2017年02月18日

焼跡の裕次

ドラマを観ていると「世の中には二種類の人間がいる」というセリフをよく耳にする。自分なりに二種類の人間について考えてみた。ふと頭に浮かんだのは困難な事態に直面した場合の対応だ。戦う人と逃げる人がいる。裕次は躊躇なく戦う子供だった。今にして思うと焼跡育ちのエネルギーを強く感じさせる子だ。

仕事の都合で各地を転々としていたが、二十歳の時は渋谷の実家に居た。ある日何の前触れもなく若者が訪ねて来た。スーツを着てアタッシュケースを手にしていた。
「ご無沙汰しております。仕事で近くまで来たのですが、つい懐かしくなり……」
と言われても誰だか分からない。こんな時は名前を聞きにくいものだ。一瞬ポカンとしていたが幼い丸顔が脳裏に浮かび、それが目の前にいる青年の顔に乗り移ってきた。

「あっ! 裕ちゃん。話し方違うじゃない。立派になったねぇ。見違えたよ」
「早いもので、あれから10年以上たちますね」
「心配していたんだよ」
「今は宝飾品のセールスをしています」

品物もカタログも見せようとはしない。ただ懐かしいから寄ってくれたのだ。子供の頃一緒に遊んだだけで、いつの間にか居なくなってしまった。無鉄砲でひょうきんな子と思っていたが好青年に成長している。お父さんはどうしたのだろうと一瞬思った。

話しは10年以上前に遡るが、裕次は父安藤輝造と一緒に移住して来た。当時は子供だったが、よそ者部落の得体の知れない人達の一人だった。父子二人が寝るスペースしかない仮小屋で暮らして居た。安藤さんは瓦職人だそうだが朝早くから夜遅くまで働いていた。そのせいで裕次はいつも一人ぼっちだった。瓦屋は忙しいのだなと思った。

安藤さんは挨拶がよく礼儀正しい人なので古い住民にも好感をもたれていた。共同水道はよそ者が地域住民に接触する唯一の場所である。一つの蛇口を複数で使うのだから譲り合ったり割り込んだりいろいろある。マナーが問われる場所でもあった。

マナーが良いからと言って、よそ者が地域に溶け込むことは容易ではない。この関係は子供の世界にも及んでいた。我が家は養父が地域住民で母子4人がよそ者と言う微妙な立場だった。既に小学校に通っている兄たちは積極的に地域に溶け込もうとしていた。私だけがよそ者同士の気安さで直ぐに裕次と友達になった。

裕次の家には鍋や釜などの所帯道具と言うものが一切ない。裕次はよく買い食いするし父に連れられて外食もするらしい。一方、焼跡のバラックに住む地域住民の唯一最大の願いは家を建てること。その為に爪に火を灯すようにして暮らして居るのだ。彼らにとって外食なんてもっての外、贅沢の極みである。瓦屋って儲かるのだなと思った。

寂しい父子家庭だが裕次は腹いっぱい食べていた。遊びに行けば私にも分けてくれた。それほど余裕があったのだ。ところが、ある日突然、どん底に陥った。しかし裕次は悠然としていた。地域の子等の執拗ないじめにも遭ったが憤然として逆襲した。

その事件とは自称瓦職人安藤輝造の素性が明らかになったことである。新聞社会面のトップ記事としてデカデカと報道された。見出しに「窃盗団の首領逮捕」と書いてあった。一番上に首領安藤輝造の写真、続いて団員の写真がズラリと並んでいた。

父が捕まってしまった裕次はしばらく一人で暮らして居た。食事等の面倒は、よそ者部落に住む満子さんがしていた。彼女は50歳くらいの満州(中国東北部)からの引揚者で身寄りもないようだ。これは想像だが、安藤さんが自分が捕まった場合のことを考えて、満子さんに対して生活面の援助をしていたのだと思う。ついに恩返しの時が来たのだ。

安藤さんは他の人に対しても気前が好かった。兄二人も渋谷のレストランでご馳走になったことがある。凄く羨ましかったので何時までも覚えていた。私も裕次を通してお菓子をもらっていた。地域の住民だって何かもらった人は少なくないだろう。よそ者部落の人たちを毛嫌いにして悪口ばかり言っていたのに安藤さんの悪口だけは誰も言わなかった。

しかし地域の子供たちは容赦ない。裕次を泥棒の子供として徹底的にいじめた。多勢に無勢だから裕次に勝ち目はない。だからと言って戦いを諦めるような裕次ではない。逆襲方法を密かに研究していたのだ。このことは後になって思い知らされる。

バラックを木造建築に建て替える戦後の建築ラッシュが既に始まっていた。アチコチに建てかけの家がある。テレビもないしラジオも自由に聞けない時代だから地域の子等は適当な場所に集まって雑談をするのが好きだった。その日は雨が降っていたので建てかけの家に無断で入り込んでお喋りを楽しんでいた。

話題は空襲の話と集団疎開の苦労話が多い。火の海の中をいかに勇敢に逃げたか。学校単位の集団疎開先で先生がいかにズルイことをしたか、散々聞かされた。いずれの経験もない私たち三兄弟には出番はない。幼い私は兄たちのそばに居るだけだった。

「おい、雨が吹き込んでるぞ」
「こんな所まで来るはずないだろう」
「おいおい、あったかいぞ何だこりゃ?」
「あっ! 裕次だ。このやろう!!」

裕次が2階からチンチン出して小便をかけていた。家は立てかけで1階の天井は無い。床も張ってないし材料もあちこちに置いてあって逃げ場も無い。裕次の奇襲作戦は大成功だったが、この後が大変だ。大勢で裕次一人をボコボコに叩いた。しかし、こんなことで怯む裕次ではない。恥ずかしながら怯んだのは地域の子等だった。あいつは何するか分からないからと恐れ、以後一切手を出すことはなかった。

時代は戦中に遡るが、1945年3月10日、深川は未曾有の大空襲に襲われた。裕次は熱風の中で母を見失った。後になって遺体の腐敗臭が漂う中を探し回ったが見つからなかった。父が南方の戦場から復員するまでの半年間、空襲で荒れ果てた食料不足の東京を生き抜いてきた。こんな裕次だから子供等に殴られて足蹴にされるくらいは屁とも思っていない。極限の困難に遭遇して大人より強い、戦う子供に育っていたのだ。

「久しぶりに懐かしい話ができて楽しかったよ。お父さんは元気?」
何気ないフリして聞いたが、勇気を振り絞って尋ねてみたのだ。
「立派な日本家屋も建つようになったので商売繁盛です。元々腕のいい瓦職人ですから」
「そう言えば最近は瓦葺の家が増えたね」
「職人の履歴書はやった仕事なのです」
「と言うと?」
「賞罰は関係ありません。良い仕事をすれば結果は必ず付いて来ます」

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!

蛇 足
読んで欲しいけれど、読んで下さいとは言えない私の屁理屈
この戦争で約300万人が死んだ。その10倍の3000万人の人たちが戦争の苦しみを味わったと仮定してみた。そうすると残りの7000万に近い人々は戦争の苦しみなんか味わっていなかったことになる。それどころか戦争で豊かになった人さえ居た。現に子供の私は戦争中は金持ちだったと錯覚していた。みんな苦労したと言う言葉に騙されてはいけないと思う。世の中はいつも不公平なのだ。事実に基づかない話からは何も生まれない。

戦場や空襲で塗炭の苦しみを味わった人の体験談を理解できる人は少ない。「硫黄島は地獄だった」と言っても「内地だって地獄だ。芋や大根ばかり食っていた」と返されれば、体験者は話す気を失う。こうして戦争で極限の苦労をした人は黙り込み、更にもっと苦しんで死んだ人は一言も発することができない。現在は情報に溢れているのに生死に関わる大切な情報は無いに等しい。あっても伝わらないからだ。

今、巷に溢れている書籍、マスコミを通して伝わる話は、売れる話だけで事実とはかけ離れている。なぜなら受け手の共感を得なければ書籍、新聞、テレビ番組等のメディアは売れないからだ。普通の人が極限状態を理解するのは極めて困難だ。並外れた忍耐と想像力が必要である。極限状態の体験者から聴き取れるのは、その道の専門家に限られている。現代史研究家による真実を追求した書籍も少なくない筈だが、売れている本の数に押されて下の方に押し込められているのだろうか。私たちには見えてこないのだ。
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 幼児時代
この記事へのコメント
今回も、ぐいぐい引き込まれるような話ですね。その時の情景などがクッキリと表れてくるようで、小生も朧気ながら幼少の頃が蘇ってまいります。うーん、もうすっかり中波先生のファンになってしまいました。次回の更新まで本当に待ち遠しい限りです。
Posted by Zhivago at 2017年02月20日 11:14
コメント有難うございます。
自分の人生をを総括するつもりで書いていますが、
感想を頂くと嬉しいですね。励みになります。
Posted by 中波 at 2017年02月20日 23:19
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