2017年06月24日

運が好かった

お金にも身体にも恵まれなかったが、運には恵まれて幸せな人生を送っている。生まれた時代が好かった。もし15年早く生まれていたら大変だ。怖くて怖くて生きるのが嫌になるほど怖い戦争に行かなければならなかった。もし、空襲とテロが絶えない北アフリカ某国で生まれたとしたら生きた心地がしないだろう。地獄の苦しみを味わなけれならない。

平和のために尽くしたこともない。清く正しく生きても来なかった。失業中は職を得る事だけを考え、在職中は定年まで勤め上げることだけを考えて来た。利己主義者なのに幸せになってしまった。世の中は不公平だ。良い時代に良い場所で生まれたからだろうか。それにしても、私は何て運がいいのだろう。つまづいて倒れそうになったことも何度かある。その度に運に救われた。ささやかな努力はしたものの最強の味方は運だった。

中卒なのに不器用で虚弱体質だ。就職のためには徹底的なハンディだが乗り越えなければならない。悩んでいたら、国家公務員試験は学歴がなくても受けられることが分かった。私にとっては夢のような大発見だ。事務系の仕事は中卒では応募できないと信じ込んでいた。都庁とか多くの地方公務員は職務に応じて高卒とか大卒とか学歴を受験資格としていた。一般企業もそうだと思う。しかし国家公務員だけは違っていた。

当時のの国家公務員試験は高卒(初級職)短大卒(中級職)大卒(上級職)程度の学力で行われたが学歴は問われなかった。受験資格は年齢と日本国籍だけと記憶している。それで就職先は国家公務員と決めた。これ以外に過酷な肉体労働から逃れる道はない。中学では教わらなかった重要事項を自分自身で見つけたのだ。これも運、強運である。

公務員であっても過酷な労働もあることは分かっていた。若い時は体質ではなく治療すれば快復可能な病気に罹っていると思っていたのだ。その根拠は14歳までは普通の体力の少年だったからだ。15歳の春から坂を上るのや走るのが辛くなって来た。新聞配達をしていたので体力が急に低下するのが分かるのだ。今だったら病院に行って診てもらえばいいのだが、病名が分かったところで金がなければ、どうにもならない時代だった。

公務員に合格さえすれば全て解決すると考えていた。採用されたら誰からも認められるように一生懸命働く。全力で働く。そして倒れて入院する。そこでいろいろ検査すれば病名が分かり治療法も分かる。快復して健康な人になり楽しく働く。もちろん遊んだりもする。これが私の描いた最良のシナリオである。病気休暇制度とかの身分保障は不可欠である。

既に年齢が23歳に近づいていたので初級職はダメ。中級職なら27歳まで受けられる。つまり5回受けられるのだ。中学の勉強もろくろくしていないのに、年齢の関係で短大卒程度の試験を受けなければならなくなった。7年間にわたり職を転々としたのは、体調不良で不器用だから何をやってもダメだからだ。

どうしても公務員試験に合格しなければならい。道が一つというのも気楽なものだ。迷いが無いから悩みもない。しかし勉強はしなければならない。そんな時、試験勉強しながら給料をもらえる仕事が見つかった。楽な仕事なんてある筈ないと信じていたのに嬉しい誤算だ。なんて運がいいのだろうと今でも驚いている。世の中は広い。東京は懐が深い。

前々回に書いた「家を出る」と重複するが、万に一つの楽な仕事に恵まれた。兄の紹介で勤めることになった「インド通信(PTI)東京支局」は考えられないほど身体が楽な仕事だった。しかも一人勤務だから何をしようと自由だ。勉強する時間もたっぷり確保した。仕事はインドからテレタイプで送られてくるニュースを受け取って、インド大使館、外務省、NHK、朝日新聞、関連通信社に配るだけ。新任の支局長は日本語ができないので買い物など一緒にすることもあるが大丈夫。新橋の商人は外国人に慣れている。私の出る幕は無い。見知らぬ商人にまで救われてしまったのだ。運が好ければなにもかも上手く行く。

短大卒程度の試験となると問題は専門試験だが航空管制官試験の専門科目は英語だけなので、これに決めた。私は身体能力が低いので頭の回転が鈍く数に弱い。英語なら計算することもなく暗記するだけでいい。今よりもっと愚かだった私はそう考えた。とにかく目標は決まった。5年で5回受けらるのだから何とかなるだろうと思ったのだ。

受かろうと落ちようと一縷の希望は必要だ。なんとかなると思えば毎日が楽しく充実していると感じる。就職浪人生活も意外に楽しかった。高校受験もしたことがないので初めての受験だ。興味本位でいろいろ勉強的なことをしたことはあるが、まともな試験を受けるのは初めてだ。受験できる喜びを感じた。受験資格は28歳未満の男性、もう一つは日本の国籍だったかな? 何も分からずに張り切っていた。

人生を振り返ってみると、一に運、二にも運、三四は無くて、五も運だと思う。もうダメだと思う時には必ず運が向いて来るから不思議だ。この後にも大きな運に救われることになるのだが、それは次回に譲ることにする。
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2017年06月17日

朗らか先生と真面目先生

渋谷区立鉢山中学校に入った頃は戦後の新教育制度に変わって数年しかたっていなかった。当時は何年生と聞かれると「新制中学1年です」と答えるのが普通だった。戦争で瓦礫の街と化した渋谷の復興は校舎を建てることから始まった。中学も新しく校歌も新しかった。1番から4番まであった校歌の中で4番が一番好きだったのでここに抜粋。

「鳴りひびく自由の鐘よ 打ちたてん久遠の平和 大いなる使命にふるう 鉢山のわが学び舎に ああ若き命はあふる」。キーワードは自由、平和、若き命、言い換えれば大戦で失った最も大切なものである。作詞は国語担当の本間丸平先生。貫禄があって凄く厳しい先生だが個人を叱ることはなかった。物凄くドスの利いた声でクラス全体を叱った。心当たりがある時はブルブル震えるほど怖かった。

三年生になったら本間先生から将来の進路について書くように求められた。私の進路は就職、それについて計画を詳細に書いて提出した。この就職試験がダメならコレを受けコレがダメならアレと言う様に3年分書いたのだ。卒業して数ヶ月後、東京から遥か離れた就職先に先生から手紙が来たのでビックリした。凄く褒めてくれたのでとても感激。ほとんど口も聞いたことない怖い先生に褒めちぎられたのだ。私はチャンとした職に就かないと飯が食えないと毎日のように考えていた。そのことをダラダラ書いただけなのに、「君を誤解していたようだ」と謝罪文付だったからたまげた。

ところで中学に入るとリセットされて新しい人間関係が生じる。楽しみにしていたが、期待に反して又もや小学校と同じ悪戯三人組になってしまった。類は類を呼ぶといわれているが、三人三様性格もバラバラの寄せ集めだ。共通点はただ一つ、中学生にしては異常に背伸びしていることである。

米屋の息子はませている、中学生の知らない大人の世界を知っている。唐辛子屋の息子は自己顕示欲が強すぎる。「生命の起源」を書いたソビエト連邦の生化学者、オパーリン博士を尊敬する一方、物事が上手く行かないとトンデモナイ悪戯をしでかす。この二人は、息子を省略して「米屋」「唐辛子屋」と呼ぶことにする。私自身は1日でも早く職について大人になりたいと背伸びしていた。

私は貧し過ぎた。不本意ながら行動は不良生徒と同じになってしまう。木工所で働いていたが、そこには遊ぶ金が欲しい中学生も沢山来ていた。米屋もその一人だ。そんなことだからアルバイト=不良というイメージを先生方に印象付けてしまうのだ。

実際、アルバイト中学生は遊ぶことばかり考えている。米屋は仕事の手を休めて年上の女工さんにモーションかけたりしているのだ。中学生、しかも1年の分際でホントに腹が立つ。こちらは働かなければ食って行けないのだ。学校の隣はパン屋だが、弁当を持って来ない不良生徒と私はパンを買って昼食にしていた。私だけは文字通りパンを得る為に働いていたが、彼らは買い食いが好きなだけだった。

話は変わるが、中学には若くて美しい女の先生が二人いた。一人は明るく朗らかな音楽の先生。 もう一人は正直で生真面目な国語の先生である。便宜上、朗らか先生、真面目先生と呼ぶことにする。これから書くのは両先生と悪戯生徒の話である。

その日は校外学習だった。電車での往復だが帰りは先生方も疲れてくる。しかし先生は決して座らない。先生にとっては厳しい校外学習である。生徒を優先的に座らせるのが中学の方針らしい。多分先生に生徒の状態を把握させる為と思う。 座席に座って辺りを見ていると朗らか先生が、こちらに向って歩いてくる。私の前で立ち止まると「ああ疲れた。座らせてね」と、言うが早いか私の膝の上に「ドッコイショ」と座ってしまった。

最初はビックリしたが、じわじわと先生の暖かさが伝わって来た。先生は私の事情を理解しているのだ。日頃の行動は不良生徒と同じだが、そうしなければならない事情を理解して、それとなく伝えに来てくれたのだ。”分ってるよ先生は味方だからね”と言われたような気がして心が和む。禁止されているアルバイトに行くのは昼食や学用品を買う為、休んだり無断早退するのはアルバイトの為だ。しかし、表面的に見れば、遊ぶ金欲しさにアルバイトしたり、遊びたいから休む不良中学生と一緒なのだ。 

ところで朗らか先生のことは横に置いて、後に真面目先生が遭遇する、不幸な事件の話をしよう。唐辛子屋が企てた授業妨害の話である。真面目先生の国語は大好きだ。朗読などは聴き惚れてしまう。その日もいつもの様に先生の授業に集中していたが、なにか後ろの方がザワザワして来た。ハクション・クションとアチコチでクシャミが聞こえる。その内に私の鼻もツンツンしだした。

振り返ると一番後ろの席に座った唐辛子屋が下敷きをバタバタさせている。父親の工場から持ち出した大量の胡椒を蒔いて下敷きで扇いでいるのだ。もう教室中で席を立ったり窓を開けたりの大騒ぎ。明らかに授業妨害だ。

騒ぎが収まると先生は唐辛子屋を前に呼びつけて叱ったが、先生の顔が青ざめている。唐辛子屋の方は先生の前に立ち、なぜかニヤニヤしている。ちょっとした実験のつもりかもしれない。彼は化学が大好きな実験マニアだが今回は違うだろう。 

先生はかっとなって手を上げた。上げたというよりも平手打ちをする構えだ。振り上げた手は唐辛子屋のホッペを叩きに行った。まさにその瞬間、唐辛子屋はボクサーの様に体をかわした。可哀想に先生の平手は空を切ってしまった。面子を失った真面目先生は、生徒たちの前であることも忘れ、両手で顔を覆い泣きだした。こうして唐辛子屋は不良生徒のレッテルを貼られることになった。当然のことだ。

東京の学校では郊外学習でよく電車を使う。また同じような状況になった。生徒が優先的に座り、先生が立っているのだ。ありゃりゃ? 唐辛子屋の膝に朗らか先生が座っているではないか。なんと言うことだ! 信じていたものが音をたてて崩れていくような気がした。唐辛子屋の悪質な悪戯は学校中に知られている。だとすれば?

「優しい先生と信じていたのにカイジュウなんですよ」
「先生が怪獣?」
「懐柔なんですよっ! うまく手なずけ従わせようと企んでいるのです
「そうか問題児に対する懐柔策か。それでお前の膝にもドッコイショ」
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2017年06月10日

家を出る

「自分史を書こうと思っています」
「年寄りは猫も杓子も自分史だな。書いてどうする」と先輩は冷ややかだ。
「ともかく、右サイドページのカテゴリを見てください」
「めんどくさいよ」
「順番は滅茶苦茶で書きたいことを書いています」
「そうかい」
「何年か後には幼児から老人時代まで繋がり自分史になるのです」

最初にこれまでの経緯を少しだけ説明
19歳のときは東京の家からは遠く離れて働いていた。家計を助けるためである。1959年の秋、母から手紙が来た。家業である経師屋の仕事が忙しくなってきたので家に帰って来いと書いてあった。家で働いて暮らしが成り立つなら、それに越したことはない。

家に帰って来たものの、仕事が忙しかったのは12月までの2ヶ月間だけだった。一体なんの為に私を呼んだのだろう。母は私が貯金をいっぱい持っていると思っていたようだ。勤め先から衣食住は支給されるが月給は5,000円だ。その内4,000円を約4年にわたり毎月家に送金し続けていたのだから貯金などある筈がない。

一方、母は私を買いかぶってくれたのだろうか。中卒で何の技能も技術も無い私が地方に出てバクバク稼いでいると思っていたらしい。まったく世間知らずの母だが、私が文無しだと知ると家を出ることに反対はしなかった。20歳になった私は、遅まきながら親孝行ごっこの夢から目を覚ました。 以上、「複雑な家族関係」の後段より抜粋。

家に帰れば事情もよく分かった。子供たちは誰も家に寄り付かないのだ。家には高校を中退して銀座の飲食店で働いている妹が残っているだけだった。中波さんは私にとっては養父だが妹にとっては実父だ。中波家の本当の家族は父母と妹の3人だけと感じた。この三人だけが深いところで繋がっている。結局母に頼まれて養子となり中波性になったのは、私だけで兄二人は伊吹性のままだった。正直言って母にハメラレタと後悔した。妹がこんなことを言っていた。

「家に金なんか送ったって何にもならないんだよ。母ちゃんがこれは三郎が私にくれたとか言ってパチンコして使っちゃうんだから」
「えっ!まさか? 餓死するとか一家心中とか手紙に書いて来るんだよ」
「三郎が中学を出て働きに行った時が最悪。その後いろいろ変わったんだよ」

家族全員がサブローと呼ぶので7つ下の妹は最初から私を呼び捨てにしていた。ところで東京オリンピックを前にして渋谷の地価は急上昇し担保にすれば金は幾らでも借りられた。しかし借りた金は返さなければならない。母にとっては返さなくても済む金も必要だ。高利貸から借りるのも、私に送金させるのも全て自分の才覚と思っていたようだ。

「食えないと言うから仕送りを続けたんだ。3年9か月もな。俺の小遣いなんかゼロだ」
「バカ見たね」
「月給前には必ずオフクロから手紙が来るんだ。生活が苦しいから助けてくれとな」
「今じゃ母ちゃんの言う事を信じる人は誰も居ないよ」
「帰ってから何か変だとは思っていたけど聞けば聞くほど酷いもんだ」

「私は父ちゃんが可哀想だから一緒にいるけどね。兄ちゃんたちも出て行ったし三郎も出たらいいよ。今は誰も相手にしてくれないから、貸してくれるのは高利貸だけ。土地は彼らに取られちゃあうと思うよ。私のことは心配ないよ。我家の男どもと違って強いからね」
「お前には悪いけど家を出るよ」
「送金しても何にもならないからね。借金は百万単位だから焼け石に水だよ」
「心配無用。自分が食うのに精一杯だ」

極貧の家を再興しようと思い、生活を切り詰めて送金したのに遊びに使われたと聞いてガッカリした。家の状況は著しく変わっていた。土地を担保にした借金財政だ。金貸しは十万単位で貸してくれるのだから4千円なんかパチンコ代に過ぎないのか。それなのに欲しいと言って手紙を送りつける。見栄と欲望に取りつかれた母に関わり合っていたら未来はない。自分の生きる道を考えなければならないと思い家を出た。20歳の時だった。

肉体労働する身体ではないのに仕事は肉体労働しかない。いくら頑張っても半人前の仕事しかできない。落ちこぼれの私は職を転々するしかなかった。困っている時にW大学に行っている兄の二郎が「インド通信」のアルバイトを世話してくれた。と言うか自分が止めるので後釜に据えたのだ。正確にはPTI(プレス・トラスト・オブ・インディア)の東京支局と記憶している。インド人の支局長とアルバイトが日勤と夜勤と一人ずつ。私は日勤を担当することになった。

家を出れば住む所が必要になる。兄の二郎と相談して目蒲線沿線に6畳一間を二人で借りることにした。1ヶ月の負担は一人3,000円だから何とか暮らせると思い一安心。ところが兄は3ヶ月もしない内に書置きも残さないで姿をくらました。風の噂によると大学も授業料滞納で除籍になったそうだ。私の収入は月15,000円のアルバイトだけ、6,000円の家賃が重くのしかかってきた。それでも仕事は楽だし全く遊ばないからやって行けた。家族も友達も居ない一人だけの生活は案外金のかからないものだと思った。

仕事はインドからテレタイプで送られてくるニュースを受け取って、インド大使館、外務省、NHK、朝日新聞、関連通信社に配るだけ、余った時間は事務所で留守番だ。身体は楽だし一人で就職試験の勉強が出来るので好都合だ。新任の支局長は日本語が出来ないが、ほとんど取材に出ているので顔を合わすことも少ない。話すことは簡単な命令と報告だけだから単語を並べるだけで充分だった。
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2017年06月03日

楽しい歩こう会

歩こう会は運動神経が鈍くても気兼ねなく参加できるので有難い。それに参加するたびに新しい発見がある。歩きながら話も出来る。タクシーに乗って帰れる範囲を歩くので万一体調を崩しても安心だ。しかも自然や郷土史の勉強にもなるので有意義である。

「SSN歩こう会」が主催する天神山ハイキングに参加した。天神山は火砕流の堆積物からなる火山灰台地で、かろうじて豊平川の浸食を免れた削り残りだそうだ。ところで私は、自然の恵みだけでは生きられず、文明の恩恵を受けて何とか生かされている。ひょっとして虚弱人間の削り残りかも知れない。先ずは幸運に恵まれたことに感謝。(*^-゚)

「何かと縁のある天神山に登ってきました」
「登った? 一体何メートルだ」と、先輩はあえて聞き返した。
「89メートルです」
「軽い散歩じゃあないか」
「山あり谷あり、危険もありました。低いからと言ってなめてはいけません」

昼食後、平岸天満宮や久保栄文学碑、石川啄木の歌碑のあるコースを歩いた。皆さんが立って石碑を見ていた時のことだが、疲れた私は座り場所を探していた。ふと遊歩道に沿って設けられた丸太の柵が目に入った。渡りに船とばかりにドッコイショと柵に座ると、勢い余って壊れてしまった。行き場を失った私の尻は地面に叩き付けられた。

柵は遊歩道と山の斜面との間に道なりに設けられたものだ。危うく転がり落ちるところだったが誰かが支えてくれたのか、起こしてくれたのか、あるいは自分で立ち上がったかは覚えていない。ただ帽子が脱げなかったことだけは覚えている。

一瞬のことだがスキンヘッドの俳優のことを思い出した。西部劇のアクション場面で転げまわっているシーンで何故かカウボーイハットが脱げないのだ。激しいアクション・シーンなのに立ち上がると帽子がちゃんと頭に乗っている。演じていたのはユル・ブリンナーだったと思う。私の帽子も西部劇の俳優の様に転がっても脱げなかった。

「帽子が脱げなかったのでホッとしました」
「いまさら気にすることもないだろう」と、髪の毛フサフサの先輩。
「先輩には私の気持ちなんて分かりません」
「分かりたくないね。そうはなりたくないんだよ」
「最近抜け毛が増えていませんか。そうなると後は早いですよ」
「おいおい、脅かすなよ」
「ところで、不思議な声が聞こえたのです」
「どんな声だ?」
「上から方から聞こえてきたので天使の声かも知れません」

ホンの一瞬かも知れないが転んだまま地面で仰向けになっていた。木々の緑の合い間に青い空と白い雲が見え、木漏れ日も差していた。神秘的な気分に浸っていると天から声が……。 これから佳境に入るのだが、先輩に話の腰を折られた。

「気は確かか? 頭打ったのか」
「シリモチつきました」
「そうかい。天使さんは何て言ったんだ」
「この事件をー、ブログに書きなさーい、とささやきました
「そりゃ空耳だよ。聞こえたような気がしただけさ」
「本当に聞こえたのです。はっきりと覚えています」
「それならオバサンの声だ。からかわれたんだよ」

木の柵は腐ってボロボロだった。誰が座ろうと一瞬の内に壊れたと思う。今まで壊れなかったのは誰も座った人が居なかったからだろう。何千人もの人たちがここを通り過ぎたのに座ろうとしたのは私一人とは情けない。

「それでも登った自分を褒めて上げたいと思います」
「登ったと言うほどでもないだろう。柵を壊した自分を褒めるのか?」
「悪いですか」
「市民の財産を壊したのだから弁償しなければいけない」
「柵は腐っていたのですよ」
「それが自然界の風情と言うものよ。座る奴が悪いんだ」

座りたがり屋の私が腐った柵で難を受けるのは分かる。しかし、滅多に旅行をしない私が、行けば必ず災難にぶつかることには納得が行かない。何かの祟りだろうか?

「アンタは大袈裟なんだ。天神山ハイキングは旅行じゃあないよ」
「面白くないから話題を変えたのです。東京とハワイと釧路の話をしてもいいですか」
「旅行は嫌いなんだろう」
「東京は結婚式、ハワイは所属グループの研修、釧路は葬儀です。嫌々行きました」

東京に行ったら、帰りの便が大雪で欠航になり翌日の昼まで待たされた。数十年ぶりの大雪だそうだ。何の因果で20年ぶりの東京で数十年に1回の大雪に遭うんだ。宿を探しに雪の大都会を右往左往したことは一生忘れない。空港のロピーで一晩過ごした方がマシだった。旅慣れない私はそんなことさえ思いつかなかった。東京も旅も大嫌いだ。

ホノルルでは一生に一度の海外旅行なのに知らない女性の夫と間違われ隣に座らせられた。キッカケは航空会社のおもてなし。つまり夫婦一緒に座らせてやろうという親心だ。原因は「後ろに並んでいるのは夫か?」と英語で聞かれた女性が意味も分からずに肯いたからだ。私の券は有無を言わさず書き替えられて隣に座る羽目になった。成田までの8時間、偉い夫のこと自分のこと豊富な海外体験等、自慢話を聞かされ続けてうんざりした。寝たふりをしても終わらない。海外旅行は何が起こるか分からない。

「去年の夏、釧路に行った時は帰りの特急が運休でした」
「よくあることじゃないか」
「水害で4ヵ月も運休なんて前代未聞です。何で私が行くとこうなるんですか。滅多に旅行などしないのに不公平です」 
「日頃の行いが悪いからじゃないか」
「そんなことありません」
「天神山の柵をぶっ壊したじゃあないか」
「あれは私が座りたがるからいけなかったと反省しています」
「じゃあ何の文句があるんだ」
「東京では50年ぶりの大雪、ハワイでは夫すり替え、釧路では旅行難民。遠出したのは、この40年間で5回くらいなのに当たり過ぎです」
「だからどうした」
「腐った柵を壊したくらいいいじゃあないですか」
「許せない。後ろの山に棄ててやる!」

歌を忘れたカナリヤが後ろの山に棄てられるように、旅を忘れた私も姥捨て山に棄てられるのだろうか。「寝るほど楽はなかりけり」と信じていたが、どうやら目を覚まさなければならない時期が来たようだ。どうしよう?

真剣に考えたら知恵が出た。「象牙の舟に銀のかい」を「月夜の海に浮かべ」てもらえばいいのだ。そうすれば私も旅の良さを思い出すだろう。そして旅行が楽しめる真人間になれるのだ。 早く来い来い象牙の船よ私祈ってます。

札幌シニアネット(SSN)は「学びあい 支えあい 助け合い」の組織なのにお世話になるばかりで大変申し訳なく思っている。私のような無能で世間知らずの老人でも何とか楽しく過ごして行けるのもSSNのお陰と感謝している。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!

童謡「かなりあ」(詩・西条八十)
歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
タグ:札幌
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2017年05月13日

お知らせ

■ 管理人が出演する放送のご案内
AIR-G FM北海道のスタジオで中島公園について少しだけ話しました。
5月19日10時30分ころに放送されます。よろしくお願い致します。
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お土産に「札幌円山コロン」頂きました。美味しい!

番組は高山秀毅さんと中嶋あゆみさんのRep.ly.ze(リプライズ)、NEWS+スポーツ+北海道がキーワードで、7時30分〜12時55分にわたる充実した番組です。10時30分くらいに私の話もチョッピリ放送されると思います。


5月の更新は休みます
申し訳ありませんが都合により5月中の更新は中止します。年間誌「ぼけっと4号」の原稿執筆に専念したいと思います。何をやってもノロマです。まったくボケっとした話で申し訳ありません。次の更新は6月3日です。よろしくお願い致します。

参考
「ぼけっと1号」2014年10月発刊
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中島公園の歴史について書きました。

「ぼけっと2号」2015年10月発刊
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中島公園菖蒲池の東側に鎮座する「木下成太郎像」について書きました。

「ぼけっと3号」2016年10月発刊
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中島公園で子育てを完遂した11羽の子を持つオシドリママについて書きました。
4号については薄野で生まれて中島公園で育ったマガモ親子について書きたいと思います。
よろしくお願い致します。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa(このブログの管理人でもあります)

毎週土曜更新、都合により5月中は休み、次回更新は6月3日です。
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