2019年08月24日

さらばA空港出張所

前回書いた事故については後日、週刊誌に「A市上空、恐怖の3時間」と言うような見出しで記事になった。今、忘れ去られているのは死傷者がゼロだったからだと思う。ところで事故直後、若い副操縦士は機長の冷静な対応を興奮しながら称えていた。機長がこの程度のことは戦争中は日常茶飯事だ、と言っていたことを今でも覚えている。

1年余りの勤務だが事故はいろいろあった。着陸に失敗してプロペラ破損、ヘリコプターが低空で浮力を失いドスンと落ちて破損、悪天候で着陸禁止の空港に緊急着陸もあった。雲の切れ目に滑走路が見えたので運を天に任せて着陸を強行したと言っていた。

空港は低い雲で覆われ着陸禁止、雲の中からヨロヨロしながら出てくる軽飛行機を見てビックリした。命拾いしたばかりの人の話を聞くのは、これで二度目である。以後このような経験は一度もない。小さな空港だから興奮冷めやらぬ事故後の肉声を聞けたのだ。

A空港に赴任して1年余りで転勤することになった。私の希望が叶ったのだが、空港出張所の人たちにとっては面白くない事態だった。いくら面白くないと言ってもやってはいけないことがあると思う。その頃、普通免許を取得するために自動車学校に自費で通っていた。私が知らない内に退学手続きがとられていたのである。

着任早々、転勤希望を本省に出していたことがバレたせかも知れない。一種の腹いせと思う。面倒見たのに裏切ったと思われたのだ。私が自動車免許を取りたいと言ったとき、所員一同とても喜んでくれ、全面的に協力してくれた。私は内緒で転勤希望を本省に出していた。しかし、直ぐに転勤できるとは思っていなかった。

同僚たちは空港の普通車を使って実技訓練の手伝いをしてくれたのだ。A市は農業の中心都市だから、私有地の農道で運転している人が、道路でで運転するために自動車学校に来る。実技でモタモタするのは、初めて運転する私ぐらいだ。多くの運転できる小母さんたちが街に買い物等の用事をする為に、免許が必要と考えて学校に来るのである。

小さな職場ではお互いが職種を超えて協力しなくてならない。免許取得者が少なかったので仕事のために取ると勘違いしての協力だった。仕事上の必要から無免許で空港内を運転することは多い。一方私はこんな暇なタワーに居たら、いつまでたっても仕事を覚えられない。万一の失業に備えて免許が必要と考えていた。

本人に断りなしで他人の意向で退学をさせられるなんて、頼む方も頼む方だが受ける自動車学校もどうかしている。ここでは私の常識では考えられないことが起こる。ともかく転勤できて有り難い。新任地で文字通り新人として一生懸命ガンバって仕事を覚える覚悟をした。仕事抜きで安定した生活などあり得ない。仕事、仕事、今度こそ仕事。
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2019年08月17日

航空事故3-記者団が抗議

小説とかドラマが好きなのは、フィクションの中にしかない、真実に出会えるからである。一方、私が書くのは自分の曖昧な記憶と直接耳にしたことだけで、事実を示す裏付けが無い。それでも自分が思う真実を伝えたい。それでフィクションというオブラートに包んで語ることにした。根拠のない思い込みで人様に迷惑をかけることは避けたいと思う。

A空港での業務は何から何まで異常だった。一応、A市が管理する空港とはなっていたが、人的にも物的にも体制が整っていなかった。今なら有り得ないけれど、55年も昔のことだから仕方がない。1945年の敗戦で日本の航空業界は既に壊滅していて、再開したと言っても発展途上のヒヨコ程度だった。

元々この空港は緊急着陸に対応できない。故障した航空機が高度を取れなくなり、周囲の山脈を越えられなくなったのだ。当該機が陥った状態は草原に不時着するのに似ていた。ただ滑走路があることと何人かの係員が居ることだけが違っていた。

旅客機が緊急着陸すると言うのに、大きめの消火器を手押し車に載せて一人で滑走路に向かっている人を見た。まるで戦車に向かって竹槍を構えているような感じだ。胴体着陸に対応するには化学消防車が必要である。皆が想定外の出来事に遭遇して、右往左往していた。手に負えなくても何もせずには居られない心理状態に陥ったのである。

A空港出張所は鍵をかけて建物内立入禁止とした。もちろん忙しくて手が回らないことは確かだが、やましいことがなければ記者たちを中に入れても問題はない。見せるのも取材協力だが、見られたり聞かれたくないことがあるから鍵をかけて閉鎖したのである。

結局、正しい情報は東京が先に得ることになり、現地の記者たちは面目丸つぶれになった。後日、現地記者団が抗議のために出張所に押しかけた。そして口々に取材拒否はけしからんといった。

意外にも所長は平然としていた。そして大勢の記者を前にして「あなた方は出張所開設の時、挨拶に来ましたか」と逆質問した。記者たたちはキョトンとしていた。私も挨拶とはこの期に及んで何を言うのかと思った。しかし所長の言うことにも一理あった。

緊急事態で忙しい時は関係者とか記者とかは顔を見て判断している。顔を知らない人を記者と名乗るだけで入れる訳には行かないと、所長は言った。結局、お互いに連携を密にして緊急事態にも対処しようと言う前向きな話になってしまった。意外も意外、こんな言い訳がスンナリと通ってしまったのだ。

本当は事故の痕跡を消したり、口裏合わせなど、いろいろあったが伝聞だ。私が聞いた話が事実とは限らないので具体例を書くことは出来ない。記者団からは更なる追及はなかった。隠蔽の事実を裏付ける情報を持っていないのか、抗議活動が一定の効果を挙げたので良しとしたのか分からない。

大まかな事実関係は一応明らかになったが、具体的な隠ぺい行為は闇の中となった。以上は、今78歳の私が24歳の時、A空港着任二ヶ月の新人の時に遭遇した事故の記憶である。機長の冷静な対応で着陸後火災も起こさせずに死傷者ゼロ、まさに歴戦の機長(旧軍出身)の腕だけが頼りの緊急着陸だった。壊れた機体は後日、解体し撤去された。
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2019年08月10日

航空事故2-謎の鍵?

A空港出張所はたった6人、一応無線・通信・管制とか別れているが、清掃、除草、除雪、雑用等何でもこの6人でやらなければならない。この事故にも無い知恵絞って全力で対応した。役に立ったかどうかは別としてね。

警官に野次馬を着陸帯から退去してもらいメデタシ・メデタシとは行かなかった。管制塔に帰ろうとして、一階の事務所に入ったら、出張所員と知らない人が揉めていた。この所員は体格が好くて頭は短髪で、べらんめえ口調で話すヤクザ風の人だ。

「鍵かけてあったろ。どうやって入った」と、見知らぬ男を問い詰めている。
「開いてたよ。○○新聞の○○だ。事故の取材に来た。所長に伝えてくれ」
「俺が鍵をかけたんだ。開いてる筈はない。出て行け」
と言って記者を押し出してしまった。実はこれが後で問題になる。

「鍵かけたのにな〜」と所員は首をひねってブツブツ言っている。所長は気配りの行き届く人だった。こんな時こそ日頃お世話になっている航空会社にお返しをしなければならないと決心していた。良い意味でも悪い意味でも家族的、お世話したり、してもらったりの関係である。法令が介入する余地はない。それらは表向きの話と考えているようだ。

所長は会社の隠蔽工作に協力する決心をした。事故機は飛び続け、ニュースは全国に刻々と伝えられている。この時点での成り行きは流動的である。つまり隠蔽が成功するか失敗するか分からない。しかし、経験則では成功する確率が高い。全てが明らかにされるとしてもマスコミが騒いでいる今よりも、下火となった頃の方が良いとの判断である。

記者に対応した所員は所長の命令を素直に実行しただけ。所員は30歳近いが現地での新規採用だ。職を転々とした後で、この職に就いて1年もたっていない。こんな事故に遭ったら私同様、何も考えないで上司の判断に従うだけである。

ところで、新聞記者と所員が揉めていた鍵の問題だが、両方とも言い分は正しい。その時は気付かなかったが、鍵を開けたのは私だった。鍵は中からは簡単に開けらるが外からは鍵を持っていない限り開けられない。

言うまでもないことだが、所員が鍵をかけた → 私が外に出るために開けた → 記者が入って来た→ 私が帰った時に揉めていた、との順番である。この問題はA空港出張所の取材拒否問題としてマスコミから追及される切っ掛けとなった。
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2019年08月03日

初めての航空事故

1964年、A空港着任2ヵ月後、航空事故に遭遇。定期便が着陸に失敗し片側の車輪が破損、片車輪による胴体着陸を決行した。事故機は緊急着陸準備のため空港上空で旋回飛行を続けた。長時間の上空飛行で事故を知った沢山の野次馬が車でやってきた。この時代自家用車を持つ人は前任地東京では少しだけ、この地方の豊かさを知った。

大勢の野次馬は立ち入り禁止の着陸帯(安全のため設けられた滑走路周辺地域)に侵入した。管制塔に事故機から無線で要請があった。「危険だから着陸帯に入っている人達を退去させてください。片足で着陸するので滑走路を大きく外れます」。

なぜか、私が状況を知らせて立ち退かせる役目を命ぜられた。新人の私は管制塔に居ても何もできない。ようやく役目を与えられて張り切った。しかし、広大な着陸帯に散らばる大勢の群衆を退去させられる筈がない。愚かな私は、やってみて初めて分かった。

何百人のも野次馬に向かって声を振り絞って「危険ですから下がって下さい」と怒鳴っても何の反応もない。不思議な顔をして私を見る人がいるだけだ。「この人、気は確かかな?」と思われたらしい。無駄なことだが個別に説得を試みた。

「危険ですから下がってください」
「アンタ誰だよ」
「空港に勤務する管制官です」
「カンセイカンってなんだよ?」
「パイロットが緊急着陸するから危険だと言ってきたのです」
「危険なのは飛んでる方だろ」
「人が邪魔で着陸できないと、あなた方を退去させるように頼まれたのですよ」
「今、飛んでるじゃないか。話せるわけないぺ」
「とにかく、ここは立ち入り禁止です」
「もっと、前に沢山いるだろ。あいつらに言え」

私は普段着、制服も制帽もなくメガホンも、笛も持っていない。第一、訓練も受けていないし、こんな仕事は初めてだ。10人くらいに声をかけたが、クタクタになっただけ、一人も動いてくれなかった。このときは何かあったら私の責任と思って、必死になってやっていた。後で考えれば、本当にやるべきことは何らかの方法で警察に知らせることだ。

機長と交信しながら私に命じた先輩管制官も冷静さを失っている。機長の要請をそのまま見習管制官の私に伝えたのだ。交信は一緒に聴いているから分かる。電話もインターフォンも少人数では対応できない。すべては話し中だ。周囲はテンテコマイで何も機能していない。先輩は警官への伝令として私に命じたのかも知れない。私だってそのくらいの知恵はあるが、現場に行くと警官が一人も見えないのだ。

疲れ果てた頃、警官が何人か来た。ピーと警笛を吹いてメガホンで「ここは立ち入り禁止、あそこまで下がりなさい」といって、警棒で行先を示すと、近くの人達が下がり始め、その後はゾロゾロと付いて行った。警官は予め機長の要請を聞いているようだった。

警察に知らせるべき人は、私たちの他に、航空会社、市役所(A空港の管理者)、主な空港使用者である陸上自衛隊等いろいろある。そのうちのいくつかが機能したのだと思う。後で分かったことっだが、ドタバタして役に立たなかったのは私だけではなかった。

九割の関係者は役に立っていなかったと思う。それに緊急着陸の邪魔になった関係者も多かった。一例を挙げれば、街から駆けつけた消防車、滑走路の端で止まって着陸の妨げになっていた。消防車との通信手段がないので無免許の同僚が車を運転して退去させに行った。消防官は着陸した飛行機を後ろから追って消化するつもりだったと言う。

更に事態を拗らした人もいた。そもそもこの空港は人的にも物的にも緊急着陸を支援する体制はなかったのだ。以上は私の朧気な記憶に過ぎない。時の経過と共に記憶は薄くなり、それを補うように想像の部分が増えて行く。結局はフィクションとなってしまった。
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2019年07月27日

着任したばかりで転勤希望

訓練所でやるのは航空管制官の基礎試験、これに合格しないと現場に行けない。従って、真面目に勉強すれば、最終的には誰でも合格する筆記試験だ。難しいのは現場の実技試験に合格することである。私のように適性のない者にとっては特に難しい。

一番難しい。といってもA空港なら話は別である。仕事そのものが易しいからだ。だからノロマの私でも、何の不安もなく一発で合格した。しかし、合格しても仕事範囲は所属する空港に限定される。これが最大にして唯一の問題だった。

転勤したら新人として、そこで働くための資格を取らなければならない。ノロマの私は危機感を抱いた。管制官と言う仕事は運動選手と同じように適性9割努力1割である。私のような者がA空港に3年も居たら他所では使い物にならないくなる。職を転々とした挙句ようやく就いた安定職場だが、居場所がなくてはやって行けない。

ところで当時、指導的立場にいた先輩管制官は米空軍の訓練を受けてきた。出来が悪いと不適格と決めつけられ、第5空軍司令部経由で本省に連絡が行く。そして職種変更になる。米空軍の現場で認められた人たちだけが管制官になれたのだ。当然、仕事が苦手な人への評価は厳しい。口には出さないがエリミネイトすべきと考えている。eliminateを辞書で引けば、除去する、ふるい落とす、殺す、まである恐ろしい言葉だ。

先輩の苦労話は山ほど聞いていた。A空港にいては、いつまでたっても仕事が覚えられないと、心配になってきた。着任して半年もしないのに、40名の管制官が働くB管制所に転勤希望を出した。所属長に内緒で直接本省に意思を伝えたのだ。マナー違反の感じはするが、背に腹は代えられない。

当時の管制官は忙しい空港だけに配置されていた。A空港は数の上では、かなりの交通量だったが実態は違っていた。スピードの遅い軽飛行機が秩序正しく、整然と離着陸を繰り返す空港だった。空の交通整理を役割とする管制官の必要を感じさせない空港である。

陸上自衛隊の軽飛行機が交通量を押し上げていたのだ。離着陸訓練はタッチ・アンド・ゴーと呼ばれ、着陸したら、直ぐに離陸するので、1機で交通量は2、これが繰り返し実施される。しかも自衛隊と言う組織の中で規律を保ちながらの訓練である。

定期便は1日に3便程度と極めて少なかった。その時は情報を流すだけで、自衛隊機は自主的に離着コースから離れてくれる。仕事は楽だが新人としては凄く焦る。居れば居るほど本当の仕事が分からなくなって来るような気がするのだ。

定年までA空港に居られるのなら熱望するが、そんなことは有り得ない。転勤が遅くなれば年を取り、もともと遅い頭の回転が更に鈍くなる。一刻も早く現状から抜け出したかった。義理と人情を考える余裕はまったくなかった。全部で6人(管制官3人)と言う小さな職場では嫌われて当然だ。その時は、何でみんなでイジメるの、と思っていたけどね(笑)。
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2019年07月20日

訓練所から現場へ

航空管制官の一回目の公募は1954年だが、私の応募は、それから10年たった1964年のことだった。航空保安職員訓練所で新規採用者の名前を呼ばれたが、なかなか呼ばれない、少し心配になったが最後に呼ばれたときはホッとした。

卒業の時は最初に呼ばれたが成績順と思う。訓練所の勉強は、暗記が殆どだ。私はノロマだから覚えるのが遅い、その代わり忘れるのも遅いのだ。職を転々とした私は、何回か初任者訓練を受けたが、どこでも訓練中の成績だけが良くて現場に行ったら全くダメ。これを繰り返していた。身体能力が著しく劣っているのだ。音痴もその一つに過ぎない。

仕事の厳しさ、あるいは自信があるのか知らないが、羽田を希望する訓練生が多かった。私は最も不人気なA空港を希望した。人事担当者は「君の成績なら羽田にも行けるよ」と言いながら、ホッとした顔をしていた。不人気官署に、本人の希望に反して押し込むのは大変なのだ。私は愚かにも暇な空港で楽をすれば後で困るとは気付かなかった。

A空港からは「宿舎あり」との連絡が入ってホッとした。給料が安いので、自分でアパートを借りると月給の半分近く持って行かれる。生活費を相当切り詰めないとやって行けない。私に限らず社宅の有無は求職者にとっては最大の関心事だった。

A市に行くと、いろいろメチャクチャなのでビックリした。先ず物価が高い。東京ではラーメンを35円で食っていたのにA市では80円だ。トーフは一丁10円だったのにA市では40円だ。値引きが常識の家電製品は全て定価販売だった。話は戻るが、A空港に着任の挨拶に行った時はビックリした。宿舎があるという話が嘘であることが分かったのだ。

「ところで、宿舎どちらでしょうか?」
「新婚の人が居てね……」
「私が入る宿舎はあるんですか!」
「アンタ独身だろう。宿直室に泊まったらいいよ」

結局、規定の宿直手当ももらわないで、毎日宿直することになった。後で知ったが当時はよくある話。規則なんてあって無いようなもの。そんな状態で得する人も損する人もいる。一種の無政府状態だが、独特の決まりごとがあり何となく仕事はこなされれていた。

数人しか居ない小官署では規則通りやっていては、スムーズに行かないことは分かるけれど、私は馴染めなかった。それに暇過ぎて管制官としての仕事が身に付きそうもない。3年も居たら私のようなノロマは、完全に仕事が出来なくなる。そのことを恐れて札幌への転勤希望を出した。1年半くらいで転勤になったが、そのときもビックリすることがあった。

札幌に着任すると、遅いと言って叱られた。昨日までA空港で働いていたのに何故遅いと言うのか理解ができなかった。結局、A空港から何も聞いてないことが分かった。半世紀以上前のことだが、理不尽な目に遭うといつまでも覚えている。

実は転勤前にA空港でこんなことがあったのだ。
「〇ちゃんが東京から帰ってこないんだよ。帰ってくるまで働いてくれないか?」
「一日の発令ですからダメでしょ」
「いいんだ、いいんだ、発令があっても1ヶ月も来ないヤツもいるんだから。札幌にはちゃんと話しておくから大丈夫。発令日に合わせて慌てて行くヤツなんかいないよ。観光しながらノンビリ行ったらいいんだよ。アッチは40人、コッチは3人だよ。ドッチが困るか考えればわかるだろう。アンタは融通が利かないからダメなんだ」

汽車の旅は退屈なので、上司が仰るようにノンビリと酒を飲み飲み、風景を楽しみながら行った。札幌に着いたときは出来上がっていたが、訓練所で3ヵ月先輩の友人に電話をした。「あんた何処にいるんだ?」と、いきなり先輩の非難するような声。

「札幌駅……」
「直ぐに出頭しな、5日も遅れているのに何の連絡もないと心配しているから」
「汽車で飲みながら来たから酔っているんだ。明日出頭するつもりだ」
「ダメダメ、直ぐに行きな。俺まで文句言われてるんだ」

訳も分からないまま直ぐに事務所に行ったが、それが仇になった。今度来たヤツは凄い酒飲みだ。5日も遅れて来て着任の挨拶とか言っていたが、酒の匂いがプーンとして、顔が真っ赤っかだった。とか誤解されたが、やっとまともな職場に来たと安堵した。
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2019年06月29日

数字の発音(航空無線)

ノロマだから現場の仕事は苦手だが、管制業務については興味深く感じていた。失業者の私を救ってくれたのが、この仕事だった。当時、航空管制官は問題のある職種として話題になっていた。殆どはマイナスイメージである。責任の割に給料が安いという報道が多かった。ある雑誌にはボロ服を着て管制塔に勤務する惨めな姿も載っていた。

不人気なのが何よりだ。就職のためには絶好のチャンスと思った。職を転々としたが虚弱体質の私にとって肉体労働ほど辛いものはなかった。断って置くが、汗をかいて終わる程度の労働は大好きだ。働いた後のビール程うまいものはないし、好く眠れるので充実感さえ得られる。もし私に人並みの体力があれば転職など考えなかったと思う。

精一杯力を出しているのに、もっと出さなければならない状況が辛いのだ。同僚が軽々持ち上げているものを担げないのも情けないしね。努力しても乗り越えられないものがあることを知るのに数年もかかってしまった。世間は教科書に書いてあるほど甘くない。とにかく辛い肉体労働から解放されるのが唯一の目標となった。

不人気職種にオリンピック景気が重なるという、社会情勢に助けられて航空管制官に採用された。そこは面白いというか、風変わりな英語を使う世界だった。例えば、世界中のパイロットや管制官が使うように定められているフォネティックコードがある。そこで数字の発音に発音記号でなく異なる英単語を使っているのが面白かった。

1 oneはWUN ワン、どういう意味か分からない。とにかく発音はWUN。
2 twoはTOO トゥー、両方とも発音は同じと思うが分かり易い。
3 threeはTREE トゥリー、「th」の発音は苦手だが国際的にも問題なのかな?
4 fourはFOW-er フォウアー、大文字にアクセント。
5 fiveはFIFE ファイフ 、濁らない方がクリアに聞こえるのだろうか?
6 sixはSIX シックスで発音は同じが、人によりSEXと聞こえるのは気のせいか?
7 sevenはSEV-en セブン
8 eightはAIT エイト、意味は分からないが確かにエイト、「gh」は要らない。
9 nineはNIN-er ナイナー、判別し易く聴き易い。
000 thousandはTOU-SAND タウザンド、国際的にも「th」は嫌われている?

「英語表記は読み方を表すもので、つづりは通常の英語と変わりません。また、カタカナ表記は分かりやすく似せたもので、正しい発音とは若干異なる場合があります」との注意書きがついていた。記憶を呼び戻すためネット情報を参考にした。蛇足になるが、英語を知らない私の感想も付け加えてみた。 

ノロマなので現場の仕事は苦手だった。退職したら一日も早く忘れたいと思っていたので、沈黙していた。10年たったら懐かしくなり、ある出来事がきっかけで喋りはじめた。時間がたっても記憶は残るが嫌な思いは消えてしまう。そして懐かしさだけが残っている。

記憶−嫌なこと=懐かしさ。今となっては全て懐かしく、思い出しては楽しんでいる。これが老人というものかな? もしそうならば老人生活は楽しい。おまけに金もかからない。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』通話表
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2019年03月23日

初めてのパソコン

私は人生の半分をパソコンと共に歩んで来た。来年は80歳になるから、初めてパソコンを買ってから40年になる。最初の3年間は一生懸命勉強した、後はやったりやらなかったりで、15年前くらいから全くやらなくなり、10年前には落ちこぼれた。パソコンの世界はこの40年間で様変わりしたので、もうついて行くことが出来ない。

1980年のことだが、これからはパソコンの時代だと考えてMZ80-K2を買った。そして、その通りになったが、私自身はその後の進化について行けず、パソコン落伍者になる。来たるべきスマホ時代には完全に脱落する。幸いそうなっても不思議ではない年齢に達する。来年は憧れの80代になれるのである。優しく援助してもらえるのかな。それとも不要な老人として切り捨てられるのだろうか。楽しみであり心配でもある。ドッチ?

シャープMZ80-K2は記憶装置(現在は主としてハードディスク)がカセットテープという、今では考えられないようなものだった。価格はプリンタとあわせて30万円もした。1980年から2001年まで持っていて、毎年動作確認をした。正常に動いていたが、実用性はゼロ。ただ懐かしむために立ち上げて使用した。鉄製なので重く、塗装が剥げて錆びも出た。パソコンを次から次へと買い替えても、持ち続けた思い出のパソコンである。

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初めて買ったパソコン、右側はデータ保存用カセットテープ・レコーダー。

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21年間も使ったパソコンとプリンタ。プログラミングやデータチェックにはプリンタが必需品だった。廃棄処分前の記念撮影。黒っぽいのはサビが出ている部分。鉄だからね。

月給の安い当時としては高価な買い物なので、やりくりしている妻のことを考えると一生懸命に勉強する姿を見せなけれならなかった。40歳にもなっていたのにね。職場ではようやくコンピュータを導入し、若くて優秀な人を選んで研修に出していた頃である。

物好きと思われながらもパソコンを買ったのには訳があった。単なる新しい物好きではない。酒を止めるキッカケにしたかったのだ。酒は非常に弱いのだが、無理して飲んでいるうちに酒量が増え、20年も飲んでいたら、酒が脳にくるまで飲むようになってしまった。凄く気持ちがよかった。毎日意識を失うような形で就寝していた。

毎朝が二日酔状態なので止めたいと思うのだが止められない。このような状況のとき転勤の話があったので、これを機会に絶対に酒をやめようと決心した。ただ転勤しただけでは止められない。転勤先の仙台でパソコンを買うことに決めていた。当時は新しい物が大好きだった。好きなことと転勤との合わせ技で酒を止めようと考えたのだ。

当時の個人用パソコンはカタカナと英数字しか扱えないので、パソコンの勉強とはプログラム言語の習得を意味した。本格的な勉強は無理だが触りだけでもとの思いだった。それでもプログラムを組んで実行すると順番通り動いてくれることが楽しかった。毎晩酒を呑む代わりにパソコンの前に座ったことを今でも懐かしく、時々思い出す。
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2018年03月24日

ワリカン要員

今では交流会などの宴会は大好きで進んで参加しているが、在職中は宴会が大嫌いだった。定年退職当時、一番嬉しかったことは「もう宴会に出なくてよい」ことだった。こんな幸せなことはないとまで思っていた。酒には弱いけれど嫌いではなかった。しかし職場の懇親会は大嫌いだった。多くの同僚が嫌がっている。単なる悪習慣と思う。

地方では中央からエライさんが出張して来ると懇親会をする。そんな時、中央から来たお客さんに会費を払えとは言えないだろう。その分は会費に上乗せされる。参加者が少ないと出た人の負担が多くなり困るのだ。

お客さんが3人居もいたら更に大変。幹事はワリカン要員を沢山集めなければならない。ほとんどの同僚が嫌々参加しているのに自分だけ逃げるわけには行かない。又宴会かと思うけれど、「アンタ、今月は2回しか出てないな俺なんか6回だ」と幹事役の同僚から言われれば出ないわけに行かない。幹事をこれ以上悩ませられない。

しかし、宴会が好きな人もいる。飲むことが無条件で好きな人。そして、中央から来たエライさんと仲良くなろうとする人。しかし8割は嫌々参加、割り前さえ払えば浮世の義理は果たしたと思っている。

お客さんのことなど眼中にない。ひたすら食って飲んで騒いでいる。ワリカン負けしないように頑張っているのだ。なんの為の懇親会だろう。それでもお客さんに擦り寄って行く人は次々と現れるから心配はない。お客さんは「札幌の人は明るくていいですね。元気もらいました」とか言って満足して帰る。ワリカン要員も雰囲気作りに貢献しているのだ。

矛盾した状態の中で得をする人も居る。それは職場のエライさんだ。そのときばかりはワリカン要員になりきっている。中央のエライさんをお安くおもてなしできるのだ。月給は高いが会費は平等だ。何でこんな習慣が出来たのか今考えても分からない。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
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2018年03月17日

同僚の事故死

1980年頃はW市にある研修機関で働いていたが、3年過ぎて現場に帰ることになった。収入が増えるのは有り難いが、苦手な現場で働くのは気が重く複雑な心境だ。S空港から千歳に向かう前、S管制塔で働く友人に別れの挨拶に行った。

忙しいはずの管制塔がやけに静かだった。友人の話では小型機が着陸に失敗し滑走路閉鎖の状態だそうだ。そう言えば航空機が一機も飛んでいない。今日中にに千歳に行けるだろうかと心配になった。人身事故なので警察で捜査しなければならない。事故機は既に撤去されたと聞いてホッとした。大きな遅れはないだろう。その時は事故で死者が出たことも、同僚だったAさんが乗っていたことも知らなかった。

Aさんが命を落としたことを知ったのは、札幌に着いてからだった。 彼はアマチュアパイロットだが、事業用操縦士のライセンスを持っていた。同じアパートに住んでいたので、彼の車に同乗して帰ることが多かった。車中でよく雑談をした。

訓練中の(アマチュア)パイロットの面倒をみているんだとよく言っていた。判事って偉いのかと聞いてから、実は今度の訓練生は判事なんだと得意そうに言う。アマチュアだが気分は教官である。実際もそうらしい。彼が居なければ飛行機も借りられないし飛ばすことも出来ない。Aさんは独身のとき生活費を切り詰めて費用を捻出し、アメリカで飛行訓練を受けてライセンスを取得した。

新聞には乗員2名死亡と書いてあった。無口な奥さんの顔を思い出す。いつか彼がこんなことを言ったことがあるからだ。「金を貯めて女房にボタン屋をさせるんだ。ボタンは腐らないから素人でも出来る。あらゆるボタンをそろえて置けば、そこそこの商売になるんじゃないか。そうすれば年金のたしまいになるだろぅ」。

あれほど慎重な人が、こんな最後を遂げるなんて、人生は何が起こるか分からないものだ。私より少しだけ若くて意思の強い人だった。何をやっても出来る人だが飛行機の操縦が何よりも好きだった。存命ならば70歳を過ぎた今でも飛び続けたことだろう。堅実で慎重な人だから年金とボタン屋で稼げる範囲で楽しい余生を送っていたことご思う。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
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2018年02月10日

消え去る事実

仮に善を白、悪を黒とすると、国も会社も家族を含むあらゆる組織も灰色だ。そして個人も灰色。それらが白黒混じり合って複雑な社会を作っている。ドラマなら面白いが現実だから楽じゃない。どこに真実があるのだろう。

片隅で働く私でも在職中に2回、新聞の1面をにぎわす大事件の関係者になった。いずれも話題性抜群で何週間にもわたる大キャンペーンが続いた。1件は新聞中心、もう1件は週刊誌中心の報道と記憶している。

その経験の中で分かったことは、報道された内容の大部分は事実だが、肝心なところは殆ど抜けている。再発防止に一番役に立つ情報が心ならずも隠される。関係者は退職覚悟でなければ話せない。喋れば世の中の為には良いが身近な人に迷惑が及ぶ。そのうえ話した本人は失業だ。

在職中はいろいろな矛盾に向き合わなければならない。もっとも衝撃的だったのは仕事中に突然発狂した人を見たこと。私の上司で正義感の強い人だった。目つきが全く変わってしまい、何というか視線が中空を漂っている感じだ。意味不明なことを口走っていた。間もなく救急車が来て病院に連れ去られた。彼は陰で「世直し課長」と呼ばれていた。

業務移管で米軍から日本に引き継がれて間もない職場は、群雄割拠状態で混乱していた。この辺りは事件の核心なので記したいと思った。しかし実際に書き出してみると、それぞれの事件は余りにも複雑怪奇で書けない。たとえ書いても友人だった関係者に迷惑をかけるだけで終わるような気がしてきた。

このような思いは誰にもあると思う。誰もが矛盾した灰色の社会に属し、特殊な体験をしている。しかし表に出ることはない。多くの人は心の中にしまって墓場までもって行く。より良い社会を築くために貴重な情報が肉体の消滅と共に消えてしまう。実に勿体ない。ビッグデータを解析できるようになったのだから何とかして歴史に反映してほしい。
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2017年12月09日

昔の航空路管制

新聞に管制トラブルに関する記事があった。かって働いていた職場なので遠い昔を思い出した。札幌航空交通管制部においての対空通信障害で空港が大混乱だそうだ。約1時間半後に復旧したが、34便が欠航し、遅延が26便あったとのニュースが流れた。ところで航空管制官の約半数は空港ではなく航空機の見えない管制部で働いている。

ふと昔を思い出した。何日間かにわたる長期の障害だが影響は殆ど無かった。交通量が少なく、レーダーもコンピューターもなかった時代だ。当時は我が職場の存在感も薄いなと感じて少し寂しかった。もちろんマスコミ報道もない。1970年代初めの頃だった。  

人手に頼る半世紀前の航空路管制では紙(運航票)と鉛筆と電話さえあれば仕事はできた。無線障害があっても隣接管制機関や空港と専用電話を使って適切な調整をすることで対応できた。しかし今は違う。規模も機能も様変わりだ。

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昔の運航票(コールサイン、ルート、高度、速度等のデータを書き込む)

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約50年前は運航票と無線・有線電話だけ。箱の中はゴム印、これが唯一の工夫。

当時はノンレーダー管制、即ち運航票に各航空機ごとに記載されたデータを見ながら有線・無線電話だけで管制業務をしていた。次にレーダーが入り、最終的には航空路レーダー情報処理システムによる管制業務となった。

この間に交通量も急激に増え仕事も難しくなった。ノンレーダー時代は衝突防止中心の業務だったが、レーダーが入ると秩序ある流れを作ることが重要視された。地上の管制官が飛んでいるパイロットに針路や速度を指示しなければならなくなったのである。40歳すぎてから仕事の質が変わると本当にシンドイ。

ところが最近、面白い研究がされている。パイロットも車のドライバーのように窓の外やミラーを見ながら交通状況を把握できるようにする。航空機同士がデジタル情報を送り合うことによりコックピットのディスプレイに交通状況を表示する研究が進んでいるそうだ。又、管制指示をコンピューターに代替させる研究プロジェクトもあると言う。
航空管制科学研究者へのインタビュー記事。 → 空の旅の裏側に広がる科学の世界


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