私が幼少の頃、我が家は小金持ちからどん底に落ち込んだ。明日は餓死かと思う日々が続いたが運に恵まれ生き延びることができた。本当に困った時には運がつくものと信じている。ところで、中卒で体力がなく不器用だと何処に行っても勤まらない。職を転々として、もうダメだと思った時に自衛隊に入った。これが私個人に運がつく始まりとなった。だから第一の運と思っている。
時の運がついたのだ。1960年当時の自衛隊は極端な募集難、自ら志願する人は少なく、多くは一本釣りと言われる口コミ採用だ。職安の付近で募集係が一対一で勧誘するのだ。衣食住無料で月給もボーナスも出る。健康保険もあって付属病院もあり、大型免許も取れるとか言って入隊を勧める。
1960年秋に虚弱体質の私も採用されて航空自衛隊熊谷基地で3ヶ月の教育を受けることになった。社会情勢もあって訓練は緩かった。募集係が必死に集めた約120名の隊員は金の卵のようなものだ。キツイとか言って簡単に止められても困るのだ。車両適正検査も合格、大型免許取って三年任期が終わったらトラックの運転手になるのが夢だった。
新隊員教育終了前に、突然、中卒程度の英語試験があった。そして上位15名は名古屋に行って飛行管理の教育を受けることになった。これでトラック運転手の夢は消えた。何も知らないで名古屋に行くと、一般英語1ヶ月業務用英語2ヶ月、計3ヶ月の訓練を受けることになった。
毎日がぺーバーテストから始まる。昨日習ったことは翌日にデイリーチェック、そして週末にウイークリーチェック、月末にマンスリーチェック、教育終了時はファイナルチェック。ファイナルに受かることが唯一の訓練目的だった。
一応、15時からは2時間の自衛隊らしい訓練をやることになっていたが、環境の整理という名目で翌日の試験に備えて自習をしていた。夕食後の自習時間を含めると毎日、10時間くらい英語の学習だった。中学英語も出来ないのに現場に行ったら米兵から電話を受けつつタイプするのが仕事だ。先輩ができる事は私も慣れれば出来ると思っていた。
訓練終了後の仕事は埼玉県ジョンソン基地で各地の米軍基地から、電話で送られてくる飛行情報を受けながらタイプすることだった。この仕事にも落ちこぼれて中途退職することになったが、英語を勉強するきっかけにはなった。
退職してインド通信(PTI)東京支局でアルバイトをしながら勉強した。1年後に英検2級を取った。高卒程度の試験だから中卒の私にとっては価値ある資格だった。
これが私にとって第一の運、募集難の自衛隊には人材が集まらなかった。中卒程度の英語試験を受けたが、3分の1くらいしか出来なかった。それなのに上位15名に入ってしまった。後で分かったことだが、入隊した120名のうち真面目に英語の勉強したことのある人は2、3名しかいなかったのだ。このような偶然に恵まれたのも運が良かったからだ。本当に困れば運が救ってくれる。そう信じていたらそうなった。
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