2018年11月10日

瓦礫の街は飢餓の街

仮に人口200万人の札幌市が約500機の大型爆撃機に爆撃されて、市の8割が焼き尽くされて、人口も40万人に減ったとする。それだけでも悲惨だが、戦争が終わり安全になったと思い、焼け跡に1年間で50万人も帰って来たら大変だ。瓦礫の街が飢餓の街になってしまう。敗戦1年後、私たち母子が移住した頃の渋谷はそんな状況だった。

渋谷区のの人口は1940年度256,706人(国勢調査)だったが、太平洋戦争末期、1945年6月の推定人口は46,538人と5分の1以下に激減した。直前の大空襲等で渋谷区の77%が焼き尽くされて瓦礫の街となったからだ。記録によると渋谷区の空襲は全部で12回あったが、被災の大部分は戦争末期の2回の大空襲によるものである。

人口急減の大部分は、家を無くした人々が親類、知人等を頼って区から出て行ったものと考えられる。死者10万人と言われる2ヶ月前の下町空襲に比べると渋谷(山の手空襲)の死者は少なかった。下町空襲でその恐ろしさを思い知ったからだと思う。それに渋谷区内には緑豊かな逃げ場がある。それでも罹災者は5月下旬の2回の空襲だけでも約15万人に達した。以上、渋谷関係の数字は総務省公式ページより引用した。

戦争で急減した渋谷区の人口だが終戦後は急激に増加した。戦後1年間で渋谷区の人口は2倍以上になったと言う。学童集団疎開、縁故疎開、海外からの復員と引揚者等が渋谷に続々と帰って来た。それに何とかなるだろうと思って来た人たちも少なくない。

私たち母子も結婚するつもりで移住してきたし、その後母の兄たち二家族も母を頼って満州等から移住してきた。僅か20坪の土地にバラックを継ぎ足して三家族がひしめき合って暮らしていた。それだけではない。我が家の裏では、どこから来たのは分からない得体の知れない人々が10人以上暮らしていた。渋谷の人口が増えるわけだ。何も無い瓦礫の街の人口が急に2倍になると常に直面するのが食料不足である。

それだけではない。敗戦の1945年から約3年間で物価が100倍くらいになる猛烈なインフレに襲われた。3年後には食料を買うのにも100倍の金が要ることになったのだ。こんな時に常吉さんは肺病に罹り寝込んでしまった。母が用意した建築資金は医療費と食費で瞬くうちに消失した。母はもともと浪費癖があったが、インフレさえなければ全財産を失うことはなかったと思う。

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タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代
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