2018年12月29日

ハイドパーク

ハイドパークと言ってもロンドンでもニューヨークでもなく埼玉である。ところで、1945年の終戦後に米軍家族用住宅ワシントンハイツが造られた。空襲で焼き尽くされ、瓦礫と貧困の街となった渋谷区内に、夢のようなアメリカ村が出現したのだ。そこは後にアメリカ文化のショーウィンドウとも言われるようになった。愚かな私が影響を受けない筈がない。

それから5年後の1950年に朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の前線基地となり兵力も大幅に増強された。そのような状況下でジョンソン基地内にハイドパークと呼ばれる住宅地が整備され、124戸の米軍家族用住宅が建設された。日本占領の為にワシントンハイツが必要になり、朝鮮戦争の為にハイドパークが必要となってきたのである。

渋谷区立常磐松小学校時代は貧乏のどん底だったから、豊かなアメリカに憧れた。 渋谷百軒店にテアトルSSと言う、40円で古い洋画を見せる映画館があった。映画を観ての帰りは必ずワシントンハイツに寄った。入ることが出来ない夢の世界を金網越しに見て楽しんだ。グリーンの芝生で遊ぶカラフルな服装のアメリカの子供たちを飽きもせずに眺めていた。そこが映画で観たアメリカの現在風景と思っていたのである。

それから約10年たった1961年、ワシントンハイツと同じようなハイドパークがあるジョンソン基地内の飛行管理隊に赴任した。嬉しかったが制服を着て住宅街をウロウロするわけには行かない。有難いことにアメリカ人用の図書館とかプールは利用することが出来た。図書館では同僚の姿を見た記憶がないので私が勝手に入ったのかも知れない。

日本の古ぼけた図書館とは雲泥の差だ。新しくて綺麗で広々としている。本の貸し出しぶりにも驚いた。金髪の女性が車で来て、両手で抱えられる限りの本を借りて車に積み込むのだ。日本の図書も片隅に少しだけあったが、そこだけは古ぼけていた。人も車も施設もアメリカのものは全てカラフルで美しかったが、日本のものは全てが薄汚れていた。

図書館に入ろうとすると、前からアメリカの少年が来たので遠慮してドアの前で待っていた。少年はドアを開けて開けて「どうぞ」と言って通してくれた。そんなことする日本の子供など見たことないのでビックリした。いい気分にもなったけどね。

基地内を歩いていると車が来たので交差点で待っていると、意外にも車の方が止まった。運転しているアメリカ人は歩くように手つきで促した。後で知ったことだが、道路にはストリートとアベニューの二種があり、車であれ、歩行者であれストリートが優先ということだった。当時の日本社会では車は道路の王様、人の為に止まるなんて考えられなかった。

マナーの違い、ルールの違い等、いろいろあるが、ジョンソン基地の生活で一番の驚きははトイレだった。一言で表現すると大便用トイレに間仕切りがない。横一列に並んでいる6個の大便器が、トイレの両側に向かい合って並んでいるだけ。人と人が向かい合って用を足すのだからやりきれない。これが米軍式かと文化の違いを痛感した。

たった半年しかいなかったが、いろいろ思い出深いジョンソン基地での勤務だった。しかし、飛行管理隊の仕事は英語で躓き、早くから転勤希望を出していた。願い叶って、A編成大隊に行くことになってホッとした。上の人も喜んだことだろう。役立たずを一人出せば、役に立つ可能性のある人を一人受け入れられるのだ。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代(16-23歳)

2018年12月22日

ジャスダフ クリア

21歳の時は米軍家族住宅を含むジョンソン基地内で働いていた。その頃アメリ人の子供らから言葉の暴力を受けて心ならずも危険なことをした。言葉の意味は未だに分からず、折に触れて何だったんだろうと考えることがある。勘違いかも知れない。Jasdf Clear と記憶しているが、私の脳に入ると全てはカタカナに変換されてジャスダフ クリアとなる。

ジョンソン基地で一番の思い出は、10mの飛び込み台から飛び込んだこと。本当に10mあったかは分からない。台から下を見たらそう感じたのだ。夏は時間のある限りプールで遊んだ。水が透き通っていてとても綺麗だから気に入ったのだ。当時の日本のプールは濁っていて汚かった。少なくとも私の利用できる所はね。

このプールに入るのには時間と忍耐力が要る。入れる日本人の数に制限があるからだ。アメリカ人がすいすい入って行くのを横目で見ながら、日本人は炎天下に行列して空きができるのを待たなければならない。それでも入れてくれるから有難い。無料だしね。

プールの中は殆どアメリカ人だった。一番目立つのは子供たちだが、飛び込みが大好きなのだ。一番高い10mも有りそうな4段目から次々と飛び込むのを見て驚いた。鼻をつまんで走りながら飛び込み、空中で足をバタバタさせて足から水に突入するのである。

私は何時も2段目から飛び込んでいたが、少し物足りなく感じていた。4段目に上がって子供たちに大人の飛び込みを見せてやりたいと言う衝動に駆られた。一番高い所に上がると子供たちでいっぱいだ。順番が来て飛び込み台に立ち、下を見るとプールがマッチ箱くらいの大きさに見えた。一瞬、プールから外れたら命はないと思い立ちすくんだ。

後ろからアメリカの子供たちの声が聞こえる。甲高い声で口々に「ジャスダフ・クリア、ジャスダフ・クリア」と叫んでいた。ジャスダフは分かる、Japan air self-defense forceの短縮形でJASDFである。初めて知ったことだが、アメリカ人は航空自衛隊員を纏めてそう呼んでいたのだ。子供たちは生意気にも大人の私に気合を入れていた。

クリアは直感的に「邪魔だ。さっさと飛び込め」との意味と捉えた。慌てて飛び込んだせいか水に入る姿勢が悪い。水面に突っ込むとき下半身に猛烈な痛みを感じ、思わず水中でうずくまってしまった。これでは子供たちのお手本にはなれない。合わせる顔がないので水中でモジモジして時間をつぶした。プールと言っても飛び込み台下あたりは水深5mもある。綺麗なプールは水の中も綺麗に見える。潜るのは大好きだ。

下から見ると大したことないと思うのだが、上から下を見下ろすともの凄く高く感じる。もし子供たちの「ジャスダフ・クリア」がなかったら飛び込まないで梯子でスゴスゴ降りたと思う。無事に終わったから良い経験をしたと思える。怪我をする可能性も半分くらいあったろう。10mから飛び込むと水面には時速50kmで激突するそうだ。痛いはずである。

そのとき私は「どけー」と言われたと思ったが、後で考えると「許可されているから飛び込んでいいよ」と教えてくれたのかも知れない。4段ある飛び込み台は衝突防止のため、飛び込み許可を指示する人がいる。その人がピーと笛を吹き、数字を書いた団扇みたいなものを示す。そこには「4」と書いてあった。その意味は「4段の人、飛び込み支障なし」。クリアは米空軍では許可の意味でよく使われる。いずれにしろ未だに意味は分からない。

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2018年12月15日

飛行管理隊の人たち

フライトサービスと呼ばれていた飛行管理隊での6ヶ月は、苦い思い出が山ほどあった。苦しかったけれど、とても懐かしい。ところで、ジョンソン基地にある秘密の防空壕(名前は知らない)に入るとき、自衛隊員はID番号を伝え米兵が確認し、ドアに付いた鉄棒を引き中に入れる。鉄棒は鍵の役目をしているが幅が1mもある頑丈なものだ。

米兵は単調な仕事が退屈なせいか、愛想よく話しかけてくることもある。時には短いジョークを言って笑わせたりもする。しかし仕事は厳格だ。10人まとまって来ても一人ずつ確認し鉄棒を引いて通してから閉める。これを10回繰り返すのだ。顔見知りならまとめて通せばお互いに楽なのに、そんなことは決してしない。確実第一が徹底している。

話は変わるが、それから2年後に航空管制官試験に合格し、羽田の航空保安職員訓練所(後に航空保安大学校)に入ると顔見知りがいた。私が落ちこぼれた飛行管理隊の先輩だった。思わぬ偶然で机を並べて勉強することになった。嬉しかったが、考えてみれば当たり前のことである。管理隊は転職希望者の巣なのだから。詳細は後述する。

同期生の変わり種としてはラオス空軍のP少尉がいた。なぜ米国より10年以上遅れていた航空管制後進国の日本でという疑問はあった。それはさておき英語で自己紹介をした。簡単な質疑応答もあったが私たちは片言だ。先輩だけはペラペラと話が弾んでいた。管理隊出身者は大したものだと思った。出来る人だったが、研修中に外国のエアラインに受かったとか言って辞めてしまった。管制官は念のための滑り止めだったのだ。

飛行管理隊は他の自衛隊とはだいぶ違っていた。遊ぶことより勉強の方が好きな人が多いのだ。若い隊員の多くは東京にある夜間の大学に通っていたし、中には勤務の都合をつけて昼間の大学に通う者もいた。皮肉半分で「ヤマちゃんは自衛隊はアルバイトだからなぁ」とか言われていた。英語の達者な隊員は貴重だから我儘も通るらしい。

ほとんどの隊員は辞めるための勉強をしていた。話題の中心は再就職のこと。誰が何処のエアラインに入ったとか、あの会社ならテレタイプ職種で入ってもディスパッチャーになる道があるとか云々。酒も女もギャンブルも話題の中心にはならない風変わりな隊だった。

飛行管理隊では新人一人に対して指導役の隊員一人が付く。私の指導役はKさんと言って真面目でで静かな人だった。宿舎で寝台の上に収納箱を机代わりに置き、向き合って座り熱心に仕事のやり方を教えてくれた。そのKさんが自殺したことを知った。再会した管理隊の先輩が教えてくれたのだ。私が仕事に行き詰って転出して間もない頃と言う。

いつも「英会話は経験だ。そのうち慣れるよ何とかなるよ」と励ましてくれた。Kさんは何とかならなかったのだろうか。ふと私の出来が悪いのも一因かな、との思いがよぎった。その頃の私は職場から逃げることだけを考えていた。私を何とかして一人前にしよう、と努力しているKさんのことは何も考えていなかった。困難に遭うたびに、転職・転勤することにより乗り越えて来たつもりだが、傍迷惑だったかも知れない。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代(16-23歳)