2021年07月17日

埋められた記憶の穴

前回の「ドウジュンカイの記憶」の続き
2006年私も66歳、報道で「表参道ヒルズ」誕生のニュースを知って驚いた。ドウジュンカイとは何かと言う、長年の謎が解けたのだ。報道では旧同潤会青山アパートの建替事業と言っていた。私の耳に響いたのは同潤会と言う単語である。

6歳の時、意味も分からずに記憶したのが同潤会と分かった。母親が近所の奥さん方とのお喋りの中で、よく口にしていた言葉だ。60年後の今分かったが、私は横浜の同潤会で生まれたのだ。これが同潤会との第一の関りである。

10歳だった1950年、日本は戦後混乱期の5年目。復興は遅々として進まず、我が家はどん底のままだった。必要に迫られて新聞配達をしていたたが、配達区域に表参道が含まれていた。これが同潤会との第二の関りである。

そこには古ぼけて、屋内が薄暗い三階建てのビルが並んでいた。あたり一面空襲で焼かれたが、鉄筋ブロック造の同潤会青山アパートだけは、焼け残っていた。

ネット情報によると「同潤会アパートはそれまでの所有・管理者だった同潤会から東京都に引き継がれ、さらに1950年になると各住民に払い下げられた」。新聞配達をしていたのは、まさにその頃だが、終戦直後の極端な住宅不足は依然として続いていた。

例えば、本来一家族で使うべき部屋に三家族が入居していた。室内にロープを張って、各家族の専有場所を区切っていた。まるで、避難所のような有様だ。配達する新聞は開けっ放しの玄関ドアから入り、ロープ内の購読者に手渡した。

こんなことは、住宅難の東京では珍しいことではなく、我がバラックでも20坪くらいの土地に平屋のバラックを継ぎたして3家族17人が暮らしていた。親戚が満州から引き揚げてきたからだ。親切と言うよりも食って行く為の工夫と思う。

同潤会との関り第三は中学の時だった。同級生が代官山アパートに住んで居たので、度々遊びに行った。終戦後10年くらいたち、庶民の生活もいくらか改善されていた。三階建て6畳4畳半の二室に台所で風呂はない。それでも、6畳くらいのバラックに6人家族で暮らしている私から見れば、夢の様な居住環境だ。

ところで、私が生まれたのは横浜の同潤会。関東大震災を経験した母にとっては、震災からの復興のシンボルであり、新しい夢の世界だ。戦後、バラックに住む身になった母は、繰り返し話しても厭きることはなかった。

そして戦後混乱期のスラムの様な感じの青山アパート。辺り一帯が空襲で焼け野原となったが、そこに残った鉄筋不燃構造の3階建てビル群。界隈唯一の住める場所になったのかも知れない。中は人でいっぱいの感じだった。

1950年から高度成長が始まり、私も中学生になっていた。そのころ出会ったのが代官山アパート。羨ましいほどの高級住宅と思った。今では同潤会青山アパートが、「表参道ヒルズ」に、代官山アパートが「代官山アドレス」に、それぞれが日本の代表的な再開発事例となった。時代と共に移り変わる同潤会は、私の記憶の大きな穴を埋めてくれた。
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2021年04月24日

優しい誤解

誤解されて悔しい時は人生真っ暗だが、誤解されても幸せな時は何も感じない。ただ自由に生きていたような気がして、誤解されていることさえ分からない。何十年もたってから、ふとしたキッカケで思い出す。何回も思い出しているうちに誤解に気づく。優しい誤解をみつけると心豊かになる。

常磐松小学校では皆に親切にされ、学校が楽しかった。渋谷を襲った「山の手大空襲」被災者と誤解されたのだと思う。母は三人の子連れで養父と再婚したが、養父は空襲で妻子を失っていた。そして、戦争直後に建てたバラックに住んでいた。三年たったら近所で唯一のバラックになってしまった。こんな状況が誤解を生む原因になったと思う。

太平洋戦争前の1940年度における渋谷区の人口は256,706人(国勢調査)だった。それが戦争末期、1945年6月の推定人口は47,000人程度と5分の1以下に激減した。それが終戦と共にうなぎ上り、1年もたたない内に倍増。その後も増加が続き、流入人口は増え続けた。そして、空襲の経験のない人たちが多数を占めるようになった。

そのような状況の中で、私は空襲で家族を失った気の毒な子と、優しい同級生に誤解されたようだ。貧乏人は沢山居たから、ただの貧乏人では助けてもらえない。ふと約3年前の胆振東部地震を思い出した。疎遠の兄から優しい電話があった。昔話との共通点は「誤解」である。

地震後の混乱が落ち着いた頃、東京の兄から「大丈夫かい?」と電話がきた。一瞬何のことか分からなかったが、直ぐに思い出した。私が被害を受けていると誤解されたのだ。住んでいる共同住宅では少し揺れを感じた程度だが、札幌の一部の地域では道路が陥没したり、家が傾いたりした被害があった。その映像が繰り返し東京で流されたのだ。

死者41名の大震災で札幌の一部でも大きな被害があったが、少し離れて居ると何の被害も無い。北海道は広いし札幌だって広いのだ。しかし、東京から見える札幌は狭い。私たちが陥没した道路と傾いた家のある、被災地区の真っ只中にいると誤解したようだ。
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2021年04月17日

優しい同級生たち

思い起こせば、小学校は不自由もあったが楽しかった。弁当は持って行けないし、遠足も手ぶら。学用品も不足し、写生会では同級生にクレヨンを借りて描いたりした。幸い、同級生は皆親切なので、学校に行くのが唯一の楽しみだった

弁当を持たせてもらえないので、昼食は給食(脱脂粉乳と肝油)だけ。それを見た親切な生徒が弁当のふたに、食べ物を乗せて分けてくれた。すると、他の生徒も次々と声を掛けてくれるので嬉しかった。腹も充分満たされた。

旨い話は長続きはしなかった。ある日先生が「弁当を人に上げてはいけません」と注意した。そして、生徒からの援助はなくなり、肝油と脱脂粉乳に逆戻りした。先生は嫌いになったが、同級生の親切は忘れない。だから、相変わらず学校が大好きな子供だった。

終戦後3年もすると、貧しいながら生活は安定し、お金持ちも僅かながら増えてきた。そのような背景もあって、貧しい人を助ける習慣も徐々に芽生えてきた。それに、常磐松小学校に通う子等は、比較的豊かな家庭の子が多かった。

小学校低学年の私は、無邪気なもので自分のことを人気者と思っていた。遠足に行っても昼食時間になると、親切な生徒からお呼びがかかる。一緒に食べないかと誘ってくれるのだ。手ぶらで行ってもアチコチ回れば腹いっぱい食えた。放課後に家に招待して、ご馳走してくれる生徒さえいた。

考えてみれば、弁当を持って来なかったり、遠足に手ぶらで行く生徒はクラスで私一人しかいなかったのだ。貧乏だからと言って、差別されたり苛められたりすることはなかった。数人の生徒が食べ物くれたり、学用品を貸してくれたりして、代わり代わりに面倒を見てくれた。

だから学校が大好きだった。借りたクレヨンで描いた絵が渋谷区主催の写生会で三等賞、渋谷駅直結の東横デパートに張り出されたこともあった。焼け残った唯一最高のビルである。先生が喜んでクレヨンを買ってくれた。これで先生も好きになり、ますます学校が楽しくなった。

しかし、同級生の友達は一人も出来なかった。考えてみれば当たり前、友達になりたくて親切にしてくれたのではない。小学生ではあるが、人間として正しいと思うことをしてくれたのだ。援助する生徒と私とに、適切な距離があったのが好かったのだと思う。もちろん、一番良かったのは運!
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2021年04月10日

皇太子とすれ違い登校!

栄光とは何だろう? ドラマの中では毎日のように出会えるのに、私には無縁のもの。それでは余りにも寂しいので一生懸命探したらあった。渋谷区立常磐松小学校である。1925年12月、常盤松御料地払下げとなり、渋谷区最初の鉄筋校舎として落成、翌年開校した。

小学校に入学した頃、日本は占領下にあり、日米の生活格差は天と地ほどあった。通学路ではワシントンハイツの住人が、自家用車で颯爽と走り、道路の端を荷馬車が遠慮ぎみにトコトコ行く。大空襲で渋谷区は約80%が破壊されたが、この道路だけは修復されて完璧な舗装道路になっていた。アメリカ人が使うからだ。

終戦直後は極端な燃料不足でトラックは走れず荷馬車が復活した。私たち小学生は歩いて20分ほどの通学だが、道々いろいろ楽しんだ。遊び半分で馬車の荷台にぶら下がるのが一番楽しかった。しかし、束の間の楽しみで終わった。

数日たったある日、御者のオジサンが馬車を降り、血相変えて怒りに来た。私たちはビックりして悪乗りを止めた。オジサンは初めは気付かなかったらしい。注意しても馬を操りながらでは後ろまで声が届かなかったのかも知れない。ついに堪忍袋の緒が切れて、怒りが爆発したのだ。凄く怖かった。

渋谷は馬にとっては厳しい町だ。青山とか代官山とか地名でも分かるように坂の多い町である。オジサンにとって馬はかけがえのない財産。馬が倒れれば、飯が食えなくなる。渋谷は終戦後、5年もたっているのに飢餓の街のままだった。

常磐松という地名の由来は、「古くからのこの地に『千両の値打ちが付くほどの銘木』と賞賛されていた松の古木、『常磐松』があったことによる。もとの漢字表記は『常盤』であったが、『皿は割れるから』と、『常磐』と改められた。(Wikipedia)」

そして、小学校のご近所が凄い。第一は皇太子殿下(後の上皇様)が住む東宮御所だが、国学院大学、実践女子学園、そして広大な敷地を持つ青山学院がある。常磐松小学校は広尾を含めた文教地区の中心に位置していた。

皇太子殿下が東宮御所を出て学習院高等科に車で登校する時、私たちも登校する。その為いつもすれ違う。それはいいけれど、実践女子学園の生徒が邪魔だ。大勢が道路の右側を占拠して「皇太子さま〜」とか叫んで手を振るのだ。「車は左人は右」と教えられているのに左側しか通れない。ブツブツ不満を言っても多勢に無勢で敵わない。

何はともあれ、常盤松ではなく古の常磐松、皿は割れても石は割れない。やっと見つけた80年の人生で、ただ一つの栄光。それは常磐松で毎日、皇太子とすれ違い登校! 
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2020年08月01日

大人の話

山の手大空襲で渋谷の77%が焼失し、渋谷は瓦礫の街となった。被災者は焼け跡に残された焼トタンを主材料にして急場凌ぎのバラックを建てた。1年経過した1946年夏になると90%は安普請ながら、家らしい住まいに建て替えられた。

我が家も新築するつもりだったが、養父が肺病に罹り建築資金を失った。それから3年もたつと、町内唯一のバラックになってしまった。これは子供にとって凄く恥ずかしいことだった。病気だから仕方がないとは言えない。多くの家庭が途轍もない苦労を克服して、倹約に倹約を重ねて家を建てたのだ。

10歳の頃から新聞配達等のアルバイトをしたり、学校帰り区立図書館に寄ったり、街をブラブラして遊んだりしていた。惨めなバラックから離れることで、気分転換をしていたのだ。

そのころの私は、3時半に起きて新聞配達をしていた。我が家は6畳一間に6人寝る、超過密家族、そこに7人目が転がり込んできた。A子さんが親と喧嘩して家出したのだ。

A子さんは私より10歳上で、夜の街で働いていた。夜中に帰って来ると、母との話し声が聞こえる。いつも先輩のB子さんの話だ。当初はB子さんがいかに綺麗で、優しくて親切で、頼り甲斐のある女性か、嬉しそうに話すA子さんの声が耳に入った。

7人が雑魚寝している状況では、A子さんと母を除いて残りは5人。その内3人が鼾をかいていれば、皆が寝入っていると感じるのだろうか。ともかく、感情の赴くままに話に熱中していた。

それから、約1ヵ月後のある夜中、A子さんの泣き声で目が覚めた。B子さんにぼろ糞に罵られたと泣いていた。母が金に困っているとA子さんに言ったのだと思う。

だから、A子さんはB子さんに借金のお願いをして、拒絶されたのだ。彼女が、困ったときは何でも相談しなさいとか言ったのだと思う。「B子さんにアンタの宿六何してんだ!」と詰られたと母に訴え、悔しがって泣いていた。

実は、A子さんは妹の家庭教師と恋仲になり、交際を親に反対され、恋人と一緒に家出をしたのだ。学生さんとは清い交際なので同居はできない。そして、収入を失った彼を国家試験受験に専念させるため、夜昼掛け持ちで働いていた。

彼女は3年前まで隣に住んでいたのでよく知っている。凄く気が強い人で滅多に泣く人でない。貧乏な私にお菓子をくれたり、映画に連れて行ってくれたりした親切な人だった。

翌朝、いつもと同じように新聞配達で3時半に起きた。もちろん、皆、寝ている。突然声をかけられて驚いた。「おっす、早いね。頑張って来いよ」とA子さん。意外に元気なのでホッとした。夜中に泣いたことなどおくびにも出さない。

ところで、バラック時代は、小学生なのに、いろいろな状況で大人の話をよく聞いたものだ。人の悪口、金の話、きわどい話、ヒソヒソ喋っても六畳一間では全部聞こえた。
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2019年06月22日

泣き虫ガキ大将

小学2年くらいの時、ガキ大将はペンキ屋の息子、タケちゃんだった。メンバーは10人ぐらいと思うが、近所の小学生全員がタケちゃんの引率で学校に通っていた。放課後遊ぶのも一緒、そして小生意気なアオガクのガキどもを苛めるのも一緒だったのである。

アオガクとは青山学院初等部の生徒のこと。われわれ公立小学校生徒はヨレヨレでマチマチのボロ服なのに、彼らはパリッとした制服制帽姿だ。給食に焼きリンゴが出るそうだ。彼らの親は金持ちなのに、私らの親は職人と商人ばかりだ。オマケに私のような貧乏人も少なくない。地元の子供たちは羨ましさを吹き飛ばすはけ口を求めていた。

アオガクは颯爽とした制服姿で、我が町内を何の遠慮もなく通る。ただ通学しているだけだが地元の子供たちにはそう見える。だから苛めたのだ。「お前らここを何処の校区だと思っているんだ」とか言って因縁をつける。

渋谷区の学校では校区内で遊ぶように注意する。だから小学生は校区を自分の縄張りのように思っている。私立の学校には関係ないけれど、言いがかりだから正当な理由など必要がない。アオガクの生徒は物も言わずに逃げて行く、それを地元の子供が追いかける。少しだけ追いかけて喜んでいるだけで、決して暴力を振るったりはしない。

ある日突然状況が変わった。「お前らどこの校区……」とか言いかけると、「文句あるか!」とデカい声、見ると、ガキ大将のタケちゃんが押されて転がされ、仰向けになって倒れている。相手は今まで見たことがない、相撲取りみたいな体格のアオガク生徒だった。苛められた生徒が用心棒を頼んだに違いない。お金持ちには敵わない。以後、地元の子等はアオガク生徒に対する苛めを止めた。恐れおののいてしまったのだ。

苛めと言っても追いかけるだけで暴力を振るう訳ではない。仕返しと言っても押したら倒れただけだ。ただ力の差があり過ぎて悲惨な結果になってしまった。タケちゃんはシクシク泣いて立ち上がれなかった。彼は唯一の最上級生としてガキ大将となった。年功序列でなったのだから実力もなく意気地がない。それでもタケちゃんを中心にして行動していたから不思議だ。戦時中に空襲を警戒するために実施された集団登校の名残と思う。
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2019年06月08日

ネコは怖いよ

終戦後3年、私は8歳ぐらいの頃と思う。養父が肺病に罹り生活がどん底に落ちた。貰い物を食べたりして一家6人がかろうじて飢えをしのぐ有様だった。そんな時に、横浜で飼っていたタマがやって来た。3年前に引っ越したときに残してきた飼い猫である。

こんな遠くまで来るとは驚きだ。今なら母が気まぐれで、似たような猫を拾って来たと疑う。しかし、子供の私は母を信じ、猫は超能力のある恐ろしい動物と恐れた。

ともかく食うや食わずの我が家では猫を飼う余裕は無い。三日もたてば、行き当たりばったりの母でも、そのことに気が付く。そして、兄に捨てて来るように命じたが、一人で行く度胸はない。12歳の長男を頭に兄弟三人で捨てに行った。

思いついたのは家の近くにある青山学院の広大な敷地。豊かな学生・生徒が通うキリスト教系の学校だからエサぐらい与えてくれるだろうと考えた。出入口から一番遠い所まで塀に沿って歩き、投げ入れて帰って来た。小学校から大学まである広大な敷地が塀に囲まれている。ここなら大丈夫と一仕事終わった気分でホッとした。

ところがタマは、翌日には家に帰って来たのでビックリ! 超能力があるような気がして気味が悪かった。化け猫の話はよく聞くし、横浜から我が家の場所を探り当てたタマだから、全てを理解しているように感じるのだ。当然、捨てた私たちを恨むだろう。

猫を恐れた三兄弟は、タマが遠くで幸せに生きる方法を一生懸命考えた。電車は使えないので渋谷川に流すしかない。しかも、タマの安全を第一に考えなければならない。

三人の結論は船を作って流すことになった。遠くにたどり着いて誰かに飼って欲しいのだ。未知の飼い主宛に手紙を入れて置こう。近くでタマが船から脱出して、泳いで岸に着くかもしれない。屋根を作って人の助けがないと出られないようにしよう。遠くまで行くのだからエサを入れて置こう。

いろいろ考えたが、実行の目途は立たない。そもそも、渋谷区がが史上初めて遭遇する飢餓の時代で餓死者が続出し、我が家もその渦中にあった。ネコのエサどころか、自分たちの食い物も無く途方に暮れていたのだ。

何時の間にかタマは居なくなっていた。エサの在る所に行ったのだろう。今は中島公園の近くに住んでいるが、カモもハトも、皆そうしている。ヒトを含めた動物はエサのある所まで移動する。見つけるまで移動する。そして見つけることが出来なければお仕舞だ。
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2019年04月27日

苦い思い出

捕鯨問題で国際的に揉めている。反捕鯨国の反対意見は理解できないことも多い。しかし、反対意見が圧倒的に多いのなら獲らなければいいと思う。不味いから食いたくないのだ。これは小学校の給食で嫌々クジラを食った私の偏見。美味しいクジラ肉を食べれば一瞬で変わると思う。何処かで安くて旨い鯨肉を食べたい。

クジラでは苦労したが、給食の苦労と言えば小学時代のA君を思い出す。1950年代と言う遠い昔だが、A君は何故か服は着っぱなし、風呂も入っていない感じだ。ちょっと不潔な感じのA君が給食当番になった。

その頃の清潔・不潔は各家庭の経済状態に起因していたので、A君に清潔にしろと言っても無理。金が無くては銭湯にも行けないし、貧乏暇なしだから、命に直接影響のない洗濯は後回しになる。ところでA君の鼻は寒さと温かい料理に反応して、シチューの入ったバケツの中に鼻水を落としてしまった。寒い冬だったからね。

それを見た女生徒の一人が「私、食べない!」というと、女生徒全員が食べないと言い出した。私はシメタと思い大喜び。もちろん腹いっぱい食べた。同じ思いの男子生徒は少なくない。たちまちバケツは空っぽになった。

鼻水落としたA君はホッとしていたが、すきっ腹かかえて、給食食べ損ねた女生徒たちの心中は穏やかでなかったと思う。今と違って都会の食糧事情は最悪だった。栄養の大部分を給食に頼っている生徒も少なくなかった。

鼻水なんかかき混ぜれば何のこともない。食べたい女生徒も沢山居たと思う。しかし乙女心は悲しいものだ。見栄の張り合いで食べるとは、どうしても言えなかったのだと思う。

この「給食食べない事件」の主役は二人。この二人さえ居なければ多くの女子生徒が空腹の苦しみを味わわずにすんだのだ。一人は「私食べない」と言ったお金持ちのお嬢さん、もう一人は食べ終わると直ぐに、空の食器を持ってバケツに向かって突進した私だ。

空前の大空襲に遭って77%を焼き尽くされた渋谷区は、戦災の爪痕が5年たっても残っていた。逆に貧富の格差は拡大していた。お嬢さんは黙って食べなければ好かったのだ。私はしばらく様子を見るべきだった。そうすれば「事件」には発展しなかった。いつも人の後から行動する私が、この時ばかりは迅速に動いた。苦い思い出である。
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2019年04月06日

金は天下の回りもの

大空襲で80%弱が焼き尽くされた渋谷に、好んで住む人は居ない。金や頼るべき親戚がある人は一時的に暮らしの出来る場所に移動した。残ってバラックを作り住んでいた人達は、全力で働いて徹底的に節約し貯めていた。目的はただ一つ家を建てることである。そんな状況も知らずに、私たち母子4人は子連れ結婚という形で横浜から東京へ移住した。

一方、終戦直後の母親は横浜で文字通り歌って踊って楽しんでいた。昼は茶菓で子供を集めて歌唱指導、好んで歌ったのが「時計台の鐘」だった。母は食うや食わずで何の楽しみもない子供たちを見るに忍びないと言っていた。慈善活動のつもりだったと思う。

夜は父親(後に逃亡)が仕事関係で連れて来る、米軍将校等とダンスをすることもあった。女性社員と一緒に上品な接待をするためである。ついでに白状すると戦争中の母は海軍の宴会を取り仕切っていた。そして米軍は(日本)海軍より紳士的だと嘯くほど、変わり身が早やかった。戦争中も戦後も子育ては人任せにして仕事に没頭していた。

戦争中は皆苦労したと言うのは誤りだ。私は生涯で一番贅沢をしていた。その代わり戦後1年過ぎて貧乏が始まり2年目からはドカ貧だ。一方、空襲で強烈な恐怖を味わされ家を失った渋谷の人たちは、家族全員でアリのように働いていた。

空襲で全てを失った人と母とでは服装が全く違う。大きな家から小さなバラックに入る為には、多くの衣服を処分しなければならない。そのため上等な物しか手元に残らなかった。バラックは何処も同じような仮小屋だから、服装が貧富の差を表すことになってしまった。

こんなことで母のバラマキが始まった。近所の人を呼んで茶菓をふるまった。子供たちを呼んで歌ったり食べたりのパーティも頻繁に開いた。全ては地元の人達に溶け込みたい一心からだった。母としては出来ることをやって上げている、との気持ちもあったと思う。そんな時に養父が肺病に罹り事態は一変した。

母は金は天下の回りものと何時も言っていた。人のために使えば回りまわって自分の所に帰って来ると思っていたのだ。しかし誰もが全力で働き、金を貯え家を建てることを最優先にする、焼け跡のバラック住人には通用しなかった。

血の滲むような努力をして、区画整理前に新築した人達も道路に予定された部分には建てられない。その結果、道路予定地にはみ出しているのは、我がバラックだけになった。図らずも道路建設で唯一の障害物となってしまったのである。

除去が必要だたが、行政としては行先のない住民を追い出すことは出来ない。安普請ながら公費、即ち税金で家が建てられた。結局は皆の金で建ててもらったのだから、やっぱり金は天下の回りもの。回りまわって戻って来たのかも知れない。
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2019年03月30日

キリギリス一家

終戦1年後の1946年、戦争中も贅沢をしていた私たち母子4人が焼け跡の街にやって来た。大空襲で渋谷区の8割近くが焼失し、戦争前には25万の人口も5万人と激減した。その人達が焼け跡に焼けトタン等で小屋を作り、米軍の仮兵舎風にバラックと呼んでいた。そんな状況の渋谷に横浜からトラックに乗って引っ越した。その頃の輸送手段は荷馬車やリヤカーだったから、かなり贅沢な引越しと言える。引越し先がバラックとは知らずに、5歳の私はトラックに乗って大喜びしていた。

当時の状況については「生い立ち2-東京へ」に書いたので省略する。それから3年たったら私たち家族は界隈で唯一のバラック住人となっていた。今風に言うと住宅街にポツンと1軒ホームレス小屋。そこに家族6人(妹は渋谷で生まれた)で住んでいる。テレビ番組の珍風景より、もっと珍しい風景になったのだ。恥ずかしかったが、古い記憶は全ての感情をそぎ落とし、事実だけを覚えている。今になれば懐かしくて楽しい思い出である。

小学生の私は学校で、隠せるはずがないのに隠し続けた。不思議なことに「お前はバラックに住んでいるだろう」とか言われた記憶がない。今も「アナタ音痴ですね」とは言われていない。両方とも隠したくても隠すことはできないことである。人は優しいと思う。

引っ越したばかりの母は近所で一番目立つ奥様になった。衣服は上等だし金も持っている。人付き合いも好くて気前も好かったので、知り合いも次第に増えて行った。私と違って歌も上手いので町内会の人気者にもなった。

母はいつも「人は付き合いが大切だ、常吉さん(養父)は付き合いが下手だからダメだ」と言って我が家の代表のように振舞っていた。しかし、彼が肺病に罹ると事態は一変した。貯えは徐々に減って行く、それと比例するように家に遊びに来る人も少なくなってきた。

バラックに住む人の夢は唯一つ、家を建てることだった。そのため子供を含め家族全員が全力で働き、徹底的に倹約をしていたのだ。我が家に遊びに来るのも栄養補給かも知れない。病気に罹ったのは常吉さんだけではなかった。お金の為に危険な作業をする人、体が弱いのに無理をする人、食料不足等、病気の種は尽きなかったのである。

それなのに我が家だけがバラックのままで、最後まで自力で家を建てることは出来なかった。区画整理の一環として行政が最も簡易な家を建ててくれた。それでも私はバラックから脱出できて大喜びだった。こんな結果になったのも空襲で家を失った人と、戦争中でも贅沢をしていた人との違いが出たのだと、今では思っている。私たちは、母を家長とする「アリとキリギリス」童話の、キリギリス一家だったのである。
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2019年03月09日

越後獅子の唄

A子さんの思い出(越後獅子の唄)
歌はいろいろなことを思い出させてくれる。歌から連想されることも多い。前回のブログで、6畳一間に6人家族と言う超過密状態の我が家にA子さんが転がり込んだこと、そして三人で寝たことを書いた。それがA子さんと恋人、そして私と誤解を与えたような気がして気がかりだ。補足説明をしたいと思う。

結婚を反対されて家を出たが、恋人の学生さんは友人の部屋に身を寄せ、A子さんは親戚である我が家に来た。清い交際であることを御両親に知ってもらう為と思う。

話は戻るが、学生さんは書生としてA家に同居していた。A子さんの父親は強面の請負師だが、彼女も気の強い点では負けてはいない。父親に抗議して学生と一緒に家を出てしまった。

一方、我が家は一つの布団に二人ずつ寝ているのに三人目が来てしまったので大変だった。A子さんは学生の援助もするので昼も夜も働いて、帰って来るのは夜中だ。学生は書生の職を失ったが、彼女は彼が勉学に専念することを望んだ。

初めは夜中に帰ったら最短距離で寝れるように玄関に近い次兄側に寝た。狭くて足の踏み場もないからね。その頃、次兄は既に中学生、穏やかな気持ちではなかった思う。一つの布団に三人だからピッタリくっつかないと寝れないのだ。

結局、A子さんは私の横に移った。幼い子供と思い込んでるようだが、一緒に映画を観たときから2年もたっている。私だって意識する。しかし犬を腕力で引き離した一件を見て彼女の怖さを知っていた。自分を抑えることが出来たのは恐怖心からだと思う。

A子さんは私の横で寝たことは覚えていないと思う。あれから67年たっているのに私は覚えている。「越後獅子の歌」のせいだ。聴いたり歌ったりするごとに思い出す。彼女にとっては迷惑な歌だが、私にとっては懐かしい歌である。

音痴だから新しく歌を覚えるのが苦手だ。懐メロばかり歌ってたら思いもよらぬ収穫があった。歌にまつわる昔のことを次々と芋づる式に思い出すのだ。こうなったら止められない。在職中は過去を振り返るなんて、老人がすることだと忌み嫌っていた。考えはめまぐるしく変わり続ける。まだ若いのかな?
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2019年03月02日

越後獅子の唄2

越後獅子の唄2(満洲帰りのA子さん)
生まれてから22歳までの間、私の存在を示す物証は戸籍謄本と1枚の写真しかない。だから記憶をたどって一生懸命に思い出している。歌はその手掛かりになるので大好きだ。古い歌を歌うと面白いように記憶が蘇えって来る。

1951年、話題の正月公開映画は「とんぼ返り道中」だった。私にとっては思い出深い映画である。7歳年上のA子さんに連れて行ってもらったのだ。多分私は小学4年くらいだった。映画の内容は覚えていないが、A子さんのことは鮮明に覚えている。

従姉妹のA子さんは母子4人で満州から引き揚げて来て隣に住んでいた。父親はシベリヤに抑留されていた。母親は優しすぎるので長女のA子さんが父親代わりをしていた。気の強いしっかりした人だった。彼女は家の前の道路で犬が交尾をしているのを見ると、怒ってバケツの水をぶっ掛けた。それでも止めないと二匹の犬を腕力で引き離した。見ていた私はビックリした。

そんなA子さんが大好きだったので、映画に誘われると喜んでついて行った。「とんぼ返り道中」の内容は忘れたが、主題歌の「越後獅子の唄 美空ひばり」については、よく覚えている。流行っていたからだと思う。A子さん一家は父親がシベリヤから帰って、しばらくすると大田区に家を新築して引っ越して行った。

越後獅子の唄を聴いても歌っても必ずA子さんを思い出す。彼女と最後に会ったのは55年前のことだった。喧嘩していた親子は仲直りしたようだ。結婚して実家の一隅に家を建て、夫となった元学生さんと暮らしていた。

話しは戻るが、A子さんは年下の学生さんと恋仲になり、親に結婚を反対されて家出した。そして狭い我が家に来た。今では考えられないが、親子6人が6畳一間に重なる様にして寝ていて、そこにA子さんが来たのだ。私は一つの布団に三人で寝ることになってしまった。住宅難の当時としても異常な状態だった。

ところで、ライブダム・カラオケの映像だが、越後獅子のでんぐり返しが下手過ぎる。幼い子供の練習とは言え、もうちょっと上手くないとね、プロなんだから。私は音痴で音楽については語れない。それで動画について、ちょっと触れてみた。歌詞に「芸がまずいと叱られて〜♪」とあるが当然のお叱りである。

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