関東大震災(1923年)で被災した母は、どん底に落ちた。だが25歳ごろからは幸運にも恵まれ、自由で贅沢な暮らしが出来るようになった。以後10年くらいはイソップ寓話のキリギリスのように、歌って楽しく暮らしていたようだ。ところが突然の事件をきっかけに、再びどん底に陥った。しかし、贅沢を知ってしまったらコツコツ働くアリには戻れない。
一方、私は6歳までは経済的には何不自由なく育ったのに、物心がついた頃はどん底だった。以後、浮き沈みはあったが、トレンドとしては右肩上がりの人生だ。特に定年退職後は、幸福度係数が急上昇。入院を三回したものの幸せ状態は持続している。一旦、幸せ本線に乗れば、厳しいことがあっても、直ぐに幸せに戻れることを知った。
母は横浜での豊かで楽しい暮らしが忘れられないのか、どん底に落ちてもキリギリスのままだった。日々の暮らしに困ると、頼る人を近所の奥さんから親戚、子供達へと次々に変えた。そして最終的には、何時もニコニコ笑顔で貸してくれる、金貸しのTさんを頼るようになった。
1960年代に入ると、オリンピックを控え渋谷の土地は急騰したが、戦災復興計画事業で土地は20坪に減らされていた。それでも、2階建てにして下を貸店舗にすれば、家族三人(親妹)充分に食べる収入を得られた。Tさんは母とその家族の生活を豊かにする知恵を、次々と提案してくれた。
ある日、丸ごと貸せば、家賃も三倍も入ると言う有難い提案があり、Tさんは家族三人の為に横浜の郊外に一軒家を借りてくれた。彼は「借金なんか返さなくていいから気楽に暮らしなさい」とも言ってくれた。いろいろあったが、土地はいつの間にかTさんのものとなっていた。
一方、私は働かなければ食えないので、アリの皮を被っているが、本心は母と同じキリギリスだ。職を転々とした後に、憧れの健康保険も年金もある定職に就いた。しかし私はキリギリス、働くことは苦手だ。右肩上がりの人生と言っても、幸せを感じたのは定年退職後だった。
退職したら幸せいっぱい夢いっぱいだが、何かが足りない。歌って踊れなければ、幸せであっても面白くはない。音痴なのに私の心はキリギリス、歌なしでは生きてる気がしない。高齢になって、気が付いたらカラオケをやっていた。一人じゃ面白くないが偶然、カラオケ会と言う場も与えられた。
しかし、踊らなければ、夢は半分しか叶っていない。ところが、手話を教えてくれる人が現れた。しかも歌いながら手話の練習をするのだ。やってみると歌って踊っているような気がして来た。「求めよさらば与えられん」と言うのは本当だった。本来の意味から離れた気持です(^-^;) ゴメン