2018年01月27日

空白の22年間

幼児の私はどんな顔、そして少年の時はどうだったのだろうか? 写真は無いし、見せてくれる人も居ない。ただ零歳時の母子写真1枚だけは大切に持っている。私の存在を示す唯一の物証である。年をとるにつれ、それに続く空白の22年間が気になって来た。

23歳の頃だがアルバムを含む荷物を東京の人に預けて、遥か彼方の北海道へと旅立って行った。預けられた人にとっては迷惑千万な話である。東京の小さな建具屋さんの家で、1階は仕事部屋と夫婦が住む部屋、2階は子供部屋と貸間という間取りだった。暮らし向きは貧しく6畳一間の家賃6000円を生活費のたしにしていたようだ。

やっと定職に就いたばかりの時だが兄と二人で借り、3000円ずつ負担していた。私の月給は1万円余りだから食うのに精いっぱいだった。それなのに兄は部屋を出た。何の前触れもなくある日突然いなくなり何の連絡もない。もちろん家賃も払って行かない。

にっちもさっちも行かなくなり6畳一間の同僚の部屋に転がり込んだ。狭いので生活の為の最小限の荷物しか持ち込めない。他の荷物は大家さんに一時預かりをお願いした。

大家さんにしてみれば間借人が二人そろって、何の価値もない荷物を置いて出て行ってしまったのだ。おまけに預けっぱなしで何十年も何の連絡もない。一方私は目の前の生活に追われて、昔預けた荷物のことなどすっかり忘れていた。

職に就いて20年もたつと生活も安定し昔を懐かしむ余裕がでてきた。そして大家さんに預けたアルバムのことを思い出した。しかし一言の連絡もしないで長い間放置していた。今更ノコノコと行ける訳がない。第一住所氏名も電話番号も知らない。一生懸命探して見つけたとしても、荷物は処分されたかも知れない。

その後もアルバムを見たい思いは募るばかりだ。しかし探して見つかったとしても三日くらい楽しむだけだろう。無い物は貴重に見えるが、手にした途端に普通の物に変わってしまう。あれこれ想像していた方が楽しいかも知れない。

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タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2018年01月20日

米兵がバーで大暴れ

その事件は私が17歳のとき基地の街で起こった。先輩の丸田さん、そして彼が連れた米兵と一緒にスタンドバーで飲んだ時のことである。カウンターに向かって20席ほど並んでいる店内は、7割がた客で埋まっていた。二つ並んで空いている席には丸田さんと米兵が席をとり、少し離れた席に私が座った。

店はママさんとバーテンと若い女性がカウンター越しに客と対応するスタイルで清潔な感じだだった。優しそうなママさんが一人で飲んでいる私の話し相手になってくれた。そのせいで少し飲みすぎた。心地よいモダンジャズの調べと美しい女性。いっそこのまま時間が止まれば好いと思った。

突然怒鳴り声が聞こえた。怒号と共にガラスが割れる音がし、何かが飛んできて我に返った。気が付けば皆立ち上がっている。カウンターの上には灰皿、吸殻、こぼれた水やガラスの破片が散乱している。米兵がグラスや瓶を腕で振り払ったのだろう。

しばらくして米軍憲兵が到着した。店を出ようとしたら、「チョロマテ、ユーとユー」と声がかかり私たちは捕らえられた。憲兵の後ろにはママさんが立っていた。優しいママは鬼婆の形相に豹変、暴力米兵は私たちが連れて来たと憲兵に訴えていた。

顔に当たる風が涼しい。気が付けばジープに乗っていた。丸田さんは日ごろの元気を失いショボクレテいた。酔ってる私はジープに乗って嬉しい気分。基地に連行されるとは思ったが、そこはどんな所か興味津々だったのだ。

ところが、ジープは交番の前で止まり、私たちは警察に引き渡された。警官と憲兵は二言三言交わしただけだった。警官は二人を押し付けられて迷惑だったようだ。「なんでアメちゃんなんかと飲むんだ」と文句を言った。私も一つ上の丸田さんも童顔丸出しなのに歳も聞かれなかった。真っ赤な顔して酒臭いのに気づかない筈がない。忙しいので余分な仕事をしたくなかったのだと思う。いろいろあったが今回もお咎め無しだった。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代(16-23歳)

2018年01月13日

基地の街1957年

酒に弱いのに好きになってしまった。飲んでいたのが次第に飲まれるようになり、そして止められなくなる。時には酒の上での事件に巻き込まれることもあった。

そこは基地の街だった。そして私は17歳の有職少年、今夜も何かいいことないかなと思いながらネオンの巷をうろついていた。小さな街なので職場の仲間に会うこともある。一緒に行こうと誘われたら付いて行く。少年たちの行先は粗末なダンスホール。

小さな街にそんなダンスホールが数軒あった。倉庫の様な建物、民家の地下室等、いろいろだが料金は40円から100円とお手軽だ。フロアの周りにベンチを置いただけの空間は踊る若者であふれていた。敗戦後12年たった1957年、基地の街は日活無国籍アクション映画を地で行っていた。つまり日本なのに日本でない感じだ。

たまには不本意な出会いもあった。「外で食事しない」とか誘われたので奢ったら、帰りの汽車賃が無いと言われて400円貸した。次に会ったときは知らんぷりだ。貸した金は返してもらえると思った私がバカだった。気が小さい私は被害もショボイ。

その夜は誰にも会わなかった。一人でブラブラしていたら前方から若い外国人が近づいて来た。スーツにネクタイ姿だが、頭は服装とはチグハグなGIカットの白人だ。私に向かって拳を突き出した。殴るしぐさに見えたので驚いて立ち止まってしまった。

幸い職場の先輩の丸田さんが偶然通りかかった。彼は外国人に英語で話しかけた。二人とも笑っていたのでホッとした。ひょっとして知り合いかも知れない。丸田さんは英語を勉強していたので外国人によく声をかける。英語を身に着けて基地で働きたいのだ。

外国人は思った通り米兵だった。丸田さんが3人で飲みに行こうと言うのでついていった。行先は当時流行りのスタンドバーだ。基地の街の営業スタイルは、BGMはジャズ、カウンターにはダイスが置いてある。食べ物は出さないが、チーズとかホワイトアスパラの缶詰などはあった。客は日本人だがアメリカ式が好まれていた。

未成年者の飲酒は禁止だが店も客も気にしない。次回に書くが警官さえ気にしていなかった。当時は働いている限りは大人と一緒だと言う空気があった。それに有職少年は沢山いたので店にとっては大事なお客である。それ以前の問題として法律よりも生きることが優先されていた。ところで飲んで酔いが回ったころ事件が起きた。

次回は「米兵がバーで大暴れ」
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代(16-23歳)