2017年01月14日

生い立ち2-東京へ

<先輩の人柄を会話を通してそれとなく紹介>
「先輩は航空管制科学をご存知ですか?」
「知らないよ。元々俺たちが紙と鉛筆と電話だけで始めた仕事だ。学問じゃない」
「レーダーもコンピュータも入りましたよ」
「何が入ろうと管制官は職人、一人ひとりの流儀があるんだよ。俺はゼロ戦流だ」
「だから普遍化できないと言うのですか?」
「なんだ? フヘンカって」

「本気にしないのなら"空の旅を科学する"で検索してみてください」

「なるほど、こんな本が出たのか。世の中変わったな」
「劇的に進化する航空管制の世界を描いたそうです」
(先輩は"Air Traffic Management: Eri Itoh"で検索し動画も観てくれた)
「先端技術は凄いな。俺たち、たった半世紀で化石になっちゃったよ」
「化石こそ貴重な歴史的資料です。胸を張りましょう!」


 
<生い立ち2-東京へ>
話しは1946年の春に戻る。私が6歳の時に母は東京に住む知人の紹介で表具師、中波常吉と再婚した。母子4人の引越し先は渋谷区青山7丁目付近の焼け跡に建つバラックだった。辺り一帯はアメリカ軍の空襲で焼野原にされた場所だ。

被災者は焼け跡から焼トタン等の廃材を拾ってきて仮小屋を建てバラックと呼んでいた。焼けトタン作りの家は冬は隙間風で寒く夏はトタンの熱で猛烈に暑い。雨が降ればトタンに当たる雨音がうるさい。ダダダダダダダッと機関銃で撃たれている様な騒音だ。家族5人が寝ると足の踏み場も無い。雨漏りがしても逃げ場がないのだ。

不思議なことに豪邸暮らしの喜びもバラック暮らしの悲しみも覚えていない。幼児の私は飼い猫のように、エサを食べてウンコをして、ほっつき歩いて寝るだけだった。ひたすら母を恐れ、叩かれそうになったら逃げる。ただそれだけの暮らしだった。住めば都とか此処は地獄とか考えたこともない。完璧なその日暮らしだから悩みも無かった。

戦後1年もするとボチボチ家も建って来た。母も家を建てるつもりで金を用意して東京に来たのだ。養父の中波さんは表具師だから戦中、戦後にかけて仕事が全く無い。掛軸、屏風、額等を表装する仕事だから暮らしに余裕がないと成り立たないのだ。おまけに仕事場、道具、材料の全てを空襲で焼き尽くされたのである。

戦時中は風船爆弾を作りに行ったそうだが、その留守中に米軍の空襲で妻子を失った。もしアメリカ本国を攻撃する風船爆弾を作りに行かなかったら妻子と一緒に死んだと思う。養父は毎日、子を抱く先妻の遺影の前で手を合わせていたが、いつの間にか遺影は無くなっていた。不思議に思って兄に聞くと母が捨てたと言っていた。

中波さんがコブ付きの母と再婚したのは金目当かも知れない。焼け出された人々の目標は復興、具体的には家を建てることである。その為に再婚したとしても当時としては当然のこと。空襲で家族は滅茶苦茶に破壊されバラバラにされた。家族の再編成も復興の為には必要だ。誰もがあらゆる手を使って家を建てようとした。例外は無い。

不幸なことに養父は肺病にかかり予想外の長患いとなる。こうして養父の土地に母の金で家を建てる計画はご破算となった。治療費と生活費で全財産を失うのも時間の問題となったのである。夢ははかなく破れ、どん底へとまっしぐらに落ちて行った。

振り返ってみれば実父逃亡が貧乏の始まりで、生活力の無い養父との再婚が貧乏の確定、養父肺病罹患で一直線にどん底へと落ちて行った。ついに泥沼にはまってしまったのである。しかし、贅沢を知っている母はともかく、私にとっては上り坂のスタート地点に過ぎなかった。1946年はブラブラしていた。1947年4月に小学1年生になる。

「我が家の場合は終戦時の年齢で性格が違っているのです」
「そうかい。どんな風に違うんだ」と先輩。
「完全に記憶のある9歳だった長男は坊ちゃん風のところが残っています。一方お金持ちの記憶が全くない三男坊の私は貧乏丸出しです。情けないですよね〜、先輩」
「おいおいそばに寄るなよ」
「なんでですか?」

「貧乏はうつると言うじゃないか」
「大丈夫ですよ。バブル景気で貧乏症はとっくに治りました」
「菌は残ってないのか?」
「きんですか。残ってますよ〜、たくさん残ってますよ〜」
「だから寄るなって言ってるだろう!」
「畑中貴金属の地金が500グラムバーで20本ですよ〜。バブルの遺産で〜す」
「そうかい。これからも仲良くしようぜ」
「有難うございます。それでは次のブログで母と3人の幼児をご覧ください。母に抱っこされているのが私です。セーラー服姿の兄たちも可愛いですよ。1941年の撮影です」

毎週土曜更新、次は1月21日です。またの訪問をお待ちしています!
タグ:札幌 渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代