2019年04月06日

金は天下の回りもの

大空襲で80%弱が焼き尽くされた渋谷に、好んで住む人は居ない。金や頼るべき親戚がある人は一時的に暮らしの出来る場所に移動した。残ってバラックを作り住んでいた人達は、全力で働いて徹底的に節約し貯めていた。目的はただ一つ家を建てることである。そんな状況も知らずに、私たち母子4人は子連れ結婚という形で横浜から東京へ移住した。

一方、終戦直後の母親は横浜で文字通り歌って踊って楽しんでいた。昼は茶菓で子供を集めて歌唱指導、好んで歌ったのが「時計台の鐘」だった。母は食うや食わずで何の楽しみもない子供たちを見るに忍びないと言っていた。慈善活動のつもりだったと思う。

夜は父親(後に逃亡)が仕事関係で連れて来る、米軍将校等とダンスをすることもあった。女性社員と一緒に上品な接待をするためである。ついでに白状すると戦争中の母は海軍の宴会を取り仕切っていた。そして米軍は(日本)海軍より紳士的だと嘯くほど、変わり身が早やかった。戦争中も戦後も子育ては人任せにして仕事に没頭していた。

戦争中は皆苦労したと言うのは誤りだ。私は生涯で一番贅沢をしていた。その代わり戦後1年過ぎて貧乏が始まり2年目からはドカ貧だ。一方、空襲で強烈な恐怖を味わされ家を失った渋谷の人たちは、家族全員でアリのように働いていた。

空襲で全てを失った人と母とでは服装が全く違う。大きな家から小さなバラックに入る為には、多くの衣服を処分しなければならない。そのため上等な物しか手元に残らなかった。バラックは何処も同じような仮小屋だから、服装が貧富の差を表すことになってしまった。

こんなことで母のバラマキが始まった。近所の人を呼んで茶菓をふるまった。子供たちを呼んで歌ったり食べたりのパーティも頻繁に開いた。全ては地元の人達に溶け込みたい一心からだった。母としては出来ることをやって上げている、との気持ちもあったと思う。そんな時に養父が肺病に罹り事態は一変した。

母は金は天下の回りものと何時も言っていた。人のために使えば回りまわって自分の所に帰って来ると思っていたのだ。しかし誰もが全力で働き、金を貯え家を建てることを最優先にする、焼け跡のバラック住人には通用しなかった。

血の滲むような努力をして、区画整理前に新築した人達も道路に予定された部分には建てられない。その結果、道路予定地にはみ出しているのは、我がバラックだけになった。図らずも道路建設で唯一の障害物となってしまったのである。

除去が必要だたが、行政としては行先のない住民を追い出すことは出来ない。安普請ながら公費、即ち税金で家が建てられた。結局は皆の金で建ててもらったのだから、やっぱり金は天下の回りもの。回りまわって戻って来たのかも知れない。
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: