2021年07月31日

母と私-2(求めよさらば与えられん)

関東大震災(1923年)で被災した母は、どん底に落ちた。だが25歳ごろからは幸運にも恵まれ、自由で贅沢な暮らしが出来るようになった。以後10年くらいはイソップ寓話のキリギリスのように、歌って楽しく暮らしていたようだ。ところが突然の事件をきっかけに、再びどん底に陥った。しかし、贅沢を知ってしまったらコツコツ働くアリには戻れない。

一方、私は6歳までは経済的には何不自由なく育ったのに、物心がついた頃はどん底だった。以後、浮き沈みはあったが、トレンドとしては右肩上がりの人生だ。特に定年退職後は、幸福度係数が急上昇。入院を三回したものの幸せ状態は持続している。一旦、幸せ本線に乗れば、厳しいことがあっても、直ぐに幸せに戻れることを知った。

母は横浜での豊かで楽しい暮らしが忘れられないのか、どん底に落ちてもキリギリスのままだった。日々の暮らしに困ると、頼る人を近所の奥さんから親戚、子供達へと次々に変えた。そして最終的には、何時もニコニコ笑顔で貸してくれる、金貸しのTさんを頼るようになった。

1960年代に入ると、オリンピックを控え渋谷の土地は急騰したが、戦災復興計画事業で土地は20坪に減らされていた。それでも、2階建てにして下を貸店舗にすれば、家族三人(親妹)充分に食べる収入を得られた。Tさんは母とその家族の生活を豊かにする知恵を、次々と提案してくれた。

ある日、丸ごと貸せば、家賃も三倍も入ると言う有難い提案があり、Tさんは家族三人の為に横浜の郊外に一軒家を借りてくれた。彼は「借金なんか返さなくていいから気楽に暮らしなさい」とも言ってくれた。いろいろあったが、土地はいつの間にかTさんのものとなっていた。

一方、私は働かなければ食えないので、アリの皮を被っているが、本心は母と同じキリギリスだ。職を転々とした後に、憧れの健康保険も年金もある定職に就いた。しかし私はキリギリス、働くことは苦手だ。右肩上がりの人生と言っても、幸せを感じたのは定年退職後だった。

退職したら幸せいっぱい夢いっぱいだが、何かが足りない。歌って踊れなければ、幸せであっても面白くはない。音痴なのに私の心はキリギリス、歌なしでは生きてる気がしない。高齢になって、気が付いたらカラオケをやっていた。一人じゃ面白くないが偶然、カラオケ会と言う場も与えられた。

しかし、踊らなければ、夢は半分しか叶っていない。ところが、手話を教えてくれる人が現れた。しかも歌いながら手話の練習をするのだ。やってみると歌って踊っているような気がして来た。「求めよさらば与えられん」と言うのは本当だった。本来の意味から離れた気持です(^-^;) ゴメン 
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2021年07月24日

母と私-1

母は明るくて社交的で歌が上手かった。それなのに私は陰気な音痴だ。イソップ寓話の「アリとキリギリス」に例えると、私はアリ。そうでなければ食っては行けない。一方、母は食えなくなってもキリギリスのままだった。大したものだと今でも感心している。

母は関東大震災でどん底に落ちてから結婚、直ぐに離婚して横浜で働いていた。その頃、背が低くて丸々としているが、精力的で気前の好い伊吹金吾と知り合い再婚した。彼は外航船でコックをしていて、高収入で留守勝ちだった。母は安定した生活と有り余る暇を手にして、たちまちキリギリスになってしまった。明るく社交的、いつも人の輪の中心にいた。

そして、私たち三人の男子が生まれた。戦争が激化すると夫(私の実父)は、船を降りて海軍関係の会社に就職した。戦後は米軍関係の仕事をするなど、時流に乗って稼ぐ抜け目のない人だった。その後、実父は闇物資を巡るトラブルに巻き込まれ、追われる身となった。母子4人の生活が成り立つ充分な現金を残して、姿をくらませた。

戦後1年たつと、母は縁あって渋谷に行った。三人の子連れで三度目の結婚をしたのだ。ところが、夫(私の養父)が肺病に罹り全財産を失い、どん底生活に陥った。母は10年に及ぶ贅沢な暮らしと、人を使うことに慣れ切っていた。そして、一度キリギリスになったら、二度とアリには戻れない。人を上手に使う人から、人に頼る人へと変わってしまった。

先ず最初に頼ったのが、近所の奥さん方、毎日のように家に呼んでは茶菓でもてなしていた貸しがある。一度は小金を貸してくれても、二度、三度とは行かない。当時、空襲で家を焼かれた、バラック暮らしの人たちの夢は、家を建てることに尽きる。そのため家族全員で懸命に働いて貯金した。ムダ金は1円も無かったのだ。

次に母が頼ったのは海外から引き揚げて来た親戚である。たった20坪の土地に、パラックを継ぎ足して、3家族、17人が暮らすことになった。夜寝ると足の踏み場もない。彼らも家族全員で必死に働いて土地を買って家を建て出て行った。最後の切り札は子供たちだが、これも頼りにはならなかった。

長兄は中卒後、証券会社の給仕なることが決まっていたが、身体検査で肺病と診断され、自宅療養となった。次兄は頭が良すぎて、都立の一流高校に行けと、先生や友人が次々と押しかけて落ち着かない。結局、自分を見失い全ての運に見放され、更にどん底に陥って30代で行方不明となった。

結局三男の私が中卒後、住み込みで働き、月給5,400円の内、4,000円を毎月送り続けた。しかし、これも徒労に終わった。母が最期に頼ったのは親切な金貸しだった。金の悩みは全て解決してくれたそうだ。紆余曲折を経た後、急騰した渋谷の土地は金貸しのものとなった。 続く、
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2021年07月17日

埋められた記憶の穴

前回の「ドウジュンカイの記憶」の続き
2006年私も66歳、報道で「表参道ヒルズ」誕生のニュースを知って驚いた。ドウジュンカイとは何かと言う、長年の謎が解けたのだ。報道では旧同潤会青山アパートの建替事業と言っていた。私の耳に響いたのは同潤会と言う単語である。

6歳の時、意味も分からずに記憶したのが同潤会と分かった。母親が近所の奥さん方とのお喋りの中で、よく口にしていた言葉だ。60年後の今分かったが、私は横浜の同潤会で生まれたのだ。これが同潤会との第一の関りである。

10歳だった1950年、日本は戦後混乱期の5年目。復興は遅々として進まず、我が家はどん底のままだった。必要に迫られて新聞配達をしていたたが、配達区域に表参道が含まれていた。これが同潤会との第二の関りである。

そこには古ぼけて、屋内が薄暗い三階建てのビルが並んでいた。あたり一面空襲で焼かれたが、鉄筋ブロック造の同潤会青山アパートだけは、焼け残っていた。

ネット情報によると「同潤会アパートはそれまでの所有・管理者だった同潤会から東京都に引き継がれ、さらに1950年になると各住民に払い下げられた」。新聞配達をしていたのは、まさにその頃だが、終戦直後の極端な住宅不足は依然として続いていた。

例えば、本来一家族で使うべき部屋に三家族が入居していた。室内にロープを張って、各家族の専有場所を区切っていた。まるで、避難所のような有様だ。配達する新聞は開けっ放しの玄関ドアから入り、ロープ内の購読者に手渡した。

こんなことは、住宅難の東京では珍しいことではなく、我がバラックでも20坪くらいの土地に平屋のバラックを継ぎたして3家族17人が暮らしていた。親戚が満州から引き揚げてきたからだ。親切と言うよりも食って行く為の工夫と思う。

同潤会との関り第三は中学の時だった。同級生が代官山アパートに住んで居たので、度々遊びに行った。終戦後10年くらいたち、庶民の生活もいくらか改善されていた。三階建て6畳4畳半の二室に台所で風呂はない。それでも、6畳くらいのバラックに6人家族で暮らしている私から見れば、夢の様な居住環境だ。

ところで、私が生まれたのは横浜の同潤会。関東大震災を経験した母にとっては、震災からの復興のシンボルであり、新しい夢の世界だ。戦後、バラックに住む身になった母は、繰り返し話しても厭きることはなかった。

そして戦後混乱期のスラムの様な感じの青山アパート。辺り一帯が空襲で焼け野原となったが、そこに残った鉄筋不燃構造の3階建てビル群。界隈唯一の住める場所になったのかも知れない。中は人でいっぱいの感じだった。

1950年から高度成長が始まり、私も中学生になっていた。そのころ出会ったのが代官山アパート。羨ましいほどの高級住宅と思った。今では同潤会青山アパートが、「表参道ヒルズ」に、代官山アパートが「代官山アドレス」に、それぞれが日本の代表的な再開発事例となった。時代と共に移り変わる同潤会は、私の記憶の大きな穴を埋めてくれた。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代

2021年07月10日

ドウジュンカイの記憶

6歳の記憶は曖昧だがドウジュンカイと言う単語は、何回も繰り返し聞いていたので明確に覚えている。その後、時々思い出すが意味は分からない。60年後のテレビ報道で初めて、本当の意味が分かった。そして、いろいろ思い出した。

太平洋戦争前、1940年の渋谷区人口は約26万、それが戦争末期の1945年6月の推定人口は度重なる空襲の影響で約5万へと激減。そして終戦後は一転急増、一年で二倍を超えた。

焼け野原の渋谷で人口が急増。たちまち飢餓の街となった。食料が無いのに人口だけが増えたからだ。復員兵、引揚者、疎開の人たち、そして、何とかなるだろうと流入した人々。私たち母子4人も縁あって、横浜から渋谷にやって来た。

後に私の養父になる表具師、中波常吉は、1945年5月の「山の手大空襲」で妻子を失った。家も店も焼かれた常吉さんは、青山(東京都渋谷区)の焼け跡のバラックで、一人淋しく絶望の日々を送っていた。

一方、実父、伊吹金吾は横浜界隈で、戦前は海軍、戦後は米軍相手に要領よく稼いでいた。ところが運もそこまで。闇物資を巡るトラブルで、追われる身になった。5歳の私には何も分からないが、実父は母子に充分な生活費と家を建てる金を残して逃げ、行方をくらましたと聞いている。

母子、4人は縁あって常吉さんと一緒になった。狭くて汚くて不便なバラック生活が始まったが、渋谷区青山に家を建てるという希望があった。近所は貧しかったが、我が家だけは懐が豊かだった。何時の時代も都会生活は金次第、飢餓の街だがタップリ食って、それなりに楽しんでいた。

養父は働きに、兄二人は学校に行くと、母は近所のバラックに住む奥さん方を呼んで茶菓でもてなし、世間話しを楽しんでいた。小屋は狭いし、幼児の私は一人ぼっちで退屈していた。母たちの話し声だけが耳に入る。お喋りの中で、記憶に残っている言葉がドウジュンカイである。それは横浜にある夢の世界だろうか。ドウジュンカイって何?

バラックは狭く、世間話は全部聞こえたが、近所の奥さんの話は何一つ覚えていない。記憶にあるのは母の話すことだけだった。横浜での優雅な生活の話は、私の朧げな記憶と一致していたからだ。そして、ドウジュンカイの記憶?

場所のことか、遊び場のことか、大人の世界のことか、6歳の私にはサッパリ分からない。その後、小学生、中学生になって関りを持つことになったが、それがドウジュンカイとは知らなかった。それから60年後、テレビ報道でドウジュンカイの本当の意味を知った。--続く--
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代

2021年07月01日

海の日(祝日)とオリンピック

7月19日は海の日で祝日と思っていたが、知らない内にオリンピックで変更になっていた。ところで、今年は温かくサクラが咲くのも親子カモが現れるのも早かった。動植物はそれぞれが独自のカレンダーを持っているようだ。

それに比べると人間は、独自のカレンダーを持たずに、地球規模で決められた同一カレンダーに支配されている。それは一度印刷されたら梃子でも動かない。例え祝日が変わってもカレンダーは変わらない。と思わされる出来事があった。

舌の手術をして10ヵ月過ぎたが、未だに口腔内科に通っている。次回の診察を1ヵ月後の7月19日に予約をした。家に帰ってカレンダーに記入しようとしたら、祝日(海の日)だ。我が家の全てのカレンダーを見ても祝日だった。

さっそく病院に確認の電話をした。「7月19日の予約ですが、海の日です。診察は通常通りですか」。大きな病院なので交換手が出るが、開院を確認するだけだから、直ぐ答えてもらえると思っていた。だが、歯科受付に回された。

歯科受付でも同じ質問をしたが、担当の先生が休んでいるので明日電話してくれと言われた。病院が開院しているか聞いているだけなのに、変だと思った。いずれにしろ、大した手間でもないので翌日に掛けることにした。

翌日に電話をしたら、7月19日当日は開院しているから予約どおり来てくれれば良いということだった。ホッとしたけれど拍子抜けした。「お店開いてますか?」と言うような簡単な質問に答えるのに何で、こんなに手間取るのだろう?

理由を言ってくれたが、それを聞いたら、更にビックリ。7月19日は祝日ではないと言う。まるで狐につままれた思いだ。カレンダーは全部、「海の日」と書いたあるのに!

ネットで調べて、やっと分かった。「今年は『海の日』『スポーツの日』などの祝日が移動し、五輪開会式を挟んだ7月22〜25日が4連休」。それなら、去年の暮れに入手したカレンダーや手帳がなぜ修正されていないのだろうか?

オリンピックの延期が決定したのは、3月下旬の筈なのに何故? 12月に買ったり、銀行などからもらったカレンダーが、半年以上たっているのに修正されていないのだ。

ネット情報では更に次のように書いてあった。「法改正が昨年11月にずれ込み、カレンダーの多くは移動前の情報で印刷されたまま」。理由は分かったが、なぜ法改正が遅れたのかが分からない。知らなかったのは私だけだろうか?

病院の交換手も歯科受付の人も、更に先生も知らないようだった。親切丁寧な先生だから、知っていれば「この日は平日に変わったから大丈夫」とか付け加えてくれたと思う。予約用のパソコンでは既に修正済みだが、元「海の日」とは書いてないだろう。気が付かなくて当たり前と思う。

そもそも、意義ある祝日を移動させるのは良くないと思う。連休を作りたいのなら穴になっている日を「レク休」にすればよい。その上で労働時間全体の問題と捉えて議論すべきと思う。連休を作ることは良いとしても、最初から移動ありきなら安易すぎるかも知れない。
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 16:06| Comment(0) | 80歳以降