2019年01月26日

微妙な子供心

1945年の山の手空襲で渋谷は瓦礫の街になってしまった。復興、復興と叫ばれたが、人々にとって復興とは家を建てること。それが第一歩だ。皆が食費を切り詰めても家を建てようとした。戦後4年もたつと安普請ながら家らしいものが街に並ぶ、その中で我が家だけが焼けトタン作りのバラックのままだった。今風に言えば住宅街の中にポツンと一軒、ホームレス小屋がある感じだ。そこに親子6人が住んでいるのだから驚きの珍風景だ。

小学3年の私には隠して置きたいことが二つあった。バラック住まいであることと原始人のようにパンツをはいてないことである。いくら貧乏でも子供のパンツ一枚ぐらいは用意できる。自分の不幸ばかりを嘆いていて、子供のことなど眼中にないからこんなことになる。

「身体検査はパンツ一枚と決まっているだろ。何でお前だけズボン、はいているんだ!早く脱げ!」と先生は怒る。言えば分かってくれるはずだが、パンツをはいていないことは隠して置きたいのだ。それは絶対に言えないと思ったら、身体がガタガタ震え大粒の涙がぽろぽろ出てきた。子供心は微妙だ。バラック住まいとかパンツも無いとか、隠しようのないことを必死になって隠そうとしていた。本気だったが今思えば滑稽だ。

70年も前のことが忘れられない。とにかく1日も早く働いて金を稼ぎたいと思った。願いは叶って小学4年で新聞配達の仕事にありついた。一人前になったような気がして嬉しかったし誇らしかった。さてパンツの悩みは解決したが、バラックだけはどうにもならない。

戦後4年もたつと貧しいとはいえ、暮らしは落ち着いてきている。多くの人々が倹約に倹約を重ね少しずつ生活を改善していた。しかし我家だけが終戦直後のままだった。戦前の豊かな暮らしが忘れられない母は、復興の掛け声に対応する気力を失っていた。その辺りは生い立ちに書いたので重複をさける為ここでは省略する。

私の人生は物心がついた頃が最悪で、その後は現在に至るまで右肩上がりだ。こんなシアワセな事はない。ところが母は豊かな生活からどん底まで急降下、現実を受け入れ難い気持ちも分かる。私が今、とても幸せに感じているのは母のお陰である。欠けていた親心や感じたことのない母の愛が、少し遅れて草葉の陰から伝わって来たようだ。

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代

2019年01月19日

中島公園探鳥会の思い出

そのころは退職して5年たっていたが張り切っていた。セミのように長い地中生活を辛抱していたが、解き放されて自由の身になったのだ。喜ばずにはいられない。所構わずミーミー鳴いて飛んでいた。60代は何でも見てやろうと言う気持ちでいっぱいだった。

中島公園のホームページ(HP)を開設して3年したら、テレビ、新聞の取材もあり、それをキッカケに地元のラジオで話したり、地元新聞に記事を書いたりしていた。片隅で細々と生きてきた私にとって、世の中は眩しかった。全てはHPが縁なので、何時の間にか「中島公園教」の信者のような気分になっていた。

信者が信ずる神のことを語るように、中島公園について何かを頼まれれば何も考えずに引き受けた。知り合いから中島公園で探鳥会やらないかと言われたときもそうだった。知識も経験もないのにやることにした。私は信者なので出来るか出来ないかとか考えない。失敗を恐れずに精一杯やるだけだ。信者は強いのだ。今考えると懐かしい。私も10年前はやる気満々の人だったのである。

私の知る限り中島公園で探鳥会が開かれたことはないので自分なりに考えた。水鳥を見るには菖蒲池凍結前、そして枯れ木が目立つような季節になれば野鳥も見易くなると思い、2006年11月23日実施とした。ガイドを「旭山森と人の会」代表 皆川さんにお願いし、参加メンバーは山歩きの好きな人、中島公園の好きな人など、総勢8名で9時から約1時間半、皆川さんの案内で菖蒲池の周りを歩き、野鳥観察を行った。

それは探鳥会らしくない賑わいの中で始まった。参加者が元気なのは足だけでなく口の方もだ。騒がしくて野鳥が逃げてしまうのではないかと心配したが、17種に及ぶ野鳥を観察することが出来た。バードウォッチングは始めての人がほとんどだが、もともと自然や山が好きな人達なので、直ぐに馴染むことができた。

バードウォッチングの服装について
野鳥は色に敏感だ。鳥類は色を識別することができる。自然界にない色は野鳥を驚かせることになるので要注意。カーキ色やオリーブ色、レンガ色などのアースカラーがおすすめとのことである。 下の写真中では男性の服装が参考になると思う。

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出会った野鳥はマガモ、カルガモ、ハシブトカラス、ハソボソカラス、ムクドリ、カワアイサ、オオセグロカモメ、スズメ、ヤマガラ、ヒヨドリ、ハクセキレイ、ツグミ、シメ、アカゲラ、ヒガラ、ハシブトガラ、カワラヒワ等17種だった。

1日、しかも1時間半だけで17種も確認できた。1年間ならこの倍以上の種を見ることが出来るだろう。私自身、以上の他、オシドリ、鵜、アオサギはよく見るし、オナガカモ、コガモ、ゴジュウカラ、マヒワ、カワセミ等を見たことがある。オジロワシも1回だけ見たような気がするし、フクロウを見たとの話も聞いた。

実際、探鳥会をやろうとすると、お天気はどうか、野鳥は都合よく現れてくれるかとか気になることは沢山ある。しかし、事前の準備、ガイドの謝礼とか肝心なことは全て抜けていた。何となく楽しい感じで終わったが、もう一度やろうとかの要望はなかったので失敗だったかも知れない。それから9年たった頃から中島公園管理事務所主催で年1回の「都会の野鳥観察会」が開かれている。

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上の画像は中島公園管理事務所のチラシ。私の記憶では2015年が初回で毎年1回の開催。私も参加したことがあるが、準備万端怠りなく、ガイドはもちろん、双眼鏡も用意されている。観察終了後はミーティング、質疑応答もあり有意義な探鳥会だった。今更ながら、なるほど探鳥会とはこのように進めるのだなと感心したり、恥じ入ったりした。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年01月12日

インド通信

1962年当時の東京は空気が汚れているとか言われていた。ところが、気がついたら喘息は出なくなっていた。密閉された地下の穴倉に比べれば、東京の空気は素晴らしく良かったのだ。皮肉にも自衛隊を依願退職をした頃には換気装置も設置され、穴倉も改善された。私の喘息は広く知られていたので人柱の役目を果たしたのかも知れない。

任期を全うしないで1年半で退職、その間に埼玉県北部、愛知県、埼玉県南部、神奈川県と4回も転勤しているので貯金もない。その代わり喘息が出なくなったので前途に希望がわいてきた。アルバイト生活なので無保険だが病気するような気もしなかった。

ともかく辞めて好かった。オリンピックを1年後に控えた東京は空前の好景気だった。ここに居れば何か職が得られるだろうと楽観的になれる。ふと、かっての同僚のことを思い出した。彼は「俺、退職したらブラジルに行くんだ」と熱っぽく語っていた。「そんな遠くに行かなくても東京があるじゃないか」と言いたくなるほど、東京は元気いっぱいだった。

兄の紹介で凄く楽な仕事が見つかった。世界は広いが東京は更に広くて深いのだ。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。短く「インド通信」と呼んでいた。東京支局はインド人の支局長と日本人のアルバイトが二人。日勤と夜勤が一人ずつで私は日勤だった。

支局長は日本語が出来ないが、それで当たり前と思っている横柄な人だ。彼らから見ると日本は英語圏の国なのだ。顔見知りのドイツ人技師も自分は英語が出来るから日本に派遣されたと言っていた。とにかく月給1万5千円ポッキリ、ボーナス諸手当一切なし。ただし業務用に都電全線定期が支給される。私一人養うには充分の金額だ。

中学卒業以来8年間にいろいろ仕事をした中で一番楽な仕事だった。ここで自習して就職の機会を待つことにした。1日24時間の内、実働はせいぜい2時間で残りは全て自由時間の感じだ。一人勤務だから誰にも気兼ねしないで好きなことができる。そして、親類も友人も居ない暮らしは金がかからない。毎月5千円くらいは貯金していたと思う。

定職に就こうとすると、肉体労働以外は殆どの職が受験資格を高卒以上としている。このような学歴社会の中で、国家公務員だけが中卒でも大卒程度の上級職試験も受けられる。もちろん受かるはずはないと思うが、誰もが能力に応じて受験できることが気に入った。慎重に検討した結果、航空管制官採用試験を受けることにした。当時はマスコミ報道で仕事が厳しく給料が低いと知られ、人気が無かったので絶好のチャンスと考えたのだ。この辺りの事情は「運が好かった」に詳しく書いたので重複をさけるため省略する。
タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代(16-23歳)