2017年04月08日

くさい仲

「C子さんのことは残念だったな」と先輩は前回のことにひと言触れてくれた。
「そうでもないですよ。一つひとつの出会いが今の私をつくったのです」
「そして出来上がったのが音痴で腰痛でハゲのアンタ」
「老化は誰にでも起きる普通のことです」
「音痴もか」
「毎朝、ドーパミンがドクドク出て来るのです。お蔭様で快感や幸福を感じています」

幸せな時は幸せだなあと思う。しかし、不幸なときは目の前の現実と戦うだけだ。諦めて成り行きに身を任せれば死んでしまう。後になって、あの時は苦労したなと思うものだろう。そして死の恐怖から解放されると新たに襲う漠然とした不安に悩まされる。

「人は一生悩むのかと思っていましたが違いますね」
「アンタは奥さんに嫌われているだろう」
「二、三年前まではね」
「嫌われなくなったら、とたんに幸せになったのか。ちょと情けなくないか」
「いいじゃないですか。今が好けりゃ」

話は昔に戻るが、戦後4年もたつと言うのに私は依然として「焼け跡の子」のままだった。近所で唯一のバラックに住んでいることが、とても恥ずかしかった。バラックとは兵舎の意味もあるが焼トタン等の廃材で焼跡に建てられた仮小屋のこと。既に町内からバラックは消えていた。私の家を除いては。

家から1kmくらいの美竹公園近くに、もう一軒のバラックがあった。そこに同級生が住んでいた。山下という名の女生徒はクラスの仲間外れだった。臭いとか言って誰も近寄らないから何時も一人ぼっちなのだ。

私たち二人は同類で同じ臭気を放っていたと思う。長い間風呂に入らず同じものを着ていれば誰でも臭くなる。小学校ではバラックの子であることを必死になって隠していた。後で考えれば無駄な努力をしたものだ。皆知っていたと思う。臭いで分かるのだから。

「なんで今さら昔の話をするんだ」
「自分史を書こうと思って調べていたら、芋づる式に思い出されて来たのです」
「貧乏くさい話は苦手だな」
「それでは渋谷のダンスホール、ハッピーバレーで踊った話をしましょう」
「嘘だろう。俺が北海道育ちだから知らないと思ったら大間違いだぞ」
「そう言えば先輩はダンスの達人ですね。実はそこで奇妙な出会いがあったのです」

あれから10年たち私も二十歳になっていた。遊び人大学生、高橋君の気まぐれな誘いでダンスホールに行った。よりによって渋谷のハッピーバレーとは場違いの所に行ったものだ。入った途端に気おくれがした。ダンスの得意な高橋君は相手を見つけて踊りまくっている。私は一人残されて居心地が悪かった。そのとき白いワンピースを着た女性が壁を背にして一人で立っているのに気がついた。

何となく寂しそうだがこちらを見ている。私にすれば声をかけ易い感じだ。どこかで見たことがある。なんと、10年前小学校で同級だった悪臭プンプンの山下さんさんではないか。二十歳になっても苛められっ子の面影が残っている。声をかけると黙って組んで来た。しかもダンスが上手な人のようにピッタリとくっついてだ。私は何も話さないし、山下さんも黙ってステップを踏んでいる。沈黙に耐えられず一言発した。

「常磐松(小学校)で一緒でしたね」
「覚えていません」
「鉢山(中学)だったかな?」
「………」

孤独で苦しい10年の果てが今の山下さん姿だろうか。渋谷のダンスホールの片隅に一人っきりで立っていた。昔と違ってサッパリした身なりで微かに香水の香りさえする。だけど清潔な感じはしないし、ダンスを楽しんでいる風にも見えない。

二人とも知り過ぎているような気がして何も話さない。知っていることと言えば話題として楽しくないことばかりだ。お互いに話す気がしないのである。共通点はただ一つ、戦後4年もたっているのに、二人だけがバラックに住んで居る子だったということだ。それだけで何もかも分かったような気がした。恐らく山下さんもそう思っているのだろう。

彼女が無口なのは自分のことは誰も分かってくれないと、諦め切っているからだろう。自分の話を誰にも聞いてもらうことなく、あの世に向かって旅立つのだろうか。苦しみを知っている人のみが持つ真実を知っているのに勿体ない。代わりに聞こえてくるのは謙遜というオブラートで包まれている有名人の自慢話ばかりだ。私は真実を知りたいのに真実を語るべき人は押しなべて無口である。

「アンタが渋谷のハッピーバレーとは驚きだな。踊れるのか」
「田舎のダンスホールでは踊っていましたよ。入場料が40円から100円くらいで、何軒もありました。マンボは前後に歩いてクルリと回るだけ。自己流のジルバが好きでした」
「そんなことではハッピーバレーでは通用しないぞ」
「山下さんとは通じるものがありましたよ」
「誰だ? 山下さんって」
「ここに書いたでしょう。臭い仲の人です」
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 在職時代