2018年11月03日

幼少期の引越し

大船駅は鎌倉市と横浜市にまたがっている。私は横浜で生まれて、鎌倉市に編入される以前の大船町に移住した。4歳になった頃からアメリカ軍による日本本土への空襲が激しくなった。そのため1年に2回も疎開をする羽目になった。しかし、汽車に乗った記憶が全くないのに、疎開先での幾つかの出来事を記憶している。

実父の故郷である栃木の田舎に行ったときは、祖母が赤いフンドシをしているのを見て不思議に思った。2回目の疎開は女中さんの故郷である福島だったが、隣家が空襲で燃えていたのを覚えていた。それから60年後、いずれも記憶違いであることが分かった。

栃木での赤フンについては祖母に先立たれた祖父が食事の世話をしてくれたが、4歳の私は食事の世話は女性がするものと思い込んでいた。福島も空襲ではなく隣家でボヤを出したとの話だった。空襲警報がある毎に森の中に逃げて、蚊帳を吊って過ごした記憶がある。それと結びついて空襲の記憶となったらしい。

しかし、敗戦後の5歳ごろからの記憶は確かだ。初めてトラックの荷台に乗って凄く嬉しかった。極端な燃料不足のためバスは木炭車になり荷馬車も復活した時世なのに、トラックで引越しとは豪勢だ。空襲被害の無い大船から殆ど焼け跡の渋谷に引っ越した。行先はホームレスの仮小屋のような焼け跡のバラックだった。

渋谷区は数回の大空襲で77%が焼き尽くされた。焼けトタンのバラックの他、被災者は廃車となったバスとか、出来る限りの工夫をして雨風を凌いだ。安普請ながら木造の新築も建っていた。極端な食料不足が全ての空き地を畑に変えた。飢餓の時代だが金さえあれば飢えることはない。そして母は食べるには充分以上の建築資金を持っていた。

居住環境はどん底だが5歳の私にとっては何処に居ようと飯を食って寝ることに変わりはない。母は三人の子を連れて、後に私の養父となる中波常吉さんと同居した。実父が行方不明では離婚が出来ないから結婚もできない。ただ実父は家を出るときに母子の生活の為に充分な金を残してくれた。

この辺りの事情は生い立ち2−東京へ に書いたのでここでは省略する。さっそく新家族で親戚への挨拶に行った。最初は赤坂で洗濯屋をしている常吉さんの姉の家だが玄関先で帰された。どうもこの「結婚」には反対らしい。次に浅草で魚屋をしている弟のところに行くはずだったが止めた。こうして前途多難な渋谷での暮らしが始まった。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代