2021年08月14日

母と私-4(そして妹)

母は三人の子連れで東京渋谷の中波常吉と一緒になった。そして、春子が生まれた。終戦2年後の1947年のことだった。常吉さんはもちろん、年の離れた兄弟も春子を可愛がった。

とは言っても、バラック生まれの貧乏暮らし、惨めな思いも苦労もあったと思う。妹は父親似の小柄な美人に育ったが、真っすぐな人生は歩めなかった。

後になって偶然知ったことだが、妹は中学生のころ深刻な犯罪被害に遭い、これが転落の切っ掛けとなった。十代で二児の母となり、結婚・離婚を繰り返す波乱の人生を送った。それでも病気の父親の面倒を最後まで一人でみていた。

中年になってから年下で実直な、驚くほど良い人にめぐり逢い、二人の娘と共に幸せになった。だが、71歳で亡くなってしまった。人生の前半は苦労と波乱に満ちていた。そして、後半は愛する夫と娘、孫に囲まれて幸せに過ごした。

私は中卒後、地方で働いていたが、3年9ヵ月後に、退職して家に帰り、仕事(経師屋)を手伝うことになった。ところが仕事が忙しいというのは真っ赤な嘘。母は私が退職金や貯金をいっぱい持ってくると勘違いしたのだ。

退職金は旅費で消える程度だし、給料の大部分を家に送金していたのに貯金など出来るわけがない。1年も一緒に暮らせば、母も私がスカンピンであることが分かったし、させる仕事もない。私は母にとっても不要な息子となった。

妹は私が送った金を母がパチンコ代にしたと嘆いていた。この頃になると必要な金は金貸しのTさんから借りていた。妹は私の知らない家庭の事情をいろいろ話してくれた。

15歳のときは家を助けるために外に出たが、20歳のときは自分が生きるために家を出なけばならなくなった。ところで、文無しでも行ける場所がある。それは自衛隊、下着や靴下まで支給される。自分で用意するのはパンツだけでいい。

入隊した、その日から住む所と食事が与えられた。3年満期だから安定職とは言えないが、就職のための免許も取れると聞いた。それに虚弱体質の私は肉体労働が苦手だ。中卒の私にとって自衛隊は、事務的な仕事が出来る唯一の場所と考えた。常識に反するかも知れないが、正解だった。

令和元年に妹から来た年賀状に、次のような添え書きがあった。「この年になり大病し、私たちは変な家族だったから 今、兄の温かい手紙を読んで泣けて泣けて嬉しくて、本当にありがとう。感謝の気持ちでいっぱいです」。

妹の残した最後の言葉は「私たちは変な家族だった」。全く同感、我々家族は変だった。その中で一番人間らしく生きたのが妹だ。全ては優しく真面目、面倒見の良い夫の影響と思う。母の葬儀が滞りなくすんだのも彼のお陰だった。妹は私が少しは変でなくなったと思い、喜んでくれたのだろう。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般
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