2018年09月22日

カテゴリの説明 〜私の半生〜

カテゴリの説明
老後は穏やかに過ごしたいので事実に基づいたフィクションとした。人物は全て仮名、地名は一部仮名、時代だけは正確を心掛けている。自分なりの真実を書きたい。

カテゴリ 家幼児時代
戦争から敗戦への激動の時代は、私にとっては激変の時代。国破れても個人の闘いは続く。生命の危険を感じた父は母子4人を残して逃亡、行方不明となる。残された4人は豪邸から焼け跡のバラックに転居。それでも幼児の私は苦しくも淋しくもない。一つひとつの出来事を一コマの絵として記憶していても、なぜか感情を伴っていないのだ。
 
カテゴリ 猫小学時代
小学校に入ってから3年間は金で悩んだが、4年生の時、中学生以上でないと採用されない新聞配達のアルバイトを得た。運がついたのだ。その代わり収入は中学生の半分以下だった。それでも学費の残りで映画も観れたし買い食いもできた。収入を得たら何が何円、何が何円の連続の声、最後に「わー」と叫んで目を覚ます夢を見なくなった。
  
カテゴリ 本中学時代
新聞配達の他に木工所でもアルバイトをした。テレビも電子ゲームも無い時代は、それでも遊ぶ時間があった。図書室と理科実験室のある学校は大好きだった。卒業したら就職するので最後の学校生活を思い切り楽しんだ。今でも友や先生のことを思い出す。

カテゴリ ふらふら求職時代(16-23歳) 
フルタイムの仕事は苦しかった。いろいろな仕事を一生懸命やった結果、肉体労働は無理な体と自覚した。意外にも国家公務員試験は学歴を受験資格としない、ことを知った。航空管制官試験は専門科目が英語なので独学も出来そうだ。この時も運がついた。世の中はオリンピック景気に浮かれ、英語が出来るのに安月給の公務員に応募する人は少なかった。お陰で合格できた。後で知ったことだが大学(短大)新卒者は僅かだった。

カテゴリ 飛行機定職職時代(24-60歳)
ノロマで不器用では管制官は務まらない。しかし9年間も職を転々としたので、世の中には絶対出来ないことと、我慢すれば出来ることがあることを知っていた。我慢に我慢を重ねて定年まで勤めると決めた。61歳6ヶ月で退職。運よくハッピーリタイアメント!
 
カテゴリ exclamation×2高齢時代(61-74歳)
自由になったのだから何でもやってみようと意欲満々だが出来ることは何もない。そこで中島公園に関するサイトを開設した。5年たったら北海道新聞のコラム「朝の食卓」の執筆依頼があった。「HP中島パフェ運営」として2009年から2年間書いた。文章はろくろく書けないのに運がついた。小学生で新聞配達も運、中卒で管制官合格も運、いずれも凄く困っている時には運がついた。運だけで生かされて来たが、定年後も例外ではなかった。

カテゴリ 眠い(睡眠)後期高齢(75歳以上)
退職後は自由で楽しいので、いろいろやってみた。はしゃぎ過ぎて体力以上に動いたせいで2回ばかり体調を崩して入院した。そこで考えたのが私自身の定年制。75歳定年と決めたが2年遅れて全てのボランティア活動を止めた。既にシルバーセンターのアルバイトも止めていたので、ひたすら駄文を綴りオンチに歌う今日この頃である。

私を知る人にとっては信じ難いことだが、今は洋楽カラオケを楽しんでいる。オンチで英語が苦手で口が回らないけれど、洋楽を聴くのは大好きだ。洋カラ会立ち上げのドサクサに紛れて入ったのだ。私の読みどおり後から入る人は例外なく上手い。依然として運はつき続けている。ひょっとしてこれ以上年を取らないかも知れない。本気だよ。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | カテゴリの説明

2018年09月15日

二日間も停電で断水

夜中の三時ごろ地震で起こされた。さっそくラジオをつけたが映像がないと全体像が掴みにくい。道内全域停電とは聞き違いかな? 復旧に1週間と聞いて更にビックリ。情報化の世の中ではあり得ないことだ。「ブラックアウト」と言うそうだ。

我が家の場合電気がないと水道も止まるし電話も使えない。携帯はカバンの中で電池切れになっている始末だ。いろいろあるが問題は水。「中島公園に水飲み場があるよ」とか言ったら、水汲み担当にさせられた。

トイレを流すにはバケツ一杯の水が要る。エレベーターは停止だから4階で好かった。15階だったら大変だ。それでも私にとってはキツイ仕事だ。上から降りる人の気配を感じると踊場で待つ。笑顔で有難うと言ってくれる。疲れたから休んでいるだけなのにね。

試行錯誤の末、2リットルのペットボトルを何本かリュックに入れて背負うのが一番楽なことが分かった。用事を済ませて帰りに水汲みをすることにした。公園でホテルマンに声をかけられた。「手稲から自転車で来たが、この格好では接客は出来ないので裏の仕事をしていた」とかいろいろ話してくれた。顔見知りだが世間話をするのは初めてだ。

こんな日はいろいろな人と会う。今度は同じマンションの住人だ。「一人暮らしでラジオも無い。停電で何も分からず不安だった」と言っていた。今日中に停電も復旧する見込みとか教えて上げた。「いろいろ話を聞いてホッとしました。これから街に行きます」と言うので、地下鉄も市電もありませんと伝えると、タクシーを拾うと言って別れた。

帰りがけに水飲み場に寄った。水は重いので自転車で来る人も多かった。70年前の焼け跡の共同水道を思い出す。こんな時は皆さんの口も軽くなる。焼け跡時代の井戸端会議がよみがえった感じだ。同じ状況に陥った人どうしで愚痴とか言い合った。公園と言う川で水を汲み、マンションと言う山の階段を上る。水道は健在なのに水難民とは電化時代の落とし子だろうか?

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近所の公園の水飲み場には汲みに来る人が次々と。

夜になると、東隣のマンションも南隣のマンションも明かりが点いているのに我が家だけは停電のままだ。何かの間違いと思い外に調べに行った。不運なことに我がマンションは広大な暗闇地帯の角地に位置していたのだ。

暗闇の中に数人ずつの若者グループがアチコチで彷徨うように歩いていた。アジア系の外国人のようだ。ホテルでの連泊を断られた人達と思う。後で知ったことだが中島体育センターでは約170人が7日朝まで一夜を過ごしたと言う。北海道観光を楽しみに来ていたのに気の毒だ。ひょっとして英語なら通じるかも知れないと思い声をかけてみた。

「グラフトヌーン・ハオユ?」
「…………」
暗い夜道で緊張しているようだ。
「テイケリーズィ」
うん、全然通じない。昔からそうだった。

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75歳以上)

2018年09月08日

時代遅れ

時代遅れと感じるときは、どんな時だろう。ある日メールが来た。「藻岩山頂上12時、昼食持参で来てください。いつもの4人で楽しみましょう」と書いてあった。気楽な仲間だから、コンビニで何か買って行けばいいかなと思った。そのコンビニで時代遅れはどんな時? の答えが出てしまった。もっとゆっくりで好かったのにね。

集合時刻も迫っているので、いつものメニューにしようとか歩きながら考えた。大好きな昆布のおにぎり、アンパン、お気に入りの野菜ジュース、その他にお菓子を見繕って買おう。簡単にすまそうと思ったのが大間違い。思わぬことで躓いてしまった。

おにぎりコーナーに昆布のおにぎりがないのだ。なぜだ? 梅と昆布と言えばおにぎりの定番ではないか。その代わり「手巻きおにぎりチーズごま昆布」なるものが置いてあった。チーズもゴマも要らないが集合時間が迫っているので、まあいいかと思った。あれれ? アンパンが無いのにはビックリ、アンパンこそ菓子パンの王者ではないか。気は進まないが「ヤワラカコシアン&ホイップパン」なるものを買った。コシアンは好きだからね。

何とか集合時間にも間に合って、藻岩山頂で昼食をとることになった。皆でお菓子を分け合ったりして楽しく食べた。しかし「手巻きおにぎりチーズごま昆布」にはガッカリした。なんかゲテモノと言う感じだ。それに「ヤワラカコシアン&ホイップパン」も不味かった。コンビニで買うものはソコソコ美味しいという信頼は裏切られた。

しかし、これは逆恨みと言うものだ。昆布のおにぎりが無ければ梅おにぎりを買えばいい。もともと梅おにぎり一筋だったのが、ある専門店で昆布を食べたら凄く美味かった。それ以来、昆布一筋に変わってしまったのだ。アンパンが無ければジャムパンを買えばすむことだ。愚かな私アンパンと昆布に拘った。他にもいろいろあるのにね。

年を取ったものだ、スマホにもフェイスブックにも馴染めない。おまけに買い物まで苦手になった。時代遅れの自分の姿が見えて来て寂しい。そもそもコンビニでは売れない商品は置かない。私の好きな物がある店は、加齢に応じて今後も減り続けるだろう。しかしこれは人間が生きるために必要で手頃な悩み。必須のストレスである。時代遅れの私だが、そこそこ幸せだから天国にはゆっくり行きたいと思っている。

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2018年09月01日

知らぬが仏

人生を語るのが好きだが語り合う人はいない。仕方がないので書いている。ところで山口県で行方不明になった二歳児が三日ぶりに保護され、誰もが知る大きな話題となった。ふと人が恐怖を感じるのは何歳くらいからかと考えた。と言うのは私の場合、同じような経験をしても5歳の時と8歳の時とでは感じ方がまるで違ったからだ。

5歳のとき家族の運命を左右する劇的な事件が起きた。戦後の混乱期に父親が暴漢に襲われて血だらけになって担ぎ込まれた。玄関の戸をバンバン高く音と「……さんが、やられたー」と叫ぶ声、頭から血を流してして抱え込まれた父親の姿、家じゅう大騒ぎになったことを覚えている。不思議なことに5歳の私は怖いとか悲しいとかの感情がなく心配もしていなかった。当時の家庭状況を含めた経緯は「生い立ち」に書いたのでここでは省略する。

事件をきっかけに父親は姿をくらまし母子はどん底に落ちた。その後母は3人の子を連れて再婚した。3年後の私は渋谷の焼け跡に建つバラックに家族6人で住んでいた。ある日学校から帰ると6畳大のあばら家に人の気配が無かった。小屋には窓が無く昼でも薄暗い。布団を被って寝ている人が居るようだ。暗闇に目が慣れてくると、その人は頭も顔も包帯でぐるぐる巻きだ。白い包帯に血が滲んでいる。直感的に養父と思った。

8歳になった私の反応は、5歳の時とは全く違っていた。既に世間のことも生活のことも分かっている。声をかけるどころか不安で近づくことも出来なかった。事態を知ることさえ恐ろしい。外に出て当てもなく歩き回った。ギリギリの生活をしていたので、明日から食えなくなると不安に駆られていたのだ。この辺りの事情は「ゴミで財産を築いた人」に書いたのでここでは省略する。

5歳の事件体験については今でも覚えているが、感情を伴わないので精神的ダメージは無い。不安な未来でも知らなければ平静でいられる。間もなく78歳になる私も先のことは何も分からない。「知らぬが仏」の心境でで楽しく幸せに暮らしている。命に限りがあることは分かるが実感がない。都合の悪いものが見えなくなって来た。困ったものだ。
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 08:28| Comment(0) | 幼児時代

2018年07月03日

「空白の22年間」9月より再開

「オンチのカラオケ」を4月1日に開設し、いまは「空白の22年間」と交互にアップしていますが、そろそろ自分史「空白の22年間」に戻りたいと思います。

9月には戻り、だいたい半年交代にしたいと考えていいます。両方とも長く続けたいテーマです。よろしくお願い致します。
posted by 中波三郎 at 05:24| Comment(0) | その他

2018年04月14日

「オンチのカラオケ」開設

高齢になってからカラオケを始めた。そして趣味のブログ「オンチのカラオケ」を開設した。今後は自分史としての「空白の22年」と二本立てで行くつもりだ。どちらかを毎週土曜に更新しすることにした。当面は「オンチのカラオケ」を更新する。

タイトルは「趣味のカラオケ」としたかったが、オンチだから無理。低学力で低体力でノロマだからスポーツもゲームも出来ない。私が出来るのは空想だけ。好きなことに関していろいろな思いを巡らせている。カラオケが趣味だが普通のことは書けない。歌は下手だし知識もない。

私は遺伝子とか空想してみた。人間という車に乗って地球上を何百万年も走り回っているところだ。車は古くなったらスクラップにして新車に乗り換える。遺伝子だから胎内から出たり入ったりして永遠に生きる。そう思えば何となく楽しい。

今乗ってる車は誕生して78年、ポンコツをとっくに過ぎている。何らかの方法で新車に乗り換えなければならない。乗り換えたら胎内温泉で一休みする。10ヵ月もすれば赤ちゃんと言う新車に乗って颯爽と世の中に出て行けるだろう。とか空想しながら歌って呑気に暮らしている。

1回目はエイプリルフールに更新、2回目からは毎週土曜の更新。
タイトルは"オンチのカラオケ"、よろしくお願いいたします。
(2018年5月24日修正)

毎週土曜はこちらをクリック! →→ "オンチのカラオケ"
         

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(3) | その他

2018年03月24日

ワリカン要員

今では交流会などの宴会は大好きで進んで参加しているが、在職中は宴会が大嫌いだった。定年退職当時、一番嬉しかったことは「もう宴会に出なくてよい」ことだった。こんな幸せなことはないとまで思っていた。酒には弱いけれど嫌いではなかった。しかし職場の懇親会は大嫌いだった。多くの同僚が嫌がっている。単なる悪習慣と思う。

地方では中央からエライさんが出張して来ると懇親会をする。そんな時、中央から来たお客さんに会費を払えとは言えないだろう。その分は会費に上乗せされる。参加者が少ないと出た人の負担が多くなり困るのだ。

お客さんが3人居もいたら更に大変。幹事はワリカン要員を沢山集めなければならない。ほとんどの同僚が嫌々参加しているのに自分だけ逃げるわけには行かない。又宴会かと思うけれど、「アンタ、今月は2回しか出てないな俺なんか6回だ」と幹事役の同僚から言われれば出ないわけに行かない。幹事をこれ以上悩ませられない。

しかし、宴会が好きな人もいる。飲むことが無条件で好きな人。そして、中央から来たエライさんと仲良くなろうとする人。しかし8割は嫌々参加、割り前さえ払えば浮世の義理は果たしたと思っている。

お客さんのことなど眼中にない。ひたすら食って飲んで騒いでいる。ワリカン負けしないように頑張っているのだ。なんの為の懇親会だろう。それでもお客さんに擦り寄って行く人は次々と現れるから心配はない。お客さんは「札幌の人は明るくていいですね。元気もらいました」とか言って満足して帰る。ワリカン要員も雰囲気作りに貢献しているのだ。

矛盾した状態の中で得をする人も居る。それは職場のエライさんだ。そのときばかりはワリカン要員になりきっている。中央のエライさんをお安くおもてなしできるのだ。月給は高いが会費は平等だ。何でこんな習慣が出来たのか今考えても分からない。

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職職時代(24-60歳)

2018年03月17日

同僚の事故死

1980年頃はW市にある研修機関で働いていたが、3年過ぎて現場に帰ることになった。収入が増えるのは有り難いが、苦手な現場で働くのは気が重く複雑な心境だ。S空港から千歳に向かう前、S管制塔で働く友人に別れの挨拶に行った。

忙しいはずの管制塔がやけに静かだった。友人の話では小型機が着陸に失敗し滑走路閉鎖の状態だそうだ。そう言えば航空機が一機も飛んでいない。今日中にに千歳に行けるだろうかと心配になった。人身事故なので警察で捜査しなければならない。事故機は既に撤去されたと聞いてホッとした。大きな遅れはないだろう。その時は事故で死者が出たことも、同僚だったAさんが乗っていたことも知らなかった。

Aさんが命を落としたことを知ったのは、札幌に着いてからだった。 彼はアマチュアパイロットだが、事業用操縦士のライセンスを持っていた。同じアパートに住んでいたので、彼の車に同乗して帰ることが多かった。車中でよく雑談をした。

訓練中の(アマチュア)パイロットの面倒をみているんだとよく言っていた。判事って偉いのかと聞いてから、実は今度の訓練生は判事なんだと得意そうに言う。アマチュアだが気分は教官である。実際もそうらしい。彼が居なければ飛行機も借りられないし飛ばすことも出来ない。Aさんは独身のとき生活費を切り詰めて費用を捻出し、アメリカで飛行訓練を受けてライセンスを取得した。

新聞には乗員2名死亡と書いてあった。無口な奥さんの顔を思い出す。いつか彼がこんなことを言ったことがあるからだ。「金を貯めて女房にボタン屋をさせるんだ。ボタンは腐らないから素人でも出来る。あらゆるボタンをそろえて置けば、そこそこの商売になるんじゃないか。そうすれば年金のたしまいになるだろぅ」。

あれほど慎重な人が、こんな最後を遂げるなんて、人生は何が起こるか分からないものだ。私より少しだけ若くて意思の強い人だった。何をやっても出来る人だが飛行機の操縦が何よりも好きだった。存命ならば70歳を過ぎた今でも飛び続けたことだろう。堅実で慎重な人だから年金とボタン屋で稼げる範囲で楽しい余生を送っていたことご思う。

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2018年03月10日

大食い早食い

最近はテレビの「大食い」と「早食い」番組に悩まされなくなった。5年ぐらい前から自室に私専用のテレビを入れたから見なくてすむようになったのだ。大嫌いな番組から解放されてスッキリした。大食い大好きな方も、嫌いな番組はあると思う。人それぞれと言うことでご容赦ください。

妻に一つだけお願いをした。「食事の時はテレビを消して話しながら食べましょう」と。 美味しい食事を心から楽しみたいと言うのが表向きの理由だが、本当は早食い大食い番組から逃れたいのだ。その手の番組が始まると私は直ぐに逃げたが、食事中に放映されるのが一番困る。逃げ出すことが出来ないのだ。しかし妻が見ている番組を嫌いとは言えない。いろいろ世話になってるからね。

そんなことを考えていたら小学校の給食を思い出した。給食を食べながら先生が「食」について教えてくれた。あるとき先生は「ミルクにパンを浸して食べると美味しくなりますよ」と言った。翌日には「パンはよく噛んで食べよう。唾液の力で栄養が行き渡ります」と言う。話は矛盾するが、食べ方や栄養が、いかに大切かということは十分に伝わって来た。

先生が「口の中で36回噛みましょう」と言いながら口をモグモグ動かせて見せてくれた。生徒達もそれを真似して回数を数えながら食べた。先生も生徒も口に入れたものはトコトン栄養にしようという執念があった。それが今は「早食いに大食い」が映像になって流れている。幸いマイTVのお陰で見なくてすんでいる。

小学校の食育のせいか、よく噛む習慣が身に付いた。しかし「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言うけれど本当だなと思った。今では歯医者さんから余り噛むなと言われている。噛み過ぎて歯が痛んでいると言うのだ。一人二人ではない、診察した歯医者さんの全てに言われた。そんなに噛まなくても胃袋でちゃんと消化するので心配するなとまで言われてしまった。小学校の教育が私の心の中で今でも生きている。教育は凄い。もし宝くじで3億円当たったら教育事業に使いたい。買ってないけどね。

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2018年03月03日

闇屋の小父さん

私が十歳の頃は東京でもよく雪が降った。長靴を持っていないので下駄履きだ。雪道は滑りやすいので転んだら鼻緒が切れたりする。寒いのに下駄を脱いで裸足で歩くのは辛い。長靴は欲しいけれど買えない。そんなとき、我が家の事情をよく知っている近所の小父さんが「ウチで働いてみないか」と誘ってくれた。長靴が買えると思い嬉しくなった。

作業所では十人くらいが働いていた。私の仕事は、山積みにされた煙草の吸殻をほぐして煙草の葉と紙に分けること。ここでは吸殻と使用済みの空き箱を使って、紙巻煙草の再生産をしている。ちょっと怪しいが、ここで働ければお金をもらえる。

小父さんの仕事は列車清掃業、そして裏の仕事は闇屋。タバコ再製造はその一つである。作業所で簡単な指示をすると国鉄品川客車区に行く。一方、作業所の仕事は極めて単調だがら話しながらする。話題が小父さんのことに及ぶと、私は聞き耳をたてた。

「オヤジさんは監督が来ると急に威張るんだ。監督には揉み手でペコペコするのにね」
「分かるよ。俺も品川の列車掃除に行ってたからね。後でお前に謝ったろう」
「謝るどころか、ラッキーストライクくれたよ」

当時の若者の憧れはラッキーストライクを口にくわえ、ジッポーのライターで火をつけることだ。小父さんは作業員を怒鳴りつけて強いところを見せ、監督にはペコペコする。こんな見え透いたやり方でも、繰り返せば監督の信頼を得ることが出来る。強い男にペコペコされればオベンチャラと分かっていても気分がいいものだ。

次は賄賂だが、先ず「いいもの拾いました」とか言って、新品のアメリカ煙草を届ける。拾い物は次第に高価なものになり、最後は現金の賄賂。明るみに出れば事件になる程の金額だ。ここまでくれば鉄道員の監督は海千山千の小父さんの言いなりになる。例えば進駐軍専用列車のゴミは宝の山だが持ち出しても目をつぶる。

大人達の話を聞けば聞くほど小父さんが怖くなってきた。あれほど欲しかった長靴も諦めた。ところが小父さんは仕事を辞めた私に中古の長靴をくれた。彼は私自身の働きで長靴を買わせようとしたが、気が小さい私は期待に応えることができなかった。これは私が闇屋の採用試験に落ちたことを意味している。そして長靴を口止め料代わりにくれたのだ。小父さんのやることは全て行き届いていた。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代