだ。その上で、夫は外に出てサークル等、人の輪に入ったらいいのにと不満を漏らしていた。簡単に言うけれど普通の高齢者には難しい課題だ。第一、人の輪は既に出来上がっている。そこに割って入るのは至難の業である。人気者じゃあないのだから。

妻は大変と思うが夫も楽じゃない。退職したばかりだった時の私と状況が似ていて、他人事とは思えない。問題を解決して、楽しい二人暮らしをしてほしいので一生懸命考えた。先ず前提条件が事実なら解決も簡単と思った。

少し長いけれど次の様な内容の返信メールを送った。挨拶抜きで要点のみを掲載。
「何事も直ぐに出来ることから始めるのが近道です。愛、誠実、真心など抽象的で難しい問題は、一先ず棚に上げて置きましょう。そして人間本来の姿に帰ればいいと思います。集団生活をする動物だから主従の関係が何よりも大切です。どちらかが従にならなければなりません。御主人が従にならないのなら、貴女が従になればいいと思います。

どちらかが従に徹することにより、緊張感は遅かれ早かれ消滅するでしょう。そして、お互いの意思の疎通が軽やかになり、話し合いが気楽に出来るようになります。小さなケンカをしても後には引かなくなるでしょう。棚上げにして置いた愛、誠実、真心なども自然に降りてきます。主従関係を作るのは問題解決の始まりであって終わりではありません。

民主主義は大きな集団には必須でも、二人暮らしには邪魔なだけです。いつも1対1で引き分けでは何も出来ません。従だからといって格下というわけではないのです。単なる役割、二人でも頭は一つしか要らないと思います。そのうち主従関係は流動的になります。時と場合に応じて交替するから、楽しく暮らしていくことが出来ると思いますよ」。

直ぐに返信があったが提案については何のコメントも無い。そして、「夫に犬と私とどっちが大切かと聞くと、犬だと言うので頭に来た」と書いてあった。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うのは本当だった。本人に解決する気がないことが分かった。真剣に取り組んだ私がバカだった。そう思いながら、何故かメールの交換は1年くらい続いた。私は野次馬?

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2019年02月09日

学生時代は楽しかった

学生時代は楽しかったなぁとか言っても、私の場合は中学生時代のことである。アルバイトはしていたし、好きな科目だけ選択して勉強していた。つまり、授業によっては居眠りしたり好きな本を読んだり、あるいは空想したりして過ごすのだ。放課後は理科室に入りびたりで化学の実験に熱中した。宇宙旅行協会とかいう怪しげな会に入って、空想みたいな勉強ごっこを楽しんだ。会誌にロケットの作り方など書いてあったがデタラメだった。

映画を観たり買い食いをしたりする自由があった。親しい友人も何人かいた。驚くべきことに天才の友人もいたのである。一番好かったことは、頼りになる親分肌の同級生に出会ったことである。彼のお陰で苛めにも遭うこともなく自由を謳歌した。嘘みたいな話だが事実に基づいて書いたつもりだ。訳あって高校に行く選択肢はなかった。しかし、(中)学生生活は最高に楽しかった。

中学時代一番の思い出は、大ちゃんと呼ばれていた加藤大輔君との出会いである。体格が良く歌や絵の上手い親分肌の生徒。クラスの人気者でもあるが、何故か、取り巻きは私のような情けない感じの同級生ばかり10名くらいだ。表の特技は鉄棒等の器械体操、裏の特技は喧嘩だが、体格と威勢のよさでで相手を圧倒する猛者である。

大ちゃんは授業中に退屈すると精密にしてワイセツな絵を描く。そして教室内で回覧させたりする不良生徒でもあった。しかし、違う面も持っていた。校内で放送劇を上演するとき、先生の推薦で主役をやると、まるで声優のような語り口で女生徒たちを魅了した。勉強以外は何でも出来る人だなと思った。

テレビも一般家庭には普及していない頃なので、よく大ちゃんの家でお喋りをした。その後で街をぶらついたが、時々貧民窟に行く。そこには私が終戦後に住んでたような焼けトタンのバラックが無秩序に建っていた。そこに大ちゃんの彼女が住んでいると言う。

「中山が住んでいるんだよ。好きなんだ。アイツ可愛いだろう?」と同意を求めるが、そうでもない。中山さんは隣のクラスの女生徒だが、ごく普通で目がデカいだけだ。大ちゃんはクラスの人気者で女生徒にもモテモテだ。それが何故あの子にと不思議でならなかった。

世話になった大ちゃんの人となりについては、一番思い出の深い同級生として、大ちゃん〜幻の決闘に書いた。中学時代に苛めに遭わなかったのは大ちゃんのお陰と今でも感謝している。楽しく過ごすには欠かせない存在だった。コソ泥と苛めは自己責任で対応する時代だった。新聞は毎日読んでいたが、なぜか苛めが記事になった記憶はない。
タグ:渋谷
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2019年02月02日

困った時には運がつく

小学生時代の悩みはパラック住まいとズボンの下にパンツをはいてないことだった。先ずパンツだが社会情勢が私の味方になってくれた。10歳ぐらいで仕事が欲しいといっても、なかなか無いが、運よくS経済新聞が新しく発行された。

大都市東京の新聞配達は中学生程度の体力が必要だ。人口密集地区だから沢山の新聞を持たされる。しかし新規参入のS経済新聞は購読者が少ない。部数が少なければ小学生でも配達可能だ。配達時間に影響するので受け持ち区域は極端に大きくは出来ない。

そのため、賃金が安すく三大新聞の半分以下だったが仕方がない。1ヶ月千円だが小学生にとっては充分な金額だった。国鉄最低運賃が10円で、もりそばが17円、そして40円で古い洋画が観れたのだ。しかし、母に食い扶持として700円とられた。その代わり端切れを縫い合わせてパンツを作ってくれた。そのころの下着は手作りが普通だった。

母は怖い人、私だけでなく家族全員が怖がっていた。だから母の言うとおり700円の食い扶持を入れたが、納得はしていない。母の金扱いのずさんさを知っているので、黙って母の財布から少しずつ戻していた。良心の呵責はなかったが恐怖感があった。食い扶持と言っても500円が限度だ。私はそれ以上払う気がなかった。

貧乏だが運だけは好かった。何もしなくても忌まわしいバラックは、安普請ながら木造の新築住宅となった。戦災復興土地区画整理事業で道路の幅が広くなった。当然土地は狭くなったが家を建ててもらえた。両隣の人が爪に火を点すような暮らしをしながら、自力で同じような安普請の家を建てていた。他の家は区画整理案に合わせて建てたから、我が家のバラックだけが道路予定地にはみ出していた。

世の中は不公平だ、全力をかけて自力で建てた家並みの中に、無料で建てられた家が並ぶことになった。もちろん最低限の木造家屋だがバラックから脱出できて大喜びした。家の中に台所とトイレがあることが何よりも嬉しかった。それに木の香りは格別だ。

私にとって最大の悩みは遅まきながら解消された。バラックから解放されパンツもはいた。焼けトタンのバラックは冬は寒く、夏は焼けるように熱いのだ。そして雨が漏る。そんな暮らしとおさらばだ。しかも、学校では堂々とズボンを脱いでパンツ一丁で身体検査を受けられるようになったのである。こんな嬉しいことはない。

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2019年01月26日

微妙な子供心

1945年の山の手空襲で渋谷は瓦礫の街になってしまった。復興、復興と叫ばれたが、人々にとって復興とは家を建てること。それが第一歩だ。皆が食費を切り詰めても家を建てようとした。戦後4年もたつと安普請ながら家らしいものが街に並ぶ、その中で我が家だけが焼けトタン作りのバラックのままだった。今風に言えば住宅街の中にポツンと一軒、ホームレス小屋がある感じだ。そこに親子6人が住んでいるのだから驚きの珍風景だ。

小学3年の私には隠して置きたいことが二つあった。バラック住まいであることと原始人のようにパンツをはいてないことである。いくら貧乏でも子供のパンツ一枚ぐらいは用意できる。自分の不幸ばかりを嘆いていて、子供のことなど眼中にないからこんなことになる。

「身体検査はパンツ一枚と決まっているだろ。何でお前だけズボン、はいているんだ!早く脱げ!」と先生は怒る。言えば分かってくれるはずだが、パンツをはいていないことは隠して置きたいのだ。それは絶対に言えないと思ったら、身体がガタガタ震え大粒の涙がぽろぽろ出てきた。子供心は微妙だ。バラック住まいとかパンツも無いとか、隠しようのないことを必死になって隠そうとしていた。本気だったが今思えば滑稽だ。

70年も前のことが忘れられない。とにかく1日も早く働いて金を稼ぎたいと思った。願いは叶って小学4年で新聞配達の仕事にありついた。一人前になったような気がして嬉しかったし誇らしかった。さてパンツの悩みは解決したが、バラックだけはどうにもならない。

戦後4年もたつと貧しいとはいえ、暮らしは落ち着いてきている。多くの人々が倹約に倹約を重ね少しずつ生活を改善していた。しかし我家だけが終戦直後のままだった。戦前の豊かな暮らしが忘れられない母は、復興の掛け声に対応する気力を失っていた。その辺りは生い立ちに書いたので重複をさける為ここでは省略する。

私の人生は物心がついた頃が最悪で、その後は現在に至るまで右肩上がりだ。こんなシアワセな事はない。ところが母は豊かな生活からどん底まで急降下、現実を受け入れ難い気持ちも分かる。私が今、とても幸せに感じているのは母のお陰である。欠けていた親心や感じたことのない母の愛が、少し遅れて草葉の陰から伝わって来たようだ。

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2019年01月19日

中島公園探鳥会の思い出

そのころは退職して5年たっていたが張り切っていた。セミのように長い地中生活を辛抱していたが、解き放されて自由の身になったのだ。喜ばずにはいられない。所構わずミーミー鳴いて飛んでいた。60代は何でも見てやろうと言う気持ちでいっぱいだった。

中島公園のホームページ(HP)を開設して3年したら、テレビ、新聞の取材もあり、それをキッカケに地元のラジオで話したり、地元新聞に記事を書いたりしていた。片隅で細々と生きてきた私にとって、世の中は眩しかった。全てはHPが縁なので、何時の間にか「中島公園教」の信者のような気分になっていた。

信者が信ずる神のことを語るように、中島公園について何かを頼まれれば何も考えずに引き受けた。知り合いから中島公園で探鳥会やらないかと言われたときもそうだった。知識も経験もないのにやることにした。私は信者なので出来るか出来ないかとか考えない。失敗を恐れずに精一杯やるだけだ。信者は強いのだ。今考えると懐かしい。私も10年前はやる気満々の人だったのである。

私の知る限り中島公園で探鳥会が開かれたことはないので自分なりに考えた。水鳥を見るには菖蒲池凍結前、そして枯れ木が目立つような季節になれば野鳥も見易くなると思い、2006年11月23日実施とした。ガイドを「旭山森と人の会」代表 皆川さんにお願いし、参加メンバーは山歩きの好きな人、中島公園の好きな人など、総勢8名で9時から約1時間半、皆川さんの案内で菖蒲池の周りを歩き、野鳥観察を行った。

それは探鳥会らしくない賑わいの中で始まった。参加者が元気なのは足だけでなく口の方もだ。騒がしくて野鳥が逃げてしまうのではないかと心配したが、17種に及ぶ野鳥を観察することが出来た。バードウォッチングは始めての人がほとんどだが、もともと自然や山が好きな人達なので、直ぐに馴染むことができた。

バードウォッチングの服装について
野鳥は色に敏感だ。鳥類は色を識別することができる。自然界にない色は野鳥を驚かせることになるので要注意。カーキ色やオリーブ色、レンガ色などのアースカラーがおすすめとのことである。 下の写真中では男性の服装が参考になると思う。

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出会った野鳥はマガモ、カルガモ、ハシブトカラス、ハソボソカラス、ムクドリ、カワアイサ、オオセグロカモメ、スズメ、ヤマガラ、ヒヨドリ、ハクセキレイ、ツグミ、シメ、アカゲラ、ヒガラ、ハシブトガラ、カワラヒワ等17種だった。

1日、しかも1時間半だけで17種も確認できた。1年間ならこの倍以上の種を見ることが出来るだろう。私自身、以上の他、オシドリ、鵜、アオサギはよく見るし、オナガカモ、コガモ、ゴジュウカラ、マヒワ、カワセミ等を見たことがある。オジロワシも1回だけ見たような気がするし、フクロウを見たとの話も聞いた。

実際、探鳥会をやろうとすると、お天気はどうか、野鳥は都合よく現れてくれるかとか気になることは沢山ある。しかし、事前の準備、ガイドの謝礼とか肝心なことは全て抜けていた。何となく楽しい感じで終わったが、もう一度やろうとかの要望はなかったので失敗だったかも知れない。それから9年たった頃から中島公園管理事務所主催で年1回の「都会の野鳥観察会」が開かれている。

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上の画像は中島公園管理事務所のチラシ。私の記憶では2015年が初回で毎年1回の開催。私も参加したことがあるが、準備万端怠りなく、ガイドはもちろん、双眼鏡も用意されている。観察終了後はミーティング、質疑応答もあり有意義な探鳥会だった。今更ながら、なるほど探鳥会とはこのように進めるのだなと感心したり、恥じ入ったりした。
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2019年01月12日

インド通信

1962年当時の東京は空気が汚れているとか言われていた。ところが、気がついたら喘息は出なくなっていた。密閉された地下の穴倉に比べれば、東京の空気は素晴らしく良かったのだ。皮肉にも自衛隊を依願退職をした頃には換気装置も設置され、穴倉も改善された。私の喘息は広く知られていたので人柱の役目を果たしたのかも知れない。

任期を全うしないで1年半で退職、その間に埼玉県北部、愛知県、埼玉県南部、神奈川県と4回も転勤しているので貯金もない。その代わり喘息が出なくなったので前途に希望がわいてきた。アルバイト生活なので無保険だが病気するような気もしなかった。

ともかく辞めて好かった。オリンピックを1年後に控えた東京は空前の好景気だった。ここに居れば何か職が得られるだろうと楽観的になれる。ふと、かっての同僚のことを思い出した。彼は「俺、退職したらブラジルに行くんだ」と熱っぽく語っていた。「そんな遠くに行かなくても東京があるじゃないか」と言いたくなるほど、東京は元気いっぱいだった。

就職活動の第一歩として職業安定所に行った。希望する職を聞かれて、虚弱体質なので給料は安くていいから楽な仕事がいいと言ったら、「楽な仕事なんかない!」と叱られた。職安係員の話とは裏腹に、兄の紹介で凄く楽な仕事が見つかった。世界は広いが東京は更に広くて深いのだ。世間知らずの職安の言うことなど聞かなくて好かった。

実は、大学生の兄が高い賃金を求めてアルバイト先を替えたかったのだ。私はその後釜に座った。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。短く「インド通信」と呼んでいた。東京支局はインド人の支局長と日本人のアルバイトが二人。日勤と夜勤が一人ずつで私は日勤だった。

支局長は日本語が出来ないが、それで当たり前と思っている横柄な人だ。彼らから見ると日本は英語圏の国なのだ。顔見知りのドイツ人技師も自分は英語が出来るから日本に派遣されたと言っていた。とにかく月給1万5千円ポッキリ、ボーナス諸手当一切なし。ただし業務用に都電全線定期が支給される。私一人養うには充分の金額だ。

中学卒業以来8年間にいろいろ仕事をした中で一番楽な仕事だった。ここで自習して就職の機会を待つことにした。1日24時間の内、実働はせいぜい2時間で残りは全て自由時間の感じだ。一人勤務だから誰にも気兼ねしないで好きなことができる。そして、親類も友人も居ない暮らしは金がかからない。毎月5千円くらいは貯金していたと思う。

定職に就こうとすると、肉体労働以外は殆どの職が受験資格を高卒以上としている。このような学歴社会の中で、国家公務員だけが中卒でも大卒程度の上級職試験も受けられる。もちろん受かるはずはないと思うが、誰もが能力に応じて受験できることが気に入った。慎重に検討した結果、航空管制官採用試験を受けることにした。当時はマスコミ報道で仕事が厳しく給料が低いと知られ、人気が無かったので絶好のチャンスと考えたのだ。この辺りの事情は「運が好かった」に詳しく書いたので重複をさけるため省略する。
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