2023年02月18日
故郷の渋谷を想う
2022年12月03日
口と心は元気
2022年10月15日
トイレの神様
2022年03月19日
パソコン落ちこぼれ
2022年01月15日
さえずりたい
昨日、久しぶりに長電話をした。話しの中でAさんが自分自身の壮絶な人生を語ってくれた。とても感動したので、私も40年以上前のことを打ち明けたくなった。それは「音痴なのに歌うな」と叱られた情けない話だ。初めて人に話してスッキリした。簡単に言うと次のような出来事だった。
職場の懇親会で皆が順番で歌うことになった。大きな会場なので遠慮したが、歌えと言われて歌った。三日ぐらいして、近所の友人三人で飲む機会があった。散々飲んで12時を過ぎた頃、目の据わったB君に「お前は音痴なのに何故歌うんだ」と叱られた。頼まれても歌ってはダメだと絡んできた。家に帰ったのが午前2時頃だから、随分長く絡まれていたものだ。
B君はベロンベロンに酔っ払っていて、このことを覚えていなかった。彼はほとんど意識のない状態で、胸に溜まっていたことを一気に吐き出したのだ。正直に言ってもらって目が覚めた。私が歌うと不快に感じる人がいることが分かったのである。以後、25年間人前で歌ったことはない。
それなのにカラオケに行くようになったのには訳がある。65歳の時、Cさんにカラオケに誘われた。Cさんは、あるカラオケ会に入ったが歌えないので練習をしたいと言う。練習仲間として選ばれたのが、音痴の私と仲良しのDさんだった。ビールがジョッキで一杯付いて、150円と言う破格の安さだ。それに三人で三回の誕生日にはケーキが付く。法人カードを持っていて、各種割引を駆使するとこうなるそうだ。
その頃、地元を語るFMラジオで放送委員の一人として中島公園の話をしていた。公園だけで1時間はもたないので、私が所属するシニアネットのカラオケ会の会長にゲストのお願いをした。カラオケ会を知る必要があったので、取材のつもりで例会に参加した。歌うつもりはなかったが、無理矢理舞台に立たされて(楽しく)歌ってしまった。カラオケは健康にもいいのですよと誘われ、その後の例会にも参加するようになった。
当時のカラオケ会は酒を飲みながら歌うのが普通だった。私は酒に弱いので直ぐ酔っ払って、我を忘れて歌ってしまう。それから10年もすると、飲まないで歌うのが普通になってきた。それでも私はさえずりたいのは、動物としての本能かも知れない。小鳥のようにピーチクパーチク。皆様のおかげで楽しく歌わさせてもらっている。今は持病とかコロナ禍の影響で休んでいるが、例会に参加できる日が来ることを楽しみにしている。
2021年12月18日
雨垂れ石を穿つ
2021年12月04日
恥かき人生
私の恥かきは2種類あり、それらが人生を心豊かに楽しくしてくれた。一つは何事も人並みに出来なくて悩む、消極的恥多き人生。もう一つは、能力もないのに、やたらに手を出した積極的恥かき人生だった。いずれも、恥かき最中は一生懸命で後になってから恥ずかしくなった。
何故か長い間、楽をすることだけを目的として生きて来た。今は殆ど全ての家事をお母さんに任せて、楽をさせてもらい幸せだ。「私が長生きできたのは、お母さんのお陰です」と、三日に一度はお礼を言っている。
定年退職後は仕事から解放され自由を謳歌した。羽目を外して出来ない事にまで手を出して散々恥をかいた。これが積極的恥かき人生の始りである。切っ掛けは中島公園についてのホームページの開設だった。
開設1年半後にテレビ局から取材があり、新聞のインタビューもあった。これが切っ掛けで、活舌が悪く満足に話せないのに地元のラジオで中島公園について話した。そして、その道の達人と誤解され、ろくな文章も書けないのに新聞にコラムも書いた。毎回のように担当記者が直してくれた。ここに書いたような文章では新聞には載せられない。
人前で話したことがないのに講演まで依頼され、あちこちで恥をかいて来た。つまり、やらなくてもよいことを沢山やり続け、恥をさらし続けたのだ。そう思ったのは後になってから。当時はやる気モリモリで一生懸命だった。大抵の皆さんが若い時やっていたことを高齢になってやり始めたのだ。
今思うと何か夢を見ていたような気がする。食う為に働く、私にとっては奴隷の様な労働を続けてきた反動だと思う。せっかく自由になれたのだから、何でもやってみようと言う思いが強すぎた。振り返ってみると45年にわたる消極的人生は、現在の幸福感の種になっているような気がする。そして、積極的に恥をかいた定年後の十年も懐かしい。
不思議なことに積極的恥かきは、カラオケ部門で未だに続いている。音痴なのに75歳で始めた洋楽カラオケでは、思いっきり恥をかいた。しかし、歌っている時は何も考えない。伴奏から大きく遅れた時は、懸命に追いつこうとした。ラジオも講演も同じだった。失敗すればするほど真剣になった。
今のように平穏で幸せな人生を送っていると。苦労した遠い昔も、ジタバタ独り相撲を取っていた定年後の十年も懐かしい。恥をかきながらも楽しくて充実していた。
長い間退職後を楽しみにして働いて来たが、期待した通りで良かった。余裕ができたら、恥を全くかかないのも勿体ないと思った。そして、カラオケを残すことにした。
2021年11月20日
念願の立派な病気
自慢するようで恐縮だが、珍しい癌だ。有名人としてはテレビドラマスチュワーデス物語の堀ちえみさんが罹っている。
幼少の頃は健康だった。10歳から元気よく走って新聞を配っていた。その頃は私が配達するのを待っている人がいて、「エライね」とか言ってお菓子をくれて励ましてくれることもあった。そんなことで、配達するのも楽しかった。
それから5年後の春、中学三年になっていた私は、坂を上るのが辛くなり走って配れなくなった。子供の頃、お菓子をくれた人に「新聞が遅い」と叱られた。体調は悪いが、学費は必要なので配達は止められない。今の常識では病院に行くべきだが、その頃、病院に行く人は滅多に居なかった。
働かなければ食ってはいけないが、体調が悪いまま働くのは凄く辛い。何をやっても続かず、8年ばかり職を転々。その結果肉体労働は、どうしても出来ないことが分かった。
何か事務的な仕事はないかと探したが学歴で無理。調べてみると、国家公務員試験だけは、受験資格で学歴を問われないことを知った。つまり、短大卒業程度の中級職も中卒で受けられる。20歳以上28歳未満の年齢制限があるだけだった。
年齢の関係で高卒程度の初級職は無理、27歳まで受けられる中級職を受けることにした。21歳のとき、兄の紹介で「インド通信東京支局」でアルバイトを始めた。実働2時間程度で、6時間は一人で留守番という、楽で暇な仕事だった。誰も居ないから一人で試験勉強ができるのだ。お陰で2年後に航空管制官試験に合格できた。
スポーツを楽しんだり、レジャーも盛んな職場だったが、私の健康状態は相変わらず悪い。仕事が終わったらさっさと寝る。目が覚めたら、本を読んだり、テレビを観たりの休養生活だった。付き合いで飲んだり旅行に行ったりするが、自由時間の全てを休養に当てた。
体調が悪く、息切れがして疲れ安い状態は続いていたので、病院にはよく行って、検査もよくやった。しかし、検査結果はいつも異常なしだ。その度に健康になるという望みは絶たれた。こんな状態が40年以上続き、虚弱体質と諦めた。
2年前は舌が痛くて飯も食えなかった。食える物もあるが塩気があれば痛い。牛乳、生卵、お粥、豆腐等いろいろあるが、塩気がなくては美味しくない。どうか立派な病名が付きますようにと祈った。舌が痛いのに異常なしなら心配だ。舌癌と言われてホッとした。これで痛いのが治る。病名が付くこと、これが快復の第一歩である。