乗艦実習に入ったのは17歳のときだった。たった7ヶ月だが、私にとっては憧れの艦隊勤務。赴任先は護衛艦あさかぜ、米国から貸与された速力37ノットの高速駆逐艦、米国名はエリソン。ちなみに、当時保有の主力はフリゲート艦で最高速力は18ノット。
初めての航海は九州のS港より関東のY港だった。Y港では就役まもない新鋭護衛艦あやなみ艦長に同期生数人で挨拶に行った。艦長室に入ったのは後にも先にもこれ1回だけ。艦長は案内してくれたり、一緒に写真を撮ってくれたりして歓待してくれた。
実は、元術科学校の偉い人が新鋭艦あやなみの艦長になったのだ。離任の挨拶で「諸君とは海上で会おう」と仰った。まだ10代の少年たちは、その言葉を真に受けての訪問である。お相手して下さり良い思い出ができた。今になって艦長に感謝。
帰りの航海は、酷いものだった。土佐沖で台風に遭ってしまったのだ。その前から船は揺れ食べても皆、吐いてしまったが、当直交代で嵐の中を電信室に行くことになった。
居住区からハッチを開けて甲板に出てラッタルを上がり電信室に行くのだが、大きく揺れて歩くのが大変。ハッチを開けたら頭から海水をかぶった。外に出るときはゴム製の雨合羽を着る意味がやっと分かった。
海水の勢いでヨロケテ転んで、網にかかって命拾い。今度は両舷に網を張っている意味も分からせてもらった。こんな時でも吐き気が収まらない。もう吐くものが何もない。それなのに苦しんだ。
自分では何と表現していいか分からないので『爆釣遊撃隊シーゲリラ1号館のページ』を借用。そこにはこう書いてあった。「吐く物があるうちはまだいい。胃の中が空っぽになったときが船酔いの真骨頂、本当の苦しみが訪れるのである。胃が飛び出んばかりにこみ上げてくるも、嘔吐物がないため出てくるものは黄色い胃液。顔を真っ赤にし、目には涙を浮かべながら、もがき苦しむ」。
船でのゲロ吐きの作法は、絶対に甲板に吐いてはいけないこと。当直中に吐くときは、先ず帽子に吐く、次は靴の中と教わっていた。こんな時でも、ちゃんと思い出す。レジ袋の無い時代だ。
しかし、嘔吐物も胃液となると粘りが強くて顔面にへばりつき、落ちて行かない。たとえ落ちても甲板にぶつかる様に流れ込んで来る海水が、直ちに洗い流してくれる。この時は船よ沈め、転覆せよと心から願った。そうすれば楽になれる。
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