懐かしい故郷というけれど、故郷のない人は増えていると思う。私もその一人だ。生まれたのは1940年横浜の貸家、しかも幼児だったので記憶も殆ど無い。一応、小中学校時代を過ごした渋谷を故郷と感じているが、人手に渡ってしまったので帰れる場所ではない。故郷は知らぬ間に失われた。
60歳の秋、中島公園の近くに転居した。近くを散歩してみると、少年時代に見た渋谷の風景にそっくりな場所があり、とても懐かしく思った。
遠くに見えるのが転居した私の住居。この道路は砂利道、真っ直ぐな筈なのに道路にはみ出た家がある。幼少期の暮らしを思い出した。今でもこんな所があるのかと驚いた。そして、懐かしさが胸に込み上げてきた。
こんな家がポツンと一軒だけある。子供の頃に住んだバラックを思い出し、とても懐かしい。ところで隠していたことがある。キーワードは生活保護、中卒、自衛隊である。この家との出会いが隠し事を書く切っ掛けとなった。恥じて隠そうとする思いより、懐かしく想う気持ちの方が強くなったのだ。これらを抜きにして自分の人生は語れない。
転居した初めての冬に撮った市電電停「行啓通」は住居より徒歩2分の場所にあった。昔住んでいた家も都電電停「青山車庫前」より2分程度の所にあった。写真を見るとタイムスリップして70年前の都電電停に立っているように感じる。傾いた小屋を中心に広がる雑然とした風景が、そう思わせる。私にとっては懐かしい風景でる。
空襲で焼き尽くされた渋谷区では、焼け残った神社が子供達の遊び場だった。当時の家から近い順に金王八幡神社、氷川神社、明治神宮等にはよく遊びに行った。転居先のマンションの近くに弥彦神社、護国神社、水天宮があり懐かしく思った。ただ昔の渋谷とは違って神社で遊ぶ子等は少ない。
小学4年のとき洋画を観るのが大好きになった。それから5年間、古い洋画専門のテアトルSSに通い続けた。入場料が40円と格安なのが取り柄だ。家から20分程度歩いたと思う。歩いて映画に行くことが長い間の夢だった。中島公園を出て15分くらい歩けば映画館東宝公楽があると喜んだのは束の間、多くの映画館と同じように閉館した。
地下鉄の階段は電車が来るごとに風がきて涼しい。夏は兄弟3人で涼みに行った。焼けトタンのバラックは茹だるような暑さだから青山6丁目駅に避暑に行くのだ。地下鉄の利用者は階段に黙って座ってる3人を見て浮浪者と思ったかも知れない。地下鉄は乗らなくても生活の一部だった。
あばら家、砂利道、電停、神社、映画館、地下鉄駅、どれも幼少期の思い出に繋がる。21年前に転居した山鼻地区の風景は、私が故郷と思っている昔の渋谷の片隅に似ている部分があって懐かしい。渋谷で暮らして10年、その後帯広、岩沼、福岡等20回以上の転居、そして、現住所に落ち着いて21年、ここを故郷と定めるに不足はない。残念ながら地元から浮いている。いつも根無草(^-^;) ゴメン
【人生全般の最新記事】