2022年10月01日

Whyが大好き

下手な癖に駄文を書き続けている。もちろん、読者は少ないけれど幾らかの方々は読み続けてくれている。自己満足だが、「何時、何処で、誰が、何を」という事実から「何故?」を見つけるのが楽しい。文章の勉強は大切だが、頭がコチコチでできない。諦める部分はスパッと諦める。

いくら若気の至りとは言え、こんなことをした私は愚か者。そして、40年後にことの顛末を書いて喜んでいる、底知れない愚か者である。今の私は処方され沢山の薬を飲んで生き長らえている。この中にバカに付ける薬も入っていればいいのだが、無くても結構楽しく幸せに暮らしている。
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ところで、24歳のとき私がしでかした愚かなこととは、次のような事実だった。私はA子に手紙を忍ばせた菓子折りをあげた。A子は菓子折りを丸ごとB子にあげてしまった。B子は菓子だけを食べて手紙を私に返した。私は何故かB子に結婚したいと言った。B子は直ちに断り、後にC子を紹介してくれた。C子と動物園で会う約束をしたが来なかった。三日後、C子から交際お断りの手紙が来た。

何のことかサッパリ分からないと思う。この事実は144字だが、体験を「手紙」というタイトルで書いたら2954字に膨らんだ。事実から何故、何故と、Whyがいっぱい見つかって楽しくなってしまったのだ。
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このブログ「空白の22年間」は自分自身の楽しみと自己紹介のつもりで書いている。人物等仮称も多いいが、できる限りの真実を書いているつもりだ。真実とは事実に対する偽りのない解釈であり、人の数だけ真実はある。しかし、正直に書くように心がけている。

事実を書くなら新聞記事の書き方が参考になる。つまり5W1Hの原則に準じて書けばよい。具体的には、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どうやって(How)である。私のように老後はのんびり暮らしたいと思っている人には絶対に書けない。差し障りが多すぎるのだ。

この中で一番書きたくないのがWho、人物が特定し易くなるWhereもなるべく避けている。出来るだけ正確に書いているのが背景となる時代、Whenである。何を(What)、なぜ(Why)、どうやって(How)だけを楽しんで書いている。中でも大好きなのはWhy、感じてもらえれば有難いが無理と思う。一人でWhyWhy、ワイワイ言って楽しんでいる。
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2020年02月22日

ブルーシャトウ

音痴だから正確な意味では歌を理解していないと思う。私にとっては歌は思い出。ブルーシャトウを聴くと霧の中でうっすら見えるフランスの城、あるいはボルドー地方のワイナリーを連想する。行ったことはないけれど、映画やテレビで見たことがある。

ところが、当時の小学生にかかると、「森と泉に囲まれて静かに眠る」は、「森トンカツ 泉ニンニク かコンニャク まれテンプラ 静かニンジン 眠ルンペン」となるそうだ。ブルーシャトウは小学生にも大人気、この替え歌を皆が歌っていたそうだ。

当時27歳の私は何も知らなかったが、この替え歌を口にすると意味も無く楽しい。ルンペンの後、どう続くか分からいのに面白がっていた。

ブルーシャトウは1967年3月に発売され、レコード売上150万枚の大ヒット曲、橋本淳作詞、井上忠夫(後に井上大輔)作曲だった。そして、私にとっては新婚時代の歌。

間違いかも知れないが、札幌市南3条西2丁目辺りに三条ビルがあり、高級喫茶ブルーシャトウがあったと記憶している。多分、今のKT三条ビルと思う。1961年の建造となっているので、時代がほぼ一致する。

思い出深い喫茶店なので、三つの出来事を今でも記憶している。まず最初は25歳で札幌に着任したころのこと。初対面の先輩が連れて行ってくれたのが、ブルーシャトウだった。先輩は札幌で最高級の喫茶店と言ったが、まさかと思う。私たちは安月給で、あらゆる最高級とは縁がなかった。

2番目は札幌で知り合った女性と初デート。ともかく先輩に高級と言われているので、その喫茶店にお連れした。「お砂糖幾つ」とか慣れないセリフを言ったら「二つ」と答えてくれた。そこまでは好かったが、袖がコップに触れて、バッシャっと水がこぼれ、慌ててしまった。喫茶店に同伴は初めてなので緊張して手元が狂ったのだ。最初のつもりが最後のデートとなった。

3回目は後に妻となる女性とデートした時だ。その時は同じ失敗をしなかった。ところが、控えめな人と思ったのが大間違い。見事に術中にはまった。今ではすっかり尻の下に敷かれている。しかし、有難い面もある。尻の下に敷かれると、相手が最大限の力を発揮してくれるのだ。

私の人生で唯一の成功は長生きだ。しかも日々幸せを感じながら生きている。これほど愉しく生きられるとは夢にも思わなかった。好きな曲ブルーシャトウについて書くつもりだったが、気が付いてみれば、思い出の喫茶店に変わってしまった。やっぱり歌はダメだ。日常を語る方が面白い。
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2020年01月25日

羽田発7時50分

意外にもこの歌は10代の女性に人気があるらしい。カラオケに詳しいAさんの情報によると、フランク永井の歌う「羽田発7時50分」をよく歌う人は60歳以上の高齢者。およそ70%はそうだが、細かく分けて女性だけに限ると20%が10代と言う。意外な結果に喜んだりビックリしたりした。ご自身が生まれた半世紀以上も前の歌が好きとは。まさに名曲扱いである。

ひょっとしてお爺ちゃん対策かもしれない。気分をよくさせてお年玉の増額を狙うとか。しかし、それだったら他にもっと簡単な方法がある筈だ。陳腐な例で恐縮だが肩を叩くとか揉むとかね。殆ど聴いたことのない歌を覚えるのは大変なことだ。好きでなければ出来ないことである。

そう思うのは私が音痴だからだろう。普通は2,3回聞けば覚えるそうだ。私の百分の1、か千分の1程度の労力で歌えるようになるらしい。普通の子供にとっては案外簡単なのかも知れない。いずれにしろ私の知らない世界のことである。

ところで羽田はとても懐かしい。中卒以来8年間も職を転々として漸く就いた定職だから思い入れも人一倍だ。そこには懐かしい思い出がある。航空管制官になるために運輸省航空保安職員訓練所に入所した。先ず、新規採用者の氏名を呼ばれたが、私は最後に呼ばれた。多分、採用したい順だと思う。それでも何とか採用されたのは運がついていたからだ。

研修が終わり終了式のときは、トップで呼ばれた。多分成績順と思う。私は暗記が得意だが、仕事やゲームや運動で大切な頭の回転が人並み外れて悪い。迅速確実に実行しなければならない仕事には向いていないノロマでなのだ。

コンピュータに例えると、演算機能が極めて悪く記憶機能だけの頭なのだ。だから、覚えるのも遅いし忘れるのも遅い。職を転々とした私は自分の弱点をよく知っている。下積みの仕事の訓練とはマニュアルを暗記すること。だから私は訓練中は出来る人だが、現場に行くと途端に出来ない人になってしまうのだ。

訓練所の寮には羽田の管制官も入っている。お風呂では一緒になるが、仲間同士で「出来ないヤツが来たら追い出してやる。訓練所の成績がよくても駄目なヤツが多いんだよ」とか、大声で話している。まるで自分が言われているような気がした。自信のない人は来ない方が良いと知らせてくれたのかも知れない。

この一言で目が覚めた。羽田とか忙しい空港には絶対に行ってはならないと考えた。やっとありついた定職だから定年まで勤めたい。どこの空港が一番私に優しいか調べたら、結論として新設して間もない帯広空港がいいと考えた。そして北へ!
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2019年12月28日

酒は止められる

先ず、酒飲みの思いを歌った歌詞を紹介する。作詞者不詳、補作詞は野村俊夫。唄は久保幸江、大ヒットした『ヤットン節』の一番だけ。2番以降は酒とは関係ない。

お酒呑むな、酒呑むなのご意見なれどヨイヨイ、
酒呑みゃ酒呑まずにいられるものですか、ダガネ、
あなたも酒呑みの身になってみやしゃんせヨイヨイ、
ちっとやそっとのご意見なんぞで酒やめられましょか、
トコ姐さん酒持って来い

人に意見されても止められないのが酒。飲む習慣を断ち切るのは本当に難しい。酒に弱いので翌日まで酔いが残ることが多かった。何とかしなければいけないと考え、午後10時以降は自主的に禁酒とした。しかし、酔い心地は忘れられない。酔いが深くなって脳まで達すると、とても気持ちがいいのだ。

今までは、そこまで達したところで布団に入ったが、こんどは10時までに、そこに達するように飲み方が早くなってしまった。朝は相変わらずの二日酔いだ。今だったら仕事をさせてもらえないが、50年前のチェックは甘かった。

日々、自分の意志で動いていると思っていたが、大部分は習慣にによって動かされている。このことに気づいたのは30歳を過ぎたころ、必要があってタバコを止めたとき。5日間でタバコを止める方法が書いてある本を買って、その通りに実行したら止められた。

そこに書いてあることは、「あなたはタバコを吸いたいのではない。タバコを吸う習慣から逃れられないのだ」とのこと。その通りだった。吸わない習慣をつけたら吸いたくなくなった。酒を止めたいのなら、酒を飲む習慣を断つことが肝心と考えた。

しかし、断酒は禁煙とは比べらものにならないほと難しい。何と言ったって、脳まで酔いが来たら凄く気持ちがいい。この感覚はタバコでは味わえない。

星空の中を静かに泳いでような感じがするのだ。まさに酒という宇宙に飲まれて行くような気分になる。この状態を体験すると、飲んだらこの感覚になるまで飲むようになる。

酒量は人によって違うが酒に弱いから、毎日4時間飲んで3年たったらこうなった。この状態から脱出するには断酒会に入るしかない。もし、パソコンで断酒できなければ、断酒会に入っていたと思う。私は酒は止めたいと思いながら。飲んでいたのだから。

私の断酒は酒を飲む習慣を断っただけ。酒がないから客が来れば近くのコンビニで買ってくる。シニアネットの懇親会では飲んで楽しんでいる。断酒だからと言って楽しみを捨てたりしない。ただ飲酒の習慣を完全に断った。お陰で懇親会が凄く楽しみだ。

       断酒の誓い
1. 私たちは酒に対して無力であり、自分ひとりの力だけではどうにもならなかったことを認めます。
1. 私たちは断酒例会に出席し、自分を率直に語ります。
1. 私たちは酒害体験を掘り起こし、過去の過ちを素直に認めます。
1. 私たちは自分を改革する努力をし、新しい人生を創ります。
1. 私たちは家族はもとより、迷惑をかけた人たちに償いをします。
1. 私たちは断酒の歓びを、酒害に悩む人たちに伝えます。
  (全日本断酒連盟ウェブサイトより引用)
  
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2019年08月24日

さらばA空港出張所

前回書いた事故については後日、週刊誌に「A市上空、恐怖の3時間」と言うような見出しで記事になった。今、忘れ去られているのは死傷者がゼロだったからだと思う。ところで事故直後、若い副操縦士は機長の冷静な対応を興奮しながら称えていた。機長がこの程度のことは戦争中は日常茶飯事だ、と言っていたことを今でも覚えている。

1年余りの勤務だが事故はいろいろあった。着陸に失敗してプロペラ破損、ヘリコプターが低空で浮力を失いドスンと落ちて破損、悪天候で着陸禁止の空港に緊急着陸もあった。雲の切れ目に滑走路が見えたので運を天に任せて着陸を強行したと言っていた。

空港は低い雲で覆われ着陸禁止、雲の中からヨロヨロしながら出てくる軽飛行機を見てビックリした。命拾いしたばかりの人の話を聞くのは、これで二度目である。以後このような経験は一度もない。小さな空港だから興奮冷めやらぬ事故後の肉声を聞けたのだ。

A空港に赴任して1年余りで転勤することになった。私の希望が叶ったのだが、空港出張所の人たちにとっては面白くない事態だった。いくら面白くないと言ってもやってはいけないことがあると思う。その頃、普通免許を取得するために自動車学校に自費で通っていた。私が知らない内に退学手続きがとられていたのである。

着任早々、転勤希望を本省に出していたことがバレたせかも知れない。一種の腹いせと思う。面倒見たのに裏切ったと思われたのだ。私が自動車免許を取りたいと言ったとき、所員一同とても喜んでくれ、全面的に協力してくれた。私は内緒で転勤希望を本省に出していた。しかし、直ぐに転勤できるとは思っていなかった。

同僚たちは空港の普通車を使って実技訓練の手伝いをしてくれたのだ。A市は農業の中心都市だから、私有地の農道で運転している人が、道路でで運転するために自動車学校に来る。実技でモタモタするのは、初めて運転する私ぐらいだ。多くの運転できる小母さんたちが街に買い物等の用事をする為に、免許が必要と考えて学校に来るのである。

小さな職場ではお互いが職種を超えて協力しなくてならない。免許取得者が少なかったので仕事のために取ると勘違いしての協力だった。仕事上の必要から無免許で空港内を運転することは多い。一方私はこんな暇なタワーに居たら、いつまでたっても仕事を覚えられない。万一の失業に備えて免許が必要と考えていた。

本人に断りなしで他人の意向で退学をさせられるなんて、頼む方も頼む方だが受ける自動車学校もどうかしている。ここでは私の常識では考えられないことが起こる。ともかく転勤できて有り難い。新任地で文字通り新人として一生懸命ガンバって仕事を覚える覚悟をした。仕事抜きで安定した生活などあり得ない。仕事、仕事、今度こそ仕事。
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2019年08月17日

航空事故3-記者団が抗議

小説とかドラマが好きなのは、フィクションの中にしかない、真実に出会えるからである。一方、私が書くのは自分の曖昧な記憶と直接耳にしたことだけで、事実を示す裏付けが無い。それでも自分が思う真実を伝えたい。それでフィクションというオブラートに包んで語ることにした。根拠のない思い込みで人様に迷惑をかけることは避けたいと思う。

A空港での業務は何から何まで異常だった。一応、A市が管理する空港とはなっていたが、人的にも物的にも体制が整っていなかった。今なら有り得ないけれど、55年も昔のことだから仕方がない。1945年の敗戦で日本の航空業界は既に壊滅していて、再開したと言っても発展途上のヒヨコ程度だった。

元々この空港は緊急着陸に対応できない。故障した航空機が高度を取れなくなり、周囲の山脈を越えられなくなったのだ。当該機が陥った状態は草原に不時着するのに似ていた。ただ滑走路があることと何人かの係員が居ることだけが違っていた。

旅客機が緊急着陸すると言うのに、大きめの消火器を手押し車に載せて一人で滑走路に向かっている人を見た。まるで戦車に向かって竹槍を構えているような感じだ。胴体着陸に対応するには化学消防車が必要である。皆が想定外の出来事に遭遇して、右往左往していた。手に負えなくても何もせずには居られない心理状態に陥ったのである。

A空港出張所は鍵をかけて建物内立入禁止とした。もちろん忙しくて手が回らないことは確かだが、やましいことがなければ記者たちを中に入れても問題はない。見せるのも取材協力だが、見られたり聞かれたくないことがあるから鍵をかけて閉鎖したのである。

結局、正しい情報は東京が先に得ることになり、現地の記者たちは面目丸つぶれになった。後日、現地記者団が抗議のために出張所に押しかけた。そして口々に取材拒否はけしからんといった。

意外にも所長は平然としていた。そして大勢の記者を前にして「あなた方は出張所開設の時、挨拶に来ましたか」と逆質問した。記者たたちはキョトンとしていた。私も挨拶とはこの期に及んで何を言うのかと思った。しかし所長の言うことにも一理あった。

緊急事態で忙しい時は関係者とか記者とかは顔を見て判断している。顔を知らない人を記者と名乗るだけで入れる訳には行かないと、所長は言った。結局、お互いに連携を密にして緊急事態にも対処しようと言う前向きな話になってしまった。意外も意外、こんな言い訳がスンナリと通ってしまったのだ。

本当は事故の痕跡を消したり、口裏合わせなど、いろいろあったが伝聞だ。私が聞いた話が事実とは限らないので具体例を書くことは出来ない。記者団からは更なる追及はなかった。隠蔽の事実を裏付ける情報を持っていないのか、抗議活動が一定の効果を挙げたので良しとしたのか分からない。

大まかな事実関係は一応明らかになったが、具体的な隠ぺい行為は闇の中となった。以上は、今78歳の私が24歳の時、A空港着任二ヶ月の新人の時に遭遇した事故の記憶である。機長の冷静な対応で着陸後火災も起こさせずに死傷者ゼロ、まさに歴戦の機長(旧軍出身)の腕だけが頼りの緊急着陸だった。壊れた機体は後日、解体し撤去された。
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2019年08月10日

航空事故2-謎の鍵?

A空港出張所はたった6人、一応無線・通信・管制とか別れているが、清掃、除草、除雪、雑用等何でもこの6人でやらなければならない。この事故にも無い知恵絞って全力で対応した。役に立ったかどうかは別としてね。

警官に野次馬を着陸帯から退去してもらいメデタシ・メデタシとは行かなかった。管制塔に帰ろうとして、一階の事務所に入ったら、出張所員と知らない人が揉めていた。この所員は体格が好くて頭は短髪で、べらんめえ口調で話すヤクザ風の人だ。

「鍵かけてあったろ。どうやって入った」と、見知らぬ男を問い詰めている。
「開いてたよ。○○新聞の○○だ。事故の取材に来た。所長に伝えてくれ」
「俺が鍵をかけたんだ。開いてる筈はない。出て行け」
と言って記者を押し出してしまった。実はこれが後で問題になる。

「鍵かけたのにな〜」と所員は首をひねってブツブツ言っている。所長は気配りの行き届く人だった。こんな時こそ日頃お世話になっている航空会社にお返しをしなければならないと決心していた。良い意味でも悪い意味でも家族的、お世話したり、してもらったりの関係である。法令が介入する余地はない。それらは表向きの話と考えているようだ。

所長は会社の隠蔽工作に協力する決心をした。事故機は飛び続け、ニュースは全国に刻々と伝えられている。この時点での成り行きは流動的である。つまり隠蔽が成功するか失敗するか分からない。しかし、経験則では成功する確率が高い。全てが明らかにされるとしてもマスコミが騒いでいる今よりも、下火となった頃の方が良いとの判断である。

記者に対応した所員は所長の命令を素直に実行しただけ。所員は30歳近いが現地での新規採用だ。職を転々とした後で、この職に就いて1年もたっていない。こんな事故に遭ったら私同様、何も考えないで上司の判断に従うだけである。

ところで、新聞記者と所員が揉めていた鍵の問題だが、両方とも言い分は正しい。その時は気付かなかったが、鍵を開けたのは私だった。鍵は中からは簡単に開けらるが外からは鍵を持っていない限り開けられない。

言うまでもないことだが、所員が鍵をかけた → 私が外に出るために開けた → 記者が入って来た→ 私が帰った時に揉めていた、との順番である。この問題はA空港出張所の取材拒否問題としてマスコミから追及される切っ掛けとなった。
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2019年08月03日

初めての航空事故

1964年、A空港着任2ヵ月後、航空事故に遭遇。定期便が着陸に失敗し片側の車輪が破損、片車輪による胴体着陸を決行した。事故機は緊急着陸準備のため空港上空で旋回飛行を続けた。長時間の上空飛行で事故を知った沢山の野次馬が車でやってきた。この時代自家用車を持つ人は前任地東京では少しだけ、この地方の豊かさを知った。

大勢の野次馬は立ち入り禁止の着陸帯(安全のため設けられた滑走路周辺地域)に侵入した。管制塔に事故機から無線で要請があった。「危険だから着陸帯に入っている人達を退去させてください。片足で着陸するので滑走路を大きく外れます」。

なぜか、私が状況を知らせて立ち退かせる役目を命ぜられた。新人の私は管制塔に居ても何もできない。ようやく役目を与えられて張り切った。しかし、広大な着陸帯に散らばる大勢の群衆を退去させられる筈がない。愚かな私は、やってみて初めて分かった。

何百人のも野次馬に向かって声を振り絞って「危険ですから下がって下さい」と怒鳴っても何の反応もない。不思議な顔をして私を見る人がいるだけだ。「この人、気は確かかな?」と思われたらしい。無駄なことだが個別に説得を試みた。

「危険ですから下がってください」
「アンタ誰だよ」
「空港に勤務する管制官です」
「カンセイカンってなんだよ?」
「パイロットが緊急着陸するから危険だと言ってきたのです」
「危険なのは飛んでる方だろ」
「人が邪魔で着陸できないと、あなた方を退去させるように頼まれたのですよ」
「今、飛んでるじゃないか。話せるわけないぺ」
「とにかく、ここは立ち入り禁止です」
「もっと、前に沢山いるだろ。あいつらに言え」

私は普段着、制服も制帽もなくメガホンも、笛も持っていない。第一、訓練も受けていないし、こんな仕事は初めてだ。10人くらいに声をかけたが、クタクタになっただけ、一人も動いてくれなかった。このときは何かあったら私の責任と思って、必死になってやっていた。後で考えれば、本当にやるべきことは何らかの方法で警察に知らせることだ。

機長と交信しながら私に命じた先輩管制官も冷静さを失っている。機長の要請をそのまま見習管制官の私に伝えたのだ。交信は一緒に聴いているから分かる。電話もインターフォンも少人数では対応できない。すべては話し中だ。周囲はテンテコマイで何も機能していない。先輩は警官への伝令として私に命じたのかも知れない。私だってそのくらいの知恵はあるが、現場に行くと警官が一人も見えないのだ。

疲れ果てた頃、警官が何人か来た。ピーと警笛を吹いてメガホンで「ここは立ち入り禁止、あそこまで下がりなさい」といって、警棒で行先を示すと、近くの人達が下がり始め、その後はゾロゾロと付いて行った。警官は予め機長の要請を聞いているようだった。

警察に知らせるべき人は、私たちの他に、航空会社、市役所(A空港の管理者)、主な空港使用者である陸上自衛隊等いろいろある。そのうちのいくつかが機能したのだと思う。後で分かったことっだが、ドタバタして役に立たなかったのは私だけではなかった。

九割の関係者は役に立っていなかったと思う。それに緊急着陸の邪魔になった関係者も多かった。一例を挙げれば、街から駆けつけた消防車、滑走路の端で止まって着陸の妨げになっていた。消防車との通信手段がないので無免許の同僚が車を運転して退去させに行った。消防官は着陸した飛行機を後ろから追って消化するつもりだったと言う。

更に事態を拗らした人もいた。そもそもこの空港は人的にも物的にも緊急着陸を支援する体制はなかったのだ。以上は私の朧気な記憶に過ぎない。時の経過と共に記憶は薄くなり、それを補うように想像の部分が増えて行く。結局はフィクションとなってしまった。
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2019年07月27日

着任したばかりで転勤希望

訓練所でやるのは航空管制官の基礎試験、これに合格しないと現場に行けない。従って、真面目に勉強すれば、最終的には誰でも合格する筆記試験だ。難しいのは現場の実技試験に合格することである。私のように適性のない者にとっては特に難しい。

一番難しい。といってもA空港なら話は別である。仕事そのものが易しいからだ。だからノロマの私でも、何の不安もなく一発で合格した。しかし、合格しても仕事範囲は所属する空港に限定される。これが最大にして唯一の問題だった。

転勤したら新人として、そこで働くための資格を取らなければならない。ノロマの私は危機感を抱いた。管制官と言う仕事は運動選手と同じように適性9割努力1割である。私のような者がA空港に3年も居たら他所では使い物にならないくなる。職を転々とした挙句ようやく就いた安定職場だが、居場所がなくてはやって行けない。

ところで当時、指導的立場にいた先輩管制官は米空軍の訓練を受けてきた。出来が悪いと不適格と決めつけられ、第5空軍司令部経由で本省に連絡が行く。そして職種変更になる。米空軍の現場で認められた人たちだけが管制官になれたのだ。当然、仕事が苦手な人への評価は厳しい。口には出さないがエリミネイトすべきと考えている。eliminateを辞書で引けば、除去する、ふるい落とす、殺す、まである恐ろしい言葉だ。

先輩の苦労話は山ほど聞いていた。A空港にいては、いつまでたっても仕事が覚えられないと、心配になってきた。着任して半年もしないのに、40名の管制官が働くB管制所に転勤希望を出した。所属長に内緒で直接本省に意思を伝えたのだ。マナー違反の感じはするが、背に腹は代えられない。

当時の管制官は忙しい空港だけに配置されていた。A空港は数の上では、かなりの交通量だったが実態は違っていた。スピードの遅い軽飛行機が秩序正しく、整然と離着陸を繰り返す空港だった。空の交通整理を役割とする管制官の必要を感じさせない空港である。

陸上自衛隊の軽飛行機が交通量を押し上げていたのだ。離着陸訓練はタッチ・アンド・ゴーと呼ばれ、着陸したら、直ぐに離陸するので、1機で交通量は2、これが繰り返し実施される。しかも自衛隊と言う組織の中で規律を保ちながらの訓練である。

定期便は1日に3便程度と極めて少なかった。その時は情報を流すだけで、自衛隊機は自主的に離着コースから離れてくれる。仕事は楽だが新人としては凄く焦る。居れば居るほど本当の仕事が分からなくなって来るような気がするのだ。

定年までA空港に居られるのなら熱望するが、そんなことは有り得ない。転勤が遅くなれば年を取り、もともと遅い頭の回転が更に鈍くなる。一刻も早く現状から抜け出したかった。義理と人情を考える余裕はまったくなかった。全部で6人(管制官3人)と言う小さな職場では嫌われて当然だ。その時は、何でみんなでイジメるの、と思っていたけどね(笑)。
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2019年07月20日

訓練所から現場へ

航空管制官の一回目の公募は1954年だが、私の応募は、それから10年たった1964年のことだった。航空保安職員訓練所で新規採用者の名前を呼ばれたが、なかなか呼ばれない、少し心配になったが最後に呼ばれたときはホッとした。

卒業の時は最初に呼ばれたが成績順と思う。訓練所の勉強は、暗記が殆どだ。私はノロマだから覚えるのが遅い、その代わり忘れるのも遅いのだ。職を転々とした私は、何回か初任者訓練を受けたが、どこでも訓練中の成績だけが良くて現場に行ったら全くダメ。これを繰り返していた。身体能力が著しく劣っているのだ。音痴もその一つに過ぎない。

仕事の厳しさ、あるいは自信があるのか知らないが、羽田を希望する訓練生が多かった。私は最も不人気なA空港を希望した。人事担当者は「君の成績なら羽田にも行けるよ」と言いながら、ホッとした顔をしていた。不人気官署に、本人の希望に反して押し込むのは大変なのだ。私は愚かにも暇な空港で楽をすれば後で困るとは気付かなかった。

A空港からは「宿舎あり」との連絡が入ってホッとした。給料が安いので、自分でアパートを借りると月給の半分近く持って行かれる。生活費を相当切り詰めないとやって行けない。私に限らず社宅の有無は求職者にとっては最大の関心事だった。

A市に行くと、いろいろメチャクチャなのでビックリした。先ず物価が高い。東京ではラーメンを35円で食っていたのにA市では80円だ。トーフは一丁10円だったのにA市では40円だ。値引きが常識の家電製品は全て定価販売だった。話は戻るが、A空港に着任の挨拶に行った時はビックリした。宿舎があるという話が嘘であることが分かったのだ。

「ところで、宿舎どちらでしょうか?」
「新婚の人が居てね……」
「私が入る宿舎はあるんですか!」
「アンタ独身だろう。宿直室に泊まったらいいよ」

結局、規定の宿直手当ももらわないで、毎日宿直することになった。後で知ったが当時はよくある話。規則なんてあって無いようなもの。そんな状態で得する人も損する人もいる。一種の無政府状態だが、独特の決まりごとがあり何となく仕事はこなされれていた。

数人しか居ない小官署では規則通りやっていては、スムーズに行かないことは分かるけれど、私は馴染めなかった。それに暇過ぎて管制官としての仕事が身に付きそうもない。3年も居たら私のようなノロマは、完全に仕事が出来なくなる。そのことを恐れて札幌への転勤希望を出した。1年半くらいで転勤になったが、そのときもビックリすることがあった。

札幌に着任すると、遅いと言って叱られた。昨日までA空港で働いていたのに何故遅いと言うのか理解ができなかった。結局、A空港から何も聞いてないことが分かった。半世紀以上前のことだが、理不尽な目に遭うといつまでも覚えている。

実は転勤前にA空港でこんなことがあったのだ。
「〇ちゃんが東京から帰ってこないんだよ。帰ってくるまで働いてくれないか?」
「一日の発令ですからダメでしょ」
「いいんだ、いいんだ、発令があっても1ヶ月も来ないヤツもいるんだから。札幌にはちゃんと話しておくから大丈夫。発令日に合わせて慌てて行くヤツなんかいないよ。観光しながらノンビリ行ったらいいんだよ。アッチは40人、コッチは3人だよ。ドッチが困るか考えればわかるだろう。アンタは融通が利かないからダメなんだ」

汽車の旅は退屈なので、上司が仰るようにノンビリと酒を飲み飲み、風景を楽しみながら行った。札幌に着いたときは出来上がっていたが、訓練所で3ヵ月先輩の友人に電話をした。「あんた何処にいるんだ?」と、いきなり先輩の非難するような声。

「札幌駅……」
「直ぐに出頭しな、5日も遅れているのに何の連絡もないと心配しているから」
「汽車で飲みながら来たから酔っているんだ。明日出頭するつもりだ」
「ダメダメ、直ぐに行きな。俺まで文句言われてるんだ」

訳も分からないまま直ぐに事務所に行ったが、それが仇になった。今度来たヤツは凄い酒飲みだ。5日も遅れて来て着任の挨拶とか言っていたが、酒の匂いがプーンとして、顔が真っ赤っかだった。とか誤解されたが、やっとまともな職場に来たと安堵した。
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2019年06月29日

数字の発音(航空無線)

ノロマだから現場の仕事は苦手だが、管制業務については興味深く感じていた。失業者の私を救ってくれたのが、この仕事だった。当時、航空管制官は問題のある職種として話題になっていた。殆どはマイナスイメージである。責任の割に給料が安いという報道が多かった。ある雑誌にはボロ服を着て管制塔に勤務する惨めな姿も載っていた。

不人気なのが何よりだ。就職のためには絶好のチャンスと思った。職を転々としたが虚弱体質の私にとって肉体労働ほど辛いものはなかった。断って置くが、汗をかいて終わる程度の労働は大好きだ。働いた後のビール程うまいものはないし、好く眠れるので充実感さえ得られる。もし私に人並みの体力があれば転職など考えなかったと思う。

精一杯力を出しているのに、もっと出さなければならない状況が辛いのだ。同僚が軽々持ち上げているものを担げないのも情けないしね。努力しても乗り越えられないものがあることを知るのに数年もかかってしまった。世間は教科書に書いてあるほど甘くない。とにかく辛い肉体労働から解放されるのが唯一の目標となった。

不人気職種にオリンピック景気が重なるという、社会情勢に助けられて航空管制官に採用された。そこは面白いというか、風変わりな英語を使う世界だった。例えば、世界中のパイロットや管制官が使うように定められているフォネティックコードがある。そこで数字の発音に発音記号でなく異なる英単語を使っているのが面白かった。

1 oneはWUN ワン、どういう意味か分からない。とにかく発音はWUN。
2 twoはTOO トゥー、両方とも発音は同じと思うが分かり易い。
3 threeはTREE トゥリー、「th」の発音は苦手だが国際的にも問題なのかな?
4 fourはFOW-er フォウアー、大文字にアクセント。
5 fiveはFIFE ファイフ 、濁らない方がクリアに聞こえるのだろうか?
6 sixはSIX シックスで発音は同じが、人によりSEXと聞こえるのは気のせいか?
7 sevenはSEV-en セブン
8 eightはAIT エイト、意味は分からないが確かにエイト、「gh」は要らない。
9 nineはNIN-er ナイナー、判別し易く聴き易い。
000 thousandはTOU-SAND タウザンド、国際的にも「th」は嫌われている?

「英語表記は読み方を表すもので、つづりは通常の英語と変わりません。また、カタカナ表記は分かりやすく似せたもので、正しい発音とは若干異なる場合があります」との注意書きがついていた。記憶を呼び戻すためネット情報を参考にした。蛇足になるが、英語を知らない私の感想も付け加えてみた。 

ノロマなので現場の仕事は苦手だった。退職したら一日も早く忘れたいと思っていたので、沈黙していた。10年たったら懐かしくなり、ある出来事がきっかけで喋りはじめた。時間がたっても記憶は残るが嫌な思いは消えてしまう。そして懐かしさだけが残っている。

記憶−嫌なこと=懐かしさ。今となっては全て懐かしく、思い出しては楽しんでいる。これが老人というものかな? もしそうならば老人生活は楽しい。おまけに金もかからない。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』通話表
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2019年03月23日

初めてのパソコン

私は人生の半分をパソコンと共に歩んで来た。来年は80歳になるから、初めてパソコンを買ってから40年になる。最初の3年間は一生懸命勉強した、後はやったりやらなかったりで、15年前くらいから全くやらなくなり、10年前には落ちこぼれた。パソコンの世界はこの40年間で様変わりしたので、もうついて行くことが出来ない。

1980年のことだが、これからはパソコンの時代だと考えてMZ80-K2を買った。そして、その通りになったが、私自身はその後の進化について行けず、パソコン落伍者になる。来たるべきスマホ時代には完全に脱落する。幸いそうなっても不思議ではない年齢に達する。来年は憧れの80代になれるのである。優しく援助してもらえるのかな。それとも不要な老人として切り捨てられるのだろうか。楽しみであり心配でもある。ドッチ?

シャープMZ80-K2は記憶装置(現在は主としてハードディスク)がカセットテープという、今では考えられないようなものだった。価格はプリンタとあわせて30万円もした。1980年から2001年まで持っていて、毎年動作確認をした。正常に動いていたが、実用性はゼロ。ただ懐かしむために立ち上げて使用した。鉄製なので重く、塗装が剥げて錆びも出た。パソコンを次から次へと買い替えても、持ち続けた思い出のパソコンである。

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初めて買ったパソコン、右側はデータ保存用カセットテープ・レコーダー。

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21年間も使ったパソコンとプリンタ。プログラミングやデータチェックにはプリンタが必需品だった。廃棄処分前の記念撮影。黒っぽいのはサビが出ている部分。鉄だからね。

月給の安い当時としては高価な買い物なので、やりくりしている妻のことを考えると一生懸命に勉強する姿を見せなけれならなかった。40歳にもなっていたのにね。職場ではようやくコンピュータを導入し、若くて優秀な人を選んで研修に出していた頃である。

物好きと思われながらもパソコンを買ったのには訳があった。単なる新しい物好きではない。酒を止めるキッカケにしたかったのだ。酒は非常に弱いのだが、無理して飲んでいるうちに酒量が増え、20年も飲んでいたら、酒が脳にくるまで飲むようになってしまった。凄く気持ちがよかった。毎日意識を失うような形で就寝していた。

毎朝が二日酔状態なので止めたいと思うのだが止められない。このような状況のとき転勤の話があったので、これを機会に絶対に酒をやめようと決心した。ただ転勤しただけでは止められない。転勤先の仙台でパソコンを買うことに決めていた。当時は新しい物が大好きだった。好きなことと転勤との合わせ技で酒を止めようと考えたのだ。

当時の個人用パソコンはカタカナと英数字しか扱えないので、パソコンの勉強とはプログラム言語の習得を意味した。本格的な勉強は無理だが触りだけでもとの思いだった。それでもプログラムを組んで実行すると順番通り動いてくれることが楽しかった。毎晩酒を呑む代わりにパソコンの前に座ったことを今でも懐かしく、時々思い出す。
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