2018年03月17日

同僚の事故死

1980年頃はW市にある研修機関で働いていたが、3年過ぎて現場に帰ることになった。収入が増えるのは有り難いが、苦手な現場で働くのは気が重く複雑な心境だ。S空港から千歳に向かう前、S管制塔で働く友人に別れの挨拶に行った。

忙しいはずの管制塔がやけに静かだった。友人の話では小型機が着陸に失敗し滑走路閉鎖の状態だそうだ。そう言えば航空機が一機も飛んでいない。今日中にに千歳に行けるだろうかと心配になった。人身事故なので警察で捜査しなければならない。事故機は既に撤去されたと聞いてホッとした。大きな遅れはないだろう。その時は事故で死者が出たことも、同僚だったAさんが乗っていたことも知らなかった。

Aさんが命を落としたことを知ったのは、札幌に着いてからだった。 彼はアマチュアパイロットだが、事業用操縦士のライセンスを持っていた。同じアパートに住んでいたので、彼の車に同乗して帰ることが多かった。車中でよく雑談をした。

訓練中の(アマチュア)パイロットの面倒をみているんだとよく言っていた。判事って偉いのかと聞いてから、実は今度の訓練生は判事なんだと得意そうに言う。アマチュアだが気分は教官である。実際もそうらしい。彼が居なければ飛行機も借りられないし飛ばすことも出来ない。Aさんは独身のとき生活費を切り詰めて費用を捻出し、アメリカで飛行訓練を受けてライセンスを取得した。

新聞には乗員2名死亡と書いてあった。無口な奥さんの顔を思い出す。いつか彼がこんなことを言ったことがあるからだ。「金を貯めて女房にボタン屋をさせるんだ。ボタンは腐らないから素人でも出来る。あらゆるボタンをそろえて置けば、そこそこの商売になるんじゃないか。そうすれば年金のたしまいになるだろぅ」。

あれほど慎重な人が、こんな最後を遂げるなんて、人生は何が起こるか分からないものだ。私より少しだけ若くて意思の強い人だった。何をやっても出来る人だが飛行機の操縦が何よりも好きだった。存命ならば70歳を過ぎた今でも飛び続けたことだろう。堅実で慎重な人だから年金とボタン屋で稼げる範囲で楽しい余生を送っていたことご思う。

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タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)
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