2017年02月25日

羽柴の御殿

「アンタが書いているのはホント、それともウソ?」
「両方です。背景となる時代や場所についてはなるべく事実を……」
「ハッキリさせなきゃダメだよ」と、先輩は細かいことにこだわる。
「分かりました。氏名はウソ、つまり全て仮名。人様に迷惑をかけたくないのです」
「アンタの名前くらい実名でもいいだろう」
「繰り返しますが人に迷惑はかけられません。私も人です」

振り返って考えると、私たち一家が所属する渋谷区金王町の町内会は封建的な村社会だった。商人職人中心の町で皆で協力し合いながら暮らしていた。魚を買うのも町内の魚屋だし家を建てるのも町内の大工だ。排他的な地域社会だが、そこになぜ「よそ者部落」が出来てしまったか自分なりに考えてみた。

終戦直後は、辺り一帯は米軍の空襲で焼野原になっていた。そこに戦前から続く地域社会が蘇ったが傷だらけだったのだ。養父中波常吉も空襲で妻子を失っている。他にも家族を失った人は沢山いた。もし家族と一緒に暮らしていた障がい者が、家族を失い一人残されたら、どう生きて行けばいいのだろうか。

羽柴さんの姿を見ると、むかし観た映画「ノートルダムのセムシ男」を思い出す。羽柴さんは「背骨が曲がった人」なので働けない。だけど一人になっても生きて行かなければならない。それで狭い土地の半分を住処のない人に貸したのだ。そして「よそ者部落」が出来た。私はそう考えた。それぞれが狭い小屋を建てて10人くらい住んでいた。子供は裕次一人だった。羽柴さんは無口で内向的なので実際に営業したのは奥さんだと思う。

この地域の変遷を振り返ってみると、最初に得体の知れない人たちが来た。次に貧乏人が出て行き金持ちが入って来た。その繰り返しで地域の大部分がよそから来た人々により占められるようになった。この流れの中で我が中波一家は貧乏人として渋谷から弾き出された。大きく変わったのは1964年の東京オリンピック以後だった。場末の渋谷が華やかな渋谷へと大変身をした。広大な米軍施設が日本に返還されたことも発展に拍車をかけた。施設名はワシントンハイツ。東京の中のアメリカと言われていた。

羽柴さんは30代半ばくらいだが、かなり年上の奥さんと二人暮らしだった。多分戦後のどさくさの中で一緒になったのだと思う。奥さんが町内を歩くと風景が変わる。紫色のチャイナドレスを着てハイヒールをはき日傘を差してシャナリシャナリ歩くのだ。厚化粧の人で何となく気持ちが悪かった。

子供たちは陰でムラサキ婆さんと呼んでいた。悪ガキは日傘に当たるように小石を投げてからかい、怒って向かってくると逃げてはスリルを楽しんでいた。ハイヒールだから早く走れないと見込んでのことだからたちが悪い。地域の大人たちの悪意が子供たちに乗り移るのだ。ムラサキ婆さんも戦後にやってきたよそ者と思う。多分羽柴さんが一人で暮らせないので一緒になったのだ。

羽柴さんのバラックは外から見ても汚くて、何か臭うような気がして気持ちが悪かった。養父の常吉さんは「羽柴の御殿」と言っていた。中に入ると何でも棚に飾ってあって、汚物まで飾っていると言って笑っていた。狭いバラックなのに収入を得る為に半分を貸してしまったので置き場所に困って棚を沢山作ったのだと思う。

常吉さんは優しい人だ。羽柴さんが来ると楽しそうに話していたので昔からの知り合いと思う。羽柴さんの奥さんは何をしているか分からないけれど彼女自身は哲学士と称していた。テツガクって何だろうと子供の私は不思議に思った。後になって考えてもムラサキ婆さんと哲学が結びつかないのだ。いずれにしろ得体の知れない人だ。

羽柴さんは大人しい人だが、それは後で考えたこと。子供の私は背骨が曲がった羽柴さんが怖かった。無口な常吉さんが羽柴さんと楽しそうに談笑しているのを見て不思議な感じがした。私は汚くて臭いバラックに住む羽柴さんが嫌いだったが、自分も同じようなバラックに住んでいた。慣れた場所は何でもないのだ。

戦争が終わって2年もたつと、焼トタンで作られたバラックは、羽柴さんと我家だけになってしまった。それに羽柴さんの貸地に建つ数件の粗末な仮小屋を加えて、不本意ながらミニスラムを形成していた。中波家としてもスラムから脱出しなければ本当の意味で地域住民になることは出来ない。

不幸なことに常吉さんが肺病に罹り働けなくなった。母は夫の快復に全力を尽くした。そのため用意していた建築資金が医療費と生活費に使われ底を尽いた。もはや家どころではない。そんなとき幸か不幸か台風が来てミニスラムは木っ端微塵に潰れた。ところが我がバラックは生き残った。これが不幸の始まりなろうとは夢にも思わなかった。

羽柴さんと得体の知れない人々が居なくなくなると、移住してきた人が立派な家を建てた。ついに我が家は近所で唯一の焼トタン造りのバラックになってしまった。今で言えば河川敷にある様なホームレスの小屋みたいのが街中にあり、そこに家族5人で住んで居るようなものだ。皮肉にも台風に負けなかったことが裏目に出たのである。

「焼トタンの中でトタンの苦しみを味わうことになったのです。これ洒落ですが笑えますか」
「分かるよ塗炭の苦しみだろう」と先輩はうんちくを語り教養をひけらかす。
「意味なんかどうでもいいのです。笑えますよね。焼トタンの中でトタンの苦しみ」
「う〜ん、何だっけ」
「トタン トタン トタンです」
「そうかぁ。パダム パダム パダムっていうのもあったよな〜」

「先輩があくまでとぼけるなら話題を変えましょう。次回は米兵との戦いです」
「おっ! 勇ましいな。アンタ危機の対応では二種類の人間がいるとか言ってたな」
「はい、前回の『焼跡の裕次』で書きました。戦う人間と逃げる人間です」
「もちろん逃げるんだろう」
「ヘビー級とモスキート級では戦わないのが国際的ルールです。知らないんですか」

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タグ:渋谷
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2017年02月18日

焼跡の裕次

ドラマを観ていると「世の中には二種類の人間がいる」というセリフをよく耳にする。自分なりに二種類の人間について考えてみた。ふと頭に浮かんだのは困難な事態に直面した場合の対応だ。戦う人と逃げる人がいる。裕次は躊躇なく戦う子供だった。今にして思うと焼跡育ちのエネルギーを強く感じさせる子だ。

仕事の都合で各地を転々としていたが、二十歳の時は渋谷の実家に居た。ある日何の前触れもなく若者が訪ねて来た。スーツを着てアタッシュケースを手にしていた。
「ご無沙汰しております。仕事で近くまで来たのですが、つい懐かしくなり……」
と言われても誰だか分からない。こんな時は名前を聞きにくいものだ。一瞬ポカンとしていたが幼い丸顔が脳裏に浮かび、それが目の前にいる青年の顔に乗り移ってきた。

「あっ! 裕ちゃん。話し方違うじゃない。立派になったねぇ。見違えたよ」
「早いもので、あれから10年以上たちますね」
「心配していたんだよ」
「今は宝飾品のセールスをしています」

品物もカタログも見せようとはしない。ただ懐かしいから寄ってくれたのだ。子供の頃一緒に遊んだだけで、いつの間にか居なくなってしまった。無鉄砲でひょうきんな子と思っていたが好青年に成長している。お父さんはどうしたのだろうと一瞬思った。

話しは10年以上前に遡るが、裕次は父安藤輝造と一緒に移住して来た。当時は子供だったが、よそ者部落の得体の知れない人達の一人だった。父子二人が寝るスペースしかない仮小屋で暮らして居た。安藤さんは瓦職人だそうだが朝早くから夜遅くまで働いていた。そのせいで裕次はいつも一人ぼっちだった。瓦屋は忙しいのだなと思った。

安藤さんは挨拶がよく礼儀正しい人なので古い住民にも好感をもたれていた。共同水道はよそ者が地域住民に接触する唯一の場所である。一つの蛇口を複数で使うのだから譲り合ったり割り込んだりいろいろある。マナーが問われる場所でもあった。

マナーが良いからと言って、よそ者が地域に溶け込むことは容易ではない。この関係は子供の世界にも及んでいた。我が家は養父が地域住民で母子4人がよそ者と言う微妙な立場だった。既に小学校に通っている兄たちは積極的に地域に溶け込もうとしていた。私だけがよそ者同士の気安さで直ぐに裕次と友達になった。

裕次の家には鍋や釜などの所帯道具と言うものが一切ない。裕次はよく買い食いするし父に連れられて外食もするらしい。一方、焼跡のバラックに住む地域住民の唯一最大の願いは家を建てること。その為に爪に火を灯すようにして暮らして居るのだ。彼らにとって外食なんてもっての外、贅沢の極みである。瓦屋って儲かるのだなと思った。

寂しい父子家庭だが裕次は腹いっぱい食べていた。遊びに行けば私にも分けてくれた。それほど余裕があったのだ。ところが、ある日突然、どん底に陥った。しかし裕次は悠然としていた。地域の子等の執拗ないじめにも遭ったが憤然として逆襲した。

その事件とは自称瓦職人安藤輝造の素性が明らかになったことである。新聞社会面のトップ記事としてデカデカと報道された。見出しに「窃盗団の首領逮捕」と書いてあった。一番上に首領安藤輝造の写真、続いて団員の写真がズラリと並んでいた。

父が捕まってしまった裕次はしばらく一人で暮らして居た。食事等の面倒は、よそ者部落に住む満子さんがしていた。彼女は50歳くらいの満州(中国東北部)からの引揚者で身寄りもないようだ。これは想像だが、安藤さんが自分が捕まった場合のことを考えて、満子さんに対して生活面の援助をしていたのだと思う。ついに恩返しの時が来たのだ。

安藤さんは他の人に対しても気前が好かった。兄二人も渋谷のレストランでご馳走になったことがある。凄く羨ましかったので何時までも覚えていた。私も裕次を通してお菓子をもらっていた。地域の住民だって何かもらった人は少なくないだろう。よそ者部落の人たちを毛嫌いにして悪口ばかり言っていたのに安藤さんの悪口だけは誰も言わなかった。

しかし地域の子供たちは容赦ない。裕次を泥棒の子供として徹底的にいじめた。多勢に無勢だから裕次に勝ち目はない。だからと言って戦いを諦めるような裕次ではない。逆襲方法を密かに研究していたのだ。このことは後になって思い知らされる。

バラックを木造建築に建て替える戦後の建築ラッシュが既に始まっていた。アチコチに建てかけの家がある。テレビもないしラジオも自由に聞けない時代だから地域の子等は適当な場所に集まって雑談をするのが好きだった。その日は雨が降っていたので建てかけの家に無断で入り込んでお喋りを楽しんでいた。

話題は空襲の話と集団疎開の苦労話が多い。火の海の中をいかに勇敢に逃げたか。学校単位の集団疎開先で先生がいかにズルイことをしたか、散々聞かされた。いずれの経験もない私たち三兄弟には出番はない。幼い私は兄たちのそばに居るだけだった。

「おい、雨が吹き込んでるぞ」
「こんな所まで来るはずないだろう」
「おいおい、あったかいぞ何だこりゃ?」
「あっ! 裕次だ。このやろう!!」

裕次が2階からチンチン出して小便をかけていた。家は立てかけで1階の天井は無い。床も張ってないし材料もあちこちに置いてあって逃げ場も無い。裕次の奇襲作戦は大成功だったが、この後が大変だ。大勢で裕次一人をボコボコに叩いた。しかし、こんなことで怯む裕次ではない。恥ずかしながら怯んだのは地域の子等だった。あいつは何するか分からないからと恐れ、以後一切手を出すことはなかった。

時代は戦中に遡るが、1945年3月10日、深川は未曾有の大空襲に襲われた。裕次は熱風の中で母を見失った。後になって遺体の腐敗臭が漂う中を探し回ったが見つからなかった。父が南方の戦場から復員するまでの半年間、空襲で荒れ果てた食料不足の東京を生き抜いてきた。こんな裕次だから子供等に殴られて足蹴にされるくらいは屁とも思っていない。極限の困難に遭遇して大人より強い、戦う子供に育っていたのだ。

「久しぶりに懐かしい話ができて楽しかったよ。お父さんは元気?」
何気ないフリして聞いたが、勇気を振り絞って尋ねてみたのだ。
「立派な日本家屋も建つようになったので商売繁盛です。元々腕のいい瓦職人ですから」
「そう言えば最近は瓦葺の家が増えたね」
「職人の履歴書はやった仕事なのです」
「と言うと?」
「賞罰は関係ありません。良い仕事をすれば結果は必ず付いて来ます」

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蛇 足
読んで欲しいけれど、読んで下さいとは言えない私の屁理屈
この戦争で約300万人が死んだ。その10倍の3000万人の人たちが戦争の苦しみを味わったと仮定してみた。そうすると残りの7000万に近い人々は戦争の苦しみなんか味わっていなかったことになる。それどころか戦争で豊かになった人さえ居た。現に子供の私は戦争中は金持ちだったと錯覚していた。みんな苦労したと言う言葉に騙されてはいけないと思う。世の中はいつも不公平なのだ。事実に基づかない話からは何も生まれない。

戦場や空襲で塗炭の苦しみを味わった人の体験談を理解できる人は少ない。「硫黄島は地獄だった」と言っても「内地だって地獄だ。芋や大根ばかり食っていた」と返されれば、体験者は話す気を失う。こうして戦争で極限の苦労をした人は黙り込み、更にもっと苦しんで死んだ人は一言も発することができない。現在は情報に溢れているのに生死に関わる大切な情報は無いに等しい。あっても伝わらないからだ。

今、巷に溢れている書籍、マスコミを通して伝わる話は、売れる話だけで事実とはかけ離れている。なぜなら受け手の共感を得なければ書籍、新聞、テレビ番組等のメディアは売れないからだ。普通の人が極限状態を理解するのは極めて困難だ。並外れた忍耐と想像力が必要である。極限状態の体験者から聴き取れるのは、その道の専門家に限られている。現代史研究家による真実を追求した書籍も少なくない筈だが、売れている本の数に押されて下の方に押し込められているのだろうか。私たちには見えてこないのだ。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 幼児時代

2017年02月11日

得体の知れない人々

「得体の知れないとは何だ?」と先輩。
「なんだか正体が分からないのです」
「幽霊か?」
「毎朝来るんですよ」
「なんだと?」
「歯を磨きにくるんです。得体の知れない人たちが」

戦争で急減した渋谷区の人口だが終戦後は急激に増加した。一説には戦後1年間で渋谷区の人口は2倍になったと言う。学童集団疎開、縁故疎開、海外からの復員と引揚者が渋谷に続々と帰って来たのだ。その他に私たちの様な家族再編組もいる。戦争で夫や妻を失った人たちの再婚である。何とかなるだろうと思って来る人もいた。

先ず、昔から地域に住む人たちが、とりあえずの寝場所として自分の土地に仮小屋を建てた。焼け残った廃材で建てた仮小屋である。住まいと言うには余りにもお粗末なのでバラックと呼んでいた。そして終戦後1年くらいたつと、私が住む金王町(現渋谷二丁目)にも得体の知れない人々がやってきた。

激しい空襲にもかかわらず地中に埋まっている水道管は生き残った。バラックは家を建てるまでの仮住まいだから水道を引かない。近所の人が一つの蛇口を共同で使っていた。蛇口の周りに主婦たちが洗い物を持って集まるので井戸端会議の場にもなった。同じ蛇口を使う人はごく自然に親しくなって行く。焼跡では水道から付き合いが始まるのだ。

ある日、見知らぬ若い男が共用水道に現れた。背が高くて男前、俳優の大町と名乗っていた。後になっての話だが大町さんは映画「七人の侍」に出ていたそうだ。戦う農民の役でちょこっと写っていたようだ。その後、次々と得体の知れない人物が我家の裏に移住してきた。オカマの青山さん、名前の分からない学生と若い女性、満州帰りで50代の満子さん等だ。そして、もっとも印象深い安藤親子、輝造と裕次もやって来た。年が近い裕次とは直ぐに友達になった。裕次の父は無口だが物静かな礼儀正しい人だった。

今までは私たち母子4人だけがよそ者だったが、こうして我がバラックの裏によそ者部落が出来てしまった。10人足らずの人たちだが10坪に満たない土地に小屋を建て、重なるようにして住んで居た。地域の人たちと付き合うことはなかったが、よそ者と言う共通点がある母は別だ。一部の人たちと親しくしていたようだ。

ここで地域の結びつきがいかに強いかを示す一つのエピソードを紹介する。少し長くなるので興味のない方は飛ばしても差支えない。
養父の中波常吉は、ご近所さんから経師屋の常ちゃんと呼ばれていた。戦前から地域に根を張った住人である。金王八幡宮近くの渋谷区金王町にある地元町内会は戦災で御神輿を失った。復興を願って地域の人が協力して御神輿を作ることにした。建具屋と大工が中心だが町内すべての人が持てる技術と力を合わせて新しく作ることにしたのだ。例えばブリキ屋が鳳凰の形を作りペンキ屋が綺麗に塗った。ところが経師屋の常ちゃんの出番がない。それで御神輿に小さな障子を作り、常ちゃんに障子紙を貼らせた。町内会は全員参加で作ることに拘ったのだ。町内皆助け合って暮らして居た。戦災で全てを失った人々は助け合わなければ生きて行けないのだ。こんな状況だからよそ者と地域住民が付き合うことはない。よそ者部落の人たちは住所不定、そもそも町内会に入る資格がない。

得体の知れない人で母とお喋りする人が二人居た。満州から引き揚げて来た満子さんと青山さんである。満子さんは「私はオッパイが無いんだよ」といって服を脱いで見せてくれた。胸に大きな傷があるので凄いなと思った。青山さんは顔が大きく赤ら顔、どう見てもオジサンなのに言葉づかいと仕草が女なのようなので気持ちが悪かった。母の前で泣きながら何かを訴えていたのを見たことがある。一見すると女々しい人だが状況によっては態度をガラリと変える怖い人だった。

裕次は私の一つ下だから直ぐに親しくなった。父は瓦屋だそうだ。親子で寝るだけのスペースしかない小さな小屋に住んで居た。床下は瓦で満杯だった。所帯道具は見当たらなかった。食事は外食だと言っていた。当時としては極めて贅沢なことだ。私はもちろん、ほとんどの子供は街の食堂などには一度も行ったことはない。瓦屋って儲かるのだなと思った。裕次は東京で初めて友達になった子である。

「裕次は私にとって忘れられない人になりました」
「親友にでもなったのか」
「その場限りの遊び友達です」
「忘れられない人なんだろう」
「困っている時に助けてくれた訳でもありません」
「それなのに何で?」
「ある日、お父さんが新聞にデカデカと顔写真入りで出たのです。ビックリしましたね」
「瓦屋さんは仮の姿、……」
「当たり! 実はホニャララなのです。次回に書きますね」

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代