2021年07月10日
ドウジュンカイの記憶
2020年02月08日
長兄
2020年01月11日
実父
2018年11月10日
瓦礫の街は飢餓の街
2018年11月03日
幼少期の引越し
2018年09月01日
知らぬが仏
2017年03月04日
米兵に捕まり叩かれる
「ない。 二つも若いんだから先輩と言うな」
「仕事では先輩だからいいでしょ。私はあるんですよ」
「屁理屈ばかり言ってるからだ」
「英語で屁理屈言えませんが……」
「顔を見れば分かるんだよ」
「なぜ叩かれたか知りたくないですか」
「ない。興味ない。聞きたくもない」
建築中の小学校付近に着くとタケちゃんは「お前たちはここで待っていろ。俺たちは偵察に行ってくる」と言って6年生と二人で薄暗い草むらの中に入って行った。私たち三兄弟は草むらに寝ころんで星を見ていた。狭いバラックに5人も一緒に居ると嫌になる。外に出るだけで気分はいい。なぜか子供の夜遊びは親にも歓迎されていた。
と、焼け跡の異常な暮らしを知らない先輩は怒っている。
「家が狭いからです。ウチは6畳に5人もですよ。時には子供は邪魔ですね」
「夜遊びは不良化のもとだぞ」
「でも親は喜んでいます」
「なんだと?」
「その時代はベビーブームで妹も生まれました。これ以上は申し上げられません」
前略
私はタラワ、テニアン、サイパンと転戦してきたので虫には強い。デートはホテルより草むらが好きだ。マリに愛を囁いているとガサガサゴソゴソ音がする。
追いかけて捕らえてみたが そのあまり軽きに泣きて お尻パンパン
G.I.ジョー
2017年02月25日
羽柴の御殿
「分かるよ塗炭の苦しみだろう」と先輩はうんちくを語り教養をひけらかす。
「意味なんかどうでもいいのです。笑えますよね。焼トタンの中でトタンの苦しみ」
「う〜ん、何だっけ」
「トタン トタン トタンです」
「そうかぁ。パダム パダム パダムっていうのもあったよな〜」
「先輩があくまでとぼけるなら話題を変えましょう。次回は米兵との戦いです」
「おっ! 勇ましいな。アンタ危機の対応では二種類の人間がいるとか言ってたな」
「はい、前回の『焼跡の裕次』で書きました。戦う人間と逃げる人間です」
「もちろん逃げるんだろう」
「ヘビー級とモスキート級では戦わないのが国際的ルールです。知らないんですか」
2017年02月18日
焼跡の裕次
「ご無沙汰しております。仕事で近くまで来たのですが、つい懐かしくなり……」
と言われても誰だか分からない。こんな時は名前を聞きにくいものだ。一瞬ポカンとしていたが幼い丸顔が脳裏に浮かび、それが目の前にいる青年の顔に乗り移ってきた。
「あっ! 裕ちゃん。話し方違うじゃない。立派になったねぇ。見違えたよ」
「早いもので、あれから10年以上たちますね」
「心配していたんだよ」
「今は宝飾品のセールスをしています」
品物もカタログも見せようとはしない。ただ懐かしいから寄ってくれたのだ。子供の頃一緒に遊んだだけで、いつの間にか居なくなってしまった。無鉄砲でひょうきんな子と思っていたが好青年に成長している。お父さんはどうしたのだろうと一瞬思った。
「こんな所まで来るはずないだろう」
「おいおい、あったかいぞ何だこりゃ?」
「あっ! 裕次だ。このやろう!!」
読んで欲しいけれど、読んで下さいとは言えない私の屁理屈
2017年02月11日
得体の知れない人々
養父の中波常吉は、ご近所さんから経師屋の常ちゃんと呼ばれていた。戦前から地域に根を張った住人である。金王八幡宮近くの渋谷区金王町にある地元町内会は戦災で御神輿を失った。復興を願って地域の人が協力して御神輿を作ることにした。建具屋と大工が中心だが町内すべての人が持てる技術と力を合わせて新しく作ることにしたのだ。例えばブリキ屋が鳳凰の形を作りペンキ屋が綺麗に塗った。ところが経師屋の常ちゃんの出番がない。それで御神輿に小さな障子を作り、常ちゃんに障子紙を貼らせた。町内会は全員参加で作ることに拘ったのだ。町内皆助け合って暮らして居た。戦災で全てを失った人々は助け合わなければ生きて行けないのだ。こんな状況だからよそ者と地域住民が付き合うことはない。よそ者部落の人たちは住所不定、そもそも町内会に入る資格がない。
「裕次は私にとって忘れられない人になりました」
2017年02月04日
壊された思い出
「子供の思い違いですよ。よくあることでしょう」
「ああそうかい」
東京から兄が来た。そして私が70年間温め続けて来た古き良き思い出を1時間でぶち壊し三日して帰って行った。否定しがたい事実を次々と突きつけられて知りたくないのに知らされたのだ。何でいまさら? 私にとっては天災のようなものだ。
「今になって話すくらいなら墓場まで持って行けばいいのに」
「お前が聞かなかったからなぁ。知っていると思ったんだよ」
「オフクロの話を黙って聞いていたんだ。知ってるはずないだろう」
「俺だって黙って聞いていたよ。本当はこうだなんて言えるわけがない。ヒステリーを起こすよ。皆恐れていたじゃないか。俺だって同じだ」
私も兄も母から直接聞いたのではない。母が近所の人に話すのを聞いていたのだ。今では考えられないが6畳一間のバラックでは人の話すことは全部聞こえるのだ。私は学校に行っていないので沢山聞いた。兄も少しは聞いていた。違いと言えば私は事実と信じたが、兄は嘘と分かっていながら黙っていたことだ。同じ話を聞いても当時10歳の兄と6歳の私では、受ける影響が格段に違うのだ。
母は近所の主婦を呼んでお喋りするのが好きだった。茶菓でもてなしながら横浜での優雅な暮らしぶりをそれとなく話に織り込んでいた。大きな家や女中さんたちが、何気なく登場する。母はバラック住まいの身だが家を建てるまでの仮住まいだ。よそ様に比べ懐は豊かだった。それに奥様らしい風格もあり優雅な横浜の話も不自然ではない。
ところで東京から来た兄が何気なく話したことは、私にとって青天の霹靂だった。私の面倒をみてくれた女性たちは女中さんでなかったのだ。意外にも父が勤めている海軍の飛行機製造会社の女工さんだと言う。おまけに我が家と思っていたのは会社の女子寮で、母は奥様どころか寮の管理人だったと言うのだ。母は併設されている海軍クラブ(宴会場)の運営をも任されたいたようだ。かなり忙しそうだったが仕事で得るものもあったのだろう。
後で考えると戦争が激しくなり営業できなくなった旅館を会社で借り上げ、女子寮兼宴会場として使っていたのだと思う。戦争で働き盛りの人が減った中で、ここだけは若い女性と海軍軍人という若者で溢れていた。伊吹一家の住居も兼ねていたので私は自分の家と思い込んでいたのだ。実際そのように自由に使っていた。少なくとも私はそう感じていた。
戦後70年もたった今、なぜ女工さんたちが私を身内以上に可愛がってくれたかも分かるような気がする。故郷を離れていたので自分の弟を見るような思いで接してくれたのだと思う。それに自分自身が明日をも知れぬ命だから幼児に対する愛情が人一倍強かったと思うのだ。軍の飛行機製造工場は米軍による空襲では攻撃目標の一つになっていた。
若い女性が望郷と死の恐怖の中で生きていたのである。今にして思えばその気持ちはよく分かる。しかし、もう一つの現実がある。戦争末期は食料不足で空腹の時代だった。その様な状況の中で母は寮の食事と宴会の料理を一手に仕切っていたのだ。
女工さんは女中でもなければ母の部下でもないが、母の頼みは喜んで聞いてくれた。母が食料を自由に扱える立場にあることを知っていたからだ。しかも工場は交代制だから常に非番の女工さんがいるのだ。勤務明けで疲れた身体の彼女たちが私の母代わりになってくれたのだ。兄は言っていた「オフクロは非番の女工さんにお前の世話を頼んで、お礼に食料を上げていたのだ」。空腹の時代では食料は現金よりも価値があった。
戦争は多くの人々の人生を破壊した。母にとって焼け跡のバラック暮らしという悲惨な現実は受け入れがたいものだった。だから過去を自分流に美化し、夢を描きながら語っていたのだと思う。母にとっては女子寮も宴会場も庭から池まで全てを含めて自分の城だった。そして、言うことを聞いてくれる女工さんは女中だったのだ。これらは母の心の中で徐々に事実へと変わって行った。嘘をついている自覚はなかったと思う
もちろん自分は奥様で私たち子供は坊ちゃんだ。そのような前提で近所の奥さんたちとお喋りをしていたのだ。そんな話を聞き続けた6歳の私は現実と思い込んでしまった。不思議と言えば不思議、滑稽と言えば滑稽だ。70年間も幼少の頃はお金持ちと思っていた。古き良き思い出と言うよりも、それが事実と思い込んでいたのである。
以上が去年の夏、兄に聞いた話を参考にして自分なりに考えをまとめて書いてみたことである。いずれにしろ、兄の訪問で過去の記憶が大きく修正された。兄に聞けば実父逃亡の謎も分かるような気がするが、これ以上は聞く気がしなくなった。
「母は慶応とフェリスに拘っていました」
「なんだと? まだ拘るものがあるのか」
「試験に落ちて裁縫女学校に行ったのですが、気持ちはフェリスですね」
「横浜と言えばフェリス女学院だな。伝統と革新、キリスト教精神だ。嘘つきは入れないぞ」
「嘘つきになったのは夫に逃げられてからです」
「慶応ってなんだ」
「母が子供たち三人を入れると言っていた学校です。よく応援歌を歌わされました」
♪若き血に燃ゆる者 光輝みてる我等 希望の明星 仰ぎて茲に……♪
「……ショウリ ニスス ムワガ チカラと切って歌わされるのですが、ニススとムワガの意味が分からなくて苦労しました。母の真似をしながら3人で声をそろえて歌うのです」
「勝利に進む我が力じゃないか」
「今なら分かりますよ。まだ字の読めない子供ですからね」
2017年01月28日
吹き込まれた記憶
「三日も居たものですから昔話もしましたよ」
「古き良き昔を語り合ったのか」
「そう思ったのですが何故か噛み合わないのです」
バラック暮らしだが二人の兄は小学校に行き、養父は日雇いの仕事に行っている。母と私だけが家に居た。6畳一間だから母達のお喋りは全て聞こえる。退屈した私は近所の奥さんに話す母の話を盗むようにして聞いていた。
「本当にいい暮らしをしていたんだな」と先輩。
「母が話していることは全て私の記憶と一致しているのです」
「俺も信じたよ……。おい、何をふくれっ面してるんだよ」
「東京から来た兄がね。女中なんか居ない。豪邸も無いと言うんですよ」
「何じゃ、それ。せっかく信じてやったのに。何が何だかさっぱり分からん」
「それでは分かるように説明します」
「いいよ。読んでやるからブログに書きな。次は3月4日だったな」
「よくぞ覚えて下さいました。有難うございます」
「さあいらっしゃい! "一生の御恩のたたき売り" てなことよ」