2023年02月25日

奥さんの話

共同住宅に住んでいるので住民は1階の郵便受けまで新聞を取りに行く。朝5時半ごろに来るがときどき遅れることがある。たいていの人は部屋に帰って出直すが、私とAさんだけは帰らないで新聞が来るのを待っている。Aさんは私と同年輩でマンション管理についてよく勉強している。総会では積極的に発言するが普段は穏やかな話好きな人だ。

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ロビーのソファに座って新聞を待っているのは二人だけなので、退屈凌ぎにいろいろな話をするようになった。たいていは近所の中島公園とか、いわゆる時の話題だが、その朝は珍しく奥さんの話になった。
「あの方が奥さんなのですね。先日ご一緒に歩いているのを初めて見ましたよ。綺麗な方ですね」
「何をおっしゃるのですか。顔は皺くちゃ頭は白髪です」

こういわれては返す言葉もない。「見ましたよ」だけでは愛想がないと思って「綺麗な方」を付け加えてしまったのだ。昔、尊敬する先輩がよく別れ際に「美人の奥さんによろしく」と言った。そのノリが移ったのかも知れない。返答に窮しているとAさんは話し始めた。

「家内は背が低く、年の割には顔が小さいのですよ。目がパッチリしているので、可愛いと言えば可愛いですね。だけど、髪が薄くダンゴッパナで皺があります」
「そうなんですか。ぜんぜん気づかなかったです」

「川柳で『老妻も角度変えれば美人なり』というのがありますが、これは本当だなと思いますよ。ところが、怒ると酷くて見ていられないですよ。ぶすっとしているからブスとか言いますが、ホントですね」
「川柳って面白いですね」
「私は家内の仏頂面が嫌いですから怒らすようなことは滅多にしません。家内が間違ったことを言っても逆らわないようにしています」
「そうですか。奥さん幸せですね」

「おや、新聞来たようですよ」とAさん。
「今朝は時間がたつのが早いですね」
「そうですか」
「ご馳走様」
「はぁ?… (>_<;)
タグ:ときめく
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | その他

2023年02月18日

故郷の渋谷を想う

懐かしい故郷というけれど、故郷のない人は増えていると思う。私もその一人だ。生まれたのは1940年横浜の貸家、しかも幼児だったので記憶も殆ど無い。一応、小中学校時代を過ごした渋谷を故郷と感じているが、人手に渡ってしまったので帰れる場所ではない。故郷は知らぬ間に失われた。

60歳の秋、中島公園の近くに転居した。近くを散歩してみると、少年時代に見た渋谷の風景にそっくりな場所があり、とても懐かしく思った。

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遠くに見えるのが転居した私の住居。この道路は砂利道、真っ直ぐな筈なのに道路にはみ出た家がある。幼少期の暮らしを思い出した。今でもこんな所があるのかと驚いた。そして、懐かしさが胸に込み上げてきた。

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こんな家がポツンと一軒だけある。子供の頃に住んだバラックを思い出し、とても懐かしい。ところで隠していたことがある。キーワードは生活保護、中卒、自衛隊である。この家との出会いが隠し事を書く切っ掛けとなった。恥じて隠そうとする思いより、懐かしく想う気持ちの方が強くなったのだ。これらを抜きにして自分の人生は語れない。

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転居した初めての冬に撮った市電電停「行啓通」は住居より徒歩2分の場所にあった。昔住んでいた家も都電電停「青山車庫前」より2分程度の所にあった。写真を見るとタイムスリップして70年前の都電電停に立っているように感じる。傾いた小屋を中心に広がる雑然とした風景が、そう思わせる。私にとっては懐かしい風景でる。

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空襲で焼き尽くされた渋谷区では、焼け残った神社が子供達の遊び場だった。当時の家から近い順に金王八幡神社、氷川神社、明治神宮等にはよく遊びに行った。転居先のマンションの近くに弥彦神社、護国神社、水天宮があり懐かしく思った。ただ昔の渋谷とは違って神社で遊ぶ子等は少ない。

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小学4年のとき洋画を観るのが大好きになった。それから5年間、古い洋画専門のテアトルSSに通い続けた。入場料が40円と格安なのが取り柄だ。家から20分程度歩いたと思う。歩いて映画に行くことが長い間の夢だった。中島公園を出て15分くらい歩けば映画館東宝公楽があると喜んだのは束の間、多くの映画館と同じように閉館した。

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地下鉄の階段は電車が来るごとに風がきて涼しい。夏は兄弟3人で涼みに行った。焼けトタンのバラックは茹だるような暑さだから青山6丁目駅に避暑に行くのだ。地下鉄の利用者は階段に黙って座ってる3人を見て浮浪者と思ったかも知れない。地下鉄は乗らなくても生活の一部だった。

あばら家、砂利道、電停、神社、映画館、地下鉄駅、どれも幼少期の思い出に繋がる。21年前に転居した山鼻地区の風景は、私が故郷と思っている昔の渋谷の片隅に似ている部分があって懐かしい。渋谷で暮らして10年、その後帯広、岩沼、福岡等20回以上の転居、そして、現住所に落ち着いて21年、ここを故郷と定めるに不足はない。残念ながら地元から浮いている。いつも根無草(^-^;) ゴメン
タグ:札幌 渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 人生全般

2023年02月11日

想定外の英語集中訓練

二十歳の私は生活に困って自衛隊入隊した。そして、新隊員教育終了前のある日突然、中卒程度の英語試験があった。成績上位15名の赴任先は一方的にK教育団と命じられた。そこで3ヶ月の業務用英語の訓練を受けることになった。

百点満点なのに23点以上が合格とは驚きだ。受験者120名の内、大部分がが20点前後に集中したドングリの背比べ。誰が上位15名に入るかは運次第と言っても過言ではない。5答択一試験だから何も知らなくても20%の正解がある。

高校に行く気がなかったので英語の勉強をしたことはない。ただ、アメリカ人二人と英語で文通していた。ZWYXコレスポンデンス協会という団体があり、ペンパルの紹介と手紙の翻訳をしてくれるのだ。翻訳された英文を書き写していただけだったが、少しは勉強になったかも知れない。ところで、80点程度の高得点の人も3名くらいたようだ。

その一人はA君だと思う。進学校として有名なR高校中退、勉強についていけなかったそうだ。それでも中学の英語はマスターしているはずだ。教育終了後、私と同じ現場に行った。その後、当時の教官から電話があり用事がすむと「ドロボーどうした?」と聞かれた。後で分かったことだが、A君には盗癖があり入隊後も時々やっていたらしい。

B君はS工業大学の出身のクリスチャン。いつも聖書と大きな辞書と教材を風呂敷に包んで持ち歩いていた。真面目な人だが、つまらないことに感心したり、反省したりする。ある日、同室のZ君が寝台にタオルを2本さげて大声で言った。「これは洗顔用、もう1枚はマスターベーション用」と。それを聞いたB君は「Zさんは正直で偉い」と感心し、「私なんか隠れてコソコソ」と反省していた。

C君は弁舌爽やかな人。心から英語が好きなようだ。いつもペラペラ喋りたいと言う感じだ。なぜかhaveをヒャブと発音する。私の聞き違いか、それが正しい発音かは分からない。以上A、B、Cの3人が80点くらいの人と思う。私を含めて残りの12人は押し並べて30点以下だったようだ。合格したのは翻訳書き写し文通のお陰かも知れない。

入隊当初はトラックの運転手になることを夢見ていたが思い直した。荷積みも荷下ろしもある。私の体力ではやっていけないかも知れない。運がついて英語訓練を受ける機会に恵まれたが、3ヶ月で就職の役に立てるのは無理。ここを英語勉強のスタートと決めた。義務教育なら中学1年からだから、8年遅れのスタートになってしまった。

教材はアメリカンランゲージコース、米空軍が作成した外国人向け教材。1960年当時としては珍しく内容の全てが録音されていた。ブースと呼ばれる英語学習室があり、間仕切りした個人学習スペースが数多く並んでいた。当時の日本では最先端をいく設備と聞いていた。

夜の自習時間に自由に使えるので大いに利用させてもらった。しかし、利用者は少なかった。ファイナル・チェック(訓練終了時の試験)はペーパーテストだけ。実技試験は英文タイプのみで英会話はなかった。

運に恵まれ、初歩の中学英語も分からないのに、給料をもらいながら3ヶ月間の集中訓練を受けられた。こんな機会は滅多にない。必要な機関があり、そこに送り込む訓練体制があれば、訓練を受ける人が絶対に必要であり、私もその一人。世の中は面白い。あちらこちらに想定外がある。

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薄野は想定外の雨。今のアイスワールド。 2002年2月9日
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2023年02月04日

第二の運

3ヶ月の訓練終了後の赴任先は埼玉県にあるジョンソン基地内のフライトサービスだった。米兵との会話もタイプも苦手、おまけに不器用な私は5人の新人の中で真っ先に脱落した。職種替えして半年後に体調を崩し依願退職。ここに至るまでの経過は第一の運に書いたのでここでは省略。ただ3ヶ月の英語づけ訓練は勉強するキッカケにはなった。

職を転々として6年目に大発見をした。国家公務員試験は原則学歴不問のことである。そして、運良く驚くほど楽な仕事が見つかったのだ。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。

新橋のPTI東京支局で働くのは日本語を話さないインド人の記者と私の二人だけだった。記者はは取材に歩いているので、ほとんど一人勤務。月給1万5千円、但し365日休み無しで健康保険もない。仕事は留守番とテレタイプで受けた情報をNHK、朝日新聞、外務省、インド大使館、関係通信社に配達するだけだった。

一人じゃ淋しいという人には向かないが、私にとっては都合が良かった。時間を好きなように使えるからだ。8時間勤務中6時間は暇、配達も都電利用なので車内でも勉強できる。家に帰ってからの時間も加えればタップリ寝ても、10時間の勉強時間があった。

次の課題は何を受験するかだが、初級職は高校の勉強ができないし、年齢制限で1回しか受けられない。航空管制官なら中級職だから27歳まで6回も受けられる。後で知ることになるが、合格した同期の中に27歳の人も居た。それに専門科目が英語なので自習で何とかなると思った。

試験は短期大学卒業程度と定められていたので合格するには3年程度はかかると考えていた。先ずはお試しと思い受けてみたら受かってしまった。面接での英会話は初歩的なものだったが、筆記試験が凄く難しく絶対に受からない思っていた。それなのに受かってしまったので驚いた。後で分かったことだが、当時の状況は質よりも人数が重要だった。

時の運である。時代は東京オリンピック景気のさなかにあった。民間と比べて公務員、特に国家公務員の給料が著しく安いので人気がなかった。特に管制官はマスコミ報道で、仕事が厳しく給料が安いと知られていた。実際、60名の合格者のうち約半数が採用を辞退した。受験の時は学生服を着た若い人も多かったが、同期生の殆どは有職青年か失業者だった。これが第二の運、健康保険のある安定職に就くという私の夢は叶い、英語の勉強をする気が失せてしまった。

懐かしいPTI東京支局があった西新橋2森ビル
六本木ヒルズで知られている森ビルの歩みは1955年から始まっている。森ビル株式会社の歴史・沿革に次のように書いてある。「はじめに完成した西新橋2森ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」。インドの通信社というのが私が働いていたプレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)東京支局だった。焼け残った長屋の隣に建った小さなビルでスタートした会社が今では、日本を代表する総合ディベロッパーへと大きく発展した。最近になって知り驚いている。

西新橋2森ビルの写真 → 森ビルKK 歴史・沿革
タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 転職時代(15-23歳)