2017年08月05日

ホニャララの研究

孤独で人付き合いが苦手なのに人について書くのが大好きだ。世の中で一番面白いのが人。笑わして幸せにしてくれるのも人、苛めてボコボコにしてくれるのも人である。

「人間とは不思議な動物ですね」
「万物の霊長を動物と言ってはいけない」と先輩は厳かに言った。
「私を幸せにするのも人間、不幸のどん底に突き落とすのも人間です」
「信念がないから人の言うことばかり気になるんだよ」
「だけど周りが良い人ばかりでもダメですね」
「なんだと?」
「私が一番悪い人間になってしまいます。きっと周りは不幸になるでしょう」

人間は複雑怪奇で興味津々、テーマとしては最高なのだが孤独な私は人間を知らない。結局自分を書くことにした。それだけでは場が持たないから母さんも先輩も登場する。いずれも40年以上の付き合いだ。この二人から書くための多くのヒントをもらっている。

ところで去年の秋、とても良いニュースがあった。大隅良典教授が酵母の研究でノーベル賞に輝いたのだ、その研究を始めたのは「人がやらないことをやろう」という思いからだそうだ。「あまり競争が好きではないし、誰も取り組んでいないことをやる方がとても楽しい」とも言っていた。競争が好きでないのに大好きな人たちを出し抜いて勝ってしまった。

「実は私も人のやらないことをやるのが大好きなのです」
「それだけじゃダメだ。なにか発見でもしたか」
「いいえ」
「何か業績でも残したのか」
「ぜんぜん」
「人がやらないことって何だ」
「それは今までに発見も発明もされず、考えられてもいないホニャララです」
「ホニャララって何だ?」
「まだ名前が付いていないからホニャララなのです」

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2017年07月29日

自分探しの旅

妻をお母さんと呼ぶ夫は少なくないが、私は本気になって自分を子供と思い込もうとしている。いい歳して困ったもんだが仕方がない。人として対等と思っていたころは争いが絶えなかった。試みに「親子」になってみたら全てが解消された。こんな訳で子役を演じている。

「お母さん、ちょっと自分探しの旅に行ってきます」
「探しに行かなくても、アンタはそこに居るじゃない」
「ここに居るのは私の抜け殻です」
「ああそうかい。そんならご飯は要らないんだね」

私の旅は自分の脳の中を歩き回ること。過去ぬきで現在の自分を知ることはできない。生まれてから22歳に至るまで私の実在を示す証拠は二つしない。母に抱かれた写真と戸籍謄本だけだ。職を求めて転々としていた間に全ての物品を失ったのだ。

「ヒマならパン買って来て。ボストンベイクのイギリスパンだよ」
「はい、分かりました。行って来ます」

「遅かったね
「ボストンとかイギリスとかで探すのに骨折れました」
「自分探しより簡単でしょ」
「あ、そうだ。行かなくちゃあ」
「どこ行くの?」
「自分の部屋です」

自分探しと言う言葉をよく聞くが、私は文字通り自分を捜している。いかなる人間が今の私になったのか。自分を知るには自分の歴史を知る必要がある。うろ覚えの記憶だけが頼りの心の旅。空白の22年間を書くこにより自分を取り戻したい。抜け殻はごめんだ。

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2017年07月22日

親子はつらいよ

何の取り柄もないないが運だけは強い。振り返ってみれば人並みにいろいろあったけれど、運よく乗り越えられた。一方、自分の意志で企画実行し成功したことは一つしかない。それは定年後の絶え間ない喧嘩に終止符を打ち、我が家に平和をもたらした事である。計画通りにことは運び大成功と思っていたが、なぜかスッキリしない。

私は東京渋谷区青山の焼跡育ち、米軍の空襲で渋谷区の77%が焼け野原になった。食うや食わずの人々の暮らしは悲惨を極めた。共通の願いは楽をすることだった。そして今、私は楽をしている。夢は現実となったのだ。だが定年退職をして無職になり、いきなり楽になった訳ではない。家に根を張った抵抗勢力がドンと構えていたのだ。老妻もまた、更に楽が出来ると期待していた様だ。

「定年おめでとう。やっと夢が叶ったね」
「お陰様で無事に定年を迎えました。今まで有難うございました」
「これからは家事も半分ずつにしよう」
「そうですね」

とは言ったものの内心は穏やかでなかった。慣れないことをやるのは苦行だ。それに私のやり方を気に入るはずがない。なんやかやとイチャモンをつけられるに決まっている。

その後の10年は悲惨だった。何をするにも意見が合わずケンカをしては負かされていた。私が筋道を立てて説明しても「悪いのはアンタだ。私は悪くない」と一蹴される。説明しては一蹴、説明しては一蹴を繰り返す10年だった。頭の回転が鈍い私は立ち止まって考えた。そして私ばかりが苦労する争いは止めることにした。

外では控えめだが家の中では千人力。こんなモンスターがウサギ小屋の中で粛々と育っていたとは夢にも思わなかった。人間は自由で平等と信じていた私がバカだった。二人だけの世界は弱肉強食の世界だったのだ。しかし徹底的に困れば知恵が出る。何年か真剣に考えていたら好いことを思いついた。子供になれば良いのだ。子供は働かなくても飯が食える。洗濯も掃除もしてもらえる。凄く楽だ。

さっそく老妻をお母さんと呼ぶことにした。何事も形から入らなければいけない。私は良い子になる決心をした。親が考える良い子とは親に逆わない子だ。次は挨拶だな。おはようございます、頂きます、ご馳走様、おやすみなさいを励行した。やる時は徹底的にやるのが好きだ。3年くらいかかったが全てを完璧にマスターして良い子になった。

苦節10年、私は良い子になり老妻を優しいお母さんに作りかえることに成功した。小さい頃からの夢が叶いのんびりと暮らしている。子供は何もしなくていいのだから楽だ。お母さんに家事一切を任せ、毎日自室にこもり勉強をした。子供の仕事は勉強だからね。

実は勉強は嫌いなのだ。代わりにジョークのブログを書いたり、中島公園のウェブサイトの更新をしている。時間つぶしの趣味をやってるだけだが、机に向かう姿は勉強に似ている。「ご飯だよ」と声がかかると「今行きます。有難うございます」と返事をする。ここがホンモノの子供とは違うところだ。亀の甲より年の功である。

年をとっても家事をするお母さんは大変だと思う。だから感謝の気持ちが口先だけでなく、身体全体から溢れ出て来る。それをお母さんが見逃すはずがない。お母さんは益々優しくなり私の感謝は深まるばかりだ。好循環が更に好循環を生み全てが上手く行った。行きすぎて気味が悪い。こんな時はそれとなく探りを入れる。

「私は貴女の夫なのにお母さんと呼ぶのは変ですよね」
「別に変じゃあないよ」
「好かった。なんか気になっていたのです」
「気にすることないじゃない」
「いつも優しいお母さんで居てくれて有難う」
「何言っても分からないから諦めたんだよ。屁理屈聞くのも面倒だしね」
「でもお母さんと呼んでいいのでしょう」
「正ちゃんの母親だからお母さんでいいんだよ」
「正ちゃんはもう直ぐ50歳ですよ。子供という年ではないですね」
「それでいいの。幾つになっても子供は子供」
「そうですか。それを聞いて安心しました。私も子供のままでいいのですね。お母さん」
「パカ言ってんじゃないよ! アンタなんかもう直ぐ80のジジイじゃないか」

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2017年07月15日

自分史を書こうと思います

「自分史を書こうと思います」
「それは良いことだ。暇つぶしになるしボケ防止にもなる」と、先輩はうなづく。
「ブログで公開しようかな」
「誰も読まないよ。悪いけど俺もゴメンだ」

「グーグルが読んでくれるでしょ」
「マシンが自動的に索引を付けるだけだ。人が読まなくては意味ないだろう」
「歴史上の資料になります」
「腐るほどあるからアンタのは要らない」

今ある歴史は1%にも満たない勝者によって書かれている。事実かも知れないが極端に偏っていると思う。情報化以前の世界なら仕方がないが時代は変わった。現代はビックデータを解析する技術が進んでいる。更に技術が発展すれば思いもよらないなアイディアを実現できるようになるかも知れない。例えば歴史、勝ち組だけの歴史でなく敗者や普通の人々を含めた、幅広い事実を反映した歴史に変わるかも知れない。

「いったい何を言いたいのだ」
「私のブログも百年後には歴史データの一部になるかも知れません」
「なんで?」
「大量のデータを細かく分けて、組織的に論理的に調べるシステムが開発されました」
「それで自分史を含めた超ビックな歴史データを処理できると言うのか?」
「分かりません。できたらいいなと思いました」
「なんだ、また空想か」

科学的知識がないのだから空想するしか能がない。私のブログから空想を取り除いたら「起きて飯食ってウンコして寝た」の羅列になってしまう。ところで1980年頃の私は「新しい物好き」だった。物珍しさでパソコンを買ったが、ここまで情報化が進むとは夢にも思わなかった。ブログ、フェイスブック等、既に個人が世界に向けて発信できるシステムは出来上がっている。世界中にテキスト・映像、音声等の情報が、収集可能な状態で溢れている。この情報に目を付ける人は各方面から出て来ているが、今後その傾向は更に進むだろう。

約10年前に中島公園の歴史のページを更新しようとして明治時代の写真を捜したが僅か数枚しか見つからなかった。もし百年あるいは千年後の人が、振り返って現在を調べようとしたら映像、テキスト、音声等の資料が溢れている。金も権力も無い普通の人が残した資料も歴史学の発展に貢献するようになるかも知れない。

現代は各国各民族ででいろいろ違う歴史が語られている。戦争で負けたり勝ったりする度に歴史観が変わったりもする。一体世界で何通りの歴史が語れているのだろうか。こんなにバラバラで見解の異なる歴史観があっていいのだろうか。ときには戦争の原因にもなっているではないか。こんなに歴史認識が不安定では安心して暮らせない。永い時間をかけても世界共通の歴史観を構築する必要はあると思う。

「世界共通の歴史観のためにアンタの自分史も必要と言うのか」
「そうなんです。エライ人の歴史だけでなく普通の人の歴史も必要です」
「考えられないほど膨大な量だぞ」
「それでいいのです」
「なんで?」
「世界共通の歴史観を持とうとする意識が大切なのです」
「意識だけじゃあ何もできないよ」
「話し合が出来るでしょ」
「話し合っても合意できない。このことは歴史が証明しているよ」
「意志さえあれば大丈夫です」
「なんで?」
「結論が出るまで戦争は止めようとか先延ばしが出来るでしょ」

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2017年07月08日

ハッピー・リタイアメント

ハッピー・リタイアメントとは「定年以前に豊かな老後資金を確保して自適の引退生活に入ること」だそうだ。私は辛い仕事から解放されて幸せになることと勘違いしていた。無職だから自適だし、車は無いし酒もタバコも飲まないし、旅行、ゴルフ等金のかかる遊びは一切しない。だから暮らしには困らない。貧しいながらもハッピー・リタイアメントだ。

スポーツ、ゲームは全部ダメ、ノロマだから仕事もダメ、オマケに音痴。少しは暗い気持ちになってもよさそうなものだがなれない。自分の殻に閉じこもって世間を見ないからだと思う。知れば穏やかでは居られないだろう。何が幸せの種になるか分からないのが人生だ。私の場合は無趣味、無能力が経済的負担を軽くし幸せの種になってくれている。

井の中の蛙だから小さい話をしたいと思う。オタマジャクシを限りなく小さくした様な精子の話である。人間の感覚で言えば、精子は卵子に巡り会うまで6Kmの旅をするそうだ。誕生と同時に人生は始まると思っていたが違うようだ。実は生れる10ヶ月も前から始まっていたのだ。つまり胎内で6Kmの旅を始める精子の時から、私は私なのである。

言うまでもないことだが精子である私もノロマだった。ウジャウジャ居る精子が卵子を目がけて突進している。それらが足の引っ張り合いをして疲れ切って倒れた頃。胎内の片隅でジッとしていた私は、目の前が次第に明かるくなったことに気が付いた。ノロリノロリと進んだら卵子に到達してしまったのだ。そんな訳でノロマの私が生まれたのだと思う。

医学のことは良く分からないが精子は前向きだと思う。卵子目がけて一心不乱に全速力で胎内を泳いでいる。それに生まれる前だから赤ちゃんよりももっと純真無垢だ。限りなく清らかで、あえて言えば天使のような存在と思う。形だって頭が小さくしっぽが長くてとても恰好いい。人間に例えれば足が長いファイターズの大谷のような感じだ。

私も前向きに生きてきたつもりだ。失敗の連続だが何時もなんとかなるさと思い、何とかなって76歳まで生き延びた。これが私の唯一の自慢である。長い人生では辛いことも度々あったが、その時は逃げる。しっかりと前向きに逃げたのだ。そして生き残った。

「逃げるとは卑怯だぞ!」と先輩は厳しい。
彼は私より2歳年下だが職場では先輩だったので退職した今でも威張っている。
「だから前向きにと言ってるでしょう」
「逃げるのに前も後ろもあるか!」
「他人様に責任を押し付けて逃げるようなことは決してしません」
「それで前向き?」
「例えば東京がダメなら大阪があるさというようにですね」
「なるほど、前向きとは行き先のことか」
「まあいいでしょう。出来ないことから逃げて出来そうな方向に向かうのです」
「動くたびに収入が減るだろう」
「仕方ないですね。病気になるよりマシでしょ」

かって私が勤めていた職場は現場第一主義だった。現場を離れると収入がガタ減りになるので誰もが事務室勤務や訓練施設勤務を嫌がった。それどころか管理職になるのさえ嫌がる人が多かった。そんな職場だが現場が苦手の私は喜んで後方勤務に甘んじた。最後には管理職にまでなってしまった。仕事は苦手だが何とかして定年まで勤めたかったのだ。そしてハッピー・リタイアメント。 ああシンド死ぬまでお前と二人連れ(運)

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2017年06月03日

楽しい歩こう会

歩こう会は運動神経が鈍くても気兼ねなく参加できるので有難い。それに参加するたびに新しい発見がある。歩きながら話も出来る。タクシーに乗って帰れる範囲を歩くので万一体調を崩しても安心だ。しかも自然や郷土史の勉強にもなるので有意義である。

「SSN歩こう会」が主催する天神山ハイキングに参加した。天神山は火砕流の堆積物からなる火山灰台地で、かろうじて豊平川の浸食を免れた削り残りだそうだ。ところで私は、自然の恵みだけでは生きられず、文明の恩恵を受けて何とか生かされている。ひょっとして虚弱人間の削り残りかも知れない。先ずは幸運に恵まれたことに感謝。(*^-゚)

「何かと縁のある天神山に登ってきました」
「登った? 一体何メートルだ」と、先輩はあえて聞き返した。
「89メートルです」
「軽い散歩じゃあないか」
「山あり谷あり、危険もありました。低いからと言ってなめてはいけません」

昼食後、平岸天満宮や久保栄文学碑、石川啄木の歌碑のあるコースを歩いた。皆さんが立って石碑を見ていた時のことだが、疲れた私は座り場所を探していた。ふと遊歩道に沿って設けられた丸太の柵が目に入った。渡りに船とばかりにドッコイショと柵に座ると、勢い余って壊れてしまった。行き場を失った私の尻は地面に叩き付けられた。

柵は遊歩道と山の斜面との間に道なりに設けられたものだ。危うく転がり落ちるところだったが誰かが支えてくれたのか、起こしてくれたのか、あるいは自分で立ち上がったかは覚えていない。ただ帽子が脱げなかったことだけは覚えている。

一瞬のことだがスキンヘッドの俳優のことを思い出した。西部劇のアクション場面で転げまわっているシーンで何故かカウボーイハットが脱げないのだ。激しいアクション・シーンなのに立ち上がると帽子がちゃんと頭に乗っている。演じていたのはユル・ブリンナーだったと思う。私の帽子も西部劇の俳優の様に転がっても脱げなかった。

「帽子が脱げなかったのでホッとしました」
「いまさら気にすることもないだろう」と、髪の毛フサフサの先輩。
「先輩には私の気持ちなんて分かりません」
「分かりたくないね。そうはなりたくないんだよ」
「最近抜け毛が増えていませんか。そうなると後は早いですよ」
「おいおい、脅かすなよ」
「ところで、不思議な声が聞こえたのです」
「どんな声だ?」
「上から方から聞こえてきたので天使の声かも知れません」

ホンの一瞬かも知れないが転んだまま地面で仰向けになっていた。木々の緑の合い間に青い空と白い雲が見え、木漏れ日も差していた。神秘的な気分に浸っていると天から声が……。 これから佳境に入るのだが、先輩に話の腰を折られた。

「気は確かか? 頭打ったのか」
「シリモチつきました」
「そうかい。天使さんは何て言ったんだ」
「この事件をー、ブログに書きなさーい、とささやきました
「そりゃ空耳だよ。聞こえたような気がしただけさ」
「本当に聞こえたのです。はっきりと覚えています」
「それならオバサンの声だ。からかわれたんだよ」

木の柵は腐ってボロボロだった。誰が座ろうと一瞬の内に壊れたと思う。今まで壊れなかったのは誰も座った人が居なかったからだろう。何千人もの人たちがここを通り過ぎたのに座ろうとしたのは私一人とは情けない。

「それでも登った自分を褒めて上げたいと思います」
「登ったと言うほどでもないだろう。柵を壊した自分を褒めるのか?」
「悪いですか」
「市民の財産を壊したのだから弁償しなければいけない」
「柵は腐っていたのですよ」
「それが自然界の風情と言うものよ。座る奴が悪いんだ」

座りたがり屋の私が腐った柵で難を受けるのは分かる。しかし、滅多に旅行をしない私が、行けば必ず災難にぶつかることには納得が行かない。何かの祟りだろうか?

「アンタは大袈裟なんだ。天神山ハイキングは旅行じゃあないよ」
「面白くないから話題を変えたのです。東京とハワイと釧路の話をしてもいいですか」
「旅行は嫌いなんだろう」
「東京は結婚式、ハワイは所属グループの研修、釧路は葬儀です。嫌々行きました」

東京に行ったら、帰りの便が大雪で欠航になり翌日の昼まで待たされた。数十年ぶりの大雪だそうだ。何の因果で20年ぶりの東京で数十年に1回の大雪に遭うんだ。宿を探しに雪の大都会を右往左往したことは一生忘れない。空港のロピーで一晩過ごした方がマシだった。旅慣れない私はそんなことさえ思いつかなかった。東京も旅も大嫌いだ。

ホノルルでは一生に一度の海外旅行なのに知らない女性の夫と間違われ隣に座らせられた。キッカケは航空会社のおもてなし。つまり夫婦一緒に座らせてやろうという親心だ。原因は「後ろに並んでいるのは夫か?」と英語で聞かれた女性が意味も分からずに肯いたからだ。私の券は有無を言わさず書き替えられて隣に座る羽目になった。成田までの8時間、偉い夫のこと自分のこと豊富な海外体験等、自慢話を聞かされ続けてうんざりした。寝たふりをしても終わらない。海外旅行は何が起こるか分からない。

「去年の夏、釧路に行った時は帰りの特急が運休でした」
「よくあることじゃないか」
「水害で4ヵ月も運休なんて前代未聞です。何で私が行くとこうなるんですか。滅多に旅行などしないのに不公平です」 
「日頃の行いが悪いからじゃないか」
「そんなことありません」
「天神山の柵をぶっ壊したじゃあないか」
「あれは私が座りたがるからいけなかったと反省しています」
「じゃあ何の文句があるんだ」
「東京では50年ぶりの大雪、ハワイでは夫すり替え、釧路では旅行難民。遠出したのは、この40年間で5回くらいなのに当たり過ぎです」
「だからどうした」
「腐った柵を壊したくらいいいじゃあないですか」
「許せない。後ろの山に棄ててやる!」

歌を忘れたカナリヤが後ろの山に棄てられるように、旅を忘れた私も姥捨て山に棄てられるのだろうか。「寝るほど楽はなかりけり」と信じていたが、どうやら目を覚まさなければならない時期が来たようだ。どうしよう?

真剣に考えたら知恵が出た。「象牙の舟に銀のかい」を「月夜の海に浮かべ」てもらえばいいのだ。そうすれば私も旅の良さを思い出すだろう。そして旅行が楽しめる真人間になれるのだ。 早く来い来い象牙の船よ私祈ってます。

札幌シニアネット(SSN)は「学びあい 支えあい 助け合い」の組織なのにお世話になるばかりで大変申し訳なく思っている。私のような無能で世間知らずの老人でも何とか楽しく過ごして行けるのもSSNのお陰と感謝している。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!

童謡「かなりあ」(詩・西条八十)
歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
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2017年05月13日

お知らせ

■ 管理人が出演する放送のご案内
AIR-G FM北海道のスタジオで中島公園について少しだけ話しました。
5月19日10時30分ころに放送されます。よろしくお願い致します。
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お土産に「札幌円山コロン」頂きました。美味しい!

番組は高山秀毅さんと中嶋あゆみさんのRep.ly.ze(リプライズ)、NEWS+スポーツ+北海道がキーワードで、7時30分〜12時55分にわたる充実した番組です。10時30分くらいに私の話もチョッピリ放送されると思います。


5月の更新は休みます
申し訳ありませんが都合により5月中の更新は中止します。年間誌「ぼけっと4号」の原稿執筆に専念したいと思います。何をやってもノロマです。まったくボケっとした話で申し訳ありません。次の更新は6月3日です。よろしくお願い致します。

参考
「ぼけっと1号」2014年10月発刊
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中島公園の歴史について書きました。

「ぼけっと2号」2015年10月発刊
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中島公園菖蒲池の東側に鎮座する「木下成太郎像」について書きました。

「ぼけっと3号」2016年10月発刊
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中島公園で子育てを完遂した11羽の子を持つオシドリママについて書きました。
4号については薄野で生まれて中島公園で育ったマガモ親子について書きたいと思います。
よろしくお願い致します。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa(このブログの管理人でもあります)

毎週土曜更新、都合により5月中は休み、次回更新は6月3日です。
またの訪問をお待ちしています!
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2017年05月06日

洋楽カラオケは楽しい

「グッモーネン先輩、ハオユ?」
「ご機嫌よくないね。なまってるぞ」
「英語は大好きですが喋れないから歌ってます」
「コッソリ歌うのは勝手だが書くんじゃないぞ」
「喋れなくて歌えなくて書けなかったら、私はどうしたらいいのですか」
「そんなこと知るか」
「好きなことが出来ないのは辛いです。こうなったら先輩だけが頼りです」
「友達いないのか。うっとうしいな。好きなように書きな」
「書いていいのですか。有難うございます。テンクサラーッ

遊びも運動も苦手な私は仕事も苦手だった。それでも何とか工夫して定年まで勤めて上げてハッピーリタイアメント。そして、始めたのがカラオケである。恐るおそるの挑戦だが、歌うなと言う人は居なかった。それどころか健康にいいからと励まされた。1年後には上手くなったね」と言ってくれる人さえ現れたのだ。これでは面白過ぎて止められない。

演歌がダメなら洋楽があるさという気分で、洋楽カラオケを始めて早くも1年半たった。何を歌ってもダメなことは横に置いて、目先の気分を変えて楽しむことにした。そもそも音痴と言うものは、背が高いとか足が短いとかと同じようなもの。私の個性だから直らない。しかし背が高くて足が長ければ速く走れるとは限らない。逆も真ならいいのだが。

スポーツ・ゲームがダメな私は勝ち負けのない趣味としてカラオケを選んだ。もちろん私の手の届かないところでの勝負はあると思う。しかしゲームなら最初から勝ち負けを争わなければならない。私にとっては余りにも厳しすぎる。

「将棋だって自分なりに楽しむことができるだろう」
「そうでしょうか」
「レベルが同じような人と楽しめればいいんだよ。仕事じゃないんだから」
「そうですね」
「何故そうしない」
「碁・将棋・マージャンなど何でもやりました」
「やったのか?」
「だけど勝ったことはないし何時もビリ」
「自分なりに楽しめばいいんだよ」
「不可能です」
「なんで?」

「どうしても聞きたいと言うなら話しましょう。最初はね下手同士で楽しもうよとか言っている人がですよ。強くなると私との対戦を嫌がるようになるのです。誰もが同じです。そんなことを繰り返している内に、相手になってくれる人が誰も居なくなりました。一番下手とはそういうことです。まだ言いたいことの半分も言ってませんが、もっと聞きたいですか」

「分かった分かった。もういい。こんど一緒にカラオケ行こうぜ」
「有難うございます。ウウァンドフォウ! シンギン シンギン」
「素晴らしいと言ってるつもりか。お里が知れるぞ」
「独学ですから」
「学と言うほどでもないだろう」
「一人で楽しんで独楽ですよ。私の勝手でしょ,イズネッ?」

SSNカラオケクラブの洋楽カラオケがスタートして1年半たった。最近参加する方々は凄く上手い。早く入っていて好かった。歌の方は相変わらずだが場慣れしたのが何よりだ。それに音痴は治らないけれど繰り返せば口は動くようになる。ささやかな一歩に過ぎないが、私の心の中では月面着陸の第一歩くらいに増幅される。

テレビで歌が上手いと言われている犬が歌っていた。ただウォーとかアォーとか長々と唸っているだけだ。それでも犬は得意顔だ。私も歌っているつもりだが、そうは聞こえないかも知れない。犬のふり見て我がふり直すべきとは思う。しかし、心とは裏腹に1年半の成果を書きたくなってしまった。我ながら困った人だ。

QK牧場の決闘
好きな西部劇の主題歌を歌ってみたかった。しかし難しかった。楽譜が読めないのでCDでフランキー・レーンが歌っているのを聴いて真似しているつもり。真似できるはずがないのにそうしている。他に歌を覚える手段がないから仕方がない。
<思わず気分が出てしまうフレーズ>
Duty calls. My backs against the wall.
格好いいなぁと思う。歌っていると芝居をしているみたいな気分になる。実際には追いつめられる様な状況には陥りたくない。本音を言えば義務を負いたくないしドキドキもしたくない。のんびり寝ていたい。

16トン
意味は分からないが調子がいいから好きなのだ。アメリカの炭坑節かな? 毎日16トン積み込んで何になる。何年やっても借金がかさむばかりだと歌う。やるせないねぇ。数え切れないほど繰り返し口は動くようになったが、なかなか歌にはならない。難しいものだ。まったくやりきれないよ。
<しびれるフレーズ >
If you see me comin', better step aside.
テネシー・アーニー・フォードはここだけ特に小声で歌っている。何となく凄みを感じる。私を見かけた人たちがサーっと道を開けたとしたら、さぞかし気分がいいことだろう。まるで西部劇のワンシーンのようだ。
A lotta men didn't, a lotta men died.(lottaはlot ofの短縮形)
と続くのだ。凄いなあ。しかし分からない。”知らぬが仏”は英語で”What you don't know never hurts you.”だそうだ。私を傷つけないことだけ分かればそれで充分だ。

悲しき雨音
30年以上前、プランタン・デパートがあった頃の新札幌を歩いている時、ドラムの音で足を止めた。青空の下で演奏されていたのが「悲しき雨音」であることを後で知った。その時は軽快なリズムを刻むその曲が悲しい失恋の歌とは知らなかった。
<可哀そうと思ったフレーズ>
The only girl care about has gone away.
これなら私でも気持ちが分かる。ああ可哀想。
Looking for a brand-new start.
新しい人生を求めてか、いい気なもんだね。人の気も知らないで。男はつらいよ。

「その他に、どうにか口が回って歌えるものが30曲になりました」
「ホントか?」
「凄いでしょう」
「反応は?」
「笑ってくれますよ」
「ユーモアで笑いを誘う歌もいいもんだ」
「真剣に生真面目に歌ってますよ」
「なんだそれ?」
「テレビの犬だって真剣に歌っていました。決して笑ったりしません」
「感動したか?」
「ぜんぜん」
「なにも犬まで持ち出して言い訳することないだろう」
「と申しますと?」
「要するにアンタはドキドキしないで傷つかなけりゃ好いんだろう」
「そうですが、それで?」
「家で寝てればいいじゃないか」
「ダメです。筋肉が萎縮して寝たきりになり来年のサクラも見れなくなります」

中島公園のサクラ
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シダレザクラ

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エゾヤマザクラ

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ソメイヨシノ

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チシマザクラ

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ヤヱザクラ
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2017年04月15日

古き渋谷に似た山鼻

中島公園近くのマンションに転居して約16年たった。1ヵ所に定住した期間としては、76年にわたる人生で最長である。だから第二の故郷のように思っている。では本当の故郷は何処かと言えば、それがなかなか難しい。

生れたのは横浜市内だが3歳までだから全く記憶がない。4歳から5歳にかけて栃木県内と福島県内へと2回の疎開。そして神奈川県の大船で終戦を迎えた。この辺りは断片的な記憶しかない。更に大船の違う場所に移住し、6歳のとき東京に移住した。この頃から記憶がハッキリし始めている。それで渋谷区金王町を故郷のように感じている。そこには6歳から約10年間住んでいた。他に故郷と思う場所はない。

なお渋谷には15歳から23歳までの間は出たり入ったりしながら3年くらい暮らしていた。計13年くらい渋谷に居たことになる。そして東京オリンピックが開催された1964年にやっと定職を得ることが出来た。職を転々とすることがどんなに不安定で辛いかは充分承知していたので、苦手な仕事だが定年まで勤め上げた。それからは自由な人生を心から楽しんだ。

ところで、中島公園の南西部に山鼻と呼ばれる地域がある。そこは道路の向きが微妙に違うのだ。磁方位、真方位との違い等諸説あるが別々の基準で道路が造られたことは確かだ。東本願前停留所から山鼻9条方面を見ると線路が曲がっている。
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画像は市電「東本願寺前」停留所。旧山鼻地域の碁盤の目と旧札幌地域の碁盤の目は方位がずれている。この二つを繋ごうとすれば曲線になる。言い換えれば曲がった場所が旧札幌と旧山鼻との境界線である。線路の曲がりが札幌の歴史を語っている。

話は横道にそれたが私が書きたかったのは16年前に中島公園近くに転居してビックリしたことだ。それは私が故郷と思っている終戦後の渋谷と余りにもよく似ていたことである。遠い昔に思いを馳せてアチコチ散歩した。とても懐かしい。

改めて転居して好かったと思った。感激のあまり此処を故郷と定め挨拶代わりに地域貢献をしようと思ったがなかなか上手く行かない。いろいろ手を付けては引っ込めた。その中で何とか続いているのが中島公園に関するウェブサイト「中島パフェ」である。
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山鼻から札幌市を見ると街のつくりが渋谷に似ていると思う。都心からの位置関係だが大通中心街から薄野、山鼻へと続いている。これは渋谷駅周辺の繁華街から花街といわれた円山町、それに隣接する松濤の高級住宅地との関係に似ている。ともに都心から歓楽街を抜けると住宅地になっている。

故郷を感じさせるもう一つは住処と路面電車停留所の位置関係である。両方とも徒歩2分の位置に停留所がある。子供の頃は毎朝ガタンゴトンチンチンという都電(路面電車)の音で目を覚ました。「青山車庫前」に停車して発車する都電の音である。隙間風の入るバラックには音も遠慮なく入って来た。今も市電「行啓通」停留所の近くに住んでいるが二重窓でコンクリート造りの共同住宅だから電車通りの音は聞こえない。

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故郷と山鼻はよく似ている。停留所のすぐそばに”ほねつぎ”をする「整骨院」があるところまでそっくりなのだ。60年もたってから、また同じ様な場所に住むとは夢にも思わなかった。路面電車のある風景が似ているのかも知れない。子供の頃は線路に釘を置いて電車に轢かせ平たい釘を「製作」する遊びが流行っていた。今だったら大騒ぎになるだろう。

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砂利道が細くなったり行きどまったりする。札幌には今でもこんな道があるのかとビックリした。そして懐かしく感じた。60年前にタイムスリップしたような思いだ。正面のビルを除けば子供の頃渋谷で見ていた風景にそっくりだ。

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同じ道を反対側から見るとこんな感じ。右側の暗い家に懐かしさを感じた。つくりは頑丈そうだが子供の頃住んでいたバラックと似ている。前を見ても後ろを向いても道は細くなったり太くなったり曲がったりしている。この点は終戦後に私が住んでいた渋谷区金王町と似ている。そこは何年か過ぎて区画整理事業が実施され道路は真っ直ぐになった。現在の山鼻の姿は懐かしいけれど不思議だ。区画整理が出来ないのだろうか。

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これは山鼻で見た火事による焼跡だが、焼け残るものは戦災の時に似ている。戦災被害者の最初の仕事は焼トタン等焼跡の廃材を利用してバラックと呼ばれた仮小屋を建てることだった。山鼻界隈に転居して多くの懐かしい風景を見ることが出来た。私は焼跡や不規則な砂利道、あばら家を見ると心が反応する。子供のときに心に刻まれたものが大人になって記憶としてよみがえるのだろうか。これが私の原風景かも知れない。

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見事に傾いている小屋も私にとっては懐かしい。子供のときは見慣れたものだが、今では滅多に見られない。これが市電の停留所から見えるなんて感動的だ。

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札幌まつりの日、行啓通では地元の祭りが行われた。ちょっと寂れたような街の感じが懐かしい。皆が協力してつくる手作り感のある祭りを見て遠い昔を思い出した。終戦後しばらくして職人・商人が協力して戦災で焼失した御神輿を新たに作り祭りを再開した。

御神輿は建具屋や大工が中心になって作ったが、ブリキ屋やペンキ屋も参加した。我家は経師屋だから出番が無いと思っていたら、御神輿に障子を付けてくれた。町内会が全員参加に拘ったのだ。軍国主義を反省し、誰もが民主主義とか男女同権を口にする良き時代だった。町内会も「明朗会」と言う名称だったと記憶している。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 老人時代