前回の「ドウジュンカイの記憶」の続き
2006年私も66歳、報道で「表参道ヒルズ」誕生のニュースを知って驚いた。ドウジュンカイとは何かと言う、長年の謎が解けたのだ。報道では旧同潤会青山アパートの建替事業と言っていた。私の耳に響いたのは同潤会と言う単語である。
6歳の時、意味も分からずに記憶したのが同潤会と分かった。母親が近所の奥さん方とのお喋りの中で、よく口にしていた言葉だ。60年後の今分かったが、私は横浜の同潤会で生まれたのだ。これが同潤会との第一の関りである。
10歳だった1950年、日本は戦後混乱期の5年目。復興は遅々として進まず、我が家はどん底のままだった。必要に迫られて新聞配達をしていたたが、配達区域に表参道が含まれていた。これが同潤会との第二の関りである。
そこには古ぼけて、屋内が薄暗い三階建てのビルが並んでいた。あたり一面空襲で焼かれたが、鉄筋ブロック造の同潤会青山アパートだけは、焼け残っていた。
ネット情報によると「同潤会アパートはそれまでの所有・管理者だった同潤会から東京都に引き継がれ、さらに1950年になると各住民に払い下げられた」。新聞配達をしていたのは、まさにその頃だが、終戦直後の極端な住宅不足は依然として続いていた。
例えば、本来一家族で使うべき部屋に三家族が入居していた。室内にロープを張って、各家族の専有場所を区切っていた。まるで、避難所のような有様だ。配達する新聞は開けっ放しの玄関ドアから入り、ロープ内の購読者に手渡した。
こんなことは、住宅難の東京では珍しいことではなく、我がバラックでも20坪くらいの土地に平屋のバラックを継ぎたして3家族17人が暮らしていた。親戚が満州から引き揚げてきたからだ。親切と言うよりも食って行く為の工夫と思う。
同潤会との関り第三は中学の時だった。同級生が代官山アパートに住んで居たので、度々遊びに行った。終戦後10年くらいたち、庶民の生活もいくらか改善されていた。三階建て6畳4畳半の二室に台所で風呂はない。それでも、6畳くらいのバラックに6人家族で暮らしている私から見れば、夢の様な居住環境だ。
ところで、私が生まれたのは横浜の同潤会。関東大震災を経験した母にとっては、震災からの復興のシンボルであり、新しい夢の世界だ。戦後、バラックに住む身になった母は、繰り返し話しても厭きることはなかった。
そして戦後混乱期のスラムの様な感じの青山アパート。辺り一帯が空襲で焼け野原となったが、そこに残った鉄筋不燃構造の3階建てビル群。界隈唯一の住める場所になったのかも知れない。中は人でいっぱいの感じだった。
1950年から高度成長が始まり、私も中学生になっていた。そのころ出会ったのが代官山アパート。羨ましいほどの高級住宅と思った。今では同潤会青山アパートが、「表参道ヒルズ」に、代官山アパートが「代官山アドレス」に、それぞれが日本の代表的な再開発事例となった。時代と共に移り変わる同潤会は、私の記憶の大きな穴を埋めてくれた。