2017年04月29日

ゴミで財産を築いた人

8歳の頃だったと思う、午後3時ごろ学校から帰ると養父の常吉さんが頭と顔全体に包帯をグルグル巻きにして寝ていた。心配で胸がドキドキした。父とは呼べなかったが父と思っている人がミイラのような姿で横たわっていた。恐怖で歯がガチガチ鳴った。

子供たち三人は寡黙で良く働く常吉さんに敬意を抱き頼りにもしていた。もし母が「お父さんと呼びなさい」と言えば、喜んでそうしたと思う。5歳と7歳と9歳の子供にとっては居なくなった実父が父であり養父を何と呼んでいいか分からない。常吉さんが法的に養父になったのは同居してから14年目、私が19歳のの時だ。二人の兄は養子にもならず旧姓のままだった。それなのに私は、後に生まれた7つ違いの妹を含め6人家族と思っていた。

常吉さんの本職は表具師だが仕事がないので品川の旧国鉄品川駅操車場で掃除夫をしていた。日当は安いけれどゴミの中にはお宝が眠っているのだ。その一つが資源ゴミ、中でも一番人気はアカと呼ばれる銅である。常吉さんは銅を得るために電線を燃やしている時に突然噴き出した炎で顔を焼かれたのだ。

親方は仕事ではないのだから治療費を出せないとか言っていた。しかし掃除夫にしてみれば、このような余禄があるから安い日当で働いているのだ。余禄はもう一つあった。汽車弁の食べ残しである。品川には全国の至る所から客車が入って来る。列車を掃除するのが常吉さんたちの仕事だ。食糧難の当時は食えるものをゴミとは思えない。

世の中はいろいろ、片方に食うや食わずの人がいるかと思うと、もう一方には駅弁を残す人がいる。今も昔も格差社会だ。お蔭で北海道から九州までの弁当を食べたが、今覚えているのは名古屋の鯛めしくらいだ。食える食べ残し弁当が出る範囲は案外狭いのかも知れない。ともかく広範囲の味覚が家に居ながら食えるのだから有難い。

しかし、衛生的には危ない。ここでも目、鼻、舌による厳重なチェックが必要だ。そして蒸かしてから食べる。温かいご飯は美味しいし、熱でバイキンを殺せるので衛生的だ。私たちは文明人だから綺麗なものしか食えない。穢ければ綺麗にする。キレイに出来なければ捨てる。金が無くて医者にも掛かれないのだから腹は壊せないのだ。

品川駅操車場から運ぶのは常吉さん、目鼻舌チェック母、蒸かすのは子供たちの仕事だ。バラックには台所みたいな場所は有っても水道はないし火を使うスペースもない。母は見栄っ張りだから他人様の残り物を蒸かす姿を見られたくない。外と言っても街中である。道路の脇だから人通りもあるし、近所の人が挨拶したりする。

当時の弁当箱は経木で出来ているので燃料になる。包み紙も割り箸も経木も面白いようによく燃えた。水道も焼跡にニョロっと水道栓だけ出ているのを共同で使っていたので無料だったと思う。母は金が無い金が無いといつも言っているのに、水道料が大変だという話は聞いたことがない。

燃料費も水道料も弁当代もかからない。金が無くても案外暮らせるものだ。しかし、バラック暮らしで拾い食いでは格好がつかない。だから秘密にして普通の暮らしをしているフリをしなければならない。これが一番大変だった。世の中には楽しい秘密もあるけれど、こんな秘密は疲れる。いつもバレルのではないかと心配している。そしてバレたら大恥だと思っている。貧乏は決して呑気ではない。ストレスいっぱいの暮らしだ。

ところが、近所には拾って売って大儲けして、3年たったら大田区に大きな土地を買い、池に鯉が泳ぐ庭を造り豪邸を建てた人がいる。清掃員として常吉さんたちを雇った親方だ。シベリア帰りの請負師である。彼は国鉄から清掃の仕事を安値で請け負った。監督に賄賂を使いゴミを持ち帰ることを見逃してもらっていた。

一番いいゴミは進駐軍専用車にある。なんと当時極めて貴重だった肉の半端物がゴミとして放置されているのだ。アメリカタバコ、菓子類等いろいろなものをゴミとして放置、あるいは捨てられていた。一般掃除夫がそこに入ることはない。進駐軍専用車の清掃は親方夫婦とその子供たちだけでやっていた。親方にとっては日米の生活水準の差がそのまま儲けになるのだ。格差は大きければ大きいほど儲けが多くなる。

肉もアメリカ煙草も高く売れる。それに親方はアメリカ産のみならず大量の国産煙草吸殻を持って帰るのだ。もちろん空き箱も持ち帰る。吸殻をぼぐして巻いてタバコにして、拾ったピースなどタバコの空き箱に詰めて売る。私も子供なのに吸殻をほぐすのを手伝わされた。日当は放置されたパンや食料だから人件費もかからない。もちろん所得税なんか払わないから丸儲けだ。本当にいい商売をしていたものだ。

この仕事を続ける為には監督への賄賂だけではダメだ。ある意味で人格者でなくてはならない。度胸一筋で思い切ったことをやるけれど、義理人情に厚くなければ続かない。人には嫌われないで頼りにされなくてはもたないのだ。多くの人達が真似をしようとして失敗した。成功するのは難しい。天国と地獄とが背中合わせの仕事だ。

おかげで私はエライとばっちりを受けた。ある日友達に「お前タバコを吸ってるだろう」と言われた。むきになって否定した。それから3日したら、どこでバレたか「お前闇タバコ売るの手伝っているだろ。法律違反だぞ」と脅かされた。私は法律も社会常識も知らない子供だから、警察に捕まって牢屋に入れられると思って凄い不安に襲われた。家族皆が協力しなければ食って行けないのだから抜けられないのだ。

それなのに親方は堂々としている。「大蔵省は儲けすぎだ。だから俺が安く売って上げているんだ。人助けなんだ」とか言っていた。3年して家を建てたときは、家に呼んでくれたので行ってみた。応接間に、表彰状がいっぱい飾ってあった。教育に貢献したとか、街の安全に貢献したとかで学校や警察から表彰されたのである。
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2017年04月22日

子供はつらいよ


魚屋の真ちゃんがリヤカーを引いて坂を上って来た。町内の人だから知り合いである。魚屋のオヤジは凄く怖い人だ。中学生の真ちゃんは学校から帰ると売れ残った魚を売りに行かされる。渋谷は坂が多いので一人で坂を上るのが辛そうだから押して上げた。

「押してくれても何も上げないよ」
「分かってるよ。オヤジが怖いんだろう」
私は小学生なのに生意気な口を利く。真ちゃんはオヤジに虐げられて気が弱くなっているのだ。悪いけれど年上と言う感じはしない。ようやく坂を上りきる。

「サンキュー、だけど商売ものは上げられないんだよ」
「分かってますって。心配無用」
分かっているのは真ちゃんの腹の内だ。そのまま食える加工品でも上げたいのはやまやまだが、オヤジに知られるのが怖くて上げられない。根が優しい真ちゃんは迷っている。

こっちは腹ペコだから、くれるまで待とうとホトトギスの心境だ。私の気持ちは変わらないのに真ちゃんの心は揺れている。最後の勝利はこちらのものだ。

売れ残りの魚を売るのは楽じゃない。なかにはイチャモンを付ける人もいる。眼鏡をかけた青白い男が「こんな活きの悪いの食えたもんじゃない。エゴかったぞ。金を返えせ」と言って腐りかけた昨日の魚を持って来た。

真ちゃんは黙ってうつむいている。金なんか返したら大変だ。オヤジにこっ酷く怒られる。魚屋のオッサンは凄く怖いのだ。真ちゃんがシクシク泣き出した。いよいよ私の出番だ。

「オジサンの家はそこだよな」と指を差す。
「それがどうした」
「魚松のオッサンは怖いよ。息子から金取ったと聞いたら怒鳴り込んで来るぞ」

オジサンは魚を持ってスゴスゴ帰った。私は嘘を言ったのではない。魚松の家ではオヤジが威張り散らし、奥さんは唯唯諾諾と従うだけ。4人の子供は奴隷の様に使われていた。そうでもしなければ空襲で全てを失ったのに、1年で魚屋を再建することは出来ない。

真ちゃんは泣きながらリヤカーの中を物色している。ようやく決心したのか、さつま揚げとハンペンを持って来た。私はさつま揚げの臭いをかいだが異臭が無かったので、少しだけかじってみた。大丈夫だ悪くなっていない。こうして今日も栄養満点の食い物に有り付いた。明日も何とかなるだろう。

「売れ残りでも新鮮な魚もあるけれど、加工品は危ないので注意が必要です」
「今でいうところの日切れ食品だな」と先輩はしたり顔で言う。
「たとえ隣人でももらい物は要注意です」
「明日でも食えるものを今日他人に上げたりはしない」
「もらう者の自己責任で食べるのです」
「テレビドラマの腹ペコな人はもらった途端にかじりつくけどな」
「目と鼻と舌でチェックするのが基本です」
「応用編もあるのか?」
「基本チェックで合格したものを蒸かして、熱でバイキンを殺します」
「かなり念入りだな」
「子供の時から健康第一、歌って暮らせばラッキーカムカム。お金もかかりませんよ」

日本が戦争に敗れた1945年は混乱の時代、戦争が終わっても数年は混沌としていた。米軍の空襲で区内77%を焼失した渋谷区は特に酷かった。大人も大変だったと思うが子供も苦労した。苦労を子供に押し付ける親も少なくない。苦労は水の流れのように上から下へとなだらかに降りてくる。

混乱の時代では全ての親が子供の面倒を見るわけではない。人生いろいろ親もいろいろ。温かい親、冷たい親、自分ばかり可愛がる親、無気力な親、怒るだけの親、例を挙げれば切りがない。乱世では子供でも強くなければ生きて行けない。弱い私は頭を使った。生きる知恵は困れば自然にわいて来る。
タグ:渋谷
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2017年04月15日

古き渋谷に似た山鼻

中島公園近くのマンションに転居して約16年たった。1ヵ所に定住した期間としては、76年にわたる人生で最長である。だから第二の故郷のように思っている。では本当の故郷は何処かと言えば、それがなかなか難しい。

生れたのは横浜市内だが3歳までだから全く記憶がない。4歳から5歳にかけて栃木県内と福島県内へと2回の疎開。そして神奈川県の大船で終戦を迎えた。この辺りは断片的な記憶しかない。更に大船の違う場所に移住し、6歳のとき東京に移住した。この頃から記憶がハッキリし始めている。それで渋谷区金王町を故郷のように感じている。そこには6歳から約10年間住んでいた。他に故郷と思う場所はない。

なお渋谷には15歳から23歳までの間は出たり入ったりしながら3年くらい暮らしていた。計13年くらい渋谷に居たことになる。そして東京オリンピックが開催された1964年にやっと定職を得ることが出来た。職を転々とすることがどんなに不安定で辛いかは充分承知していたので、苦手な仕事だが定年まで勤め上げた。それからは自由な人生を心から楽しんだ。

ところで、中島公園の南西部に山鼻と呼ばれる地域がある。そこは道路の向きが微妙に違うのだ。磁方位、真方位との違い等諸説あるが別々の基準で道路が造られたことは確かだ。東本願前停留所から山鼻9条方面を見ると線路が曲がっている。
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画像は市電「東本願寺前」停留所。旧山鼻地域の碁盤の目と旧札幌地域の碁盤の目は方位がずれている。この二つを繋ごうとすれば曲線になる。言い換えれば曲がった場所が旧札幌と旧山鼻との境界線である。線路の曲がりが札幌の歴史を語っている。

話は横道にそれたが私が書きたかったのは16年前に中島公園近くに転居してビックリしたことだ。それは私が故郷と思っている終戦後の渋谷と余りにもよく似ていたことである。遠い昔に思いを馳せてアチコチ散歩した。とても懐かしい。

改めて転居して好かったと思った。感激のあまり此処を故郷と定め挨拶代わりに地域貢献をしようと思ったがなかなか上手く行かない。いろいろ手を付けては引っ込めた。その中で何とか続いているのが中島公園に関するウェブサイト「中島パフェ」である。
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山鼻から札幌市を見ると街のつくりが渋谷に似ていると思う。都心からの位置関係だが大通中心街から薄野、山鼻へと続いている。これは渋谷駅周辺の繁華街から花街といわれた円山町、それに隣接する松濤の高級住宅地との関係に似ている。ともに都心から歓楽街を抜けると住宅地になっている。

故郷を感じさせるもう一つは住処と路面電車停留所の位置関係である。両方とも徒歩2分の位置に停留所がある。子供の頃は毎朝ガタンゴトンチンチンという都電(路面電車)の音で目を覚ました。「青山車庫前」に停車して発車する都電の音である。隙間風の入るバラックには音も遠慮なく入って来た。今も市電「行啓通」停留所の近くに住んでいるが二重窓でコンクリート造りの共同住宅だから電車通りの音は聞こえない。

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故郷と山鼻はよく似ている。停留所のすぐそばに”ほねつぎ”をする「整骨院」があるところまでそっくりなのだ。60年もたってから、また同じ様な場所に住むとは夢にも思わなかった。路面電車のある風景が似ているのかも知れない。子供の頃は線路に釘を置いて電車に轢かせ平たい釘を「製作」する遊びが流行っていた。今だったら大騒ぎになるだろう。

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砂利道が細くなったり行きどまったりする。札幌には今でもこんな道があるのかとビックリした。そして懐かしく感じた。60年前にタイムスリップしたような思いだ。正面のビルを除けば子供の頃渋谷で見ていた風景にそっくりだ。

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同じ道を反対側から見るとこんな感じ。右側の暗い家に懐かしさを感じた。つくりは頑丈そうだが子供の頃住んでいたバラックと似ている。前を見ても後ろを向いても道は細くなったり太くなったり曲がったりしている。この点は終戦後に私が住んでいた渋谷区金王町と似ている。そこは何年か過ぎて区画整理事業が実施され道路は真っ直ぐになった。現在の山鼻の姿は懐かしいけれど不思議だ。区画整理が出来ないのだろうか。

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これは山鼻で見た火事による焼跡だが、焼け残るものは戦災の時に似ている。戦災被害者の最初の仕事は焼トタン等焼跡の廃材を利用してバラックと呼ばれた仮小屋を建てることだった。山鼻界隈に転居して多くの懐かしい風景を見ることが出来た。私は焼跡や不規則な砂利道、あばら家を見ると心が反応する。子供のときに心に刻まれたものが大人になって記憶としてよみがえるのだろうか。これが私の原風景かも知れない。

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見事に傾いている小屋も私にとっては懐かしい。子供のときは見慣れたものだが、今では滅多に見られない。これが市電の停留所から見えるなんて感動的だ。

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札幌まつりの日、行啓通では地元の祭りが行われた。ちょっと寂れたような街の感じが懐かしい。皆が協力してつくる手作り感のある祭りを見て遠い昔を思い出した。終戦後しばらくして職人・商人が協力して戦災で焼失した御神輿を新たに作り祭りを再開した。

御神輿は建具屋や大工が中心になって作ったが、ブリキ屋やペンキ屋も参加した。我家は経師屋だから出番が無いと思っていたら、御神輿に障子を付けてくれた。町内会が全員参加に拘ったのだ。軍国主義を反省し、誰もが民主主義とか男女同権を口にする良き時代だった。町内会も「明朗会」と言う名称だったと記憶している。
タグ:渋谷
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2017年04月08日

くさい仲

「C子さんのことは残念だったな」と先輩は前回のことにひと言触れてくれた。
「そうでもないですよ。一つひとつの出会いが今の私をつくったのです」
「そして出来上がったのが音痴で腰痛でハゲのアンタ」
「老化は誰にでも起きる普通のことです」
「音痴もか」
「毎朝、ドーパミンがドクドク出て来るのです。お蔭様で快感や幸福を感じています」

幸せな時は幸せだなあと思う。しかし、不幸なときは目の前の現実と戦うだけだ。諦めて成り行きに身を任せれば死んでしまう。後になって、あの時は苦労したなと思うものだろう。そして死の恐怖から解放されると新たに襲う漠然とした不安に悩まされる。

「人は一生悩むのかと思っていましたが違いますね」
「アンタは奥さんに嫌われているだろう」
「二、三年前まではね」
「嫌われなくなったら、とたんに幸せになったのか。ちょと情けなくないか」
「いいじゃないですか。今が好けりゃ」

話は昔に戻るが、戦後4年もたつと言うのに私は依然として「焼け跡の子」のままだった。近所で唯一のバラックに住んでいることが、とても恥ずかしかった。バラックとは兵舎の意味もあるが焼トタン等の廃材で焼跡に建てられた仮小屋のこと。既に町内からバラックは消えていた。私の家を除いては。

家から1kmくらいの美竹公園近くに、もう一軒のバラックがあった。そこに同級生が住んでいた。山下という名の女生徒はクラスの仲間外れだった。臭いとか言って誰も近寄らないから何時も一人ぼっちなのだ。

私たち二人は同類で同じ臭気を放っていたと思う。長い間風呂に入らず同じものを着ていれば誰でも臭くなる。小学校ではバラックの子であることを必死になって隠していた。後で考えれば無駄な努力をしたものだ。皆知っていたと思う。臭いで分かるのだから。

「なんで今さら昔の話をするんだ」
「自分史を書こうと思って調べていたら、芋づる式に思い出されて来たのです」
「貧乏くさい話は苦手だな」
「それでは渋谷のダンスホール、ハッピーバレーで踊った話をしましょう」
「嘘だろう。俺が北海道育ちだから知らないと思ったら大間違いだぞ」
「そう言えば先輩はダンスの達人ですね。実はそこで奇妙な出会いがあったのです」

あれから10年たち私も二十歳になっていた。遊び人大学生、高橋君の気まぐれな誘いでダンスホールに行った。よりによって渋谷のハッピーバレーとは場違いの所に行ったものだ。入った途端に気おくれがした。ダンスの得意な高橋君は相手を見つけて踊りまくっている。私は一人残されて居心地が悪かった。そのとき白いワンピースを着た女性が壁を背にして一人で立っているのに気がついた。

何となく寂しそうだがこちらを見ている。私にすれば声をかけ易い感じだ。どこかで見たことがある。なんと、10年前小学校で同級だった悪臭プンプンの山下さんさんではないか。二十歳になっても苛められっ子の面影が残っている。声をかけると黙って組んで来た。しかもダンスが上手な人のようにピッタリとくっついてだ。私は何も話さないし、山下さんも黙ってステップを踏んでいる。沈黙に耐えられず一言発した。

「常磐松(小学校)で一緒でしたね」
「覚えていません」
「鉢山(中学)だったかな?」
「………」

孤独で苦しい10年の果てが今の山下さん姿だろうか。渋谷のダンスホールの片隅に一人っきりで立っていた。昔と違ってサッパリした身なりで微かに香水の香りさえする。だけど清潔な感じはしないし、ダンスを楽しんでいる風にも見えない。

二人とも知り過ぎているような気がして何も話さない。知っていることと言えば話題として楽しくないことばかりだ。お互いに話す気がしないのである。共通点はただ一つ、戦後4年もたっているのに、二人だけがバラックに住んで居る子だったということだ。それだけで何もかも分かったような気がした。恐らく山下さんもそう思っているのだろう。

彼女が無口なのは自分のことは誰も分かってくれないと、諦め切っているからだろう。自分の話を誰にも聞いてもらうことなく、あの世に向かって旅立つのだろうか。苦しみを知っている人のみが持つ真実を知っているのに勿体ない。代わりに聞こえてくるのは謙遜というオブラートで包まれている有名人の自慢話ばかりだ。私は真実を知りたいのに真実を語るべき人は押しなべて無口である。

「アンタが渋谷のハッピーバレーとは驚きだな。踊れるのか」
「田舎のダンスホールでは踊っていましたよ。入場料が40円から100円くらいで、何軒もありました。マンボは前後に歩いてクルリと回るだけ。自己流のジルバが好きでした」
「そんなことではハッピーバレーでは通用しないぞ」
「山下さんとは通じるものがありましたよ」
「誰だ? 山下さんって」
「ここに書いたでしょう。臭い仲の人です」
タグ:渋谷
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2017年04月01日

手紙

東京オリンピックが終わり、1週間たったら私は24歳になっていた。相変わらず一人ぼっちだ。普通の人なら付き合いの中で夢と現実との違いを自然に学ぶのに、孤独な私は自分を顧みるチャンスさえない。映画やテレビドラマを観て空想ばかりしていた。気がついたら変わり者になっていた。

変人の私だが就職して生活が安定すると急に結婚したくなった。しかし、突然そんな気分になっても相手がいない。先ず女性と知り合わなければならないが、これが意外に難しい。いろいろトライしたが、ことごとく失敗した。仕方がないので女性が話し相手になってくれる酒場に行った。1970年代には、そんな楽しい店が沢山あったのだ。懐かしい。

「あれは24歳のときでした。ことの始まりは地方都市のバー『カナイユ』での出会いでした。明るくて可愛いA子さんにプレゼントしたのです。地元銘菓の豪華菓子折りをですね」
「バカなことをしたもんだ。喜ぶわけないだろう」と、遊びの達人である先輩は一蹴。
「仰るとおりです。後で分かりました。だけど失敗は成功の母ですよ」

実は菓子折りの中に手紙を入れたのだ。何を書いたかは想像に任せる。ともかく、それが思わぬ展開の始まりとなったのである。何も知らない私は、A子がお菓子を食べながら手紙を読む姿を想像してニヤニヤしていた。美味しいお菓子と甘い手紙で心が動くと期待したのだ。意外にも動いたのはA子の心でなく菓子折りの方だった。

翌日「カナイユ」に行くと期待に反してB子さんが私の席についた。彼女は地味な顔立ちでガラガラ声だが気立ての好い人だ。人気者のA子は忙しかったのだろう。B子は意味ありげな薄笑いを浮かべていた。手には白い封筒を持っている。なんと! 私が菓子折りに忍ばせてA子に渡そうとした手紙ではないか。それを見た瞬間、頭に血が上り顔が熱くなった。なんたることだ。世の中狂ってる。

「お菓子美味しかったよ。ご馳走様」
「どういたしまして。しかしどうして?」
「A子は太るからって甘いものは食べないのよ。それでもらっちゃた」
「それは良かったですね。ところで……」
「A子宛の手紙みたいだね。とりあえず返すわ」

お菓子のお礼も言ってもらったし手紙も無事に帰って来た。一件落着の感じだが心にしこりが残った。浮かない顔をしているとB子はいきなりクイズをしようと言って勝手に始めた。
「玄関を開けるとセールスマンが立っていました。そして突然、ズボンを下げました。さて、何のセールスでしょうか」
「………」。とてもじゃないけど答える気分ではない。
「は〜い、時間切れ。正解はダスキンで〜す」

何だか意味不明だが、私の鬱憤を晴らそうとしている気持ちだけは伝わって来た。B子の誠実な態度に接し、心が安らぎ少しだけ気分が良くなって来た。ところで、相変わらず相手もいないのに結婚したいという気持だけが先走っている。これは私の性格、どんなことでも始めたら一直線に進むのだ。ほんの短い間だけだが。

突然、B子と結婚したいと思った。好きな人と一緒になるのもいいけれど、一緒になってから好きになるのも悪くないと思った。好きとか嫌いとかは心の問題である。ならば自分でコントロールできるはずだ。それは孤独な私の得意技である。それにB子が喜んで今の仕事をしているようには見えないのだ。善は急げだ、直ぐに実行した。

「私と結婚しませんか」
「人をバカにするんじゃないよ。結婚なんて軽々しく言うもんじゃないんだよ」

バカにもしていないし、軽々しく思ってもいない。しかし考えて見れば求婚は少し早すぎた。”急いては事を仕損じる”とは本当だなと思った。ただ、この人は善人だという自分の直感を信じた。根拠はないのだが何となく分かるのだ。ともかくB子を怒らせてしまった。 やることなすこと全てが上手く行かない。

ところが、数日後B子から紹介したい人がいると電話があった。
「貴方は結婚したいと言ってたでしょう」
「ええ、そうなんですよ。結婚してください。是非お願いします」
「私じゃないよ。私より十歳も若い人よ。貴方に相応しと思ってね」
「ホントですか! ぜひ紹介して下さい。とても嬉しいです。本当に有難うございます」
「喜び過ぎだよ。今、私に求婚したこと忘れたの」

喫茶店で会ったC子さんは、二十歳くらいの可愛い人だった。この人と結婚できると思うと、心がウキウキ、心臓がドキドキした。デートの約束して帰ったが、じっとして居ても落ち着かなくて6畳しかない部屋を歩き回った。畳がフワフワで、まさに地に足がつかない感じだった。ひとめぼれである。恋に落ちるとはこういうことだろうかと思った。

当日、約束の動物園前で待ったがC子は来ない。電話をすると留守だった。そのうち来るだろうと思っていたが結局彼女は来なかった。翌日電話しても留守だった。その翌日に分厚い手紙が届いた。

憂鬱な三日間だったが手紙を読んで全て納得した。次のようなことが書いてあった。C子には気になっている人がいたが、彼が自分のことをどう思っているかが分からない。気持ちがフラフラしているときに結婚話があった。思い切って彼にそのことを打ち明けると彼の気持ちも同じであることが分かった。手紙の文章も内容も私を励まし納得させるのに充分なものだった。

C子は文学の勉強したかったのに親から薬学部を受験するように言われた。受けてはみたものの落ちてしまった。家業の薬局を手伝いながら受験勉強をしていたが身が入らない。かなり悩んでいるようだった。それを精神面で支えてくれたのが幼馴染の彼だった。彼は地方紙の記者をしながら同人誌に小説を書いていた。

10枚以上に及ぶ手紙には、前述のようなことが書かれていた。表現力が豊かで手紙と言うよりも一つの作品になっていた。文章の力は凄いものだと感動。すっぽかされたことなどキレイさっぱり忘れ感心するばかりだった。

私は図らずもキューピットの役目を果たしてしまったのだ。映画『男はつらいよ』の寅さんのようなものだ。恋愛ごっこは正味一日で終ったが本当に足下がフワウワして雲の上を歩いている感じがした。今考えても不思議でならない。

C子が居なければ一生、この不思議な感覚を味わうことがなかっただろう。C子と彼女を紹介してくれたB子に心から感謝した。ついでに菓子折りを開けもしないでB子に上げてしまったA子にも感謝。彼女こそ、このような機会を作ってくれた女神である。ところで、あの菓子折りの中身はB子さんとC子さんが美味しい美味しいと言いながら食べたと思う。

私は外見と内面がアンバランスな人。心の中を覗いてみれば、60年間いささかの進歩もない。昔の少年がそのまま化石になった様なものだ。風采に似合わず心の中では派手なことばかり考えている。歌いたい踊りたいモテたくて仕方がない。それなのに音痴で腰痛で、オマケにハゲだ。夢と現実との乖離が余りにも激しい。悩みは深く思慮浅い。


「二人でお菓子を食べている姿が目に浮かびます」
「いきなり何だ」と先輩は怪訝な顔をする。
「B子さんとC子さんですよ。私のプレゼントを一緒に食べたんじゃないかと思うのです」
「D助も一緒に食ったんじゃあないか」
「デンスケって誰?」
「アンタ宛ての分厚い手紙を書いた奴だよ」
「あれはC子さんが書いたに決まってるでしょう」
「証拠あるか。愚か者めが」

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 在職時代