2019年08月31日

挨拶はつらいよ

18年前に郊外の戸建てから都心近くのマンションに転居した。そして家事一切を仕切る、長年の同居人B子から、ゴミ捨て係を命ぜられた。私は真面目に実行した。ある日、B子は「朝の買い物に行くからゴミは持って行ってあげる」と言った。有り難くお言葉に甘えた。

次の日もそう言ってゴミを捨ててくれた、有難い。B子がゴミ捨てする日が次第に多くなり、私はゴミ係から解放されたような気分になってしまった。そして、いつの間にかB子から頼まれた時だけゴミを捨てに行くようになった。

こうしてゴミを捨てに行かない習慣が身についた。それから15年たったある日突然、「アンタは何でゴミ捨てに行かないの。アンタの仕事でしょ」と叱られた。一瞬、何のことかと耳を疑った。考えてみれば私はゴミ係だったのだ。15年も昔のことで忘れていたが確かにそうだ。こうして久しぶりにゴミ捨てを再開することになってしまった。

お安い御用と思っていたのに戸惑った。長い間にゴミ捨て環境は様変わりしていた。昔は顔を合わす皆が挨拶を交わす爽やかで清々しい朝だった。お父さんも、お母さんも、お子さんも例外なし。今は挨拶するか、しないか、顔を合わせるごとに判断を迫られる。これは案外つらい。何の悩みもない静かな生活をしていると、たかが挨拶でも悩みとなる。

15年の年月が住人を変えただけではない。実は、新築のマンションで遭った盗難事件をきっかけにして、住民同士が挨拶を励行するようになったのである。謳い文句は「不審者は挨拶が嫌い」だった。挨拶でお互いに不審者でないことを確認していたのかも知れない。だから事件の影が薄くなるに従って挨拶をしない人が徐々に増えたのだろう。

およそ18年前のことだが、私たちの住んでいる建物は危ないマンションとして知られていた。数か月の間に泥棒に3回も入られ、玄関を飾る大きな額と、ロビーのソファーと豪華すぎるゴミステーションの扉が盗まれた。まるで豪邸の門のような感じの扉だった。もちろん、数年たってからカラスが入れない実用的なものに替えられた。

窃盗事件は雑誌の記事にもなった。その後、防犯対策のための管理組合臨時総会も開いた。そこで生々しい窃盗体験談も聞きいた。不審者は作業服を着て車に乗って来る。掃除用具など持ち、一見運送屋風、堂々と盗むので手遅れになってから窃盗犯と知る。

防犯対策については、監視カメラを設置し、警察の見回りも実施されれることになった。不審者は挨拶が嫌いだから、住民どおしで挨拶を交わすことが大切と再認識した。そのような背景もあって、私がゴミ捨てをしていた当初は挨拶が励行されたが、15年の時の流れで不審者対策の挨拶はすたれ、知人同士の挨拶に変わったのだと思う。愚かな私は転居当時、皆が挨拶してくれるのを無邪気に喜んでいたのである。

家庭の躾のせいか、子供たちが積極的に挨拶し、朝のゴミ捨ても気分よくできた。今では雰囲気もずいぶん変わって戸惑っている。挨拶する人、しない人が入り混じっていると本当に気疲れする。今ではゴミ捨てに行って誰にも会わないと、思わずラッキーとつぶやいている。

●お知らせ:北海道新聞「さっぽろ10区」に「中島公園便り」執筆
管理人は「さっぽろ10区(トーク)」に連載される「中島公園便り」を担当します。
トークは毎週火・金に配達されます。1ヶ月半に一度の予定で書きます。
初回掲載は9月3日(火)です。是非お読み下さい。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75歳以上)

2019年08月24日

さらばA空港出張所

前回書いた事故については後日、週刊誌に「A市上空、恐怖の3時間」と言うような見出しで記事になった。今、忘れ去られているのは死傷者がゼロだったからだと思う。ところで事故直後、若い副操縦士は機長の冷静な対応を興奮しながら称えていた。機長がこの程度のことは戦争中は日常茶飯事だ、と言っていたことを今でも覚えている。

1年余りの勤務だが事故はいろいろあった。着陸に失敗してプロペラ破損、ヘリコプターが低空で浮力を失いドスンと落ちて破損、悪天候で着陸禁止の空港に緊急着陸もあった。雲の切れ目に滑走路が見えたので運を天に任せて着陸を強行したと言っていた。

空港は低い雲で覆われ着陸禁止、雲の中からヨロヨロしながら出てくる軽飛行機を見てビックリした。命拾いしたばかりの人の話を聞くのは、これで二度目である。以後このような経験は一度もない。小さな空港だから興奮冷めやらぬ事故後の肉声を聞けたのだ。

A空港に赴任して1年余りで転勤することになった。私の希望が叶ったのだが、空港出張所の人たちにとっては面白くない事態だった。いくら面白くないと言ってもやってはいけないことがあると思う。その頃、普通免許を取得するために自動車学校に自費で通っていた。私が知らない内に退学手続きがとられていたのである。

着任早々、転勤希望を本省に出していたことがバレたせかも知れない。一種の腹いせと思う。面倒見たのに裏切ったと思われたのだ。私が自動車免許を取りたいと言ったとき、所員一同とても喜んでくれ、全面的に協力してくれた。私は内緒で転勤希望を本省に出していた。しかし、直ぐに転勤できるとは思っていなかった。

同僚たちは空港の普通車を使って実技訓練の手伝いをしてくれたのだ。A市は農業の中心都市だから、私有地の農道で運転している人が、道路でで運転するために自動車学校に来る。実技でモタモタするのは、初めて運転する私ぐらいだ。多くの運転できる小母さんたちが街に買い物等の用事をする為に、免許が必要と考えて学校に来るのである。

小さな職場ではお互いが職種を超えて協力しなくてならない。免許取得者が少なかったので仕事のために取ると勘違いしての協力だった。仕事上の必要から無免許で空港内を運転することは多い。一方私はこんな暇なタワーに居たら、いつまでたっても仕事を覚えられない。万一の失業に備えて免許が必要と考えていた。

本人に断りなしで他人の意向で退学をさせられるなんて、頼む方も頼む方だが受ける自動車学校もどうかしている。ここでは私の常識では考えられないことが起こる。ともかく転勤できて有り難い。新任地で文字通り新人として一生懸命ガンバって仕事を覚える覚悟をした。仕事抜きで安定した生活などあり得ない。仕事、仕事、今度こそ仕事。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2019年08月17日

航空事故3-記者団が抗議

小説とかドラマが好きなのは、フィクションの中にしかない、真実に出会えるからである。一方、私が書くのは自分の曖昧な記憶と直接耳にしたことだけで、事実を示す裏付けが無い。それでも自分が思う真実を伝えたい。それでフィクションというオブラートに包んで語ることにした。根拠のない思い込みで人様に迷惑をかけることは避けたいと思う。

A空港での業務は何から何まで異常だった。一応、A市が管理する空港とはなっていたが、人的にも物的にも体制が整っていなかった。今なら有り得ないけれど、55年も昔のことだから仕方がない。1945年の敗戦で日本の航空業界は既に壊滅していて、再開したと言っても発展途上のヒヨコ程度だった。

元々この空港は緊急着陸に対応できない。故障した航空機が高度を取れなくなり、周囲の山脈を越えられなくなったのだ。当該機が陥った状態は草原に不時着するのに似ていた。ただ滑走路があることと何人かの係員が居ることだけが違っていた。

旅客機が緊急着陸すると言うのに、大きめの消火器を手押し車に載せて一人で滑走路に向かっている人を見た。まるで戦車に向かって竹槍を構えているような感じだ。胴体着陸に対応するには化学消防車が必要である。皆が想定外の出来事に遭遇して、右往左往していた。手に負えなくても何もせずには居られない心理状態に陥ったのである。

A空港出張所は鍵をかけて建物内立入禁止とした。もちろん忙しくて手が回らないことは確かだが、やましいことがなければ記者たちを中に入れても問題はない。見せるのも取材協力だが、見られたり聞かれたくないことがあるから鍵をかけて閉鎖したのである。

結局、正しい情報は東京が先に得ることになり、現地の記者たちは面目丸つぶれになった。後日、現地記者団が抗議のために出張所に押しかけた。そして口々に取材拒否はけしからんといった。

意外にも所長は平然としていた。そして大勢の記者を前にして「あなた方は出張所開設の時、挨拶に来ましたか」と逆質問した。記者たたちはキョトンとしていた。私も挨拶とはこの期に及んで何を言うのかと思った。しかし所長の言うことにも一理あった。

緊急事態で忙しい時は関係者とか記者とかは顔を見て判断している。顔を知らない人を記者と名乗るだけで入れる訳には行かないと、所長は言った。結局、お互いに連携を密にして緊急事態にも対処しようと言う前向きな話になってしまった。意外も意外、こんな言い訳がスンナリと通ってしまったのだ。

本当は事故の痕跡を消したり、口裏合わせなど、いろいろあったが伝聞だ。私が聞いた話が事実とは限らないので具体例を書くことは出来ない。記者団からは更なる追及はなかった。隠蔽の事実を裏付ける情報を持っていないのか、抗議活動が一定の効果を挙げたので良しとしたのか分からない。

大まかな事実関係は一応明らかになったが、具体的な隠ぺい行為は闇の中となった。以上は、今78歳の私が24歳の時、A空港着任二ヶ月の新人の時に遭遇した事故の記憶である。機長の冷静な対応で着陸後火災も起こさせずに死傷者ゼロ、まさに歴戦の機長(旧軍出身)の腕だけが頼りの緊急着陸だった。壊れた機体は後日、解体し撤去された。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2019年08月10日

航空事故2-謎の鍵?

A空港出張所はたった6人、一応無線・通信・管制とか別れているが、清掃、除草、除雪、雑用等何でもこの6人でやらなければならない。この事故にも無い知恵絞って全力で対応した。役に立ったかどうかは別としてね。

警官に野次馬を着陸帯から退去してもらいメデタシ・メデタシとは行かなかった。管制塔に帰ろうとして、一階の事務所に入ったら、出張所員と知らない人が揉めていた。この所員は体格が好くて頭は短髪で、べらんめえ口調で話すヤクザ風の人だ。

「鍵かけてあったろ。どうやって入った」と、見知らぬ男を問い詰めている。
「開いてたよ。○○新聞の○○だ。事故の取材に来た。所長に伝えてくれ」
「俺が鍵をかけたんだ。開いてる筈はない。出て行け」
と言って記者を押し出してしまった。実はこれが後で問題になる。

「鍵かけたのにな〜」と所員は首をひねってブツブツ言っている。所長は気配りの行き届く人だった。こんな時こそ日頃お世話になっている航空会社にお返しをしなければならないと決心していた。良い意味でも悪い意味でも家族的、お世話したり、してもらったりの関係である。法令が介入する余地はない。それらは表向きの話と考えているようだ。

所長は会社の隠蔽工作に協力する決心をした。事故機は飛び続け、ニュースは全国に刻々と伝えられている。この時点での成り行きは流動的である。つまり隠蔽が成功するか失敗するか分からない。しかし、経験則では成功する確率が高い。全てが明らかにされるとしてもマスコミが騒いでいる今よりも、下火となった頃の方が良いとの判断である。

記者に対応した所員は所長の命令を素直に実行しただけ。所員は30歳近いが現地での新規採用だ。職を転々とした後で、この職に就いて1年もたっていない。こんな事故に遭ったら私同様、何も考えないで上司の判断に従うだけである。

ところで、新聞記者と所員が揉めていた鍵の問題だが、両方とも言い分は正しい。その時は気付かなかったが、鍵を開けたのは私だった。鍵は中からは簡単に開けらるが外からは鍵を持っていない限り開けられない。

言うまでもないことだが、所員が鍵をかけた → 私が外に出るために開けた → 記者が入って来た→ 私が帰った時に揉めていた、との順番である。この問題はA空港出張所の取材拒否問題としてマスコミから追及される切っ掛けとなった。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2019年08月03日

初めての航空事故

1964年、A空港着任2ヵ月後、航空事故に遭遇。定期便が着陸に失敗し片側の車輪が破損、片車輪による胴体着陸を決行した。事故機は緊急着陸準備のため空港上空で旋回飛行を続けた。長時間の上空飛行で事故を知った沢山の野次馬が車でやってきた。この時代自家用車を持つ人は前任地東京では少しだけ、この地方の豊かさを知った。

大勢の野次馬は立ち入り禁止の着陸帯(安全のため設けられた滑走路周辺地域)に侵入した。管制塔に事故機から無線で要請があった。「危険だから着陸帯に入っている人達を退去させてください。片足で着陸するので滑走路を大きく外れます」。

なぜか、私が状況を知らせて立ち退かせる役目を命ぜられた。新人の私は管制塔に居ても何もできない。ようやく役目を与えられて張り切った。しかし、広大な着陸帯に散らばる大勢の群衆を退去させられる筈がない。愚かな私は、やってみて初めて分かった。

何百人のも野次馬に向かって声を振り絞って「危険ですから下がって下さい」と怒鳴っても何の反応もない。不思議な顔をして私を見る人がいるだけだ。「この人、気は確かかな?」と思われたらしい。無駄なことだが個別に説得を試みた。

「危険ですから下がってください」
「アンタ誰だよ」
「空港に勤務する管制官です」
「カンセイカンってなんだよ?」
「パイロットが緊急着陸するから危険だと言ってきたのです」
「危険なのは飛んでる方だろ」
「人が邪魔で着陸できないと、あなた方を退去させるように頼まれたのですよ」
「今、飛んでるじゃないか。話せるわけないぺ」
「とにかく、ここは立ち入り禁止です」
「もっと、前に沢山いるだろ。あいつらに言え」

私は普段着、制服も制帽もなくメガホンも、笛も持っていない。第一、訓練も受けていないし、こんな仕事は初めてだ。10人くらいに声をかけたが、クタクタになっただけ、一人も動いてくれなかった。このときは何かあったら私の責任と思って、必死になってやっていた。後で考えれば、本当にやるべきことは何らかの方法で警察に知らせることだ。

機長と交信しながら私に命じた先輩管制官も冷静さを失っている。機長の要請をそのまま見習管制官の私に伝えたのだ。交信は一緒に聴いているから分かる。電話もインターフォンも少人数では対応できない。すべては話し中だ。周囲はテンテコマイで何も機能していない。先輩は警官への伝令として私に命じたのかも知れない。私だってそのくらいの知恵はあるが、現場に行くと警官が一人も見えないのだ。

疲れ果てた頃、警官が何人か来た。ピーと警笛を吹いてメガホンで「ここは立ち入り禁止、あそこまで下がりなさい」といって、警棒で行先を示すと、近くの人達が下がり始め、その後はゾロゾロと付いて行った。警官は予め機長の要請を聞いているようだった。

警察に知らせるべき人は、私たちの他に、航空会社、市役所(A空港の管理者)、主な空港使用者である陸上自衛隊等いろいろある。そのうちのいくつかが機能したのだと思う。後で分かったことっだが、ドタバタして役に立たなかったのは私だけではなかった。

九割の関係者は役に立っていなかったと思う。それに緊急着陸の邪魔になった関係者も多かった。一例を挙げれば、街から駆けつけた消防車、滑走路の端で止まって着陸の妨げになっていた。消防車との通信手段がないので無免許の同僚が車を運転して退去させに行った。消防官は着陸した飛行機を後ろから追って消化するつもりだったと言う。

更に事態を拗らした人もいた。そもそもこの空港は人的にも物的にも緊急着陸を支援する体制はなかったのだ。以上は私の朧気な記憶に過ぎない。時の経過と共に記憶は薄くなり、それを補うように想像の部分が増えて行く。結局はフィクションとなってしまった。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)