2017年06月24日

運が好かった

お金にも身体にも恵まれなかったが、運には恵まれて幸せな人生を送っている。生まれた時代が好かった。もし15年早く生まれていたら大変だ。怖くて怖くて生きるのが嫌になるほど怖い戦争に行かなければならなかった。もし、空襲とテロが絶えない北アフリカ某国で生まれたとしたら生きた心地がしないだろう。地獄の苦しみを味わなけれならない。

平和のために尽くしたこともない。清く正しく生きても来なかった。失業中は職を得る事だけを考え、在職中は定年まで勤め上げることだけを考えて来た。利己主義者なのに幸せになってしまった。世の中は不公平だ。良い時代に良い場所で生まれたからだろうか。それにしても、私は何て運がいいのだろう。つまづいて倒れそうになったことも何度かある。その度に運に救われた。ささやかな努力はしたものの最強の味方は運だった。

中卒なのに不器用で虚弱体質だ。就職のためには徹底的なハンディだが乗り越えなければならない。悩んでいたら、国家公務員試験は学歴がなくても受けられることが分かった。私にとっては夢のような大発見だ。事務系の仕事は中卒では応募できないと信じ込んでいた。都庁とか多くの地方公務員は職務に応じて高卒とか大卒とか学歴を受験資格としていた。一般企業もそうだと思う。しかし国家公務員だけは違っていた。

当時のの国家公務員試験は高卒(初級職)短大卒(中級職)大卒(上級職)程度の学力で行われたが学歴は問われなかった。受験資格は年齢と日本国籍だけと記憶している。それで就職先は国家公務員と決めた。これ以外に過酷な肉体労働から逃れる道はない。中学では教わらなかった重要事項を自分自身で見つけたのだ。これも運、強運である。

公務員であっても過酷な労働もあることは分かっていた。若い時は体質ではなく治療すれば快復可能な病気に罹っていると思っていたのだ。その根拠は14歳までは普通の体力の少年だったからだ。15歳の春から坂を上るのや走るのが辛くなって来た。新聞配達をしていたので体力が急に低下するのが分かるのだ。今だったら病院に行って診てもらえばいいのだが、病名が分かったところで金がなければ、どうにもならない時代だった。

公務員に合格さえすれば全て解決すると考えていた。採用されたら誰からも認められるように一生懸命働く。全力で働く。そして倒れて入院する。そこでいろいろ検査すれば病名が分かり治療法も分かる。快復して健康な人になり楽しく働く。もちろん遊んだりもする。これが私の描いた最良のシナリオである。病気休暇制度とかの身分保障は不可欠である。

既に年齢が23歳に近づいていたので初級職はダメ。中級職なら27歳まで受けられる。つまり5回受けられるのだ。中学の勉強もろくろくしていないのに、年齢の関係で短大卒程度の試験を受けなければならなくなった。7年間にわたり職を転々としたのは、体調不良で不器用だから何をやってもダメだからだ。

どうしても公務員試験に合格しなければならい。道が一つというのも気楽なものだ。迷いが無いから悩みもない。しかし勉強はしなければならない。そんな時、試験勉強しながら給料をもらえる仕事が見つかった。楽な仕事なんてある筈ないと信じていたのに嬉しい誤算だ。なんて運がいいのだろうと今でも驚いている。世の中は広い。東京は懐が深い。

前々回に書いた「家を出る」と重複するが、万に一つの楽な仕事に恵まれた。兄の紹介で勤めることになった「インド通信(PTI)東京支局」は考えられないほど身体が楽な仕事だった。しかも一人勤務だから何をしようと自由だ。勉強する時間もたっぷり確保した。仕事はインドからテレタイプで送られてくるニュースを受け取って、インド大使館、外務省、NHK、朝日新聞、関連通信社に配るだけ。新任の支局長は日本語ができないので買い物など一緒にすることもあるが大丈夫。新橋の商人は外国人に慣れている。私の出る幕は無い。見知らぬ商人にまで救われてしまったのだ。運が好ければなにもかも上手く行く。

短大卒程度の試験となると問題は専門試験だが航空管制官試験の専門科目は英語だけなので、これに決めた。私は身体能力が低いので頭の回転が鈍く数に弱い。英語なら計算することもなく暗記するだけでいい。今よりもっと愚かだった私はそう考えた。とにかく目標は決まった。5年で5回受けらるのだから何とかなるだろうと思ったのだ。

受かろうと落ちようと一縷の希望は必要だ。なんとかなると思えば毎日が楽しく充実していると感じる。就職浪人生活も意外に楽しかった。高校受験もしたことがないので初めての受験だ。興味本位でいろいろ勉強的なことをしたことはあるが、まともな試験を受けるのは初めてだ。受験できる喜びを感じた。受験資格は28歳未満の男性、もう一つは日本の国籍だったかな? 何も分からずに張り切っていた。

人生を振り返ってみると、一に運、二にも運、三四は無くて、五も運だと思う。もうダメだと思う時には必ず運が向いて来るから不思議だ。この後にも大きな運に救われることになるのだが、それは次回に譲ることにする。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代

2017年06月10日

家を出る

「自分史を書こうと思っています」
「年寄りは猫も杓子も自分史だな。書いてどうする」と先輩は冷ややかだ。
「ともかく、右サイドページのカテゴリを見てください」
「めんどくさいよ」
「順番は滅茶苦茶で書きたいことを書いています」
「そうかい」
「何年か後には幼児から老人時代まで繋がり自分史になるのです」

最初にこれまでの経緯を少しだけ説明
19歳のときは東京の家からは遠く離れて働いていた。家計を助けるためである。1959年の秋、母から手紙が来た。家業である経師屋の仕事が忙しくなってきたので家に帰って来いと書いてあった。家で働いて暮らしが成り立つなら、それに越したことはない。

家に帰って来たものの、仕事が忙しかったのは12月までの2ヶ月間だけだった。一体なんの為に私を呼んだのだろう。母は私が貯金をいっぱい持っていると思っていたようだ。勤め先から衣食住は支給されるが月給は5,000円だ。その内4,000円を約4年にわたり毎月家に送金し続けていたのだから貯金などある筈がない。

一方、母は私を買いかぶってくれたのだろうか。中卒で何の技能も技術も無い私が地方に出てバクバク稼いでいると思っていたらしい。まったく世間知らずの母だが、私が文無しだと知ると家を出ることに反対はしなかった。20歳になった私は、遅まきながら親孝行ごっこの夢から目を覚ました。 以上、「複雑な家族関係」の後段より抜粋。

家に帰れば事情もよく分かった。子供たちは誰も家に寄り付かないのだ。家には高校を中退して銀座の飲食店で働いている妹が残っているだけだった。中波さんは私にとっては養父だが妹にとっては実父だ。中波家の本当の家族は父母と妹の3人だけと感じた。この三人だけが深いところで繋がっている。結局母に頼まれて養子となり中波性になったのは、私だけで兄二人は伊吹性のままだった。正直言って母にハメラレタと後悔した。妹がこんなことを言っていた。

「家に金なんか送ったって何にもならないんだよ。母ちゃんがこれは三郎が私にくれたとか言ってパチンコして使っちゃうんだから」
「えっ!まさか? 餓死するとか一家心中とか手紙に書いて来るんだよ」
「三郎が中学を出て働きに行った時が最悪。その後いろいろ変わったんだよ」

家族全員がサブローと呼ぶので7つ下の妹は最初から私を呼び捨てにしていた。ところで東京オリンピックを前にして渋谷の地価は急上昇し担保にすれば金は幾らでも借りられた。しかし借りた金は返さなければならない。母にとっては返さなくても済む金も必要だ。高利貸から借りるのも、私に送金させるのも全て自分の才覚と思っていたようだ。

「食えないと言うから仕送りを続けたんだ。3年9か月もな。俺の小遣いなんかゼロだ」
「バカ見たね」
「月給前には必ずオフクロから手紙が来るんだ。生活が苦しいから助けてくれとな」
「今じゃ母ちゃんの言う事を信じる人は誰も居ないよ」
「帰ってから何か変だとは思っていたけど聞けば聞くほど酷いもんだ」

「私は父ちゃんが可哀想だから一緒にいるけどね。兄ちゃんたちも出て行ったし三郎も出たらいいよ。今は誰も相手にしてくれないから、貸してくれるのは高利貸だけ。土地は彼らに取られちゃあうと思うよ。私のことは心配ないよ。我家の男どもと違って強いからね」
「お前には悪いけど家を出るよ」
「送金しても何にもならないからね。借金は百万単位だから焼け石に水だよ」
「心配無用。自分が食うのに精一杯だ」

極貧の家を再興しようと思い、生活を切り詰めて送金したのに遊びに使われたと聞いてガッカリした。家の状況は著しく変わっていた。土地を担保にした借金財政だ。金貸しは十万単位で貸してくれるのだから4千円なんかパチンコ代に過ぎないのか。それなのに欲しいと言って手紙を送りつける。見栄と欲望に取りつかれた母に関わり合っていたら未来はない。自分の生きる道を考えなければならないと思い家を出た。20歳の時だった。

肉体労働する身体ではないのに仕事は肉体労働しかない。いくら頑張っても半人前の仕事しかできない。落ちこぼれの私は職を転々するしかなかった。困っている時にW大学に行っている兄の二郎が「インド通信」のアルバイトを世話してくれた。と言うか自分が止めるので後釜に据えたのだ。正確にはPTI(プレス・トラスト・オブ・インディア)の東京支局と記憶している。インド人の支局長とアルバイトが日勤と夜勤と一人ずつ。私は日勤を担当することになった。

家を出れば住む所が必要になる。兄の二郎と相談して目蒲線沿線に6畳一間を二人で借りることにした。1ヶ月の負担は一人3,000円だから何とか暮らせると思い一安心。ところが兄は3ヶ月もしない内に書置きも残さないで姿をくらました。風の噂によると大学も授業料滞納で除籍になったそうだ。私の収入は月15,000円のアルバイトだけ、6,000円の家賃が重くのしかかってきた。それでも仕事は楽だし全く遊ばないからやって行けた。家族も友達も居ない一人だけの生活は案外金のかからないものだと思った。

仕事はインドからテレタイプで送られてくるニュースを受け取って、インド大使館、外務省、NHK、朝日新聞、関連通信社に配るだけ、余った時間は事務所で留守番だ。身体は楽だし一人で就職試験の勉強が出来るので好都合だ。新任の支局長は日本語が出来ないが、ほとんど取材に出ているので顔を合わすことも少ない。話すことは簡単な命令と報告だけだから単語を並べるだけで充分だった。
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posted by 中波三郎 at 10:10| Comment(0) | 求職時代