2023年02月04日

第二の運

3ヶ月の訓練終了後の赴任先は埼玉県にあるジョンソン基地内のフライトサービスだった。米兵との会話もタイプも苦手、おまけに不器用な私は5人の新人の中で真っ先に脱落した。職種替えして半年後に体調を崩し依願退職。ここに至るまでの経過は第一の運に書いたのでここでは省略。ただ3ヶ月の英語づけ訓練は勉強するキッカケにはなった。

職を転々として6年目に大発見をした。国家公務員試験は原則学歴不問のことである。そして、運良く驚くほど楽な仕事が見つかったのだ。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。

新橋のPTI東京支局で働くのは日本語を話さないインド人の記者と私の二人だけだった。記者はは取材に歩いているので、ほとんど一人勤務。月給1万5千円、但し365日休み無しで健康保険もない。仕事は留守番とテレタイプで受けた情報をNHK、朝日新聞、外務省、インド大使館、関係通信社に配達するだけだった。

一人じゃ淋しいという人には向かないが、私にとっては都合が良かった。時間を好きなように使えるからだ。8時間勤務中6時間は暇、配達も都電利用なので車内でも勉強できる。家に帰ってからの時間も加えればタップリ寝ても、10時間の勉強時間があった。

次の課題は何を受験するかだが、初級職は高校の勉強ができないし、年齢制限で1回しか受けられない。航空管制官なら中級職だから27歳まで6回も受けられる。後で知ることになるが、合格した同期の中に27歳の人も居た。それに専門科目が英語なので自習で何とかなると思った。

試験は短期大学卒業程度と定められていたので合格するには3年程度はかかると考えていた。先ずはお試しと思い受けてみたら受かってしまった。面接での英会話は初歩的なものだったが、筆記試験が凄く難しく絶対に受からない思っていた。それなのに受かってしまったので驚いた。後で分かったことだが、当時の状況は質よりも人数が重要だった。

時の運である。時代は東京オリンピック景気のさなかにあった。民間と比べて公務員、特に国家公務員の給料が著しく安いので人気がなかった。特に管制官はマスコミ報道で、仕事が厳しく給料が安いと知られていた。実際、60名の合格者のうち約半数が採用を辞退した。受験の時は学生服を着た若い人も多かったが、同期生の殆どは有職青年か失業者だった。これが第二の運、健康保険のある安定職に就くという私の夢は叶い、英語の勉強をする気が失せてしまった。

懐かしいPTI東京支局があった西新橋2森ビル
六本木ヒルズで知られている森ビルの歩みは1955年から始まっている。森ビル株式会社の歴史・沿革に次のように書いてある。「はじめに完成した西新橋2森ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」。インドの通信社というのが私が働いていたプレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)東京支局だった。焼け残った長屋の隣に建った小さなビルでスタートした会社が今では、日本を代表する総合ディベロッパーへと大きく発展した。最近になって知り驚いている。

西新橋2森ビルの写真 → 森ビルKK 歴史・沿革
タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 転職時代(15-23歳)
この記事へのコメント
先輩、退院後も健在なご様子。私も大きな力に4度助けられました。現在紙パンツ、尿もれパッドつけて動き回っています。昔、友彦さんが一病息災と言われた外を思い出します。
Posted by 鈴木靖雄 at 2023年02月09日 06:57
歌って踊れるモテモテの鈴木さんも大変ですね。
相変わらず動き回っているのは楽しい事があるんでしょ。
私は口と心だけは元気、余生を楽しんでいます。
いつまでも、お元気で。
Posted by 石川 at 2023年02月09日 08:57
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