2021年12月25日

生活習慣は強い

2年間お世話になっている口腔内科の先生から「27日からの入院はキャンセルしました」と言われてホッとした。今年の正月も今までどうりに家で過ごせる。

心配で何も手が付けられなかったと言っても、中島公園散歩とホームページ、ブログの更新は行っている。18年も続けたことは習慣になっているので、自然に体が動くのだ。

全身倦怠感やリンパ節の腫れなどの自覚症状はない。ただ、超音波検査(エコー検査)の結果で異状が見られたので、造影CT検査と悪性リンパ腫・PET検査とかの検査をしたようだ。その結果が曖昧で「切ってみて癌が無かったら困る」と先生は言っていた。それでは私も困る。と言うことで27日からの入院はキャンセルされた。

手術の必要性は1月4日のエコー検査で、癌らしきものが大きくなっているかを見て判断することになった。私の考えでは小さくなっていると思う。退院後6回はエコー検査を受けているが、引っかかったのは今回だけ。たまたま何かが癌風に見えたのではないかと思っている。

今は悩みと言っても深くはない。例えば、歌が大好きなのに音痴で悩む。もの覚えが悪いので「手話の勉強」で悩む。これらと同じ程度だ。おおまかに言えば悩んでいない。

幸い私は幸せ本線に乗っている。小さな悩み事があっても、過ぎ去れば直ぐに本線に戻れる。入院がキャンセルになった今は、一先ず幸せに感じている。来年も今までと同様、静かで幸せな明るい年になると思っている。

ところで、お母さんが珍しく私にクイズをだした。「アタシの今年一番良かったこと当ててごらん」。いきなりそんなこと言われても無理だ。一日三度のご飯の支度をしたり、掃除洗濯ばかりしていて、気晴らしの外出もしていない。どこに良いことがあるのかサッパリ分からない。

「自分のことばかり考えているから分からないんだよ」
「すみません」
「入院がキャンセルされたことでしょ」
「心配してくれてありがとう」
「はぁ?」
「私のことを心配……」
「いろいろメンドクサイんだよ」

なるほど分かった。お母さんにとって食事用意、掃除洗濯は日常の習慣なのだ。そう言えば私の散歩、ウェブサイト更新も毎日の習慣である。誰でも習慣でやっている日常作業以外はメンドクサイものだ。何故か和田弘とマヒナスターズの『潮来船頭さん(作詞:古川静夫)』の歌詞を思い出した。
それでいいんだ いいんだよ
漕いでギッチラコとヨー 泣いている
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2021年12月18日

雨垂れ石を穿つ

世の中は複雑すぎて、自分の力では何もかも思うように行かない。しかし、退職して二人暮らしになれば話は別だ。相方を説得して好きなように生きられる。

相手が一人だから対応が簡単で、効果の確認も正確に評価できる。失敗したら止める。成功したらやり続ける。簡単に言えばこれだけで良い。といっても予め決めなければ、一歩も前に進めないことがある。それなりの覚悟も肝心だ。

決めるべきは、この先一緒に暮らすか離婚するかである。先ず離婚について考えた。宣言、諸手続き、一人暮らし、その他諸々について、三日三晩懸命に考えた。結論は私の様な怠け者には絶対に無理。苦しくても一緒に暮らした方が、より楽でより幸せだ。

このまま一緒に暮らす方が良い。そう決めれば、どう生きるかは簡単に結論が出る。二人で仲良く楽しく暮らす方法を考えて、実行するだけである。

幸い相方はアル中でも薬物中毒者でもない。ギャンブルには興味がなく、浮気もしたことないし、鬱陶しい親戚もいない。お洒落が大好きな浪費家でもない。おまけに物を盗まないし暴力も振るわない。もちろん嫌なところも沢山ある。

自分勝手で我が儘で、私を常識のない人と軽蔑している。しかも、自分本位で人の都合など全く考えない。自分は正しく私が間違っていると主張、私の言い分など絶対に聞かない。

こんな人といかに幸せに、いかに楽に暮らすかを考えた。相方は法令をキチンと守る常識的な人、しかも外面は悪くない。欠点は私に対する態度だけ。これだけを直せば理想的なパートナーになり得る。どうすれば私が幸せになれるか、真剣に考えたら一時間もしないで解決法を思いついた。

結論は簡単だ。自分自身を嫌われている人から、好かれる人に変えればよい。ヒントは大好きな恋愛ドラマの中に山ほどあった。女性に好かれる為に、滑稽なほどの涙ぐましい努力をする。例えば、「男はつらいよ」の寅さんのように。こんなことは人前では絶対に出来ないが、第三者が居ない二人暮らしなら可能だ。楽ちん暮らしは私の夢。やる気満々!

嫌われ者から好かれる人になるには忍耐が必要だ。30年間も嫌われ続けてきたから、好かれる人になるのに15年もかかってしまった。その方法は? 具体的にはこちらをクリックすればリンク一覧 を表示 → タグ/楽しい我家 

まるで、 雨垂れ石を穿つような、忍耐に忍耐を重ねるような作業だった。「終わりよければすべてよし」と思っているが、果たして今は終わりだろうか。考えればきりがない。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年12月11日

公園で出会った二人

定年退職後の十年間は何とも言えない開放感を味わった。嬉しくて楽しくて、全ての人々を友達のように感じていた。そんな気分の時に中島公園のホームページを開設した。それが縁でいろいろな機会に恵まれ、いろいろな人たちと知り合うことができた。Aさんもその一人。ボランティア活動で知り合った絵の上手な女性だった。

ある日、Aさんからメールが来た。少しドキドキしながら開いた。「猫とハーモニカのことだけど、ひょっとして貴方も興味があるかと思ってね。どうもハーモニカではないようです」との書き出しだった。猫ではなく「牧神パン」と書いてあるので違和感を覚えた。正式な彫刻名は「猫とハーモニカ」だし、壊れた耳を修復すればネコそっくりだ。

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中島公園百花園の「猫とハーモニカ」札幌市公文書館所蔵。百花園は廃止され、跡地は「香りの広場」と呼ばれている。耳のある猫の像は写真でしか見たことがない。

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20年前に「香りの広場」で見た時は既に耳が欠けていた。

その後、Aさんがキタラのコンサートに来る機会があったので、開演前に一緒に猫の像を見に行った。
「猫がハーモニカを吹いているように見えますが……」
「ギリシャ神話の神でパンです。パーンとも発音します」
と、Aさんはキッパリと断定した。
「口にくわえているのはハモニカでしょ」
「パンの笛、パンという半獣神が作った笛です」
「そう言えば、胸のあたりが獣っぽいですね」
コンサートの開演時刻も近づいたので、こんな話をしながら短い散歩は終わった。

数日して、Aさんから「中島公園でデートしませんか」とメールが来た。何となくワクワクしたのだが。「……『猫とハーモニカ』のハーモニカは『パンの笛』でした。この楽器は実在しております。何と、パンの笛を自作して演奏をしている方にお会いしました。日曜日午後に中島公園にいらっしゃるそうです。ご都合が良ければ、いらっしゃいませんか」。日時を決めて特定の場所に集まるのもデートなのか。勝手に誤解して恥ずかしかった。

待ちに待ったその日がやって来た。中島公園菖蒲池の看板近くのベンチで話しながら、二人で待っていると、柔らかい笛の音が聞こえてきた。

「パンの笛の音色ですよ。スペイン・カタロニア民謡の『鳥の歌』です」とAさんが言うので、少し歩いて反対側の岸に行ってみると、若い男性が演奏する姿が見えた。初めて聴くパンの笛は素晴らしい。しばらく聴き惚れていた。

その方は竹笛太郎と名乗っていた。アマチュアのパンフルート演奏家で知識は深く、いろいろなことを教えてくれた。「パンの笛」は、世界最古の管楽器で一般的にはパンフルートと言われている。広島で盛んで、日本にもプロの演奏者が10人ほどいるそうだ。

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太郎さんのパンフルート。文字部分を拡大(下)。

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知る人ぞ知る
ヴァイオリンの名器。太郎さんの意気込み、ジョークそれとも偶然の一致。私のハモニカにも書こうかな。

今は中島公園を散歩する程度で、静かに楽しく暮らしている。後にも先にも自ら進んで自由に活動していたのは、この退職後十年余りだけだった。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年12月04日

恥かき人生

私の恥かきは2種類あり、それらが人生を心豊かに楽しくしてくれた。一つは何事も人並みに出来なくて悩む、消極的恥多き人生。もう一つは、能力もないのに、やたらに手を出した積極的恥かき人生だった。いずれも、恥かき最中は一生懸命で後になってから恥ずかしくなった。

何故か長い間、楽をすることだけを目的として生きて来た。今は殆ど全ての家事をお母さんに任せて、楽をさせてもらい幸せだ。「私が長生きできたのは、お母さんのお陰です」と、三日に一度はお礼を言っている。

定年退職後は仕事から解放され自由を謳歌した。羽目を外して出来ない事にまで手を出して散々恥をかいた。これが積極的恥かき人生の始りである。切っ掛けは中島公園についてのホームページの開設だった。

開設1年半後にテレビ局から取材があり、新聞のインタビューもあった。これが切っ掛けで、活舌が悪く満足に話せないのに地元のラジオで中島公園について話した。そして、その道の達人と誤解され、ろくな文章も書けないのに新聞にコラムも書いた。毎回のように担当記者が直してくれた。ここに書いたような文章では新聞には載せられない。

人前で話したことがないのに講演まで依頼され、あちこちで恥をかいて来た。つまり、やらなくてもよいことを沢山やり続け、恥をさらし続けたのだ。そう思ったのは後になってから。当時はやる気モリモリで一生懸命だった。大抵の皆さんが若い時やっていたことを高齢になってやり始めたのだ。

今思うと何か夢を見ていたような気がする。食う為に働く、私にとっては奴隷の様な労働を続けてきた反動だと思う。せっかく自由になれたのだから、何でもやってみようと言う思いが強すぎた。振り返ってみると45年にわたる消極的人生は、現在の幸福感の種になっているような気がする。そして、積極的に恥をかいた定年後の十年も懐かしい。

不思議なことに積極的恥かきは、カラオケ部門で未だに続いている。音痴なのに75歳で始めた洋楽カラオケでは、思いっきり恥をかいた。しかし、歌っている時は何も考えない。伴奏から大きく遅れた時は、懸命に追いつこうとした。ラジオも講演も同じだった。失敗すればするほど真剣になった。

今のように平穏で幸せな人生を送っていると。苦労した遠い昔も、ジタバタ独り相撲を取っていた定年後の年も懐かしい。恥をかきながらも楽しくて充実していた。

長い間退職後を楽しみにして働いて来たが、期待した通りで良かった。余裕ができたら、恥を全くかかないのも勿体ないと思った。そして、カラオケを残すことにした。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般