2019年09月21日

隠していたこと

このブログ、「空白の22年間」は写真、文書、物品等が何も残っていない22年間を、記憶だけを頼りに書いている。開設して2年近くなるが、幼少期から現在に至るまでを書いているのに、まったく触れていない部分がある。最も書きにくい部分が残ってしまったのだ。私の人生に最大の影響を与えた部分だが、書くか書かないか未だに迷っている。

私と同年配の人達は、日本のどん底からバブル景気、そして長い低迷時代を生きて来た。家庭に電話が無い時代からスマホの時代まで駆け抜けて来た。汲み取り便所からシャワートイレまでの経験がある。仕事に使う自転車を買うのにに苦労した時代から趣味で車を買える時代に……。前置きばかり長くなり、なかなか本題に入れない。

書きにくくて書かなかったことは、我が家が生活保護家庭だったこと。先ず、高校に行くことなど考えられない。自分の意思として中学を出たら働いて、保護の要らない家庭にすることが第一と考えていた。当時は貧困の時代、友人の家庭を含め、多くの貧しい人々が体が弱くても栄養失調でも保護を受けずに頑張っていた。命がけで働く時代だった。

2歳年上の次兄は成績優秀なので、先生が進学を勧めに何回も来た。金持ちの同級生も父が金銭的援助するからと進学を勧めに来た。次兄は彼が家に来ることを凄く嫌がっていた。先生も同級生も保護を受けていたら進学など出来ないことは知らないらしい。あるいは我が家が生活保護家庭であることを知らないのかも知れなない。先生は担任ではなく、自らも夜間の大学に通う苦学生で、貧しい生徒の進学に情熱をもって支援していた。

法的には知らないが生活保護を受けていたら高校には行けない、ただし働きながら定時制高校に行くことは目をつぶる、と言うのが当時の空気だった。私は次兄の進学騒動を見ていたので最初から高校に行く気はなかった。目をつぶると言うような曖昧なことでは、定時制高校にも行きたくなかった。

そんなときガキ大将の大ちゃん が雑誌を持って来た。そこには自衛隊の制服を着た少年が整列している写真があった。大ちゃんは「格好いいだろう。俺と一緒に受けないか」と言った。結局、3年生4人が受けることになった。受かったのは私一人。大ちゃんは商船高校も落ちて、水産高校に行き、他の二人は普通の高校に行った。

これで私は、生活保護の子供と知らない世界に行けると喜んだ。しかし未成年だから入隊には親の許可が必要だ。母は最初は渋っていたが、5400円の給料の内4000円を送金すると言ったら許可してくれた。働きながら定時制に行っている兄も二人いるし、これで生活保護から抜け出せると、私も前途に期待することが出来た。中学で就職する最大の理由は、生活保護家庭の子供と言う恥ずかしいレッテルを剥がすことだった。
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 中学時代
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