2017年03月25日

二人の客人

「実はね東京のある区では1年で人口が倍増したのですよ」
「そんなことある訳ないだろう」
「もしあるとすれば……」
「有り得ない。倍になる余地が無い」
「もし土地だけあったとしたら……」
「食べ物も住宅も追いつかない」
「1946年の渋谷区がそうでした。私が六歳で家族と一緒に移住した年です」

渋谷区の人口は1945年6月には空襲等の影響で4万6千人までに減っていたが、終戦の翌春には10万人を超えている。1年もたたない内に人口は二倍以上に激増したのだ。当然一人当たりの食料は激減した。全ては無い無い尽し、あるのは渋谷区面積の77%を占める焼跡だけだった。そこにバラックと呼ばれる仮小屋を建て何とか命をつないでいた。

ある日家の前に大きなリュックを背負った髭面の復員兵が立っていた。その人は母を見ると「叔母さん」と言ったきり声をつまらせて泣いた。母は「フミオさん無事だったのね」と言って抱きついた。後で母の姉の長男だと言うことを知った。「姉さんまだ満州から帰って来ないんだよ」と母は言いながら泣いた。その後何を話していたかは覚えていない。

フミオさんは東京と比べれば食料が格段に豊富な台湾から復員した。リュックの中には食料がいっぱい入っている様だ。その日は乾パンと金平糖を腹いっぱい食べて寝た。夜中に目が覚めると話し声が聞こえた。母とフミオさんだ。
「姉さんが満州から帰るまでウチで待ってたら」
「狭くて寝る場所がないでしょう」
「建て増しすれば寝床くらい作れるから」と母は一生懸命引き留めている。

増築と言ってもホームレスが仮小屋を作るようなもので、寝場所を作るだけだった。同室の家族が期待しながら二人の話の成り行きに聞き耳を立てていた。少なくとも食料の入ったリュックが空になるまでは居て欲しいのだ。残念ながらフミオさんは翌朝家を出た。家族5人の食いっぷりに恐れをなしたのだろう。特に男の子三人の食欲が凄かった。感激の対面もあっけなく終わった。現実はドラマとは違う。

終戦後2,3年の間にいろいろな人が来た。母の姉一家4人は満州から引き揚げてきた。母の兄は水害で家を失い一家5人で来た。一時は20坪の土地にバラックが3軒くっついて建ち、15人も住んで居た。人口が1年で2倍になるとはこうゆうことだ。

ある日堂々とした感じの中年男が来た。母の前夫(伊吹金吾)と懇意にしていた広田さんだそうだ。横浜在住だが仕事でよく東京に来ると言っていた。
「風の噂で奥様の窮状を知り、お世話になった万分の一でもお返ししたいと思い探し回っていました」。広田さんは会えて好かったといって涙を流した。

「今はバラック暮らしだけど来年は新築するから遊びに来なさい」と母は言った。それなのに広田さんは居着いてしまった。6畳に5人の所に大の男が一人入って来たら大変だ。兄弟3人は重なるようにして布団一つで寝た。

居着いた理由はしばらくそばに居て奥様のお役に立ちたいと言うことだ。さっそく好い話を持ち込んでくれた。知り合いが営団にいるから闇米が配給米並の値段で買えると言う。

「伊吹さんには戦争中お世話になっているから恩返しのつもりです。特別に融通してもらうのだから誰にも言わないで下さいよ」と小声で言った。いくら小さな声でも六畳一間では皆に聞こえてしまう。家族一同期待に胸を膨らませた。

母は見栄っ張りだから顔が利く知人が居ることを吹聴したかったらしい。近所の奥さん連中に喋りまくった。母が近所の奥さんと話しているの聞いたことがある。
「誰にも教えてはいけないと言われているのだけど貴女には世話になっているからね。私が一緒に買って分けて上げる。もし買えなかったら預かった現金はそのまま返してくれるというから心配はないんだよ」

お金を渡したら広田さんはドロンと消えて再び姿を現すことはなかった。母は騙されたことを恥じて何も言わずに、品不足で買えなかったことを詫びながら金を返して歩いた。有り金全部持って逃げた広田さんの代わりにである。こうして我が家の建築資金は徐々に減って行った。安普請とは言え次々と家が建つ中で気持ちは焦るばかりだ。

ヒマだから世間話をするために先輩に電話をし、こんな話もした。
「今は詐欺泥棒のたぐいは報道で知るだけですね」
「のんびり暮らせるようになって好かったな」
「日本では犯罪件数が激減して戦後最低記録を更新中と、今日の新聞に書いてたよ」
「テレビでは犯罪ニュースのラッシュだぞ」
「暴力団関係者の人数も大きく落ち込んでいるそうです」
「暴力ニュースも尽きないけどね」
「警察の仕事がなくなるのでテロ防止を口実に共謀罪法案が国会に提出されたそうです」
「それは違うぞ。その記事は俺も読んだ」
「どう違うのですか」
「警察は、仕事がないなら、公権力の私物化や汚職にこそ立ち向かうべきではなかろうか」
「先輩、その言い方は何時もと違って教養がにじみ出ていますよ」
「バカ、記事をそのまま読んでいるんだ」

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2017年03月18日

終戦後の渋谷

「私が住んでいた渋谷区金王町は焼け跡の中の田舎という感じでしたね」
「焼け跡に田舎も都会もないだろう」
「それがあるから不思議です」
「そうかい」と、今日の先輩はやけに素直だ。
「焼け跡に闇市が出来れば都会、その他は田舎。つまり自給自足
ですね」

私の言う「終戦後」とは敗戦の影響を色濃く残していた1952年ごろまでのこと。言い換えれば連合国占領時代を指す。今回は1947年頃のことだが、空き地は全て畑になった。大きな土地は麦畑。その横を通るとき麦を一口失敬する。もみ殻ごと口に入れて噛んでいると粘々してくる。水道でもみ殻を取り流すとガムのようなものが出来る。これを噛んでチューインガムを楽しんだ。褒められた話ではないがこれも自給自足だと思う。

小さい空き地は野菜畑になっていた。他人の土地でも畑にしてしまうのだ。食料不足は深刻なので空き地の畑作については地主も文句を言わない。我家の前は地元では知られた金貸しの所有する土地だがウチの畑だった。許可を受けていたかどうか子供の私には分からない。たいていの家では卵を得る為にニワトリを飼っていた。一部の家ではヤギやウサギを飼っていたがペットではない。全ては飲食のためである。

極端な燃料不足でトラックの代わりに荷馬車が登場した。都電(路面電車)「青山車庫前」停留所より並木橋方面に延びる道路は「かいせん道路」と呼ばれていたが本当の名は知らない。ともかく舗装された立派な道路だ。のろのろ歩く荷馬車を追い越してカラフルなアメリカの乗用車が颯爽と走っていた。生活水準の差を見せつけられたシーンだ。しかし、道路をパカパカとゆっくり歩く荷馬車は子供たちに人気があった。

「通学のときは荷馬車の後ろにぶら下がるんですよ。御者の小父さんは怒るけどね」
「危ないから注意するんだな」
「馬が疲れるからです。子供でも5人もぶら下がれば重いでしょ」
「なるほど、馬への愛だな」
「凄い剣幕ですよ」

しばらくは楽ちん通学を楽しんだが、結局は怒る小父さんの怒号に恐れをなして止めた。馬が疲れれば弱る。馬は大切な財産だ。失えば自分の生存を脅かさられるから小父さんは全身で怒るのだ。子供になめられるようでは大人も生きていけない世の中だった。

暮らしがが安定して世の中が平和になると、「昔の大人は叱ってくれた」とか懐かしそうに言う人が出て来た。確かにそのような教育的指導をする大人も居たのだろう。それも一つの事実と思うが私の体験とは違う。

私にとってほとんどの大人は怖いだけの存在だった。毎日の「仕事」は親、先生を含めた怖い大人からの攻撃をかわすこと。それに尽きた。そうしなければ弱い子は潰されてしまう。しかし子供も相当悪かった。当時の子供である私は、これを書きながら反省している。

「アンタ案外ズルいんだな」と先輩はズケズケ言う。
 「そうですね。つい逃げたり嘘ついたりしちゃうのです」
 「一緒に仕事をしていたときは正直で真面目な奴と思っていたけどな」
 「仕事用の顔も必要でした。状況が複雑ですから」
 「単純な状況など何処にある?」
 「我家です。子供もとっくに独立して、老人の二人暮しですから」
 「なるほど」
 「攻撃側が1人なら簡単にかわせます。2人なら難しい。3人以上だったら不可能ですね」
 「それで真面目なフリをしていたのかい」
 「仕方がないでしょう。生きる知恵です」
「アンタ案外ズルいんだな」

「それは言わないルールです」
「なんだと?」
「話が元に戻って無限ループに入ってしまいます。お仕舞にしましょう」

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2017年03月11日

合衆国空軍ワシントンハイツ団地

「灰燼に帰した東京に忽然と姿を現した『ワシントンハイツ』へ。私は時空を超えて、その記憶を辿る旅に出た。アメリカ化の原風景−−。すべてはここから始まった」
と秋尾沙戸子さんは新潮社発行の『ワシントンハイツ』に書いている。

「先輩! 決心しました。私も時空を超えて記憶を辿る旅に出ます」
「ああそうかい。行き先はワシントンハイツ。記憶の旅なら運賃も無しか」
「私の原風景がそこにあるのです」
「だけど入ったことないんだろう。受け売りはダメだよ」
「ハイツの住民は外にも出てくるのです」
「ほぅ、国際交流でもあったのかい?」
「まぁ、何と申しましょうか。なにぶん占領下の日本ですからね」

10歳の私は金が無い。楽しみと言えば街をぶらつくくらいだ。宮益坂を歩いて下り右折すると渋谷公会堂がある。そこで無料の浪曲を聞き、少し歩いてワシントンハイツに行く。そして金網にへばりついて中を見る。そこには浪曲とはガラリと変わった夢の世界が広がっている。グリーンの芝生にしゃれた住宅、赤、白、グリーンの乗用車がある。カラフルなシャツとジーンズ姿の少年がエンジン付きの模型飛行機を飛ばしていた。

「少年を見ていると恐怖の体験を思い出しました」
「恐怖とは大袈裟だな」
「殺されるかと思いましたよ。震えて歯がガチガチです」

青山学院中等部辺りの荒れ地で一人で遊んでいたら、突然、鉄棒を持ったアメリカの少年が現れて意味不明なことを叫んで鉄棒を振り回した。恐怖に駆られて逃げ出したら追いかけて来た。全力で走りながら振り返ると姿が見えない。ホッとしていると実践女子大の塀を乗り越え、私の前に現れた。相変わらず鉄棒を持っている。

怖くて逃げると追いかけて来る。何とか振り切って常磐松小学校付近にある馴染みの文房具屋兼駄菓子屋に逃げ込んだ。恐怖に震えて歯をガチガチさせながら「アメリカ人に追われている」と訴えると。文房具屋の爺さんは血相変えて「すぐに出て行け!」と怒鳴った。怖いから出て行かないでいると、爺さんは馬鹿力を出して私を押し出した。

ノートを買うと飴一個オマケしてくれたりして、好いお爺さんと思っていたのだが、アメリカが絡むと態度豹変だ。後で考えれば関わりたくない気持ちも分かる。占領下だから仕方がない。アメリカ人相手では警察も何も出来ない世の中だった。

「ワシントンハイツの話ではなかったのか」
「ハイツの少年がフェンスの向こうで好かったな、と思ったのです」
「なんで?」
「少年は柵の中に居るのです。外に居る私を苛めることはできません」
「情けなくないか」
「動物園で虎を見る人は皆そうでしょう」

ワシントンハイツとは戦後に突如として現れたアメリカン・ドリームの世界。それは渋谷区代々木に建設された合衆国空軍ワシントンハイツ団地(U.S. Air Force Washington Heights housing complex)のこと。明治神宮に隣接したアメリカ村は、終戦1年後の1946年に建設され東京オリンピック開催の1964年に返還された。跡地は整備され、NHK放送センター、代々木公園、国立代々木競技場等に変わっている。

広大な敷地に造られたワシントンハイツの存在が10歳の私の人格形成に大きな影響を与えた。青山学院横の道路を金髪をなびかせた女性が運転する赤いキャディラックが走り、パカパカ歩く荷馬車も通る。極端な燃料不足が荷馬車を復活させたのだ。否応なくその差を見せつけられた。オマケに私たちが住んでいるのは焼けトタンの粗末なバラックだ。

夢と現実が交差する世界で、子供たちは空腹と貧困の現実と戦いながら夢を見た。ジープも小型トラックの様なウエポンキャリアも見飽きた。子供たちの憧れはカラフルなアメリカの乗用車へと変わって行く。今覚えているだけでもフォード、シボレー、ビュイック、キャデラック、スチュードぺーカー等、スラスラと口から出て来る。しかし、貧しい自分が20年後に車を持つ身になるとは想像できなかった。

子供の頃は道路脇で「車種の当てっこ」をして遊んだ。誰が一番先に見つけて車種名を発するか競うのだ。フォードやシボレーはありふれていた。珍しい車をみつけると「キャデラック!」とか思わず大声をあげる。ビュイックやスチュードぺーカーの場合も同様だ。夢は車だが自転車も買えないのが現実だった。

車はもちろん、すべてのアメリカ化はワシントンハイツから始まっている。日本人立入禁止の場所は文明の国、アメリカのショーウインドの役目を果たしていた。極貧の私たちにとっては、決して買えない超高級品のウインドウショッピングをしているような気分だ。夢の世界を前にして腹を空かしていた。遠い異国に憧れた私に出来ることはワシントンハイツの金網にへばりつくことと洋画を観ることだけだった。

「腹がへっているのに映画を観るのか」
と先輩は細かいことを気にしている。
「そんなもんですよ」
「映画観る金で食い物を買えばいいじゃないか」
「いいじゃないの今がよければ。両方できる時もあるんですよ」

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タグ:渋谷
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