2019年01月12日

インド通信

1962年当時の東京は空気が汚れているとか言われていた。ところが、気がついたら喘息は出なくなっていた。密閉された地下の穴倉に比べれば、東京の空気は素晴らしく良かったのだ。皮肉にも自衛隊を依願退職をした頃には換気装置も設置され、穴倉も改善された。私の喘息は広く知られていたので人柱の役目を果たしたのかも知れない。

任期を全うしないで1年半で退職、その間に埼玉県北部、愛知県、埼玉県南部、神奈川県と4回も転勤しているので貯金もない。その代わり喘息が出なくなったので前途に希望がわいてきた。アルバイト生活なので無保険だが病気するような気もしなかった。

ともかく辞めて好かった。オリンピックを1年後に控えた東京は空前の好景気だった。ここに居れば何か職が得られるだろうと楽観的になれる。ふと、かっての同僚のことを思い出した。彼は「俺、退職したらブラジルに行くんだ」と熱っぽく語っていた。「そんな遠くに行かなくても東京があるじゃないか」と言いたくなるほど、東京は元気いっぱいだった。

就職活動の第一歩として職業安定所に行った。希望する職を聞かれて、虚弱体質なので給料は安くていいから楽な仕事がいいと言ったら、「楽な仕事なんかない!」と叱られた。職安係員の話とは裏腹に、兄の紹介で凄く楽な仕事が見つかった。世界は広いが東京は更に広くて深いのだ。世間知らずの職安の言うことなど聞かなくて好かった。

実は、大学生の兄が高い賃金を求めてアルバイト先を替えたかったのだ。私はその後釜に座った。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。短く「インド通信」と呼んでいた。東京支局はインド人の支局長と日本人のアルバイトが二人。日勤と夜勤が一人ずつで私は日勤だった。

支局長は日本語が出来ないが、それで当たり前と思っている横柄な人だ。彼らから見ると日本は英語圏の国なのだ。顔見知りのドイツ人技師も自分は英語が出来るから日本に派遣されたと言っていた。とにかく月給1万5千円ポッキリ、ボーナス諸手当一切なし。ただし業務用に都電全線定期が支給される。私一人養うには充分の金額だ。

中学卒業以来8年間にいろいろ仕事をした中で一番楽な仕事だった。ここで自習して就職の機会を待つことにした。1日24時間の内、実働はせいぜい2時間で残りは全て自由時間の感じだ。一人勤務だから誰にも気兼ねしないで好きなことができる。そして、親類も友人も居ない暮らしは金がかからない。毎月5千円くらいは貯金していたと思う。

定職に就こうとすると、肉体労働以外は殆どの職が受験資格を高卒以上としている。このような学歴社会の中で、国家公務員だけが中卒でも大卒程度の上級職試験も受けられる。もちろん受かるはずはないと思うが、誰もが能力に応じて受験できることが気に入った。慎重に検討した結果、航空管制官採用試験を受けることにした。当時はマスコミ報道で仕事が厳しく給料が低いと知られ、人気が無かったので絶好のチャンスと考えたのだ。この辺りの事情は「運が好かった」に詳しく書いたので重複をさけるため省略する。
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2019年01月05日

喘息で依願退職

英語で躓き飛行管理隊を出て、着いたところは陸上自衛隊駐屯地だった。たった1年で航空自衛他の制服を脱いで陸自の制服を着ることになった。陸自と空自は初めて導入する地対空誘導弾の帰属をめぐり対立し、両隊は大隊編成に当たり競って要員を差し出した。空自の隊員はとりあえず陸自隊員となった。この辺りの事情は陸自と米陸軍の関係が影響していると思う。米陸軍からA誘導弾発射訓練を受けた隊員が日本初のA誘導弾要員となる。彼らが何も知らない私たちを訓練することになった。

全国から集められた編成要員は、まさに寄せ集め、私の様に仕事が出来なくて出された者、あるいは協調性がなくて手に負えないから出された者も少なくはない。梱包された誘導弾が届くまでは草むしりとか雑用ばかりしていた。A誘導弾が到着すると、その梱包資材を解体して自分たちが座るためのベンチを作った。古ぼけた隊舎は雨漏りがするので屋根の修理もしたり、雑用は続く。一番活躍したのは元大工の隊員だった。

日本初の大型誘導弾の要員というのに勉強した記憶が全くない。高射砲の隊員は夜になっても教室で補習させられているのに不思議でならなかった。後で考えるとマニュアル作りが間に合わなかったのだと思う。A誘導弾が設置されると訓練が始まったが、ちょっと滑稽だった。訓練は班長の「アテーンション」の号令から始まるのだ。つまり、日本語マニュアルが出来てないのだから、班長は自分がアメリカで訓練を受けた通りにやるしかなかったのだと思う。

訓練中は英語とも言えないカタカナばかりだ。ちょうど野球でストライクバッターアウトと言うような感じだ。手順は暗記しているから英語の意味が分からなくても、カタカナで応答できるのだ。ある隊員から「セブリセブンオアレスのオアレスはメキシコの地名か」と聞かれてビックリした。多分 Seventy seven or less のことと思う。

意味はわからなくてもスラスラと早く言うことが出来れば優秀と言う事になる。彼は退職して演歌の流しをするのが夢だから、口は良くまわるのだ。私はもっと早く喋れといつも注意されていた。以前勤めていた飛行管理隊は相手が米兵だから何とか通じさせようと努力したが、ここは全て日本人だから早さが大切だ。それに同じことがくり返されて馴れ合っている。誘導弾発射準備は一秒でも早く完了しなくてはならない事情もある。

私の役目は地下の穴倉で司令官から受けた指示を地上の発射員に中継することだった。最初は楽だ楽だと喜んでいたが、換気が悪く喘息になってしまった。穴倉は休憩部屋を兼ねていて多くの発射員がタバコを吸うのだ。彼らは誘導弾のある地上では吸えないから必ず私の穴倉で吸う。結局喘息は益々酷くなり依願退職する破目になった。ところで、班長に「タバコの火を貸しては何て言うか知ってるか」と聞かれたので「知らない」と言った。「サンバリライトよ」と得意顔で教えてくれた。カタカナから英語を推測するのも面白い。
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2018年12月29日

ハイドパーク

ハイドパークと言ってもロンドンでもニューヨークでもなく埼玉である。ところで、1945年の終戦後に米軍家族用住宅ワシントンハイツが造られた。空襲で焼き尽くされ、瓦礫と貧困の街となった渋谷区内に、夢のようなアメリカ村が出現したのだ。そこは後にアメリカ文化のショーウィンドウとも言われるようになった。愚かな私が影響を受けない筈がない。

それから5年後の1950年に朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の前線基地となり兵力も大幅に増強された。そのような状況下でジョンソン基地内にハイドパークと呼ばれる住宅地が整備され、124戸の米軍家族用住宅が建設された。日本占領の為にワシントンハイツが必要になり、朝鮮戦争の為にハイドパークが必要となってきたのである。

渋谷区立常磐松小学校時代は貧乏のどん底だったから、豊かなアメリカに憧れた。 渋谷百軒店にテアトルSSと言う、40円で古い洋画を見せる映画館があった。映画を観ての帰りは必ずワシントンハイツに寄った。入ることが出来ない夢の世界を金網越しに見て楽しんだ。グリーンの芝生で遊ぶカラフルな服装のアメリカの子供たちを飽きもせずに眺めていた。そこが映画で観たアメリカの現在風景と思っていたのである。

それから約10年たった1961年、ワシントンハイツと同じようなハイドパークがあるジョンソン基地内の飛行管理隊に赴任した。嬉しかったが制服を着て住宅街をウロウロするわけには行かない。有難いことにアメリカ人用の図書館とかプールは利用することが出来た。図書館では同僚の姿を見た記憶がないので私が勝手に入ったのかも知れない。

日本の古ぼけた図書館とは雲泥の差だ。新しくて綺麗で広々としている。本の貸し出しぶりにも驚いた。金髪の女性が車で来て、両手で抱えられる限りの本を借りて車に積み込むのだ。日本の図書も片隅に少しだけあったが、そこだけは古ぼけていた。人も車も施設もアメリカのものは全てカラフルで美しかったが、日本のものは全てが薄汚れていた。

図書館に入ろうとすると、前からアメリカの少年が来たので遠慮してドアの前で待っていた。少年はドアを開けて開けて「どうぞ」と言って通してくれた。そんなことする日本の子供など見たことないのでビックリした。いい気分にもなったけどね。

基地内を歩いていると車が来たので交差点で待っていると、意外にも車の方が止まった。運転しているアメリカ人は歩くように手つきで促した。後で知ったことだが、道路にはストリートとアベニューの二種があり、車であれ、歩行者であれストリートが優先ということだった。当時の日本社会では車は道路の王様、人の為に止まるなんて考えられなかった。

マナーの違い、ルールの違い等、いろいろあるが、ジョンソン基地の生活で一番の驚きははトイレだった。一言で表現すると大便用トイレに間仕切りがない。横一列に並んでいる6個の大便器が、トイレの両側に向かい合って並んでいるだけ。人と人が向かい合って用を足すのだからやりきれない。これが米軍式かと文化の違いを痛感した。

たった半年しかいなかったが、いろいろ思い出深いジョンソン基地での勤務だった。しかし、飛行管理隊の仕事は英語で躓き、早くから転勤希望を出していた。願い叶って、A編成大隊に行くことになってホッとした。上の人も喜んだことだろう。役立たずを一人出せば、役に立つ可能性のある人を一人受け入れられるのだ。
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2018年12月22日

ジャスダフ クリア

21歳の時は米軍家族住宅を含むジョンソン基地内で働いていた。その頃アメリ人の子供らから言葉の暴力を受けて心ならずも危険なことをした。言葉の意味は未だに分からず、折に触れて何だったんだろうと考えることがある。勘違いかも知れない。Jasdf Clear と記憶しているが、私の脳に入ると全てはカタカナに変換されてジャスダフ クリアとなる。

ジョンソン基地で一番の思い出は、10mの飛び込み台から飛び込んだこと。本当に10mあったかは分からない。台から下を見たらそう感じたのだ。夏は時間のある限りプールで遊んだ。水が透き通っていてとても綺麗だから気に入ったのだ。当時の日本のプールは濁っていて汚かった。少なくとも私の利用できる所はね。

このプールに入るのには時間と忍耐力が要る。入れる日本人の数に制限があるからだ。アメリカ人がすいすい入って行くのを横目で見ながら、日本人は炎天下に行列して空きができるのを待たなければならない。それでも入れてくれるから有難い。無料だしね。

プールの中は殆どアメリカ人だった。一番目立つのは子供たちだが、飛び込みが大好きなのだ。一番高い10mも有りそうな4段目から次々と飛び込むのを見て驚いた。鼻をつまんで走りながら飛び込み、空中で足をバタバタさせて足から水に突入するのである。

私は何時も2段目から飛び込んでいたが、少し物足りなく感じていた。4段目に上がって子供たちに大人の飛び込みを見せてやりたいと言う衝動に駆られた。一番高い所に上がると子供たちでいっぱいだ。順番が来て飛び込み台に立ち、下を見るとプールがマッチ箱くらいの大きさに見えた。一瞬、プールから外れたら命はないと思い立ちすくんだ。

後ろからアメリカの子供たちの声が聞こえる。甲高い声で口々に「ジャスダフ・クリア、ジャスダフ・クリア」と叫んでいた。ジャスダフは分かる、Japan air self-defense forceの短縮形でJASDFである。初めて知ったことだが、アメリカ人は航空自衛隊員を纏めてそう呼んでいたのだ。子供たちは生意気にも大人の私に気合を入れていた。

クリアは直感的に「邪魔だ。さっさと飛び込め」との意味と捉えた。慌てて飛び込んだせいか水に入る姿勢が悪い。水面に突っ込むとき下半身に猛烈な痛みを感じ、思わず水中でうずくまってしまった。これでは子供たちのお手本にはなれない。合わせる顔がないので水中でモジモジして時間をつぶした。プールと言っても飛び込み台下あたりは水深5mもある。綺麗なプールは水の中も綺麗に見える。潜るのは大好きだ。

下から見ると大したことないと思うのだが、上から下を見下ろすともの凄く高く感じる。もし子供たちの「ジャスダフ・クリア」がなかったら飛び込まないで梯子でスゴスゴ降りたと思う。無事に終わったから良い経験をしたと思える。怪我をする可能性も半分くらいあったろう。10mから飛び込むと水面には時速50kmで激突するそうだ。痛いはずである。

そのとき私は「どけー」と言われたと思ったが、後で考えると「許可されているから飛び込んでいいよ」と教えてくれたのかも知れない。4段ある飛び込み台は衝突防止のため、飛び込み許可を指示する人がいる。その人がピーと笛を吹き、数字を書いた団扇みたいなものを示す。そこには「4」と書いてあった。その意味は「4段の人、飛び込み支障なし」。クリアは米空軍では許可の意味でよく使われる。いずれにしろ未だに意味は分からない。

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2018年12月15日

飛行管理隊の人たち

フライトサービスと呼ばれていた飛行管理隊での6ヶ月は、苦い思い出が山ほどあった。苦しかったけれど、とても懐かしい。ところで、ジョンソン基地にある秘密の防空壕(名前は知らない)に入るとき、自衛隊員はID番号を伝え米兵が確認し、ドアに付いた鉄棒を引き中に入れる。鉄棒は鍵の役目をしているが幅が1mもある頑丈なものだ。

米兵は単調な仕事が退屈なせいか、愛想よく話しかけてくることもある。時には短いジョークを言って笑わせたりもする。しかし仕事は厳格だ。10人まとまって来ても一人ずつ確認し鉄棒を引いて通してから閉める。これを10回繰り返すのだ。顔見知りならまとめて通せばお互いに楽なのに、そんなことは決してしない。確実第一が徹底している。

話は変わるが、それから2年後に航空管制官試験に合格し、羽田の航空保安職員訓練所(後に航空保安大学校)に入ると顔見知りがいた。私が落ちこぼれた飛行管理隊の先輩だった。思わぬ偶然で机を並べて勉強することになった。嬉しかったが、考えてみれば当たり前のことである。管理隊は転職希望者の巣なのだから。詳細は後述する。

同期生の変わり種としてはラオス空軍のP少尉がいた。なぜ米国より10年以上遅れていた航空管制後進国の日本でという疑問はあった。それはさておき英語で自己紹介をした。簡単な質疑応答もあったが私たちは片言だ。先輩だけはペラペラと話が弾んでいた。管理隊出身者は大したものだと思った。出来る人だったが、研修中に外国のエアラインに受かったとか言って辞めてしまった。管制官は念のための滑り止めだったのだ。

飛行管理隊は他の自衛隊とはだいぶ違っていた。遊ぶことより勉強の方が好きな人が多いのだ。若い隊員の多くは東京にある夜間の大学に通っていたし、中には勤務の都合をつけて昼間の大学に通う者もいた。皮肉半分で「ヤマちゃんは自衛隊はアルバイトだからなぁ」とか言われていた。英語の達者な隊員は貴重だから我儘も通るらしい。

ほとんどの隊員は辞めるための勉強をしていた。話題の中心は再就職のこと。誰が何処のエアラインに入ったとか、あの会社ならテレタイプ職種で入ってもディスパッチャーになる道があるとか云々。酒も女もギャンブルも話題の中心にはならない風変わりな隊だった。

飛行管理隊では新人一人に対して指導役の隊員一人が付く。私の指導役はKさんと言って真面目でで静かな人だった。宿舎で寝台の上に収納箱を机代わりに置き、向き合って座り熱心に仕事のやり方を教えてくれた。そのKさんが自殺したことを知った。再会した管理隊の先輩が教えてくれたのだ。私が仕事に行き詰って転出して間もない頃と言う。

いつも「英会話は経験だ。そのうち慣れるよ何とかなるよ」と励ましてくれた。Kさんは何とかならなかったのだろうか。ふと私の出来が悪いのも一因かな、との思いがよぎった。その頃の私は職場から逃げることだけを考えていた。私を何とかして一人前にしよう、と努力しているKさんのことは何も考えていなかった。困難に遭うたびに、転職・転勤することにより乗り越えて来たつもりだが、傍迷惑だったかも知れない。
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2018年12月08日

ジョンソン基地の思い出

ジョンソン基地の防空壕内にある飛行管理隊には6ヵ月間勤務したが、限られた部署と廊下を歩くだけで豪内の米軍施設には入ったことも覗いたこともない。かなり大きな防空壕と思う。飛行管理隊の隣は航空関係の日本施設だが、行けるのはそこまでだった。その先の米軍施設に用事がある時はポストから書類を入れるだけなので中は見えない。米軍の将兵が日本施設に入るのは自由だ。防空壕内は完全に米軍管理下にあった。

先輩たちは殆ど高卒なので隣の日本人が気になるらしい。「彼らは大卒で英語の試験を受けて入ったのに会話は下手だ」と言って実際に話しているのを聞かせてくれた。隣同士は両方とも米空軍から引き継いだ施設だから回線を相互にモニターできるのだ。本当に下手だった。私もこんな調子で喋っているのかと思うと恥ずかしくなった。

この回線は不思議なことに専用回線と一般の電話を繋ぐことが出来るのだ。某国人はこの機能を利用して無料で国際電話を使おうとする。仕事中は決して日本語を使わない某国人が夜中に「名古屋の親戚と話したいのだけど繋いでくれないか」と頼んできたのでビックリした。聞き覚えのある声だ。なんだ日本語ペラペラではないか。仕事の時にはこっちが英語で苦しんでいる時に一言も日本語を使わなかったのを覚えている。最大級の拒否のつもりで「Negative,Negative」と言ってやった。何を隠そう、これは私が米兵に何度も言われて悲しい思いをさせられた言葉だ。江戸の敵を長崎で討つ心境だった。

某国軍と自衛隊は米軍の指揮下で働いていたような気がする。飛行管理隊は選抜された引き継ぎ要員が米軍と一緒に働いてソフトを引き継いだ。そして部屋と電話設備とタイプライターと言うハードを引き継いだ。これは空自が米空軍の一部分を担当することになったのと同じだ。英語ペラペラの引き継ぎ要員の補充は、自衛隊の訓練施設で三ヶ月の速成教育を受けた私たちだった。中学の英語もろくろく出来ないのだから試験、試験で叩かれても、たかが知れている。5人の新人は苦労した。一番先に逃げたのは私だけどね。

新隊員教育を受けた同期は殆どが失業中に自衛隊の募集担当者に勧誘されて入った若者である。当時は量を確保するのが精一杯の状態で、特に英語の出来る新隊員が少なかった。米空軍から引き継いで間もない空自では、職種によっては英語が必須なのに出来る隊員は少ない。そのため英語で仕事に行き詰まる隊員もいた。私もその一人である。米兵相手では三年も我慢できない。憧れの飛行管理隊も1ヶ月で嫌になり、半年で逃げることに成功した。人生には無駄と言うものがない。良い経験になったと思っている。
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2018年12月01日

聞いて極楽みて地獄

三ヶ月の専門訓練が終わり、赴任先がジョンソンのフライトサービスと決定したときは小躍りして喜んだ。当時のジョンソン基地内にはハイドパークと呼ばれる米軍用の家族住宅があった。真っ先に思い出したのが決して中に入ることの出来なかった、渋谷にあるワシントンハイツ(合衆国空軍ワシントンハイツ団地)だった。10年前には入りたくても入れなかった禁断の地と同じような場所に入ることが出来るのだ。喜ばずにはいられなかった。

ハイドパークはワシントンハイツと同じように、アメリカの生活スタイルがそのまま日本に持ち込まれたアメリカ村である。飛行管理隊もハイドパークもジョンソン基地内にあった。緑の芝生に洒落た家、カラフルな車とカラフルな男女と子供たち、まるで夢の世界だ。そんなことに思いを馳せて仕事のことなど何も考えていなかった。

新人の仕事は電話でフライトプラン(飛行計画)を受けながらタイプすること。タイプもフライトプランについても訓練中に習得した。模擬実習も完璧に出来た。フライトプランを送ってくるのが日本人の教官だから簡単だったのだ。現場に行ったら相手は米兵だからまったく勝手が違った。後で考えると模擬実習など子供の汽車ごっこみたいなものだった。

米兵にもいろいろなタイプがある。日本人に分かるような英語で話す親切な人も少なくはない。自分のペースで話して分からないと他の人と代われと言う人もいた。この人たちが悩みの種だった。先輩に「代わって下さい」と言って代わってもらえるのは初めの1ヶ月、それを過ぎたら知らんぷりされるか、「代わったと言え」と言われてしまう。

これを乗り越えるには英会話能力が要る。三ヶ月の速成訓練ではどうにもならない。ベテラン隊員と仲良くなることも極めて有効だ。困った時に気軽に代わってもらえるからね。私にはこの二つの能力が欠けていた。もう駄目だと思った。逃げるより他はない。

45年間、数え切れないほどの職場を渡り歩いた。何故かと言うと困った時の逃げ道に転職、転勤を選んだからだ。皮肉なことに、それが人生を豊かにしてくれた。まさに人生いろいろ正解はないと、つくづく思う。ある程度の我慢は必要だが限界を超えてはいけない。

困った困ったと思っていると、折に触れ逃げ道が見つかるから有難い。この時はA編成大隊の募集だった。苦手な仕事から逃れたい一心で応募したが、他にも理由があった。それは憧れのアメリカに行くことだった。Aの実射訓練は日本では出来ないのでアメリカでやることになっていた。これはチャンスと前向きに捉えた。

フライトサービスには6ヶ月いたが最後まで悩み続けた。仕事の70%は定型的で簡単だが、思い違いが生じると英会話能力を問われる。電話だと凄く難しい。3日に一度くらいは顔も見たこともない米兵に悩まされた。親切な人が多いのだけど、意地悪な人が3人もいると仕事に行くのが辛くなる。こんなことで憧れのハイドパークともお別れとなった。
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2018年11月24日

英語9歳の壁

英語の発音が悪いのと音痴は生まれつきと納得していた。しかしRとLを区別して聴けないことが不思議だった。rightもlightも私の脳に入るとカタカナに自動変換されてライトになってしまうのだ。それが日本人として普通なのだと知ったのは最近のこと。「英語9歳の壁」である。理解したわけではないが、皆と同じと思ったら気が楽になった。

ところで、虚弱体質で一番苦しいのは零細企業での肉体労働。比べれば自衛隊は楽だ、万一倒れても病気休暇があるから安心である。しかも1年半の勤務で身体を動かしたのは新隊員教育の3ヵ月だけだった。

専門教育は飛行管理だが、この3ヶ月が一番楽しかった。中学卒業後6年、初めて肉体労働から解放されて前途に希望をもつことが出来た。最初の1ヵ月は英語、教材はアメリカンランゲージコースと言うタイトルで全て英語、ひょっとして米空軍が作成した外国人に教えるための教材だろうか。当時としては珍しく内容の全てが録音されていた。

ブースと呼ばれる教室には最先端の語学練習機がズラリと並んでいた。発音はそこで学ぶのだが、中学で教わった発音とは大きく違っていた。おはよう、こんにちはのグッモーネン、グラフトヌーンはいいとしても、センクサラーッ、ナラローウが、"ありがとう"と"どういたしまして"なのかサッパリ分からない。何回聴いてもそう聴こえる。

教材に一番多く載っている語句だが、私の脳を通すと途端にカタカナに変換される。Thanks a lotは センクサラーッに、Not at allはナラローウと聴きとれる。その頃はRとLの発音を厳しく注意されるので口真似はしたが、聴き分けられなくて悩んでいた。日本人の教官がライトと二回言えばどっちがRか口先を見れば分かるけどね。

最近知ったことだが「英語の音をとらえる力 というのが、実際に9歳ごろから失われていくと言われている」。9歳の壁だそうだ。私が経験した57年前と比べると今は英語環境はかなり違ってきている、壁の無い人、薄い人、いろいろあると思うけど、私の壁は原子炉並みだから英語は入れない。無理して入って来てもたちまちカタカナになってしまう。

訓練中の3ヶ月だけだが朝から晩まで英語漬け、最初の1ヶ月は一般英語、後の二ヶ月は業務用英語。毎日試験はあるし英語、英語で頭はいっぱいだ。それなのにゲートの前には自衛隊反対のデモ隊が押しかけて来て「銃を捨てて働こう」とか叫んでいる。職が無いから入ったのにね。仮に銃を捨てるとしても何処にあるかも知らないのだ。

終了試験も良い成績で終了、いよいよ実施部隊に行くことになった。訓練期間は21歳までの人生で一番楽しい三ヶ月だった。行先はジョンソン基地にあるフライトサービス、そこでは沢山の英語ペラペラ隊員が働いていると聞いていた。私も行って1年もすればそうなれるだろうと希望に胸を膨らませていた。次回のタイトルは「聞いて極楽みて地獄」。

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2018年11月17日

自衛隊体験記

職を転々し定職に就くのに9年もかかった。行き場がなくて自衛隊に入ったこともある。体験入隊みたいなもので、国民の為には何の役にも立てなかった。今まで内緒にしていたが、自分史のつもりなので包み隠さず全てを書くことにした。話さなかったことも書き易い事から徐々に明かすつもりだ。1年半の間に4か所も転々とした。おまけに任期を全うしない中途退職だから情けない。ともかく運よく食いつなぐことが出来のである。

1960年頃は自衛隊採用難の時代である。積極的に志願する人は少なく、殆どは募集担当者による一本釣りだ。「大型免許も取れるよ」とか言ってね。彼らは人集めに凄く苦労していた。時にはポン引きの疑いで逮捕されたりした。職業安定法違反だそうだ。こんな状況だから虚弱体質の私も採用され、新隊員教育を受けることになった。当時の教育担当者は厳しい訓練をしなければならないけれど、辞められても困るという微妙な立場だった。お陰で三か月の新隊員教育は無事終了した。

次の課程は専門教育だが、再就職に役立てたいと言う私の願いとは異なり飛行管理とかいう世間に無い職種だった。運転適性検査にも合格していたが、英語試験の結果上位15人は否応なく飛行管理に指定された。後になってその必要性がよく分かった。上位といっても後ろの方は20点程度だそうだ。百人以上はいたと思うけれど、中学程度の英語が分かる人は三人もいなかったと思う。あとで一緒に教育を受けてそう思ったのだ。

発足6年の航空自衛隊は教育資料にアメリカ空軍のマニュアルをコピーして使っていた。したがって専門教育終了試験も全部英語だ。5答択一式だから手紙を書く力が無くても受かるし、専門用語をキチンと覚えていれば合格できる程度の部内試験だった。しかしほとんどの隊員は中学の英語もろくろ知らないのだから極めて高いハードルである。

毎日がぺーバーテストから始まる。昨日習ったことは翌日にデイリーチェック、そして週末にウイークリーチェック、月末にマンスリーチェック、教育終了時はファイナルチェック。ファイナルに受かることが唯一の目的で、自衛隊らしい訓練をした記憶はない。私にとっては一番幸せな三か月だった。不器用でノロマだが暗記だけは得意なのだ。それに中学の英語も出来ないけれど英語は大好きなので授業が楽しい。

配属先は飛行管理隊、ここで働くために訓練を受けたのだが実務に就いたら全然ダメだった。仕事は日本各地の米軍基地からのフライトプランを電話で受けるのだが、米兵の英語を聴きながらタイプするのは凄く難しかった。好きな英語で飯が食えると思ったが大間違い。半年たっても出来なかったが、自衛隊はいろいろな職種があるから首にはならない。転属を希望したら直ぐに許可された。出来る人は絶対に放さないのにね。
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2018年01月20日

米兵がバーで大暴れ

その事件は私が17歳のとき基地の街で起こった。先輩の丸田さん、そして彼が連れた米兵と一緒にスタンドバーで飲んだ時のことである。カウンターに向かって20席ほど並んでいる店内は、7割がた客で埋まっていた。二つ並んで空いている席には丸田さんと米兵が席をとり、少し離れた席に私が座った。

店はママさんとバーテンと若い女性がカウンター越しに客と対応するスタイルで清潔な感じだだった。優しそうなママさんが一人で飲んでいる私の話し相手になってくれた。そのせいで少し飲みすぎた。心地よいモダンジャズの調べと美しい女性。いっそこのまま時間が止まれば好いと思った。

突然怒鳴り声が聞こえた。怒号と共にガラスが割れる音がし、何かが飛んできて我に返った。気が付けば皆立ち上がっている。カウンターの上には灰皿、吸殻、こぼれた水やガラスの破片が散乱している。米兵がグラスや瓶を腕で振り払ったのだろう。

しばらくして米軍憲兵が到着した。店を出ようとしたら、「チョロマテ、ユーとユー」と声がかかり私たちは捕らえられた。憲兵の後ろにはママさんが立っていた。優しいママは鬼婆の形相に豹変、暴力米兵は私たちが連れて来たと憲兵に訴えていた。

顔に当たる風が涼しい。気が付けばジープに乗っていた。丸田さんは日ごろの元気を失いショボクレテいた。酔ってる私はジープに乗って嬉しい気分。基地に連行されるとは思ったが、そこはどんな所か興味津々だったのだ。

ところが、ジープは交番の前で止まり、私たちは警察に引き渡された。警官と憲兵は二言三言交わしただけだった。警官は二人を押し付けられて迷惑だったようだ。「なんでアメちゃんなんかと飲むんだ」と文句を言った。私も一つ上の丸田さんも童顔丸出しなのに歳も聞かれなかった。真っ赤な顔して酒臭いのに気づかない筈がない。忙しいので余分な仕事をしたくなかったのだと思う。いろいろあったが今回もお咎め無しだった。
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2018年01月13日

基地の街1957年

酒に弱いのに好きになってしまった。飲んでいたのが次第に飲まれるようになり、そして止められなくなる。時には酒の上での事件に巻き込まれることもあった。

そこは基地の街だった。そして私は17歳の有職少年、今夜も何かいいことないかなと思いながらネオンの巷をうろついていた。小さな街なので職場の仲間に会うこともある。一緒に行こうと誘われたら付いて行く。少年たちの行先は粗末なダンスホール。

小さな街にそんなダンスホールが数軒あった。倉庫の様な建物、民家の地下室等、いろいろだが料金は40円から100円とお手軽だ。フロアの周りにベンチを置いただけの空間は踊る若者であふれていた。敗戦後12年たった1957年、基地の街は日活無国籍アクション映画を地で行っていた。つまり日本なのに日本でない感じだ。

たまには不本意な出会いもあった。「外で食事しない」とか誘われたので奢ったら、帰りの汽車賃が無いと言われて400円貸した。次に会ったときは知らんぷりだ。貸した金は返してもらえると思った私がバカだった。気が小さい私は被害もショボイ。

その夜は誰にも会わなかった。一人でブラブラしていたら前方から若い外国人が近づいて来た。スーツにネクタイ姿だが、頭は服装とはチグハグなGIカットの白人だ。私に向かって拳を突き出した。殴るしぐさに見えたので驚いて立ち止まってしまった。

幸い職場の先輩の丸田さんが偶然通りかかった。彼は外国人に英語で話しかけた。二人とも笑っていたのでホッとした。ひょっとして知り合いかも知れない。丸田さんは英語を勉強していたので外国人によく声をかける。英語を身に着けて基地で働きたいのだ。

外国人は思った通り米兵だった。丸田さんが3人で飲みに行こうと言うのでついていった。行先は当時流行りのスタンドバーだ。基地の街の営業スタイルは、BGMはジャズ、カウンターにはダイスが置いてある。食べ物は出さないが、チーズとかホワイトアスパラの缶詰などはあった。客は日本人だがアメリカ式が好まれていた。

未成年者の飲酒は禁止だが店も客も気にしない。次回に書くが警官さえ気にしていなかった。当時は働いている限りは大人と一緒だと言う空気があった。それに有職少年は沢山いたので店にとっては大事なお客である。それ以前の問題として法律よりも生きることが優先されていた。ところで飲んで酔いが回ったころ事件が起きた。

次回は「米兵がバーで大暴れ」
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2017年08月26日

ボートは怖いよ

先日、HP「中島パフェ」宛にメールが来た「ボートは予約できますか?」との問い合わせだった。時々中島公園の管理人と間違えられるのだが質問には答える。ネットで調べれば直ぐ分かると思ったが検索しても何も出てこなかった。

ボート乗り場に行って聞くと電話は無いと言う。予約のために自宅の住所氏名と電話番号を書いてくれた。親切な対応に感謝してボートに乗ってみようかなと思った。実は17歳の頃ボートを転覆させてボート屋の小母さんに大目玉を食らって以来ボートは敬遠していた。

60年も前のことだが鮮明に覚えている。転覆した現場を毎年テレビで見せられるからだ。そこは原爆ドームの前を流れる川だった。8月6日には必ずテレビに出るから忘れられない(貸しボートはかなり前に廃止)。そのたびにカンカンになって怒っていたボート乗り場の小母さんを思い出す。もちろん悪いのは私だが、いろいろ事情があった。

ボートは三人で乗っていて漕ぎ手を交代するために立ち上がって位置を入れ替わろうとした途端にバランスを失って転覆した。映画のスローモーションの様にゆっくりと水が入ってきた。小母さんは「何で転覆したボートをほったらかして泳いで遊んでるんだ」と怒っていた。それでも救助用のボート繋いだボートを漕いで助けに来てくれたのだ。感謝!

泳いで遊んでいたのではない。大切な身分証明書とお札の入った定期入れが川下に流れたので取りに行ったのだ。毎年8月6日にテレビに出るので分かると思うが原爆ドームの近くに大きな橋がある。泳いでる最中に「泳いでる泳いでる」と声が聞こえたので橋の上を見ると黒山の人だかりだ。沢山の人から声援を受けているような気がした。ガンバレ!

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