2017年12月09日

昔の航空路管制

新聞に管制トラブルに関する記事があった。かって働いていた職場なので遠い昔を思い出した。札幌航空交通管制部においての対空通信障害で空港が大混乱だそうだ。約1時間半後に復旧したが、34便が欠航し、遅延が26便あったとのニュースが流れた。ところで航空管制官の約半数は空港ではなく航空機の見えない管制部で働いている。

ふと昔を思い出した。何日間かにわたる長期の障害だが影響は殆ど無かった。交通量が少なく、レーダーもコンピューターもなかった時代だ。当時は我が職場の存在感も薄いなと感じて少し寂しかった。もちろんマスコミ報道もない。1970年代初めの頃だった。  

人手に頼る半世紀前の航空路管制では紙(運航票)と鉛筆と電話さえあれば仕事はできた。無線障害があっても隣接管制機関や空港と専用電話を使って適切な調整をすることで対応できた。しかし今は違う。規模も機能も様変わりだ。

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昔の運航票(コールサイン、ルート、高度、速度等のデータを書き込む)

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約50年前は運航票と無線・有線電話だけ。箱の中はゴム印、これが唯一の工夫。

当時はノンレーダー管制、即ち運航票に各航空機ごとに記載されたデータを見ながら有線・無線電話だけで管制業務をしていた。次にレーダーが入り、最終的には航空路レーダー情報処理システムによる管制業務となった。

この間に交通量も急激に増え仕事も難しくなった。ノンレーダー時代は衝突防止中心の業務だったが、レーダーが入ると秩序ある流れを作ることが重要視された。地上の管制官が飛んでいるパイロットに針路や速度を指示しなければならなくなったのである。40歳すぎてから仕事の質が変わると本当にシンドイ。

ところが最近、面白い研究がされている。パイロットも車のドライバーのように窓の外やミラーを見ながら交通状況を把握できるようにする。航空機同士がデジタル情報を送り合うことによりコックピットのディスプレイに交通状況を表示する研究が進んでいるそうだ。又、管制指示をコンピューターに代替させる研究プロジェクトもあると言う。
航空管制科学研究者へのインタビュー記事。 → 空の旅の裏側に広がる科学の世界


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2017年08月19日

故郷は他人の街

心の故郷は物心がついてから成人になるまで暮らしていた渋谷区金王町である。しかし、「ただいま」とか言って帰れる場所ではない。40歳半ばの頃だが、勤務地の札幌から東京への出張があった。つい懐かしくなり魚屋真ちゃんの家を見に行った。

魚屋は5階建てのビルになっていた。一階が店で二階以上は住居のようだ。真ちゃんとは売れ残りの魚を売りに歩いた仲だった。詳しくは「子供はつらいよ」に書いたので省略する。彼も当時のことを覚えているだろう。私のことは死んだと思っているに違いない。

しかし、私に限らず、我家の人間が近所だった人に会いに行くことはない。合わせる顔がないのだ。親はあちこちに借金をして、全部返したのかどうかも分からない。子供の私だってどんな迷惑をかけて来たかも分からないのだ。これは我が家に限ったことではない。

戦後の発展に取り残されて渋谷から去った貧乏人共通の状況である。出た人間が戻れるわけがないのだが懐かしい。情けないけれど故郷に対する片思いだ。お金持ちは占領軍、城を失った住民は敗残兵のように都内某所、国内某所へと逃れて行った。 

我家だった場所はビルになり一階は居酒屋になっていたので入って飲んだ。もちろん知らない人が営業している。飲んでいる内にいろいろ思い出した。だが私は一見の客。「ここに住んでいたのです」とか言えない。まして昔話などできるわけがない。

ふるさとは遠きにありて思ふもの訪ねたものの募る寂しさ(笑)

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2017年07月01日

管制官採用試験の思い出

1964(昭和39)年は東京はオリンピック景気で浮かれていた。私もしっかりと便乗、好景気に押されて航空管制官採用試験に受かってしまった。中卒で短大程度の試験を受けるのだから3年はかかると考えていたが、体験のつもりで受けたら合格してしまったのだ。実力など無いのだから運が好かったとしか考えられない。

先ずは時の運である。時代は東京オリンピック景気のさなかにあった。民間と比べて公務員、特に国家公務員の給料が著しく安いので人気がなかった。それでも贅沢しなければ食えるのだ。私にとってはそこが肝心。職を転々としてきたので安定こそ全てと考えていた。それで中級職の航空管制官採用試験を受けることに決めたのである。

理由は前回も書いたが20歳から27歳までの男子なら誰でも受けられること。しかも専門試験は英語だけだから頭が悪くても時間と熱意さえあれば合格出来ると考えた。インド通信東京支局にいても電話も滅多にかかって来ないし来客もほとんど居ない。しかも支局長はほとんど取材に出ているので留守番のようなものだ。自由時間はたっぷりある。それに私は公務員にならなければ生きて行けないのだから熱意も充分である。

他の専門試験なら学校に行く必要があるが、英語なら本とノートとラジオがあれば一人でも勉強できる。27歳まで受験資格があるので5回は受けられる。学校に行く金もないし肉体労働も出来ないのだから合格するまで受けるだけだ。極めて困難だがそれしか生きる道がないのだから話は簡単だ。迷いがなければ精神も安定し目標に向かって一直線に進める。仕事中も含めてすべての時間を英語の勉強に使うことに決めた。

勉強の中心はラジオ英語講座、事務所には机があるから勉強しやすい。テレタイプで送られてくるニュースの配信はのんびりと都電に乗っての配達だから車内や停留所でも単語の暗記などはできる。このようにして仕事中でも90%以上の時間を勉強に使えた。仕事が楽なこと時間に余裕があること。この二つの幸運が私に希望を与えてくれた。

退社後はトイレや食事時間を含め全てを勉強にあてた。疲れて横になったら何も分からないのに米軍のラジオ放送を聞いていた。Far East Networkという言葉が頻繁に出てくるが私にはファー・イースト・ナポリとしか聞こえない。聴いて分かった英語はドライブ・セイフリーとセイブ・ユア・マネーくらいである。アメリカ兵にはこの二つが大切なのだろう。

英語に集中したお蔭で悩みが消えた。病気で働けなくなって死ぬという妄想から解放された。気分が安定し充実した毎日を送ることが出来たのである。英語も教養試験も難しくて分からなかったのに、何故か試験に合格した。出来たのは多めに見積もっても半分くらいだった。実際は半分以下かも知れない。ともかく運がついたのだ。

最初の9ヶ月は羽田の訓練所での研修だが外国人留学生が一人居た。発展途上国の若い空軍中尉だった。彼は日本語が出来ないので休み時間には英語で雑談をするが、我々日本人研修生でまともな英会話ができ出来たのはアメリカの航空会社から転職したB君だけだった。出来ない私たちはみっともないカタコトで語り合い笑いあった。

それから約30年後のことだが、国内某所で管制に関する国際会議があった。かってのカタコト同期生がいつの間にか英語ペラペラになっていたのでびっくりした。大勢の前で堂々とスピーチをするし、懇親会では外国人管制官相手にホストとしての役目を立派に果たしていた。その機関では彼が所属長で私はヒラ、つくづく地位は人を作ると感じた。一方私は「枯れ木も山の賑わい」の木々の様に会場片隅の席に植わったままだった。

暇に任せて昔のことを思い出していた。失業していたのに運好く定職につけた。全ての社会環境が私の味方だった。餓えている時に天から飯が降って来た様なものだ。ノロマで体力がないので何処に行っても勤まらず職を転々としていたが、インド通信東京支局で働くようになってから運が向いて来た。支局では英語も少しは必要と言うことで大学生のアルバイトとして引き継ぎられて来たが兄が辞める時に私を入れたのだ。これも運。

人手不足は極まっていた。コツコツ一人勉強の私にまで知人を介してロイター通信社から声がかかったほどだ。それは大卒職種でないので大卒は採れないという理由からだった。しかし高卒の資格は必要と言う。中卒はホントにつらい。知人は私が管制官採用試験を目指して勉強していることを知っていたので高校ぐらい出ているだろうと思い込んでいたらしい。知人も私もガッカリした。

話しは戻るが管制官試験には60名が合格したのに半数くらいしか入って来なかった。しかも研修中に2名辞めたので半分しか管制官にならなかった。これらは後で分かったことで、当時の私は手放しで大喜びしていた。自覚していない才能が受験に触発されて芽吹いたとか勘違いをした。愚かな私は次の目標は上級職試験とか高望みした。

運が好過ぎて英語も身につかない内に採用されてしまった。それなのに目標達成ということで勉強する気がなくなった。根が怠け者の私は公務員なら病気になっても首にはならないだろうと安堵してしまったのだ。本当はそれからが勉強なのに困った性格である。

私は運動が苦手で碁将棋麻雀等のゲームも出来ない、しかも虚弱体質でノロマで音痴だ。それでも仕事が出来れば生きられるが、そんなことはあり得ない。それなのに安定した職に就き定年まで勤めることができた。現在は苦手な仕事からも解放されて幸せに暮らしている。私のように運のいい人はいない。

運悪く現在苦しんでいる人も多いと思う。そのような人たちにとって、私のような低学歴、低体力、低脳力の人間が幸せにノホホンと暮らして居るのを見ると目障りで腹が立つかも知れない。でも勘弁して欲しい。人生最大の苦しみに遭う日も近い。それまでのホンの一瞬のことだから。私はセミ、長い間真っ暗な土の中に居た。そして今、温かくて明るい緑の大地で大木にへばり付いて歌っている。ミーン、ミーンミン♪

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2017年04月08日

くさい仲

「C子さんのことは残念だったな」と先輩は前回のことにひと言触れてくれた。
「そうでもないですよ。一つひとつの出会いが今の私をつくったのです」
「そして出来上がったのが音痴で腰痛でハゲのアンタ」
「老化は誰にでも起きる普通のことです」
「音痴もか」
「毎朝、ドーパミンがドクドク出て来るのです。お蔭様で快感や幸福を感じています」

幸せな時は幸せだなあと思う。しかし、不幸なときは目の前の現実と戦うだけだ。諦めて成り行きに身を任せれば死んでしまう。後になって、あの時は苦労したなと思うものだろう。そして死の恐怖から解放されると新たに襲う漠然とした不安に悩まされる。

「人は一生悩むのかと思っていましたが違いますね」
「アンタは奥さんに嫌われているだろう」
「二、三年前まではね」
「嫌われなくなったら、とたんに幸せになったのか。ちょと情けなくないか」
「いいじゃないですか。今が好けりゃ」

話は昔に戻るが、戦後4年もたつと言うのに私は依然として「焼け跡の子」のままだった。近所で唯一のバラックに住んでいることが、とても恥ずかしかった。バラックとは兵舎の意味もあるが焼トタン等の廃材で焼跡に建てられた仮小屋のこと。既に町内からバラックは消えていた。私の家を除いては。

家から1kmくらいの美竹公園近くに、もう一軒のバラックがあった。そこに同級生が住んでいた。山下という名の女生徒はクラスの仲間外れだった。臭いとか言って誰も近寄らないから何時も一人ぼっちなのだ。

私たち二人は同類で同じ臭気を放っていたと思う。長い間風呂に入らず同じものを着ていれば誰でも臭くなる。小学校ではバラックの子であることを必死になって隠していた。後で考えれば無駄な努力をしたものだ。皆知っていたと思う。臭いで分かるのだから。

「なんで今さら昔の話をするんだ」
「自分史を書こうと思って調べていたら、芋づる式に思い出されて来たのです」
「貧乏くさい話は苦手だな」
「それでは渋谷のダンスホール、ハッピーバレーで踊った話をしましょう」
「嘘だろう。俺が北海道育ちだから知らないと思ったら大間違いだぞ」
「そう言えば先輩はダンスの達人ですね。実はそこで奇妙な出会いがあったのです」

あれから10年たち私も二十歳になっていた。遊び人大学生、高橋君の気まぐれな誘いでダンスホールに行った。よりによって渋谷のハッピーバレーとは場違いの所に行ったものだ。入った途端に気おくれがした。ダンスの得意な高橋君は相手を見つけて踊りまくっている。私は一人残されて居心地が悪かった。そのとき白いワンピースを着た女性が壁を背にして一人で立っているのに気がついた。

何となく寂しそうだがこちらを見ている。私にすれば声をかけ易い感じだ。どこかで見たことがある。なんと、10年前小学校で同級だった悪臭プンプンの山下さんさんではないか。二十歳になっても苛められっ子の面影が残っている。声をかけると黙って組んで来た。しかもダンスが上手な人のようにピッタリとくっついてだ。私は何も話さないし、山下さんも黙ってステップを踏んでいる。沈黙に耐えられず一言発した。

「常磐松(小学校)で一緒でしたね」
「覚えていません」
「鉢山(中学)だったかな?」
「………」

孤独で苦しい10年の果てが今の山下さん姿だろうか。渋谷のダンスホールの片隅に一人っきりで立っていた。昔と違ってサッパリした身なりで微かに香水の香りさえする。だけど清潔な感じはしないし、ダンスを楽しんでいる風にも見えない。

二人とも知り過ぎているような気がして何も話さない。知っていることと言えば話題として楽しくないことばかりだ。お互いに話す気がしないのである。共通点はただ一つ、戦後4年もたっているのに、二人だけがバラックに住んで居る子だったということだ。それだけで何もかも分かったような気がした。恐らく山下さんもそう思っているのだろう。

彼女が無口なのは自分のことは誰も分かってくれないと、諦め切っているからだろう。自分の話を誰にも聞いてもらうことなく、あの世に向かって旅立つのだろうか。苦しみを知っている人のみが持つ真実を知っているのに勿体ない。代わりに聞こえてくるのは謙遜というオブラートで包まれている有名人の自慢話ばかりだ。私は真実を知りたいのに真実を語るべき人は押しなべて無口である。

「アンタが渋谷のハッピーバレーとは驚きだな。踊れるのか」
「田舎のダンスホールでは踊っていましたよ。入場料が40円から100円くらいで、何軒もありました。マンボは前後に歩いてクルリと回るだけ。自己流のジルバが好きでした」
「そんなことではハッピーバレーでは通用しないぞ」
「山下さんとは通じるものがありましたよ」
「誰だ? 山下さんって」
「ここに書いたでしょう。臭い仲の人です」
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2017年04月01日

手紙

東京オリンピックが終わり、1週間たったら私は24歳になっていた。相変わらず一人ぼっちだ。普通の人なら付き合いの中で夢と現実との違いを自然に学ぶのに、孤独な私は自分を顧みるチャンスさえない。映画やテレビドラマを観て空想ばかりしていた。気がついたら変わり者になっていた。

変人の私だが就職して生活が安定すると急に結婚したくなった。しかし、突然そんな気分になっても相手がいない。先ず女性と知り合わなければならないが、これが意外に難しい。いろいろトライしたが、ことごとく失敗した。仕方がないので女性が話し相手になってくれる酒場に行った。1970年代には、そんな楽しい店が沢山あったのだ。懐かしい。

「あれは24歳のときでした。ことの始まりは地方都市のバー『カナイユ』での出会いでした。明るくて可愛いA子さんにプレゼントしたのです。地元銘菓の豪華菓子折りをですね」
「バカなことをしたもんだ。喜ぶわけないだろう」と、遊びの達人である先輩は一蹴。
「仰るとおりです。後で分かりました。だけど失敗は成功の母ですよ」

実は菓子折りの中に手紙を入れたのだ。何を書いたかは想像に任せる。ともかく、それが思わぬ展開の始まりとなったのである。何も知らない私は、A子がお菓子を食べながら手紙を読む姿を想像してニヤニヤしていた。美味しいお菓子と甘い手紙で心が動くと期待したのだ。意外にも動いたのはA子の心でなく菓子折りの方だった。

翌日「カナイユ」に行くと期待に反してB子さんが私の席についた。彼女は地味な顔立ちでガラガラ声だが気立ての好い人だ。人気者のA子は忙しかったのだろう。B子は意味ありげな薄笑いを浮かべていた。手には白い封筒を持っている。なんと! 私が菓子折りに忍ばせてA子に渡そうとした手紙ではないか。それを見た瞬間、頭に血が上り顔が熱くなった。なんたることだ。世の中狂ってる。

「お菓子美味しかったよ。ご馳走様」
「どういたしまして。しかしどうして?」
「A子は太るからって甘いものは食べないのよ。それでもらっちゃた」
「それは良かったですね。ところで……」
「A子宛の手紙みたいだね。とりあえず返すわ」

お菓子のお礼も言ってもらったし手紙も無事に帰って来た。一件落着の感じだが心にしこりが残った。浮かない顔をしているとB子はいきなりクイズをしようと言って勝手に始めた。
「玄関を開けるとセールスマンが立っていました。そして突然、ズボンを下げました。さて、何のセールスでしょうか」
「………」。とてもじゃないけど答える気分ではない。
「は〜い、時間切れ。正解はダスキンで〜す」

何だか意味不明だが、私の鬱憤を晴らそうとしている気持ちだけは伝わって来た。B子の誠実な態度に接し、心が安らぎ少しだけ気分が良くなって来た。ところで、相変わらず相手もいないのに結婚したいという気持だけが先走っている。これは私の性格、どんなことでも始めたら一直線に進むのだ。ほんの短い間だけだが。

突然、B子と結婚したいと思った。好きな人と一緒になるのもいいけれど、一緒になってから好きになるのも悪くないと思った。好きとか嫌いとかは心の問題である。ならば自分でコントロールできるはずだ。それは孤独な私の得意技である。それにB子が喜んで今の仕事をしているようには見えないのだ。善は急げだ、直ぐに実行した。

「私と結婚しませんか」
「人をバカにするんじゃないよ。結婚なんて軽々しく言うもんじゃないんだよ」

バカにもしていないし、軽々しく思ってもいない。しかし考えて見れば求婚は少し早すぎた。”急いては事を仕損じる”とは本当だなと思った。ただ、この人は善人だという自分の直感を信じた。根拠はないのだが何となく分かるのだ。ともかくB子を怒らせてしまった。 やることなすこと全てが上手く行かない。

ところが、数日後B子から紹介したい人がいると電話があった。
「貴方は結婚したいと言ってたでしょう」
「ええ、そうなんですよ。結婚してください。是非お願いします」
「私じゃないよ。私より十歳も若い人よ。貴方に相応しと思ってね」
「ホントですか! ぜひ紹介して下さい。とても嬉しいです。本当に有難うございます」
「喜び過ぎだよ。今、私に求婚したこと忘れたの」

喫茶店で会ったC子さんは、二十歳くらいの可愛い人だった。この人と結婚できると思うと、心がウキウキ、心臓がドキドキした。デートの約束して帰ったが、じっとして居ても落ち着かなくて6畳しかない部屋を歩き回った。畳がフワフワで、まさに地に足がつかない感じだった。ひとめぼれである。恋に落ちるとはこういうことだろうかと思った。

当日、約束の動物園前で待ったがC子は来ない。電話をすると留守だった。そのうち来るだろうと思っていたが結局彼女は来なかった。翌日電話しても留守だった。その翌日に分厚い手紙が届いた。

憂鬱な三日間だったが手紙を読んで全て納得した。次のようなことが書いてあった。C子には気になっている人がいたが、彼が自分のことをどう思っているかが分からない。気持ちがフラフラしているときに結婚話があった。思い切って彼にそのことを打ち明けると彼の気持ちも同じであることが分かった。手紙の文章も内容も私を励まし納得させるのに充分なものだった。

C子は文学の勉強したかったのに親から薬学部を受験するように言われた。受けてはみたものの落ちてしまった。家業の薬局を手伝いながら受験勉強をしていたが身が入らない。かなり悩んでいるようだった。それを精神面で支えてくれたのが幼馴染の彼だった。彼は地方紙の記者をしながら同人誌に小説を書いていた。

10枚以上に及ぶ手紙には、前述のようなことが書かれていた。表現力が豊かで手紙と言うよりも一つの作品になっていた。文章の力は凄いものだと感動。すっぽかされたことなどキレイさっぱり忘れ感心するばかりだった。

私は図らずもキューピットの役目を果たしてしまったのだ。映画『男はつらいよ』の寅さんのようなものだ。恋愛ごっこは正味一日で終ったが本当に足下がフワウワして雲の上を歩いている感じがした。今考えても不思議でならない。

C子が居なければ一生、この不思議な感覚を味わうことがなかっただろう。C子と彼女を紹介してくれたB子に心から感謝した。ついでに菓子折りを開けもしないでB子に上げてしまったA子にも感謝。彼女こそ、このような機会を作ってくれた女神である。ところで、あの菓子折りの中身はB子さんとC子さんが美味しい美味しいと言いながら食べたと思う。

私は外見と内面がアンバランスな人。心の中を覗いてみれば、60年間いささかの進歩もない。昔の少年がそのまま化石になった様なものだ。風采に似合わず心の中では派手なことばかり考えている。歌いたい踊りたいモテたくて仕方がない。それなのに音痴で腰痛で、オマケにハゲだ。夢と現実との乖離が余りにも激しい。悩みは深く思慮浅い。


「二人でお菓子を食べている姿が目に浮かびます」
「いきなり何だ」と先輩は怪訝な顔をする。
「B子さんとC子さんですよ。私のプレゼントを一緒に食べたんじゃないかと思うのです」
「D助も一緒に食ったんじゃあないか」
「デンスケって誰?」
「アンタ宛ての分厚い手紙を書いた奴だよ」
「あれはC子さんが書いたに決まってるでしょう」
「証拠あるか。愚か者めが」

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