2019年06月15日

取り越し苦労の種は尽きない

人には言えない私の自慢、身体は弱いが、ひとつだけ強い所がある。それは何処かは言えない。拷問するぞ、と脅かされば、土下座して「すみません。嘘をつきました。許してください」と言う。お前に強い所などある筈ないと納得してもらえるだろう。

だけど私には人並み外れて強い箇所があるのは事実だ。しかし口には出せない。もちろん書くこともできない。黙って一緒に墓場に入るつもりだ。私自身のことだからね。

言えば聞いた人が気味が悪いと思うから言わない。だけど本当は、とても良いことなので自慢したい。言いたくてウズウズしているけれど、沈黙は金。毎日のように迷っているけど結論は沈黙。老後をのんびり暮らしたいなら、言わぬが花。

誰もが持っている、人には言えない自慢話、誰も言わないから、決して表に出ることもない。こんな話をしても共感してもらえないし、嫌悪感を与えてしまうかも知れないと心配する。こうして、決して明かすことができない密かな自慢が、個々の身体の中で育って行く。

こんな自慢話が心の中から溢れ出たのが小説と思っている。私は教養も知識もないのに考えることが大好きだ。世の中のすべてを自分が分かる範囲で一生懸命、しかも面白半分で考える。小説やドラマにに出てくる、強い人も勇気ある人も、立派な人も純粋な人も、情け深い人も極悪人も、すべては著者の自慢のような気がする。

自分の代わりに架空の人物に自慢させているのだ。それなのに私は、テレビドラマを観て感動のあまり泣いている。同時に目薬を差したばかりなのに涙と一緒に流して勿体ないと嘆き、もう一度指し直すべきかと思案している。昔に遡れば、こんな私にも心の底から好きな人がいた。口が裂けても言えない自慢話である。

たまに、からかい半分で「中波さんでも好きな人居たでしょ」とか聞かれる。「ハゲで音痴なのに居るわけないでしょ」と言うと、不本意ながら納得されてしまう。生まれつきハゲでもないし、音痴なんか歌わなければ分からないのに、なんでアッサリ納得するのだ!

そんなに素直に頷いて欲しくないという気持ちと、話さなずに済んで良かったという気持が、私の心の中で対立して争っている。だから何も言えない。沈黙は金、私の心の中で金がドンドン溜まって行く。溜まりに溜まって暴発したら大変だ。そこらじゅう金だらけになってしまい、後の掃除が大変だ。幾つになっても取り越し苦労の種は尽きない。
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2019年06月08日

ネコは怖いよ

終戦後3年、私は8歳ぐらいの頃と思う。養父が肺病に罹り生活がどん底に落ちた。貰い物を食べたりして一家6人がかろうじて飢えをしのぐ有様だった。そんな時に、横浜で飼っていたタマがやって来た。3年前に引っ越したときに残してきた飼い猫である。

こんな遠くまで来るとは驚きだ。今なら母が気まぐれで、似たような猫を拾って来たと疑う。しかし、子供の私は母を信じ、猫は超能力のある恐ろしい動物と恐れた。

ともかく食うや食わずの我が家では猫を飼う余裕は無い。三日もたてば、行き当たりばったりの母でも、そのことに気が付く。そして、兄に捨てて来るように命じたが、一人で行く度胸はない。12歳の長男を頭に兄弟三人で捨てに行った。

思いついたのは家の近くにある青山学院の広大な敷地。豊かな学生・生徒が通うキリスト教系の学校だからエサぐらい与えてくれるだろうと考えた。出入口から一番遠い所まで塀に沿って歩き、投げ入れて帰って来た。小学校から大学まである広大な敷地が塀に囲まれている。ここなら大丈夫と一仕事終わった気分でホッとした。

ところがタマは、翌日には家に帰って来たのでビックリ! 超能力があるような気がして気味が悪かった。化け猫の話はよく聞くし、横浜から我が家の場所を探り当てたタマだから、全てを理解しているように感じるのだ。当然、捨てた私たちを恨むだろう。

猫を恐れた三兄弟は、タマが遠くで幸せに生きる方法を一生懸命考えた。電車は使えないので渋谷川に流すしかない。しかも、タマの安全を第一に考えなければならない。

三人の結論は船を作って流すことになった。遠くにたどり着いて誰かに飼って欲しいのだ。未知の飼い主宛に手紙を入れて置こう。近くでタマが船から脱出して、泳いで岸に着くかもしれない。屋根を作って人の助けがないと出られないようにしよう。遠くまで行くのだからエサを入れて置こう。

いろいろ考えたが、実行の目途は立たない。そもそも、渋谷区がが史上初めて遭遇する飢餓の時代で餓死者が続出し、我が家もその渦中にあった。ネコのエサどころか、自分たちの食い物も無く途方に暮れていたのだ。

何時の間にかタマは居なくなっていた。エサの在る所に行ったのだろう。今は中島公園の近くに住んでいるが、カモもハトも、皆そうしている。ヒトを含めた動物はエサのある所まで移動する。見つけるまで移動する。そして見つけることが出来なければお仕舞だ。
タグ:渋谷
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2019年06月01日

インタビューの思い出

最近の新聞を読むと、JR札幌駅周辺の再開発が進み、北側が発展して南側が停滞しているように見える。ものは考えようで、札幌を南北に分けると、未来の北、歴史ある南が見えて来る。南側には古い建物も残されているし、多くの神社、寺がある。200万都市札幌が未来の街と歴史の街として、それぞれの特徴を生かして発展することを願っている。

ところで、在職中は真面目と思われていた。職場ではノロマで口の回らない人は嫌われる。チームワークだから当然だ。一方、仕事には決まりごとが山ほどあるから、よく知っている人も必要である。コロコロ変わる方式・規定類を覚えるのは大変なのだ。

ノロマの私は、規定類を真面目に覚えることで存在感を示そうとした。勉強と言っても、その場その場に必要なもので、将来役立つわけでもない。ホントに真面目は楽じゃない。だが9年間も職を転々として、やっと見つけた職は辞められない。ひたすら定年退職だけを楽しみにして懸命に働いた。退職して自由になると街を歩いているだけでも楽しかった。

「面白い所ありますよ」と若者が声をかけてくれた。
「買い物に行くところですから」
「〇〇〇、買いませんか?」
「牛乳を買いに行くんです」
「お乳も出ますよ」
幸せになった私は客引きにも真面目に応えた。実は近くに格安牛乳を売る店がある。

2003年にホームページ「中島パフェ」を開設した。その後、引っ込み思案の私が、「オレがオレが」に変わって行った。私は自由、もう引っ込む必要も思案することも無いのだ。そんな時代が10年続き、そこを頂点にしてホームページも自分も下り坂となる。

頂点気分で収録したのが札幌人図鑑、改めて聴くと恥ずかしいけれど懐かしい。滑舌も悪く口も回らないのに、臆面もなくよく喋ったものだ。当時は「中島公園教信者」の気持ちになっていた。喋れば喋るほど功徳になると信じていたのだ。愚かなりわが心。
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1.変遷を重ねた中島公園 2.中島パフェ物語 3.札幌市を縦軸と横軸で

インタビュアーの福津京子さんは冒頭で次のように紹介してくれた。「札幌人図鑑第200回で上田市長が話す『札幌の1年を大通公園で紹介できる・・』エピソードを聞き、札幌の街並を縦軸でも見て欲しいと語ります」。私が日頃から考えていることなので感謝!

収録の最初に札幌人図鑑の歌を福津さんと一緒に歌うのだが、短いとはいえ音痴の私が何とか歌えたのは所属するカラオケクラブのお陰と、これも感謝!

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2019年05月25日

水に流して欲しいのに

午後の散歩から帰ると、二人の見知らぬ作業員が来ていた。下の階で水漏れがしたので調べに来ていると言った。管理人から事前連絡がないので、テレビ報道でよくある不要工事詐欺かと思った。水漏れ調査は壁の中を観るカメラまで使って入念に行われた。

結局、漏水箇所は不明で調査は翌日まで続くことになった。その日は私が所属するシニア団体の交流会があり出席する予定だ。調査に立ち会う必要もないだろうと思ったが、これが大間違い。この問題はかなり複雑だった。

家では調査中だが全てを忘れて交流会を楽しむことにした。しかし気になって仕方がない。話題はなぜか漏水事故になってしまう。交流会に相応しくないから口にしない方がいいだろう。そうは思っても階下の水漏れが気になり上の空。

何時の間にか回転テーブルから料理をとるためのフォーrクを使って食べていた。気が付いてフォークを取りに行ったのはいいのだが、懐かしい人に会ったので少し話し込んでしまった。皆さんをお待たせして申し訳ないことをした。心ここにあらずの状態は続く。

水漏れ調査が気になる。壁に穴をあけて中の写真を胃カメラみたいのを使って調べていた。10時間もかかっても水漏れ箇所は不明。今頃二日目の調査に入っているはずだ。そう思うとビールを飲んだ赤い顔しては帰れない。オレンジジュースに切り替えた。

会場では何時も面白い話をしてくれるゲストの先生が、要請に応じて、為になる話をしてくれている。私たちは生まれただけで奇跡と話していた。そう思うと隣の人も奇跡の人に見えて来た。とにかく、さまざまなタイミングが重なり合った「奇跡」の結果だそうだ。人間は奇跡で始まり、終わったら鬼籍なんだ。覚えがないのに起こる水漏れも奇跡かも知れない。

話を聞いていても、水漏れが気にかかる。調査は延々と続きそうだが、費用は誰が払うのだろうか。調査員の人数は延べ6名、しかも残業付きだ。半端じゃないと思う。普通、依頼した人が費用を持つのだが、私から依頼はしていない。調査すると言うので協力しただけ。水漏れ箇所は10時間調べても分からない。延々と続くかも知れない。

会場ではビンゴが始まり番号の照合に専念した。しばらくするとビンゴになり賞品を取りにいった。係りの人がそれぞれ紙袋を持って立っていて、好きなものを取って下さいと言った。適当な紙袋を取ろうとすると、この中から取ってと言われて見ると沢山の小袋が入っていた。やっとその中の一つと理解した。今日は何をやっても上の空。水漏れ問題は何処にいても頭から離れない。いい加減に水に流したいのに。
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2019年05月18日

Dさんがうるさい

不思議なことに、子供の時の方が死を身近に感じ怖かった。高齢になったら余り考えなくなった。この傾向は年を重ねるにしたがって強くなった。今は何事も起こらないような気がして呑気に暮らしている。だから何の覚悟もしていない。子供どころか幼児と同じだ。そう思うと、何だか国からオッパイをもらって生きているような気がしてきた。

家では誰かさん(以下、Dさん)の尻の下でぬくぬくと、何不自由なく暮らしている。こんなことで良い筈がない。何時かとんでもない試練に遭うだろう。そういえば最近は水を飲みそこなって息がつまり、呼吸ができなくなったことがある。

このままでは死んでしまうと大騒ぎ、先ず咳き込む真似をしたが上手く行かないので、大声を出して怒鳴ったりしてみた。空気を通すつもりだったが、Dさんがビックリした飛び込んできた。のたうち回ったら息が出来てホッとした。時間薬が効いたのかも知れない。

これで一安心だが、病院で診てもらえとDさんがうるさい。念のため耳鼻咽喉科で検査したら、異常なし。「息が出来ないと思ったら、鼻で少しずつ吸い込んでみなさい」と助言してくれた。次に息が出来なくなった時やってみると、息が少しずつ通った。大成功!

また食事中に突然、息が出来なくなった。Dさんは背中を叩こうとする。それを制して、ジッとして静かに鼻で空気を吸う、しばらくすると正常に戻った。非常時の対処法が分かったので、一件落着。しかし、Dさんは病院に行って診てもらえと言う。

何回も言われて面倒なので、以前に行った病院とは違う耳鼻咽喉科に行った。セカンドオピニオンで、この問題を打ち止めにしてもらうためである。予想通りここでも検査は合格、「フラツキがあるようなら神経内科で診てもらいなさい」と言ってくれた。黙っていればよかったのに、バカな私はそのまま報告。今度は神経内科に行けと、Dさんがうるさい。

私は78歳と6ヵ月、体は少しずつ壊れて行くものと思っている。少しずつがいいのだ。急に壊れて欲しくない。壊れるに従い、少しずつ寝る時間が多くなり、目が覚めなくなったらお仕舞と考えている。しかし、Dさんは病院に行って治してもらえと言う。治ればいいのだが難しいと思う。こんな私を治すには不老長寿の薬が必要だから。

「Dさんって誰?」
「誰かさんです」
「誰かさんって誰?」
「Dさんです」
「そりゃそうだよね」
Dさんは大抵のことには頷いてくれるのに、病院に行けとうるさい。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75歳以上)

2019年05月11日

私の一番長い日(後編)

私の入院第一夜は素晴らしい個室で始まった。酸素吸入の可能性があると言うことで個室が割り当てられたのだ。病状は特に息苦しくもないので嬉しかった。午前の点滴が終わると、妻に持ってこさせたパソコン等の荷物を使いやすいようにセッティングした。

身体はきつかったが、こうしていると夢がドンドン膨らんできて楽しい。まるでホテルにカンヅメにされた締め切り前の人気作家のような気分だ。すっかり空想モードに入ってしまった。ドアをノックする音が聞こえる。「おやっ、編集者かな?」と、一瞬の勘違い。

先ほどの看護師さんだ。言いにくそうに、アレコレ話していたが、けっきょくは「酸素が必要な人が来たので、直ぐに出て欲しい」と、いうことだ。何たることだ! 太鼓判を押したばかりではないか。しかし、命に関わることに変更はあり得ない。諦めるより仕方がなかった。

夢はあえなく萎み、忙しさに拍車がかかった。とにかく移動準備だ。広い個室に散らばった荷物を一ヶ所にまとめると、昼食の時間もない。食欲もないけれど、なんとも忙しくてやりきれない。大急ぎで6人部屋へ移ったが疲れ切ってヘトヘトだ。

増えてしまった荷物でベッドのまわりは足の踏み場もない。ともかく、隣の人に挨拶をした、「はじめまして、よろしくお願いします」と簡単にすますと、
「宍戸譲二です。84歳です」と、丁寧に応じられたのでやり直し。
「中波三郎。67歳です。風邪をひいてこの病院に来たら検査して、即入院となりました」
「そうですかぁ。お客さん少ないからね〜」
「……?」

昨日の院長先生のセリフ、「直ぐに入院。外出はいいよ」を思い出した。肺炎と言って見せてくれたあのCT写真の白い影は、加工したのだろうか。画像処理ソフトの「ぼかしツール」を使えば私でも出来る。一瞬、こんな疑問が頭をよぎった。

もうクタクタのヘトヘトだ。午後の点滴をしながら眠ってしまった。目が覚めると17時。入院しても忙しいのに、点滴の落ちる速度がやけに遅い。20時からは地元のFMラジオに出なければならない。時間が気になってイライラした。

胸もムカムカした。点滴が終わると18時になってしまった。食欲が全くないのだ。食後の薬の為、少しだけ食べてみたが味が無い。砂を噛むよなとは、こんなことかと思った。とにかく、地下鉄中島公園駅から地下鉄に乗って、放送30分前の19時30分までに円山のスタジオに行かなければならない。ケチな私はタクシーの利用を思いつかなかった。

やっとの思いで受け持ちの放送を終わらせて家に着くと22時、やることがいっぱいある。電話連絡は病院に帰ってからでも出来るが、メールはネットが使える今夜の内にしなければならない。とにかく破らなければならない約束が山ほどある。外出許可を受けているのに、時間がないと焦っている。判断力が鈍っているのだ。「入院するから行けない」とだけ書いて送るのが精一杯と思った。いろいろ気にはなるのだが疲れて寝込んでしまった。

目が覚めたら夜中の3時、とにかくメールを出さなければならない。なにぶん前触れ無しの入院だから簡単な説明が必要だろう。しかし、どこの誰に何を書くかがまとまらない。考える時間はないので、所属している団体500人宛てのメーリングリストに流してしまった。こうして長い長い一日が、日にちをまたいで終わった。

役目があって毎日のように出番と締め切りがある暮らしは有意義で楽しい。体内には義務感の虫とハシャギ過ぎの虫が同居している。普段は別々に動いているからいいのだが、義務感虫とハシャギ虫が一緒になって動くと大変だ。ハシャギ虫には理性がない。こんな時は倒れる。今はノンビリと穏やかに暮らすように心がけている。朝起きると気分は良好、幸せ感いっぱいだ。ただし腰と頭が痛くなくて咳が出なければね。
posted by 中波三郎 at 16:53| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年05月04日

私の一番長い日(前編)

今はノンビリ暮らしているが、60代はいろいろあった。ああ、くたびれた。2008年2月14日は波乱万丈。「短編ドラマ」のような一日だった。なんでこんなことになってしまったのだろう。13日夕方、中島公園近くの病院での話である。

「今すぐ入院ですか。それは困ります。明後日ではダメですか?」
「直ぐ入院して下さい。外出はしてもいいですよ」
即入院の緊急性と、「外出はしてもですよ」というおおらかさ。この落差は一体なんだろう。私にはピンとこなかった。

ともかく、パソコンや電話で連絡しなければいけないことが山ほどある。外出できれば家に帰れるので全てを処理できるのでホッとした。この時は、明日が私にとって「いちばん長い日」になるとは夢にも思わなかった。

運命の2月14日の朝はバス・トイレ付きの個室で始まった。まるでホテルのシングルルームのようだ。広さも調度品も充分である。うるさい同居人の居る我家より快適だ。

当時は退職して自由の身になったばかりだったので張り切っていた。恥ずかしいから書かないが何でも手を出した。つまり毎日のように出番と締め切りがあったのだ。ジッとはしていられない。突然の入院について多数の関係者に知らせなければならない。メールの下書きを手帳に書いていると何か音がする。ドアがノックされているようだ。

「おはようございます。担当のA(看護師)です。酸素吸入の可能性があるので個室に入ってもらいました。何か心配なことはありませんか?」
「吸入が必要でなくなったら、この部屋追い出されるのですか?」 
一番気になることを聞いた。
「どうぞ退院まで使って下さい。部屋割りは私の責任でやっています」
頼もしい看護師さんだ。

太鼓判を押されて一挙に夢が膨らんだ。「よ〜し、ここを書斎にしてバンバン書いたるぞ」。病気で入院していることなど忘れて、気分も上々だった。さっそく、妻に電話してパソコンとか持ってきて欲しい物をアレコレお願いした。ブツブツ言っていたが、何とか説得する。

朝の9時から11時までの2時間は点滴中だった。妻が来て頼んだ荷物を置くと「寂しくなければ帰るからね」と言うなり私の返事を待つことなく、さっさと出て行ってしまった。まもなくデパートの開店時間である。なるほどと思ったが、これが「一番長い日」の始まりになるとは夢にも思わなかった。

後編へ続く、更新は5月11日(土)、よろしくお願いします!
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2019年04月27日

苦い思い出

捕鯨問題で国際的に揉めている。反捕鯨国の反対意見は理解できないことも多い。しかし、反対意見が圧倒的に多いのなら獲らなければいいと思う。不味いから食いたくないのだ。これは小学校の給食で嫌々クジラを食った私の偏見。美味しいクジラ肉を食べれば一瞬で変わると思う。何処かで安くて旨い鯨肉を食べたい。

クジラでは苦労したが、給食の苦労と言えば小学時代のA君を思い出す。1950年代と言う遠い昔だが、A君は何故か服は着っぱなし、風呂も入っていない感じだ。ちょっと不潔な感じのA君が給食当番になった。

その頃の清潔・不潔は各家庭の経済状態に起因していたので、A君に清潔にしろと言っても無理。金が無くては銭湯にも行けないし、貧乏暇なしだから、命に直接影響のない洗濯は後回しになる。ところでA君の鼻は寒さと温かい料理に反応して、シチューの入ったバケツの中に鼻水を落としてしまった。寒い冬だったからね。

それを見た女生徒の一人が「私、食べない!」というと、女生徒全員が食べないと言い出した。私はシメタと思い大喜び。もちろん腹いっぱい食べた。同じ思いの男子生徒は少なくない。たちまちバケツは空っぽになった。

鼻水落としたA君はホッとしていたが、すきっ腹かかえて、給食食べ損ねた女生徒たちの心中は穏やかでなかったと思う。今と違って都会の食糧事情は最悪だった。栄養の大部分を給食に頼っている生徒も少なくなかった。

鼻水なんかかき混ぜれば何のこともない。食べたい女生徒も沢山居たと思う。しかし乙女心は悲しいものだ。見栄の張り合いで食べるとは、どうしても言えなかったのだと思う。

この「給食食べない事件」の主役は二人。この二人さえ居なければ多くの女子生徒が空腹の苦しみを味わわずにすんだのだ。一人は「私食べない」と言ったお金持ちのお嬢さん、もう一人は食べ終わると直ぐに、空の食器を持ってバケツに向かって突進した私だ。

空前の大空襲に遭って77%を焼き尽くされた渋谷区は、戦災の爪痕が5年たっても残っていた。逆に貧富の格差は拡大していた。お嬢さんは黙って食べなければ好かったのだ。私はしばらく様子を見るべきだった。そうすれば「事件」には発展しなかった。いつも人の後から行動する私が、この時ばかりは迅速に動いた。苦い思い出である。
タグ:渋谷
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2019年04月20日

幸せは外にある

2007年10月の中島公園は「サクラマス遡上騒動」で大喜びだった。こんな話は聞いたことがないし、二度と起こらないだろう。現にあれから12年たつのに起こる気配もない。遡上なら川を上るはずなのに下ってきている。それでも皆喜んでいた。
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中島公園に現れたサクラマス。

しかし、サクラマスの死骸をカラスが突っつくのを見かけるようになってからは人々の反応は変わってきた。このまま放置してはまずいのではないかと。
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10月に入るとサクラマスの死骸があちこちで見られるようになった。

滅多にない珍事なので「鴨々川に迷い込んだサクラマス」について一部始終をウェブサイトに記録した。それはさておき、取材中に悔しいこと楽しいこと、いろいろあった。

サクラマスを驚かさないように、そおっと写真を撮っていると、後ろから声がする。
「あ〜、だめだめ。 もっと姿勢を低くしないと」
振り向くと年配だが、かなりお洒落な女性が立っている。二コリともしないで見ず知らずの私に上から目線で指示するのだ。文字通り上からね。

「私、写真屋に勤めていたのよ。カメラ持ってこなくて残念だわ。低くしないと水面が反射して写らないよ。腰が高すぎるよ、もっと低く!」
こちらはモニターを見ながら撮っているので、反射しているかどうかは言われなくても分かるのだ。それでも彼女は指示を連発する。もしかして私は奴隷オーラを発散させていたのかも知れない。だから人様は私の動作を見ると何か命じたくなるのだ。

「もっと低く、水面ギリギリで撮るのよ」
無茶を言っちゃー困る。そんなことできる訳がない。身体は固いし腰痛持ちだ。しょうがない。終わったフリして立ち上がることにした。

「あら、もう帰るの?」
”あなたがいたのでは落ち着いて写真も撮れません”と言いたいのはやまやまだが、口から出さずに飲み込んだ。

「いろいろご指導ありがとうございます。きっといい写真が撮れていると思いますよ。こちらがホームページのアドレスです」と言って名刺型のチラシを渡す。どんなに悔しくても、これだけは忘れない。当時はアクセスもバンバンやる気モリモリ、宣伝活動に余念がなかった。あのころ私は若かった。気持ちだけね。

「そ〜ぉ。これからなのにぃ」
しばらく木の陰に隠れて、彼女が立ち去るのを見届けることにした。

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サクラマスが来た地下鉄幌平橋近くの鴨々川。足元のサクラマスを撮る人。

「さあ、撮るぞ!」と再び川に近づくと、今度は違うおばさん。
サクラマスをじっと見て「美味しそうだね」と一言。
「食べちゃダメだよ」
とモンクを言ってやった。江戸の敵を長崎で討つ!
「食べられないよ〜。 私、獲れないから〜。 ワハハハハハ、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、ワ〜ハッハ〜、あ〜疲れた」
サクラマスはなかなか撮れなかったけれど、思いがけず笑いが取れてしまった。
しかも極めて簡単に。笑う門には福来る、先ほどの嫌な気分は吹っ飛んだ。

家に帰ってつぶやく。 
「大笑いすると気持ちがいいかも知れなせんね」
「そんなこと出来るわけないでしょ」
疲れるまで笑ってくれる、あの人を思い出しながら……。
「そうですね。つまらないことを言いました」
黙々と飯を食う。幸せは外にあると思いながら。
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2019年04月13日

コイの街すすきの

薄野は歓楽街として知られているが、もう一つの顔は鴨々川の流れる古の街である。そして「すすきの六条寺町通り」という小説の舞台にもなっている魅力的な街である。ところで、南9条橋から8条の藻山橋に至る鴨々川沿いは、私の好きな風情ある散歩道だが通る人は少ない。危ない街と思われているのかも知れない。
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手前に戻ると中島公園、前方に見えるのは南8条橋、そこから藻山橋(駅前通)までがコイの放流場、その先も放流場だが、そこで一区切りされている。

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藻山橋(南8条)上流の鴨々川。コイが越冬できるように川の中央が一段と深く掘られている。ただし冬のコイは深い所全体に居るわけではなく、橋の下で纏まって過ごしている。2019年3月下旬に通りかかると汚泥を取り除く作業をしていた。コイが一段と綺麗に見れるようになるだろう。薄野には別なコイもある。それが何かは言わぬが花。

ふと、昔のことを思い出した。およそ15年前のことだが、藻山橋から鴨々川をじっと見ていると、妙齢の婦人に声をかけられた。私と同じ様にコイを探しているのだろうか。011009hasi.jpg

「何か探しているのですか?」
「コイです」と私。
「楽しそうですね。見つかりましたか?」
楽しい気分もあるが、心配もしている。居るはずのコイが見えない。 

「いや、まだのようですね。冬は養鯉業者に預けてあるのです。そろそろ戻されてもいい頃なんですよ。川底を深く掘ってコイをここで越冬させる手もあるのに勿体ないですね。預かり料も安くないと思いますよ。

だいたい1メートルくらい掘ればコイも越冬出来る筈です。コイは冬の間はエサを食べなくても生きて行けます。この川は流れがあるので普通は凍らないのですが、凍ることも少なくありません。氷が解けてコイの姿が見えるとホッとすると思いますよ。時々そんなことを想像するのです。水温が上がって来ると……」。私は川を見ながら一生懸命説明していた。 

ありゃりゃ? 私に話しかけた女性が見えない。よくぞ聞いて下さいましたとばかりに、一気に説明したのだが、まったくもう、興味がないのなら聞かないでくれ!

数日して同じ場所を通ると、橋の上に例の女性が立ち、通りすがりの男性に声をかけている。なるほど、声をかけるのが彼女の「仕事」なのだ。そして私はカモと思われたらしい。ちなみに川の名はカモカモ川。私は御用済みの老人とは見られていなかったのである。80歳近くになって思うと65歳は決して老人ではない。

ところで薄野の鯉放流場だが、その後川底を深く掘り、今ではコイが越冬できる様になっている。冬の鴨々川では橋の下にコイの姿がよく見られる。私が見たときは横一列になって、コイは揃って上流に向いていたが動きがない。071205hasisitakoi.jpg
2007年12月5日撮影、2006年に川底は60センチばかり掘られコイは越冬している。

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私の愛読書となった「すすきの六条寺町通り」。この本の著者とは、道新コラム「朝の食卓」が縁で知り合った。文学のことは何も知らないが、文学館で特別展があるときは、よく一緒に行った。難しい説明は分からないから肯くだけだが、文学的雰囲気は好きだから楽しい。私に分かることは何もない。文学も美術も音楽も雰囲気だけは大好きだ。

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このコラムが縁で知り合った。薄野育ちだそうだ。コラムとは関係なさそうで在る。
タグ:札幌
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2019年04月06日

金は天下の回りもの

大空襲で80%弱が焼き尽くされた渋谷に、好んで住む人は居ない。金や頼るべき親戚がある人は一時的に暮らしの出来る場所に移動した。残ってバラックを作り住んでいた人達は、全力で働いて徹底的に節約し貯めていた。目的はただ一つ家を建てることである。そんな状況も知らずに、私たち母子4人は子連れ結婚という形で横浜から東京へ移住した。

一方、終戦直後の母親は横浜で文字通り歌って踊って楽しんでいた。昼は茶菓で子供を集めて歌唱指導、好んで歌ったのが「時計台の鐘」だった。母は食うや食わずで何の楽しみもない子供たちを見るに忍びないと言っていた。慈善活動のつもりだったと思う。

夜は父親(後に逃亡)が仕事関係で連れて来る、米軍将校等とダンスをすることもあった。女性社員と一緒に上品な接待をするためである。ついでに白状すると戦争中の母は海軍の宴会を取り仕切っていた。そして米軍は(日本)海軍より紳士的だと嘯くほど、変わり身が早やかった。戦争中も戦後も子育ては人任せにして仕事に没頭していた。

戦争中は皆苦労したと言うのは誤りだ。私は生涯で一番贅沢をしていた。その代わり戦後1年過ぎて貧乏が始まり2年目からはドカ貧だ。一方、空襲で強烈な恐怖を味わされ家を失った渋谷の人たちは、家族全員でアリのように働いていた。

空襲で全てを失った人と母とでは服装が全く違う。大きな家から小さなバラックに入る為には、多くの衣服を処分しなければならない。そのため上等な物しか手元に残らなかった。バラックは何処も同じような仮小屋だから、服装が貧富の差を表すことになってしまった。

こんなことで母のバラマキが始まった。近所の人を呼んで茶菓をふるまった。子供たちを呼んで歌ったり食べたりのパーティも頻繁に開いた。全ては地元の人達に溶け込みたい一心からだった。母としては出来ることをやって上げている、との気持ちもあったと思う。そんな時に養父が肺病に罹り事態は一変した。

母は金は天下の回りものと何時も言っていた。人のために使えば回りまわって自分の所に帰って来ると思っていたのだ。しかし誰もが全力で働き、金を貯え家を建てることを最優先にする、焼け跡のバラック住人には通用しなかった。

血の滲むような努力をして、区画整理前に新築した人達も道路に予定された部分には建てられない。その結果、道路予定地にはみ出しているのは、我がバラックだけになった。図らずも道路建設で唯一の障害物となってしまったのである。

除去が必要だたが、行政としては行先のない住民を追い出すことは出来ない。安普請ながら公費、即ち税金で家が建てられた。結局は皆の金で建ててもらったのだから、やっぱり金は天下の回りもの。回りまわって戻って来たのかも知れない。
タグ:渋谷
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2019年03月30日

キリギリス一家

終戦1年後の1946年、戦争中も贅沢をしていた私たち母子4人が焼け跡の街にやって来た。大空襲で渋谷区の8割近くが焼失し、戦争前には25万の人口も5万人と激減した。その人達が焼け跡に焼けトタン等で小屋を作り、米軍の仮兵舎風にバラックと呼んでいた。そんな状況の渋谷に横浜からトラックに乗って引っ越した。その頃の輸送手段は荷馬車やリヤカーだったから、かなり贅沢な引越しと言える。引越し先がバラックとは知らずに、5歳の私はトラックに乗って大喜びしていた。

当時の状況については「生い立ち2-東京へ」に書いたので省略する。それから3年たったら私たち家族は界隈で唯一のバラック住人となっていた。今風に言うと住宅街にポツンと1軒ホームレス小屋。そこに家族6人(妹は渋谷で生まれた)で住んでいる。テレビ番組の珍風景より、もっと珍しい風景になったのだ。恥ずかしかったが、古い記憶は全ての感情をそぎ落とし、事実だけを覚えている。今になれば懐かしくて楽しい思い出である。

小学生の私は学校で、隠せるはずがないのに隠し続けた。不思議なことに「お前はバラックに住んでいるだろう」とか言われた記憶がない。今も「アナタ音痴ですね」とは言われていない。両方とも隠したくても隠すことはできないことである。人は優しいと思う。

引っ越したばかりの母は近所で一番目立つ奥様になった。衣服は上等だし金も持っている。人付き合いも好くて気前も好かったので、知り合いも次第に増えて行った。私と違って歌も上手いので町内会の人気者にもなった。

母はいつも「人は付き合いが大切だ、常吉さん(養父)は付き合いが下手だからダメだ」と言って我が家の代表のように振舞っていた。しかし、彼が肺病に罹ると事態は一変した。貯えは徐々に減って行く、それと比例するように家に遊びに来る人も少なくなってきた。

バラックに住む人の夢は唯一つ、家を建てることだった。そのため子供を含め家族全員が全力で働き、徹底的に倹約をしていたのだ。我が家に遊びに来るのも栄養補給かも知れない。病気に罹ったのは常吉さんだけではなかった。お金の為に危険な作業をする人、体が弱いのに無理をする人、食料不足等、病気の種は尽きなかったのである。

それなのに我が家だけがバラックのままで、最後まで自力で家を建てることは出来なかった。区画整理の一環として行政が最も簡易な家を建ててくれた。それでも私はバラックから脱出できて大喜びだった。こんな結果になったのも空襲で家を失った人と、戦争中でも贅沢をしていた人との違いが出たのだと、今では思っている。私たちは、母を家長とする「アリとキリギリス」童話の、キリギリス一家だったのである。
タグ:渋谷
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2019年03月23日

初めてのパソコン

私は人生の半分をパソコンと共に歩んで来た。来年は80歳になるから、初めてパソコンを買ってから40年になる。最初の3年間は一生懸命勉強した、後はやったりやらなかったりで、15年前くらいから全くやらなくなり、10年前には落ちこぼれた。パソコンの世界はこの40年間で様変わりしたので、もうついて行くことが出来ない。

1980年のことだが、これからはパソコンの時代だと考えてMZ80-K2を買った。そして、その通りになったが、私自身はその後の進化について行けず、パソコン落伍者になる。来たるべきスマホ時代には完全に脱落する。幸いそうなっても不思議ではない年齢に達する。来年は憧れの80代になれるのである。優しく援助してもらえるのかな。それとも不要な老人として切り捨てられるのだろうか。楽しみであり心配でもある。ドッチ?

シャープMZ80-K2は記憶装置(現在は主としてハードディスク)がカセットテープという、今では考えられないようなものだった。価格はプリンタとあわせて30万円もした。1980年から2001年まで持っていて、毎年動作確認をした。正常に動いていたが、実用性はゼロ。ただ懐かしむために立ち上げて使用した。鉄製なので重く、塗装が剥げて錆びも出た。パソコンを次から次へと買い替えても、持ち続けた思い出のパソコンである。

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初めて買ったパソコン、右側はデータ保存用カセットテープ・レコーダー。

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21年間も使ったパソコンとプリンタ。プログラミングやデータチェックにはプリンタが必需品だった。廃棄処分前の記念撮影。黒っぽいのはサビが出ている部分。鉄だからね。

月給の安い当時としては高価な買い物なので、やりくりしている妻のことを考えると一生懸命に勉強する姿を見せなけれならなかった。40歳にもなっていたのにね。職場ではようやくコンピュータを導入し、若くて優秀な人を選んで研修に出していた頃である。

物好きと思われながらもパソコンを買ったのには訳があった。単なる新しい物好きではない。酒を止めるキッカケにしたかったのだ。酒は非常に弱いのだが、無理して飲んでいるうちに酒量が増え、20年も飲んでいたら、酒が脳にくるまで飲むようになってしまった。凄く気持ちがよかった。毎日意識を失うような形で就寝していた。

毎朝が二日酔状態なので止めたいと思うのだが止められない。このような状況のとき転勤の話があったので、これを機会に絶対に酒をやめようと決心した。ただ転勤しただけでは止められない。転勤先の仙台でパソコンを買うことに決めていた。当時は新しい物が大好きだった。好きなことと転勤との合わせ技で酒を止めようと考えたのだ。

当時の個人用パソコンはカタカナと英数字しか扱えないので、パソコンの勉強とはプログラム言語の習得を意味した。本格的な勉強は無理だが触りだけでもとの思いだった。それでもプログラムを組んで実行すると順番通り動いてくれることが楽しかった。毎晩酒を呑む代わりにパソコンの前に座ったことを今でも懐かしく、時々思い出す。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職職時代(24-60歳)

2019年03月16日

コロコロからソーセージへ

最近、自分はウンコを作る機械ではないかと思うことがある。口から材料を入れて機械本体である身体を適当に動かし、良いウンコ作ることに専念しているような気がするのだ。中島公園に関するウェブサイトを更新するのも、歌うのも良いウンコを作るためだ。公園の取材では機械を動かすように足を動かしているし、歌っては内臓も動かしている。

在職中は毎日のように下痢をを繰り返していたが退職したら何時の間にか治っていた。一方、楽しみにしていた二人暮らしは、期待に反してギクシャクしたものだった。何故だろうと問題点を整理したら、WFは家庭という職場の大先輩で自分は新人だからと理解した。

そこで大先輩をたてる新人になる決心をした。凝り性の私はその程度では満足せず、絶対服従の家来になってしまった。ただし、命令を聞くだけで忖度はしない。ここが肝心である。気を利かせて二人の為に良い事をしようと思えば、新たな争いの種になる。

予想通り命令は実に少ない。仕事チョッピリで自由時間がイッパイ、毎日好きなことして暮らしていて嬉しくないはずがない。私の笑顔はWFにも伝染した。感謝の言葉が自然に口から出るようになると笑顔の好循環が始まり、穏やかな暮らしが続いている。

外交問題が解決すると、内政が気になって来た。つまりWFと上手く行っていると、自分自身の内臓が気になって来たのだ。在職中の慢性下痢症が治ったが、便秘とコロコロウンチが気になって来た。下痢は20年以上続き、その後の便秘とコロコロは10年以上続いていた。しかし、慢性だから仕方がないと、その都度売薬で対応し放置していた。

1年くらい前のことだが、WFが薬を飲んでいたので、何の薬か聞くと「良いウンコが出る薬だよ」と言うので私も飲んでみた。1ヶ月飲んだらコロコロウンチは治ったが、柔らかいのが1日に何回も出るので止めた。そして一週間くらいたったら意外にも、太くて長いソーセージの様なのが出たのだ。まるで絵に描いた様な立派なウンコを見て思わず感涙!

1ヶ月間、薬を飲んだだけでコロコロが長いソーセージに変わったのである。いつも完璧とは行かないが、コロコロウンチだけは出なくなった。これは大きな収穫だ。いろいろ試行錯誤が続いたが、毎朝、コーヒー、ヨーグルトに黄粉とオリゴ糖と果物、そしてパンを欠かさない。いつの間にか私は、良いウンコを作る機械の気持ちになってしまった。

終戦直後に流行った、明るい感じの「リンゴの唄」を御存じだろうか? リンゴのところをウンコに変えて歌えば私の気持ちがよく分かると思う。

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タグ:札幌
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2019年03月09日

ジョークも音痴

ジョークも音痴で掛け合いも苦手だから誤解されることもある。ところで、定年前は職場一番の年寄りだが、老人福祉センターに行ったら一番若くなってしまった。老人から一挙に若者気分だ。まるで第三の青春だからだから、ワクワクもドキドキもある。私なりにね。

ある夏の昼下がり、Aさんから突然電話がかかって来た。「わたし、分かる? 今あなたの家の前の公園、ちょっと出られる」。なんだろうとドキドキ。小さな期待と不安が入り混ざった。ともかく出てみよう。公園はすぐそこだ。

中島公園ほぼ中央の芝生の広場は「香りの広場」と名付けられている。広場は彫刻とバラの花に囲まれ、所々にベンチがある。デートの場所としても悪くない。Aさんは私と同年配で、お洒落な人。社交的で何もかも私とは正反対だ。年上のご主人とは、豪邸で二人暮らし。趣味は乗馬とゴルフ、それに海外旅行と優雅なものだ。

香りの広場に行ってみたが見当たらない。見渡すと、やや遠くの方にスラックス姿の女性が一人。洒落た帽子にサングラス、脚を組んでタバコを吹かしていた。遠目では分からないが若くて美人。 ひょっとしたらと思ったが、彼女はタバコを吸わないし若くもない。

アチコチ見渡したが、らしい人はいないので念のため近づいてみるとAさんだ。ニヤッと笑って開口一番こう言った。「私、フランス映画みたいにタバコを吸いながら男を待ってみたかったのよ」。幾つになっても、こんなセリフが似合う人だ。ワクワク。

一方わが身を省みればハゲで短足、それでも何か気の利いたセリフを、言わなければいけないような気がした。間を置けば間抜けな感じになる。「似合ってますよ。様になっています」とか、慌てて言った。ありきたりのことをね。 

ところで、この日から数日前、Aさんの友達と3人でお茶を飲んだ。遠来のお客様をもてなすつもりで、「ここは私が持ちましょう」と言った。そうしたら「私、男と認めた人からしか奢られたくないのよ」と断られてしまった。情けないけれど仕方がない。思わずショボクレタ。

後で考えると悪いのは私。Aさんは高齢を前提に冗談を言ったのだ。よくあるパタンなのに、まともに反応し黙り込んだ私がバカだった。笑って終わる筈なのに気まずくしたのだ。ともかくAさんは私の機嫌を直しに来てくれた。有難う。

もし私がジョークの分かる人となら、Aさんは遠くから中島公園まで足を運び、フランス映画の真似事などしないで済んだのだ。公園には駐車場がないから有料駐車、シガレットケースとライターは旦那さんのを無断拝借とか、それなりの苦労はあったと思う。ジョークに応えられないと、知らずに迷惑をかけてしまう。修業が足りないのは確かだが、難しいものだ。私は運動音痴で歌っても音痴、これも音痴の一種かな? 

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2019年03月02日

最後の親睦旅行

年を取って、先ずエンジンから劣化して来た。もう10年以上も旅行したことがない。私と言う車はポンコツになったのだ。走る代わりに旅行の思い出を書いてみた。来年は80歳になる。人様の迷惑も顧みず、人生の目標が細く長く生きることに変わってしまった。こんな私でも60代は元気だった。所属するシニア団体の親睦離旅行に参加したりして楽しんでいたものだ。11年前の旅行は個人的にはミステリー旅行にするつもりだった。

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勝手ながら旅行関係説明資料は一切読まない。説明会では居眠りと空想を楽しんでいた。ドラマは予備知識なしで観た方が面白い。旅行もそうだろうと思ったのだ。迷子にならないことだけは注意した。団体旅行だから後ろの方に並び、ひたすら前の人に付いて行く。迷子になったらお仕舞だからね。耳にはイヤーフォンを付け好きな音楽でも聴くことにした。これでミステリー旅行が可能と考えていた。

バスを降りると空港に付いた。集合場所と時間を確認すると、出発までの待ち時間を一人で空港内をブラブラして過ごしていた。自由に行動できるのは、こんな時しかないので大切なひと時だ。相変わらず空は青く雲は白い、日本中どこに行っても同じ空。おまけに何処の空港も似たり寄ったりの造りだ。ふと仙台空港も時流に乗ってタワーを新しく建て替えたようだと思った。後になって分かったことだが、そう思ったのは私の錯覚だった。

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高くそびえるタワーを見ながら物思いにふけっていると、シニア団体の世話役さんに声をかけられた。「あら、中波さんじゃない。こんな所で何しているの。もうじき出発ですよ」。出発? 東北旅行、仙台。私の脳は漸く現実と繋がった。千歳空港を歩いている内に起きた錯覚だった。空港には個性がない。千歳にいながら仙台に居ると思い込むほど個性がない。いずこも同じ青い空と白っぽい建物。それでもミステリー旅行は大丈夫。団体に付いて行きさえすれば可能と考えていた。

素晴らしい空・陸・海の旅だった。東北から北関東にかけて空から、海から、陸から見た。空の旅は速いが、上から下を見る限りゆっくりと進んでいた。いつも下から見上げている雲が、下にあるから面白い。雲が切れると大きな川が見えたりする。

800キロにも及ぶバスの旅も快適だった。ガイドさんの方言が心地よく耳に響く。ここは東北と、しみじみと実感した。立派な瓦葺き屋根の豪邸が延々と続く。漁師の家と聞いてビックリした。つい先日、「燃料がこんなに上がっては漁師は食えない」とテレビ報道があったばかりだ。思わず、豪邸の中で腹を空かしている子等の姿が目に浮かぶ。何となくチグハグである。

帰りは茨城県の大洗港から大きな船に乗った。食事のとき、隣のテープルは男性一人に女性5人、楽しそうな笑い声が絶えない。こちらは男性5人で黙々と食事をとり酒を飲む。隣のテープルも二人ばかり抜けたが、相変わらず賑やかだ。

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思い切って「楽しそうですね」と声をかけると、「どうぞ」と私も仲間に入れてくれた。初めから終わりまで楽しい旅だった。ミステリー旅行は単なる予定、こだわることもない。イヤーフォンで耳を塞いで人の後ろを歩いてみても大して面白くもなかった。状況に応じて予定を変えるのも旅の楽しみ。振り返ってみれば11年まえのこの旅行が私にとって最後の旅行となった。今でも思い出して楽しんでいる。
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2019年02月23日

昔のネットは好かった

今から15年以上前のことだが新聞の人生相談が好きだった。しかし答えが現実離れしていると思うこともある。例えば人の輪に入りなさいとか難しいことを簡単に言う。必要なのは、いかにして入るかだがスッポリ抜けている。何故だろうと考えたら直ぐに分かった。誰でも自分の経験を重視する。回答者は魅力的な人気者、しかも世渡りの達人で、人の輪に入ことなど朝飯前だ。ショボクレタ老人とは全く違うのである。

これは社会の底辺で暮らしてきた私の思い込みかも知れない。ともかく回答者は何らかの成功を収めて何らかの地位に就いた人である。そんな人より、同じレベルの人が相談に乗った方が好いのにと考えた。そんな訳でネットで人生相談をやりたくなった。せっかく誰もが発信できるツールが出来たのだからね。

私が抱いていた長年の夢が実現する環境が整ったのだ。パソコンがネットに繋がると、さっそく「メル友コーナー」に登録。「人生相談承ります」と掲示板に書き込んだ。さて、忙しくなるぞと、待ち構えたが一週間たっても一通のメールも来ない。

「変だな〜、パソコンの故障かな?」と思って、5人の同年輩の見知らぬ男性に、質問を兼ねたテストメールを送った。3人の親切な男性から返信があった。内容はみな同じようなものだ。「メル友に登録したらメールが来ると思ったら大間違いですよ」とあった。

苦節6年、ようやく相談者が現れたので、張り切って相談に応じたのが、前回に書いた「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」である。たった1回の「人生相談経験」で何かが分かるとは思わないが、相談者は必ずしも役に立つ回答を求めているのではない。私が気楽に趣味の相談を始めたのと同様に、気楽に相談する方も多いようだ。退屈しのぎにね。

その後、「相談者」とは週一くらいの割合で1年ほどメールの交換をした。プライバシーに関することなので書けないのは残念だが、まさに人生いろいろと思った。叱られたりもしたが、未知の人と匿名で内緒話ができて楽しかった。15年以上も前のことだが、ネットでの自由を謳歌できる時代だった。トラブルに巻き込まれる懸念など全く感じなかった。昔のネットには安全・自由で好かったなぁと懐かしんでいる。ちょい悪だけどね。

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2019年02月16日

夫婦喧嘩は犬も食わない

およそ15年まえのことだが、人生相談を受けたことがある。本当は違うかも知れないけれど、その様な感じのメールをもらったのだ。「定年退職した夫が家でゴロゴロしていて、何もかもかみ合わない二人暮らしに、ウンザリしている」と言うような内容だった。

念のため確認すると酒乱でもないしギャンブル狂でもない、浮気もしない普通の人だそうだ。その上で、夫は外に出てサークル等、人の輪に入ったらいいのにと不満を漏らしていた。簡単に言うけれど普通の高齢者には難しい課題だ。第一、人の輪は既に出来上がっている。そこに割って入るのは至難の業である。人気者じゃあないのだから。

妻は大変と思うが夫も楽じゃない。退職したばかりだった時の私と状況が似ていて、他人事とは思えない。問題を解決して、楽しい二人暮らしをしてほしいので一生懸命考えた。先ず前提条件が事実なら解決も簡単と思った。

少し長いけれど次の様な内容の返信メールを送った。挨拶抜きで要点のみを掲載。
「何事も直ぐに出来ることから始めるのが近道です。愛、誠実、真心など抽象的で難しい問題は、一先ず棚に上げて置きましょう。そして人間本来の姿に帰ればいいと思います。集団生活をする動物だから主従の関係が何よりも大切です。どちらかが従にならなければなりません。御主人が従にならないのなら、貴女が従になればいいと思います。

どちらかが従に徹することにより、緊張感は遅かれ早かれ消滅するでしょう。そして、お互いの意思の疎通が軽やかになり、話し合いが気楽に出来るようになります。小さなケンカをしても後には引かなくなるでしょう。棚上げにして置いた愛、誠実、真心なども自然に降りてきます。主従関係を作るのは問題解決の始まりであって終わりではありません。

民主主義は大きな集団には必須でも、二人暮らしには邪魔なだけです。いつも1対1で引き分けでは何も出来ません。従だからといって格下というわけではないのです。単なる役割、二人でも頭は一つしか要らないと思います。そのうち主従関係は流動的になります。時と場合に応じて交替するから、楽しく暮らしていくことが出来ると思いますよ」。

直ぐに返信があったが提案については何のコメントも無い。そして、「夫に犬と私とどっちが大切かと聞くと、犬だと言うので頭に来た」と書いてあった。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うのは本当だった。本人に解決する気がないことが分かった。真剣に取り組んだ私がバカだった。そう思いながら、何故かメールの交換は1年くらい続いた。私は野次馬?

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2019年02月09日

学生時代は楽しかった

学生時代は楽しかったなぁとか言っても、私の場合は中学生時代のことである。アルバイトはしていたし、好きな科目だけ選択して勉強していた。つまり、授業によっては居眠りしたり好きな本を読んだり、あるいは空想したりして過ごすのだ。放課後は理科室に入りびたりで化学の実験に熱中した。宇宙旅行協会とかいう怪しげな会に入って、空想みたいな勉強ごっこを楽しんだ。会誌にロケットの作り方など書いてあったがデタラメだった。

映画を観たり買い食いをしたりする自由があった。親しい友人も何人かいた。驚くべきことに天才の友人もいたのである。一番好かったことは、頼りになる親分肌の同級生に出会ったことである。彼のお陰で苛めにも遭うこともなく自由を謳歌した。嘘みたいな話だが事実に基づいて書いたつもりだ。訳あって高校に行く選択肢はなかった。しかし、(中)学生生活は最高に楽しかった。

中学時代一番の思い出は、大ちゃんと呼ばれていた加藤大輔君との出会いである。体格が良く歌や絵の上手い親分肌の生徒。クラスの人気者でもあるが、何故か、取り巻きは私のような情けない感じの同級生ばかり10名くらいだ。表の特技は鉄棒等の器械体操、裏の特技は喧嘩だが、体格と威勢のよさでで相手を圧倒する猛者である。

大ちゃんは授業中に退屈すると精密にしてワイセツな絵を描く。そして教室内で回覧させたりする不良生徒でもあった。しかし、違う面も持っていた。校内で放送劇を上演するとき、先生の推薦で主役をやると、まるで声優のような語り口で女生徒たちを魅了した。勉強以外は何でも出来る人だなと思った。

テレビも一般家庭には普及していない頃なので、よく大ちゃんの家でお喋りをした。その後で街をぶらついたが、時々貧民窟に行く。そこには私が終戦後に住んでたような焼けトタンのバラックが無秩序に建っていた。そこに大ちゃんの彼女が住んでいると言う。

「中山が住んでいるんだよ。好きなんだ。アイツ可愛いだろう?」と同意を求めるが、そうでもない。中山さんは隣のクラスの女生徒だが、ごく普通で目がデカいだけだ。大ちゃんはクラスの人気者で女生徒にもモテモテだ。それが何故あの子にと不思議でならなかった。

世話になった大ちゃんの人となりについては、一番思い出の深い同級生として、大ちゃん〜幻の決闘に書いた。中学時代に苛めに遭わなかったのは大ちゃんのお陰と今でも感謝している。楽しく過ごすには欠かせない存在だった。コソ泥と苛めは自己責任で対応する時代だった。新聞は毎日読んでいたが、なぜか苛めが記事になった記憶はない。
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2019年02月02日

困った時には運がつく

小学生時代の悩みはパラック住まいとズボンの下にパンツをはいてないことだった。先ずパンツだが社会情勢が私の味方になってくれた。10歳ぐらいで仕事が欲しいといっても、なかなか無いが、運よくS経済新聞が新しく発行された。

大都市東京の新聞配達は中学生程度の体力が必要だ。人口密集地区だから沢山の新聞を持たされる。しかし新規参入のS経済新聞は購読者が少ない。部数が少なければ小学生でも配達可能だ。配達時間に影響するので受け持ち区域は極端に大きくは出来ない。

そのため、賃金が安すく三大新聞の半分以下だったが仕方がない。1ヶ月千円だが小学生にとっては充分な金額だった。国鉄最低運賃が10円で、もりそばが17円、そして40円で古い洋画が観れたのだ。しかし、母に食い扶持として700円とられた。その代わり端切れを縫い合わせてパンツを作ってくれた。そのころの下着は手作りが普通だった。

母は怖い人、私だけでなく家族全員が怖がっていた。だから母の言うとおり700円の食い扶持を入れたが、納得はしていない。母の金扱いのずさんさを知っているので、黙って母の財布から少しずつ戻していた。良心の呵責はなかったが恐怖感があった。食い扶持と言っても500円が限度だ。私はそれ以上払う気がなかった。

貧乏だが運だけは好かった。何もしなくても忌まわしいバラックは、安普請ながら木造の新築住宅となった。戦災復興土地区画整理事業で道路の幅が広くなった。当然土地は狭くなったが家を建ててもらえた。両隣の人が爪に火を点すような暮らしをしながら、自力で同じような安普請の家を建てていた。他の家は区画整理案に合わせて建てたから、我が家のバラックだけが道路予定地にはみ出していた。

世の中は不公平だ、全力をかけて自力で建てた家並みの中に、無料で建てられた家が並ぶことになった。もちろん最低限の木造家屋だがバラックから脱出できて大喜びした。家の中に台所とトイレがあることが何よりも嬉しかった。それに木の香りは格別だ。

私にとって最大の悩みは遅まきながら解消された。バラックから解放されパンツもはいた。焼けトタンのバラックは冬は寒く、夏は焼けるように熱いのだ。そして雨が漏る。そんな暮らしとおさらばだ。しかも、学校では堂々とズボンを脱いでパンツ一丁で身体検査を受けられるようになったのである。こんな嬉しいことはない。

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