東京オリンピックが終わり、1週間たったら私は24歳になっていた。相変わらず一人ぼっちだ。普通の人なら付き合いの中で夢と現実との違いを自然に学ぶのに、孤独な私は自分を顧みるチャンスさえない。映画やテレビドラマを観て空想ばかりしていた。気がついたら変わり者になっていた。
変人の私だが就職して生活が安定すると急に結婚したくなった。しかし、突然そんな気分になっても相手がいない。先ず女性と知り合わなければならないが、これが意外に難しい。いろいろトライしたが、ことごとく失敗した。仕方がないので女性が話し相手になってくれる酒場に行った。1960年代には、そんな楽しい店が沢山あったのだ。懐かしい。
「あれは24歳のときでした。ことの始まりは地方都市のバー『カナイユ』での出会いでした。明るくて可愛いA子さんにプレゼントしたのです。地元銘菓の豪華菓子折りをですね」
「バカなことをしたもんだ。喜ぶわけないだろう」と、遊びの達人である先輩は一蹴。
「仰るとおりです。後で分かりました。だけど失敗は成功の母ですよ」
実は菓子折りの中に手紙を入れたのだ。何を書いたかは想像に任せる。ともかく、それが思わぬ展開の始まりとなったのである。何も知らない私は、A子がお菓子を食べながら手紙を読む姿を想像してニヤニヤしていた。美味しいお菓子と甘い手紙で心が動くと期待したのだ。意外にも動いたのはA子の心でなく菓子折りの方だった。
翌日「カナイユ」に行くと期待に反してB子さんが私の席についた。彼女は地味な顔立ちでガラガラ声だが気立ての好い人だ。人気者のA子は忙しかったのだろう。B子は意味ありげな薄笑いを浮かべていた。手には白い封筒を持っている。なんと! 私が菓子折りに忍ばせてA子に渡そうとした手紙ではないか。それを見た瞬間、頭に血が上り顔が熱くなった。なんたることだ。世の中狂ってる。
「お菓子美味しかったよ。ご馳走様」
「どういたしまして。しかしどうして?」
「A子は太るからって甘いものは食べないのよ。それでもらっちゃた」
「それは良かったですね。ところで……」
「A子宛の手紙みたいだね。とりあえず返すわ」
お菓子を喜んでもらったし手紙も無事に帰って来た。一件落着の感じだが心にしこりが残った。浮かない顔をしているとB子はいきなりクイズをしようと言って勝手に始めた。
「玄関を開けるとセールスマンが立っていました。そして突然、ズボンを下げました。さて、何のセールスでしょうか」
「………」。とてもじゃないけど答える気分ではない。
「は〜い、時間切れ。正解はダスキンで〜す」
何だか意味不明だが、私の鬱憤を晴らそうとしている気持ちだけは伝わって来た。B子の誠実な態度に接し、心が安らぎ少しだけ気分が良くなって来た。ところで、相変わらず相手もいないのに結婚したいという気持だけが先走っている。これは私の性格、どんなことでも始めたら一直線に進むのだ。ほんの短い間だけだが。
突然、B子と結婚したいと思った。好きな人と一緒になるのもいいけれど、一緒になってから好きになるのも悪くないと思った。好きとか嫌いとかは心の問題である。ならば自分でコントロールできるはずだ。それは孤独な私の得意技である。それにB子が喜んで今の仕事をしているようには見えないのだ。善は急げだ、直ぐに実行した。
「私と結婚しませんか」
「人をバカにするんじゃないよ。結婚なんて軽々しく言うもんじゃないんだよ」
バカにもしていないし、軽々しく思ってもいない。しかし考えて見れば求婚は少し早すぎた。”急いては事を仕損じる”とは本当だなと思った。ただ、この人は善人だという自分の直感を信じた。根拠はないのだが何となく分かるのだ。ともかくB子を怒らせてしまった。やることなすこと全てが上手く行かない。
ところが、数日後B子から電話で良い知らせがあった。
「貴方は結婚したいと言ってたでしょう」
「ええ、結婚してください。是非お願いします」
「私じゃないよ。貴方に相応しい人を紹介してあげる」
「ホントですか! ぜひ紹介して下さい。とても嬉しいです。本当に有難うございます」
「喜び過ぎだよ。今、私に求婚したこと忘れたの」
喫茶店で会ったC子さんは、二十歳くらいの可愛い人だった。この人と結婚できると思うと、心がウキウキ、心臓がドキドキした。デートの約束して帰ったが、じっとして居ても落ち着かなくて6畳しかない部屋を歩き回った。畳がフワフワで、まさに地に足がつかない感じだった。ひとめぼれである。恋に落ちるとはこういうことだろうかと思った。
当日、約束の動物園前で待ったがC子は来ない。電話をすると留守だった。そのうち来るだろうと思っていたが結局彼女は来なかった。翌日電話しても留守だった。その翌日に分厚い手紙が届いた。
憂鬱な三日間だったが手紙を読んで全て納得した。次のようなことが書いてあった。C子には気になっている人がいたが、彼が自分のことをどう思っているかが分からない。気持ちがフラフラしているときに結婚話があった。思い切って彼にそのことを打ち明けると彼の気持ちも同じであることが分かった。手紙の文章も内容も私を励まし納得させるのに充分なものだった。
C子は文学の勉強したかったのに親から薬学部を受験するように言われた。受けてはみたものの落ちてしまった。家業の薬局を手伝いながら受験勉強をしていたが身が入らない。かなり悩んでいるようだった。それを精神面で支えてくれたのが幼馴染の彼だった。彼は地方紙の記者をしながら同人誌に小説を書いていた。
10枚以上に及ぶ手紙には、前述のようなことが書かれていた。表現力が豊かで手紙と言うよりも一つの作品になっていた。文章の力は凄いものだと感動。すっぽかされたことなどキレイさっぱり忘れ感心するばかりだった。
私は図らずもキューピットの役目を果たしてしまったのだ。映画『男はつらいよ』の寅さんのようなものだ。恋愛ごっこは正味一日で終ったが本当に足下がフワウワして雲の上を歩いている感じがした。今考えても不思議でならない。
C子が居なければ一生、この不思議な感覚を味わうことがなかっただろう。C子と彼女を紹介してくれたB子に心から感謝した。ついでに菓子折りを開けもしないでB子に上げてしまったA子にも感謝。彼女こそ、このような機会を作ってくれた女神である。ところで、あの菓子折りの中身はB子さんとC子さんが美味しい美味しいと言いながら食べたと思う。
私は外見と内面がアンバランスな人。心の中を覗いてみれば、50年間いささかの進歩もない。昔の少年がそのまま化石になった様なものだ。風采に似合わず心の中では派手なことばかり考えている。歌いたい踊りたいモテたくて仕方がない。それなのに音痴で腰痛で、オマケにハゲだ。夢と現実との乖離が余りにも激しい。悩みは深く思慮浅い。
「二人でお菓子を食べている姿が目に浮かびます」
「いきなり何だ」と先輩は怪訝な顔をする。
「B子さんとC子さんですよ。私のプレゼントを一緒に食べたんじゃないかと思うのです」
「D助も一緒に食ったんじゃあないか」
「デンスケって誰?」
「アンタ宛ての分厚い手紙を書いた奴だよ」
「あれはC子さんが書いたに決まってるでしょう」
「証拠あるか。愚か者めが」
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