2018年11月10日

瓦礫の街は飢餓の街

仮に人口200万人の札幌市が約500機の大型爆撃機に爆撃されて、市の8割が焼き尽くされて、人口も40万人に減ったとする。それだけでも悲惨だが、戦争が終わり安全になったと思い、焼け跡に1年間で50万人も帰って来たら大変だ。瓦礫の街が飢餓の街になってしまう。敗戦1年後、私たち母子が移住した頃の渋谷はそんな状況だった。

渋谷区のの人口は1940年度256,706人(国勢調査)だったが、太平洋戦争末期、1945年6月の推定人口は46,538人と5分の1以下に激減した。直前の大空襲等で渋谷区の77%が焼き尽くされて瓦礫の街となったからだ。記録によると渋谷区の空襲は全部で12回あったが、被災の大部分は戦争末期の2回の大空襲によるものである。

人口急減の大部分は、家を無くした人々が親類、知人等を頼って区から出て行ったものと考えられる。死者10万人と言われる2ヶ月前の下町空襲に比べると渋谷(山の手空襲)の死者は少なかった。下町空襲でその恐ろしさを思い知ったからだと思う。それに渋谷区内には緑豊かな逃げ場がある。それでも罹災者は5月下旬の2回の空襲だけでも約15万人に達した。以上、渋谷関係の数字は総務省公式ページより引用した。

戦争で急減した渋谷区の人口だが終戦後は急激に増加した。戦後1年間で渋谷区の人口は2倍以上になったと言う。学童集団疎開、縁故疎開、海外からの復員と引揚者等が渋谷に続々と帰って来た。それに何とかなるだろうと思って来た人たちも少なくない。

私たち母子も結婚するつもりで移住してきたし、その後母の兄たち二家族も母を頼って満州等から移住してきた。僅か20坪の土地にバラックを継ぎ足して三家族がひしめき合って暮らしていた。それだけではない。我が家の裏では、どこから来たのは分からない得体の知れない人々が10人以上暮らしていた。渋谷の人口が増えるわけだ。何も無い瓦礫の街の人口が急に2倍になると常に直面するのが食料不足である。

それだけではない。敗戦の1945年から約3年間で物価が100倍くらいになる猛烈なインフレに襲われた。3年後には食料を買うのにも100倍の金が要ることになったのだ。こんな時に常吉さんは肺病に罹り寝込んでしまった。母が用意した建築資金は医療費と食費で瞬くうちに消失した。母はもともと浪費癖があったが、インフレさえなければ全財産を失うことはなかったと思う。

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2018年11月03日

幼少期の引越し

大船駅は鎌倉市と横浜市にまたがっている。私は横浜で生まれて、鎌倉市に編入される以前の大船町に移住した。4歳になった頃からアメリカ軍による日本本土への空襲が激しくなった。そのため1年に2回も疎開をする羽目になった。しかし、汽車に乗った記憶が全くないのに、疎開先での幾つかの出来事を記憶している。

実父の故郷である栃木の田舎に行ったときは、祖母が赤いフンドシをしているのを見て不思議に思った。2回目の疎開は女中さんの故郷である福島だったが、隣家が空襲で燃えていたのを覚えていた。それから60年後、いずれも記憶違いであることが分かった。

栃木での赤フンについては祖母に先立たれた祖父が食事の世話をしてくれたが、4歳の私は食事の世話は女性がするものと思い込んでいた。福島も空襲ではなく隣家でボヤを出したとの話だった。空襲警報がある毎に森の中に逃げて、蚊帳を吊って過ごした記憶がある。それと結びついて空襲の記憶となったらしい。

しかし、敗戦後の5歳ごろからの記憶は確かだ。初めてトラックの荷台に乗って凄く嬉しかった。極端な燃料不足のためバスは木炭車になり荷馬車も復活した時世なのに、トラックで引越しとは豪勢だ。空襲被害の無い大船から殆ど焼け跡の渋谷に引っ越した。行先はホームレスの仮小屋のような焼け跡のバラックだった。

渋谷区は数回の大空襲で77%が焼き尽くされた。焼けトタンのバラックの他、被災者は廃車となったバスとか、出来る限りの工夫をして雨風を凌いだ。安普請ながら木造の新築も建っていた。極端な食料不足が全ての空き地を畑に変えた。飢餓の時代だが金さえあれば飢えることはない。そして母は食べるには充分以上の建築資金を持っていた。

居住環境はどん底だが5歳の私にとっては何処に居ようと飯を食って寝ることに変わりはない。母は三人の子を連れて、後に私の養父となる中波常吉さんと同居した。実父が行方不明では離婚が出来ないから結婚もできない。ただ実父は家を出るときに母子の生活の為に充分な金を残してくれた。

この辺りの事情は生い立ち2−東京へ に書いたのでここでは省略する。さっそく新家族で親戚への挨拶に行った。最初は赤坂で洗濯屋をしている常吉さんの姉の家だが玄関先で帰された。どうもこの「結婚」には反対らしい。次に浅草で魚屋をしている弟のところに行くはずだったが止めた。こうして前途多難な渋谷での暮らしが始まった。

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2018年10月27日

豊平館探検

心に小さな傷を受けたものの豊平館探検は大過なく終了した。先日、レクチャーと見学を繰り返す豊平館特別観覧講座を受講した。どこが特別かと言うと、普段は立ち入り禁止の屋根裏、地下室を見学出来ること。事前の説明で「館内見学の際、急勾配の階段の昇り降りもあるので注意してください」とあり緊張した。恐れながらも興味津々だった。

先生の話は分かりやすく興味深い。それでも「百聞は一見に如かず」と言うことで外に出て豊平館の外観を見せながら説明をしてくれた。円弧形の「ペディメント」、和風意匠の「懸魚」とか難しい話は横に置いて、ビックリしたのは玄関の扉である。開かずの扉として知られる扉が何故か開いた。開けようとすると一旦は拒否するようにギーっと音をたてたが、嫌々ながら開いたのだ。
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修復工事完了後、豊平館玄関の扉が開いたのを初めて見た。

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もちろん玄関から豊平館に入るのも初めてだ。来賓になった気分である。

玄関から中に入ると改めて、その場から外を眺めた。しばらくは普段見られない風景に見とれていた。振り返ると受講者一行は見学のため会食所室内に入るところだった。何故か館内説明の先生は女性に変わっていた。そして30名の受講者が半分くらいに減っている。しかも高齢の男性ばかりだ。

一体若い人たちは何処に行ったのだろうか? 女性は仲良し同士で自由に行動をすることがある。真面目に説明を聴いているのは高齢の男性ばかりだ。先生は半分になってしまった受講者のことを気にする風でもなく淡々と説明をしている。そして次の見学先である2階の大広間に行くためゾロゾロと階段を上った。

そのとき男性高齢者たちは「段差は高いぞ」「若いから大丈夫」とか冗談を言い合ったりしていた。いつの間にこんなに仲良くなったのだろうか。何か違和感を覚えた。レクチャーを受ける前とは様変わりだ。受講者の中で私だけがのけ者にされたような気がして気分が悪くなった。楽しみにしていた特別観覧講座だが我慢も限界に達した。

不本意だが講座は止めて公園の紅葉を見に行くことにした。とりあえず最初にレクチャーを受けた部屋に置いて来た帽子を取りに行った。窓のない昔の扉が閉まっている。何と言ってもここは138年前に建造された豊平館、全てが重厚だ。ノブを回して開けようとしたが開かない。反対に回すとやっと開いた。

開けてビックリ、部屋は受講者で満席、と言うか私の席だけがポッカリと空いていて帽子がチョコンと乗っていた。一瞬で全てを理解した。愚かにも誤って講座とは別の見学者グループに合流してしまったのだ。結局10分ばかり席を外すことになった。その後は説明を聴き地下室も行ったし屋根裏にも上って特別観覧講座を無事終了した。

豊平館の歴史だけではなくいろいろと勉強になった。先ず、自分は正しい、世の中は間違っていると思う癖を直さなければならない。違和感を持った時点で近くの人に「失礼ですが特別観覧講座参加の方ですか?」と聞けば済む話だった。その他l確認法はいくらでもあるのに何もしなかった。思い込みが強くなるのも認知症の症状だろうか。危ない危ない。

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解体した木材等が地下室に保管されている。138年以上前の木材か?

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創建時の豊平館中央のてっぺんにあった開拓使建物のシンボルか?

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屋根裏にも興味深い品々が保管されていた。中島公園には豊平館の他にもう一つの国指定重要文化財がある。それは日本庭園内にある茶室八窓庵、築四百年と言われているが創建当時の建材を使っている部分は少ないように見える。豊平館と同じように解体された建材も何処かに保管されているのだろうか。当時の建築技術を知る上で大切と思う。

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9月5日の台風第21号で一時通行止めになった鴨々川沿い遊歩道。
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2018年10月20日

若者言葉とてもすてき

子供の書いた文章を読むと、こんな考えもあったのかとハッとさせられることがある。それが楽しみで小中高生が書く北海道新聞の「ぶんぶんタイム」を好んで読んでいる。最近のビックリは高校三年生の投稿、タイトルは「若者言葉とてもすてき」だった。

高校3年といえば18歳くらい。そのころの私が全く考えられなかったことを書いている。世の中は確実に進化していると思った。それとも私が時代遅れ過ぎるのか。ともかく感心したので後段の部分を抜粋させてもらった。

「私は若者言葉を形のないアルバムのようだと思った。若者言葉の更新はとても早い。だから、はやった言葉は、その時に使った人だけが楽しみ、後から懐かしむことができる。私は10年後『ああ、こんな言葉使ったね』と友人と話せることを今から楽しみにしている」。(10月8日付け北海道新聞より)

時の流れとともに消え仲間内でしか通じない若者言葉を、「形のないアルバム」と表現していることに心惹かれた。しかも10年後も続く友情を信じて、共に懐かしむことを楽しみにしていると言う。とても素晴らしい!

遅まきながら私もやっている。共通の時代をを過ごした人たちと、形のないアルバムを懐かしむような気分で、カラオケを楽しんでいる。始めたのは13年前のことで、65歳になっていた。それ以来カラオケ初心者4人で懐メロを楽しんでいる。昔の暮らしは苦しかったので絶対に戻りたくないけれど懐かしい。昔の苦労は今の幸せ感の親かも知れない。

高3の投稿者が10年後に「ああ、こんな言葉使ったね」と友人と話して懐かしむように、高齢者4人でこんな曲もあったねと話しながら歌っている。10年と50年の違いはあるけれど過去は切り捨てるべきものではないと言う思いは一致している。私が65で気付いたことを18で予測できるとは素晴らしい。

歌も若者言葉の様にはやりすたりがある。その時はやった歌を聴いたり歌ったりした人たちだけが、後になっても楽しみを共有することができる。18歳当時の私は後になって、こんな楽しみ方があるとは夢にも思わなかった。今の若い人は私の知らないことを知っていて、私には考えられないことを考えている。 

ところで、若者言葉で「わかりみ」とは「とても分かるということ」だそうだ。これは私なりに分かるが、卍(まんじ)とは何だろう。ネット情報によると「意味がない若者言葉」と思えばいいそうだ。私が経験したことのないスマホについて考えてみた。話している人が怒ったり笑ったり表情が変わるように、スマホ上に表情を加えたようなものかな??
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2018年10月13日

海外旅行のトラブル

収穫の秋だが災害ばかりが目立った。ともあれ芸術の秋、私の所属する札幌シニアネットでも恒例の文化祭を盛大に開催! プログラムは多彩だが「英会話クラブ」が初参加。出し物は「ショートコントTroubles during Travels」と知り楽しみにしていた。

私は英語は好きだけれど出来ない人、観るだけの「英語ファン」である。文化祭会場は体育館だから広い、しかもほぼ満席だから後方の席しか取れなかった。よく聞こえなかったが収録されたビデオで楽しむことができた。来年は前列でナマで観ようと思う。

ショートコントで思い出したのが13年前の思いがけない出来事。ハワイ旅行の際、何らかの手違いで見知らぬ女性、Aさんと夫婦と誤解され、その方の隣に座ることになった。お互いにいい歳だが8時間だけ夫婦となる。見知らぬ人との会話は意外に楽しかった。

ホノルル出発時のことだが機内は満席、誰かを移動させなければ席は確保できない状態だ。元々夫婦を一緒に座らせるサービスの結果だから、偽夫婦とはいえ簡単には別れられない。何処かのカップルを壊さない限り席は取れないからだ。

私は怒っていた。全てはAさんの分かったふりが原因だ。出発便の受付時、Aさんは私の前に並んでいた。空港の係員が何か尋ねたとき頷いているのを見た。多分後ろに並んでいるのは夫かと聞いていたのだ。私の順番がくると係員は私のチケットを手に取ると微笑みながら書き直していた。こちらもニッコリ笑って受け取った。私も同罪かな?

20名程度の団体旅行だが、私は6人の友人と一緒に旅をしていた。Aさんも同様と思う。それぞれの仲間から切り離されたのだから、二人とも誤解による席替えと気付いていた。幸いAさんは気さくな人なので私の機嫌も直った。あれこれ話しているうちにAさんの身の上話になった。

「一人娘が中学生のとき夫に先立たれ、再就職して仕事をしながら育てたの。高校、大学、大学院に進み研究者になったのよ」
「優秀なお嬢さんですね」
「去年○○市(欧州の都市)で開催される国際会議に行ったのです」
「素晴らしいですね」
「パーティーもあるので夫婦同伴なんですよ」
「そうなんですか」
「素晴らしいバーティで感激しちゃった」
「夫婦で出るんでしょう」
「私が同行しました」
「親孝行の娘さんとは思いますが、お母様までとは……?」
「夫がいない人は家族でもいいんだって」
「……独身なんですか?」
「彼氏はいるのよ。同居して長いけど結婚はしないの。いい人だよ」

そこまで言ってくれなくていいのだが、旅先では心が解放されて気楽に話せる。二度と会うことがないと思えばなおさらだ。お互いにここでは書けないことまで話し合った。もちろん家族にも話せないこともね。何もかもさらけ出した見知らぬ人との会話は楽しかった。二度と会うことのない束の間の「夫婦ごっこ」は、日付変更線を超えても穏やかに続いた。
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2018年10月06日

趣味のカラオケ

「音痴、音痴と鬱陶しい」と言われたが私は音痴とは言っていない、書いているだけである。これはいわゆる「ご飯論法」とは違う。「朝ごはん食べたか」と聞かれ「ご飯は食べていません(パンはたべたけど)」と言う話とは違うのだ。

未知の人にも読んで欲しいと願っている。無名だから書き手がどんな人か伝えなければいけないと思う。又リピーターになって欲しいという願いも抱いている。無理かも知れないが、発信すると言うことは宝くじを買ったようなもの。可能性さえあればいいのだ。

中島公園や夫婦喧嘩とか身近な話題を書くのが好きだ。今はカラオケについて書きたい。普通はその道の達人が書くが、私は音痴だから工夫が必要だ。音痴のままカラオケを楽しむ方法とか考えている。上手く歌う方法ならネット上にも山ほどあるからね。何でもいいから誰も手を付けてないことをしたい。運が良ければば当たるかも知れない?

ところで本庶佑さんのノーベル医学・生理学賞の受賞が決まった。頭の良い人は何をやっても上手い。本庶さんはゴルフもマージャンも得意だそうだ。一方私は何も出来ない人。考えてみれば素晴らしいことだ。得意なものは無いから私を縛るものもない。サーフィンでもカラオケでも好きなことを自由に選んで趣味とすればよい。下手の横好きだけどね。

話は戻るが、以上はこのブログを初めて読む人の為に書いた。タイトルと中身が違うではないかと叱られるかもしれない。それを恐れて書き手が音痴であることをそれとなく知らせたつもりだ。毎回知らせるのも面倒なので、5ヵ月前にタイトルを「オンチのカラオケ」としたブログを新規開設した。タイトルにすれば本文に書く必要がない。

しかし空しくなってここに帰ってきた。この「空白の22年間」の記憶も厳しいものがある。幼いころの記憶をたどると1945年5月に襲った史上最悪の「山の手空襲」は避けて通れない。残虐な無差別攻撃で多くの命と共に、渋谷区の77%が焼き尽くされた。本当はこのことを書くつもりだったがテーマが重すぎて心が潰れてしまい予定を変更した。
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2018年09月29日

もうちょい待ってくれ

「働かないアリに意義がある」と言う本がある。働き者として知られる働きアリでも二割程度は働かないと書いてある。なぜか嬉しい。ちなみにアリの成虫は役割に応じて女王アリ、働きアリ、兵隊アリとか分かれているらしい。

ならば音痴のカラオケもアリかなと考えた。つまり歌う会の中にも二割程度なら、歌えない人が居ることにも意義があるとか思えるのだ。一方私は人並みに歌える様になることを夢見ている。同時に夢は夢として横に置くのもいいかなと迷う。普通になる為の努力はモチベーションの維持が難しいのだ。多くの人が三日で諦める。三日坊主とかね。

それでも私は歌い続けている。洋カラ会でただ一人の音痴だが嫌がられたり、疎んじられたりしているような気がしない。私は空気を読む力が弱いのか、なぜか居心地が良い。「這えば立て立てば歩めの親心」で優しく励まされているような気がするのだ。老人力がついてきたのかも知れない。

1曲でも普通に歌える様になりたい(最大30曲が目標だけどね)。暇つぶしと思ったら大間違い。それならドラマを観たり、音楽を聴いたり、小説を読んでいる方が楽しい。私は一日中そうしていても厭きることはない危ない人だ。筋肉が無くなり健康を蝕んでしまう。

毎日が楽しく幸せに暮らしている。これを持続するためには工夫が必要だ。いろいろあると思うが、私の場合は書くとこと歌うこと。両方とも認知症防止になると思っている。それとラジオ体操と散歩。これだけは毎日欠かさずやるつもりだ。

なぜ英語の歌かと言えば好きだからだが他の理由もある。音痴だから普通の人の様に歌うことは凄く難しい。英語の歌は口が回っただけでも一歩踏み出せたような気がするから有難い。ところで楽しいだけでは長続きしない。しかし楽しくて健康にも良ければ話は別である。私はこの世でゆっくりしたい。帰らぬ人よ、もうちょい待ってくれ。
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2018年09月22日

カテゴリの説明 〜私の半生〜

カテゴリの説明
老後は穏やかに過ごしたいので事実に基づいたフィクションとした。人物は全て仮名、地名は一部仮名、時代だけは正確を心掛けている。自分なりの真実を書きたい。

カテゴリ 家幼児時代
戦争から敗戦への激動の時代は、私にとっては激変の時代。国破れても個人の闘いは続く。生命の危険を感じた父は母子4人を残して逃亡、行方不明となる。残された4人は豪邸から焼け跡のバラックに転居。それでも幼児の私は苦しくも淋しくもない。一つひとつの出来事を一コマの絵として記憶していても、なぜか感情を伴っていないのだ。
 
カテゴリ 猫小学時代
小学校に入ってから3年間は金で悩んだが、4年生の時、中学生以上でないと採用されない新聞配達のアルバイトを得た。運がついたのだ。その代わり収入は中学生の半分以下だった。それでも学費の残りで映画も観れたし買い食いもできた。収入を得たら何が何円、何が何円の連続の声、最後に「わー」と叫んで目を覚ます夢を見なくなった。
  
カテゴリ 本中学時代
新聞配達の他に木工所でもアルバイトをした。テレビも電子ゲームも無い時代は、それでも遊ぶ時間があった。図書室と理科実験室のある学校は大好きだった。卒業したら就職するので最後の学校生活を思い切り楽しんだ。今でも友や先生のことを思い出す。

カテゴリ ふらふら求職時代(16-23歳) 
フルタイムの仕事は苦しかった。いろいろな仕事を一生懸命やった結果、肉体労働は無理な体と自覚した。意外にも国家公務員試験は学歴を受験資格としない、ことを知った。航空管制官試験は専門科目が英語なので独学も出来そうだ。この時も運がついた。世の中はオリンピック景気に浮かれ、英語が出来るのに安月給の公務員に応募する人は少なかった。お陰で合格できた。後で知ったことだが大学(短大)新卒者は僅かだった。

カテゴリ 飛行機定職職時代(24-60歳)
ノロマで不器用では管制官は務まらない。しかし9年間も職を転々としたので、世の中には絶対出来ないことと、我慢すれば出来ることがあることを知っていた。我慢に我慢を重ねて定年まで勤めると決めた。61歳6ヶ月で退職。運よくハッピーリタイアメント!
 
カテゴリ exclamation×2高齢時代(61-74歳)
自由になったのだから何でもやってみようと意欲満々だが出来ることは何もない。そこで中島公園に関するサイトを開設した。5年たったら北海道新聞のコラム「朝の食卓」の執筆依頼があった。「HP中島パフェ運営」として2009年から2年間書いた。文章はろくろく書けないのに運がついた。小学生で新聞配達も運、中卒で管制官合格も運、いずれも凄く困っている時には運がついた。運だけで生かされて来たが、定年後も例外ではなかった。

カテゴリ 眠い(睡眠)後期高齢(75歳以上)
退職後は自由で楽しいので、いろいろやってみた。はしゃぎ過ぎて体力以上に動いたせいで2回ばかり体調を崩して入院した。そこで考えたのが私自身の定年制。75歳定年と決めたが2年遅れて全てのボランティア活動を止めた。既にシルバーセンターのアルバイトも止めていたので、ひたすら駄文を綴りオンチに歌う今日この頃である。

私を知る人にとっては信じ難いことだが、今は洋楽カラオケを楽しんでいる。オンチで英語が苦手で口が回らないけれど、洋楽を聴くのは大好きだ。洋カラ会立ち上げのドサクサに紛れて入ったのだ。私の読みどおり後から入る人は例外なく上手い。依然として運はつき続けている。ひょっとしてこれ以上年を取らないかも知れない。本気だよ。
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2018年09月15日

二日間も停電で断水

夜中の三時ごろ地震で起こされた。さっそくラジオをつけたが映像がないと全体像が掴みにくい。道内全域停電とは聞き違いかな? 復旧に1週間と聞いて更にビックリ。情報化の世の中ではあり得ないことだ。「ブラックアウト」と言うそうだ。

我が家の場合電気がないと水道も止まるし電話も使えない。携帯はカバンの中で電池切れになっている始末だ。いろいろあるが問題は水。「中島公園に水飲み場があるよ」とか言ったら、水汲み担当にさせられた。

トイレを流すにはバケツ一杯の水が要る。エレベーターは停止だから4階で好かった。15階だったら大変だ。それでも私にとってはキツイ仕事だ。上から降りる人の気配を感じると踊場で待つ。笑顔で有難うと言ってくれる。疲れたから休んでいるだけなのにね。

試行錯誤の末、2リットルのペットボトルを何本かリュックに入れて背負うのが一番楽なことが分かった。用事を済ませて帰りに水汲みをすることにした。公園でホテルマンに声をかけられた。「手稲から自転車で来たが、この格好では接客は出来ないので裏の仕事をしていた」とかいろいろ話してくれた。顔見知りだが世間話をするのは初めてだ。

こんな日はいろいろな人と会う。今度は同じマンションの住人だ。「一人暮らしでラジオも無い。停電で何も分からず不安だった」と言っていた。今日中に停電も復旧する見込みとか教えて上げた。「いろいろ話を聞いてホッとしました。これから街に行きます」と言うので、地下鉄も市電もありませんと伝えると、タクシーを拾うと言って別れた。

帰りがけに水飲み場に寄った。水は重いので自転車で来る人も多かった。70年前の焼け跡の共同水道を思い出す。こんな時は皆さんの口も軽くなる。焼け跡時代の井戸端会議がよみがえった感じだ。同じ状況に陥った人どうしで愚痴とか言い合った。公園と言う川で水を汲み、マンションと言う山の階段を上る。水道は健在なのに水難民とは電化時代の落とし子だろうか?

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近所の公園の水飲み場には汲みに来る人が次々と。

夜になると、東隣のマンションも南隣のマンションも明かりが点いているのに我が家だけは停電のままだ。何かの間違いと思い外に調べに行った。不運なことに我がマンションは広大な暗闇地帯の角地に位置していたのだ。

暗闇の中に数人ずつの若者グループがアチコチで彷徨うように歩いていた。アジア系の外国人のようだ。ホテルでの連泊を断られた人達と思う。後で知ったことだが中島体育センターでは約170人が7日朝まで一夜を過ごしたと言う。北海道観光を楽しみに来ていたのに気の毒だ。ひょっとして英語なら通じるかも知れないと思い声をかけてみた。

「グラフトヌーン・ハオユ?」
「…………」
暗い夜道で緊張しているようだ。
「テイケリーズィ」
うん、全然通じない。昔からそうだった。

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2018年09月08日

時代遅れ

時代遅れと感じるときは、どんな時だろう。ある日メールが来た。「藻岩山頂上12時、昼食持参で来てください。いつもの4人で楽しみましょう」と書いてあった。気楽な仲間だから、コンビニで何か買って行けばいいかなと思った。そのコンビニで時代遅れはどんな時? の答えが出てしまった。もっとゆっくりで好かったのにね。

集合時刻も迫っているので、いつものメニューにしようとか歩きながら考えた。大好きな昆布のおにぎり、アンパン、お気に入りの野菜ジュース、その他にお菓子を見繕って買おう。簡単にすまそうと思ったのが大間違い。思わぬことで躓いてしまった。

おにぎりコーナーに昆布のおにぎりがないのだ。なぜだ? 梅と昆布と言えばおにぎりの定番ではないか。その代わり「手巻きおにぎりチーズごま昆布」なるものが置いてあった。チーズもゴマも要らないが集合時間が迫っているので、まあいいかと思った。あれれ? アンパンが無いのにはビックリ、アンパンこそ菓子パンの王者ではないか。気は進まないが「ヤワラカコシアン&ホイップパン」なるものを買った。コシアンは好きだからね。

何とか集合時間にも間に合って、藻岩山頂で昼食をとることになった。皆でお菓子を分け合ったりして楽しく食べた。しかし「手巻きおにぎりチーズごま昆布」にはガッカリした。なんかゲテモノと言う感じだ。それに「ヤワラカコシアン&ホイップパン」も不味かった。コンビニで買うものはソコソコ美味しいという信頼は裏切られた。

しかし、これは逆恨みと言うものだ。昆布のおにぎりが無ければ梅おにぎりを買えばいい。もともと梅おにぎり一筋だったのが、ある専門店で昆布を食べたら凄く美味かった。それ以来、昆布一筋に変わってしまったのだ。アンパンが無ければジャムパンを買えばすむことだ。愚かな私アンパンと昆布に拘った。他にもいろいろあるのにね。

年を取ったものだ、スマホにもフェイスブックにも馴染めない。おまけに買い物まで苦手になった。時代遅れの自分の姿が見えて来て寂しい。そもそもコンビニでは売れない商品は置かない。私の好きな物がある店は、加齢に応じて今後も減り続けるだろう。しかしこれは人間が生きるために必要で手頃な悩み。必須のストレスである。時代遅れの私だが、そこそこ幸せだから天国にはゆっくり行きたいと思っている。

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