2019年02月02日

困った時には運がつく

小学生時代の悩みはパラック住まいとズボンの下にパンツをはいてないことだった。先ずパンツだが社会情勢が私の味方になってくれた。10歳ぐらいで仕事が欲しいといっても、なかなか無いが、運よくS経済新聞が新しく発行された。

大都市東京の新聞配達は中学生程度の体力が必要だ。人口密集地区だから沢山の新聞を持たされる。しかし新規参入のS経済新聞は購読者が少ない。部数が少なければ小学生でも配達可能だ。配達時間に影響するので受け持ち区域は極端に大きくは出来ない。

そのため、賃金が安すく三大新聞の半分以下だったが仕方がない。1ヶ月千円だが小学生にとっては充分な金額だった。国鉄最低運賃が10円で、もりそばが17円、そして40円で古い洋画が観れたのだ。しかし、母に食い扶持として700円とられた。その代わり端切れを縫い合わせてパンツを作ってくれた。そのころの下着は手作りが普通だった。

母は怖い人、私だけでなく家族全員が怖がっていた。だから母の言うとおり700円の食い扶持を入れたが、納得はしていない。母の金扱いのずさんさを知っているので、黙って母の財布から少しずつ戻していた。良心の呵責はなかったが恐怖感があった。食い扶持と言っても500円が限度だ。私はそれ以上払う気がなかった。

貧乏だが運だけは好かった。何もしなくても忌まわしいバラックは、安普請ながら木造の新築住宅となった。戦災復興土地区画整理事業で道路の幅が広くなった。当然土地は狭くなったが家を建ててもらえた。両隣の人が爪に火を点すような暮らしをしながら、自力で同じような安普請の家を建てていた。他の家は区画整理案に合わせて建てたから、我が家のバラックだけが道路予定地にはみ出していた。

世の中は不公平だ、全力をかけて自力で建てた家並みの中に、無料で建てられた家が並ぶことになった。もちろん最低限の木造家屋だがバラックから脱出できて大喜びした。家の中に台所とトイレがあることが何よりも嬉しかった。それに木の香りは格別だ。

私にとって最大の悩みは遅まきながら解消された。バラックから解放されパンツもはいた。焼けトタンのバラックは冬は寒く、夏は焼けるように熱いのだ。そして雨が漏る。そんな暮らしとおさらばだ。しかも、学校では堂々とズボンを脱いでパンツ一丁で身体検査を受けられるようになったのである。こんな嬉しいことはない。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代
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