2019年07月27日

着任したばかりで転勤希望

訓練所でやるのは航空管制官の基礎試験、これに合格しないと現場に行けない。従って、真面目に勉強すれば、最終的には誰でも合格する筆記試験だ。難しいのは現場の実技試験に合格することである。私のように適性のない者にとっては特に難しい。

一番難しい。といってもA空港なら話は別である。仕事そのものが易しいからだ。だからノロマの私でも、何の不安もなく一発で合格した。しかし、合格しても仕事範囲は所属する空港に限定される。これが最大にして唯一の問題だった。

転勤したら新人として、そこで働くための資格を取らなければならない。ノロマの私は危機感を抱いた。管制官と言う仕事は運動選手と同じように適性9割努力1割である。私のような者がA空港に3年も居たら他所では使い物にならないくなる。職を転々とした挙句ようやく就いた安定職場だが、居場所がなくてはやって行けない。

ところで当時、指導的立場にいた先輩管制官は米空軍の訓練を受けてきた。出来が悪いと不適格と決めつけられ、第5空軍司令部経由で本省に連絡が行く。そして職種変更になる。米空軍の現場で認められた人たちだけが管制官になれたのだ。当然、仕事が苦手な人への評価は厳しい。口には出さないがエリミネイトすべきと考えている。eliminateを辞書で引けば、除去する、ふるい落とす、殺す、まである恐ろしい言葉だ。

先輩の苦労話は山ほど聞いていた。A空港にいては、いつまでたっても仕事が覚えられないと、心配になってきた。着任して半年もしないのに、40名の管制官が働くB管制所に転勤希望を出した。所属長に内緒で直接本省に意思を伝えたのだ。マナー違反の感じはするが、背に腹は代えられない。

当時の管制官は忙しい空港だけに配置されていた。A空港は数の上では、かなりの交通量だったが実態は違っていた。スピードの遅い軽飛行機が秩序正しく、整然と離着陸を繰り返す空港だった。空の交通整理を役割とする管制官の必要を感じさせない空港である。

陸上自衛隊の軽飛行機が交通量を押し上げていたのだ。離着陸訓練はタッチ・アンド・ゴーと呼ばれ、着陸したら、直ぐに離陸するので、1機で交通量は2、これが繰り返し実施される。しかも自衛隊と言う組織の中で規律を保ちながらの訓練である。

定期便は1日に3便程度と極めて少なかった。その時は情報を流すだけで、自衛隊機は自主的に離着コースから離れてくれる。仕事は楽だが新人としては凄く焦る。居れば居るほど本当の仕事が分からなくなって来るような気がするのだ。

定年までA空港に居られるのなら熱望するが、そんなことは有り得ない。転勤が遅くなれば年を取り、もともと遅い頭の回転が更に鈍くなる。一刻も早く現状から抜け出したかった。義理と人情を考える余裕はまったくなかった。全部で6人(管制官3人)と言う小さな職場では嫌われて当然だ。その時は、何でみんなでイジメるの、と思っていたけどね(笑)。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2019年07月20日

訓練所から現場へ

航空管制官の一回目の公募は1954年だが、私の応募は、それから10年たった1964年のことだった。航空保安職員訓練所で新規採用者の名前を呼ばれたが、なかなか呼ばれない、少し心配になったが最後に呼ばれたときはホッとした。

卒業の時は最初に呼ばれたが成績順と思う。訓練所の勉強は、暗記が殆どだ。私はノロマだから覚えるのが遅い、その代わり忘れるのも遅いのだ。職を転々とした私は、何回か初任者訓練を受けたが、どこでも訓練中の成績だけが良くて現場に行ったら全くダメ。これを繰り返していた。身体能力が著しく劣っているのだ。音痴もその一つに過ぎない。

仕事の厳しさ、あるいは自信があるのか知らないが、羽田を希望する訓練生が多かった。私は最も不人気なA空港を希望した。人事担当者は「君の成績なら羽田にも行けるよ」と言いながら、ホッとした顔をしていた。不人気官署に、本人の希望に反して押し込むのは大変なのだ。私は愚かにも暇な空港で楽をすれば後で困るとは気付かなかった。

A空港からは「宿舎あり」との連絡が入ってホッとした。給料が安いので、自分でアパートを借りると月給の半分近く持って行かれる。生活費を相当切り詰めないとやって行けない。私に限らず社宅の有無は求職者にとっては最大の関心事だった。

A市に行くと、いろいろメチャクチャなのでビックリした。先ず物価が高い。東京ではラーメンを35円で食っていたのにA市では80円だ。トーフは一丁10円だったのにA市では40円だ。値引きが常識の家電製品は全て定価販売だった。話は戻るが、A空港に着任の挨拶に行った時はビックリした。宿舎があるという話が嘘であることが分かったのだ。

「ところで、宿舎どちらでしょうか?」
「新婚の人が居てね……」
「私が入る宿舎はあるんですか!」
「アンタ独身だろう。宿直室に泊まったらいいよ」

結局、規定の宿直手当ももらわないで、毎日宿直することになった。後で知ったが当時はよくある話。規則なんてあって無いようなもの。そんな状態で得する人も損する人もいる。一種の無政府状態だが、独特の決まりごとがあり何となく仕事はこなされれていた。

数人しか居ない小官署では規則通りやっていては、スムーズに行かないことは分かるけれど、私は馴染めなかった。それに暇過ぎて管制官としての仕事が身に付きそうもない。3年も居たら私のようなノロマは、完全に仕事が出来なくなる。そのことを恐れて札幌への転勤希望を出した。1年半くらいで転勤になったが、そのときもビックリすることがあった。

札幌に着任すると、遅いと言って叱られた。昨日までA空港で働いていたのに何故遅いと言うのか理解ができなかった。結局、A空港から何も聞いてないことが分かった。半世紀以上前のことだが、理不尽な目に遭うといつまでも覚えている。

実は転勤前にA空港でこんなことがあったのだ。
「〇ちゃんが東京から帰ってこないんだよ。帰ってくるまで働いてくれないか?」
「一日の発令ですからダメでしょ」
「いいんだ、いいんだ、発令があっても1ヶ月も来ないヤツもいるんだから。札幌にはちゃんと話しておくから大丈夫。発令日に合わせて慌てて行くヤツなんかいないよ。観光しながらノンビリ行ったらいいんだよ。アッチは40人、コッチは3人だよ。ドッチが困るか考えればわかるだろう。アンタは融通が利かないからダメなんだ」

汽車の旅は退屈なので、上司が仰るようにノンビリと酒を飲み飲み、風景を楽しみながら行った。札幌に着いたときは出来上がっていたが、訓練所で3ヵ月先輩の友人に電話をした。「あんた何処にいるんだ?」と、いきなり先輩の非難するような声。

「札幌駅……」
「直ぐに出頭しな、5日も遅れているのに何の連絡もないと心配しているから」
「汽車で飲みながら来たから酔っているんだ。明日出頭するつもりだ」
「ダメダメ、直ぐに行きな。俺まで文句言われてるんだ」

訳も分からないまま直ぐに事務所に行ったが、それが仇になった。今度来たヤツは凄い酒飲みだ。5日も遅れて来て着任の挨拶とか言っていたが、酒の匂いがプーンとして、顔が真っ赤っかだった。とか誤解されたが、やっとまともな職場に来たと安堵した。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2019年07月13日

六本木ヒルズの原点

六本木ヒルズとか表参道ヒルズとか聞いても私には全く関係のない別世界の話と思っていた。森ビルは高さ330メートルの超高層ビルを建てる計画があり、2022年度の完成時には日本一高いビルになる見通しである。私が森ビルの一室で働いていたのは、4階建てで空調なしのビル。しかも屋上に建てたプレハブ小屋なので、夏はうだる様な暑さだった。

ウェブサイト森ビルの歴史の冒頭に「森ビルの歩みは、今の感覚から言えば比較的小さな、1棟のビル建設からはじまりました」と書いてある。1955年森不動産設立、最初に竣工したのが西新橋2森ビル、1956年のことである。零細な貸しビル会社と思っていたが、66年後には日本一の高層ビルを建てる会社になるのだから驚きだ。

西新橋2森ビルは後に第2森ビルと呼ばれるようになった。その後、森ビルは発展し続け2003年には六本木ヒルズオープン、2018年にMORI Building DIGITAL ART MUSEUM: EPSON teamLab Borderlessオープン となる。この辺りになると私にはサッパリ分からない。しかし、マスコミを賑わす大した不動産会社になったことは間違いない。

航空管制官として札幌管制部で働いていた頃、札幌に整備される予定の「航空路レーダー情報処理システム」の実験システムが出来た。我々田舎の管制官は東京まで見に行った。そこは立派な高層ビルなのでビックリした。第○○森ビルとかの名が付いていたが、ここでも私には全く関わりのない世界と思っていた。

思い返してみると、私が管制官になる前に働いていたのはインド通信であり、事務所は第2森ビルの中にあった。何となく気になるので念のため森ビル 歴史・沿革で検索すると、一番最初のページに私が働いていた第2森ビルの写真が載っていたのでビックリした。

とても懐かしい。6年間も職を転々として苦労が多かったが、ここだけは天国のような働き場所だった。「ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」と書かれていた。

1957年くらいの写真と思う。なんと古い長屋の隣だ。私が勤め始めた1961年でも近所に長屋が残されていた。このあたり一帯は空襲に遭わなかったようだ。4階建てのビルの屋上にプレハブ小屋が建っていて、インド通信を含め3社が入っていた。空調が無いから夏は猛烈に暑かった。

森ビルは屋上にプレハブを建てたりして、地味な商売をしていたが、今は六本木ヒルズ等多数の高層ビルを持つ大不動産会社になっている。ウェブサイト森ビルには「国際的に評価される品質を提供することで外国企業を多くテナントに迎える、という森ビルのオフィス事業の特色も、この賃貸ビル第1号から始まっていました」と記されていた。

偶然にも私は、この賃貸ビル第1号で働いていたことになる。そのことを58年後に知った。大したことではないが無職の爺さんとしては、好い思い出を掘り起こした気分だ。今度は何が出てくのかな。ブログを書くのが次第に楽しみになって来た。
タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代(16-23歳)

2019年07月06日

運が一番努力は二番

中卒以来職を転々として6年もたつと、自分がいかに肉体労働に向かないか分かって来る。職業安定所に行って、給料は安くてもいいから楽な仕事を、と言ったら「楽な仕事なんてない!」と一蹴された。本当はあるのに一々相談に乗るのが面倒なのだ。

ところで、兄の紹介で凄く楽な仕事にありつけた。別に好意からではない。学生だった兄が高い時給のアルバイトに移る為に、私を後釜に据えたのが「インド通信東京支局」だった。

私は英語を使いものになるまで勉強して、苦手な肉体労働から脱出する夢を描いていた。学校に行く金はないから勉強は一人でするつもりだ。仕事は留守番と簡単な配達だけだから信じられないほど楽だった。この状況なら出来るとヤル気もりもり湧いてきた。

インド人の支局長は取材のため出歩き、顔を合わすことは少ない。一人勤務だから時間を自由に使える。気疲れしないし、時間を有効に使える、それに食べるもの以外に金を使う必要がない。その結果、金が貯まれば夜間の英語学校にも行けるだろう。

21歳になっていたけれど勉強するには遅いとか考えたこともなかった。別に大したものになりたい訳ではなく、食えればいいのだ。インド通信のアルバイトでは、先の保証はないし健康保険もない。何とかして定職につかなければならない。

仕事は数か所の配達と留守番だけで月収1万5千円だ。休みはないけれど行く所がないから要らない。一人だから好きなことが出来る。全ての時間を就職試験勉強に使った。お金をもらって広い個室を得たようなものだ。自由に使えるタイプライターまである。

配達は都電に乗って新橋(NHK)、有楽町(朝日新聞)、九段坂(インド大使館)、霞が関(外務省)とまわるだけだから、1時間もあれば充分だ。配達時は単語カードを持って単語を暗記することにした。都電は学生が乗ると満車状態だが立ってても出来る。

事務所の仕事はテレタイプ情報を受けて整理するだけ、電話も客も滅多に来ない。支局長でさえ毎日は来ないし、来ても直ぐに取材に出かけることが多い。机に向かって受験勉強をしていれば、仕事をしているように見える。それが英語の勉強と分かっても、支局長は仕事の為と誤解してくれる。インドでは月収1万5千円は高給取りだそうだ。

有楽町と聞いて思い出すのは、ビルのほとりのティー・ルーム。そこでとった昼食代わりのホットケーキとミルク。美味しくて安いのが気に入って、毎日のように食べていた。中卒以来苦節6年、世の中にこんな楽な仕事があるとは夢にも思わなかった。

楽な仕事は探しても見つからない。運が全てと思う。兄がしていたアルバイトだから詳しい事情を知っていた。だからやる気にになったのだ。使用者は英語しか通じないインド人、一人勤務で休みなしと聞いただけで怖気づく。しかしその実態は、留守番と配達だけだから英語はカタコトで充分だ。人は運さえ好ければ生きられるし、その逆もある。
タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代(16-23歳)