2017年02月04日

壊された思い出

「豪邸は無い、女中も居ない。嘘ばっかりじゃないか」
5歳の記憶を書いただけなのに先輩は怒っている。相変わらず融通の利かない人だ。
「子供の思い違いですよ。よくあることでしょう」
「分かったら書き直せばいいじゃないか」
「思い違いから事実へと順序よく書きたかったのです。時が流れるようにね」
「ああそうかい」
「まだ怒ってい
るのですか。勘弁してくださいよ。水に流しましょ」

私は夢を見ていたのだ。70年間の長い夢である。私の人生は落ちこぼれの連続だった。学業、仕事、趣味、娯楽の全てから落ちこぼれている。運動神経は鈍いし、歌えば音痴、オマケにハゲだ。何一ついいところがない。少しぐらい夢を見たっていいではないか。

東京から兄が来た。そして私が70年間温め続けて来た古き良き思い出を1時間でぶち壊し三日して帰って行った。否定しがたい事実を次々と突きつけられて知りたくないのに知らされたのだ。何でいまさら? 私にとっては天災のようなものだ。

「今になって話すくらいなら墓場まで持って行けばいいのに」
「お前が聞かなかったからなぁ。知っていると思ったんだよ」
「オフクロの話を黙って聞いていたんだ。知ってるはずないだろう」
「俺だって黙って聞いていたよ。本当はこうだなんて言えるわけがない。ヒステリーを起こすよ。皆恐れていたじゃないか。俺だって同じだ」

私も兄も母から直接聞いたのではない。母が近所の人に話すのを聞いていたのだ。今では考えられないが6畳一間のバラックでは人の話すことは全部聞こえるのだ。私は学校に行っていないので沢山聞いた。兄も少しは聞いていた。違いと言えば私は事実と信じたが、兄は嘘と分かっていながら黙っていたことだ。同じ話を聞いても当時10歳の兄と6歳の私では、受ける影響が格段に違うのだ。

母は近所の主婦を呼んでお喋りするのが好きだった。茶菓でもてなしながら横浜での優雅な暮らしぶりをそれとなく話に織り込んでいた。大きな家や女中さんたちが、何気なく登場する。母はバラック住まいの身だが家を建てるまでの仮住まいだ。よそ様に比べ懐は豊かだった。それに奥様らしい風格もあり優雅な横浜の話も不自然ではない。

ところで東京から来た兄が何気なく話したことは、私にとって青天の霹靂だった。私の面倒をみてくれた女性たちは女中さんでなかったのだ。意外にも父が勤めている海軍の飛行機製造会社の女工さんだと言う。おまけに我が家と思っていたのは会社の女子寮で、母は奥様どころか寮の管理人だったと言うのだ。母は併設されている海軍クラブ(宴会場)の運営をも任されたいたようだ。かなり忙しそうだったが仕事で得るものもあったのだろう。

後で考えると戦争が激しくなり営業できなくなった旅館を会社で借り上げ、女子寮兼宴会場として使っていたのだと思う。戦争で働き盛りの人が減った中で、ここだけは若い女性と海軍軍人という若者で溢れていた。伊吹一家の住居も兼ねていたので私は自分の家と思い込んでいたのだ。実際そのように自由に使っていた。少なくとも私はそう感じていた。

戦後70年もたった今、なぜ女工さんたちが私を身内以上に可愛がってくれたかも分かるような気がする。故郷を離れていたので自分の弟を見るような思いで接してくれたのだと思う。それに自分自身が明日をも知れぬ命だから幼児に対する愛情が人一倍強かったと思うのだ。軍の飛行機製造工場は米軍による空襲では攻撃目標の一つになっていた。

若い女性が望郷と死の恐怖の中で生きていたのである。今にして思えばその気持ちはよく分かる。しかし、もう一つの現実がある。戦争末期は食料不足で空腹の時代だった。その様な状況の中で母は寮の食事と宴会の料理を一手に仕切っていたのだ。

女工さんは女中でもなければ母の部下でもないが、母の頼みは喜んで聞いてくれた。母が食料を自由に扱える立場にあることを知っていたからだ。しかも工場は交代制だから常に非番の女工さんがいるのだ。勤務明けで疲れた身体の彼女たちが私の母代わりになってくれたのだ。兄は言っていた「オフクロは非番の女工さんにお前の世話を頼んで、お礼に食料を上げていたのだ」。空腹の時代では食料は現金よりも価値があった。

戦争は多くの人々の人生を破壊した。母にとって焼け跡のバラック暮らしという悲惨な現実は受け入れがたいものだった。だから過去を自分流に美化し、夢を描きながら語っていたのだと思う。母にとっては女子寮も宴会場も庭から池まで全てを含めて自分の城だった。そして、言うことを聞いてくれる女工さんは女中だったのだ。これらは母の心の中で徐々に事実へと変わって行った。嘘をついている自覚はなかったと思う

もちろん自分は奥様で私たち子供は坊ちゃんだ。そのような前提で近所の奥さんたちとお喋りをしていたのだ。そんな話を聞き続けた6歳の私は現実と思い込んでしまった。不思議と言えば不思議、滑稽と言えば滑稽だ。70年間も幼少の頃はお金持ちと思っていた。古き良き思い出と言うよりも、それが事実と思い込んでいたのである。

以上が去年の夏、兄に聞いた話を参考にして自分なりに考えをまとめて書いてみたことである。いずれにしろ、兄の訪問で過去の記憶が大きく修正された。兄に聞けば実父逃亡の謎も分かるような気がするが、これ以上は聞く気がしなくなった。

「これでやっと腑に落ちたよ。アンタは貧乏臭いんだ。精一杯よく言っても苦労人だな」
どうやら先輩も機嫌を直したようだ。ようやく何時もの調子にに戻った。

「母は慶応とフェリスに拘っていました」
「なんだと? まだ拘るものがあるのか」
「試験に落ちて裁縫女学校に行ったのですが、気持ちはフェリスですね」
「横浜と言えばフェリス女学院だな。伝統と革新、キリスト教精神だ。嘘つきは入れないぞ」
「嘘つきになったのは夫に逃げられてからです」
「慶応ってなんだ」
「母が子供たち三人を入れると言っていた学校です。よく応援歌を歌わされました」
 ♪若き血に燃ゆる者 光輝みてる我等 希望の明星 仰ぎて茲に……♪

「……ショウリ ニスス ムワガ チカラと切って歌わされるのですが、ニススとムワガの意味が分からなくて苦労しました。母の真似をしながら3人で声をそろえて歌うのです」
「勝利に進む我が力じゃないか」
「今なら分かりますよ。まだ字の読めない子供ですからね」

「それで、アンタも入ったのか」
「天現寺の慶応幼稚舎に入っていましたよ」
「あの名門小学校へか? 嘘つくんじゃないよ」
「新聞配達で毎朝入りました。昔は配達で校内まで入るのです」



毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: