2019年08月03日

初めての航空事故

1964年、A空港着任2ヵ月後、航空事故に遭遇。定期便が着陸に失敗し片側の車輪が破損、片車輪による胴体着陸を決行した。事故機は緊急着陸準備のため空港上空で旋回飛行を続けた。長時間の上空飛行で事故を知った沢山の野次馬が車でやってきた。この時代自家用車を持つ人は前任地東京では少しだけ、この地方の豊かさを知った。

大勢の野次馬は立ち入り禁止の着陸帯(安全のため設けられた滑走路周辺地域)に侵入した。管制塔に事故機から無線で要請があった。「危険だから着陸帯に入っている人達を退去させてください。片足で着陸するので滑走路を大きく外れます」。

なぜか、私が状況を知らせて立ち退かせる役目を命ぜられた。新人の私は管制塔に居ても何もできない。ようやく役目を与えられて張り切った。しかし、広大な着陸帯に散らばる大勢の群衆を退去させられる筈がない。愚かな私は、やってみて初めて分かった。

何百人のも野次馬に向かって声を振り絞って「危険ですから下がって下さい」と怒鳴っても何の反応もない。不思議な顔をして私を見る人がいるだけだ。「この人、気は確かかな?」と思われたらしい。無駄なことだが個別に説得を試みた。

「危険ですから下がってください」
「アンタ誰だよ」
「空港に勤務する管制官です」
「カンセイカンってなんだよ?」
「パイロットが緊急着陸するから危険だと言ってきたのです」
「危険なのは飛んでる方だろ」
「人が邪魔で着陸できないと、あなた方を退去させるように頼まれたのですよ」
「今、飛んでるじゃないか。話せるわけないぺ」
「とにかく、ここは立ち入り禁止です」
「もっと、前に沢山いるだろ。あいつらに言え」

私は普段着、制服も制帽もなくメガホンも、笛も持っていない。第一、訓練も受けていないし、こんな仕事は初めてだ。10人くらいに声をかけたが、クタクタになっただけ、一人も動いてくれなかった。このときは何かあったら私の責任と思って、必死になってやっていた。後で考えれば、本当にやるべきことは何らかの方法で警察に知らせることだ。

機長と交信しながら私に命じた先輩管制官も冷静さを失っている。機長の要請をそのまま見習管制官の私に伝えたのだ。交信は一緒に聴いているから分かる。電話もインターフォンも少人数では対応できない。すべては話し中だ。周囲はテンテコマイで何も機能していない。先輩は警官への伝令として私に命じたのかも知れない。私だってそのくらいの知恵はあるが、現場に行くと警官が一人も見えないのだ。

疲れ果てた頃、警官が何人か来た。ピーと警笛を吹いてメガホンで「ここは立ち入り禁止、あそこまで下がりなさい」といって、警棒で行先を示すと、近くの人達が下がり始め、その後はゾロゾロと付いて行った。警官は予め機長の要請を聞いているようだった。

警察に知らせるべき人は、私たちの他に、航空会社、市役所(A空港の管理者)、主な空港使用者である陸上自衛隊等いろいろある。そのうちのいくつかが機能したのだと思う。後で分かったことっだが、ドタバタして役に立たなかったのは私だけではなかった。

九割の関係者は役に立っていなかったと思う。それに緊急着陸の邪魔になった関係者も多かった。一例を挙げれば、街から駆けつけた消防車、滑走路の端で止まって着陸の妨げになっていた。消防車との通信手段がないので無免許の同僚が車を運転して退去させに行った。消防官は着陸した飛行機を後ろから追って消化するつもりだったと言う。

更に事態を拗らした人もいた。そもそもこの空港は人的にも物的にも緊急着陸を支援する体制はなかったのだ。以上は私の朧気な記憶に過ぎない。時の経過と共に記憶は薄くなり、それを補うように想像の部分が増えて行く。結局はフィクションとなってしまった。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: