2021年08月28日

あたたかきこと

ためらいのなきことなにかあたたかきこと」、ホッとする温かい言葉。朝食後のひととき、私はテレビを観ていた。相変わらずのコロナ禍報道だ。お母さんは新聞を読んでいた。

「私は無職だからいいけど、コロナがまん延する中で働く人は大変ですね」
「アッハハハ〜」
「何ですか、人が真面目に話しているのに」
「全裸の男が現れたけど、マスクしてたんだって」

お母さんは新聞の小さな記事に気を取られて、私の話は聞いていなかったらしい。顔を赤くして、全身で笑っていた。何とか気を取り直して話を合わせた。

「エッ!裸でもマスク、靴は履いてたんですか?」
「リックサックも背負っていたよね」
「どおして?」
「裸だったら電車に乗れないでしょ。アアッハハハ」
まだ、顔を赤くして笑っている。
「近所の人かもしれないでしょ」
「アンタ、常識無いね。裸で近所歩けないよ」
と言いながら笑い続ける。

以前は、家でお母さんが心の底から笑ったのを見たことがなかった。友人と電話で話すときは大笑いするのにね。もちろん、外で友達と会って、笑い転げていることもあると思う。しかし、その場に居合わさない私は知る由もない。

お母さんが家で顔を赤くして心の底から笑うようになったのは、ここ数年のこと。私が絶対服従に徹して、何事にも逆らわないことに決めてからだ。何かとギクシャクしている定年後の二人暮らしを、何とかして変えようと思ったのだ。苦節三年とか言うが、変えるのに十年以上かかった。

二人の世界は対応次第で、天国にも地獄にもなる。遅まきながら自分が変われば相手も変わることを知った。私は意図的だが、お母さんは、ごく自然に手のひらを返すように変わってしまった。幾つになっても分からない事ばかりだが、このような素晴らしい発見もあった。

妻のこと「母さん」と呼ぶ
ためらいのなきことなにかあたたかきこと
(「サラダ記念日」俵万智)
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2021年08月21日

消えた鯉10--私の夢

フィクションとは、一般には「事実でないことを事実らしく作り上げること」 。作り話も、その一つだ。ところで、事実だけに拘ると真実を語れないことがある。

例えば、SP市N公園S池に鯉が初めて放されたのは明治23年(1890年)。それから116年たった2006年の春、池の中の鯉が一匹残らず消えていた。にも拘わらず、当局の発表もマスコミ報道もなかった。

だが私は鯉全滅の一部始終を知っているつもり。しかし、事実とは証明できないので「作り話」として書いた。カテゴリ:フィクションをクリックすると10話まとめて表示される。見たこと聞いたことの隙間は空想で埋めた。

ところで、ここから先は実名表記で書くことにした。事実だけを書くのでフィクションにする必要がなくなった。と言っても私が見た事実であり、思い込みも含まれている。

消えた鯉を再び見たのは、全滅以来2年半ぶりの2008年6月だった。豊平館前の池、西側で約10匹の鯉を見た。
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鯉の全滅は突然だが、現れたのも予告なしだった。

半月ぐらいは、ほぼ同じ場所に居た。その後アチコチで見られるようにになったが、豊平館前の池、西端に居ることが多かった。日本庭園でも見かけたが、菖蒲池ではたまに見られる程度だった。池が大きいので遠くが見えない事情もある。

このような傾向は去年まで続いたが、今年はかなり変わった。菖蒲池で見ることが多くなったのだ。その分、豊平館前で見る機会は少なくなった。次の2枚は菖蒲池で撮影。
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2005年までの鯉は菖蒲池の底で越冬していた。豊平館前の池は水深が浅く越冬できないと思う。全面的に干上がることが、よくあった。動物の生態など殆ど知らないが、この池で鯉が越冬できないことは、池の底を見て分かった。
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2008年以降、一番多く鯉が見られるのがここだった。

ところで、すすきの鯉放流場のことだが、毎冬、鯉を養鯉業者に預けていた。費用も掛かるので、鯉を越冬させるため川の中央を掘り下げる工事をした。
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以後、すすきの鯉放流所の鯉は越冬している。越冬のためには、ある程度の水深が必要なことが分かった。

浅はかな考えだが、今の鯉はいつの間にか2005年以前のように菖蒲池の深い所で越冬するようになったと思う。越冬中は何も食べていないので、池が融けて水温が上がると、鯉はエサを求めて泳ぎまわる。そして行き着いたのが豊平館前の池。ここは行き止まりで、しかもエサがある。濁っていてゴミだらけだから、なんとなくそう考えたのだ。
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鯉は10年以上もエサを求めて池の中を泳いでいる内に、エサはいろいろな場所にあることを学習した。そして、あちらこちらに行くようになったのだと思う。

鯉が2006年の春に全滅したのも事実、2008年6月に再び姿を現したのも事実である。しかし、数が少なくて生息し続けるか心配だ。私の夢は菖蒲池で越冬した鯉が春には産卵をして命をつなぐこと。このような、自然の営みが中島公園で行われれば、素晴らしいと思う。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | フィクション

2021年08月14日

母と私-4(そして妹)

母は三人の子連れで東京渋谷の中波常吉と一緒になった。そして、春子が生まれた。終戦2年後の1947年のことだった。常吉さんはもちろん、年の離れた兄弟も春子を可愛がった。

とは言っても、バラック生まれの貧乏暮らし、惨めな思いも苦労もあったと思う。妹は父親似の小柄な美人に育ったが、真っすぐな人生は歩めなかった。

後になって偶然知ったことだが、妹は中学生のころ深刻な犯罪被害に遭い、これが転落の切っ掛けとなった。十代で二児の母となり、結婚・離婚を繰り返す波乱の人生を送った。それでも病気の父親の面倒を最後まで一人でみていた。

中年になってから年下で実直な、驚くほど良い人にめぐり逢い、二人の娘と共に幸せになった。だが、71歳で亡くなってしまった。人生の前半は苦労と波乱に満ちていた。そして、後半は愛する夫と娘、孫に囲まれて幸せに過ごした。

私は中卒後、地方で働いていたが、3年9ヵ月後に、退職して家に帰り、仕事(経師屋)を手伝うことになった。ところが仕事が忙しいというのは真っ赤な嘘。母は私が退職金や貯金をいっぱい持ってくると勘違いしたのだ。

退職金は旅費で消える程度だし、給料の大部分を家に送金していたのに貯金など出来るわけがない。1年も一緒に暮らせば、母も私がスカンピンであることが分かったし、させる仕事もない。私は母にとっても不要な息子となった。

妹は私が送った金を母がパチンコ代にしたと嘆いていた。この頃になると必要な金は金貸しのTさんから借りていた。妹は私の知らない家庭の事情をいろいろ話してくれた。

15歳のときは家を助けるために外に出たが、20歳のときは自分が生きるために家を出なけばならなくなった。ところで、文無しでも行ける場所がある。それは自衛隊、下着や靴下まで支給される。自分で用意するのはパンツだけでいい。

入隊した、その日から住む所と食事が与えられた。3年満期だから安定職とは言えないが、就職のための免許も取れると聞いた。それに虚弱体質の私は肉体労働が苦手だ。中卒の私にとって自衛隊は、事務的な仕事が出来る唯一の場所と考えた。常識に反するかも知れないが、正解だった。

令和元年に妹から来た年賀状に、次のような添え書きがあった。「この年になり大病し、私たちは変な家族だったから 今、兄の温かい手紙を読んで泣けて泣けて嬉しくて、本当にありがとう。感謝の気持ちでいっぱいです」。

妹の残した最後の言葉は「私たちは変な家族だった」。全く同感、我々家族は変だった。その中で一番人間らしく生きたのが妹だ。全ては優しく真面目、面倒見の良い夫の影響と思う。母の葬儀が滞りなくすんだのも彼のお陰だった。妹は私が少しは変でなくなったと思い、喜んでくれたのだろう。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年08月07日

母と私-3(金貸しのTさん)

ドラマに出て来る金貸しは血も涙もない冷血漢。しかしTさんは違う。何でも親身になって相談に乗ってくれる優しい人だ。母がそう言っていた。ある日、Tさんが母と話し込んでいるのを見たことがある。革ジャンを着てハンチングを被った、浅黒い顔の人だった。何処かで見たことがある。なんと! 中学以来の友人Tのお父さんではないか。

確かTは米屋の息子だった。Tの部屋に遊びに行っても、家族に挨拶をしたことはない。中学時代は礼儀作法を全く知らなかった。だが、店先で何回もお父さんの顔を見たことがある。米屋が米も持たずに我が家に来た。何故だろう。

後から知ったことだが、米屋は副業として金貸しもやっていた。私は中卒後、ほとんど家を出て働いていたので、家庭の事情はほとんど知らない。妹の話によると、金貸しのTさんは、金だけではなく、渋谷の土地を活用して暮らしを立てる知恵も貸してくれたそうだ。

Tさんは借り手の身になって考える、思いやりのある人だった。土地がTさんのものになった後も、私の家族で彼を恨むような人は居なかった。住む家を失っても、良い借家を安く世話してくれたと喜んでいた。

Tさんは相談に応えるという感じで金を貸し、同時に活用の知恵を授け、生活が成り立つように援助した。何回も助け、最終的には担保物件を自分の土地にした。そして、感謝されるのだから大したものだ。10年間も借り手に寄り添ってくれた。これぞ本当のプロ! 米屋は副業かも知れない。

この親にしてこの子あり、息子のTもえらい。彼は大学を出るまで私と付き合ってくれた。中学から、3・3・4年と10年間、私の友人で居てくれた。丁度、母がTさんから金を借りて、土地がTさんのものになる期間と一致する。

私は母がTの父親から金を借りていたことを知らない。そして、母は私がTと付き合っていたことを知らない。だが、T家の父子は全てを知っていたと思う。金貸しとは大変な仕事と思う。10年間も家族が協力して、人間関係を築き信頼を得る。そして、機が熟するのを辛抱強く待つ。トラブルなく目的を達成するためには、知恵も忍耐力も必要である。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般