2023年01月28日

第一の運

私が幼少の頃、我が家は小金持ちからどん底に落ち込んだ。明日は餓死かと思う日々が続いたが運に恵まれ生き延びることができた。本当に困った時には運がつくものと信じている。ところで、中卒で体力がなく不器用だと何処に行っても勤まらない。職を転々として、もうダメだと思った時に自衛隊に入った。これが私個人に運がつく始まりとなった。だから第一の運と思っている。

時の運がついたのだ。1960年当時の自衛隊は極端な募集難、自ら志願する人は少なく、多くは一本釣りと言われる口コミ採用だ。職安の付近で募集係が一対一で勧誘するのだ。衣食住無料で月給もボーナスも出る。健康保険もあって付属病院もあり、大型免許も取れるとか言って入隊を勧める。

1960年秋に虚弱体質の私も採用されて航空自衛隊熊谷基地で3ヶ月の教育を受けることになった。社会情勢もあって訓練は緩かった。募集係が必死に集めた約120名の隊員は金の卵のようなものだ。キツイとか言って簡単に止められても困るのだ。車両適正検査も合格、大型免許取って三年任期が終わったらトラックの運転手になるのが夢だった。

新隊員教育終了前に、突然、中卒程度の英語試験があった。そして上位15名は名古屋に行って飛行管理の教育を受けることになった。これでトラック運転手の夢は消えた。何も知らないで名古屋に行くと、一般英語1ヶ月業務用英語2ヶ月、計3ヶ月の訓練を受けることになった。

毎日がぺーバーテストから始まる。昨日習ったことは翌日にデイリーチェック、そして週末にウイークリーチェック、月末にマンスリーチェック、教育終了時はファイナルチェック。ファイナルに受かることが唯一の訓練目的だった。

一応、15時からは2時間の自衛隊らしい訓練をやることになっていたが、環境の整理という名目で翌日の試験に備えて自習をしていた。夕食後の自習時間を含めると毎日、10時間くらい英語の学習だった。中学英語も出来ないのに現場に行ったら米兵から電話を受けつつタイプするのが仕事だ。先輩ができる事は私も慣れれば出来ると思っていた。

訓練終了後の仕事は埼玉県ジョンソン基地で各地の米軍基地から、電話で送られてくる飛行情報を受けながらタイプすることだった。この仕事にも落ちこぼれて中途退職することになったが、英語を勉強するきっかけにはなった。

退職してインド通信(PTI)東京支局でアルバイトをしながら勉強した。1年後に英検2級を取った。高卒程度の試験だから中卒の私にとっては価値ある資格だった。

これが私にとって第一の運、募集難の自衛隊には人材が集まらなかった。中卒程度の英語試験を受けたが、3分の1くらいしか出来なかった。それなのに上位15名に入ってしまった。後で分かったことだが、入隊した120名のうち真面目に英語の勉強したことのある人は2、3名しかいなかったのだ。このような偶然に恵まれたのも運が良かったからだ。本当に困れば運が救ってくれる。そう信じていたらそうなった。

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 転職時代(15-23歳)

2023年01月21日

楽しい洋楽カラオケ

こんなタイトルでは知らない人が読んだら、歌が上手で外国語もペラペラな人が書いていると勘違いするかもしれない。実は全く逆。歌は並外れた音痴、英語も中卒レベル以下で、21歳になってから3ヶ月訓練を受けただけ。

英語を好きになるきっかけにはなったが、定職が決まると勉強は止めてしまった。職を転々、半失業時代の勉強は生きる為だけのものだった。公務員なら病気になっても医者にかかれるし、病気休暇もあるぞと安堵した。

私は体力がなく不器用で感が鈍い。真面目でコツコツ全力で働けば何とか生きられる程度の人。それでも82歳まで生きられたのは運が良かったからである。

第一の運は、たった3ヶ月とはいえ給料をもらいながら英語の勉強に専念できたこと。第二の運は失業中の22歳で就職試験に合格したこと。二つとも時の運がついたのだ。そして、第三の運はタイトルにある洋楽カラオケとの出会いである。

私が75歳、後期高齢者になったころ所属するシニアネットのメールで洋楽カラオケ会の新規募集があった。そこには「洋楽が好きな人なら誰でもよいと書いてあった。しかし、全く歌えない後期高齢者は想定外かも知れない。それでも何とか受け入れてもらったのは運が良かったからである。

人に恵まれたのが1番の運、全く歌えないのに無視せずに励ましてくれた。身近に洋楽カラオケの会ができたことも運がついたからだ。日本中探しても私に歌わしてくれる会はないと思う。運がいい時は次々と良いことが続く。

私はいろいろやって、全てに見放されたて無趣味になってしまった。空想の中で歌って踊って楽しんでいた。現実には身体が動かないので踊るのは諦めた。しかし、口と心はまだ元気なので、これからも歌いたい。

2年間で3回入院した。暇な時間は歌を聴いていたら、自分の歌とは随分違うなと思った。退院してしばらくして歌って録音して聴いてみた。余りにも酷いので思わず笑ってしまった。すでに82歳、何とかしようと思ったがどうにもならない。でも楽しみたいので独自の練習方法を考えた。

道具はパソコンと操作が簡単なICレコーダーだけ。画面を見ながら歌って、録音を聴く。これを7曲1回ずつ繰り返す、合計45分の練習を毎日することにした。効果は不明だが、遊び半分で楽しいから続けられる。そして、自分でいいと思った3曲を恒例の洋カラ会で歌うことにした。

そのカラオケ会は私にとって唯一最高の晴れ舞台。外国語で歌う決まりが有難い。日本語でもいいよと言われたら決まりが悪くて英語では歌えない。それに、音痴で口が回らないから日本語でもダメなのだ。

入退院を繰り返し、今はリハビリをする身だ。毎日1時間の散歩も冬は厳しい。整形外科医院のリハビリも退屈で面白くない。補聴器のトレーニングは始めたばかり。やっぱり洋カラが一番楽しい。呼びかけてくれる人がいるから参加できる。とても有難いと感謝している。

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2023年1月8日 札幌コンサートホール・キタラで成人式。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2023年01月14日

仲よき事は美しき哉?

「仲よき事は美しき哉」とは言うけれど、仲良くなるのは難しい。ところで、82歳のヒロシは一つ下のユウコと二人暮らし。私たちは絶滅危惧種、名前がこの世から無くなろうとしているのだ。約80年前にモダンな名前として、颯爽と登場したヒロシとユウコだが今まさに消え去ろうとしている。

博、弘,宏、裕子、優子、夕子など、数え上げれば切りがないほどのヒロシとユウコが年を追うごとに減って行く。余りにも寂しいではないか。
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「まるで絶滅危惧種ですね」
「全ては変わる。観念しろ」
「何とか保護する道はないでしょうか」
「甘えんじゃないよ」
「ヒロインがユウコでヒーローがヒロシの映画を作るとか」
「無理ムリ、絶対ダメ」
「そう決め付けずに気楽に行きましょ」
「売れると思うか? 大赤字、会社倒産!」

最近の名前をみてもヒロキはあるけれどヒロシはない。ユウはあるけれどユウコはない。ホンの少し違うだけで絶滅危惧名前になってしまうのだ。「滅び行く名前の二人」が喧嘩などしていて良いはずがない。

そう思って、仲良くしようと努力しているのは私(ヒロシ)だけ。ユウコはごく自然にあるがままの人生を送っている。私だけが気をもんで我慢している。ときどき意識的にガス抜きをする。これも工夫の一つだ。

「私に悪いところがあったら、遠慮なく言ってください」
ユウコはこんな質問に、ウッカリ返事をすると損だということを知らない。一生懸命考えてからこう言った。
「家の仕事より自分のやりたいことを優先するのが悪いよ」
「例えば、どんなことですか?」
この質問に答えれば、更に墓穴を掘ることを予想もしない。
「え〜と、ゴミを直ぐに出さないことかなぁ」
「今月の目標はゴミを早く出すことにします」

今月と言っても残りは3日だ。これでは私の仕事は増えないのに不満だけは消滅する。こうして、二人で仲良く暮らすため日夜努力を重ねている。ユウコは決して私を褒めてくれないのだから、自分で自分を褒めてあげたい。

「自分を褒めて虚しくないか」
「三方良し、と言う表現をご存知ですか」
「いきなり何だ?」
「売り手良し買い手良し世間良し、のことです」
「それがどうした」
「家ではユウコ良しヒロシ良しで、世間は無し v(^_^ v)
「そして、ヒロシはユウコを騙し放題」
「いえいえ、それはあんまりです」
「なんだと?」
「仲よき事は美しき哉、と思ってください」
「盗人にも三分の理、とも言うな」
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2023年01月07日

ケチな夫婦

持病とコロナ禍で3年間の巣ごもり生活。最近少しは外出するようになったが、人に会うことは殆どない。これではネタがない。止むを得ず、自由に行動していた頃を思い出しては書いている。今回は15年くらい前の夏の話。あの頃の二人暮らしは薄暗く、楽しみも生き甲斐も外に求めていた。

Aさんに呼ばれていたので、病院の帰りに寄ってみた。心に傷を負っているので慰めてもらいたい気持もあった。
「精神的虐待を受けているのです。これってドメスティック・バイオレンスじゃあないですか」
「そう思うアンタが異常。早くお家に帰りなさい」
「用事があると言うから、来て上げたのですよ」
「草むしりでもしてもらおうと思ったけど、腰痛じゃあねぇ。亭主は膝がガクガクだというし。まったく情けない男ばかりだね。年は取りたくないものだ」
「お互い様でしょ。庭の草むしりぐらい自分でやってよ」
「公園の草むしりよ。皆でやろうと言ったでしょ」
「アレッ! 今日でしたか?」
「ヒマができたときパッとやらないと、いつまでたっても出来ないでしょ」

草むしりは体調不良ということで解放されたが、「帰って来なくていい」といわれているのに直ぐ帰るのも癪だ。中島公園をブラブラして、腹が減ったら「狼スープ」にラーメンでも食べに行き、その後で帰ることにした。

昨日は二人仲良く映画「相棒」を観に行ったのに、今日は「悪妻は百年の不作」と思い、顔も見たくない気分だ。本当に人の気持は移ろい易いものである。しかし、40年近くも一緒に暮らしていたら「仲良し」と言われても仕方がない。なぜ、仲良しなのだろうと考えてみた。答えは意外に簡単だった。二人ともケチだからだ。

妻の場合、「こんな家、出て行く!」と言っても、実家に帰るには旅費もいるし、手ぶらと言う訳にも行かないだろう。家の近くのホテルに泊まるにしても帰るまで、毎日お金がかかるのだ。

私だってマンガ「巨人の星」の星一徹のように叱りたい。「黙れ!」と一喝、ちゃぶ台ひっくり返したら、さぞかし気が晴れるだろう。その代わり、一食分の全てを失った上、お茶碗が割れるかもしれない。こんなことを考えているようでは派手なケンカなど思いもよらない。ケチケチしている間に40年もたってしまった。

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あれから更に15年以上たった。時の流れは早いものだ。最近は特に早い。振り返ってみれば、在職中は自己否定的人間だった。仕事が苦手で、趣味とスポーツが全然ダメだから肯定など思いもよらない。

退職したら思うがままに生きられるので、次第に自己肯定的人間になって行った。自由の身になったのだから、これも当たり前。なんでも見てやろう、やってみようと手の平返したように前向きになった。

その後、加齢による体調低下に応じて活動範囲を縮小、80代になったら家に引き籠り、静かに愉しく暮らしている。しかし、自分の生き方を肯定する気持ちは変わらない。状況が変わっても、これはこれで良いものだと思っている。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)