2018年11月24日

英語9歳の壁

英語の発音が悪いのと音痴は生まれつきと納得していた。しかしRとLを区別して聴けないことが不思議だった。rightもlightも私の脳に入るとカタカナに自動変換されてライトになってしまうのだ。それが日本人として普通なのだと知ったのは最近のこと。「英語9歳の壁」である。理解したわけではないが、皆と同じと思ったら気が楽になった。

ところで、虚弱体質で一番苦しいのは零細企業での肉体労働。比べれば自衛隊は楽だ、万一倒れても病気休暇があるから安心である。しかも1年半の勤務で身体を動かしたのは新隊員教育の3ヵ月だけだった。

専門教育は飛行管理だが、この3ヶ月が一番楽しかった。中学卒業後6年、初めて肉体労働から解放されて前途に希望をもつことが出来た。最初の1ヵ月は英語、教材はアメリカンランゲージコースと言うタイトルで全て英語、ひょっとして米空軍が作成した外国人に教えるための教材だろうか。当時としては珍しく内容の全てが録音されていた。

ブースと呼ばれる教室には最先端の語学練習機がズラリと並んでいた。発音はそこで学ぶのだが、中学で教わった発音とは大きく違っていた。おはよう、こんにちはのグッモーネン、グラフトヌーンはいいとしても、センクサラーッ、ナラローウが、"ありがとう"と"どういたしまして"なのかサッパリ分からない。何回聴いてもそう聴こえる。

教材に一番多く載っている語句だが、私の脳を通すと途端にカタカナに変換される。Thanks a lotは センクサラーッに、Not at allはナラローウと聴きとれる。その頃はRとLの発音を厳しく注意されるので口真似はしたが、聴き分けられなくて悩んでいた。日本人の教官がライトと二回言えばどっちがRか口先を見れば分かるけどね。

最近知ったことだが「英語の音をとらえる力 というのが、実際に9歳ごろから失われていくと言われている」。9歳の壁だそうだ。私が経験した57年前と比べると今は英語環境はかなり違ってきている、壁の無い人、薄い人、いろいろあると思うけど、私の壁は原子炉並みだから英語は入れない。無理して入って来てもたちまちカタカナになってしまう。

訓練中の3ヶ月だけだが朝から晩まで英語漬け、最初の1ヶ月は一般英語、後の二ヶ月は業務用英語。毎日試験はあるし英語、英語で頭はいっぱいだ。それなのにゲートの前には自衛隊反対のデモ隊が押しかけて来て「銃を捨てて働こう」とか叫んでいる。職が無いから入ったのにね。仮に銃を捨てるとしても何処にあるかも知らないのだ。

終了試験も良い成績で終了、いよいよ実施部隊に行くことになった。訓練期間は21歳までの人生で一番楽しい三ヶ月だった。行先はジョンソン基地にあるフライトサービス、そこでは沢山の英語ペラペラ隊員が働いていると聞いていた。私も行って1年もすればそうなれるだろうと希望に胸を膨らませていた。次回のタイトルは「聞いて極楽みて地獄」。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(16-23歳)

2018年11月17日

自衛隊体験記

職を転々し定職に就くのに9年もかかった。行き場がなくて自衛隊に入ったこともある。体験入隊みたいなもので、国民の為には何の役にも立てなかった。今まで内緒にしていたが、自分史のつもりなので包み隠さず全てを書くことにした。話さなかったことも書き易い事から徐々に明かすつもりだ。1年半の間に4か所も転々とした。おまけに任期を全うしない中途退職だから情けない。ともかく運よく食いつなぐことが出来のである。

1960年頃は自衛隊採用難の時代である。積極的に志願する人は少なく、殆どは募集担当者による一本釣りだ。「大型免許も取れるよ」とか言ってね。彼らは人集めに凄く苦労していた。時にはポン引きの疑いで逮捕されたりした。職業安定法違反だそうだ。こんな状況だから虚弱体質の私も採用され、新隊員教育を受けることになった。当時の教育担当者は厳しい訓練をしなければならないけれど、辞められても困るという微妙な立場だった。お陰で三か月の新隊員教育は無事終了した。

次の課程は専門教育だが、再就職に役立てたいと言う私の願いとは異なり飛行管理とかいう世間に無い職種だった。運転適性検査にも合格していたが、英語試験の結果上位15人は否応なく飛行管理に指定された。後になってその必要性がよく分かった。上位といっても後ろの方は20点程度だそうだ。百人以上はいたと思うけれど、中学程度の英語が分かる人は三人もいなかったと思う。あとで一緒に教育を受けてそう思ったのだ。

発足6年の航空自衛隊は教育資料にアメリカ空軍のマニュアルをコピーして使っていた。したがって専門教育終了試験も全部英語だ。5答択一式だから手紙を書く力が無くても受かるし、専門用語をキチンと覚えていれば合格できる程度の部内試験だった。しかしほとんどの隊員は中学の英語もろくろ知らないのだから極めて高いハードルである。

毎日がぺーバーテストから始まる。昨日習ったことは翌日にデイリーチェック、そして週末にウイークリーチェック、月末にマンスリーチェック、教育終了時はファイナルチェック。ファイナルに受かることが唯一の目的で、自衛隊らしい訓練をした記憶はない。私にとっては一番幸せな三か月だった。不器用でノロマだが暗記だけは得意なのだ。それに中学の英語も出来ないけれど英語は大好きなので授業が楽しい。

配属先は飛行管理隊、ここで働くために訓練を受けたのだが実務に就いたら全然ダメだった。仕事は日本各地の米軍基地からのフライトプランを電話で受けるのだが、米兵の英語を聴きながらタイプするのは凄く難しかった。好きな英語で飯が食えると思ったが大間違い。半年たっても出来なかったが、自衛隊はいろいろな職種があるから首にはならない。転属を希望したら直ぐに許可された。出来る人は絶対に放さないのにね。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(16-23歳)

2018年11月10日

瓦礫の街は飢餓の街

仮に人口200万人の札幌市が約500機の大型爆撃機に爆撃されて、市の8割が焼き尽くされて、人口も40万人に減ったとする。それだけでも悲惨だが、戦争が終わり安全になったと思い、焼け跡に1年間で50万人も帰って来たら大変だ。瓦礫の街が飢餓の街になってしまう。敗戦1年後、私たち母子が移住した頃の渋谷はそんな状況だった。

渋谷区のの人口は1940年度256,706人(国勢調査)だったが、太平洋戦争末期、1945年6月の推定人口は46,538人と5分の1以下に激減した。直前の大空襲等で渋谷区の77%が焼き尽くされて瓦礫の街となったからだ。記録によると渋谷区の空襲は全部で12回あったが、被災の大部分は戦争末期の2回の大空襲によるものである。

人口急減の大部分は、家を無くした人々が親類、知人等を頼って区から出て行ったものと考えられる。死者10万人と言われる2ヶ月前の下町空襲に比べると渋谷(山の手空襲)の死者は少なかった。下町空襲でその恐ろしさを思い知ったからだと思う。それに渋谷区内には緑豊かな逃げ場がある。それでも罹災者は5月下旬の2回の空襲だけでも約15万人に達した。以上、渋谷関係の数字は総務省公式ページより引用した。

戦争で急減した渋谷区の人口だが終戦後は急激に増加した。戦後1年間で渋谷区の人口は2倍以上になったと言う。学童集団疎開、縁故疎開、海外からの復員と引揚者等が渋谷に続々と帰って来た。それに何とかなるだろうと思って来た人たちも少なくない。

私たち母子も結婚するつもりで移住してきたし、その後母の兄たち二家族も母を頼って満州等から移住してきた。僅か20坪の土地にバラックを継ぎ足して三家族がひしめき合って暮らしていた。それだけではない。我が家の裏では、どこから来たのは分からない得体の知れない人々が10人以上暮らしていた。渋谷の人口が増えるわけだ。何も無い瓦礫の街の人口が急に2倍になると常に直面するのが食料不足である。

それだけではない。敗戦の1945年から約3年間で物価が100倍くらいになる猛烈なインフレに襲われた。3年後には食料を買うのにも100倍の金が要ることになったのだ。こんな時に常吉さんは肺病に罹り寝込んでしまった。母が用意した建築資金は医療費と食費で瞬くうちに消失した。母はもともと浪費癖があったが、インフレさえなければ全財産を失うことはなかったと思う。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代

2018年11月03日

幼少期の引越し

大船駅は鎌倉市と横浜市にまたがっている。私は横浜で生まれて、鎌倉市に編入される以前の大船町に移住した。4歳になった頃からアメリカ軍による日本本土への空襲が激しくなった。そのため1年に2回も疎開をする羽目になった。しかし、汽車に乗った記憶が全くないのに、疎開先での幾つかの出来事を記憶している。

実父の故郷である栃木の田舎に行ったときは、祖母が赤いフンドシをしているのを見て不思議に思った。2回目の疎開は女中さんの故郷である福島だったが、隣家が空襲で燃えていたのを覚えていた。それから60年後、いずれも記憶違いであることが分かった。

栃木での赤フンについては祖母に先立たれた祖父が食事の世話をしてくれたが、4歳の私は食事の世話は女性がするものと思い込んでいた。福島も空襲ではなく隣家でボヤを出したとの話だった。空襲警報がある毎に森の中に逃げて、蚊帳を吊って過ごした記憶がある。それと結びついて空襲の記憶となったらしい。

しかし、敗戦後の5歳ごろからの記憶は確かだ。初めてトラックの荷台に乗って凄く嬉しかった。極端な燃料不足のためバスは木炭車になり荷馬車も復活した時世なのに、トラックで引越しとは豪勢だ。空襲被害の無い大船から殆ど焼け跡の渋谷に引っ越した。行先はホームレスの仮小屋のような焼け跡のバラックだった。

渋谷区は数回の大空襲で77%が焼き尽くされた。焼けトタンのバラックの他、被災者は廃車となったバスとか、出来る限りの工夫をして雨風を凌いだ。安普請ながら木造の新築も建っていた。極端な食料不足が全ての空き地を畑に変えた。飢餓の時代だが金さえあれば飢えることはない。そして母は食べるには充分以上の建築資金を持っていた。

居住環境はどん底だが5歳の私にとっては何処に居ようと飯を食って寝ることに変わりはない。母は三人の子を連れて、後に私の養父となる中波常吉さんと同居した。実父が行方不明では離婚が出来ないから結婚もできない。ただ実父は家を出るときに母子の生活の為に充分な金を残してくれた。

この辺りの事情は生い立ち2−東京へ に書いたのでここでは省略する。さっそく新家族で親戚への挨拶に行った。最初は赤坂で洗濯屋をしている常吉さんの姉の家だが玄関先で帰された。どうもこの「結婚」には反対らしい。次に浅草で魚屋をしている弟のところに行くはずだったが止めた。こうして前途多難な渋谷での暮らしが始まった。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代