2020年04月18日

乗艦実習の思い出

「あさかぜ」と言う艦名は、画期的な命名だった。当時、保有艦艇のネーミングはフリゲート艦が樹木、例えば、くす、なら、かし。そして、上陸支援艇には草花に由来する可愛い名が付けられていた。例えば、ゆり、すみれ、はまゆう、と言う風に平和日本に相応しい命名だった。初めて貸与された高速駆逐艦エリソンは、旧海軍の駆逐艦朝風を踏襲して「あさかぜ」と命名された(と思う)。

書くまでは深く考えなかったが、艦と船を微妙に使い分けていた。話すとき「艦に帰る」とか言わない。「船に帰る」である。同様に「うちの船ではアイスクリームが食べ放題」とかね。

護衛艦「あさかぜ」は米国製の駆逐艦だから、艦内の烹炊所にアイスクリーム製造機があり、夜食としてアイスクリームが無料で食べ放題だった。嬉しくて、食べ過ぎて、腹を壊したほどだ。

艦橋電話員として働くのは一番気分が好かった。電信室ではいつも叱られているのに、艦橋では叱られない。艦長に一番よく叱られているのは、意外にも船で艦長の次にエライ副長だった。

「スマートネイビー」の風格ある海軍兵学校出身の艦長は最年少の私が敬礼すると、いつも笑みを浮かべて答礼してくれた。一方、副長に操艦の指導をするときは厳しく、副長を怒鳴り付けるのでビックリした。後継者への教育だからと思う。

共同訓練EBBが終わるとドックに入る予定なので、艦を軽くするため砲弾を、ほぼ全員約250名が1日がかりで陸揚げした。一列に並んで一つずつ手渡しして運ぶのだ。終わったころはクタクタだったがホッとした。ところが、三日もしない内に、下ろした砲弾を積み込むことになった。無駄な苦労をしてガッカリした。

多分、何らかの事態が発生して米軍のディフェンス・コンディションが戦闘態勢を取るレベルまで上がったのだと思う。事態の重大性は全く分からないが、積み込んだ砲弾は再び下ろさなければならないことだけは、良く分かる。

砲弾を積んだままではドックに入れない。砲弾積み下ろしの苦労を忘れる間もなく、やるのだから嫌になる。私は全力でやっているのに、両隣の隊員は余裕たっぷりだ。彼らにとっては退屈極まりない単純作業に過ぎない。体力の差を嫌と言うほど感じた。

情けないことに、時々ある肉体労働がもの凄く辛かった。高速駆逐艦の乗組員は強くなければいけない。弱いと言うレッテルを張れたら、お仕舞だ。それなのに、力は無いしアンテナ塗装作業の際には恐怖を感じる。これではお粗末すぎる。これらの作業から逃れるには、辞めるしかない。職を転々は23歳まで続いた。

ドック - Wikipedia
船の建造、修理、係船、荷役作業などのために築造された設備及び施設の総称である。船渠ともいう。単にドックと言った場合は乾ドック(ドライドック)を指すことが多い。船体を水から上げることは「上架」と呼ばれる。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(3) | 転職時代(15-23歳)
この記事へのコメント
ssn 1311
昔、呉教育隊33期。
最初の艦は「あやなみ」
いそなみ、ばら等に乗りました。
舞鶴教育隊何期でしたか。
ゆっくり昔話をしたいですね。
メールください。
Posted by 川又隆司 at 2020年05月11日 21:39
ssn 1311
昔、呉教育隊33期。
最初の艦は「あやなみ」
いそなみ、ばら等に乗りました。
舞鶴教育隊何期でしたか。
ゆっくり昔話をしたいですね。
メールください。
Posted by ハンドルネーム かもめ at 2020年05月11日 21:42
コメントありがとうございます。
船に乗っていらしたのですね。
私は実習で7ヵ月だけです。
舞鶴では第2期少年練習員と呼ばれていました。
終わったら直ぐ術科学校です。
虚弱体質で落ちこぼれて中途退職しました。
時代はだいぶ違いますが、お会いする機会がありましたら。
昔話もしたいですね。
Posted by nakapa at 2020年05月12日 11:50
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