2021年06月26日

消えた鯉9--再会

2008年6月23日9時19分、これは私が豊平館前の池で2年半ぶりに鯉を見た日時である。その時なんでこんな所でと不思議に思った。そこはN公園内の池で一番水深の浅い所で、水不足の時に一番先に干上がる場所だった。
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ある日、突然の水枯れ。2009年4月10日撮影

この池で越冬したとは思えない。どこからどうやって来たのだろう。2年前に全滅した筈だが生き残りがいて、10匹が豊平館前の池にたどり着いた? とは考えられない。

誰かが鯉を放流したのだろうか。私は2年間以上にわたり池に生き残りがいないかと、毎日のように確認していた。それなのに一匹も見たことがないのだ。七百回以上は注意深く三つの池を見て歩いた。だから、全滅以前のように鯉が池の底で越冬していたとは信じられなかった。

こんな状況だから、鯉に再び出会って嬉しいと言うよりも不思議でならなかった。全滅の時は何の発表もしなかったので、放流もコソコソと? 思わず邪推してしまった。

2008年6月23日に、突然鯉と再会した時の状況。
朝散歩のとき豊平館前の池西端で沢山の鯉を見た。他の池も見てみたが、急いでいたのでざっと見ただけだ。しかし、S池(一番大きな池)の南西側でも1匹、大きい黒い鯉を見た。一回りすればもっと見れたかもしれない。

12時過ぎに再び行ってみると豊平館前の池に10匹ぐらい居たが、他の池では見られなかった。池は濁っているし、カメラも腕も悪いので全体を捉えることは出来なかった。それでも掲載することにしたのは、この時にこれらの鯉を撮った人は稀と判断したからだ。鯉再会一番乗りかも知れない。

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豊平館前の池、朝散歩の9時過ぎにはもっと多く見られたが、カメラを持っていなかった。

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池が濁っていて見にくいが、拡大してみた。

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近くに来ないと撮れないが、存在証拠写真のつもりだ。

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多い黒い鯉だが濁っていて近くでしか撮れない。

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池の真ん中、動いていたので撮った私は鯉と分かる。

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デンと坐ったオジさんの前あたりに沢山の鯉がいた。

2年以上も居なかった鯉がなぜ姿を現したのか。放流したのを見ていないし、話も聞いたことがない。とても不自然だが、自然にこうなったのかも知れない。

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2021年6月16日現在の豊平館前の池。鯉に再会した2008年から現在まで、鯉が見られるのは豊平館前の池7割、日本庭園の池2割、そして一番大きいS池は、岸から見える範囲が限られるので1割と言う感じだ。生き物の生態は私の理解を超えるので、見たこと思ったことをそのまま書いてみた。
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2021年06月19日

消えた鯉8--推測

後で考えれば、鯉全滅の前兆はあった。2006年初頭、百羽を超えるカモがN公園上空を彷徨っていた。飛んでるカモのせいで薄暗く感じたほどだった。カモ川が氷結して、カモの大群が水場を求め、狂ったように飛び回っていたのだ。

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この異常事態を記憶に残したいと思い、貴重な写真として別に保存した。結局、大事にし過ぎて見失った。手元に残ったのはウェブ用に縮小した画像だけ。1枚の写真に百羽以上写っていたが、縮小したら点になった。一部を切り取ったのがこの画像。やや首長でカモ(マガモ)の特徴が伺える。

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コチンコチンに氷結したカモ川の表面には足跡も見える。

異常事態は新聞社も知ることになり、2枚の写真と共に大きく報道された。「水場消えカモ受難」と言う見出しだった。河川工事の影響で川が凍ったのが原因かも知れない(住民談)と書かれていた。
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画像は2006年1月6日の北海道新聞。参考のため一部分を撮影して掲載。このような事実もあり、私が目にした事実もある。それらを参考に、曖昧な部分は推測して書いてみた。

小さな水場が地下鉄H駅近くのカモ川に残された。そこに群がるカモに気を取られ、S池の底で音もなく進行していた悲劇には、全く気が付かなかった。表面氷結したS池でも水は静かに流れている。流れが止まれば鯉は酸素欠乏死する。工事関係者に生き物についての配慮は、あったのだろうか?
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エサを求めてカモはカモ川の僅かの水場から、地下鉄H駅方面に上って来た。空を飛べるカモには水場とエサを求めて移動する自由がある。一方、氷で閉ざされた池の底では鯉絶滅の危機が刻々と迫っていた。

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温かい時期ならホースで流れる水が少なくても、S池の鯉は生存に必要な酸素を得ることができる。鯉は水面に顔を出し、空気と水を一緒に吸い込むことで酸素を得る。

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しかし、厳冬期になれば話は別だ。果たして、ホース内の水は順調に流れていたか? 鯉全滅の原因は病気等いろいろあるが、当局の説明もマスコミの報道もなかった。2006年春、散歩のオバさんは「酸欠で鯉が皆死んじゃったのよ」と言った。私も2006年と2007年は一匹の鯉も見ていない。

不都合な事実は関係者によって隠蔽される場合も少なくない。人々は大なり小なり、理不尽な事実に遭遇する。それが人知れず消え去ることに、我慢できない。そして、人に話したり書いたりするが、話題が広がることは稀である。殆どの不都合な事実は無かったことにされる。
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2021年06月12日

立入禁止バラの園

言い方変だが60代は無邪気な老人だった。見知らぬ人にも気軽に話しかけた。半世紀ぶりに仕事から解放され幸せいっぱいだから、よそ様も自分のように幸せに見えた。

16年前、道庁でカメラの達人と偶然出会って写真の話をした。達人は立派なカメラで親子鴨を撮っていた。「子ガモは何羽ですか?」と話しかけると「さっきまで6羽だが、カラスにやられて今は5羽」と気軽に応じてくれた。

「カメラ長いんですか」と聞くと、「50年以上やっている」と達人。思わず「家一軒建つぐらい使ったでしょう」と口が滑った。遠い昔だがカメラに凝ったら身上潰すとか言われていた。達人は、こともなげに「写真屋だからな」と言った。聞いてビックリ、プロなんだ。

プロは気を悪くする風でもなく「カメラは空間処理と時間処理だから」とか、難しいことを教えてくれた。そして、「中島公園にはよくバラを撮りに行くよ」とも言ってくれた。

いつも鉄パイプとロープで囲まれているバラが気になっていたので、「中島公園のバラはロープが邪魔じゃないですか」と聞くと「ロープは撮らない、花だけ撮る」と当然の返事が返ってきた。

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中島公園「香りの広場」2004年7月撮影。

「だけど、全体の景観を撮るとき邪魔でしょ」とたたみかけた。すると思いがけない答えが返ってきた。「公園は造園技師が造ったもので、作品にはならんのだよ」と。

私はバラの花壇も景観の一部と思っていた。しかし、写真のプロは作り物の景観など目もくれずバラだけを撮ると言うのだ。流石はプロだと思わず感動した。そして、わざわざプロが撮りに行くのだから、中島公園のバラも被写体として、捨てたものではないのだなと見直した。

2006年4月に札幌市も施設の指定管理者制度を導入、競争入札の結果、公園管理者は代わった。そして、鉄パイプ、ロープ、立入禁止札の三点セットは撤去された。以後、現在に至るまで、バラは何ものにも邪魔されずに、いっそう綺麗に育って、その美しい姿を見せてくれている。
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2012年6月25日撮影、彫刻は「笛を吹く少女」。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年06月05日

八十にして惑わず

60代は若かったと言っても、体力や風采ではなく気分の問題だ。ふと毎月恒例のカラオケ会のことを思い出した。メンバーは女性二人に男性三人の高齢者。そこでは私が最年少だった。周りが私の気分若くしてくれた。

65歳でカラオケを始めた私は温室育ち。年上のお仲間は優しく、下手でも拍手をしてくれる。厳しいことも、お世辞も言わない。評価は一切抜きだから、心地よく歌えるが進歩もない。楽しいから毎月欠かさず参加した。

それでも音痴は楽じゃない。気分よく歌えば必ず恥をかく。この自覚があるから、不動の姿勢で、何とか伴奏から外れないように気を配る。ところが、気分次第で体が勝手に動いたり、喉が勝手に気分を出したりするから困る。

歌っていると、だんだん気分がよくなり、自己陶酔に陥ってしまう。こんなことだけ一人前で情けない。上手ければ、それも好いのだがオンチじゃあダメだ。その場の人たちは、異様な熱唱に違和感を覚える。心ならずも、場の気分を壊してしまうのだ。一瞬にして変わるから怖い。

ある時、突然我に返り恥ずかしさで身が縮んだ。こんなことになったのも、伏線はある。だから余計恥ずかしいのだ。あの一言がなければ、こんなことにはならなかった。

伴奏の合間に「あなた、幾つまで生きたいの」と聞かれて、「あなたが生きている間は生きていたいですね」と思いつくままに答えたら「あら、そんなこと言ってくれて嬉しいわ」と言う。意外な反応に、年甲斐もなくドキドキワクワク。60代は外見はともかく気持ちが若かった。あらゆる束縛から解放され自由になったからだと思う。

なにぶん愛だの恋だのと歌っている最中だから、気分がハイになっていた。声を震わせ身体を波打つように動かしての絶唱だ。皆さんと私との温度差は一挙に開いた。熱い感動と冷たい知らけの二極となってしまったのだ。

「今日は疲れたわ。このへんでお開きにしましょ」のひと言で我に返った。「嬉しいわ」の一言は、一体何だったんだろう。ただの合いの手か? こんな経験を重ねている内に、少しづつ落ち着いてきたと自分では思っている。遅まきながら八十にして惑わず。何をやってもノロマで(^-^;) ゴメン

話変わって中島公園一口メモ
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今は無きポプラの巨木。詳細 → ランドマークの木
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)