2018年09月29日

もうちょい待ってくれ

「働かないアリに意義がある」と言う本がある。働き者として知られる働きアリでも二割程度は働かないと書いてある。なぜか嬉しい。ちなみにアリの成虫は役割に応じて女王アリ、働きアリ、兵隊アリとか分かれているらしい。

ならば音痴のカラオケもアリかなと考えた。つまり歌う会の中にも二割程度なら、歌えない人が居ることにも意義があるとか思えるのだ。一方私は人並みに歌える様になることを夢見ている。同時に夢は夢として横に置くのもいいかなと迷う。普通になる為の努力はモチベーションの維持が難しいのだ。多くの人が三日で諦める。三日坊主とかね。

それでも私は歌い続けている。洋カラ会でただ一人の音痴だが嫌がられたり、疎んじられたりしているような気がしない。私は空気を読む力が弱いのか、なぜか居心地が良い。「這えば立て立てば歩めの親心」で優しく励まされているような気がするのだ。老人力がついてきたのかも知れない。

1曲でも普通に歌える様になりたい(最大30曲が目標だけどね)。暇つぶしと思ったら大間違い。それならドラマを観たり、音楽を聴いたり、小説を読んでいる方が楽しい。私は一日中そうしていても厭きることはない危ない人だ。筋肉が無くなり健康を蝕んでしまう。

毎日が楽しく幸せに暮らしている。これを持続するためには工夫が必要だ。いろいろあると思うが、私の場合は書くとこと歌うこと。両方とも認知症防止になると思っている。それとラジオ体操と散歩。これだけは毎日欠かさずやるつもりだ。

なぜ英語の歌かと言えば好きだからだが他の理由もある。音痴だから普通の人の様に歌うことは凄く難しい。英語の歌は口が回っただけでも一歩踏み出せたような気がするから有難い。ところで楽しいだけでは長続きしない。しかし楽しくて健康にも良ければ話は別である。私はこの世でゆっくりしたい。帰らぬ人よ、もうちょい待ってくれ。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75歳以上)

2018年09月22日

カテゴリの説明 〜私の半生〜

カテゴリの説明
老後は穏やかに過ごしたいので事実に基づいたフィクションとした。人物は全て仮名、地名及び学校等機関名は一部仮名、時代だけは正確を心掛けている。

カテゴリ 家幼児時代
戦争から敗戦への激動の時代は、私にとっては激変の時代。国破れても個人の闘いは続く。生命の危険を感じた父は母子4人を残して逃亡、行方不明となる。残された4人は豪邸から焼け跡のバラックに転居。それでも幼児の私は苦しくも淋しくもない。一つひとつの出来事を一コマの絵として記憶していても、なぜか感情を伴っていないのだ。
 
カテゴリ 猫小学時代
小学校に入ってから3年間は金で悩んだが、4年生の時、中学生以上でないと採用されない新聞配達のアルバイトを得た。運がついたのだ。その代わり収入は中学生の半分以下だった。それでも学費の残りで映画も観れたし買い食いもできた。収入を得たら何が何円、何が何円の連続の声、最後に「わー」と叫んで目を覚ます夢を見なくなった。
  
カテゴリ 本中学時代
新聞配達の他に木工所でもアルバイトをした。テレビも電子ゲームも無い時代は、それでも遊ぶ時間があった。図書室と理科実験室のある学校は大好きだった。卒業したら就職するので最後の学校生活を思い切り楽しんだ。今でも友や先生のことを思い出す。

カテゴリ ふらふら求職時代(16-23歳) 
フルタイムの仕事は苦しかった。いろいろな仕事を一生懸命やった結果、肉体労働は無理な体と自覚した。意外にも国家公務員試験は学歴を受験資格としないことを知った。航空管制官試験は専門科目が英語なので独学も出来そうだ。この時も運がついた。世の中はオリンピック景気に浮かれ、英語が出来るのに安月給の公務員に応募する人は少なかった。後で知ったことだが大学(短大)新卒者は僅かだった。合格者の半数は採用を辞退した。お陰で採用された。

カテゴリ 飛行機定職職時代(24-60歳)
ノロマで不器用では管制官は務まらない。しかし9年間も職を転々としたので、世の中には絶対出来ないことと、我慢すれば出来ることがあることを知っていた。我慢に我慢を重ねて定年まで勤めると決めた。61歳6ヶ月で退職。運よくハッピーリタイアメント!
 
カテゴリ exclamation×2自由時代(61-74歳)
自由になったのだから何でもやってみようと意欲満々だが出来ることは何もない。そこで中島公園に関するサイトを開設した。5年たったら北海道新聞のコラム「朝の食卓」の執筆依頼があった。「HP中島パフェ運営」として2009年から2年間書いた。文章はろくろく書けないのに運がついた。中島公園についての新聞、テレビ、ラジオ、情報誌等の取材には積極的に応じた。

カテゴリ 眠い(睡眠)後期高齢(75歳以上)
退職後は自由で楽しいので、いろいろやってみた。はしゃぎ過ぎて体力以上に動いたせいで2回ばかり体調を崩して入院した。そこで考えたのが私自身の定年制。75歳定年と決めたが2年遅れて全てのボランティア活動を止めた。既にシルバーセンターのアルバイトも止めていたので、ひたすら駄文を綴りオンチに歌う今日この頃である。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | カテゴリの説明

2018年09月15日

二日間も停電で断水

夜中の三時ごろ地震で起こされた。さっそくラジオをつけたが映像がないと全体像が掴みにくい。道内全域停電とは聞き違いかな? 復旧に1週間と聞いて更にビックリ。情報化の世の中ではあり得ないことだ。「ブラックアウト」と言うそうだ。

我が家の場合電気がないと水道も止まるし電話も使えない。携帯はカバンの中で電池切れになっている始末だ。いろいろあるが問題は水。「中島公園に水飲み場があるよ」とか言ったら、水汲み担当にさせられた。

トイレを流すにはバケツ一杯の水が要る。エレベーターは停止だから4階で好かった。15階だったら大変だ。それでも私にとってはキツイ仕事だ。上から降りる人の気配を感じると踊場で待つ。笑顔で有難うと言ってくれる。疲れたから休んでいるだけなのにね。

試行錯誤の末、2リットルのペットボトルを何本かリュックに入れて背負うのが一番楽なことが分かった。用事を済ませて帰りに水汲みをすることにした。公園でホテルマンに声をかけられた。「手稲から自転車で来たが、この格好では接客は出来ないので裏の仕事をしていた」とかいろいろ話してくれた。顔見知りだが世間話をするのは初めてだ。

こんな日はいろいろな人と会う。今度は同じマンションの住人だ。「一人暮らしでラジオも無い。停電で何も分からず不安だった」と言っていた。今日中に停電も復旧する見込みとか教えて上げた。「いろいろ話を聞いてホッとしました。これから街に行きます」と言うので、地下鉄も市電もありませんと伝えると、タクシーを拾うと言って別れた。

帰りがけに水飲み場に寄った。水は重いので自転車で来る人も多かった。70年前の焼け跡の共同水道を思い出す。こんな時は皆さんの口も軽くなる。焼け跡時代の井戸端会議がよみがえった感じだ。同じ状況に陥った人どうしで愚痴とか言い合った。公園と言う川で水を汲み、マンションと言う山の階段を上る。水道は健在なのに水難民とは電化時代の落とし子だろうか?

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近所の公園の水飲み場には汲みに来る人が次々と。

夜になると、東隣のマンションも南隣のマンションも明かりが点いているのに我が家だけは停電のままだ。何かの間違いと思い外に調べに行った。不運なことに我がマンションは広大な暗闇地帯の角地に位置していたのだ。

暗闇の中に数人ずつの若者グループがアチコチで彷徨うように歩いていた。アジア系の外国人のようだ。ホテルでの連泊を断られた人達と思う。後で知ったことだが中島体育センターでは約170人が7日朝まで一夜を過ごしたと言う。北海道観光を楽しみに来ていたのに気の毒だ。ひょっとして英語なら通じるかも知れないと思い声をかけてみた。

「グラフトヌーン・ハオユ?」
「…………」
暗い夜道で緊張しているようだ。
「テイケリーズィ」
うん、全然通じない。昔からそうだった。

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タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75歳以上)