2017年01月28日

吹き込まれた記憶

「去年の夏ですが4歳年上の兄が20年ぶりに札幌に来たんですよ」
「随分ご無沙汰だね。いったい何しに?」と先輩。
「80歳になったとか言ってました」
「東京に住んでいるんだろう。足腰の立つ内に会って置こうということかね」
「三日も居たものですから昔話もしましたよ」
「古き良き昔を語り合ったのか」
「そう思ったのですが何故か噛み合わないのです」

終戦当時9歳だった兄は豊かだった横浜時代の記憶がある。一方5歳だった私の記憶は曖昧だ。後になって聞かされた母の話を自分の記憶と思い込んだ節がある。これが話が噛み合わない原因と思う。しかし何故だろうと言う疑問は残る。私だって無条件で母の話を受け入れた訳ではない。内容が私の体験や見たことと一致していたからだ。それで70年の長きにわたり事実と認識していたのである。

1945年5月の米軍による大空襲で渋谷区内の77%が焼き尽くされた。住民は焼跡となった自分の土地にバラックと呼ばれる仮小屋を建てて雨風を凌いでいた。養父となる中波常吉もその一人である。彼は空襲で家を焼かれ妻子を失い、侘びしい一人暮らしをしていた。そこに母子4人が子連れ結婚という形で転がり込んだのである。

被災者は土地の人、焼け出されたとは言え地域に根を張った人たちである。分かり易く言えば映画「男はついらいよ」に出て来るような地域共同体。お互いに協力し合うことで暮らしが成り立っている商人職人中心の世界である。その人たちの中へ入って行った母としては出来るだけ早く馴染みたいと願っていた。そのような思いで、知合えばすぐに家に連れて来てお喋りをした。それはいいのだが問題はその内容である。

母は聞かれれば喜んで横浜での話をした。単なるおしゃべりだが、それとなく大きなお屋敷が出てきて、沢山の女中さんも何気なく登場する。戦前のことなら海軍士官との交際がが話題に上り、戦後になれば米軍のオフィサーとの話題に変わる。私自身も家の広間で軍服のアメリカ人と着物姿の日本女性がダンスしているのを見た記憶がある。

バラック暮らしだが二人の兄は小学校に行き、養父は日雇いの仕事に行っている。母と私だけが家に居た。6畳一間だから母達のお喋りは全て聞こえる。退屈した私は近所の奥さんに話す母の話を盗むようにして聞いていた。

母の話は奥さんたちにとっては単なるお喋りの一部だが、私の脳にはスポンジに水が染み込むように記憶された。なぜなら、幼い私が横浜辺りで経験したこと、見たことと一致していたからだ。横浜の家は凄く大きかった。門から玄関までが遠かった。広い庭と大きな池があった。廊下は長く運動会のように走っては叱られた。風呂はプールのように大きかった。少なくとも5歳の私にはそう見えた。

食事の世話をしてくれる人、風呂に入れてくれる人、幼稚園の送り迎えしてくれる人、遊びに連れて行ってくれる人。それぞれ違う女中さんが私の面倒をみてくれた。私は坊ちゃんと呼ばれ、母は奥様と言われていた。母は何かと忙しそうだったが、何時も優しい女中さんがそばに居てくれていたので寂しくはなかった。むしろ最高に幸せだった。

「本当にいい暮らしをしていたんだな」と先輩。
「母が話していることは全て私の記憶と一致しているのです」
「俺も信じたよ……。おい、何をふくれっ面してるんだよ」
「東京から来た兄がね。女中なんか居ない。豪邸も無いと言うんですよ」
「何じゃ、それ。せっかく信じてやったのに。何が何だかさっぱり分からん」
「それでは分かるように説明します」
「いいよ。読んでやるからブログに書きな。次は3月4日だったな」

「よくぞ覚えて下さいました。有難うございます」
「土曜日更新と何回も言われて耳にタコだ。欠かさず読んでるぞ」
「この御恩は一生忘れません」
「それ程のことではないけど、今ごろ言われても嬉しくないね」
「なんでですか?」
「まるで夕方のスーパーの安売りだよ」
「分かりませんが」
「アンタ幾つだ。一生とは何年だ」
「76歳です。一生は92年くらいかな。分かりました。賞味期限切れ寸前ですね」
「さあいらっしゃい! "一生の御恩のたたき売り" てなことよ」

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 幼児時代