2018年03月10日

大食い早食い

最近はテレビの「大食い」と「早食い」番組に悩まされなくなった。5年ぐらい前から自室に私専用のテレビを入れたから見なくてすむようになったのだ。大嫌いな番組から解放されてスッキリした。大食い大好きな方も、嫌いな番組はあると思う。人それぞれと言うことでご容赦ください。

妻に一つだけお願いをした。「食事の時はテレビを消して話しながら食べましょう」と。 美味しい食事を心から楽しみたいと言うのが表向きの理由だが、本当は早食い大食い番組から逃れたいのだ。その手の番組が始まると私は直ぐに逃げたが、食事中に放映されるのが一番困る。逃げ出すことが出来ないのだ。しかし妻が見ている番組を嫌いとは言えない。いろいろ世話になってるからね。

そんなことを考えていたら小学校の給食を思い出した。給食を食べながら先生が「食」について教えてくれた。あるとき先生は「ミルクにパンを浸して食べると美味しくなりますよ」と言った。翌日には「パンはよく噛んで食べよう。唾液の力で栄養が行き渡ります」と言う。話は矛盾するが、食べ方や栄養が、いかに大切かということは十分に伝わって来た。

先生が「口の中で36回噛みましょう」と言いながら口をモグモグ動かせて見せてくれた。生徒達もそれを真似して回数を数えながら食べた。先生も生徒も口に入れたものはトコトン栄養にしようという執念があった。それが今は「早食いに大食い」が映像になって流れている。幸いマイTVのお陰で見なくてすんでいる。

小学校の食育のせいか、よく噛む習慣が身に付いた。しかし「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言うけれど本当だなと思った。今では歯医者さんから余り噛むなと言われている。噛み過ぎて歯が痛んでいると言うのだ。一人二人ではない、診察した歯医者さんの全てに言われた。そんなに噛まなくても胃袋でちゃんと消化するので心配するなとまで言われてしまった。小学校の教育が私の心の中で今でも生きている。教育は凄い。もし宝くじで3億円当たったら教育事業に使いたい。買ってないけどね。

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2018年03月03日

闇屋の小父さん

私が十歳の頃は東京でもよく雪が降った。長靴を持っていないので下駄履きだ。雪道は滑りやすいので転んだら鼻緒が切れたりする。寒いのに下駄を脱いで裸足で歩くのは辛い。長靴は欲しいけれど買えない。そんなとき、我が家の事情をよく知っている近所の小父さんが「ウチで働いてみないか」と誘ってくれた。長靴が買えると思い嬉しくなった。

作業所では十人くらいが働いていた。私の仕事は、山積みにされた煙草の吸殻をほぐして煙草の葉と紙に分けること。ここでは吸殻と使用済みの空き箱を使って、紙巻煙草の再生産をしている。ちょっと怪しいが、ここで働ければお金をもらえる。

小父さんの仕事は列車清掃業、そして裏の仕事は闇屋。タバコ再製造はその一つである。作業所で簡単な指示をすると国鉄品川客車区に行く。一方、作業所の仕事は極めて単調だがら話しながらする。話題が小父さんのことに及ぶと、私は聞き耳をたてた。

「オヤジさんは監督が来ると急に威張るんだ。監督には揉み手でペコペコするのにね」
「分かるよ。俺も品川の列車掃除に行ってたからね。後でお前に謝ったろう」
「謝るどころか、ラッキーストライクくれたよ」

当時の若者の憧れはラッキーストライクを口にくわえ、ジッポーのライターで火をつけることだ。小父さんは作業員を怒鳴りつけて強いところを見せ、監督にはペコペコする。こんな見え透いたやり方でも、繰り返せば監督の信頼を得ることが出来る。強い男にペコペコされればオベンチャラと分かっていても気分がいいものだ。

次は賄賂だが、先ず「いいもの拾いました」とか言って、新品のアメリカ煙草を届ける。拾い物は次第に高価なものになり、最後は現金の賄賂。明るみに出れば事件になる程の金額だ。ここまでくれば鉄道員の監督は海千山千の小父さんの言いなりになる。例えば進駐軍専用列車のゴミは宝の山だが持ち出しても目をつぶる。

大人達の話を聞けば聞くほど小父さんが怖くなってきた。あれほど欲しかった長靴も諦めた。ところが小父さんは仕事を辞めた私に中古の長靴をくれた。彼は私自身の働きで長靴を買わせようとしたが、気が小さい私は期待に応えることができなかった。これは私が闇屋の採用試験に落ちたことを意味している。そして長靴を口止め料代わりにくれたのだ。小父さんのやることは全て行き届いていた。
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2018年02月24日

ここが極楽

目が覚めたら明るい洋室にいた。私は清潔な白いシーツの上に一人で寝ていた。一体ここは何処だろう。誰かに担がれた一瞬の記憶がある。そうだ、ここは小学校の保健室に違いない。だが何故ここに運ばれたかが分からない。痛いところもないし苦しくもない。ここに来るまで何をしていたか一生懸命考えたら思い出した。鉄棒だ。

記憶が徐々に戻り全てが繋がった。弁当がないので昼休みに一人で鉄棒をしていたのだ。皆が食べているのに、食べない私が居たら悪いような気がして校庭に出たのである。

実は、その前に先生から注意された。「弁当を人に分けてやったり、もらったりしてはいけません」。そう言われるまでは、皆楽しく一緒に弁当を食べていた。弁当を持たない私も皆からもらって喜んで食べていたし、先生も黙認してくれた。

学校が大好きだった。優しく親切な生徒も少なくなかった。弁当が無くても分けてくれる人が居る。一人が弁当箱の蓋に何か入れてくれると、それを持って教室の中を「ちょうだいちょうだ」と言いながら歩き回る。多くの生徒が入れてくれる。皆、ニコニコ笑っている。

小学3年の私は無邪気な子供だった。弁当で悩んでいる生徒の存在には気付かなかった。粗末な弁当を恥じて、隠すようにして食べている生徒が見えなかったのだ。このことを先生が知り、子供たちの助け合いと黙認することを止めた。

先生に注意されたばかりの生徒たちは黙々と弁当を食べている。私は何となく居場所がなくなったような気がして、校庭に出たけれど誰もいない。仕方がないので一人で鉄棒をして遊んだ。そして落ちて気絶した。やっと過去と現在が繋がりスッキリした。

その出来事以来「ちょうだい」と言う言葉は使えなくなった。小学4年からは新聞配達を始め、学校に必要な金と小遣いに不自由はしなくなった。子供から少年を飛び越えて一挙に大人になったような気がして誇らしかった

私の夢は中学を出たら働くことだった。実現した。在職中の夢は楽をすること。これも退職して叶った。今の夢はこの状態が永遠に続くこと。人は不可能と言うが、生きたまま極楽に来たのかも知れない。そして時計の秒針のように同じ所でクルクル回っているのだ。生まれた時は1年365日で回っていたが、今は60秒で一回りの気分である。
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2018年02月17日

優しい人たち

小学3年の私はバラックで暮らしていることをひた隠しにしていた。近所の子供たちも同じ学校に通っていたのだから隠せるはずはない。それでも隠していた。バラック暮らしについては生い立ち2-東京へに詳しく書いたのでここでは省略する。

敗戦後4年目の渋谷は復興めざましく、安普請ながら木造住宅街がほぼ完成していた。その中で焼けトタンのバラックは嫌でも目立つ。不思議なことにバラックの子供として差別を受けたり虐められたりした記憶は全くない。だから同級生にはバレていないと思い込み必死になって隠し続けたのだ。私は周囲の暖かい配慮に守られていたのかも知れない。終戦後の混乱した時代だが小学生でも一定の常識をもっていたのだろう。

それでも皆の中に溶け込むのは難しい。転校生のA君だけは私がバラックに住んでいることを知らなかった。友達になると私を家に呼んでくれた。彼は勉強も出来て気も強かったがクラスには馴染めないようだった。家はとても大きく、優しそうなお母さんがお菓子を出して歓待してくれた。今でも夢のような楽しいひと時を覚えている。

何回か遊びに行くうちに「君の家に遊びに行きたい」と言われ、困ってしまった。あの惨めなバラックを見られるのかと思うと、ぞっとした。何とか断ろうと、いろいろ理由をつけてみたが、「君だって僕の家に来たのだから」と言われては万事休すだ。

嫌々我が家に向かう足取りは重かった。家の前に連れて行くのは、どうしても嫌なので家の見える高台に連れて行き「あすこ」と指をさした。A君は一瞬言葉を失ったが、直ぐに全てを理解したようだ。そして「君の方が恵まれているよ。僕の家なんか借りものだ」と言った。バラックに住んでいることを知られたら絶交されると思っていたのでホッとした。

A君は小学3年でも人の気持ちを思いやることが出来る。私にとっては驚きだ。あの優しそうなお母さんの教育のお陰かも知れない。社会全体が混沌とし、弱肉強食はびこる時代だが優しい人も少なくなかった。手ぶらで遠足に行くとお菓子をくれる同級生もいた。そのことは単純に喜んでいたのに、バラックのことは必死に隠すのだから矛盾している。実際にはバレていたのだが。それでも楽しく暮らしていたのは優しい人たちに守られていたからである。今もそうかもしれない。
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2017年10月07日

謎のコレスポンデンス協会?

「小学6年くらいの頃アメリカ人と文通していました」
「嘘だろう。出来るはずない」
職場の先輩だから私の英語能力は良く知っている。困ったことに下手の横好なのだ。
「本当ですよ。アメリカのペンフレンドから誕生日プレゼントをもらいました」

双眼鏡のような形をしていて、覗きながらレバーをカチャカチャと押すと次々にイエローストーン国立公園の風景が立体的に映るのだ。当時(1950年代)の日本では見たことなかったので私にとっては宝物だった。

「大人になっても書けないアンタが何で小学生の時に……」
「英語ですか。ローマ字習いましたよ」
「ローマ字?」
「アルファベットだけで大丈夫です。協会からね。英文が何行か書いた文書が来て、この通り書いて次の住所に手紙を送れば外国から素晴らしいプレゼント……」
「ちょっと待った。協会って何だ?」と先輩は話の腰を折る。

確かユネスコ・コレスポンデンス協会と記憶しているが、違うかも知れない。65年以上前のことなので記憶が定かでない。意味も分からないまま書いて送ったら、忘れた頃に分厚い郵便物が届いてビックリした。開けて見ると美しい風景や華やかな若い男女の写真がいっぱい。全て外国語なので何のことかサッパリ分からなかったが嬉しかった。

郵便料金だけでこんなに綺麗な外国の写真が手に入るとは有り難い。大人になってから考えると私は知らずに観光パンフレットを要求したのだ。考えてみれば罪なことをしたものだ。日帰り旅行をする余裕もないのに海外旅行の資料を要求したのだ。それにしても汚いあばら家によく届けてくれたものだ。郵便配達員は首を傾げていたに違いない。

ユネスコ・コレスポンデンス協会?のサービスは海外ペンパル紹介、手紙の翻訳、そして特別企画「こう書けばコレがもらえる」だった。今考えると子供相手の怪しげな英語ビジネスとの印象だ。料金は子供の小遣いで払える程度。果たして儲かっていたのだろうか。それともボランティア? それにしても1950年代は混沌として何でも有りの時代だった。

「英語も分からないのにアメリカ人と文通してたのか」
「コレスポンデンス協会で翻訳してくれるので、それを見ながら書くのです」
「大袈裟に言えば詐欺だな」
「何でですか?」
「文通相手のアメリカ人に英語ができると思わせている。とんだ三角野郎だ」
「四角四面の真面目人間ですよ」
「その実態は怠け者」
「今じゃ動物園のナマケモノ」
「なるほど、エサは年金、家は檻(おり)」

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2017年09月23日

子供たちの小遣い稼ぎ

前回ガラスを売って映画を観た話をすると先輩は異議を唱えた。
「何で、そこにガラスなんかが埋まっていると分かるんだ」
「小さな畑の片隅には焼け残った物を埋めた穴があるのです」
「何で畑に埋めるんだ肥料にもならんぞ」
「皆そうしてるよ。何でかな?」

元々狭い土地を無理をして畑にしているのだ。地上にガラクタを置いておく余裕は無いから埋めている。それが5年もして経済が上向けば資源に変わるのだから面白い。子供でも金が稼げることが何よりも嬉しかった。大人になった気分で映画館に行った。

最初に見たのが「毒薬と老嬢」、次に観たのが「夜も昼も」だったかな。いずれもケイリー・グラントが主演。内容などどうでもよかった。夢の国アメリカを感じれば好いのだ。英語も分からないのにアメリカ人と文通していた。「ユネスココレスポンデンス協会?」とかで翻訳をしてくれる。料金も安くガラスの稼ぎで間に合った。

ところで焼跡資源の掘り起こしは組織的に行われた。リーダーは子供はつらいよの魚屋真ちゃんだった。彼の家には商売で使うリヤカーと秤があったからだ。集めたガラス等を決められた日に真ちゃんの家の前に持って行く。彼はそれを量ってメモをする。グループは10人くらい居たと思う。ガラス、鉄、銅とか分けるが殆どガラスだ。種別に分けて全部まとめてクズ屋に売るのだ。

2,3人がリヤカーを押して、みんなゾロゾロと付いて行く。渋谷は坂が多いので上がり下がりは皆で協力して運ぶ。上がるときは皆で押し、下がるときは交代で引く。クズ屋は1キロほど先だが幾ら貰えるか楽しみにして頑張る。

売ったらその場で真ちゃんはメモに書いた重量に基づいてお金を分配してくれる。言えば簡単だが計算も必要だしつり銭の問題もある。真ちゃんはいつも魚を売りに行っているので手際がいい。このときばかりは15歳の真ちゃんが頼もしい大人に見えた。
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2017年09月16日

地下資源で映画を観る

「高校時代から洋画ばかり観ていたよ」と先輩。
「私はアメリカ映画が大好きでね。小学生の頃から観てましたよ」
「金はどうした? 貧乏人なんだろう」
「お金は米軍空襲の残骸を掘り起こして作りました」

1950年には私も10歳になっていた。一面の焼け野原は復興され、生活は苦しいが地域社会は機能していた。そんな状況でも得体の知れない人々があちこちに点在していた。彼らは町内会にも入らず、地域住民は嫌っていた。養父は土地の人だが、私ら母子4人はよそ者だ。得体の知れない人と思われていたかも知れない。

「腹減ったなぁ。車庫にでも行くか」と次兄に誘われた。東京都交通局が運営している青山車庫のことである。戦争で焼け残った金属やガラクタも在る所には有った。その一つが青山車庫である。家から徒歩10分くらいだ。ガラクタ集積所は都電教習所の線路から少し離れた所にあり、時々訓練用電車が通過するだけだった。

電車は通過したばかりで人気のないことを確認して、二人でやっと持てる大きさの鉄棒を持ち出した。一人で持てるような廃材は既に持ち去られていた。銅なら金になるが鉄は安い。馴染みのクズ屋に持って行くと、足元をみられて8円しかくれなかった。甘く味付けされた小さなパンを買って半分ずつ食べた。この「仕事」も終わりだなと思った。

ところが状況が変わった。朝鮮戦争が始まると景気が良くなり、金属やガラスの値段が上がった。人々は食料不足対策でやっていた畑を止めて、その下を掘り返した。焼け跡の廃材目当てだ。電線は銅を使っているので高く売れるが滅多に掘り出せない。ガラスはザクザクと出てくるが資源としては一番安い。

ガラスを二貫目(7.5kg)集めると50円になるので、一番安い映画館(百軒店のテアトルSS)に行って、40円で洋画を観て10円でパンフレットを買った。今になると集めたパンフレットを無くしたのが痛恨の極みだ。職を求めて住居を転々とする中で全ての物を失ってしまったのだ。気づいてみれば手元に残ったのは母子で写った1枚の写真だけだった。

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2017年04月29日

ゴミで財産を築いた人

8歳の頃だったと思う、午後3時ごろ学校から帰ると養父の常吉さんが頭と顔全体に包帯をグルグル巻きにして寝ていた。心配で胸がドキドキした。父とは呼べなかったが父と思っている人がミイラのような姿で横たわっていた。恐怖で歯がガチガチ鳴った。

子供たち三人は寡黙で良く働く常吉さんに敬意を抱き頼りにもしていた。もし母が「お父さんと呼びなさい」と言えば、喜んでそうしたと思う。5歳と7歳と9歳の子供にとっては居なくなった実父が父であり養父を何と呼んでいいか分からない。常吉さんが法的に養父になったのは同居してから14年目、私が19歳のの時だ。二人の兄は養子にもならず旧姓のままだった。それなのに私は、後に生まれた7つ違いの妹を含め6人家族と思っていた。

常吉さんの本職は表具師だが仕事がないので品川の旧国鉄品川駅操車場で掃除夫をしていた。日当は安いけれどゴミの中にはお宝が眠っているのだ。その一つが資源ゴミ、中でも一番人気はアカと呼ばれる銅である。常吉さんは銅を得るために電線を燃やしている時に突然噴き出した炎で顔を焼かれたのだ。

親方は仕事ではないのだから治療費を出せないとか言っていた。しかし掃除夫にしてみれば、このような余禄があるから安い日当で働いているのだ。余禄はもう一つあった。汽車弁の食べ残しである。品川には全国の至る所から客車が入って来る。列車を掃除するのが常吉さんたちの仕事だ。食糧難の当時は食えるものをゴミとは思えない。

世の中はいろいろ、片方に食うや食わずの人がいるかと思うと、もう一方には駅弁を残す人がいる。今も昔も格差社会だ。お蔭で北海道から九州までの弁当を食べたが、今覚えているのは名古屋の鯛めしくらいだ。食える食べ残し弁当が出る範囲は案外狭いのかも知れない。ともかく広範囲の味覚が家に居ながら食えるのだから有難い。

しかし、衛生的には危ない。ここでも目、鼻、舌による厳重なチェックが必要だ。そして蒸かしてから食べる。温かいご飯は美味しいし、熱でバイキンを殺せるので衛生的だ。私たちは文明人だから綺麗なものしか食えない。穢ければ綺麗にする。キレイに出来なければ捨てる。金が無くて医者にも掛かれないのだから腹は壊せないのだ。

品川駅操車場から運ぶのは常吉さん、目鼻舌チェック母、蒸かすのは子供たちの仕事だ。バラックには台所みたいな場所は有っても水道はないし火を使うスペースもない。母は見栄っ張りだから他人様の残り物を蒸かす姿を見られたくない。外と言っても街中である。道路の脇だから人通りもあるし、近所の人が挨拶したりする。

当時の弁当箱は経木で出来ているので燃料になる。包み紙も割り箸も経木も面白いようによく燃えた。水道も焼跡にニョロっと水道栓だけ出ているのを共同で使っていたので無料だったと思う。母は金が無い金が無いといつも言っているのに、水道料が大変だという話は聞いたことがない。

燃料費も水道料も弁当代もかからない。金が無くても案外暮らせるものだ。しかし、バラック暮らしで拾い食いでは格好がつかない。だから秘密にして普通の暮らしをしているフリをしなければならない。これが一番大変だった。世の中には楽しい秘密もあるけれど、こんな秘密は疲れる。いつもバレルのではないかと心配している。そしてバレたら大恥だと思っている。貧乏は決して呑気ではない。ストレスいっぱいの暮らしだ。

ところが、近所には拾って売って大儲けして、3年たったら大田区に大きな土地を買い、池に鯉が泳ぐ庭を造り豪邸を建てた人がいる。清掃員として常吉さんたちを雇った親方だ。シベリア帰りの請負師である。彼は国鉄から清掃の仕事を安値で請け負った。監督に賄賂を使いゴミを持ち帰ることを見逃してもらっていた。

一番いいゴミは進駐軍専用車にある。なんと当時極めて貴重だった肉の半端物がゴミとして放置されているのだ。アメリカタバコ、菓子類等いろいろなものをゴミとして放置、あるいは捨てられていた。一般掃除夫がそこに入ることはない。進駐軍専用車の清掃は親方夫婦とその子供たちだけでやっていた。親方にとっては日米の生活水準の差がそのまま儲けになるのだ。格差は大きければ大きいほど儲けが多くなる。

肉もアメリカ煙草も高く売れる。それに親方はアメリカ産のみならず大量の国産煙草吸殻を持って帰るのだ。もちろん空き箱も持ち帰る。吸殻をぼぐして巻いてタバコにして、拾ったピースなどタバコの空き箱に詰めて売る。私も子供なのに吸殻をほぐすのを手伝わされた。日当は放置されたパンや食料だから人件費もかからない。もちろん所得税なんか払わないから丸儲けだ。本当にいい商売をしていたものだ。

この仕事を続ける為には監督への賄賂だけではダメだ。ある意味で人格者でなくてはならない。度胸一筋で思い切ったことをやるけれど、義理人情に厚くなければ続かない。人には嫌われないで頼りにされなくてはもたないのだ。多くの人達が真似をしようとして失敗した。成功するのは難しい。天国と地獄とが背中合わせの仕事だ。

おかげで私はエライとばっちりを受けた。ある日友達に「お前タバコを吸ってるだろう」と言われた。むきになって否定した。それから3日したら、どこでバレたか「お前闇タバコ売るの手伝っているだろ。法律違反だぞ」と脅かされた。私は法律も社会常識も知らない子供だから、警察に捕まって牢屋に入れられると思って凄い不安に襲われた。家族皆が協力しなければ食って行けないのだから抜けられないのだ。

それなのに親方は堂々としている。「大蔵省は儲けすぎだ。だから俺が安く売って上げているんだ。人助けなんだ」とか言っていた。3年して家を建てたときは、家に呼んでくれたので行ってみた。応接間に、表彰状がいっぱい飾ってあった。教育に貢献したとか、街の安全に貢献したとかで学校や警察から表彰されたのである。
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2017年04月22日

子供はつらいよ


魚屋の真ちゃんがリヤカーを引いて坂を上って来た。町内の人だから知り合いである。魚屋のオヤジは凄く怖い人だ。中学生の真ちゃんは学校から帰ると売れ残った魚を売りに行かされる。渋谷は坂が多いので一人で坂を上るのが辛そうだから押して上げた。

「押してくれても何も上げないよ」
「分かってるよ。オヤジが怖いんだろう」
私は小学生なのに生意気な口を利く。真ちゃんはオヤジに虐げられて気が弱くなっているのだ。悪いけれど年上と言う感じはしない。ようやく坂を上りきる。

「サンキュー、だけど商売ものは上げられないんだよ」
「分かってますって。心配無用」
分かっているのは真ちゃんの腹の内だ。そのまま食える加工品でも上げたいのはやまやまだが、オヤジに知られるのが怖くて上げられない。根が優しい真ちゃんは迷っている。

こっちは腹ペコだから、くれるまで待とうとホトトギスの心境だ。私の気持ちは変わらないのに真ちゃんの心は揺れている。最後の勝利はこちらのものだ。

売れ残りの魚を売るのは楽じゃない。なかにはイチャモンを付ける人もいる。眼鏡をかけた青白い男が「こんな活きの悪いの食えたもんじゃない。エゴかったぞ。金を返えせ」と言って腐りかけた昨日の魚を持って来た。

真ちゃんは黙ってうつむいている。金なんか返したら大変だ。オヤジにこっ酷く怒られる。魚屋のオッサンは凄く怖いのだ。真ちゃんがシクシク泣き出した。いよいよ私の出番だ。

「オジサンの家はそこだよな」と指を差す。
「それがどうした」
「魚松のオッサンは怖いよ。息子から金取ったと聞いたら怒鳴り込んで来るぞ」

オジサンは魚を持ってスゴスゴ帰った。私は嘘を言ったのではない。魚松の家ではオヤジが威張り散らし、奥さんは唯唯諾諾と従うだけ。4人の子供は奴隷の様に使われていた。そうでもしなければ空襲で全てを失ったのに、1年で魚屋を再建することは出来ない。

真ちゃんは泣きながらリヤカーの中を物色している。ようやく決心したのか、さつま揚げとハンペンを持って来た。私はさつま揚げの臭いをかいだが異臭が無かったので、少しだけかじってみた。大丈夫だ悪くなっていない。こうして今日も栄養満点の食い物に有り付いた。明日も何とかなるだろう。

「売れ残りでも新鮮な魚もあるけれど、加工品は危ないので注意が必要です」
「今でいうところの日切れ食品だな」と先輩はしたり顔で言う。
「たとえ隣人でももらい物は要注意です」
「明日でも食えるものを今日他人に上げたりはしない」
「もらう者の自己責任で食べるのです」
「テレビドラマの腹ペコな人はもらった途端にかじりつくけどな」
「目と鼻と舌でチェックするのが基本です」
「応用編もあるのか?」
「基本チェックで合格したものを蒸かして、熱でバイキンを殺します」
「かなり念入りだな」
「子供の時から健康第一、歌って暮らせばラッキーカムカム。お金もかかりませんよ」

日本が戦争に敗れた1945年は混乱の時代、戦争が終わっても数年は混沌としていた。米軍の空襲で区内77%を焼失した渋谷区は特に酷かった。大人も大変だったと思うが子供も苦労した。苦労を子供に押し付ける親も少なくない。苦労は水の流れのように上から下へとなだらかに降りてくる。

混乱の時代では全ての親が子供の面倒を見るわけではない。人生いろいろ親もいろいろ。温かい親、冷たい親、自分ばかり可愛がる親、無気力な親、怒るだけの親、例を挙げれば切りがない。乱世では子供でも強くなければ生きて行けない。弱い私は頭を使った。生きる知恵は困れば自然にわいて来る。
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2017年03月25日

二人の客人

「実はね東京のある区では1年で人口が倍増したのですよ」
「そんなことある訳ないだろう」
「もしあるとすれば……」
「有り得ない。倍になる余地が無い」
「もし土地だけあったとしたら……」
「食べ物も住宅も追いつかない」
「1946年の渋谷区がそうでした。私が六歳で家族と一緒に移住した年です」

渋谷区の人口は1945年6月には空襲等の影響で4万6千人までに減っていたが、終戦の翌春には10万人を超えている。1年もたたない内に人口は二倍以上に激増したのだ。当然一人当たりの食料は激減した。全ては無い無い尽し、あるのは渋谷区面積の77%を占める焼跡だけだった。そこにバラックと呼ばれる仮小屋を建て何とか命をつないでいた。

ある日家の前に大きなリュックを背負った髭面の復員兵が立っていた。その人は母を見ると「叔母さん」と言ったきり声をつまらせて泣いた。母は「フミオさん無事だったのね」と言って抱きついた。後で母の姉の長男だと言うことを知った。「姉さんまだ満州から帰って来ないんだよ」と母は言いながら泣いた。その後何を話していたかは覚えていない。

フミオさんは東京と比べれば食料が格段に豊富な台湾から復員した。リュックの中には食料がいっぱい入っている様だ。その日は乾パンと金平糖を腹いっぱい食べて寝た。夜中に目が覚めると話し声が聞こえた。母とフミオさんだ。
「姉さんが満州から帰るまでウチで待ってたら」
「狭くて寝る場所がないでしょう」
「建て増しすれば寝床くらい作れるから」と母は一生懸命引き留めている。

増築と言ってもホームレスが仮小屋を作るようなもので、寝場所を作るだけだった。同室の家族が期待しながら二人の話の成り行きに聞き耳を立てていた。少なくとも食料の入ったリュックが空になるまでは居て欲しいのだ。残念ながらフミオさんは翌朝家を出た。家族5人の食いっぷりに恐れをなしたのだろう。特に男の子三人の食欲が凄かった。感激の対面もあっけなく終わった。現実はドラマとは違う。

終戦後2,3年の間にいろいろな人が来た。母の姉一家4人は満州から引き揚げてきた。母の兄は水害で家を失い一家5人で来た。一時は20坪の土地にバラックが3軒くっついて建ち、15人も住んで居た。人口が1年で2倍になるとはこうゆうことだ。

ある日堂々とした感じの中年男が来た。母の前夫(伊吹金吾)と懇意にしていた広田さんだそうだ。横浜在住だが仕事でよく東京に来ると言っていた。
「風の噂で奥様の窮状を知り、お世話になった万分の一でもお返ししたいと思い探し回っていました」。広田さんは会えて好かったといって涙を流した。

「今はバラック暮らしだけど来年は新築するから遊びに来なさい」と母は言った。それなのに広田さんは居着いてしまった。6畳に5人の所に大の男が一人入って来たら大変だ。兄弟3人は重なるようにして布団一つで寝た。

居着いた理由はしばらくそばに居て奥様のお役に立ちたいと言うことだ。さっそく好い話を持ち込んでくれた。知り合いが営団にいるから闇米が配給米並の値段で買えると言う。

「伊吹さんには戦争中お世話になっているから恩返しのつもりです。特別に融通してもらうのだから誰にも言わないで下さいよ」と小声で言った。いくら小さな声でも六畳一間では皆に聞こえてしまう。家族一同期待に胸を膨らませた。

母は見栄っ張りだから顔が利く知人が居ることを吹聴したかったらしい。近所の奥さん連中に喋りまくった。母が近所の奥さんと話しているの聞いたことがある。
「誰にも教えてはいけないと言われているのだけど貴女には世話になっているからね。私が一緒に買って分けて上げる。もし買えなかったら預かった現金はそのまま返してくれるというから心配はないんだよ」

お金を渡したら広田さんはドロンと消えて再び姿を現すことはなかった。母は騙されたことを恥じて何も言わずに、品不足で買えなかったことを詫びながら金を返して歩いた。有り金全部持って逃げた広田さんの代わりにである。こうして我が家の建築資金は徐々に減って行った。安普請とは言え次々と家が建つ中で気持ちは焦るばかりだ。

ヒマだから世間話をするために先輩に電話をし、こんな話もした。
「今は詐欺泥棒のたぐいは報道で知るだけですね」
「のんびり暮らせるようになって好かったな」
「日本では犯罪件数が激減して戦後最低記録を更新中と、今日の新聞に書いてたよ」
「テレビでは犯罪ニュースのラッシュだぞ」
「暴力団関係者の人数も大きく落ち込んでいるそうです」
「暴力ニュースも尽きないけどね」
「警察の仕事がなくなるのでテロ防止を口実に共謀罪法案が国会に提出されたそうです」
「それは違うぞ。その記事は俺も読んだ」
「どう違うのですか」
「警察は、仕事がないなら、公権力の私物化や汚職にこそ立ち向かうべきではなかろうか」
「先輩、その言い方は何時もと違って教養がにじみ出ていますよ」
「バカ、記事をそのまま読んでいるんだ」

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2017年03月18日

終戦後の渋谷

「私が住んでいた渋谷区金王町は焼け跡の中の田舎という感じでしたね」
「焼け跡に田舎も都会もないだろう」
「それがあるから不思議です」
「そうかい」と、今日の先輩はやけに素直だ。
「焼け跡に闇市が出来れば都会、その他は田舎。つまり自給自足
ですね」

私の言う「終戦後」とは敗戦の影響を色濃く残していた1952年ごろまでのこと。言い換えれば連合国占領時代を指す。今回は1947年頃のことだが、空き地は全て畑になった。大きな土地は麦畑。その横を通るとき麦を一口失敬する。もみ殻ごと口に入れて噛んでいると粘々してくる。水道でもみ殻を取り流すとガムのようなものが出来る。これを噛んでチューインガムを楽しんだ。褒められた話ではないがこれも自給自足だと思う。

小さい空き地は野菜畑になっていた。他人の土地でも畑にしてしまうのだ。食料不足は深刻なので空き地の畑作については地主も文句を言わない。我家の前は地元では知られた金貸しの所有する土地だがウチの畑だった。許可を受けていたかどうか子供の私には分からない。たいていの家では卵を得る為にニワトリを飼っていた。一部の家ではヤギやウサギを飼っていたがペットではない。全ては飲食のためである。

極端な燃料不足でトラックの代わりに荷馬車が登場した。都電(路面電車)「青山車庫前」停留所より並木橋方面に延びる道路は「かいせん道路」と呼ばれていたが本当の名は知らない。ともかく舗装された立派な道路だ。のろのろ歩く荷馬車を追い越してカラフルなアメリカの乗用車が颯爽と走っていた。生活水準の差を見せつけられたシーンだ。しかし、道路をパカパカとゆっくり歩く荷馬車は子供たちに人気があった。

「通学のときは荷馬車の後ろにぶら下がるんですよ。御者の小父さんは怒るけどね」
「危ないから注意するんだな」
「馬が疲れるからです。子供でも5人もぶら下がれば重いでしょ」
「なるほど、馬への愛だな」
「凄い剣幕ですよ」

しばらくは楽ちん通学を楽しんだが、結局は怒る小父さんの怒号に恐れをなして止めた。馬が疲れれば弱る。馬は大切な財産だ。失えば自分の生存を脅かさられるから小父さんは全身で怒るのだ。子供になめられるようでは大人も生きていけない世の中だった。

暮らしがが安定して世の中が平和になると、「昔の大人は叱ってくれた」とか懐かしそうに言う人が出て来た。確かにそのような教育的指導をする大人も居たのだろう。それも一つの事実と思うが私の体験とは違う。

私にとってほとんどの大人は怖いだけの存在だった。毎日の「仕事」は親、先生を含めた怖い大人からの攻撃をかわすこと。それに尽きた。そうしなければ弱い子は潰されてしまう。しかし子供も相当悪かった。当時の子供である私は、これを書きながら反省している。

「アンタ案外ズルいんだな」と先輩はズケズケ言う。
 「そうですね。つい逃げたり嘘ついたりしちゃうのです」
 「一緒に仕事をしていたときは正直で真面目な奴と思っていたけどな」
 「仕事用の顔も必要でした。状況が複雑ですから」
 「単純な状況など何処にある?」
 「我家です。子供もとっくに独立して、老人の二人暮しですから」
 「なるほど」
 「攻撃側が1人なら簡単にかわせます。2人なら難しい。3人以上だったら不可能ですね」
 「それで真面目なフリをしていたのかい」
 「仕方がないでしょう。生きる知恵です」
「アンタ案外ズルいんだな」

「それは言わないルールです」
「なんだと?」
「話が元に戻って無限ループに入ってしまいます。お仕舞にしましょう」

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2017年03月11日

合衆国空軍ワシントンハイツ団地

「灰燼に帰した東京に忽然と姿を現した『ワシントンハイツ』へ。私は時空を超えて、その記憶を辿る旅に出た。アメリカ化の原風景−−。すべてはここから始まった」
と秋尾沙戸子さんは新潮社発行の『ワシントンハイツ』に書いている。

「先輩! 決心しました。私も時空を超えて記憶を辿る旅に出ます」
「ああそうかい。行き先はワシントンハイツ。記憶の旅なら運賃も無しか」
「私の原風景がそこにあるのです」
「だけど入ったことないんだろう。受け売りはダメだよ」
「ハイツの住民は外にも出てくるのです」
「ほぅ、国際交流でもあったのかい?」
「まぁ、何と申しましょうか。なにぶん占領下の日本ですからね」

10歳の私は金が無い。楽しみと言えば街をぶらつくくらいだ。宮益坂を歩いて下り右折すると渋谷公会堂がある。そこで無料の浪曲を聞き、少し歩いてワシントンハイツに行く。そして金網にへばりついて中を見る。そこには浪曲とはガラリと変わった夢の世界が広がっている。グリーンの芝生にしゃれた住宅、赤、白、グリーンの乗用車がある。カラフルなシャツとジーンズ姿の少年がエンジン付きの模型飛行機を飛ばしていた。

「少年を見ていると恐怖の体験を思い出しました」
「恐怖とは大袈裟だな」
「殺されるかと思いましたよ。震えて歯がガチガチです」

青山学院中等部辺りの荒れ地で一人で遊んでいたら、突然、鉄棒を持ったアメリカの少年が現れて意味不明なことを叫んで鉄棒を振り回した。恐怖に駆られて逃げ出したら追いかけて来た。全力で走りながら振り返ると姿が見えない。ホッとしていると実践女子大の塀を乗り越え、私の前に現れた。相変わらず鉄棒を持っている。

怖くて逃げると追いかけて来る。何とか振り切って常磐松小学校付近にある馴染みの文房具屋兼駄菓子屋に逃げ込んだ。恐怖に震えて歯をガチガチさせながら「アメリカ人に追われている」と訴えると。文房具屋の爺さんは血相変えて「すぐに出て行け!」と怒鳴った。怖いから出て行かないでいると、爺さんは馬鹿力を出して私を押し出した。

ノートを買うと飴一個オマケしてくれたりして、好いお爺さんと思っていたのだが、アメリカが絡むと態度豹変だ。後で考えれば関わりたくない気持ちも分かる。占領下だから仕方がない。アメリカ人相手では警察も何も出来ない世の中だった。

「ワシントンハイツの話ではなかったのか」
「ハイツの少年がフェンスの向こうで好かったな、と思ったのです」
「なんで?」
「少年は柵の中に居るのです。外に居る私を苛めることはできません」
「情けなくないか」
「動物園で虎を見る人は皆そうでしょう」

ワシントンハイツとは戦後に突如として現れたアメリカン・ドリームの世界。それは渋谷区代々木に建設された合衆国空軍ワシントンハイツ団地(U.S. Air Force Washington Heights housing complex)のこと。明治神宮に隣接したアメリカ村は、終戦1年後の1946年に建設され東京オリンピック開催の1964年に返還された。跡地は整備され、NHK放送センター、代々木公園、国立代々木競技場等に変わっている。

広大な敷地に造られたワシントンハイツの存在が10歳の私の人格形成に大きな影響を与えた。青山学院横の道路を金髪をなびかせた女性が運転する赤いキャディラックが走り、パカパカ歩く荷馬車も通る。極端な燃料不足が荷馬車を復活させたのだ。否応なくその差を見せつけられた。オマケに私たちが住んでいるのは焼けトタンの粗末なバラックだ。

夢と現実が交差する世界で、子供たちは空腹と貧困の現実と戦いながら夢を見た。ジープも小型トラックの様なウエポンキャリアも見飽きた。子供たちの憧れはカラフルなアメリカの乗用車へと変わって行く。今覚えているだけでもフォード、シボレー、ビュイック、キャデラック、スチュードぺーカー等、スラスラと口から出て来る。しかし、貧しい自分が20年後に車を持つ身になるとは想像できなかった。

子供の頃は道路脇で「車種の当てっこ」をして遊んだ。誰が一番先に見つけて車種名を発するか競うのだ。フォードやシボレーはありふれていた。珍しい車をみつけると「キャデラック!」とか思わず大声をあげる。ビュイックやスチュードぺーカーの場合も同様だ。夢は車だが自転車も買えないのが現実だった。

車はもちろん、すべてのアメリカ化はワシントンハイツから始まっている。日本人立入禁止の場所は文明の国、アメリカのショーウインドの役目を果たしていた。極貧の私たちにとっては、決して買えない超高級品のウインドウショッピングをしているような気分だ。夢の世界を前にして腹を空かしていた。遠い異国に憧れた私に出来ることはワシントンハイツの金網にへばりつくことと洋画を観ることだけだった。

「腹がへっているのに映画を観るのか」
と先輩は細かいことを気にしている。
「そんなもんですよ」
「映画観る金で食い物を買えばいいじゃないか」
「いいじゃないの今がよければ。両方できる時もあるんですよ」

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