2019年06月08日

ネコは怖いよ

終戦後3年、私は8歳ぐらいの頃と思う。養父が肺病に罹り生活がどん底に落ちた。貰い物を食べたりして一家6人がかろうじて飢えをしのぐ有様だった。そんな時に、横浜で飼っていたタマがやって来た。3年前に引っ越したときに残してきた飼い猫である。

こんな遠くまで来るとは驚きだ。今なら母が気まぐれで、似たような猫を拾って来たと疑う。しかし、子供の私は母を信じ、猫は超能力のある恐ろしい動物と恐れた。

ともかく食うや食わずの我が家では猫を飼う余裕は無い。三日もたてば、行き当たりばったりの母でも、そのことに気が付く。そして、兄に捨てて来るように命じたが、一人で行く度胸はない。12歳の長男を頭に兄弟三人で捨てに行った。

思いついたのは家の近くにある青山学院の広大な敷地。豊かな学生・生徒が通うキリスト教系の学校だからエサぐらい与えてくれるだろうと考えた。出入口から一番遠い所まで塀に沿って歩き、投げ入れて帰って来た。小学校から大学まである広大な敷地が塀に囲まれている。ここなら大丈夫と一仕事終わった気分でホッとした。

ところがタマは、翌日には家に帰って来たのでビックリ! 超能力があるような気がして気味が悪かった。化け猫の話はよく聞くし、横浜から我が家の場所を探り当てたタマだから、全てを理解しているように感じるのだ。当然、捨てた私たちを恨むだろう。

猫を恐れた三兄弟は、タマが遠くで幸せに生きる方法を一生懸命考えた。電車は使えないので渋谷川に流すしかない。しかも、タマの安全を第一に考えなければならない。

三人の結論は船を作って流すことになった。遠くにたどり着いて誰かに飼って欲しいのだ。未知の飼い主宛に手紙を入れて置こう。近くでタマが船から脱出して、泳いで岸に着くかもしれない。屋根を作って人の助けがないと出られないようにしよう。遠くまで行くのだからエサを入れて置こう。

いろいろ考えたが、実行の目途は立たない。そもそも、渋谷区がが史上初めて遭遇する飢餓の時代で餓死者が続出し、我が家もその渦中にあった。ネコのエサどころか、自分たちの食い物も無く途方に暮れていたのだ。

何時の間にかタマは居なくなっていた。エサの在る所に行ったのだろう。今は中島公園の近くに住んでいるが、カモもハトも、皆そうしている。ヒトを含めた動物はエサのある所まで移動する。見つけるまで移動する。そして見つけることが出来なければお仕舞だ。
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2019年04月27日

苦い思い出

捕鯨問題で国際的に揉めている。反捕鯨国の反対意見は理解できないことも多い。しかし、反対意見が圧倒的に多いのなら獲らなければいいと思う。不味いから食いたくないのだ。これは小学校の給食で嫌々クジラを食った私の偏見。美味しいクジラ肉を食べれば一瞬で変わると思う。何処かで安くて旨い鯨肉を食べたい。

クジラでは苦労したが、給食の苦労と言えば小学時代のA君を思い出す。1950年代と言う遠い昔だが、A君は何故か服は着っぱなし、風呂も入っていない感じだ。ちょっと不潔な感じのA君が給食当番になった。

その頃の清潔・不潔は各家庭の経済状態に起因していたので、A君に清潔にしろと言っても無理。金が無くては銭湯にも行けないし、貧乏暇なしだから、命に直接影響のない洗濯は後回しになる。ところでA君の鼻は寒さと温かい料理に反応して、シチューの入ったバケツの中に鼻水を落としてしまった。寒い冬だったからね。

それを見た女生徒の一人が「私、食べない!」というと、女生徒全員が食べないと言い出した。私はシメタと思い大喜び。もちろん腹いっぱい食べた。同じ思いの男子生徒は少なくない。たちまちバケツは空っぽになった。

鼻水落としたA君はホッとしていたが、すきっ腹かかえて、給食食べ損ねた女生徒たちの心中は穏やかでなかったと思う。今と違って都会の食糧事情は最悪だった。栄養の大部分を給食に頼っている生徒も少なくなかった。

鼻水なんかかき混ぜれば何のこともない。食べたい女生徒も沢山居たと思う。しかし乙女心は悲しいものだ。見栄の張り合いで食べるとは、どうしても言えなかったのだと思う。

この「給食食べない事件」の主役は二人。この二人さえ居なければ多くの女子生徒が空腹の苦しみを味わわずにすんだのだ。一人は「私食べない」と言ったお金持ちのお嬢さん、もう一人は食べ終わると直ぐに、空の食器を持ってバケツに向かって突進した私だ。

空前の大空襲に遭って77%を焼き尽くされた渋谷区は、戦災の爪痕が5年たっても残っていた。逆に貧富の格差は拡大していた。お嬢さんは黙って食べなければ好かったのだ。私はしばらく様子を見るべきだった。そうすれば「事件」には発展しなかった。いつも人の後から行動する私が、この時ばかりは迅速に動いた。苦い思い出である。
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2019年04月06日

金は天下の回りもの

大空襲で80%弱が焼き尽くされた渋谷に、好んで住む人は居ない。金や頼るべき親戚がある人は一時的に暮らしの出来る場所に移動した。残ってバラックを作り住んでいた人達は、全力で働いて徹底的に節約し貯めていた。目的はただ一つ家を建てることである。そんな状況も知らずに、私たち母子4人は子連れ結婚という形で横浜から東京へ移住した。

一方、終戦直後の母親は横浜で文字通り歌って踊って楽しんでいた。昼は茶菓で子供を集めて歌唱指導、好んで歌ったのが「時計台の鐘」だった。母は食うや食わずで何の楽しみもない子供たちを見るに忍びないと言っていた。慈善活動のつもりだったと思う。

夜は父親(後に逃亡)が仕事関係で連れて来る、米軍将校等とダンスをすることもあった。女性社員と一緒に上品な接待をするためである。ついでに白状すると戦争中の母は海軍の宴会を取り仕切っていた。そして米軍は(日本)海軍より紳士的だと嘯くほど、変わり身が早やかった。戦争中も戦後も子育ては人任せにして仕事に没頭していた。

戦争中は皆苦労したと言うのは誤りだ。私は生涯で一番贅沢をしていた。その代わり戦後1年過ぎて貧乏が始まり2年目からはドカ貧だ。一方、空襲で強烈な恐怖を味わされ家を失った渋谷の人たちは、家族全員でアリのように働いていた。

空襲で全てを失った人と母とでは服装が全く違う。大きな家から小さなバラックに入る為には、多くの衣服を処分しなければならない。そのため上等な物しか手元に残らなかった。バラックは何処も同じような仮小屋だから、服装が貧富の差を表すことになってしまった。

こんなことで母のバラマキが始まった。近所の人を呼んで茶菓をふるまった。子供たちを呼んで歌ったり食べたりのパーティも頻繁に開いた。全ては地元の人達に溶け込みたい一心からだった。母としては出来ることをやって上げている、との気持ちもあったと思う。そんな時に養父が肺病に罹り事態は一変した。

母は金は天下の回りものと何時も言っていた。人のために使えば回りまわって自分の所に帰って来ると思っていたのだ。しかし誰もが全力で働き、金を貯え家を建てることを最優先にする、焼け跡のバラック住人には通用しなかった。

血の滲むような努力をして、区画整理前に新築した人達も道路に予定された部分には建てられない。その結果、道路予定地にはみ出しているのは、我がバラックだけになった。図らずも道路建設で唯一の障害物となってしまったのである。

除去が必要だたが、行政としては行先のない住民を追い出すことは出来ない。安普請ながら公費、即ち税金で家が建てられた。結局は皆の金で建ててもらったのだから、やっぱり金は天下の回りもの。回りまわって戻って来たのかも知れない。
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2019年03月30日

キリギリス一家

終戦1年後の1946年、戦争中も贅沢をしていた私たち母子4人が焼け跡の街にやって来た。大空襲で渋谷区の8割近くが焼失し、戦争前には25万の人口も5万人と激減した。その人達が焼け跡に焼けトタン等で小屋を作り、米軍の仮兵舎風にバラックと呼んでいた。そんな状況の渋谷に横浜からトラックに乗って引っ越した。その頃の輸送手段は荷馬車やリヤカーだったから、かなり贅沢な引越しと言える。引越し先がバラックとは知らずに、5歳の私はトラックに乗って大喜びしていた。

当時の状況については「生い立ち2-東京へ」に書いたので省略する。それから3年たったら私たち家族は界隈で唯一のバラック住人となっていた。今風に言うと住宅街にポツンと1軒ホームレス小屋。そこに家族6人(妹は渋谷で生まれた)で住んでいる。テレビ番組の珍風景より、もっと珍しい風景になったのだ。恥ずかしかったが、古い記憶は全ての感情をそぎ落とし、事実だけを覚えている。今になれば懐かしくて楽しい思い出である。

小学生の私は学校で、隠せるはずがないのに隠し続けた。不思議なことに「お前はバラックに住んでいるだろう」とか言われた記憶がない。今も「アナタ音痴ですね」とは言われていない。両方とも隠したくても隠すことはできないことである。人は優しいと思う。

引っ越したばかりの母は近所で一番目立つ奥様になった。衣服は上等だし金も持っている。人付き合いも好くて気前も好かったので、知り合いも次第に増えて行った。私と違って歌も上手いので町内会の人気者にもなった。

母はいつも「人は付き合いが大切だ、常吉さん(養父)は付き合いが下手だからダメだ」と言って我が家の代表のように振舞っていた。しかし、彼が肺病に罹ると事態は一変した。貯えは徐々に減って行く、それと比例するように家に遊びに来る人も少なくなってきた。

バラックに住む人の夢は唯一つ、家を建てることだった。そのため子供を含め家族全員が全力で働き、徹底的に倹約をしていたのだ。我が家に遊びに来るのも栄養補給かも知れない。病気に罹ったのは常吉さんだけではなかった。お金の為に危険な作業をする人、体が弱いのに無理をする人、食料不足等、病気の種は尽きなかったのである。

それなのに我が家だけがバラックのままで、最後まで自力で家を建てることは出来なかった。区画整理の一環として行政が最も簡易な家を建ててくれた。それでも私はバラックから脱出できて大喜びだった。こんな結果になったのも空襲で家を失った人と、戦争中でも贅沢をしていた人との違いが出たのだと、今では思っている。私たちは、母を家長とする「アリとキリギリス」童話の、キリギリス一家だったのである。
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2019年02月02日

困った時には運がつく

小学生時代の悩みはパラック住まいとズボンの下にパンツをはいてないことだった。先ずパンツだが社会情勢が私の味方になってくれた。10歳ぐらいで仕事が欲しいといっても、なかなか無いが、運よくS経済新聞が新しく発行された。

大都市東京の新聞配達は中学生程度の体力が必要だ。人口密集地区だから沢山の新聞を持たされる。しかし新規参入のS経済新聞は購読者が少ない。部数が少なければ小学生でも配達可能だ。配達時間に影響するので受け持ち区域は極端に大きくは出来ない。

そのため、賃金が安すく三大新聞の半分以下だったが仕方がない。1ヶ月千円だが小学生にとっては充分な金額だった。国鉄最低運賃が10円で、もりそばが17円、そして40円で古い洋画が観れたのだ。しかし、母に食い扶持として700円とられた。その代わり端切れを縫い合わせてパンツを作ってくれた。そのころの下着は手作りが普通だった。

母は怖い人、私だけでなく家族全員が怖がっていた。だから母の言うとおり700円の食い扶持を入れたが、納得はしていない。母の金扱いのずさんさを知っているので、黙って母の財布から少しずつ戻していた。良心の呵責はなかったが恐怖感があった。食い扶持と言っても500円が限度だ。私はそれ以上払う気がなかった。

貧乏だが運だけは好かった。何もしなくても忌まわしいバラックは、安普請ながら木造の新築住宅となった。戦災復興土地区画整理事業で道路の幅が広くなった。当然土地は狭くなったが家を建ててもらえた。両隣の人が爪に火を点すような暮らしをしながら、自力で同じような安普請の家を建てていた。他の家は区画整理案に合わせて建てたから、我が家のバラックだけが道路予定地にはみ出していた。

世の中は不公平だ、全力をかけて自力で建てた家並みの中に、無料で建てられた家が並ぶことになった。もちろん最低限の木造家屋だがバラックから脱出できて大喜びした。家の中に台所とトイレがあることが何よりも嬉しかった。それに木の香りは格別だ。

私にとって最大の悩みは遅まきながら解消された。バラックから解放されパンツもはいた。焼けトタンのバラックは冬は寒く、夏は焼けるように熱いのだ。そして雨が漏る。そんな暮らしとおさらばだ。しかも、学校では堂々とズボンを脱いでパンツ一丁で身体検査を受けられるようになったのである。こんな嬉しいことはない。

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2019年01月26日

微妙な子供心

1945年の山の手空襲で渋谷は瓦礫の街になってしまった。復興、復興と叫ばれたが、人々にとって復興とは家を建てること。それが第一歩だ。皆が食費を切り詰めても家を建てようとした。戦後4年もたつと安普請ながら家らしいものが街に並ぶ、その中で我が家だけが焼けトタン作りのバラックのままだった。今風に言えば住宅街の中にポツンと一軒、ホームレス小屋がある感じだ。そこに親子6人が住んでいるのだから驚きの珍風景だ。

小学3年の私には隠して置きたいことが二つあった。バラック住まいであることと原始人のようにパンツをはいてないことである。いくら貧乏でも子供のパンツ一枚ぐらいは用意できる。自分の不幸ばかりを嘆いていて、子供のことなど眼中にないからこんなことになる。

「身体検査はパンツ一枚と決まっているだろ。何でお前だけズボン、はいているんだ!早く脱げ!」と先生は怒る。言えば分かってくれるはずだが、パンツをはいていないことは隠して置きたいのだ。それは絶対に言えないと思ったら、身体がガタガタ震え大粒の涙がぽろぽろ出てきた。子供心は微妙だ。バラック住まいとかパンツも無いとか、隠しようのないことを必死になって隠そうとしていた。本気だったが今思えば滑稽だ。

70年も前のことが忘れられない。とにかく1日も早く働いて金を稼ぎたいと思った。願いは叶って小学4年で新聞配達の仕事にありついた。一人前になったような気がして嬉しかったし誇らしかった。さてパンツの悩みは解決したが、バラックだけはどうにもならない。

戦後4年もたつと貧しいとはいえ、暮らしは落ち着いてきている。多くの人々が倹約に倹約を重ね少しずつ生活を改善していた。しかし我家だけが終戦直後のままだった。戦前の豊かな暮らしが忘れられない母は、復興の掛け声に対応する気力を失っていた。その辺りは生い立ちに書いたので重複をさける為ここでは省略する。

私の人生は物心がついた頃が最悪で、その後は現在に至るまで右肩上がりだ。こんなシアワセな事はない。ところが母は豊かな生活からどん底まで急降下、現実を受け入れ難い気持ちも分かる。私が今、とても幸せに感じているのは母のお陰である。欠けていた親心や感じたことのない母の愛が、少し遅れて草葉の陰から伝わって来たようだ。

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2018年03月10日

大食い早食い

最近はテレビの「大食い」と「早食い」番組に悩まされなくなった。5年ぐらい前から自室に私専用のテレビを入れたから見なくてすむようになったのだ。大嫌いな番組から解放されてスッキリした。大食い大好きな方も、嫌いな番組はあると思う。人それぞれと言うことでご容赦ください。

妻に一つだけお願いをした。「食事の時はテレビを消して話しながら食べましょう」と。 美味しい食事を心から楽しみたいと言うのが表向きの理由だが、本当は早食い大食い番組から逃れたいのだ。その手の番組が始まると私は直ぐに逃げたが、食事中に放映されるのが一番困る。逃げ出すことが出来ないのだ。しかし妻が見ている番組を嫌いとは言えない。いろいろ世話になってるからね。

そんなことを考えていたら小学校の給食を思い出した。給食を食べながら先生が「食」について教えてくれた。あるとき先生は「ミルクにパンを浸して食べると美味しくなりますよ」と言った。翌日には「パンはよく噛んで食べよう。唾液の力で栄養が行き渡ります」と言う。話は矛盾するが、食べ方や栄養が、いかに大切かということは十分に伝わって来た。

先生が「口の中で36回噛みましょう」と言いながら口をモグモグ動かせて見せてくれた。生徒達もそれを真似して回数を数えながら食べた。先生も生徒も口に入れたものはトコトン栄養にしようという執念があった。それが今は「早食いに大食い」が映像になって流れている。幸いマイTVのお陰で見なくてすんでいる。

小学校の食育のせいか、よく噛む習慣が身に付いた。しかし「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言うけれど本当だなと思った。今では歯医者さんから余り噛むなと言われている。噛み過ぎて歯が痛んでいると言うのだ。一人二人ではない、診察した歯医者さんの全てに言われた。そんなに噛まなくても胃袋でちゃんと消化するので心配するなとまで言われてしまった。小学校の教育が私の心の中で今でも生きている。教育は凄い。もし宝くじで3億円当たったら教育事業に使いたい。買ってないけどね。

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2018年03月03日

闇屋の小父さん

私が十歳の頃は東京でもよく雪が降った。長靴を持っていないので下駄履きだ。雪道は滑りやすいので転んだら鼻緒が切れたりする。寒いのに下駄を脱いで裸足で歩くのは辛い。長靴は欲しいけれど買えない。そんなとき、我が家の事情をよく知っている近所の小父さんが「ウチで働いてみないか」と誘ってくれた。長靴が買えると思い嬉しくなった。

作業所では十人くらいが働いていた。私の仕事は、山積みにされた煙草の吸殻をほぐして煙草の葉と紙に分けること。ここでは吸殻と使用済みの空き箱を使って、紙巻煙草の再生産をしている。ちょっと怪しいが、ここで働ければお金をもらえる。

小父さんの仕事は列車清掃業、そして裏の仕事は闇屋。タバコ再製造はその一つである。作業所で簡単な指示をすると国鉄品川客車区に行く。一方、作業所の仕事は極めて単調だがら話しながらする。話題が小父さんのことに及ぶと、私は聞き耳をたてた。

「オヤジさんは監督が来ると急に威張るんだ。監督には揉み手でペコペコするのにね」
「分かるよ。俺も品川の列車掃除に行ってたからね。後でお前に謝ったろう」
「謝るどころか、ラッキーストライクくれたよ」

当時の若者の憧れはラッキーストライクを口にくわえ、ジッポーのライターで火をつけることだ。小父さんは作業員を怒鳴りつけて強いところを見せ、監督にはペコペコする。こんな見え透いたやり方でも、繰り返せば監督の信頼を得ることが出来る。強い男にペコペコされればオベンチャラと分かっていても気分がいいものだ。

次は賄賂だが、先ず「いいもの拾いました」とか言って、新品のアメリカ煙草を届ける。拾い物は次第に高価なものになり、最後は現金の賄賂。明るみに出れば事件になる程の金額だ。ここまでくれば鉄道員の監督は海千山千の小父さんの言いなりになる。例えば進駐軍専用列車のゴミは宝の山だが持ち出しても目をつぶる。

大人達の話を聞けば聞くほど小父さんが怖くなってきた。あれほど欲しかった長靴も諦めた。ところが小父さんは仕事を辞めた私に中古の長靴をくれた。彼は私自身の働きで長靴を買わせようとしたが、気が小さい私は期待に応えることができなかった。これは私が闇屋の採用試験に落ちたことを意味している。そして長靴を口止め料代わりにくれたのだ。小父さんのやることは全て行き届いていた。
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2018年02月24日

ここが極楽

目が覚めたら明るい洋室にいた。私は清潔な白いシーツの上に一人で寝ていた。一体ここは何処だろう。誰かに担がれた一瞬の記憶がある。そうだ、ここは小学校の保健室に違いない。だが何故ここに運ばれたかが分からない。痛いところもないし苦しくもない。ここに来るまで何をしていたか一生懸命考えたら思い出した。鉄棒だ。

記憶が徐々に戻り全てが繋がった。弁当がないので昼休みに一人で鉄棒をしていたのだ。皆が食べているのに、食べない私が居たら悪いような気がして校庭に出たのである。

実は、その前に先生から注意された。「弁当を人に分けてやったり、もらったりしてはいけません」。そう言われるまでは、皆楽しく一緒に弁当を食べていた。弁当を持たない私も皆からもらって喜んで食べていたし、先生も黙認してくれた。

学校が大好きだった。優しく親切な生徒も少なくなかった。弁当が無くても分けてくれる人が居る。一人が弁当箱の蓋に何か入れてくれると、それを持って教室の中を「ちょうだいちょうだ」と言いながら歩き回る。多くの生徒が入れてくれる。皆、ニコニコ笑っている。

小学3年の私は無邪気な子供だった。弁当で悩んでいる生徒の存在には気付かなかった。粗末な弁当を恥じて、隠すようにして食べている生徒が見えなかったのだ。このことを先生が知り、子供たちの助け合いと黙認することを止めた。

先生に注意されたばかりの生徒たちは黙々と弁当を食べている。私は何となく居場所がなくなったような気がして、校庭に出たけれど誰もいない。仕方がないので一人で鉄棒をして遊んだ。そして落ちて気絶した。やっと過去と現在が繋がりスッキリした。

その出来事以来「ちょうだい」と言う言葉は使えなくなった。小学4年からは新聞配達を始め、学校に必要な金と小遣いに不自由はしなくなった。子供から少年を飛び越えて一挙に大人になったような気がして誇らしかった

私の夢は中学を出たら働くことだった。実現した。在職中の夢は楽をすること。これも退職して叶った。今の夢はこの状態が永遠に続くこと。人は不可能と言うが、生きたまま極楽に来たのかも知れない。そして時計の秒針のように同じ所でクルクル回っているのだ。生まれた時は1年365日で回っていたが、今は60秒で一回りの気分である。
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2018年02月17日

優しい人たち

小学3年の私はバラックで暮らしていることをひた隠しにしていた。近所の子供たちも同じ学校に通っていたのだから隠せるはずはない。それでも隠していた。バラック暮らしについては生い立ち2-東京へに詳しく書いたのでここでは省略する。

敗戦後4年目の渋谷は復興めざましく、安普請ながら木造住宅街がほぼ完成していた。その中で焼けトタンのバラックは嫌でも目立つ。不思議なことにバラックの子供として差別を受けたり虐められたりした記憶は全くない。だから同級生にはバレていないと思い込み必死になって隠し続けたのだ。私は周囲の暖かい配慮に守られていたのかも知れない。終戦後の混乱した時代だが小学生でも一定の常識をもっていたのだろう。

それでも皆の中に溶け込むのは難しい。転校生のA君だけは私がバラックに住んでいることを知らなかった。友達になると私を家に呼んでくれた。彼は勉強も出来て気も強かったがクラスには馴染めないようだった。家はとても大きく、優しそうなお母さんがお菓子を出して歓待してくれた。今でも夢のような楽しいひと時を覚えている。

何回か遊びに行くうちに「君の家に遊びに行きたい」と言われ、困ってしまった。あの惨めなバラックを見られるのかと思うと、ぞっとした。何とか断ろうと、いろいろ理由をつけてみたが、「君だって僕の家に来たのだから」と言われては万事休すだ。

嫌々我が家に向かう足取りは重かった。家の前に連れて行くのは、どうしても嫌なので家の見える高台に連れて行き「あすこ」と指をさした。A君は一瞬言葉を失ったが、直ぐに全てを理解したようだ。そして「君の方が恵まれているよ。僕の家なんか借りものだ」と言った。バラックに住んでいることを知られたら絶交されると思っていたのでホッとした。

A君は小学3年でも人の気持ちを思いやることが出来る。私にとっては驚きだ。あの優しそうなお母さんの教育のお陰かも知れない。社会全体が混沌とし、弱肉強食はびこる時代だが優しい人も少なくなかった。手ぶらで遠足に行くとお菓子をくれる同級生もいた。そのことは単純に喜んでいたのに、バラックのことは必死に隠すのだから矛盾している。実際にはバレていたのだが。それでも楽しく暮らしていたのは優しい人たちに守られていたからである。今もそうかもしれない。
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2017年10月07日

謎のコレスポンデンス協会?

「小学6年くらいの頃アメリカ人と文通していました」
「嘘だろう。出来るはずない」
職場の先輩だから私の英語能力は良く知っている。困ったことに下手の横好なのだ。
「本当ですよ。アメリカのペンフレンドから誕生日プレゼントをもらいました」

双眼鏡のような形をしていて、覗きながらレバーをカチャカチャと押すと次々にイエローストーン国立公園の風景が立体的に映るのだ。当時(1950年代)の日本では見たことなかったので私にとっては宝物だった。

「大人になっても書けないアンタが何で小学生の時に……」
「英語ですか。ローマ字習いましたよ」
「ローマ字?」
「アルファベットだけで大丈夫です。協会からね。英文が何行か書いた文書が来て、この通り書いて次の住所に手紙を送れば外国から素晴らしいプレゼント……」
「ちょっと待った。協会って何だ?」と先輩は話の腰を折る。

確かユネスコ・コレスポンデンス協会と記憶しているが、違うかも知れない。65年以上前のことなので記憶が定かでない。意味も分からないまま書いて送ったら、忘れた頃に分厚い郵便物が届いてビックリした。開けて見ると美しい風景や華やかな若い男女の写真がいっぱい。全て外国語なので何のことかサッパリ分からなかったが嬉しかった。

郵便料金だけでこんなに綺麗な外国の写真が手に入るとは有り難い。大人になってから考えると私は知らずに観光パンフレットを要求したのだ。考えてみれば罪なことをしたものだ。日帰り旅行をする余裕もないのに海外旅行の資料を要求したのだ。それにしても汚いあばら家によく届けてくれたものだ。郵便配達員は首を傾げていたに違いない。

ユネスコ・コレスポンデンス協会?のサービスは海外ペンパル紹介、手紙の翻訳、そして特別企画「こう書けばコレがもらえる」だった。今考えると子供相手の怪しげな英語ビジネスとの印象だ。料金は子供の小遣いで払える程度。果たして儲かっていたのだろうか。それともボランティア? それにしても1950年代は混沌として何でも有りの時代だった。

「英語も分からないのにアメリカ人と文通してたのか」
「コレスポンデンス協会で翻訳してくれるので、それを見ながら書くのです」
「大袈裟に言えば詐欺だな」
「何でですか?」
「文通相手のアメリカ人に英語ができると思わせている。とんだ三角野郎だ」
「四角四面の真面目人間ですよ」
「その実態は怠け者」
「今じゃ動物園のナマケモノ」
「なるほど、エサは年金、家は檻(おり)」

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2017年09月23日

子供たちの小遣い稼ぎ

前回ガラスを売って映画を観た話をすると先輩は異議を唱えた。
「何で、そこにガラスなんかが埋まっていると分かるんだ」
「小さな畑の片隅には焼け残った物を埋めた穴があるのです」
「何で畑に埋めるんだ肥料にもならんぞ」
「皆そうしてるよ。何でかな?」

元々狭い土地を無理をして畑にしているのだ。地上にガラクタを置いておく余裕は無いから埋めている。それが5年もして経済が上向けば資源に変わるのだから面白い。子供でも金が稼げることが何よりも嬉しかった。大人になった気分で映画館に行った。

最初に見たのが「毒薬と老嬢」、次に観たのが「夜も昼も」だったかな。いずれもケイリー・グラントが主演。内容などどうでもよかった。夢の国アメリカを感じれば好いのだ。英語も分からないのにアメリカ人と文通していた。「ユネスココレスポンデンス協会?」とかで翻訳をしてくれる。料金も安くガラスの稼ぎで間に合った。

ところで焼跡資源の掘り起こしは組織的に行われた。リーダーは子供はつらいよの魚屋真ちゃんだった。彼の家には商売で使うリヤカーと秤があったからだ。集めたガラス等を決められた日に真ちゃんの家の前に持って行く。彼はそれを量ってメモをする。グループは10人くらい居たと思う。ガラス、鉄、銅とか分けるが殆どガラスだ。種別に分けて全部まとめてクズ屋に売るのだ。

2,3人がリヤカーを押して、みんなゾロゾロと付いて行く。渋谷は坂が多いので上がり下がりは皆で協力して運ぶ。上がるときは皆で押し、下がるときは交代で引く。クズ屋は1キロほど先だが幾ら貰えるか楽しみにして頑張る。

売ったらその場で真ちゃんはメモに書いた重量に基づいてお金を分配してくれる。言えば簡単だが計算も必要だしつり銭の問題もある。真ちゃんはいつも魚を売りに行っているので手際がいい。このときばかりは15歳の真ちゃんが頼もしい大人に見えた。
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