2023年02月18日

故郷の渋谷を想う

懐かしい故郷というけれど、故郷のない人は増えていると思う。私もその一人だ。生まれたのは1940年横浜の貸家、しかも幼児だったので記憶も殆ど無い。一応、小中学校時代を過ごした渋谷を故郷と感じているが、人手に渡ってしまったので帰れる場所ではない。故郷は知らぬ間に失われた。

60歳の秋、中島公園の近くに転居した。近くを散歩してみると、少年時代に見た渋谷の風景にそっくりな場所があり、とても懐かしく思った。

0abaraya.jpeg
遠くに見えるのが転居した私の住居。この道路は砂利道、真っ直ぐな筈なのに道路にはみ出た家がある。幼少期の暮らしを思い出した。今でもこんな所があるのかと驚いた。そして、懐かしさが胸に込み上げてきた。

0abaraya2.jpeg
こんな家がポツンと一軒だけある。子供の頃に住んだバラックを思い出し、とても懐かしい。ところで隠していたことがある。キーワードは生活保護、中卒、自衛隊である。この家との出会いが隠し事を書く切っ掛けとなった。恥じて隠そうとする思いより、懐かしく想う気持ちの方が強くなったのだ。これらを抜きにして自分の人生は語れない。

0gyoukei.jpeg
転居した初めての冬に撮った市電電停「行啓通」は住居より徒歩2分の場所にあった。昔住んでいた家も都電電停「青山車庫前」より2分程度の所にあった。写真を見るとタイムスリップして70年前の都電電停に立っているように感じる。傾いた小屋を中心に広がる雑然とした風景が、そう思わせる。私にとっては懐かしい風景でる。

0gokokujinja.jpeg
空襲で焼き尽くされた渋谷区では、焼け残った神社が子供達の遊び場だった。当時の家から近い順に金王八幡神社、氷川神社、明治神宮等にはよく遊びに行った。転居先のマンションの近くに弥彦神社、護国神社、水天宮があり懐かしく思った。ただ昔の渋谷とは違って神社で遊ぶ子等は少ない。

0touhou.jpeg
小学4年のとき洋画を観るのが大好きになった。それから5年間、古い洋画専門のテアトルSSに通い続けた。入場料が40円と格安なのが取り柄だ。家から20分程度歩いたと思う。歩いて映画に行くことが長い間の夢だった。中島公園を出て15分くらい歩けば映画館東宝公楽があると喜んだのは束の間、多くの映画館と同じように閉館した。

IMG_0088.jpeg
地下鉄の階段は電車が来るごとに風がきて涼しい。夏は兄弟3人で涼みに行った。焼けトタンのバラックは茹だるような暑さだから青山6丁目駅に避暑に行くのだ。地下鉄の利用者は階段に黙って座ってる3人を見て浮浪者と思ったかも知れない。地下鉄は乗らなくても生活の一部だった。

あばら家、砂利道、電停、神社、映画館、地下鉄駅、どれも幼少期の思い出に繋がる。21年前に転居した山鼻地区の風景は、私が故郷と思っている昔の渋谷の片隅に似ている部分があって懐かしい。渋谷で暮らして10年、その後帯広、岩沼、福岡等20回以上の転居、そして、現住所に落ち着いて21年、ここを故郷と定めるに不足はない。残念ながら地元から浮いている。いつも根無草(^-^;) ゴメン
タグ:札幌 渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年12月03日

口と心は元気

60代のとき見知らぬ人からお爺ちゃんと呼ばれて気を悪くした。80代の今はどうだろう。何故か比べてみたくなった。身体が衰えたのは言うまでもないが心はどうだろうか。

およそ15年くらい前だろうか、先輩とこの様な話をした。
「ショックですね」
「何が?」
「私のことお爺ちゃんと呼ぶのですよ」
「誰が?」
「最近、コイのことが気になるので、池を見ていると、後ろから声をかけられたのです」
「何て?」
「お爺ちゃん、池の中に何かいるの? と聞くのです」
「あんたはお爺ちゃんなんだから当たり前だろう」
と先輩は断定。相変わらず大雑把な人だ。

「先輩もお爺ちゃんですよ。それでいいんですか?」
「俺はお爺ちゃんだよ。孫がいるからね。だけど他人からお爺ちゃんとは呼ばれたことないね」
「子供はともかくお婆さんから言われたくないですよね」
「おや!お婆ちゃんだったのか。お気の毒様」
「いえ、お婆ちゃんは歓迎ですが、お互いにお爺お婆と呼び合わなくてもいいと思うのですよ」
「じゃあ、なんと呼べばいいんだ」

「普通でいいですよ」
「ふつうって何だ?」
「例えば、青年が池を見ていたとします。青年さん、池の中で泳いでいるのは何ですかと聞きますか?」
「ちょと、すみません。とか、失礼ですが、とか呼びかけるよ。見知らぬ人には丁寧にな」
「そうでしょう。少年少女、青年、爺とか区別する必要はないのです。池を見ているのは私ひとりなのです」
「そんなこと気にするなんて、ホントにあんたはお爺ちゃんだね。だから言われるんだよ」

RIMG4615.jpeg

このような訳で私は60代で太鼓判付きのお爺ちゃんとなった。あれから15年以上たった80代の私はどう見えるだろうか。自慢じゃないけど、この間に入院5回、癌関連手術3回、放射線治療1ヶ月半、そして最近3年間はほぼ巣ごもり状態だ。さぞかしヨボヨボと思われることだろう。

とこれがそれは大間違い。人に会うことは滅多にないが、会った人からは必ず「元気そうだね」と言われる。お世辞でも慰めでもない正直な印象と思う。外見はそう見えるらしい。事実、口と心は今までにないくらい元気なのだ。

人は生きている限り悩みから解放されることはない。しかし、今まで生きてきた中で一番悩みが少なくなっているから不思議だ。選択の余地が少なくなったせいかも知れない。

タグ:コロナ禍
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年10月15日

トイレの神様

早いもので結婚して56年、夫婦二人暮らしになり25年、家の中で幸せを見つけて5年たった。長い間、幸せは外にあると思っていたが、内にもあることに気づいた。

もちろん、仕事の中で幸せを見つけられれば最高だが、仕事は苦手だった。だから、仕事以外で幸せを見つけようと出歩いていたが、何も見つからなかった。こんな風に、幸・不幸について考えていたら、30年ほど前のことを思い出した。

福岡で勤務していた頃だが、同僚の元気がない。ボソボソと次のように話してくれた。奥さんが亡くなった、調理師をしている娘さんが職場で大火傷をした。数日後、猫が車に轢かれて死んだと言って涙ぐんでいた。奥さんの死、娘さんの事故については淡々と話していたが、猫が死んだのが一番辛かったと嘆いていた。慰める言葉も見つからなかった。

妻への愛、娘への愛、猫への愛、それぞれの愛は深さが違うようだ。ところで、我が家の愛は意外な所にあった。トイレが近いので溢れるほどの愛を注いでもらっている。

love.jpeg
便座を開けて立って用を足す。毎回「愛」を見ながら放水している。ところが、書いてくれた人は後ろ向きに座って用を足す。見えるのはドアだけだ。私だけの為に飾ったのだろうか。いずれにしろ有難い話だ。

コロナ禍と癌の手術と治療で巣ごもり3年になると、こんなことでも幸せを感じるようになる。これはホンの一例で、自分の生き方を変えたのが幸せ感の土台になったと考える。と言っても誉められた話ではない、自分の身体が弱ってきて人に頼るようになったのだ。

幸せは感謝する心から始まった。感謝は相手に伝わって私に返ってくることを知った。私は仕事が苦手だから家の仕事(家事)も苦手だ。自分が苦手なことをしてくれる人に感謝した。喜んでやってくれれば更に感謝は深まる。

二人企業の社長の気分になって、仕事(家事)をする人に感謝して褒める。そして、苦情を言ってくれるように促す。その仕事が大変ならば、私が代わりましょうとも言った。自分は凄くズルイと思う。仕事を代われとは言われないことを知りながら、代わると言っている。

小さな用を足すごとに、目の前の書が目に入る。トイレの「愛」を私への愛と思っている。気がつけば、自分に都合のいい方に思い込む人になっていた。神が私を生き易い人に変えてくれたのかも知れない。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年03月19日

パソコン落ちこぼれ

私にとってパソコンとは小うるさい古女房のようなものだ。その心は、自分は正しいと文句ばかり言って動こうとしない。初めて買ったのは1980年と早い。当時は「マイコンを使えこなせないサラリーマンは失格」とか雑誌等で盛んに煽っていた。しかし、その割に普及はしていなかった。マイコンとは マイクロコンピュタの略で、気持ちとしては「私のコンピュータ」である。ただ、NEC等、パーソナルコンピュータとして売り出したメーカーも少なくなかった。

買ったのはシャープMZK2E RAM領域32KB(MBの間違いではない)、本体とテープレコーダー(HDの代用)とキーボードが一体となっていた。凄く重かったので外装は鉄製と思う。別売りのプリンタも買ったので25万円もした。その時の月給は14万だった。苦しい家計をやりくりしている妻子の手前、一生懸命勉強したが何の役にも立たなかった。しかし、酒を止めることに成功した。その後、富士通、アップルと、時流に合わせて次々と買い換えた。

1995年に颯爽と登場したのがウィンドウズ95。マック・ファンとしては洟も引っ掛けなかった。それがコロリとウィンドウズに変えた理由は、エクセル98バージョンアップに、マックが直ぐに対応しなかったからだ。エクセル98のVBA(Visual Basic for Applications)を使うため、長年の友、マックを捨てたのである。正確にはMicrosoft Officeに搭載したVBAだが、エクセルしか使ったことのない私は、このように理解していた。VBAは私が初期に必死に勉強した、素人向けプロブラミングの知識を生かせるソフトだった。

職場で電卓を使って三日もかかる1ヶ月分の統計作業をVBAを使って5分で処理して、周囲をアッと言わせた。この快感は忘れられない。しかし、それも束の間、私の「計算処理プログラム」は、作るのに半年もかかり、他の仕事には全く応用できない代物だった。だけど面白かった。お陰で酒も止められた。暇な時間を全てプログラミングに注いだからね。

最近、20年間はパソコンの勉強は嫌々やっている。やらなければ、ホームページやブログの更新が出来ないから仕方がない。この10年間は、パソコンの勉強は全くやらなくなった。分からないことはオンライン.サポートに頼っているが、上手くは行かない。トラブル続きで何も分からなくなってしまったし、やる気も湧かない。それでも情報発信したい気持ちが残っているので更新し続けている。

「パソコン役に立った?」と聞かれれば、酒やめられたとしか答えようがない。お陰で81歳まで生き延びられた。きっかけを作ってくれたパソコンに感謝!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年01月15日

さえずりたい

昨日、久しぶりに長電話をした。話しの中でAさんが自分自身の壮絶な人生を語ってくれた。とても感動したので、私も40年以上前のことを打ち明けたくなった。それは「音痴なのに歌うな」と叱られた情けない話だ。初めて人に話してスッキリした。簡単に言うと次のような出来事だった。

職場の懇親会で皆が順番で歌うことになった。大きな会場なので遠慮したが、歌えと言われて歌った。三日ぐらいして、近所の友人三人で飲む機会があった。散々飲んで12時を過ぎた頃、目の据わったB君に「お前は音痴なのに何故歌うんだ」と叱られた。頼まれても歌ってはダメだと絡んできた。家に帰ったのが午前2時頃だから、随分長く絡まれていたものだ。

B君はベロンベロンに酔っ払っていて、このことを覚えていなかった。彼はほとんど意識のない状態で、胸に溜まっていたことを一気に吐き出したのだ。正直に言ってもらって目が覚めた。私が歌うと不快に感じる人がいることが分かったのである。以後、25年間人前で歌ったことはない。

それなのにカラオケに行くようになったのには訳がある。65歳の時、Cさんにカラオケに誘われた。Cさんは、あるカラオケ会に入ったが歌えないので練習をしたいと言う。練習仲間として選ばれたのが、音痴の私と仲良しのDさんだった。ビールがジョッキで一杯付いて、150円と言う破格の安さだ。それに三人で三回の誕生日にはケーキが付く。法人カードを持っていて、各種割引を駆使するとこうなるそうだ。

その頃、地元を語るFMラジオで放送委員の一人として中島公園の話をしていた。公園だけで1時間はもたないので、私が所属するシニアネットのカラオケ会の会長にゲストのお願いをした。カラオケ会を知る必要があったので、取材のつもりで例会に参加した。歌うつもりはなかったが、無理矢理舞台に立たされて(楽しく)歌ってしまった。カラオケは健康にもいいのですよと誘われ、その後の例会にも参加するようになった。

当時のカラオケ会は酒を飲みながら歌うのが普通だった。私は酒に弱いので直ぐ酔っ払って、我を忘れて歌ってしまう。それから10年もすると、飲まないで歌うのが普通になってきた。それでも私はさえずりたいのは、動物としての本能かも知れない。小鳥のようにピーチクパーチク。皆様のおかげで楽しく歌わさせてもらっている。今は持病とかコロナ禍の影響で休んでいるが、例会に参加できる日が来ることを楽しみにしている。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年12月18日

雨垂れ石を穿つ

世の中は複雑すぎて、自分の力では何もかも思うように行かない。しかし、退職して二人暮らしになれば話は別だ。相方を説得して好きなように生きられる。

相手が一人だから対応が簡単で、効果の確認も正確に評価できる。失敗したら止める。成功したらやり続ける。簡単に言えばこれだけで良い。といっても予め決めなければ、一歩も前に進めないことがある。それなりの覚悟も肝心だ。

決めるべきは、この先一緒に暮らすか離婚するかである。先ず離婚について考えた。宣言、諸手続き、一人暮らし、その他諸々について、三日三晩懸命に考えた。結論は私の様な怠け者には絶対に無理。苦しくても一緒に暮らした方が、より楽でより幸せだ。

このまま一緒に暮らす方が良い。そう決めれば、どう生きるかは簡単に結論が出る。二人で仲良く楽しく暮らす方法を考えて、実行するだけである。

幸い相方はアル中でも薬物中毒者でもない。ギャンブルには興味がなく、浮気もしたことないし、鬱陶しい親戚もいない。お洒落が大好きな浪費家でもない。おまけに物を盗まないし暴力も振るわない。もちろん嫌なところも沢山ある。

自分勝手で我が儘で、私を常識のない人と軽蔑している。しかも、自分本位で人の都合など全く考えない。自分は正しく私が間違っていると主張、私の言い分など絶対に聞かない。

こんな人といかに幸せに、いかに楽に暮らすかを考えた。相方は法令をキチンと守る常識的な人、しかも外面は悪くない。欠点は私に対する態度だけ。これだけを直せば理想的なパートナーになり得る。どうすれば私が幸せになれるか、真剣に考えたら一時間もしないで解決法を思いついた。

結論は簡単だ。自分自身を嫌われている人から、好かれる人に変えればよい。ヒントは大好きな恋愛ドラマの中に山ほどあった。女性に好かれる為に、滑稽なほどの涙ぐましい努力をする。例えば、「男はつらいよ」の寅さんのように。こんなことは人前では絶対に出来ないが、第三者が居ない二人暮らしなら可能だ。楽ちん暮らしは私の夢。やる気満々!

嫌われ者から好かれる人になるには忍耐が必要だ。30年間も嫌われ続けてきたから、好かれる人になるのに15年もかかってしまった。その方法は? 具体的にはこちらをクリックすればリンク一覧 を表示 → タグ/楽しい我家 

まるで、 雨垂れ石を穿つような、忍耐に忍耐を重ねるような作業だった。「終わりよければすべてよし」と思っているが、果たして今は終わりだろうか。考えればきりがない。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年12月04日

恥かき人生

私の恥かきは2種類あり、それらが人生を心豊かに楽しくしてくれた。一つは何事も人並みに出来なくて悩む、消極的恥多き人生。もう一つは、能力もないのに、やたらに手を出した積極的恥かき人生だった。いずれも、恥かき最中は一生懸命で後になってから恥ずかしくなった。

何故か長い間、楽をすることだけを目的として生きて来た。今は殆ど全ての家事をお母さんに任せて、楽をさせてもらい幸せだ。「私が長生きできたのは、お母さんのお陰です」と、三日に一度はお礼を言っている。

定年退職後は仕事から解放され自由を謳歌した。羽目を外して出来ない事にまで手を出して散々恥をかいた。これが積極的恥かき人生の始りである。切っ掛けは中島公園についてのホームページの開設だった。

開設1年半後にテレビ局から取材があり、新聞のインタビューもあった。これが切っ掛けで、活舌が悪く満足に話せないのに地元のラジオで中島公園について話した。そして、その道の達人と誤解され、ろくな文章も書けないのに新聞にコラムも書いた。毎回のように担当記者が直してくれた。ここに書いたような文章では新聞には載せられない。

人前で話したことがないのに講演まで依頼され、あちこちで恥をかいて来た。つまり、やらなくてもよいことを沢山やり続け、恥をさらし続けたのだ。そう思ったのは後になってから。当時はやる気モリモリで一生懸命だった。大抵の皆さんが若い時やっていたことを高齢になってやり始めたのだ。

今思うと何か夢を見ていたような気がする。食う為に働く、私にとっては奴隷の様な労働を続けてきた反動だと思う。せっかく自由になれたのだから、何でもやってみようと言う思いが強すぎた。振り返ってみると45年にわたる消極的人生は、現在の幸福感の種になっているような気がする。そして、積極的に恥をかいた定年後の十年も懐かしい。

不思議なことに積極的恥かきは、カラオケ部門で未だに続いている。音痴なのに75歳で始めた洋楽カラオケでは、思いっきり恥をかいた。しかし、歌っている時は何も考えない。伴奏から大きく遅れた時は、懸命に追いつこうとした。ラジオも講演も同じだった。失敗すればするほど真剣になった。

今のように平穏で幸せな人生を送っていると。苦労した遠い昔も、ジタバタ独り相撲を取っていた定年後の年も懐かしい。恥をかきながらも楽しくて充実していた。

長い間退職後を楽しみにして働いて来たが、期待した通りで良かった。余裕ができたら、恥を全くかかないのも勿体ないと思った。そして、カラオケを残すことにした。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年11月20日

念願の立派な病気

80歳を目前にして舌癌に罹り、手術の為入院することになった。初めて癌という世間でも認められる立派な病名を付けてもらって、ある意味で、とても嬉しかった。その喜びは深海竜宮病院に書いたので、ここでは省略する。

自慢するようで恐縮だが、珍しい癌だ。有名人としてはテレビドラマスチュワーデス物語の堀ちえみさんが罹っている。

幼少の頃は健康だった。10歳から元気よく走って新聞を配っていた。その頃は私が配達するのを待っている人がいて、「エライね」とか言ってお菓子をくれて励ましてくれることもあった。そんなことで、配達するのも楽しかった。

それから5年後の春、中学三年になっていた私は、坂を上るのが辛くなり走って配れなくなった。子供の頃、お菓子をくれた人に「新聞が遅い」と叱られた。体調は悪いが、学費は必要なので配達は止められない。今の常識では病院に行くべきだが、その頃、病院に行く人は滅多に居なかった。

働かなければ食ってはいけないが、体調が悪いまま働くのは凄く辛い。何をやっても続かず、8年ばかり職を転々。その結果肉体労働は、どうしても出来ないことが分かった。

何か事務的な仕事はないかと探したが学歴で無理。調べてみると、国家公務員試験だけは、受験資格で学歴を問われないことを知った。つまり、短大卒業程度の中級職も中卒で受けられる。20歳以上28歳未満の年齢制限があるだけだった。

年齢の関係で高卒程度の初級職は無理、27歳まで受けられる中級職を受けることにした。21歳のとき、兄の紹介で「インド通信東京支局」でアルバイトを始めた。実働2時間程度で、6時間は一人で留守番という、楽で暇な仕事だった。誰も居ないから一人で試験勉強ができるのだ。お陰で2年後に航空管制官試験に合格できた。

スポーツを楽しんだり、レジャーも盛んな職場だったが、私の健康状態は相変わらず悪い。仕事が終わったらさっさと寝る。目が覚めたら、本を読んだり、テレビを観たりの休養生活だった。付き合いで飲んだり旅行に行ったりするが、自由時間の全てを休養に当てた。

体調が悪く、息切れがして疲れ安い状態は続いていたので、病院にはよく行って、検査もよくやった。しかし、検査結果はいつも異常なしだ。その度に健康になるという望みは絶たれた。こんな状態が40年以上続き、虚弱体質と諦めた。

2年前は舌が痛くて飯も食えなかった。食える物もあるが塩気があれば痛い。牛乳、生卵、お粥、豆腐等いろいろあるが、塩気がなくては美味しくない。どうか立派な病名が付きますようにと祈った。舌が痛いのに異常なしなら心配だ。舌癌と言われてホッとした。これで痛いのが治る。病名が付くこと、これが快復の第一歩である。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年10月16日

為せば成る

カラオケも行けない巣ごもり生活を始めて2年たった。舌癌発病にコロナ禍が追い打ちをかけたのだ。1年半前のことだが医師に癌と言われた。病名が付いた以上は治してもらえると思い、ホッとして「そうですか」と言った。看護師さんが微笑みながら「怖くないのですか?」とささやいた。痛くて飯が食えないのに異常なしと言われる方が怖い。

何であれ、病名を付けてもらうことが快復の第一歩だ。長年、体調が悪くて病院に行っても異常なしと診断され続けた。14歳の時、息苦しくなり、やたらに心臓がドキドキするようになった。それ以来、人並みの動きをすると、息切れがするし疲れが酷い。その状態は現在に至るまで続いている。その為、退職し無職になってとても嬉しかった。

数年は張り切っていろいろやったが、自由な活動といっても、やはり人並みの体力がないと難しいことが分かった。周囲の人に合わせられないと、心ならずも存在自体が迷惑になることがある。いろいろやって、いろいろ楽しんだが、いろいろと疲れた。自由な活動もやっぱりダメだった。

妻は家でゴロゴロしている私に家事をさせようとしたが、出来が悪いので諦めた。その代わり何をしてくれても、嫌味たっぷりだ。憂鬱な状態は十年以上続いたが、発想を変えて解決した。夫婦関係を母子関係に切り替えたのだ。私は子供になってお母さんを尊敬することにした。そして、言葉使いに気を付けて、言うことを聞く良い子になるように心がけた。

ある日、トイレで用を足していると、突然電灯が消えて真っ暗になり、いきなりドアが開いた。そして叱られた。
「臭い! 電気も点けないで何してんの!?」
「ごめんなさい」
と謝った。トイレに入るため、お母さんは電灯を点けるつもりで消したのだ。そして、開けたら私が座っているので驚いたのだろう。良い子を演じている私は、口答えをしない。

こんな対応を三年も繰り返していたら、とても優しいお母さんに変わってしまった。もちろん喜んで私の世話をしてくれる。私は、ことあるごとに「この歳になるまで生きてこられたのはお母さんのお陰です」と言う。体調が何時も良くない私としては、嘘偽り無い本当の気持ちだから素直に信じてもらえる。ちょっと変だが、80歳の母と81歳の子になった。二人暮らしなら何にでも成れる。為せば成る。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年08月14日

母と私-4(そして妹)

母は三人の子連れで東京渋谷の中波常吉と一緒になった。そして、春子が生まれた。終戦2年後の1947年のことだった。常吉さんはもちろん、年の離れた兄弟も春子を可愛がった。

とは言っても、バラック生まれの貧乏暮らし、惨めな思いも苦労もあったと思う。妹は父親似の小柄な美人に育ったが、真っすぐな人生は歩めなかった。

後になって偶然知ったことだが、妹は中学生のころ深刻な犯罪被害に遭い、これが転落の切っ掛けとなった。十代で二児の母となり、結婚・離婚を繰り返す波乱の人生を送った。それでも病気の父親の面倒を最後まで一人でみていた。

中年になってから年下で実直な、驚くほど良い人にめぐり逢い、二人の娘と共に幸せになった。だが、71歳で亡くなってしまった。人生の前半は苦労と波乱に満ちていた。そして、後半は愛する夫と娘、孫に囲まれて幸せに過ごした。

私は中卒後、地方で働いていたが、3年9ヵ月後に、退職して家に帰り、仕事(経師屋)を手伝うことになった。ところが仕事が忙しいというのは真っ赤な嘘。母は私が退職金や貯金をいっぱい持ってくると勘違いしたのだ。

退職金は旅費で消える程度だし、給料の大部分を家に送金していたのに貯金など出来るわけがない。1年も一緒に暮らせば、母も私がスカンピンであることが分かったし、させる仕事もない。私は母にとっても不要な息子となった。

妹は私が送った金を母がパチンコ代にしたと嘆いていた。この頃になると必要な金は金貸しのTさんから借りていた。妹は私の知らない家庭の事情をいろいろ話してくれた。

15歳のときは家を助けるために外に出たが、20歳のときは自分が生きるために家を出なけばならなくなった。ところで、文無しでも行ける場所がある。それは自衛隊、下着や靴下まで支給される。自分で用意するのはパンツだけでいい。

入隊した、その日から住む所と食事が与えられた。3年満期だから安定職とは言えないが、就職のための免許も取れると聞いた。それに虚弱体質の私は肉体労働が苦手だ。中卒の私にとって自衛隊は、事務的な仕事が出来る唯一の場所と考えた。常識に反するかも知れないが、正解だった。

令和元年に妹から来た年賀状に、次のような添え書きがあった。「この年になり大病し、私たちは変な家族だったから 今、兄の温かい手紙を読んで泣けて泣けて嬉しくて、本当にありがとう。感謝の気持ちでいっぱいです」。

妹の残した最後の言葉は「私たちは変な家族だった」。全く同感、我々家族は変だった。その中で一番人間らしく生きたのが妹だ。全ては優しく真面目、面倒見の良い夫の影響と思う。母の葬儀が滞りなくすんだのも彼のお陰だった。妹は私が少しは変でなくなったと思い、喜んでくれたのだろう。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年08月07日

母と私-3(金貸しのTさん)

ドラマに出て来る金貸しは血も涙もない冷血漢。しかしTさんは違う。何でも親身になって相談に乗ってくれる優しい人だ。母がそう言っていた。ある日、Tさんが母と話し込んでいるのを見たことがある。革ジャンを着てハンチングを被った、浅黒い顔の人だった。何処かで見たことがある。なんと! 中学以来の友人Tのお父さんではないか。

確かTは米屋の息子だった。Tの部屋に遊びに行っても、家族に挨拶をしたことはない。中学時代は礼儀作法を全く知らなかった。だが、店先で何回もお父さんの顔を見たことがある。米屋が米も持たずに我が家に来た。何故だろう。

後から知ったことだが、米屋は副業として金貸しもやっていた。私は中卒後、ほとんど家を出て働いていたので、家庭の事情はほとんど知らない。妹の話によると、金貸しのTさんは、金だけではなく、渋谷の土地を活用して暮らしを立てる知恵も貸してくれたそうだ。

Tさんは借り手の身になって考える、思いやりのある人だった。土地がTさんのものになった後も、私の家族で彼を恨むような人は居なかった。住む家を失っても、良い借家を安く世話してくれたと喜んでいた。

Tさんは相談に応えるという感じで金を貸し、同時に活用の知恵を授け、生活が成り立つように援助した。何回も助け、最終的には担保物件を自分の土地にした。そして、感謝されるのだから大したものだ。10年間も借り手に寄り添ってくれた。これぞ本当のプロ! 米屋は副業かも知れない。

この親にしてこの子あり、息子のTもえらい。彼は大学を出るまで私と付き合ってくれた。中学から、3・3・4年と10年間、私の友人で居てくれた。丁度、母がTさんから金を借りて、土地がTさんのものになる期間と一致する。

私は母がTの父親から金を借りていたことを知らない。そして、母は私がTと付き合っていたことを知らない。だが、T家の父子は全てを知っていたと思う。金貸しとは大変な仕事と思う。10年間も家族が協力して、人間関係を築き信頼を得る。そして、機が熟するのを辛抱強く待つ。トラブルなく目的を達成するためには、知恵も忍耐力も必要である。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年07月31日

母と私-2(求めよさらば与えられん)

関東大震災(1923年)で被災した母は、どん底に落ちた。だが25歳ごろからは幸運にも恵まれ、自由で贅沢な暮らしが出来るようになった。以後10年くらいはイソップ寓話のキリギリスのように、歌って楽しく暮らしていたようだ。ところが突然の事件をきっかけに、再びどん底に陥った。しかし、贅沢を知ってしまったらコツコツ働くアリには戻れない。

一方、私は6歳までは経済的には何不自由なく育ったのに、物心がついた頃はどん底だった。以後、浮き沈みはあったが、トレンドとしては右肩上がりの人生だ。特に定年退職後は、幸福度係数が急上昇。入院を三回したものの幸せ状態は持続している。一旦、幸せ本線に乗れば、厳しいことがあっても、直ぐに幸せに戻れることを知った。

母は横浜での豊かで楽しい暮らしが忘れられないのか、どん底に落ちてもキリギリスのままだった。日々の暮らしに困ると、頼る人を近所の奥さんから親戚、子供達へと次々に変えた。そして最終的には、何時もニコニコ笑顔で貸してくれる、金貸しのTさんを頼るようになった。

1960年代に入ると、オリンピックを控え渋谷の土地は急騰したが、戦災復興計画事業で土地は20坪に減らされていた。それでも、2階建てにして下を貸店舗にすれば、家族三人(親妹)充分に食べる収入を得られた。Tさんは母とその家族の生活を豊かにする知恵を、次々と提案してくれた。

ある日、丸ごと貸せば、家賃も三倍も入ると言う有難い提案があり、Tさんは家族三人の為に横浜の郊外に一軒家を借りてくれた。彼は「借金なんか返さなくていいから気楽に暮らしなさい」とも言ってくれた。いろいろあったが、土地はいつの間にかTさんのものとなっていた。

一方、私は働かなければ食えないので、アリの皮を被っているが、本心は母と同じキリギリスだ。職を転々とした後に、憧れの健康保険も年金もある定職に就いた。しかし私はキリギリス、働くことは苦手だ。右肩上がりの人生と言っても、幸せを感じたのは定年退職後だった。

退職したら幸せいっぱい夢いっぱいだが、何かが足りない。歌って踊れなければ、幸せであっても面白くはない。音痴なのに私の心はキリギリス、歌なしでは生きてる気がしない。高齢になって、気が付いたらカラオケをやっていた。一人じゃ面白くないが偶然、カラオケ会と言う場も与えられた。

しかし、踊らなければ、夢は半分しか叶っていない。ところが、手話を教えてくれる人が現れた。しかも歌いながら手話の練習をするのだ。やってみると歌って踊っているような気がして来た。「求めよさらば与えられん」と言うのは本当だった。本来の意味から離れた気持です(^-^;) ゴメン 
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般