2019年03月30日

キリギリス一家

終戦1年後の1946年、戦争中も贅沢をしていた私たち母子4人が焼け跡の街にやって来た。大空襲で渋谷区の8割近くが焼失し、戦争前には25万の人口も5万人と激減した。その人達が焼け跡に焼けトタン等で小屋を作り、米軍の仮兵舎風にバラックと呼んでいた。そんな状況の渋谷に横浜からトラックに乗って引っ越した。その頃の輸送手段は荷馬車やリヤカーだったから、かなり贅沢な引越しと言える。引越し先がバラックとは知らずに、5歳の私はトラックに乗って大喜びしていた。

当時の状況については「生い立ち2-東京へ」に書いたので省略する。それから3年たったら私たち家族は界隈で唯一のバラック住人となっていた。今風に言うと住宅街にポツンと1軒ホームレス小屋。そこに家族6人(妹は渋谷で生まれた)で住んでいる。テレビ番組の珍風景より、もっと珍しい風景になったのだ。恥ずかしかったが、古い記憶は全ての感情をそぎ落とし、事実だけを覚えている。今になれば懐かしくて楽しい思い出である。

小学生の私は学校で、隠せるはずがないのに隠し続けた。不思議なことに「お前はバラックに住んでいるだろう」とか言われた記憶がない。今も「アナタ音痴ですね」とは言われていない。両方とも隠したくても隠すことはできないことである。人は優しいと思う。

引っ越したばかりの母は近所で一番目立つ奥様になった。衣服は上等だし金も持っている。人付き合いも好くて気前も好かったので、知り合いも次第に増えて行った。私と違って歌も上手いので町内会の人気者にもなった。

母はいつも「人は付き合いが大切だ、常吉さん(養父)は付き合いが下手だからダメだ」と言って我が家の代表のように振舞っていた。しかし、彼が肺病に罹ると事態は一変した。貯えは徐々に減って行く、それと比例するように家に遊びに来る人も少なくなってきた。

バラックに住む人の夢は唯一つ、家を建てることだった。そのため子供を含め家族全員が全力で働き、徹底的に倹約をしていたのだ。我が家に遊びに来るのも栄養補給かも知れない。病気に罹ったのは常吉さんだけではなかった。お金の為に危険な作業をする人、体が弱いのに無理をする人、食料不足等、病気の種は尽きなかったのである。

それなのに我が家だけがバラックのままで、最後まで自力で家を建てることは出来なかった。区画整理の一環として行政が最も簡易な家を建ててくれた。それでも私はバラックから脱出できて大喜びだった。こんな結果になったのも空襲で家を失った人と、戦争中でも贅沢をしていた人との違いが出たのだと、今では思っている。私たちは、母を家長とする「アリとキリギリス」童話の、キリギリス一家だったのである。
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代
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