2019年10月26日

恐怖の金縛り2

恐怖の金縛からの続き
入隊前身体検査に引っかかって、凄く心配したが再検査で合格してホッとした。中学3年の3学期から何故か知らないが坂を歩くと心臓がドキドキして息苦しくなった。そのうち何とかなるだろうと思ったが、体調は悪いままの入隊となった。オマケに毎晩のように金縛りになる。思い余って医務室に行った。

数年も後になって金縛りで死ぬことなんか絶対にないと分かったが、この時は何の知識もなかった。生死の分かれ目と思っていたので医官に一生懸命症状を伝えた。

「寝るとジーンジーンという様な音がして、消灯して寝ているはずなのに、天井が見えるんです。そして心臓を圧迫するような感じがして、体がドンドン下に沈んで行きます。怖くなって隣の人を起こそうとするのですが、体も動かないし、声も出ないのです。懸命に目を覚まそうとするのですがダメでした」
「ああ、そう」
「時計を見れないので正確には分かりませんが、1時間以内に目を覚ましています。毎晩起こるので怖いのですが、治らないのでしょうか」
「大丈夫だよ。気のせいだ。だけど顔色が悪いな」

これでは治るかどうかサッパリ分からない。私は当時「金縛り」とう言葉さえ知らなかった。数か月前から、少しの運動で心臓がドキドキして息苦しくなること、そして毎晩起こる金縛り、この二つは後で考えると別物だが、その時は結び付けて考えていた。これは重病の予兆で死ぬのではないかと恐怖を感じていた。ところが医官は、先入観を持って接していたようだ。こいつはやる気がないと。

数年後に新聞で読んで知ったことだが、金縛りとは5人に一人が経験する、ありふれたことことらしい。私の医務室通いが頻繁なので、多くの教育担当者がいろいろアドバイスをしてくれた。しかし、誰も私の病状を知らないように感じ、恐怖は深まるばかりだった。

自分では入院が必要な生死に関わる重病と思っていた。クビになったら野垂れ死、しかないと思ったので一生懸命医官に訴えた。結局、心臓脚気と診断され入院を命ぜられた。とりあえず命は助かったとホッとしたが、これは大間違いの思い込みだった。続く
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2019年10月19日

恐怖の金縛り

改めて私の生い立ちから振り返ってみたい。5歳の時に終戦を迎えたが、自分は金持ちの子と思い込んでいた。母は仕事で忙しく可愛がられた記憶も、躾を受けた記憶もない。若い女性に面倒を見てもらっていたが、贅沢で我が儘な甘えん坊だった。後で知ったことだが、1946年ごろから複雑な家族関係になっていた。全ては戦争のせいだ

戦後の混乱の中で父親は自分の命を守るため、妻子と生活資金を残して北海道に逃亡した。そして、母は再婚のため三人の子を連れて東京に行った。養父となる人は、渋谷を焼き尽くした「山の手大空襲」で家と妻子を失い、バラックで侘しい一人暮らしだった。母の金で焼け跡に家を建てる計画だったが、彼が肺病に架かり建築資金を失った。

ところで、70歳を過ぎてから勘違いと分かったことがある。それは5歳のとき豪邸に住んでいたと思い込んでいたことである。久しぶりに東京から来た兄に本当のことを聞かされた。母は金持ちの奥様ではなく女子寮の管理人、そして海軍さん相手の宴会を取り仕切って、忙しく働いていたそうだ。今さらの壊された思い出話を聞かされたてガッカリした。

このブログでも隠していたことがある。それは我が家が生活保護を受けていたこと。何とかして保護を受けるのを止めたいので、中学を出たら働くことにした。ただ勉強もしたいと思っていたので、発足2年目の自衛隊生徒に志願した。給料をもらえるから家に送金もできる。4年間勉強して中堅幹部になるそうだが中堅幹部って何だろう?

ところが入隊を前にして体調に異変があった。今までスイスイ歩いていた街中の坂を上るのに、息苦しく感じるようになったのだ。何か変だが自衛隊で鍛えてもらえば治るだろうと楽観していた。これは滅茶苦茶な勘違いだが、14歳の時はそう思った。

赴任地である舞鶴練習隊で、最後の関門たる入隊前身体検査が行われた。肺に陰があり再検査となった。故郷を遠く離れていたので、病気で落ちたら行く所がない。何でもいいから入隊したいと思った。幸い再検査で合格になったが、それからが大変だった。

街中の坂を上がるにも息切れがする私にとっては、毎日が猛訓練のように感じだ。就寝時の金縛りにも悩まされた。金縛りについては何も知らないので、いつも死の恐怖に怯えていた。はっきりと意識があるのに体が動かない、圧迫されて地獄に落ちて行くような感じがするけど動けない。助けを呼ぼうにも口が動かない。最初は突然に強い恐怖、何回も続くと、そのうち来るかもという恐怖、とにかく病気と考えていたので治したいと思った。

金縛りを知ったのは何年も後になってからだ。「本人は目が覚めているのに、身体を動かすことができない。この状態が、完全に覚醒するまで続く。2割の人がこの症状を経験する」と、何かに書いてあった。なんだ5人に一人は経験者か、死ぬと思っていた私はバカだった。しかし15歳の時は真剣に死にたくないと考えた。そして医務室に行った。続く
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2019年10月12日

アンタ暗いね

18年前、中島公園の近くに転居したころの体調は最悪だった。とにかくアチコチが痛い。整形外科に行っても埒が明かないので、マッサージ治療を受けることにした。担当のマッサージ師は目の不自由な若い人で、A子先生と呼ばれていた。腕は確かだが、とにかく よく喋り よく笑う。痛みの緩和が目的だったが、次第に通院が楽しみになって来た。

A子先生はマッサージをしながら、耳だけを傾けてくれそうな気がして、とても話しやすい。つい言わなくてもいいことまで言ってしまう。それに頭のマッサージはないから有難い。私がハゲとは気づかないだろう。思わず話が弾む、この日の話題は家庭の事情である。

「喧嘩したのね。それで、どうしたの?」とA子先生。
「自分の部屋に入って鍵をかけたんです」
「奥さんから逃げたのね」
「P子は攻めて来たりしません。ただ、中で何をやっているのか見られたくなかったのです」
「見られたくないって、何をさ?」

と問われ、ちょっと答えを躊躇した。患者は私一人だが、院長先生も、受付もいる。彼らには聞かれたくない。それで、小さな声でボゾボソと答えると。

「えっえ〜!パソコンで奥さんの悪口書いているって〜! あんた暗いね〜。アッハッ、ハッ、ハ〜、こんなくらい人見たことないよ」
「見えるんですか?」
「手に取るように見えますよ、アッハッ、ハッ、ハ〜」

やれやれ、私の名案もA子先生に豪快に笑い飛ばされた。これを聞いた受付の若い子は一体どう思っただろうか。会計するとき嫌でも顔を合わすから気になる。それにしても何と明るい先生だろう。目の不自由な方は暗いと思っていた私の偏見は吹っ飛んだ。

振り返ってみると、私が先生と同じくらい若かったころは暗かった。高齢になったにも関わらず、今の方が明るい気持ちで日々暮らしている。私自身の性格は変わってないのだから、人の気持ちが明るくなるも、暗くなるも、周囲の状況次第だと思う。

A子先生は目が不自由だが、家族とか友人から良い影響を受けて、明るくて積極的な性格に育ったのだと思う。愚かな私は、さっそく空想にふけった。もし、水も滴るいい男なら、精いっぱい愛嬌を振りまいて、周囲を幸せにしたいとかエトセトラ。

良い影響を与えられる人になった気分で空想をしたが、相変わらず不細工で暗い人のままだ。それなのに何故か楽しい。穏やかで静かな暮らしが性に合っているようだ。

もしはもし もしもよくても もしはもし いつまでももし もしのままゆく
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年10月05日

オペレーションYUTORI

オペレーションYUTORIとか、意味の分からないことを書いて申し訳ない。少し長くなるが説明させて頂きたい。在職中は私が仕事、P子は家事と、明確な分業が成り立っていた。待ちに待った定年退職がやって来た。さあノンビリするぞと喜び勇んだのは束の間。厳しい試練が待っていた。期待に反して、なんだかんだと居心地が悪いのである。

しばらくすると自分の立ち位置が分かって愕然とした。我家はいつの間にかP子に占領されていたのだ。私は知らない内に敗戦国民のような立場になっていた。しかし、こんな現実に負けてはいられない。「家でノンビリ」は長年の憧れである。どうしても譲れない一線だ。創意と工夫で、この戦局を打開しようと決心した。

 「私はこの作戦の必勝を期してオペレーションYUTORIと命名しました」
 「P子さんの尻の下から脱出するのに、作戦とは大袈裟だな」
 「敵を甘く見てはいけません。作戦目標はノンビリした暮らしの確保です」

半年もすると、二人暮らしのコツも身についてきた。「嫌・駄目・出来ない」はご法度。何も一生懸命やることはない。とりあえずは「うんうん、それもいいね」と言っておけばよい。

「仕事を止めたんだから、家事は半々にしようね」とP子。
「うんうん、それもいいね」
別に何時からと言われた訳ではない。「うんうん、いいね」で充分だ。しかし「明日からやって」と言われたら、少々頭を働かす必要がある。

「うんうん、いいね」は決まり文句だから、そのままで良い。難しいのは後半だ。間違っても「出来ない」とは言ってはいけない。そんなこと言ったらお仕舞だ。厳しい訓練が待っている。P子は決して甘くはない、しかも強いのである。

「明日、あさっては予定があるので、3日後からで如何でしょうか」と、とりあえずは先送りする。3日後に同じことを言ってくることはない。P子は忘れっぽいのだ。

もし、忘れずに家事は半々と言ってきたら、どうするんだ? と言うような愚門には、もう三日待ってもらうと答えたい。理由なんて何とでも付けられる。嫌・駄目・出来ないと言わなければいいんだ。こうして、オペレーションYUTORIは成功裏に終了。世間は厳しいけれど我が家は甘い。だから、この穏やかで無思慮な作戦は二人の仲でしか通用しない。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)