2021年07月10日

ドウジュンカイの記憶

6歳の記憶は曖昧だがドウジュンカイと言う単語は、何回も繰り返し聞いていたので明確に覚えている。その後、時々思い出すが意味は分からない。60年後のテレビ報道で初めて、本当の意味が分かった。そして、いろいろ思い出した。

太平洋戦争前、1940年の渋谷区人口は約26万、それが戦争末期の1945年6月の推定人口は度重なる空襲の影響で約5万へと激減。そして終戦後は一転急増、一年で二倍を超えた。

焼け野原の渋谷で人口が急増。たちまち飢餓の街となった。食料が無いのに人口だけが増えたからだ。復員兵、引揚者、疎開の人たち、そして、何とかなるだろうと流入した人々。私たち母子4人も縁あって、横浜から渋谷にやって来た。

後に私の養父になる表具師、中波常吉は、1945年5月の「山の手大空襲」で妻子を失った。家も店も焼かれた常吉さんは、青山(東京都渋谷区)の焼け跡のバラックで、一人淋しく絶望の日々を送っていた。

一方、実父、伊吹金吾は横浜界隈で、戦前は海軍、戦後は米軍相手に要領よく稼いでいた。ところが運もそこまで。闇物資を巡るトラブルで、追われる身になった。5歳の私には何も分からないが、実父は母子に充分な生活費と家を建てる金を残して逃げ、行方をくらましたと聞いている。

母子、4人は縁あって常吉さんと一緒になった。狭くて汚くて不便なバラック生活が始まったが、渋谷区青山に家を建てるという希望があった。近所は貧しかったが、我が家だけは懐が豊かだった。何時の時代も都会生活は金次第、飢餓の街だがタップリ食って、それなりに楽しんでいた。

養父は働きに、兄二人は学校に行くと、母は近所のバラックに住む奥さん方を呼んで茶菓でもてなし、世間話しを楽しんでいた。小屋は狭いし、幼児の私は一人ぼっちで退屈していた。母たちの話し声だけが耳に入る。お喋りの中で、記憶に残っている言葉がドウジュンカイである。それは横浜にある夢の世界だろうか。ドウジュンカイって何?

バラックは狭く、世間話は全部聞こえたが、近所の奥さんの話は何一つ覚えていない。記憶にあるのは母の話すことだけだった。横浜での優雅な生活の話は、私の朧げな記憶と一致していたからだ。そして、ドウジュンカイの記憶?

場所のことか、遊び場のことか、大人の世界のことか、6歳の私にはサッパリ分からない。その後、小学生、中学生になって関りを持つことになったが、それがドウジュンカイとは知らなかった。それから60年後、テレビ報道でドウジュンカイの本当の意味を知った。--続く--
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2020年02月08日

長兄

長兄9歳、次兄7歳、私5歳、母30歳の時、父が自分の命を守るため姿をくらませた。戦争中も終戦直後も豊かな暮らしをして来たが、こんな旨い話が続くわけがない。父の運もついに尽きたのである。残された母子は1年余りで、どん底に落ちた。

物心ついた頃がどん底の私は、だんだん良くなる 右肩上がりの人生を歩んできた。だが、三つ子の魂百までというのは本当だ。根っからの貧乏性になってしまった。宝くじで三億円当たっても、この性格は直らないと思う。しかし、9歳まで豊かな暮らしをした長兄は私とは違う。いくらか坊ちゃん風なところを残していた。

兄は豊かな暮らしから、どん底に落ちた。その後も貧乏生活は続き辛い思いをした。中学生のときは全国から列車の集まる品川駅で列車清掃のアルバイトをしていた。家に帰る途中で何らかの疑いをかけられて警官の職務質問を受けた。身体に似合わない大きなリュックサックを背負っていた為と思う。

警官にリュックの中身を見せるように言われて、拒否したので疑いを更に深め交番に連行された。中身は汽車弁の食べ残しだから、見られるのが恥ずかしかったのだ。家には腹を空かした弟妹が居た。食える物をゴミにするのは、もったいなくて見過ごせなかった。それで客車の中から食えるものを拾って来たのだ。経木の弁当箱の中身は少ないく容積ばかりが多い。リュックが膨らむわけだ。

リュックの中身は誰にも見られたくなかったのに、見せることを強制された。警官としては普通の仕事だが、見られる側はとても辛い。貧乏でもプライドはある。普通に食べてるフリをしているのだから、拾い食いは絶対に見られたくない。100%隠したいのだ。

兄は中学を卒業すると働きながら定時制高校に通い、寮費がひと月三千円という格安な大学を見つけ、大学院まで行った。アルバイトしながら、自力で卒業した。主に家庭教師をしていたが、人には恵まれ、いろいろ援助をしてもらっていた。落ちぶれた坊ちゃん風なので、同情してもらえたのかも知れない。

兄と一緒に暮らしたのは15歳まで、その後は遠く離れて暮らしていたので、会うこともほどんどない。何年間も会わないこともある。中卒以来65年で10回以下しか会っていないと思う。最後に会ったのは、はっきり覚えていないが10年前くらいと思う。

長時間、昔話をしたのは、そのとき1回だけだった。話し合って好かったのか悪かったのか、自分の記憶がいかに曖昧かは、よく分かった。意外な事実を突きつけられて驚いたので壊された思い出 としてブログに書いた。へ〜、そうなのかと思いながら書いていた。何もかも整理、記憶も整理、これが終活かなと思った。
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2020年01月11日

実父

5歳で別れた実父については記憶も薄い。ここに書く父は断片的な伝聞を頭の中で繋ぎ合わせたものである。父は私が5歳のとき仕事上のトラブルで暴漢に襲われ、命を守るために身を隠した。行先については母にも知らせなかった。決めずに逃げたのかも知れないが、後になって知らせてくることもなかった。

父は栃木県の貧しい小作人の子として生まれ、コックとして身を立て、N郵船で働いていた。戦争が始まる前は外国航路の船員はモテモテだった。そのころに横浜で働いていた母と結婚した。当時では珍しい核家族だから祖父母のことは全く知らない。

母の兄は横浜の請負師で父とは遊び仲間だった。戦争が激しくなると目端の利く彼は、船員は軍人より危険と予想し、収入が激減すると渋る父を、強引に説得して船を下ろさせた。父は糧食関係の仕事で海軍の飛行機製造会社に就職した。

父が採用されたのはN郵船での業務実績もあるが、船乗り仲間や請負師仲間を通じて、闇社会に精通していたからだと思う。戦争が激しくなって来ると正規のルートでは食料確保が難しくなってきた。普通の社員だけでは会社はやって行けないのだ。

父は戦時に作られた法律「食料管理法」違反で何回も警察に捕まった。捕まるたびに会社が貰い下げてくれた。既に会社にとって必要不可欠な人材となっていたのだ。最終的には課長になった。汚れ仕事で会社に貢献したのが認められたのだ。父は自分は学校を出ていないが、部下は学校出ばかりだと自慢していた。

戦後は何をやっていたか分からないが、家に来るお客さんが海軍軍人からアメリカ兵に変わったので、米軍相手の仕事と思う。父の変わり身の早さには呆れてしまった。ただ、終戦直後は混乱とアングラ経済の時代。清く正しく儲けた人は居ない。成功者は沈黙を守るし、失敗者の殆どは無力で発信力がない。当時のこうした状況が、いつの間にか忘れ去られている。

父のことは何も思い出せない。5歳まで一緒に居たのなら、何か覚えているはずだ。しかし、暴漢に襲われた父と、逃げる前に旅支度をしていた姿しか覚えていない。

理由は不明だが父が家に居た記憶は殆どない。居たような気もするが、毎日家に帰って来る、普通の父でないことは確かだ。事件以前の記憶として、父が川で泳いでいるのを見たこと、一緒に絵を描いたこと、他の記憶もいくらかあるが、いずれも断片的なワンシーンの様なもので、繋がりのある記憶は何もない。
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2018年11月10日

瓦礫の街は飢餓の街

仮に人口200万人の札幌市が約500機の大型爆撃機に爆撃されて、市の8割が焼き尽くされて、人口も40万人に減ったとする。それだけでも悲惨だが、戦争が終わり安全になったと思い、焼け跡に1年間で50万人も帰って来たら大変だ。瓦礫の街が飢餓の街になってしまう。敗戦1年後、私たち母子が移住した頃の渋谷はそんな状況だった。

渋谷区のの人口は1940年度256,706人(国勢調査)だったが、太平洋戦争末期、1945年6月の推定人口は46,538人と5分の1以下に激減した。渋谷区民の多くが地方に疎開した。直前の大空襲等で渋谷区の77%が焼き尽くされて瓦礫の街となった。記録によると渋谷区の空襲は全部で12回あったが、被災の大部分は戦争末期の2回の大空襲によるものである。

人口急減の大部分は、家を無くした人々が親類、知人等を頼って区から出て行ったものと考えられる。死者10万人と言われる2ヶ月前の下町空襲に比べると渋谷(山の手空襲)の死者は少なかった。下町空襲でその恐ろしさを思い知ったからだと思う。それに渋谷区内には緑豊かな逃げ場がある。以上、渋谷関係の数字は総務省公式ページより引用した。

戦争で急減した渋谷区の人口だが終戦後は急激に増加した。戦後1年間で渋谷区の人口は2倍以上になったと言う。学童集団疎開、縁故疎開、海外からの復員と引揚者等が渋谷に続々と帰って来た。それに何とかなるだろうと思って来た人たちも少なくない。

私たち母子も結婚するつもりで移住してきたし、その後母の兄たち二家族も母を頼って満州等から移住してきた。僅か20坪の土地にバラックを継ぎ足して三家族がひしめき合って暮らしていた。それだけではない。我が家の裏では、どこから来たのは分からない得体の知れない人々が10人以上暮らしていた。渋谷の人口が増えるわけだ。何も無い瓦礫の街の人口が急に2倍になると常に直面するのが食料不足である。

それだけではない。敗戦の1945年から約3年間で物価が100倍くらいになる猛烈なインフレに襲われた。3年後には食料を買うのにも100倍の金が要ることになったのだ。こんな時に常吉さんは肺病に罹り寝込んでしまった。母が用意した建築資金は医療費と食費で瞬くうちに消失した。母はもともと浪費癖があったが、インフレさえなければ全財産を失うことはなかったと思う。

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2018年11月03日

幼少期の引越し

大船駅は鎌倉市と横浜市にまたがっている。私は横浜で生まれて、鎌倉市に編入される以前の大船町に移住した。4歳になった頃からアメリカ軍による日本本土への空襲が激しくなった。そのため1年に2回も疎開をする羽目になった。しかし、汽車に乗った記憶が全くないのに、疎開先での幾つかの出来事を記憶している。

実父の故郷である栃木の田舎に行ったときは、祖母が赤いフンドシをしているのを見て不思議に思った。2回目の疎開は女中さんの故郷である福島だったが、隣家が空襲で燃えていたのを覚えていた。それから60年後、いずれも記憶違いであることが分かった。

栃木での赤フンについては祖母に先立たれた祖父が食事の世話をしてくれたが、4歳の私は食事の世話は女性がするものと思い込んでいた。福島も空襲ではなく隣家でボヤを出したとの話だった。空襲警報がある毎に森の中に逃げて、蚊帳を吊って過ごした記憶がある。それと結びついて空襲の記憶となったらしい。

しかし、敗戦後の5歳ごろからの記憶は確かだ。初めてトラックの荷台に乗って凄く嬉しかった。極端な燃料不足のためバスは木炭車になり荷馬車も復活した時世なのに、トラックで引越しとは豪勢だ。空襲被害の無い大船から殆ど焼け跡の渋谷に引っ越した。行先はホームレスの仮小屋のような焼け跡のバラックだった。

渋谷区は数回の大空襲で77%が焼き尽くされた。焼けトタンのバラックの他、被災者は廃車となったバスとか、出来る限りの工夫をして雨風を凌いだ。安普請ながら木造の新築も建っていた。極端な食料不足が全ての空き地を畑に変えた。飢餓の時代だが金さえあれば飢えることはない。そして母は食べるには充分以上の建築資金を持っていた。

居住環境はどん底だが5歳の私にとっては何処に居ようと飯を食って寝ることに変わりはない。母は三人の子を連れて、後に私の養父となる中波常吉さんと同居した。実父が行方不明では離婚が出来ないから結婚もできない。ただ実父は家を出るときに母子の生活の為に充分な金を残してくれた。

この辺りの事情は生い立ち2−東京へ に書いたのでここでは省略する。さっそく新家族で親戚への挨拶に行った。最初は赤坂で洗濯屋をしている常吉さんの姉の家だが玄関先で帰された。どうもこの「結婚」には反対らしい。次に浅草で魚屋をしている弟のところに行くはずだったが止めた。こうして前途多難な渋谷での暮らしが始まった。

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2018年09月01日

知らぬが仏

人生を語るのが好きだが語り合う人はいない。仕方がないので書いている。ところで山口県で行方不明になった二歳児が三日ぶりに保護され、誰もが知る大きな話題となった。ふと人が恐怖を感じるのは何歳くらいからかと考えた。と言うのは私の場合、同じような経験をしても5歳の時と8歳の時とでは感じ方がまるで違ったからだ。

5歳のとき家族の運命を左右する劇的な事件が起きた。戦後の混乱期に父親が暴漢に襲われて血だらけになって担ぎ込まれた。玄関の戸をバンバン高く音と「……さんが、やられたー」と叫ぶ声、頭から血を流してして抱え込まれた父親の姿、家じゅう大騒ぎになったことを覚えている。不思議なことに5歳の私は怖いとか悲しいとかの感情がなく心配もしていなかった。当時の家庭状況を含めた経緯は「生い立ち」に書いたのでここでは省略する。

事件をきっかけに父親は姿をくらまし母子はどん底に落ちた。その後母は3人の子を連れて再婚した。3年後の私は渋谷の焼け跡に建つバラックに家族6人で住んでいた。ある日学校から帰ると6畳大のあばら家に人の気配が無かった。小屋には窓が無く昼でも薄暗い。布団を被って寝ている人が居るようだ。暗闇に目が慣れてくると、その人は頭も顔も包帯でぐるぐる巻きだ。白い包帯に血が滲んでいる。直感的に養父と思った。

8歳になった私の反応は、5歳の時とは全く違っていた。既に世間のことも生活のことも分かっている。声をかけるどころか不安で近づくことも出来なかった。事態を知ることさえ恐ろしい。外に出て当てもなく歩き回った。ギリギリの生活をしていたので、明日から食えなくなると不安に駆られていたのだ。この辺りの事情は「ゴミで財産を築いた人」に書いたのでここでは省略する。

5歳の事件体験については今でも覚えているが、感情を伴わないので精神的ダメージは無い。不安な未来でも知らなければ平静でいられる。間もなく78歳になる私も先のことは何も分からない。「知らぬが仏」の心境でで楽しく幸せに暮らしている。命に限りがあることは分かるが実感がない。都合の悪いものが見えなくなって来た。困ったものだ。
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2017年03月04日

米兵に捕まり叩かれる

「先輩はアメリカ人に叩かれたことがありますか」
「ない。 二つも若いんだから先輩と言うな
「仕事では先輩だからいいでしょ。私はあるんですよ」
「屁理屈ばかり言ってるからだ」
「英語で屁理屈言えませんが……」
「顔を見れば分かるんだよ」
「なぜ叩かれたか知りたくないですか」
「ない。興味ない。聞きたくもない」

多分皆さんも先輩と同意見と思う。だけど私は話したい。例えば山で熊と出会い上手く逃げたら話したくなるだろう。私にとってはそれと同じくらいの大事件である。しかも覗きをしていたのはタケちゃんなのに、何も知らずに星を見ていた私が米兵に捕まったのだ。こんな理不尽なことはないから話して気を晴らしたいのだ。

「金王クレインズ」とはペンキ屋のタケちゃんをガキ大将とする10名くらいのグループだ。全員が金王町に住む渋谷区立常磐松小学校の生徒である。学校へ行くのも遊ぶのも一緒だった。タケちゃんは6年生だがペンキ屋の息子と言うよりも一端のペンキ屋気取りである。当時の子供たちは皆家の仕事をしていた。6年生ともなれば立派な働き手になる。

仕事が出来るタケちゃんは自分を子供とは思っていない。建築現場に行けば職人から面白い話を聞く機会もある。聞けば興味もわいて来る。仕事だけでなく悪いことも覚えて来るのだ。年の割にませた少年になったとしても不思議ではない。

多分小学1年の頃だと思う。その頃は何時も二人の兄の後を金魚の糞みたいにくっついて歩いていた。一応、クレインズの一員のつもりだったのだ。ある夕暮れ時、クレインズは冒険に行くことになった。何処に行くのか分からないままついて行った。着いた所は渋谷駅から徒歩10分くらいの位置にある美竹公園だった。公園といっても草木だけで何もない。近くに建築中の渋谷小学校があるだけである。

美竹公園は梨本宮家跡地の近くにあったと記憶している。梨本宮家の約二万坪は大空襲で焼き尽くされた。戦後は宮様が戦犯で逮捕され宮邸は草ぼうぼうの荒れ放題だった。子供たちにとって絶好の冒険広場だ。そこで遊んでいたら怪しげな男が現れて「お前達見たことないだろう」と言って拳銃を見せてくれたこともある。否が応でも子ども達の冒険心を刺激する場所だ。ともかく夕食後にその辺を目指して出発した。

建築中の小学校付近に着くとタケちゃんは「お前たちはここで待っていろ。俺たちは偵察に行ってくる」と言って6年生と二人で薄暗い草むらの中に入って行った。私たち三兄弟は草むらに寝ころんで星を見ていた。狭いバラックに5人も一緒に居ると嫌になる。外に出るだけで気分はいい。なぜか子供の夜遊びは親にも歓迎されていた。

ノンビリ寝ころんでいると遠くの方から女性の声が聞こえる。続いて英語の怒鳴り声が闇に響いた。男の声なのでビックリして起き上がった。タケちゃんが走って来た。「逃げろー逃げろー、見つかったー、逃げろー」と叫びながら全速力で走って来た。兄達は私にかまわず一目散に逃げてしまった。もちろん、タケちゃんは先頭を切って逃げている。

タケちゃんは登校グループのガキ大将だが、6年生だから年功序列でなったのだ。力でその地位を勝ち取ったガキ大将ほど強くない。遊び場を巡って他のグループと対決すると、何時も脅かされて譲ってしまう。そのくせ後で必ず悔し泣きをする情けない大将だった。それでも皆で一緒に学校に行く仲だから卒業まではガキ大将だ。

ビール瓶が飛んで来た、石も飛んできたし棒も飛んできた。皆いっせいに走り出した。私も走った。恐怖心に駆られて懸命に走っていると、突然身体が宙に浮いたように感じた。後のことは何も覚えていない。ただ、お尻をパンパンと何回か叩かれたことだけは覚えている。何で逃げるのか、さっぱり分からないまま逃げて捕まった。顧みれば子供の頃からノロマで愚かだった。

ところで、近所の子供たちは夕飯後は外に出て路地や空き地に集まってお喋りするのを楽しみにしていた。横浜から移住した二人の兄は共通の話題もなくニコニコしながら聞いているだけだ。その兄にくっついている私は推して知るべし、ただそこに居るだけだ。

世の中、何が幸いするか分からない。この「米兵お尻パンパン事件」以降は状況が変わった。捕まって叩かれたのは私だけ。この話題では最年少の私が、突然ヒーローになったのだ。少なくとも私はそう感じた。一人前になった様な気がして嬉しかった。

必死になって暗がりを走っているのに、何でビール瓶と石と棒が飛んで来たことが分かるのか? 実は上級生の一人が建築中の渋谷小学校に隠れ、私を見守ってくれていたのだ。釈放された私が月明かりの中で呆然としていると、彼が後ろから来て「おい大丈夫か」と声をかけてくれた。タケちゃんよりしっかりした少年だが5年生だった。

心配して一部始終を見ていてくれたのだ。私の記憶は彼の話に基づく部分が大きい。この話は子供たちが夕食後に集まって話す時、何回も話題になった。私が覚えていたのは走っていたら突然宙に浮き、尻をパンパンパン叩かれたことだけ。足りない部分は皆で付け足してくれたのだ。そして私の記憶として、脳の片隅に今でも格納されている。

「なんで親が子供の夜遊びを止めないんだ」
と、焼け跡の異常な暮らしを知らない先輩は怒っている。
「家が狭いからです。ウチは6畳に5人もですよ。時には子供は邪魔ですね」
「夜遊びは不良化のもとだぞ」
「でも親は喜んでいます」
「なんだと?」
「その時代はベビーブームで妹も生まれました。これ以上は申し上げられません」


     蛇足:ある日アメリカから手紙が来た。
前略
私はタラワ、テニアン、サイパンと転戦してきたので虫には強い。デートはホテルより草むらが好きだ。マリに愛を囁いているとガサガサゴソゴソ音がする。
状況を探ると草むらの中で覗いている奴が居た。無礼ではないか。許せない。追いかけて捕まえてみたが泣けてきた。子供が痩せてガリガリじゃないか。
私は啄木のファンだ。思わず一首よんでしまった。
追いかけて捕らえてみたが そのあまり軽きに泣きて お尻パンパン
興奮して忘れていたが今度会ったらチョコレート上げよう。
G.I.ジョー
     すみません、私の作り話です。

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2017年02月25日

羽柴の御殿

「アンタが書いているのはホント、それともウソ?」
「両方です。背景となる時代や場所についてはなるべく事実を……」
「ハッキリさせなきゃダメだよ」と、先輩は細かいことにこだわる。
「分かりました。氏名はウソ、つまり全て仮名。人様に迷惑をかけたくないのです」
「アンタの名前くらい実名でもいいだろう」
「繰り返しますが人に迷惑はかけられません。私も人です」

振り返って考えると、私たち一家が所属する渋谷区金王町の町内会は封建的な村社会だった。商人職人中心の町で皆で協力し合いながら暮らしていた。魚を買うのも町内の魚屋だし家を建てるのも町内の大工だ。排他的な地域社会だが、そこになぜ「よそ者部落」が出来てしまったか自分なりに考えてみた。

終戦直後は、辺り一帯は米軍の空襲で焼野原になっていた。そこに戦前から続く地域社会が蘇ったが傷だらけだったのだ。養父中波常吉も空襲で妻子を失っている。他にも家族を失った人は沢山いた。もし家族と一緒に暮らしていた障がい者が、家族を失い一人残されたら、どう生きて行けばいいのだろうか。

羽柴さんの姿を見ると、むかし観た映画「ノートルダムのセムシ男」を思い出す。羽柴さんは「背骨が曲がった人」なので働けない。だけど一人になっても生きて行かなければならない。それで狭い土地の半分を住処のない人に貸したのだ。そして「よそ者部落」が出来た。私はそう考えた。それぞれが狭い小屋を建てて10人くらい住んでいた。子供は裕次一人だった。羽柴さんは無口で内向的なので実際に営業したのは奥さんだと思う。

この地域の変遷を振り返ってみると、最初に得体の知れない人たちが来た。次に貧乏人が出て行き金持ちが入って来た。その繰り返しで地域の大部分がよそから来た人々により占められるようになった。この流れの中で我が中波一家は貧乏人として渋谷から弾き出された。大きく変わったのは1964年の東京オリンピック以後だった。場末の渋谷が華やかな渋谷へと大変身をした。広大な米軍施設が日本に返還されたことも発展に拍車をかけた。施設名はワシントンハイツ。東京の中のアメリカと言われていた。

羽柴さんは30代半ばくらいだが、かなり年上の奥さんと二人暮らしだった。多分戦後のどさくさの中で一緒になったのだと思う。奥さんが町内を歩くと風景が変わる。紫色のチャイナドレスを着てハイヒールをはき日傘を差してシャナリシャナリ歩くのだ。厚化粧の人で何となく気持ちが悪かった。

子供たちは陰でムラサキ婆さんと呼んでいた。悪ガキは日傘に当たるように小石を投げてからかい、怒って向かってくると逃げてはスリルを楽しんでいた。ハイヒールだから早く走れないと見込んでのことだからたちが悪い。地域の大人たちの悪意が子供たちに乗り移るのだ。ムラサキ婆さんも戦後にやってきたよそ者と思う。多分羽柴さんが一人で暮らせないので一緒になったのだ。

羽柴さんのバラックは外から見ても汚くて、何か臭うような気がして気持ちが悪かった。養父の常吉さんは「羽柴の御殿」と言っていた。中に入ると何でも棚に飾ってあって、汚物まで飾っていると言って笑っていた。狭いバラックなのに収入を得る為に半分を貸してしまったので置き場所に困って棚を沢山作ったのだと思う。

常吉さんは優しい人だ。羽柴さんが来ると楽しそうに話していたので昔からの知り合いと思う。羽柴さんの奥さんは何をしているか分からないけれど彼女自身は哲学士と称していた。テツガクって何だろうと子供の私は不思議に思った。後になって考えてもムラサキ婆さんと哲学が結びつかないのだ。いずれにしろ得体の知れない人だ。

羽柴さんは大人しい人だが、それは後で考えたこと。子供の私は背骨が曲がった羽柴さんが怖かった。無口な常吉さんが羽柴さんと楽しそうに談笑しているのを見て不思議な感じがした。私は汚くて臭いバラックに住む羽柴さんが嫌いだったが、自分も同じようなバラックに住んでいた。慣れた場所は何でもないのだ。

戦争が終わって2年もたつと、焼トタンで作られたバラックは、羽柴さんと我家だけになってしまった。それに羽柴さんの貸地に建つ数件の粗末な仮小屋を加えて、不本意ながらミニスラムを形成していた。中波家としてもスラムから脱出しなければ本当の意味で地域住民になることは出来ない。

不幸なことに常吉さんが肺病に罹り働けなくなった。母は夫の快復に全力を尽くした。そのため用意していた建築資金が医療費と生活費に使われ底を尽いた。もはや家どころではない。そんなとき幸か不幸か台風が来てミニスラムは木っ端微塵に潰れた。ところが我がバラックは生き残った。これが不幸の始まりなろうとは夢にも思わなかった。

羽柴さんと得体の知れない人々が居なくなくなると、移住してきた人が立派な家を建てた。ついに我が家は近所で唯一の焼トタン造りのバラックになってしまった。今で言えば河川敷にある様なホームレスの小屋みたいのが街中にあり、そこに家族5人で住んで居るようなものだ。皮肉にも台風に負けなかったことが裏目に出たのである。

「焼トタンの中でトタンの苦しみを味わうことになったのです。これ洒落ですが笑えますか」
「分かるよ塗炭の苦しみだろう」と先輩はうんちくを語り教養をひけらかす。
「意味なんかどうでもいいのです。笑えますよね。焼トタンの中でトタンの苦しみ」
「う〜ん、何だっけ」
「トタン トタン トタンです」
「そうかぁ。パダム パダム パダムっていうのもあったよな〜」

「先輩があくまでとぼけるなら話題を変えましょう。次回は米兵との戦いです」
「おっ! 勇ましいな。アンタ危機の対応では二種類の人間がいるとか言ってたな」
「はい、前回の『焼跡の裕次』で書きました。戦う人間と逃げる人間です」
「もちろん逃げるんだろう」
「ヘビー級とモスキート級では戦わないのが国際的ルールです。知らないんですか」

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2017年02月18日

焼跡の裕次

ドラマを観ていると「世の中には二種類の人間がいる」というセリフをよく耳にする。自分なりに二種類の人間について考えてみた。ふと頭に浮かんだのは困難な事態に直面した場合の対応だ。戦う人と逃げる人がいる。裕次は躊躇なく戦う子供だった。今にして思うと焼跡育ちのエネルギーを強く感じさせる子だ。

仕事の都合で各地を転々としていたが、二十歳の時は渋谷の実家に居た。ある日何の前触れもなく若者が訪ねて来た。スーツを着てアタッシュケースを手にしていた。
「ご無沙汰しております。仕事で近くまで来たのですが、つい懐かしくなり……」
と言われても誰だか分からない。こんな時は名前を聞きにくいものだ。一瞬ポカンとしていたが幼い丸顔が脳裏に浮かび、それが目の前にいる青年の顔に乗り移ってきた。

「あっ! 裕ちゃん。話し方違うじゃない。立派になったねぇ。見違えたよ」
「早いもので、あれから10年以上たちますね」
「心配していたんだよ」
「今は宝飾品のセールスをしています」

品物もカタログも見せようとはしない。ただ懐かしいから寄ってくれたのだ。子供の頃一緒に遊んだだけで、いつの間にか居なくなってしまった。無鉄砲でひょうきんな子と思っていたが好青年に成長している。お父さんはどうしたのだろうと一瞬思った。

話しは10年以上前に遡るが、裕次は父安藤輝造と一緒に移住して来た。当時は子供だったが、よそ者部落の得体の知れない人達の一人だった。父子二人が寝るスペースしかない仮小屋で暮らして居た。安藤さんは瓦職人だそうだが朝早くから夜遅くまで働いていた。そのせいで裕次はいつも一人ぼっちだった。瓦屋は忙しいのだなと思った。

安藤さんは挨拶がよく礼儀正しい人なので古い住民にも好感をもたれていた。共同水道はよそ者が地域住民に接触する唯一の場所である。一つの蛇口を複数で使うのだから譲り合ったり割り込んだりいろいろある。マナーが問われる場所でもあった。

マナーが良いからと言って、よそ者が地域に溶け込むことは容易ではない。この関係は子供の世界にも及んでいた。我が家は養父が地域住民で母子4人がよそ者と言う微妙な立場だった。既に小学校に通っている兄たちは積極的に地域に溶け込もうとしていた。私だけがよそ者同士の気安さで直ぐに裕次と友達になった。

裕次の家には鍋や釜などの所帯道具と言うものが一切ない。裕次はよく買い食いするし父に連れられて外食もするらしい。一方、焼跡のバラックに住む地域住民の唯一最大の願いは家を建てること。その為に爪に火を灯すようにして暮らして居るのだ。彼らにとって外食なんてもっての外、贅沢の極みである。瓦屋って儲かるのだなと思った。

寂しい父子家庭だが裕次は腹いっぱい食べていた。遊びに行けば私にも分けてくれた。それほど余裕があったのだ。ところが、ある日突然、どん底に陥った。しかし裕次は悠然としていた。地域の子等の執拗ないじめにも遭ったが憤然として逆襲した。

その事件とは自称瓦職人安藤輝造の素性が明らかになったことである。新聞社会面のトップ記事としてデカデカと報道された。見出しに「窃盗団の首領逮捕」と書いてあった。一番上に首領安藤輝造の写真、続いて団員の写真がズラリと並んでいた。

父が捕まってしまった裕次はしばらく一人で暮らして居た。食事等の面倒は、よそ者部落に住む満子さんがしていた。彼女は50歳くらいの満州(中国東北部)からの引揚者で身寄りもないようだ。これは想像だが、安藤さんが自分が捕まった場合のことを考えて、満子さんに対して生活面の援助をしていたのだと思う。ついに恩返しの時が来たのだ。

安藤さんは他の人に対しても気前が好かった。兄二人も渋谷のレストランでご馳走になったことがある。凄く羨ましかったので何時までも覚えていた。私も裕次を通してお菓子をもらっていた。地域の住民だって何かもらった人は少なくないだろう。よそ者部落の人たちを毛嫌いにして悪口ばかり言っていたのに安藤さんの悪口だけは誰も言わなかった。

しかし地域の子供たちは容赦ない。裕次を泥棒の子供として徹底的にいじめた。多勢に無勢だから裕次に勝ち目はない。だからと言って戦いを諦めるような裕次ではない。逆襲方法を密かに研究していたのだ。このことは後になって思い知らされる。

バラックを木造建築に建て替える戦後の建築ラッシュが既に始まっていた。アチコチに建てかけの家がある。テレビもないしラジオも自由に聞けない時代だから地域の子等は適当な場所に集まって雑談をするのが好きだった。その日は雨が降っていたので建てかけの家に無断で入り込んでお喋りを楽しんでいた。

話題は空襲の話と集団疎開の苦労話が多い。火の海の中をいかに勇敢に逃げたか。学校単位の集団疎開先で先生がいかにズルイことをしたか、散々聞かされた。いずれの経験もない私たち三兄弟には出番はない。幼い私は兄たちのそばに居るだけだった。

「おい、雨が吹き込んでるぞ」
「こんな所まで来るはずないだろう」
「おいおい、あったかいぞ何だこりゃ?」
「あっ! 裕次だ。このやろう!!」

裕次が2階からチンチン出して小便をかけていた。家は立てかけで1階の天井は無い。床も張ってないし材料もあちこちに置いてあって逃げ場も無い。裕次の奇襲作戦は大成功だったが、この後が大変だ。大勢で裕次一人をボコボコに叩いた。しかし、こんなことで怯む裕次ではない。恥ずかしながら怯んだのは地域の子等だった。あいつは何するか分からないからと恐れ、以後一切手を出すことはなかった。

時代は戦中に遡るが、1945年3月10日、深川は未曾有の大空襲に襲われた。裕次は熱風の中で母を見失った。後になって遺体の腐敗臭が漂う中を探し回ったが見つからなかった。父が南方の戦場から復員するまでの半年間、空襲で荒れ果てた食料不足の東京を生き抜いてきた。こんな裕次だから子供等に殴られて足蹴にされるくらいは屁とも思っていない。極限の困難に遭遇して大人より強い、戦う子供に育っていたのだ。

「久しぶりに懐かしい話ができて楽しかったよ。お父さんは元気?」
何気ないフリして聞いたが、勇気を振り絞って尋ねてみたのだ。
「立派な日本家屋も建つようになったので商売繁盛です。元々腕のいい瓦職人ですから」
「そう言えば最近は瓦葺の家が増えたね」
「職人の履歴書はやった仕事なのです」
「と言うと?」
「賞罰は関係ありません。良い仕事をすれば結果は必ず付いて来ます」

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蛇 足
読んで欲しいけれど、読んで下さいとは言えない私の屁理屈
この戦争で約300万人が死んだ。その10倍の3000万人の人たちが戦争の苦しみを味わったと仮定してみた。そうすると残りの7000万に近い人々は戦争の苦しみなんか味わっていなかったことになる。それどころか戦争で豊かになった人さえ居た。現に子供の私は戦争中は金持ちだったと錯覚していた。みんな苦労したと言う言葉に騙されてはいけないと思う。世の中はいつも不公平なのだ。事実に基づかない話からは何も生まれない。

戦場や空襲で塗炭の苦しみを味わった人の体験談を理解できる人は少ない。「硫黄島は地獄だった」と言っても「内地だって地獄だ。芋や大根ばかり食っていた」と返されれば、体験者は話す気を失う。こうして戦争で極限の苦労をした人は黙り込み、更にもっと苦しんで死んだ人は一言も発することができない。現在は情報に溢れているのに生死に関わる大切な情報は無いに等しい。あっても伝わらないからだ。

今、巷に溢れている書籍、マスコミを通して伝わる話は、売れる話だけで事実とはかけ離れている。なぜなら受け手の共感を得なければ書籍、新聞、テレビ番組等のメディアは売れないからだ。普通の人が極限状態を理解するのは極めて困難だ。並外れた忍耐と想像力が必要である。極限状態の体験者から聴き取れるのは、その道の専門家に限られている。現代史研究家による真実を追求した書籍も少なくない筈だが、売れている本の数に押されて下の方に押し込められているのだろうか。私たちには見えてこないのだ。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 幼児時代

2017年02月11日

得体の知れない人々

「得体の知れないとは何だ?」と先輩。
「なんだか正体が分からないのです」
「幽霊か?」
「毎朝来るんですよ」
「なんだと?」
「歯を磨きにくるんです。得体の知れない人たちが」

戦争で急減した渋谷区の人口だが終戦後は急激に増加した。一説には戦後1年間で渋谷区の人口は2倍になったと言う。学童集団疎開、縁故疎開、海外からの復員と引揚者が渋谷に続々と帰って来たのだ。その他に私たちの様な家族再編組もいる。戦争で夫や妻を失った人たちの再婚である。何とかなるだろうと思って来る人もいた。

先ず、昔から地域に住む人たちが、とりあえずの寝場所として自分の土地に仮小屋を建てた。焼け残った廃材で建てた仮小屋である。住まいと言うには余りにもお粗末なのでバラックと呼んでいた。しばらくして落ち着いてくると、私が住む金王町(現渋谷二丁目)にも得体の知れない人々が何処から来るのかやってきた。

激しい空襲にもかかわらず地中に埋まっている水道管は生き残った。バラックは家を建てるまでの仮住まいだから水道を引かない。近所の人が一つの蛇口を共同で使っていた。蛇口の周りに主婦たちが洗い物を持って集まるので井戸端会議の場にもなった。同じ蛇口を使う人はごく自然に親しくなって行く。焼跡では水道から付き合いが始まるのだ。

ある日、見知らぬ若い男が共用水道に現れた。背が高くて男前、俳優の大町と名乗っていた。後になっての話だが大町さんは映画「七人の侍」に出ていたそうだ。戦う農民の役でちょこっと写っていたようだ。その後、次々と得体の知れない人物が我家の裏に移住してきた。オカマの青山さん、名前の分からない学生と若い女性、満州帰りで50代の満子さん等だ。そして、もっとも印象深い安藤親子、輝造と裕次もやって来た。年が近い裕次とは直ぐに友達になった。裕次の父は無口だが物静かな礼儀正しい人だった。

今までは私たち母子4人だけがよそ者だったが、こうして我がバラックの裏によそ者部落が出来てしまった。10人足らずの人たちだが10坪に満たない土地に小屋を建て、重なるようにして住んで居た。地域の人たちと付き合うことはなかったが、よそ者と言う共通点がある母は別だ。一部の人たちと親しくしていたようだ。

ここで地域の結びつきがいかに強いかを示す一つのエピソードを紹介する。少し長くなるので興味のない方は飛ばしても差支えない。
養父の中波常吉は、ご近所さんから経師屋の常ちゃんと呼ばれていた。戦前から地域に根を張った住人である。金王八幡宮近くの渋谷区金王町にある地元町内会は戦災で御神輿を失った。復興を願って地域の人が協力して御神輿を作ることにした。建具屋と大工が中心だが町内すべての人が持てる技術と力を合わせて新しく作ることにしたのだ。例えばブリキ屋が鳳凰の形を作りペンキ屋が綺麗に塗った。ところが経師屋の常ちゃんの出番がない。それで御神輿に小さな障子を作り、常ちゃんに障子紙を貼らせた。町内会は全員参加で作ることに拘ったのだ。町内皆助け合って暮らして居た。戦災で全てを失った人々は助け合わなければ生きて行けないのだ。こんな状況だからよそ者と地域住民が付き合うことはない。よそ者部落の人たちは住所不定、そもそも町内会に入る資格がない。

得体の知れない人で母とお喋りする人が二人居た。満州から引き揚げて来た満子さんと青山さんである。満子さんは「私はオッパイが無いんだよ」といって服を脱いで見せてくれた。胸に大きな傷があるので凄いなと思った。青山さんは顔が大きく赤ら顔、どう見てもオジサンなのに言葉づかいと仕草が女なのようなので気持ちが悪かった。母の前で泣きながら何かを訴えていたのを見たことがある。一見すると女々しい人だが状況によっては態度をガラリと変える怖い人だった。

裕次は私の一つ下だから直ぐに親しくなった。父は瓦屋だそうだ。親子で寝るだけのスペースしかない小さな小屋に住んで居た。床下は瓦で満杯だった。所帯道具は見当たらなかった。食事は外食だと言っていた。当時としては極めて贅沢なことだ。私はもちろん、ほとんどの子供は街の食堂などには一度も行ったことはない。瓦屋って儲かるのだなと思った。裕次は東京で初めて友達になった子である。

「裕次は私にとって忘れられない人になりました」
「親友にでもなったのか」
「その場限りの遊び友達です」
「忘れられない人なんだろう」
「困っている時に助けてくれた訳でもありません」
「それなのに何で?」
「ある日、お父さんが新聞にデカデカと顔写真入りで出たのです。ビックリしましたね」
「瓦屋さんは仮の姿、……」
「当たり! 実はホニャララなのです。次回に書きますね」

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代

2017年02月04日

壊された思い出

「豪邸は無い、女中も居ない。嘘ばっかりじゃないか」
5歳の記憶を書いただけなのに先輩は怒っている。相変わらず融通の利かない人だ。
「子供の思い違いですよ。よくあることでしょう」
「分かったら書き直せばいいじゃないか」
「思い違いから事実へと順序よく書きたかったのです。時が流れるようにね」
「ああそうかい」

私は夢を見ていたのだ。70年間の長い夢である。私の人生は落ちこぼれの連続だった。学業、仕事、趣味、娯楽の全てから落ちこぼれている。運動神経は鈍いし、歌えば音痴、オマケにハゲだ。何一ついいところがない。少しぐらい夢を見たっていいではないか。

東京から兄が来た。そして私が70年間温め続けて来た古き良き思い出を1時間でぶち壊し三日して帰って行った。否定しがたい事実を次々と突きつけられて知りたくないのに知らされたのだ。何でいまさら? 私にとっては天災のようなものだ。

「今になって話すくらいなら墓場まで持って行けばいいのに」
「お前が聞かなかったからなぁ。知っていると思ったんだよ」
「オフクロの話を黙って聞いていたんだ。知ってるはずないだろう」
「俺だって黙って聞いていたよ。本当はこうだなんて言えるわけがない。ヒステリーを起こすよ。皆恐れていたじゃないか。俺だって同じだ」

私も兄も母から直接聞いたのではない。母が近所の人に話すのを聞いていたのだ。今では考えられないが6畳一間のバラックでは人の話すことは全部聞こえるのだ。私は学校に行っていないので沢山聞いた。兄も少しは聞いていた。違いと言えば私は事実と信じたが、兄は嘘と分かっていながら黙っていたことだ。同じ話を聞いても当時10歳の兄と6歳の私では、受ける影響が格段に違うのだ。

母は近所の主婦を呼んでお喋りするのが好きだった。茶菓でもてなしながら横浜での優雅な暮らしぶりをそれとなく話に織り込んでいた。大きな家や女中さんたちが、何気なく登場する。母はバラック住まいの身だが家を建てるまでの仮住まいだ。よそ様に比べ懐は豊かだった。それに奥様らしい風格もあり優雅な横浜の話も不自然ではない。

ところで東京から来た兄が何気なく話したことは、私にとって青天の霹靂だった。私の面倒をみてくれた女性たちは女中さんでなかったのだ。意外にも父が勤めている海軍の飛行機製造会社の女工さんだと言う。おまけに我が家と思っていたのは会社の女子寮で、母は奥様どころか寮の管理人だったと言うのだ。母は併設されている海軍クラブ(宴会場)の運営をも任されたいたようだ。かなり忙しそうだったが仕事で得るものもあったのだろう。

後で考えると戦争が激しくなり営業できなくなった旅館を会社で借り上げ、女子寮兼宴会場として使っていたのだと思う。戦争で働き盛りの人が減った中で、ここだけは若い女性と海軍軍人という若者で溢れていた。伊吹一家の住居も兼ねていたので私は自分の家と思い込んでいたのだ。実際そのように自由に使っていた。少なくとも私はそう感じていた。

戦後70年もたった今、なぜ女工さんたちが私を身内以上に可愛がってくれたかも分かるような気がする。故郷を離れていたので自分の弟を見るような思いで接してくれたのだと思う。それに自分自身が明日をも知れぬ命だから幼児に対する愛情が人一倍強かったと思うのだ。軍の飛行機製造工場は米軍による空襲では攻撃目標の一つになっていた。

若い女性が望郷と死の恐怖の中で生きていたのである。今にして思えばその気持ちはよく分かる。しかし、もう一つの現実がある。戦争末期は食料不足で空腹の時代だった。その様な状況の中で母は寮の食事と宴会の料理を一手に仕切っていたのだ。

女工さんは女中でもなければ母の部下でもないが、母の頼みは喜んで聞いてくれた。母が食料を自由に扱える立場にあることを知っていたからだ。しかも工場は交代制だから常に非番の女工さんがいるのだ。勤務明けで疲れた身体の彼女たちが私の母代わりになってくれたのだ。兄は言っていた「オフクロは非番の女工さんにお前の世話を頼んで、お礼に食料を上げていたのだ」。空腹の時代では食料は現金よりも価値があった。

戦争は多くの人々の人生を破壊した。母にとって焼け跡のバラック暮らしという悲惨な現実は受け入れがたいものだった。だから過去を自分流に美化し、夢を描きながら語っていたのだと思う。母にとっては女子寮も宴会場も庭から池まで全てを含めて自分の城だった。そして、言うことを聞いてくれる女工さんは女中だったのだ。これらは母の心の中で徐々に事実へと変わって行った。嘘をついている自覚はなかったと思う

もちろん自分は奥様で私たち子供は坊ちゃんだ。そのような前提で近所の奥さんたちとお喋りをしていたのだ。そんな話を聞き続けた6歳の私は現実と思い込んでしまった。不思議と言えば不思議、滑稽と言えば滑稽だ。70年間も幼少の頃はお金持ちと思っていた。古き良き思い出と言うよりも、それが事実と思い込んでいたのである。

以上が去年の夏、兄に聞いた話を参考にして自分なりに考えをまとめて書いてみたことである。いずれにしろ、兄の訪問で過去の記憶が大きく修正された。兄に聞けば実父逃亡の謎も分かるような気がするが、これ以上は聞く気がしなくなった。

「母は慶応とフェリスに拘っていました」
「なんだと? まだ拘るものがあるのか」
「試験に落ちて裁縫女学校に行ったのですが、気持ちはフェリスですね」
「横浜と言えばフェリス女学院だな。伝統と革新、キリスト教精神だ。嘘つきは入れないぞ」
「嘘つきになったのは夫に逃げられてからです」
「慶応ってなんだ」
「母が子供たち三人を入れると言っていた学校です。よく応援歌を歌わされました」
 ♪若き血に燃ゆる者 光輝みてる我等 希望の明星 仰ぎて茲に……♪

「……ショウリ ニスス ムワガ チカラと切って歌わされるのですが、ニススとムワガの意味が分からなくて苦労しました。母の真似をしながら3人で声をそろえて歌うのです」
「勝利に進む我が力じゃないか」
「今なら分かりますよ。まだ字の読めない子供ですからね」

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2017年01月28日

吹き込まれた記憶

「去年の夏ですが4歳年上の兄が20年ぶりに札幌に来たんですよ」
「随分ご無沙汰だね。いったい何しに?」と先輩。
「80歳になったとか言ってました」
「東京に住んでいるんだろう。足腰の立つ内に会って置こうということかね」
「三日も居たものですから昔話もしましたよ」
「古き良き昔を語り合ったのか」
「そう思ったのですが何故か噛み合わないのです」

終戦当時9歳だった兄は豊かだった横浜時代の記憶がある。一方5歳だった私の記憶は曖昧だ。後になって聞かされた母の話を自分の記憶と思い込んだ節がある。これが話が噛み合わない原因と思う。しかし何故だろうと言う疑問は残る。私だって無条件で母の話を受け入れた訳ではない。内容が私の体験や見たことと一致していたからだ。それで70年の長きにわたり事実と認識していたのである。

1945年5月の米軍による大空襲で渋谷区内の77%が焼き尽くされた。住民は焼跡となった自分の土地にバラックと呼ばれる仮小屋を建てて雨風を凌いでいた。養父となる中波常吉もその一人である。彼は空襲で家を焼かれ妻子を失い、侘びしい一人暮らしをしていた。そこに母子4人が子連れ結婚という形で転がり込んだのである。

被災者は土地の人、焼け出されたとは言え地域に根を張った人たちである。分かり易く言えば映画「男はついらいよ」に出て来るような地域共同体。お互いに協力し合うことで暮らしが成り立っている商人職人中心の世界である。その人たちの中へ入って行った母としては出来るだけ早く馴染みたいと願っていた。そのような思いで、知合えばすぐに家に連れて来てお喋りをした。それはいいのだが問題はその内容である。

母は聞かれれば喜んで横浜での話をした。単なるおしゃべりだが、それとなく大きなお屋敷が出てきて、沢山の女中さんも何気なく登場する。戦前のことなら海軍士官との交際がが話題に上り、戦後になれば米軍のオフィサーとの話題に変わる。私自身も家の広間で軍服のアメリカ人と着物姿の日本女性がダンスしているのを見た記憶がある。

バラック暮らしだが二人の兄は小学校に行き、養父は日雇いの仕事に行っている。母と私だけが家に居た。6畳一間だから母達のお喋りは全て聞こえる。退屈した私は近所の奥さんに話す母の話を盗むようにして聞いていた。

母の話は奥さんたちにとっては単なるお喋りの一部だが、私の脳にはスポンジに水が染み込むように記憶された。なぜなら、幼い私が横浜辺りで経験したこと、見たことと一致していたからだ。横浜の家は凄く大きかった。門から玄関までが遠かった。広い庭と大きな池があった。廊下は長く運動会のように走っては叱られた。風呂はプールのように大きかった。少なくとも5歳の私にはそう見えた。

食事の世話をしてくれる人、風呂に入れてくれる人、幼稚園の送り迎えしてくれる人、遊びに連れて行ってくれる人。それぞれ違う女中さんが私の面倒をみてくれた。私は坊ちゃんと呼ばれ、母は奥様と言われていた。母は何かと忙しそうだったが、何時も優しい女中さんがそばに居てくれていたので寂しくはなかった。むしろ最高に幸せだった。

「本当にいい暮らしをしていたんだな」と先輩。
「母が話していることは全て私の記憶と一致しているのです」
「俺も信じたよ……。おい、何をふくれっ面してるんだよ」
「東京から来た兄がね。女中なんか居ない。豪邸も無いと言うんですよ」
「何じゃ、それ。せっかく信じてやったのに。何が何だかさっぱり分からん」
「それでは分かるように説明します」
「いいよ。読んでやるからブログに書きな。次は3月4日だったな」

「よくぞ覚えて下さいました。有難うございます」
「土曜日更新と何回も言われて耳にタコだ。欠かさず読んでるぞ」
「この御恩は一生忘れません」
「それ程のことではないけど、今ごろ言われても嬉しくないね」
「なんでですか?」
「まるで夕方のスーパーの安売りだよ」
「分かりませんが」
「アンタ幾つだ。一生とは何年だ」
「76歳です。一生は92年くらいかな。分かりました。賞味期限切れ寸前ですね」
「さあいらっしゃい! "一生の御恩のたたき売り" てなことよ」

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 幼児時代