2019年10月19日

恐怖の金縛り

改めて私の生い立ちから振り返ってみたい。5歳の時に終戦を迎えたが、自分は金持ちの子と思い込んでいた。母は仕事で忙しく可愛がられた記憶も、躾を受けた記憶もない。私は贅沢で我が儘な甘えん坊で、若い女性に面倒を見てもらっていた。後で知ったことだが、1946年ごろから複雑な家族関係になっていた。全ては戦争のせいだ

戦後の混乱の中で父親は自分の命を守るため、妻子と生活資金を残して北海道に逃亡した。そして、母は再婚のため三人の子を連れて東京に行った。養父となる人は、渋谷を焼き尽くした「山の手大空襲」で家と妻子を失い、侘しいバラック暮らしだった。母の金で焼け跡に家を建てる計画だったが、彼が肺病に架かり建築資金を失った。

ところで、70歳を過ぎてから勘違いと分かったことがある。それは5歳のとき豪邸に住んでいたと思い込んでいたことである。久しぶりに東京から来た兄に本当のことを聞かされた。母は金持ちの奥様ではなく女子寮の管理人、そして海軍さん相手の宴会を取り仕切って、忙しく働いていたそうだ。今さらの壊された思い出話を聞かされたてガッカリした。

このブログでも隠していたことがある。それは我が家が生活保護を受けていたこと。何とかして保護を受けるのを止めたいので、中学を出たら働くことにした。ただ勉強もしたいと思っていたので、発足2年目の自衛隊生徒を志願した。給料をもらえるから家に送金もできる。4年間勉強して中堅幹部になるそうだが中堅幹部って何だろう?

ところが入隊を前にして体調に異変があった。今までスイスイ歩いていた街中の坂を上るのに、息苦しく感じるようになったのだ。何か変だが自衛隊で鍛えてもらえば治るだろうと楽観していた。これは滅茶苦茶な勘違いだが、15歳の時はそう思った。

赴任地である舞鶴練習隊で、最後の関門たる入隊前身体検査が行われた。肺に陰があり再検査となった。故郷を遠く離れていたので、病気で落ちたら行く所がない。何でもいいから入隊したいと思った。幸い再検査で合格になったが、それからが大変だった。

街中の坂を上がるにも息切れがする私にとっては、毎日が猛訓練のように感じだ。就寝時の金縛りにも悩まされた。金縛りについては何も知らないので、いつも死の恐怖に怯えていた。はっきりと意識があるのに体が動かない、圧迫されて地獄に落ちて行くような感じがするけど動けない。助けを呼ぼうにも口が動かない。最初は突然に強い恐怖、何回も続くと、そのうち来るかもという弱い恐怖、とにかく病気と考えていたので治したいと思った。

金縛りを知ったのは何年も後になってからだ。「本人は目が覚めているのに、身体を動かすことができない。この状態が、完全に覚醒するまで続く。2割の人がこの症状を経験する」と、何かに書いてあった。なんだ5人に一人は経験者か、死ぬと思っていた私はバカだった。しかし15歳の時は真剣に死にたくないと考えた。そして医務室に行った。続く
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2019年10月12日

アンタ暗いね

18年前、中島公園の近くに転居したころの体調は最悪だった。とにかくアチコチが痛い。整形外科に行っても埒が明かないので、マッサージ治療を受けることにした。担当のマッサージ師は目の不自由な若い人で、A子先生と呼ばれていた。腕は確かだが、とにかく よく喋り よく笑う。痛みの緩和が目的だったが、次第に通院が楽しみになって来た。

A子先生はマッサージをしながら、耳だけを傾けてくれそうな気がして、とても話しやすい。つい言わなくてもいいことまで言ってしまう。それに頭のマッサージはないから有難い。私がハゲとは気づかないだろう。思わず話が弾む、この日の話題は家庭の事情である。

「喧嘩したのね。それで、どうしたの?」とA子先生。
「自分の部屋に入って鍵をかけたんです」
「奥さんから逃げたのね」
「P子は攻めて来たりしません。ただ、中で何をやっているのか見られたくなかったのです」
「見られたくないって、何をさ?」

と問われ、ちょっと答えを躊躇した。患者は私一人だが、院長先生も、受付もいる。彼らには聞かれたくない。それで、小さな声でボゾボソと答えると。

「えっえ〜!パソコンで奥さんの悪口書いているって〜! あんた暗いね〜。アッハッ、ハッ、ハ〜、こんなくらい人見たことないよ」
「見えるんですか?」
「手に取るように見えますよ、アッハッ、ハッ、ハ〜」

やれやれ、私の名案もA子先生に豪快に笑い飛ばされた。これを聞いた受付の若い子は一体どう思っただろうか。会計するとき嫌でも顔を合わすから気になる。それにしても何と明るい先生だろう。目の不自由な方は暗いと思っていた私の偏見は吹っ飛んだ。

振り返ってみると、私が先生と同じくらい若かったころは暗かった。高齢になったにも関わらず、今の方が明るい気持ちで日々暮らしている。私自身の性格は変わってないのだから、人の気持ちが明るくなるも、暗くなるも、周囲の状況次第だと思う。

A子先生は目が不自由だが、家族とか友人から良い影響を受けて、明るくて積極的な性格に育ったのだと思う。愚かな私は、さっそく空想にふけった。もし、水も滴るいい男なら、精いっぱい愛嬌を振りまいて、周囲を幸せにしたいとかエトセトラ。

良い影響を与えられる人になった気分で空想をしたが、相変わらず不細工で暗い人のままだ。それなのに何故か楽しい。穏やかで静かな暮らしが性に合っているようだ。

もしはもし もしもよくても もしはもし いつまでももし もしのままゆく
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2019年10月05日

オペレーションYUTORI

オペレーションYUTORIとか、意味の分からないことを書いて申し訳ない。少し長くなるが説明させて頂きたい。在職中は私が仕事、P子は家事と、明確な分業が成り立っていた。待ちに待った定年退職がやって来た。さあノンビリするぞと喜び勇んだのは束の間。厳しい試練が待っていた。期待に反して、なんだかんだと居心地が悪いのである。

しばらくすると自分の立ち位置が分かって愕然とした。我家はいつの間にかP子に占領されていたのだ。私は知らない内に敗戦国民のような立場になっていた。しかし、こんな現実に負けてはいられない。「家でノンビリ」は長年の憧れである。どうしても譲れない一線だ。創意と工夫で、この戦局を打開しようと決心した。

 「私はこの作戦の必勝を期してオペレーションYUTORIと命名しました」
 「P子さんの尻の下から脱出するのに、作戦とは大袈裟だな」
 「敵を甘く見てはいけません。作戦目標はノンビリした暮らしの確保です」

半年もすると、二人暮らしのコツも身についてきた。「嫌・駄目・出来ない」はご法度。何も一生懸命やることはない。とりあえずは「うんうん、それもいいね」と言っておけばよい。

「仕事を止めたんだから、家事は半々にしようね」とP子。
「うんうん、それもいいね」
別に何時からと言われた訳ではない。「うんうん、いいね」で充分だ。しかし「明日からやって」と言われたら、少々頭を働かす必要がある。

「うんうん、いいね」は決まり文句だから、そのままで良い。難しいのは後半だ。間違っても「出来ない」とは言ってはいけない。そんなこと言ったらお仕舞だ。厳しい訓練が待っている。P子は決して甘くはない、しかも強いのである。

「明日、あさっては予定があるので、3日後からで如何でしょうか」と、とりあえずは先送りする。3日後に同じことを言ってくることはない。P子は忘れっぽいのだ。

もし、忘れずに家事は半々と言ってきたら、どうするんだ? と言うような愚門には、もう三日待ってもらうと答えたい。理由なんて何とでも付けられる。嫌・駄目・出来ないと言わなければいいんだ。こうして、オペレーションYUTORIは成功裏に終了。世間は厳しいけれど我が家は甘い。だから、この穏やかで無思慮な作戦は二人の仲でしか通用しない。
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2019年09月28日

親友募集?

前回のブログで長年隠していたことを書いてしまったが、書きにくいことを書くのは本当にシンドイ。本当は公開などしないで親友だけに話したかった。長い間叶わぬ夢を追い続けている。親友を作ろうとの試みは、全て失敗して現在に至っている。みんな自分が悪いのだ。それとも探し求める親友とは、ドラマの世界だけに存在する幻か?

地下歩行空間の休憩コーナーで高齢女性が二人で楽しそうに話し合っていた。用事を済ませての帰り道、同じ席を見ると今度は深刻な顔で話していた。あれから2時間半以上はたつ。あんな長い時間を退屈もしないで話せるなんて、二人は親友に違いない。私もあんな風に二人で長く深く話したい。

年を取ったら親友が出来ないのかも知れない。青少年時代は各地を転々としていたので26歳になるまで市区町村の選挙人名簿に登録されなかった。同窓会通知が来たのは中卒後1回だけだった。転々としている内に行方不明扱いになったらしい。何処に行っても人の輪は出来上がっている。孤独を感じても輪の中に割り込むのは容易ではない。

つくづく孤独な人間だなと思う。結婚して子供が出来たのも奇跡のような感じがする。振り返ってみれば、何でもいいから結婚したいと言う一念だった。それでも孤独の状態は変わらなかった。15歳で家を出て未だに地に足が付いていないような気がする。

このままで、一生フワフワと雲の上にいるような感じで過ごすのだろうか。私は諦めきれない人、今でも奇跡的に親友が出来るかも知れないと思っている。もし、そうなったらこのブログともおさらばだ。何でも話せるのだから書かなくてもよい。

ところで、地下歩行空間で見た高齢女性は、あまり幸せそうにも見えなかった。愚痴をこぼし合って、ストレスを解消していたのかも知れない。それなら私もやっている。このブログでね。自分史のつもりだが「愚痴こぼし史」のようになりそうだ。そうならないように注意するが、先ずはブログ訪問者に感謝! おかげさまで静かに楽しく暮らしている。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2019年09月21日

隠していたこと

このブログ、「空白の22年間」は写真、文書、物品等が何も残っていない22年間を、記憶だけを頼りに書いている。開設して2年近くなるが、幼少期から現在に至るまでを書いているのに、まったく触れていない部分がある。最も書きにくい部分が残ってしまったのだ。私の人生に最大の影響を与えた部分だが、書くか書かないか未だに迷っている。

私と同年配の人達は、日本のどん底からバブル景気、そして長い低迷時代を生きて来た。家庭に電話が無い時代からスマホの時代まで駆け抜けて来た。汲み取り便所からシャワートイレまでの経験がある。仕事に使う自転車を買うのにに苦労した時代から趣味で車を買える時代に……。前置きばかり長くなり、なかなか本題に入れない。

書きにくくて書かなかったことは、我が家が生活保護家庭だったこと。先ず、高校に行くことなど考えられない。自分の意思として中学を出たら働いて、保護の要らない家庭にすることが第一と考えていた。当時は貧困の時代、友人の家庭を含め、多くの貧しい人々が体が弱くても栄養失調でも保護を受けずに頑張っていた。命がけで働く時代だった。

2歳年上の次兄は成績優秀なので、先生が進学を勧めに何回も来た。金持ちの同級生も父が金銭的援助するからと進学を勧めに来た。次兄は彼が家に来ることを凄く嫌がっていた。先生も同級生も保護を受けていたら進学など出来ないことは知らないらしい。あるいは我が家が生活保護家庭であることを知らないのかも知れなない。先生は担任ではなく、自らも夜間の大学に通う苦学生で、貧しい生徒の進学に情熱をもって支援していた。

法的には知らないが生活保護を受けていたら高校には行けない、ただし働きながら定時制高校に行くことは目をつぶる、と言うのが当時の空気だった。私は次兄の進学騒動を見ていたので最初から高校に行く気はなかった。目をつぶると言うような曖昧なことでは、定時制高校にも行きたくなかった。

そんなときガキ大将の大ちゃん が雑誌を持って来た。そこには自衛隊の制服を着た少年が整列している写真があった。大ちゃんは「格好いいだろう。俺と一緒に受けないか」と言った。結局、3年生4人が受けることになった。受かったのは私一人。大ちゃんは商船高校も落ちて、水産高校に行き、他の二人は普通の高校に行った。

これで私は、生活保護の子供と知らない世界に行けると喜んだ。しかし未成年だから入隊には親の許可が必要だ。母は最初は渋っていたが、5400円の給料の内4000円を送金すると言ったら許可してくれた。働きながら定時制に行っている兄も二人いるし、これで生活保護から抜け出せると、私も前途に期待することが出来た。中学で就職する最大の理由は、生活保護家庭の子供と言う恥ずかしいレッテルを剥がすことだった。
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2019年09月14日

ゴミ捨ては辛いよ

25年間も全く別の世界で暮らしていた二人が偶然の出会いで結婚する。それが当然と思って何も考えずに年を取る。退職して家でゴロゴロ二人暮らし。そして、些細なことでも喧嘩するようにになる。それでは人生は楽しくない。平等とか思うからいけないのだ。そんなことは有り得ない。今まで主人だった私は家来になる決心をした。

二人居る以上は上下関係が必要だ。一番いい上下関係は親子と思う。それで私は子供になることにした。子供は凄く楽だ、お母さんにご飯とか家事一切やってもらって勉強してればよい。私はもう18年もやっている。子供の唯一の仕事はお母さんの言いつけを守ること。そうすれば叱られることもない。お母さんの尻の下で何不自由なく暮らせる。

ここで呼び方について少し説明、子供が家を出て二人暮らしになった時、お母さんと呼ぶことに違和感を感じた。それで名前で呼び合うことを提案したら一蹴された。しかし、今は喜んでいる。子供役の私にピッタリの呼び方である。

私がお母さんに言いつけられている仕事は朝のゴミ出しである。ゴミ出しは凄く厳しい仕事だ。他に何もやってないからね(笑)。共同住宅に住んでいるから、やたらに知ってるような知らない様な人に会うのだ。挨拶するのがもの凄く難しい。

昔は好かったとか言っても始まらない。今は挨拶するかしないか、顔を合わせるごとに判断を迫られる。これは案外つらい。この辛さから逃れるのは簡単だ。人に会わなければいいのだ。人に会わないテクニックを身に付けることにした。

我室は4階にある。先ず、乗るべきエレベーターが1階にあることを確認する。90%以上の確率で箱はカラである。問題は4階を通過する場合、人が乗っていれば好いのだが、カラの場合は上に行った箱は誰かを乗せて4階に降りてくる。そんな場合はゴミを持って階段を歩いて行く。こんなことを一瞬のうちに判断して行動に移すのである。

廊下で遭遇したら仕方ない。軽く頭を下げる、そして相手が「おはようございます」とか言ったら口頭の挨拶を付け加える。これが一番無難なやり方である。

上るときはエレベーターが1階に止まっていれば幸運だ。降下中の場合は階数を読む。もし8階ならば、玄関の反対に向かって、イチニーサンシーとハチまで数えながら歩き、それからエレベーターに向かって歩く。これで万全、カラの箱が待っててくれる。

家に帰るとお母さんが「今日は誰かに会ったかい」と聞いてくれる。私の苦労を知っていて労ってくれるのだ。そして「ごくろうさん、明日から連休だね」。そうなんだ。今日は金曜日でプラスチック、土曜日曜はゴミ捨てはない。
タグ:札幌
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2019年09月07日

笑うな

穂村弘のエッセイが好きだから、ときどき彼の現代短歌に触れることがある。NHKラジオ深夜便で彼が話すのを楽しみにしていた。午前4時からだが最初は楽しく聴いていた。その内インタビュアーの笑い声が気になって来た。更に頻繁に笑うようになると邪魔に感じるようになった。穂村さんの話はとても面白いのだが、クスクスするだけで、ケラケラ笑うほどのものではない。それに冗談は時々しか言わない。それなのに彼女は頻繁に笑う。

彼の話を聴こうとすればするほど、彼女の笑い声が邪魔になる。しまいには彼女が笑いを止めても、今に笑うのではないかと恐ろしくなる、そんなときに笑われると、嫌という気持ちを飛び越えて腹が立ってくる。ついに聴くのを止めてしまった。

ところが突然、変なのは彼女ではなく私だと気付いた。インタビュアーはアナウンサーと思う。そうでないとしても話のプロか、それに近い方と思う。話のプロがリスナーの嫌がることをする筈がない。そんなことをすれば仕事を失う。現に彼女は仕事をしている。どう考えても変なのは私だ。年を取って笑い声を嫌がる変人になったのである。あ〜ぁ、嫌になっちゃうね。ついに、偏屈老人になってしまった。私こそ世の中の邪魔者だ!

ラジオ深夜便を聴き始めてから20年以上たつ。深夜に静かに語られる深夜便が大好きだった。1時間のタイマーをかけて聞いていると、何時の間に寝てしまう。その感じも好きだった。まさに寝て良し起きて良しのラジオ深夜便。それが数年前から笑い声が増えて来た。笑い声は次第に増え、ついに違和感を感じる程にまでなったのである。

実際に笑い声が増えたのか、どうかは分からない。私だけが気に障るようになったのかも知れない。とにかく話すプロはリスナーを意識するから、わざと笑おうとするのはリスナーが歓迎する場合に限られる。笑いが人々に好感を与える。それを不快に感じる私は知らぬ間に変人になってしまったのだ。気づいても元に返れない。

年を重ねるに従って、だんだん変人になったのか、世の中が静かな時代から笑い声の時代に変わっのか、未だに分かりかねている。もう世の中の変化についていく気力もない。穏やかに静かに生きているつもりだが、いつの間にか頑固な変人になってしもうた(笑)。まあいいか。人生いろいろ人もいろいろ。いいじゃないの幸せならば。
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2019年08月31日

挨拶はつらいよ

18年前に郊外の戸建てから都心近くのマンションに転居した。そして家事一切を仕切る、長年の同居人B子から、ゴミ捨て係を命ぜられた。私は真面目に実行した。ある日、B子は「朝の買い物に行くからゴミは持って行ってあげる」と言った。有り難くお言葉に甘えた。

次の日もそう言ってゴミを捨ててくれた、有難い。B子がゴミ捨てする日が次第に多くなり、私はゴミ係から解放されたような気分になってしまった。そして、いつの間にかB子から頼まれた時だけゴミを捨てに行くようになった。

こうしてゴミを捨てに行かない習慣が身についた。それから15年たったある日突然、「アンタは何でゴミ捨てに行かないの。アンタの仕事でしょ」と叱られた。一瞬、何のことかと耳を疑った。考えてみれば私はゴミ係だったのだ。15年も昔のことで忘れていたが確かにそうだ。こうして久しぶりにゴミ捨てを再開することになってしまった。

お安い御用と思っていたのに戸惑った。長い間にゴミ捨て環境は様変わりしていた。昔は顔を合わす皆が挨拶を交わす爽やかで清々しい朝だった。お父さんも、お母さんも、お子さんも例外なし。今は挨拶するか、しないか、顔を合わせるごとに判断を迫られる。これは案外つらい。何の悩みもない静かな生活をしていると、たかが挨拶でも悩みとなる。

15年の年月が住人を変えただけではない。実は、新築のマンションで遭った盗難事件をきっかけにして、住民同士が挨拶を励行するようになったのである。謳い文句は「不審者は挨拶が嫌い」だった。挨拶でお互いに不審者でないことを確認していたのかも知れない。だから事件の影が薄くなるに従って挨拶をしない人が徐々に増えたのだろう。

およそ18年前のことだが、私たちの住んでいる建物は危ないマンションとして知られていた。数か月の間に泥棒に3回も入られ、玄関を飾る大きな額と、ロビーのソファーと豪華すぎるゴミステーションの扉が盗まれた。まるで豪邸の門のような感じの扉だった。もちろん、数年たってからカラスが入れない実用的なものに替えられた。

窃盗事件は雑誌の記事にもなった。その後、防犯対策のための管理組合臨時総会も開いた。そこで生々しい窃盗体験談も聞きいた。不審者は作業服を着て車に乗って来る。掃除用具など持ち、一見運送屋風、堂々と盗むので手遅れになってから窃盗犯と知る。

防犯対策については、監視カメラを設置し、警察の見回りも実施されれることになった。不審者は挨拶が嫌いだから、住民どおしで挨拶を交わすことが大切と再認識した。そのような背景もあって、私がゴミ捨てをしていた当初は挨拶が励行されたが、15年の時の流れで不審者対策の挨拶はすたれ、知人同士の挨拶に変わったのだと思う。愚かな私は転居当時、皆が挨拶してくれるのを無邪気に喜んでいたのである。

家庭の躾のせいか、子供たちが積極的に挨拶し、朝のゴミ捨ても気分よくできた。今では雰囲気もずいぶん変わって戸惑っている。挨拶する人、しない人が入り混じっていると本当に気疲れする。今ではゴミ捨てに行って誰にも会わないと、思わずラッキーとつぶやいている。

●お知らせ:北海道新聞「さっぽろ10区」に「中島公園便り」執筆
管理人は「さっぽろ10区(トーク)」に連載される「中島公園便り」を担当します。
トークは毎週火・金に配達されます。1ヶ月半に一度の予定で書きます。
初回掲載は9月3日(火)です。是非お読み下さい。
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2019年08月24日

さらばA空港出張所

前回書いた事故については後日、週刊誌に「A市上空、恐怖の3時間」と言うような見出しで記事になった。今、忘れ去られているのは死傷者がゼロだったからだと思う。ところで事故直後、若い副操縦士は機長の冷静な対応を興奮しながら称えていた。機長がこの程度のことは戦争中は日常茶飯事だ、と言っていたことを今でも覚えている。

1年余りの勤務だが事故はいろいろあった。着陸に失敗してプロペラ破損、ヘリコプターが低空で浮力を失いドスンと落ちて破損、悪天候で着陸禁止の空港に緊急着陸もあった。雲の切れ目に滑走路が見えたので運を天に任せて着陸を強行したと言っていた。

空港は低い雲で覆われ着陸禁止、雲の中からヨロヨロしながら出てくる軽飛行機を見てビックリした。命拾いしたばかりの人の話を聞くのは、これで二度目である。以後このような経験は一度もない。小さな空港だから興奮冷めやらぬ事故後の肉声を聞けたのだ。

A空港に赴任して1年余りで転勤することになった。私の希望が叶ったのだが、空港出張所の人たちにとっては面白くない事態だった。いくら面白くないと言ってもやってはいけないことがあると思う。その頃、普通免許を取得するために自動車学校に自費で通っていた。私が知らない内に退学手続きがとられていたのである。

着任早々、転勤希望を本省に出していたことがバレたせかも知れない。一種の腹いせと思う。面倒見たのに裏切ったと思われたのだ。私が自動車免許を取りたいと言ったとき、所員一同とても喜んでくれ、全面的に協力してくれた。私は内緒で転勤希望を本省に出していた。しかし、直ぐに転勤できるとは思っていなかった。

同僚たちは空港の普通車を使って実技訓練の手伝いをしてくれたのだ。A市は農業の中心都市だから、私有地の農道で運転している人が、道路でで運転するために自動車学校に来る。実技でモタモタするのは、初めて運転する私ぐらいだ。多くの運転できる小母さんたちが街に買い物等の用事をする為に、免許が必要と考えて学校に来るのである。

小さな職場ではお互いが職種を超えて協力しなくてならない。免許取得者が少なかったので仕事のために取ると勘違いしての協力だった。仕事上の必要から無免許で空港内を運転することは多い。一方私はこんな暇なタワーに居たら、いつまでたっても仕事を覚えられない。万一の失業に備えて免許が必要と考えていた。

本人に断りなしで他人の意向で退学をさせられるなんて、頼む方も頼む方だが受ける自動車学校もどうかしている。ここでは私の常識では考えられないことが起こる。ともかく転勤できて有り難い。新任地で文字通り新人として一生懸命ガンバって仕事を覚える覚悟をした。仕事抜きで安定した生活などあり得ない。仕事、仕事、今度こそ仕事。
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2019年08月17日

航空事故3-記者団が抗議

小説とかドラマが好きなのは、フィクションの中にしかない、真実に出会えるからである。一方、私が書くのは自分の曖昧な記憶と直接耳にしたことだけで、事実を示す裏付けが無い。それでも自分が思う真実を伝えたい。それでフィクションというオブラートに包んで語ることにした。根拠のない思い込みで人様に迷惑をかけることは避けたいと思う。

A空港での業務は何から何まで異常だった。一応、A市が管理する空港とはなっていたが、人的にも物的にも体制が整っていなかった。今なら有り得ないけれど、55年も昔のことだから仕方がない。1945年の敗戦で日本の航空業界は既に壊滅していて、再開したと言っても発展途上のヒヨコ程度だった。

元々この空港は緊急着陸に対応できない。故障した航空機が高度を取れなくなり、周囲の山脈を越えられなくなったのだ。当該機が陥った状態は草原に不時着するのに似ていた。ただ滑走路があることと何人かの係員が居ることだけが違っていた。

旅客機が緊急着陸すると言うのに、大きめの消火器を手押し車に載せて一人で滑走路に向かっている人を見た。まるで戦車に向かって竹槍を構えているような感じだ。胴体着陸に対応するには化学消防車が必要である。皆が想定外の出来事に遭遇して、右往左往していた。手に負えなくても何もせずには居られない心理状態に陥ったのである。

A空港出張所は鍵をかけて建物内立入禁止とした。もちろん忙しくて手が回らないことは確かだが、やましいことがなければ記者たちを中に入れても問題はない。見せるのも取材協力だが、見られたり聞かれたくないことがあるから鍵をかけて閉鎖したのである。

結局、正しい情報は東京が先に得ることになり、現地の記者たちは面目丸つぶれになった。後日、現地記者団が抗議のために出張所に押しかけた。そして口々に取材拒否はけしからんといった。

意外にも所長は平然としていた。そして大勢の記者を前にして「あなた方は出張所開設の時、挨拶に来ましたか」と逆質問した。記者たたちはキョトンとしていた。私も挨拶とはこの期に及んで何を言うのかと思った。しかし所長の言うことにも一理あった。

緊急事態で忙しい時は関係者とか記者とかは顔を見て判断している。顔を知らない人を記者と名乗るだけで入れる訳には行かないと、所長は言った。結局、お互いに連携を密にして緊急事態にも対処しようと言う前向きな話になってしまった。意外も意外、こんな言い訳がスンナリと通ってしまったのだ。

本当は事故の痕跡を消したり、口裏合わせなど、いろいろあったが伝聞だ。私が聞いた話が事実とは限らないので具体例を書くことは出来ない。記者団からは更なる追及はなかった。隠蔽の事実を裏付ける情報を持っていないのか、抗議活動が一定の効果を挙げたので良しとしたのか分からない。

大まかな事実関係は一応明らかになったが、具体的な隠ぺい行為は闇の中となった。以上は、今78歳の私が24歳の時、A空港着任二ヶ月の新人の時に遭遇した事故の記憶である。機長の冷静な対応で着陸後火災も起こさせずに死傷者ゼロ、まさに歴戦の機長(旧軍出身)の腕だけが頼りの緊急着陸だった。壊れた機体は後日、解体し撤去された。
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2019年08月10日

航空事故2-謎の鍵?

A空港出張所はたった6人、一応無線・通信・管制とか別れているが、清掃、除草、除雪、雑用等何でもこの6人でやらなければならない。この事故にも無い知恵絞って全力で対応した。役に立ったかどうかは別としてね。

警官に野次馬を着陸帯から退去してもらいメデタシ・メデタシとは行かなかった。管制塔に帰ろうとして、一階の事務所に入ったら、出張所員と知らない人が揉めていた。この所員は体格が好くて頭は短髪で、べらんめえ口調で話すヤクザ風の人だ。

「鍵かけてあったろ。どうやって入った」と、見知らぬ男を問い詰めている。
「開いてたよ。○○新聞の○○だ。事故の取材に来た。所長に伝えてくれ」
「俺が鍵をかけたんだ。開いてる筈はない。出て行け」
と言って記者を押し出してしまった。実はこれが後で問題になる。

「鍵かけたのにな〜」と所員は首をひねってブツブツ言っている。所長は気配りの行き届く人だった。こんな時こそ日頃お世話になっている航空会社にお返しをしなければならないと決心していた。良い意味でも悪い意味でも家族的、お世話したり、してもらったりの関係である。法令が介入する余地はない。それらは表向きの話と考えているようだ。

所長は会社の隠蔽工作に協力する決心をした。事故機は飛び続け、ニュースは全国に刻々と伝えられている。この時点での成り行きは流動的である。つまり隠蔽が成功するか失敗するか分からない。しかし、経験則では成功する確率が高い。全てが明らかにされるとしてもマスコミが騒いでいる今よりも、下火となった頃の方が良いとの判断である。

記者に対応した所員は所長の命令を素直に実行しただけ。所員は30歳近いが現地での新規採用だ。職を転々とした後で、この職に就いて1年もたっていない。こんな事故に遭ったら私同様、何も考えないで上司の判断に従うだけである。

ところで、新聞記者と所員が揉めていた鍵の問題だが、両方とも言い分は正しい。その時は気付かなかったが、鍵を開けたのは私だった。鍵は中からは簡単に開けらるが外からは鍵を持っていない限り開けられない。

言うまでもないことだが、所員が鍵をかけた → 私が外に出るために開けた → 記者が入って来た→ 私が帰った時に揉めていた、との順番である。この問題はA空港出張所の取材拒否問題としてマスコミから追及される切っ掛けとなった。
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2019年08月03日

初めての航空事故

1964年、A空港着任2ヵ月後、航空事故に遭遇。定期便が着陸に失敗し片側の車輪が破損、片車輪による胴体着陸を決行した。事故機は緊急着陸準備のため空港上空で旋回飛行を続けた。長時間の上空飛行で事故を知った沢山の野次馬が車でやってきた。この時代自家用車を持つ人は前任地東京では少しだけ、この地方の豊かさを知った。

大勢の野次馬は立ち入り禁止の着陸帯(安全のため設けられた滑走路周辺地域)に侵入した。管制塔に事故機から無線で要請があった。「危険だから着陸帯に入っている人達を退去させてください。片足で着陸するので滑走路を大きく外れます」。

なぜか、私が状況を知らせて立ち退かせる役目を命ぜられた。新人の私は管制塔に居ても何もできない。ようやく役目を与えられて張り切った。しかし、広大な着陸帯に散らばる大勢の群衆を退去させられる筈がない。愚かな私は、やってみて初めて分かった。

何百人のも野次馬に向かって声を振り絞って「危険ですから下がって下さい」と怒鳴っても何の反応もない。不思議な顔をして私を見る人がいるだけだ。「この人、気は確かかな?」と思われたらしい。無駄なことだが個別に説得を試みた。

「危険ですから下がってください」
「アンタ誰だよ」
「空港に勤務する管制官です」
「カンセイカンってなんだよ?」
「パイロットが緊急着陸するから危険だと言ってきたのです」
「危険なのは飛んでる方だろ」
「人が邪魔で着陸できないと、あなた方を退去させるように頼まれたのですよ」
「今、飛んでるじゃないか。話せるわけないぺ」
「とにかく、ここは立ち入り禁止です」
「もっと、前に沢山いるだろ。あいつらに言え」

私は普段着、制服も制帽もなくメガホンも、笛も持っていない。第一、訓練も受けていないし、こんな仕事は初めてだ。10人くらいに声をかけたが、クタクタになっただけ、一人も動いてくれなかった。このときは何かあったら私の責任と思って、必死になってやっていた。後で考えれば、本当にやるべきことは何らかの方法で警察に知らせることだ。

機長と交信しながら私に命じた先輩管制官も冷静さを失っている。機長の要請をそのまま見習管制官の私に伝えたのだ。交信は一緒に聴いているから分かる。電話もインターフォンも少人数では対応できない。すべては話し中だ。周囲はテンテコマイで何も機能していない。先輩は警官への伝令として私に命じたのかも知れない。私だってそのくらいの知恵はあるが、現場に行くと警官が一人も見えないのだ。

疲れ果てた頃、警官が何人か来た。ピーと警笛を吹いてメガホンで「ここは立ち入り禁止、あそこまで下がりなさい」といって、警棒で行先を示すと、近くの人達が下がり始め、その後はゾロゾロと付いて行った。警官は予め機長の要請を聞いているようだった。

警察に知らせるべき人は、私たちの他に、航空会社、市役所(A空港の管理者)、主な空港使用者である陸上自衛隊等いろいろある。そのうちのいくつかが機能したのだと思う。後で分かったことっだが、ドタバタして役に立たなかったのは私だけではなかった。

九割の関係者は役に立っていなかったと思う。それに緊急着陸の邪魔になった関係者も多かった。一例を挙げれば、街から駆けつけた消防車、滑走路の端で止まって着陸の妨げになっていた。消防車との通信手段がないので無免許の同僚が車を運転して退去させに行った。消防官は着陸した飛行機を後ろから追って消化するつもりだったと言う。

更に事態を拗らした人もいた。そもそもこの空港は人的にも物的にも緊急着陸を支援する体制はなかったのだ。以上は私の朧気な記憶に過ぎない。時の経過と共に記憶は薄くなり、それを補うように想像の部分が増えて行く。結局はフィクションとなってしまった。
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2019年07月27日

着任したばかりで転勤希望

訓練所でやるのは航空管制官の基礎試験、これに合格しないと現場に行けない。従って、真面目に勉強すれば、最終的には誰でも合格する筆記試験だ。難しいのは現場の実技試験に合格することである。私のように適性のない者にとっては特に難しい。

一番難しい。といってもA空港なら話は別である。仕事そのものが易しいからだ。だからノロマの私でも、何の不安もなく一発で合格した。しかし、合格しても仕事範囲は所属する空港に限定される。これが最大にして唯一の問題だった。

転勤したら新人として、そこで働くための資格を取らなければならない。ノロマの私は危機感を抱いた。管制官と言う仕事は運動選手と同じように適性9割努力1割である。私のような者がA空港に3年も居たら他所では使い物にならないくなる。職を転々とした挙句ようやく就いた安定職場だが、居場所がなくてはやって行けない。

ところで当時、指導的立場にいた先輩管制官は米空軍の訓練を受けてきた。出来が悪いと不適格と決めつけられ、第5空軍司令部経由で本省に連絡が行く。そして職種変更になる。米空軍の現場で認められた人たちだけが管制官になれたのだ。当然、仕事が苦手な人への評価は厳しい。口には出さないがエリミネイトすべきと考えている。eliminateを辞書で引けば、除去する、ふるい落とす、殺す、まである恐ろしい言葉だ。

先輩の苦労話は山ほど聞いていた。A空港にいては、いつまでたっても仕事が覚えられないと、心配になってきた。着任して半年もしないのに、40名の管制官が働くB管制所に転勤希望を出した。所属長に内緒で直接本省に意思を伝えたのだ。マナー違反の感じはするが、背に腹は代えられない。

当時の管制官は忙しい空港だけに配置されていた。A空港は数の上では、かなりの交通量だったが実態は違っていた。スピードの遅い軽飛行機が秩序正しく、整然と離着陸を繰り返す空港だった。空の交通整理を役割とする管制官の必要を感じさせない空港である。

陸上自衛隊の軽飛行機が交通量を押し上げていたのだ。離着陸訓練はタッチ・アンド・ゴーと呼ばれ、着陸したら、直ぐに離陸するので、1機で交通量は2、これが繰り返し実施される。しかも自衛隊と言う組織の中で規律を保ちながらの訓練である。

定期便は1日に3便程度と極めて少なかった。その時は情報を流すだけで、自衛隊機は自主的に離着コースから離れてくれる。仕事は楽だが新人としては凄く焦る。居れば居るほど本当の仕事が分からなくなって来るような気がするのだ。

定年までA空港に居られるのなら熱望するが、そんなことは有り得ない。転勤が遅くなれば年を取り、もともと遅い頭の回転が更に鈍くなる。一刻も早く現状から抜け出したかった。義理と人情を考える余裕はまったくなかった。全部で6人(管制官3人)と言う小さな職場では嫌われて当然だ。その時は、何でみんなでイジメるの、と思っていたけどね(笑)。
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2019年07月20日

訓練所から現場へ

航空管制官の一回目の公募は1954年だが、私の応募は、それから10年たった1964年のことだった。航空保安職員訓練所で新規採用者の名前を呼ばれたが、なかなか呼ばれない、少し心配になったが最後に呼ばれたときはホッとした。

卒業の時は最初に呼ばれたが成績順と思う。訓練所の勉強は、暗記が殆どだ。私はノロマだから覚えるのが遅い、その代わり忘れるのも遅いのだ。職を転々とした私は、何回か初任者訓練を受けたが、どこでも訓練中の成績だけが良くて現場に行ったら全くダメ。これを繰り返していた。身体能力が著しく劣っているのだ。音痴もその一つに過ぎない。

仕事の厳しさ、あるいは自信があるのか知らないが、羽田を希望する訓練生が多かった。私は最も不人気なA空港を希望した。人事担当者は「君の成績なら羽田にも行けるよ」と言いながら、ホッとした顔をしていた。不人気官署に、本人の希望に反して押し込むのは大変なのだ。私は愚かにも暇な空港で楽をすれば後で困るとは気付かなかった。

A空港からは「宿舎あり」との連絡が入ってホッとした。給料が安いので、自分でアパートを借りると月給の半分近く持って行かれる。生活費を相当切り詰めないとやって行けない。私に限らず社宅の有無は求職者にとっては最大の関心事だった。

A市に行くと、いろいろメチャクチャなのでビックリした。先ず物価が高い。東京ではラーメンを35円で食っていたのにA市では80円だ。トーフは一丁10円だったのにA市では40円だ。値引きが常識の家電製品は全て定価販売だった。話は戻るが、A空港に着任の挨拶に行った時はビックリした。宿舎があるという話が嘘であることが分かったのだ。

「ところで、宿舎どちらでしょうか?」
「新婚の人が居てね……」
「私が入る宿舎はあるんですか!」
「アンタ独身だろう。宿直室に泊まったらいいよ」

結局、規定の宿直手当ももらわないで、毎日宿直することになった。後で知ったが当時はよくある話。規則なんてあって無いようなもの。そんな状態で得する人も損する人もいる。一種の無政府状態だが、独特の決まりごとがあり何となく仕事はこなされれていた。

数人しか居ない小官署では規則通りやっていては、スムーズに行かないことは分かるけれど、私は馴染めなかった。それに暇過ぎて管制官としての仕事が身に付きそうもない。3年も居たら私のようなノロマは、完全に仕事が出来なくなる。そのことを恐れて札幌への転勤希望を出した。1年半くらいで転勤になったが、そのときもビックリすることがあった。

札幌に着任すると、遅いと言って叱られた。昨日までA空港で働いていたのに何故遅いと言うのか理解ができなかった。結局、A空港から何も聞いてないことが分かった。半世紀以上前のことだが、理不尽な目に遭うといつまでも覚えている。

実は転勤前にA空港でこんなことがあったのだ。
「〇ちゃんが東京から帰ってこないんだよ。帰ってくるまで働いてくれないか?」
「一日の発令ですからダメでしょ」
「いいんだ、いいんだ、発令があっても1ヶ月も来ないヤツもいるんだから。札幌にはちゃんと話しておくから大丈夫。発令日に合わせて慌てて行くヤツなんかいないよ。観光しながらノンビリ行ったらいいんだよ。アッチは40人、コッチは3人だよ。ドッチが困るか考えればわかるだろう。アンタは融通が利かないからダメなんだ」

汽車の旅は退屈なので、上司が仰るようにノンビリと酒を飲み飲み、風景を楽しみながら行った。札幌に着いたときは出来上がっていたが、訓練所で3ヵ月先輩の友人に電話をした。「あんた何処にいるんだ?」と、いきなり先輩の非難するような声。

「札幌駅……」
「直ぐに出頭しな、5日も遅れているのに何の連絡もないと心配しているから」
「汽車で飲みながら来たから酔っているんだ。明日出頭するつもりだ」
「ダメダメ、直ぐに行きな。俺まで文句言われてるんだ」

訳も分からないまま直ぐに事務所に行ったが、それが仇になった。今度来たヤツは凄い酒飲みだ。5日も遅れて来て着任の挨拶とか言っていたが、酒の匂いがプーンとして、顔が真っ赤っかだった。とか誤解されたが、やっとまともな職場に来たと安堵した。
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2019年07月13日

六本木ヒルズの原点

六本木ヒルズとか表参道ヒルズとか聞いても私には全く関係のない別世界の話と思っていた。森ビルは高さ330メートルの超高層ビルを建てる計画があり、2022年度の完成時には日本一高いビルになる見通しである。私が森ビルの一室で働いていたのは、4階建てで空調なしのビル。しかも屋上に建てたプレハブ小屋なので、夏はうだる様な暑さだった。

ウェブサイト森ビルの歴史の冒頭に「森ビルの歩みは、今の感覚から言えば比較的小さな、1棟のビル建設からはじまりました」と書いてある。1955年森不動産設立、最初に竣工したのが西新橋2森ビル、1956年のことである。零細な貸しビル会社と思っていたが、66年後には日本一の高層ビルを建てる会社になるのだから驚きだ。

西新橋2森ビルは後に第2森ビルと呼ばれるようになった。その後、森ビルは発展し続け2003年には六本木ヒルズオープン、2018年にMORI Building DIGITAL ART MUSEUM: EPSON teamLab Borderlessオープン となる。この辺りになると私にはサッパリ分からない。しかし、マスコミを賑わす大した不動産会社になったことは間違いない。

航空管制官として札幌管制部で働いていた頃、札幌に整備される予定の「航空路レーダー情報処理システム」の実験システムが出来た。我々田舎の管制官は東京まで見に行った。そこは立派な高層ビルなのでビックリした。第○○森ビルとかの名が付いていたが、ここでも私には全く関わりのない世界と思っていた。

思い返してみると、私が管制官になる前に働いていたのはインド通信であり、事務所は第2森ビルの中にあった。何となく気になるので念のため森ビル 歴史・沿革で検索すると、一番最初のページに私が働いていた第2森ビルの写真が載っていたのでビックリした。

とても懐かしい。6年間も職を転々として苦労が多かったが、ここだけは天国のような働き場所だった。「ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」と書かれていた。

1957年くらいの写真と思う。なんと古い長屋の隣だ。私が勤め始めた1961年でも近所に長屋が残されていた。このあたり一帯は空襲に遭わなかったようだ。4階建てのビルの屋上にプレハブ小屋が建っていて、インド通信を含め3社が入っていた。空調が無いから夏は猛烈に暑かった。

森ビルは屋上にプレハブを建てたりして、地味な商売をしていたが、今は六本木ヒルズ等多数の高層ビルを持つ大不動産会社になっている。ウェブサイト森ビルには「国際的に評価される品質を提供することで外国企業を多くテナントに迎える、という森ビルのオフィス事業の特色も、この賃貸ビル第1号から始まっていました」と記されていた。

偶然にも私は、この賃貸ビル第1号で働いていたことになる。そのことを58年後に知った。大したことではないが無職の爺さんとしては、好い思い出を掘り起こした気分だ。今度は何が出てくのかな。ブログを書くのが次第に楽しみになって来た。
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2019年07月06日

運が一番努力は二番

中卒以来職を転々として6年もたつと、自分がいかに肉体労働に向かないか分かって来る。職業安定所に行って、給料は安くてもいいから楽な仕事を、と言ったら「楽な仕事なんてない!」と一蹴された。本当はあるのに一々相談に乗るのが面倒なのだ。

ところで、兄の紹介で凄く楽な仕事にありつけた。別に好意からではない。学生だった兄が高い時給のアルバイトに移る為に、私を後釜に据えたのが「インド通信東京支局」だった。

私は英語を使いものになるまで勉強して、苦手な肉体労働から脱出する夢を描いていた。学校に行く金はないから勉強は一人でするつもりだ。仕事は留守番と簡単な配達だけだから信じられないほど楽だった。この状況なら出来るとヤル気もりもり湧いてきた。

インド人の支局長は取材のため出歩き、顔を合わすことは少ない。一人勤務だから時間を自由に使える。気疲れしないし、時間を有効に使える、それに食べるもの以外に金を使う必要がない。その結果、金が貯まれば夜間の英語学校にも行けるだろう。

21歳になっていたけれど勉強するには遅いとか考えたこともなかった。別に大したものになりたい訳ではなく、食えればいいのだ。インド通信のアルバイトでは、先の保証はないし健康保険もない。何とかして定職につかなければならない。

仕事は数か所の配達と留守番だけで月収1万5千円だ。休みはないけれど行く所がないから要らない。一人だから好きなことが出来る。全ての時間を就職試験勉強に使った。お金をもらって広い個室を得たようなものだ。自由に使えるタイプライターまである。

配達は都電に乗って新橋(NHK)、有楽町(朝日新聞)、九段坂(インド大使館)、霞が関(外務省)とまわるだけだから、1時間もあれば充分だ。配達時は単語カードを持って単語を暗記することにした。都電は学生が乗ると満車状態だが立ってても出来る。

事務所の仕事はテレタイプ情報を受けて整理するだけ、電話も客も滅多に来ない。支局長でさえ毎日は来ないし、来ても直ぐに取材に出かけることが多い。机に向かって受験勉強をしていれば、仕事をしているように見える。それが英語の勉強と分かっても、支局長は仕事の為と誤解してくれる。インドでは月収1万5千円は高給取りだそうだ。

有楽町と聞いて思い出すのは、ビルのほとりのティー・ルーム。そこでとった昼食代わりのホットケーキとミルク。美味しくて安いのが気に入って、毎日のように食べていた。中卒以来苦節6年、世の中にこんな楽な仕事があるとは夢にも思わなかった。

楽な仕事は探しても見つからない。運が全てと思う。兄がしていたアルバイトだから詳しい事情を知っていた。だからやる気にになったのだ。使用者は英語しか通じないインド人、一人勤務で休みなしと聞いただけで怖気づく。しかしその実態は、留守番と配達だけだから英語はカタコトで充分だ。人は運さえ好ければ生きられるし、その逆もある。
タグ:都内某所
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2019年06月29日

数字の発音(航空無線)

ノロマだから現場の仕事は苦手だが、管制業務については興味深く感じていた。失業者の私を救ってくれたのが、この仕事だった。当時、航空管制官は問題のある職種として話題になっていた。殆どはマイナスイメージである。責任の割に給料が安いという報道が多かった。ある雑誌にはボロ服を着て管制塔に勤務する惨めな姿も載っていた。

不人気なのが何よりだ。就職のためには絶好のチャンスと思った。職を転々としたが虚弱体質の私にとって肉体労働ほど辛いものはなかった。断って置くが、汗をかいて終わる程度の労働は大好きだ。働いた後のビール程うまいものはないし、好く眠れるので充実感さえ得られる。もし私に人並みの体力があれば転職など考えなかったと思う。

精一杯力を出しているのに、もっと出さなければならない状況が辛いのだ。同僚が軽々持ち上げているものを担げないのも情けないしね。努力しても乗り越えられないものがあることを知るのに数年もかかってしまった。世間は教科書に書いてあるほど甘くない。とにかく辛い肉体労働から解放されるのが唯一の目標となった。

不人気職種にオリンピック景気が重なるという、社会情勢に助けられて航空管制官に採用された。そこは面白いというか、風変わりな英語を使う世界だった。例えば、世界中のパイロットや管制官が使うように定められているフォネティックコードがある。そこで数字の発音に発音記号でなく異なる英単語を使っているのが面白かった。

1 oneはWUN ワン、どういう意味か分からない。とにかく発音はWUN。
2 twoはTOO トゥー、両方とも発音は同じと思うが分かり易い。
3 threeはTREE トゥリー、「th」の発音は苦手だが国際的にも問題なのかな?
4 fourはFOW-er フォウアー、大文字にアクセント。
5 fiveはFIFE ファイフ 、濁らない方がクリアに聞こえるのだろうか?
6 sixはSIX シックスで発音は同じが、人によりSEXと聞こえるのは気のせいか?
7 sevenはSEV-en セブン
8 eightはAIT エイト、意味は分からないが確かにエイト、「gh」は要らない。
9 nineはNIN-er ナイナー、判別し易く聴き易い。
000 thousandはTOU-SAND タウザンド、国際的にも「th」は嫌われている?

「英語表記は読み方を表すもので、つづりは通常の英語と変わりません。また、カタカナ表記は分かりやすく似せたもので、正しい発音とは若干異なる場合があります」との注意書きがついていた。記憶を呼び戻すためネット情報を参考にした。蛇足になるが、英語を知らない私の感想も付け加えてみた。 

ノロマなので現場の仕事は苦手だった。退職したら一日も早く忘れたいと思っていたので、沈黙していた。10年たったら懐かしくなり、ある出来事がきっかけで喋りはじめた。時間がたっても記憶は残るが嫌な思いは消えてしまう。そして懐かしさだけが残っている。

記憶−嫌なこと=懐かしさ。今となっては全て懐かしく、思い出しては楽しんでいる。これが老人というものかな? もしそうならば老人生活は楽しい。おまけに金もかからない。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』通話表
タグ:都内某所
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2019年06月22日

泣き虫ガキ大将

小学2年くらいの時、ガキ大将はペンキ屋の息子、タケちゃんだった。メンバーは10人ぐらいと思うが、近所の小学生全員がタケちゃんの引率で学校に通っていた。放課後遊ぶのも一緒、そして小生意気なアオガクのガキどもを苛めるのも一緒だったのである。

アオガクとは青山学院初等部の生徒のこと。われわれ公立小学校生徒はヨレヨレでマチマチのボロ服なのに、彼らはパリッとした制服制帽姿だ。給食に焼きリンゴが出るそうだ。彼らの親は金持ちなのに、私らの親は職人と商人ばかりだ。オマケに私のような貧乏人も少なくない。地元の子供たちは羨ましさを吹き飛ばすはけ口を求めていた。

アオガクは颯爽とした制服姿で、我が町内を何の遠慮もなく通る。ただ通学しているだけだが地元の子供たちにはそう見える。だから苛めたのだ。「お前らここを何処の校区だと思っているんだ」とか言って因縁をつける。

渋谷区の学校では校区内で遊ぶように注意する。だから小学生は校区を自分の縄張りのように思っている。私立の学校には関係ないけれど、言いがかりだから正当な理由など必要がない。アオガクの生徒は物も言わずに逃げて行く、それを地元の子供が追いかける。少しだけ追いかけて喜んでいるだけで、決して暴力を振るったりはしない。

ある日突然状況が変わった。「お前らどこの校区……」とか言いかけると、「文句あるか!」とデカい声、見ると、ガキ大将のタケちゃんが押されて転がされ、仰向けになって倒れている。相手は今まで見たことがない、相撲取りみたいな体格のアオガク生徒だった。苛められた生徒が用心棒を頼んだに違いない。お金持ちには敵わない。以後、地元の子等はアオガク生徒に対する苛めを止めた。恐れおののいてしまったのだ。

苛めと言っても追いかけるだけで暴力を振るう訳ではない。仕返しと言っても押したら倒れただけだ。ただ力の差があり過ぎて悲惨な結果になってしまった。タケちゃんはシクシク泣いて立ち上がれなかった。彼は唯一の最上級生としてガキ大将となった。年功序列でなったのだから実力もなく意気地がない。それでもタケちゃんを中心にして行動していたから不思議だ。戦時中に空襲を警戒するために実施された集団登校の名残と思う。
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2019年06月15日

取り越し苦労の種は尽きない

人には言えない私の自慢、身体は弱いが、ひとつだけ強い所がある。それは何処かは言えない。拷問するぞ、と脅かされば、土下座して「すみません。嘘をつきました。許してください」と言う。お前に強い所などある筈ないと納得してもらえるだろう。

だけど私には人並み外れて強い箇所があるのは事実だ。しかし口には出せない。もちろん書くこともできない。黙って一緒に墓場に入るつもりだ。私自身のことだからね。

言えば聞いた人が気味が悪いと思うから言わない。だけど本当は、とても良いことなので自慢したい。言いたくてウズウズしているけれど、沈黙は金。毎日のように迷っているけど結論は沈黙。老後をのんびり暮らしたいなら、言わぬが花。

誰もが持っている、人には言えない自慢話、誰も言わないから、決して表に出ることもない。こんな話をしても共感してもらえないし、嫌悪感を与えてしまうかも知れないと心配する。こうして、決して明かすことができない密かな自慢が、個々の身体の中で育って行く。

こんな自慢話が心の中から溢れ出たのが小説と思っている。私は教養も知識もないのに考えることが大好きだ。世の中のすべてを自分が分かる範囲で一生懸命、しかも面白半分で考える。小説やドラマにに出てくる、強い人も勇気ある人も、立派な人も純粋な人も、情け深い人も極悪人も、すべては著者の自慢のような気がする。

自分の代わりに架空の人物に自慢させているのだ。それなのに私は、テレビドラマを観て感動のあまり泣いている。同時に目薬を差したばかりなのに涙と一緒に流して勿体ないと嘆き、もう一度指し直すべきかと思案している。昔に遡れば、こんな私にも心の底から好きな人がいた。口が裂けても言えない自慢話である。

たまに、からかい半分で「中波さんでも好きな人居たでしょ」とか聞かれる。「ハゲで音痴なのに居るわけないでしょ」と言うと、不本意ながら納得されてしまう。生まれつきハゲでもないし、音痴なんか歌わなければ分からないのに、なんでアッサリ納得するのだ!

そんなに素直に頷いて欲しくないという気持ちと、話さなずに済んで良かったという気持が、私の心の中で対立して争っている。だから何も言えない。沈黙は金、私の心の中で金がドンドン溜まって行く。溜まりに溜まって暴発したら大変だ。そこらじゅう金だらけになってしまい、後の掃除が大変だ。幾つになっても取り越し苦労の種は尽きない。
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2019年06月08日

ネコは怖いよ

終戦後3年、私は8歳ぐらいの頃と思う。養父が肺病に罹り生活がどん底に落ちた。貰い物を食べたりして一家6人がかろうじて飢えをしのぐ有様だった。そんな時に、横浜で飼っていたタマがやって来た。3年前に引っ越したときに残してきた飼い猫である。

こんな遠くまで来るとは驚きだ。今なら母が気まぐれで、似たような猫を拾って来たと疑う。しかし、子供の私は母を信じ、猫は超能力のある恐ろしい動物と恐れた。

ともかく食うや食わずの我が家では猫を飼う余裕は無い。三日もたてば、行き当たりばったりの母でも、そのことに気が付く。そして、兄に捨てて来るように命じたが、一人で行く度胸はない。12歳の長男を頭に兄弟三人で捨てに行った。

思いついたのは家の近くにある青山学院の広大な敷地。豊かな学生・生徒が通うキリスト教系の学校だからエサぐらい与えてくれるだろうと考えた。出入口から一番遠い所まで塀に沿って歩き、投げ入れて帰って来た。小学校から大学まである広大な敷地が塀に囲まれている。ここなら大丈夫と一仕事終わった気分でホッとした。

ところがタマは、翌日には家に帰って来たのでビックリ! 超能力があるような気がして気味が悪かった。化け猫の話はよく聞くし、横浜から我が家の場所を探り当てたタマだから、全てを理解しているように感じるのだ。当然、捨てた私たちを恨むだろう。

猫を恐れた三兄弟は、タマが遠くで幸せに生きる方法を一生懸命考えた。電車は使えないので渋谷川に流すしかない。しかも、タマの安全を第一に考えなければならない。

三人の結論は船を作って流すことになった。遠くにたどり着いて誰かに飼って欲しいのだ。未知の飼い主宛に手紙を入れて置こう。近くでタマが船から脱出して、泳いで岸に着くかもしれない。屋根を作って人の助けがないと出られないようにしよう。遠くまで行くのだからエサを入れて置こう。

いろいろ考えたが、実行の目途は立たない。そもそも、渋谷区がが史上初めて遭遇する飢餓の時代で餓死者が続出し、我が家もその渦中にあった。ネコのエサどころか、自分たちの食い物も無く途方に暮れていたのだ。

何時の間にかタマは居なくなっていた。エサの在る所に行ったのだろう。今は中島公園の近くに住んでいるが、カモもハトも、皆そうしている。ヒトを含めた動物はエサのある所まで移動する。見つけるまで移動する。そして見つけることが出来なければお仕舞だ。
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代