2021年10月30日

老人になれない事情

時が過ぎるのは早いものだ。明日が来ればもう81歳。自分が老人であることは分かっているし、ヒトとしても生きすぎた。それなのに老人である様な気がしない。何故だろう?

子供の頃に見た老人と違うからかな。その頃の老人は身体の動く限り働いていたし、働けない人は家で静かに大人しくしていた。老人が集団で歌って踊ったりして、遊んでいる有様を見たことがなかった。それなのに、今の私は歌って踊って楽しみたいと思っている。これで良いのだろうか?

10歳の頃から新聞を読んでいたのに、老人の殺人とか傷害、窃盗等の記事を読んだ記憶がない。「荒くれ老人」が増えたのは何時からだろう。その頃の犯罪の主流は若者だった。その若者が老人になって、老人犯罪が増えたのだろうか?

犯罪のような極端な場合は別としても、老人の自覚がないのは何故だろう。60歳の頃は80歳以上が老人かなと思っていた。80歳になったら90以上が老人と感じていた。90になれば95以上が老人と思うに違いない。いつまでたっても自分より年上が老人で切りがない。

最近、老人とは老人には見えない幻のようなものかなと感じている。あるいは自分の顔が見えないから自覚が出来ないのかと思い、手鏡を買って自室に置いた。

「鏡に向かって、これは老人であると言ってみました」
「そうかい」
「英語でティス・イズ・ロージンとも言ってみました」
「ロージンは英語でないぞ」
「カラオケが英語だからロージンだって……」
「発音はキャリ・オゥ・キィだ」
「ともかく、何を言ってもダメでした」

やはり、一人ではダメだ。比較の中で徐々に老人と自覚するようになるのだ。多分、祖父母、両親、子供の三世代で暮らせば、嫌でも老人と感じると思う。しかし、覆水盆に返らず。今になっては遅すぎる。

「どうにかなりませんか?」
「胴はは首から下だ」
「何ですかそれ?」
「島崎藤村は言った。人生は大いなる戦場である」
「意味が分かりません」
「胴が首に繋がっていれば良いじゃあないか
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 80歳以降

2021年10月23日

中島公園で失われた2景観

ある情報によると中島公園内には100種5,530本の樹木があると言う。倒木も植樹もあるが、現状もこの数値に近いと考えられる。時には台風に襲われ樹木が何十本も倒れることもある。それでも、周辺の木々は成長し続けるので、台風被害の痕跡は時がたてば分からなくなる。

ところが、台風や危険木伐採で様変わりした景観が二カ所ある。一つは地下鉄幌平橋駅から行啓通の西に延びている道路のポプラ並木。もう一つは中島公園西側を流れる鴨々川沿い遊歩道のヤナギ並木。共に素晴らしい景観だが消失した。

ポプラ並木は2004年9月8日の台風18号で一挙に倒壊し消滅した。一方、ヤナギ並木は30年以上かかってじわじわと減り、今年も危険木として3本が伐採された。1988年に64本あったヤナギは5本に激減、消滅寸前の状態である。

1.2004年9月8日、台風で消滅したポプラ並木
2001年に中島公園近くに転居して一番気に入ったのが、天を突くように林立する行啓通のポプラ並木だった。残念ながら、台風18号で一挙に倒壊し消滅、今は見る影もない。

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ポプラ並木は台風で全て折れた。そして、伐採された。
画像は公園近くに転居した2001年11月3日に撮影。

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20年たった今は、まるで別な道路の様だ。
2021年10月22日撮影。

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台風第18号で軒並み折れたポプラ並木は後に伐採された。
画像は台風翌日の2004年9月9日に撮影。
過去の詳細はこちらをクリック → 行啓通のポプラ並木

2.じわじわと消滅間近のヤナギ並木
『中島公園百年』 山崎長吉著に次のように書かれていた。「中島橋から川ぶちにシダレヤナギが続く。札幌で一、二といわれるヤナギの街路樹は詩情を誘うに十分なものがある。その数64本。(中略)鴨々川のヤナギは京都の鴨川のヤナギ並木を模して、川ぶちの料亭鴨川(南12条西6丁目)が植えたともいわれている」。転居して11年もたつのに何処の話か分からなかった。読後すぐに現場らしき所に行ってみた。

2012年秋深まる頃だった。川とは鴨々川で、中島橋とは中島公園北西側の入り口に架かる橋。そこから料亭鴨川跡地までは遊歩道になっている。ところが、64本あるはずのヤナギは21本しかない。詩情を誘うに十分な並木は大半のヤナギを失っていた。最早ヤナギ並木とは言い難い状況だ。その後も減り続け、2021年となった今は5本となり消滅寸前である。

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2002年8月にはヤナギ並木もかなり見られた。

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2002年10月2日の台風第21号でヤナギが倒木、その後、危険木と診断された木も伐採された。2002年10月15日撮影

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そして、ヤナギ並木は分断された。並んだヤナギの切り株が侘しい。2002年10月19日撮影

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その後も台風による倒壊と危険木診断による伐採が繰り返された。今年、2021年秋も危険木として3本伐採された。

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危険木はこのように表示される。

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2021年10月4日、かろうじて残ったヤナギ並木だが、右側の一本は危険木と決定され、既に伐採されている。64本あったヤナギは5本に減った。

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中島橋と公園橋の間(日本庭園・豊平館裏)はヤナギ5本、イチョウ5本で14カ所が樹木升のみの状態になっている。画像の両端がイチョウ、その間は樹木升のみ。

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一方、札幌コンサートホール・キタラ裏はほぼイチョウ並木に代わっている。遊歩道の左が鴨々川そしてキタラ。

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以前、倒木したヤナギの跡にヤナギの若木を捕植したことがある。多くを失い、残ったのは左端の一本だけだった。この環境でヤナギを育てる難しさを痛感させる出来事だった。
2012年11月5日撮影。
過去の詳細はこちらをクリック → 鴨々川のヤナギ並木

3.私が考えたこと
詩情豊かなヤナギ並木の復活を願う。と言うのは簡単だが実現は難しい。それでも何とかして復活させて欲しいと思う。元々あったのだから、何らかの方法があると思うのだ。キタラ裏(公園橋、料亭鴨川跡地間)は既に大部分がイチョウ並木に代わっているので、それでいいと思う。

しかし、日本庭園・豊平館裏(中島橋、公園橋間)はイチョウは5本だけ、そしてヤナギが5本、大部分は放置され、樹木升だけが残されている。その数は14カ所、並木にするには十分だ。これは放置しているのでなく、ここにヤナギ並木を復活する方法を真剣に検討しているのかも知れない。

現にキタラ裏には25本のイチョウが、ヤナギの跡に捕植されイチョウ並木になっている。何らかの意図があって樹木升がそのまま残されていると思う。この辺りの風景は国指定重要文化財豊平館、同じく日本庭園内の八窓庵、レトロな街路灯、そして、料亭鴨川が植えたと言われるヤナギ並木で構成される札幌の歴史ゾーン。何とかして復活させようと研究、努力中。私はそう思いたい。

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樹木升に咲く可憐な花はヤナギを待っている?

4.後書き
10年以上前と思いますが、中島公園の歴史を書きたいと考えいろいろ調べました。その結果、私のような素人には無理と思いました。専門知識、知力体力が必要です。私に出来ることは、唯一つ、「記録を残すこと」と考えました。自分が見たことを写真や文章で残すこと。これに尽きると思い、このブログを更新中。よろしくお願いいたします。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年10月16日

為せば成る

カラオケも行けない巣ごもり生活を始めて2年たった。舌癌発病にコロナ禍が追い打ちをかけたのだ。1年半前のことだが医師に癌と言われた。病名が付いた以上は治してもらえると思い、ホッとして「そうですか」と言った。看護師さんが微笑みながら「怖くないのですか?」とささやいた。痛くて飯が食えないのに異常なしと言われる方が怖い。

何であれ、病名を付けてもらうことが快復の第一歩だ。長年、体調が悪くて病院に行っても異常なしと診断され続けた。14歳の時、息苦しくなり、やたらに心臓がドキドキするようになった。それ以来、人並みの動きをすると、息切れがするし疲れが酷い。その状態は現在に至るまで続いている。その為、退職し無職になってとても嬉しかった。

数年は張り切っていろいろやったが、自由な活動といっても、やはり人並みの体力がないと難しいことが分かった。周囲の人に合わせられないと、心ならずも存在自体が迷惑になることがある。いろいろやって、いろいろ楽しんだが、いろいろと疲れた。自由な活動もやっぱりダメだった。

妻は家でゴロゴロしている私に家事をさせようとしたが、出来が悪いので諦めた。その代わり何をしてくれても、嫌味たっぷりだ。憂鬱な状態は十年以上続いたが、発想を変えて解決した。夫婦関係を母子関係に切り替えたのだ。私は子供になってお母さんを尊敬することにした。そして、言葉使いに気を付けて、言うことを聞く良い子になるように心がけた。

ある日、トイレで用を足していると、突然電灯が消えて真っ暗になり、いきなりドアが開いた。そして叱られた。
「臭い! 電気も点けないで何してんの!?」
「ごめんなさい」
と謝った。トイレに入るため、お母さんは電灯を点けるつもりで消したのだ。そして、開けたら私が座っているので驚いたのだろう。良い子を演じている私は、口答えをしない。

こんな対応を三年も繰り返していたら、とても優しいお母さんに変わってしまった。もちろん喜んで私の世話をしてくれる。私は、ことあるごとに「この歳になるまで生きてこられたのはお母さんのお陰です」と言う。体調が何時も良くない私としては、嘘偽り無い本当の気持ちだから素直に信じてもらえる。ちょっと変だが、80歳の母と81歳の子になった。二人暮らしなら何にでも成れる。為せば成る。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年10月09日

内弁慶

内弁慶だから外では弱く、思ったことの千分の一も言えない。趣味はカラオケだが、ほとんど歌えない。ところで、人生は汽車の旅に似ている。本線と支線があり、本線は「悲しみ本線」と「幸せ本線」に分かれている。何れの本線も一旦乗車すると長い旅となる。悲しみ本線に乗っていても楽しいことも嬉しいこともあるが、遅かれ早かれ本線に戻る。

定年退職するまで、悲しみ本線に乗っていた。幸せな時もあったが一時的で、知らない内にに本線に戻ってしまう。何となく不安で悲しい世界に落ち込んでしまうのだ。たとえ良いことや楽しいことがあっても、不幸列車に乗っている限り、不安な気持ちから逃れることは出来ない。

ほぼ退職と同時に幸せ本線に乗り換えた。半年くらいかかったが、自然にそうなった。仕事の束縛から解放されたからだ。一人で街を歩いているだけで自由と幸せを感じた。

ところが高齢になってからの二人暮らしは思いのほか厳しいものだった。顔を合わせれば口喧嘩、いつも私が負けていた。しかし、一旦「幸せ列車」に乗り込めば、嫌なことがあっても一時的、直ぐに幸せ本線に戻ってしまう。

腹がたっても不安はないと言う状態は、どちらかと言えば幸せだ。二人暮らしの相方が不機嫌なので「何かストレスでもあるのですか」と尋ねたら、「アンタがストレス」と明快な答えが返って来た。

これなら解決は簡単と思った。反駁しないで合わせればよい。相手が一人だから簡単なのだ。意見の違う二人に合わせるのは殆ど不可能。三人になれば更に複雑な対応を迫られる。多様な人間が集まる職場では極めて難しいことでも、二人暮らしなら大丈夫。「負けるが勝」で必ず勝てる。

仕事では多数の協力を得て、成果を上げる能力が必要だが、私はゼロだった。だからといって悲観もしていない。今は幸せ列車に乗ってるからね。巣ごもり暮らしは私に向いている。相手が一人なので上手に対応できる。

コロナ禍も収束の方向で、相方も活動開始の気配だ。社会との接点ができると、私に不満を持つかも知れない。相変わらずマグロのように、家でゴロンと横たわっているからね。でも大丈夫、私は内弁慶。しかも幸せ列車に乗っている。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2021年10月02日

過去からの贈り物

定年後に整然とした新興住宅街から山鼻のマンションに転居した。そこは少し破壊されたような感じがする旧市街だった。ふと、空襲で破壊された故郷、渋谷を思い出した。中心街に近い山鼻地区はモータリゼーションの影響で、発展から取り残され、寂れていた。車で買い物をする時代に、ついて行けなくなったのだと思う。

焼けトタンの屋根が、終戦後の暮らしを思い出させた。不揃いの住宅の中に寂しそうに建っていた地味な家。昔住んで居た渋谷のバラックに似ていて、無性に懐かしく感じた。
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1軒だけ変わった家があったが、人は住んで居るようだ。ふと昔のことを思い出した。自分だけが、未だにバラックに住んで居ることが恥ずかしくて、小学同級生にも隠していた。画像には転居したマンションも写っている。近くなのだ。

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曲がりくねった砂利道に辛うじて建っている暗い家、窓が無ければ、昔住んで居たバラックにそっくりだ。当時は嫌で嫌で仕方がなかったが、今になると凄く懐かしい。

バラックに住んで居た10歳頃から、15分ばかり歩いて映画館に通っていた。映画で見る夢の世界に憧れていたからだ。貧乏くさい邦画には全く興味がなかった。新聞配達をして稼いだ金は、夢の世界を見るために全部使った。

新居から15分くらい歩くと映画館があった。在職中いろいろな場所に住んだが、いずれも街から遠い所ばかりだった。歩いて映画を観に行くのは長年の夢だった。
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すすきのにあった映画館、東宝公楽。

渋谷の繁華街に古い洋画を上映する格安映画館があった。そこに週一回、作品が変わるごとに通った。そんな訳で、映画館とバラックに似た家屋が懐かしい。遠い昔を思い出させてくれるのだ。転居後は徒歩15分の位置に東宝公楽があった。

転居して早くも20年たった。あと20年もすれば百歳を超える。僅かに残る未来のことは分からないが、その先にあるものは誰も知らない。しかし、過去については膨大な記録があり、自分の記憶も残っている。一生懸命調べれば新しい発見があるので興味は尽きない。

若い時は現実に続く長い未来について考えていた。今は先が短くて出来ることは僅かだ。その代わり、過去はどんどん増えて行く、過去を考えると、毎日のように新発見がある。

ところで、バラックのような家も映画館東宝公楽も、今はない。このように、過去という素敵な贈り物はどんどん増えて行くから楽しい。現在・過去・未来、含蓄ある順番だ。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降