2023年03月11日

ナラローウ

普通の人は中学1年から英語の勉強を始めるが、私は20歳になってから始めた。教科書の表紙には
「American Language Course 航空幕僚監部」と書いてあった。米空軍の作成だから、この航空幕僚監部の6文字以外は全て英文の教科書である。中卒以来働きずくめで勉強には縁がなかったので凄く嬉しかった。だから、62年も前のことなのに冒頭のダイアログを今でも覚えている。

Does this bus go to the train station?
No, but I can give you a transfer.
What bus do I take?
Take the bus marked Central station.
Where do I get off?
I will let you know.
Thanks a lot. 
Nat at all.

最初のダイアログは、こんな感じと記憶している。訓練方法、説明を含め教科書の全てが録音されていて学習マシンを使って自習できるようなシステムになっていた。教科書もテープも全てが英語なので中学の英語をサボっていた私には、雲を掴むような感じだった。聞いて覚えろと言われても最後の2行は繰り返し聴いてもタンクスアラッ、ナレローとしか聞こえない。最近知ったことだが、テンクサラーッ、ナラローウが「ネイティブも驚いた画期的発音術」だそうだ。(「怖いくらい通じるカタカナ英語の法則」池谷裕二)

我が家は生活保護家庭なので最初から中学を出たら働くと決めていた。だから英語、数学とかの難しい勉強はしなかった。これで良いと思っていたが、給料をもらいながら勉強する機会を与えられたら気が変わった。中卒以来5年も職を転々としたのは肉体労働者として働く力がなかったからだ 。何とかして飯のタネにしたいとの思いが込み上げてきた。

3ヶ月の英語訓練は米兵と電話で情報の受け渡しをする仕事のためだった。現場に行っら会話能力も向上するかと楽しみにしていたが、直ぐに行き詰まってしまった。結局他の部署に配置転換され数ヶ月後に依願退職する羽目になった。

そのころ東京はオリンピック景気で働き口は色々あった。新橋の森ビルにあるインド通信東京支局でアルバイトをすることにした。支局長はロンドンから赴任したばかりの日本語ができない記者、そこで雑用することになった。苦労するかも知れないが英会話の勉強になるかもと期待した。

ところが、支局長はほとんど外回りの取材、留守番していても電話も訪問者も滅多にない。苦労も無いけれど勉強にはならなかった。その代わり一人で自由に使う時間がいっぱいあったから英語の勉強をした。

月給15,000円だが、職場の付き合いもないし、友人もいないので月5,000円は貯金できた。東京は奥が深い、世の中にこんな楽な仕事があるのかとビックリして喜んだ。欠点は健康保険、年金が無いこと。これでは定職にならないが、就職試験の勉強をするには最高の環境が与えられた。

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冠婚葬祭、飲み会、その他あらゆる付き合いがないと凄く楽だし金も要らない。貯金が貯まったら夜間の英語学校に行くつもりだったが、オリンピック景気とか幸運に恵まれて1年もたたない内に定職に就くことができた。就職したら学校に行く必要もないし勉強も止めてしまった。就職のための勉強は職についた途端にゴールになってしまうのだ。本当はスタートポイントなのに飛んでもない勘違いをしていた。
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2023年02月11日

想定外の英語集中訓練

二十歳の私は生活に困って自衛隊入隊した。そして、新隊員教育終了前のある日突然、中卒程度の英語試験があった。成績上位15名の赴任先は一方的にK教育団と命じられた。そこで3ヶ月の業務用英語の訓練を受けることになった。

百点満点なのに23点以上が合格とは驚きだ。受験者120名の内、大部分がが20点前後に集中したドングリの背比べ。誰が上位15名に入るかは運次第と言っても過言ではない。5答択一試験だから何も知らなくても20%の正解がある。

高校に行く気がなかったので英語の勉強をしたことはない。ただ、アメリカ人二人と英語で文通していた。ZWYXコレスポンデンス協会という団体があり、ペンパルの紹介と手紙の翻訳をしてくれるのだ。翻訳された英文を書き写していただけだったが、少しは勉強になったかも知れない。ところで、80点程度の高得点の人も3名くらいたようだ。

その一人はA君だと思う。進学校として有名なR高校中退、勉強についていけなかったそうだ。それでも中学の英語はマスターしているはずだ。教育終了後、私と同じ現場に行った。その後、当時の教官から電話があり用事がすむと「ドロボーどうした?」と聞かれた。後で分かったことだが、A君には盗癖があり入隊後も時々やっていたらしい。

B君はS工業大学の出身のクリスチャン。いつも聖書と大きな辞書と教材を風呂敷に包んで持ち歩いていた。真面目な人だが、つまらないことに感心したり、反省したりする。ある日、同室のZ君が寝台にタオルを2本さげて大声で言った。「これは洗顔用、もう1枚はマスターベーション用」と。それを聞いたB君は「Zさんは正直で偉い」と感心し、「私なんか隠れてコソコソ」と反省していた。

C君は弁舌爽やかな人。心から英語が好きなようだ。いつもペラペラ喋りたいと言う感じだ。なぜかhaveをヒャブと発音する。私の聞き違いか、それが正しい発音かは分からない。以上A、B、Cの3人が80点くらいの人と思う。私を含めて残りの12人は押し並べて30点以下だったようだ。合格したのは翻訳書き写し文通のお陰かも知れない。

入隊当初はトラックの運転手になることを夢見ていたが思い直した。荷積みも荷下ろしもある。私の体力ではやっていけないかも知れない。運がついて英語訓練を受ける機会に恵まれたが、3ヶ月で就職の役に立てるのは無理。ここを英語勉強のスタートと決めた。義務教育なら中学1年からだから、8年遅れのスタートになってしまった。

教材はアメリカンランゲージコース、米空軍が作成した外国人向け教材。1960年当時としては珍しく内容の全てが録音されていた。ブースと呼ばれる英語学習室があり、間仕切りした個人学習スペースが数多く並んでいた。当時の日本では最先端をいく設備と聞いていた。

夜の自習時間に自由に使えるので大いに利用させてもらった。しかし、利用者は少なかった。ファイナル・チェック(訓練終了時の試験)はペーパーテストだけ。実技試験は英文タイプのみで英会話はなかった。

運に恵まれ、初歩の中学英語も分からないのに、給料をもらいながら3ヶ月間の集中訓練を受けられた。こんな機会は滅多にない。必要な機関があり、そこに送り込む訓練体制があれば、訓練を受ける人が絶対に必要であり、私もその一人。世の中は面白い。あちらこちらに想定外がある。

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薄野は想定外の雨。今のアイスワールド。 2002年2月9日
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2023年02月04日

第二の運

3ヶ月の訓練終了後の赴任先は埼玉県にあるジョンソン基地内のフライトサービスだった。米兵との会話もタイプも苦手、おまけに不器用な私は5人の新人の中で真っ先に脱落した。職種替えして半年後に体調を崩し依願退職。ここに至るまでの経過は第一の運に書いたのでここでは省略。ただ3ヶ月の英語づけ訓練は勉強するキッカケにはなった。

職を転々として6年目に大発見をした。国家公務員試験は原則学歴不問のことである。そして、運良く驚くほど楽な仕事が見つかったのだ。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。

新橋のPTI東京支局で働くのは日本語を話さないインド人の記者と私の二人だけだった。記者はは取材に歩いているので、ほとんど一人勤務。月給1万5千円、但し365日休み無しで健康保険もない。仕事は留守番とテレタイプで受けた情報をNHK、朝日新聞、外務省、インド大使館、関係通信社に配達するだけだった。

一人じゃ淋しいという人には向かないが、私にとっては都合が良かった。時間を好きなように使えるからだ。8時間勤務中6時間は暇、配達も都電利用なので車内でも勉強できる。家に帰ってからの時間も加えればタップリ寝ても、10時間の勉強時間があった。

次の課題は何を受験するかだが、初級職は高校の勉強ができないし、年齢制限で1回しか受けられない。航空管制官なら中級職だから27歳まで6回も受けられる。後で知ることになるが、合格した同期の中に27歳の人も居た。それに専門科目が英語なので自習で何とかなると思った。

試験は短期大学卒業程度と定められていたので合格するには3年程度はかかると考えていた。先ずはお試しと思い受けてみたら受かってしまった。面接での英会話は初歩的なものだったが、筆記試験が凄く難しく絶対に受からない思っていた。それなのに受かってしまったので驚いた。後で分かったことだが、当時の状況は質よりも人数が重要だった。

時の運である。時代は東京オリンピック景気のさなかにあった。民間と比べて公務員、特に国家公務員の給料が著しく安いので人気がなかった。特に管制官はマスコミ報道で、仕事が厳しく給料が安いと知られていた。実際、60名の合格者のうち約半数が採用を辞退した。受験の時は学生服を着た若い人も多かったが、同期生の殆どは有職青年か失業者だった。これが第二の運、健康保険のある安定職に就くという私の夢は叶い、英語の勉強をする気が失せてしまった。

懐かしいPTI東京支局があった西新橋2森ビル
六本木ヒルズで知られている森ビルの歩みは1955年から始まっている。森ビル株式会社の歴史・沿革に次のように書いてある。「はじめに完成した西新橋2森ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」。インドの通信社というのが私が働いていたプレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)東京支局だった。焼け残った長屋の隣に建った小さなビルでスタートした会社が今では、日本を代表する総合ディベロッパーへと大きく発展した。最近になって知り驚いている。

西新橋2森ビルの写真 → 森ビルKK 歴史・沿革
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2023年01月28日

第一の運

私が幼少の頃、我が家は小金持ちからどん底に落ち込んだ。明日は餓死かと思う日々が続いたが運に恵まれ生き延びることができた。本当に困った時には運がつくものと信じている。ところで、中卒で体力がなく不器用だと何処に行っても勤まらない。職を転々として、もうダメだと思った時に自衛隊に入った。これが私個人に運がつく始まりとなった。だから第一の運と思っている。

時の運がついたのだ。1960年当時の自衛隊は極端な募集難、自ら志願する人は少なく、多くは一本釣りと言われる口コミ採用だ。職安の付近で募集係が一対一で勧誘するのだ。衣食住無料で月給もボーナスも出る。健康保険もあって付属病院もあり、大型免許も取れるとか言って入隊を勧める。

1960年秋に虚弱体質の私も採用されて航空自衛隊熊谷基地で3ヶ月の教育を受けることになった。社会情勢もあって訓練は緩かった。募集係が必死に集めた約120名の隊員は金の卵のようなものだ。キツイとか言って簡単に止められても困るのだ。車両適正検査も合格、大型免許取って三年任期が終わったらトラックの運転手になるのが夢だった。

新隊員教育終了前に、突然、中卒程度の英語試験があった。そして上位15名は名古屋に行って飛行管理の教育を受けることになった。これでトラック運転手の夢は消えた。何も知らないで名古屋に行くと、一般英語1ヶ月業務用英語2ヶ月、計3ヶ月の訓練を受けることになった。

毎日がぺーバーテストから始まる。昨日習ったことは翌日にデイリーチェック、そして週末にウイークリーチェック、月末にマンスリーチェック、教育終了時はファイナルチェック。ファイナルに受かることが唯一の訓練目的だった。

一応、15時からは2時間の自衛隊らしい訓練をやることになっていたが、環境の整理という名目で翌日の試験に備えて自習をしていた。夕食後の自習時間を含めると毎日、10時間くらい英語の学習だった。中学英語も出来ないのに現場に行ったら米兵から電話を受けつつタイプするのが仕事だ。先輩ができる事は私も慣れれば出来ると思っていた。

訓練終了後の仕事は埼玉県ジョンソン基地で各地の米軍基地から、電話で送られてくる飛行情報を受けながらタイプすることだった。この仕事にも落ちこぼれて中途退職することになったが、英語を勉強するきっかけにはなった。

退職してインド通信(PTI)東京支局でアルバイトをしながら勉強した。1年後に英検2級を取った。高卒程度の試験だから中卒の私にとっては価値ある資格だった。

これが私にとって第一の運、募集難の自衛隊には人材が集まらなかった。中卒程度の英語試験を受けたが、3分の1くらいしか出来なかった。それなのに上位15名に入ってしまった。後で分かったことだが、入隊した120名のうち真面目に英語の勉強したことのある人は2、3名しかいなかったのだ。このような偶然に恵まれたのも運が良かったからだ。本当に困れば運が救ってくれる。そう信じていたらそうなった。

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中島パフェ」 とはマイ・ホームページ。画像をクリックすると拡大。
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2021年01月16日

二人の世界 後部電信室

「護衛艦あさかぜ」の前身はアメリカ海軍の高速駆逐艦エリソン、最大速力37.4ノット。第二次世界大戦中、北大西洋で活躍した艦は、選抜された海上自衛隊員により、米国から太平洋を越えて渡って来た。当時の主力、フリゲート艦の最速が18ノットと比べると雲泥の差だ。乗艦が決まると17歳の私は、小躍りして喜んだ。

3ヵ月後に、初めての戦闘訓練。電信員の戦闘配置は電信室に数名、艦橋電話に1名、そして後部電信室に2名だ。後部電信室は電信室が損害を受け、使用不能になった時のバックアップだから普段は無人。艦内旅行と称する見学で見ただけだった。因みに電信員で訓練中に海を見れるのは艦橋電話員だけである。

ところで、艦はプライバシーのない世界である。1,630トンの艦に約300人が乗っている。どこもかしこも人だらけ。その様な状況にも関わらず、後部電信室に配置される幸運に恵まれた。しかも、室は狭く二人でも密集、もちろん密着、密閉だ。たちまち、二人の世界になってしまった。憧れの先輩と一緒にね。

先輩は一つ年上の18歳、セーラー服姿が凛々しい紅顔の美少年、「君は東京の出身だね。仕事もいっぱいあるだろう」と入隊の動機に興味があるようだ。乗り組み以来艦内で二人きりに、なれたのは初めてだ。狭い室内には、心を開かせるような空気が漂っていた。先輩には何でも言えるような気がしてきた。

「生活保護を受けていたのが恥ずかしくて、知らない世界に行きたかったのです」。今では考えられないが、1950年代の渋谷区金王町の片隅は、職人と商人の町で物やカネの貸し借り等、助け合いながら暮らしていた。つまり、町内全住民が知り合いなのだ。生活保護を受ける身としては、極めて肩身が狭い思いをしていた。

「そうですか、僕といっしょだね」
「貧乏育ちにはみえませんが」
「妾の子なんだ」

制服を着て並んでいると個性が無いように見える。しかし、15歳で入隊し、「生徒」と呼ばれる少年には、複雑な事情を抱えている者が多かった。貧乏で親に仕送りが必要な子、複雑な家庭環境で悩む子、戦災で親を失い施設で育った子などだ。共通の入隊動機は、4年間勉強しながら給料をもらえること。ほとんど江田島の術科学校だが、約半年づつ、陸上通信隊実習と乗艦実習があった。

窓もなく密閉された後部電信室は別世界。一方、狭い艦内に300人もの乗組員、一人一人が耳も口もある人間だ。そこらじゅう人だらけ、この電信室だけが別世界である。時々ガン、少し置いてガンと、大砲を撃つ音がする。

音が聞こえても、見ることが出来ない世界は、無いのと同じだ。二人で静かに話していることが全てだった。訓練とはいえ戦闘配置、それなのに、ここだけが優しくて甘い香りに包まれていた。
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2020年10月17日

無さそうで有る夢

光陰矢の如し、NHKの朝のドラマを観続けて55年。最初に観たのは1965年の「たまゆら」だった。職場で一番年上の所長が昼休みに毎回観ていたので、他にやることもなく一緒に観ていた。

1966年には自分から進んで「おはなはん」を観ていた。それからは、忙しくても苦しくても朝ドラを観た。酒やタバコと同じように毎回観る習慣がついてしまったのだ。もちろん、楽しいから観ている。酒やタバコだってそうだった。

先週の「エール」では戦争中の映画「決戦の大空へ」と、その中で歌われた「若鷲の歌」が話題になっていた。早速、ユーチューブで「決戦の大空へ」を観た。戦争中の作品は、当時の目線で鑑賞できるので、とても興味深く感じている。戦意高揚の宣伝映画としても、戦後の作品では知りえない事実が垣間見える。

そして、思い出したのが、海上自衛隊M練習隊時代のこと。当時、外出時に利用した「日曜下宿」のことだった。私は14歳だが、「決戦の大空へ」の練習生(海軍飛行予科練習生)と同じ年ごろだ。少年等が班員一同で日曜下宿に行くシーンが印象的だった。

下宿先の家族構成はおばさん、お姉さん、その弟と妹の4人。家族と練習生との交流が和やかで楽しそうだった。皆一緒になって食べたり話したり、歌ったりする。

1943年上映の映画だが、それから敗戦、占領下、朝鮮戦争、日本独立、自衛隊創設と、時代は目まぐるしく変化した。そして12年たった。私は日曜下宿にいたが、家族が居る気配はない。私達は日曜の昼しか行かないので、その時間は外出していたのだと思う。なるべく接触しないようにしていたのだ。私は知らなかったが自衛官は税金泥棒と言われる時代だった。

世の中も状況も随分変わったと思ったが、調べてみると、そうでもなかった。ネットで「日曜下宿」をキーワードにして検索したら、陸軍士官学校生徒について、次のようなことが書いてあった。

「日曜下宿で、生徒は、一日中、何をしていたか。いま思い出しても、ただ、ごろごろして飲んだり食ったり、新聞雑誌を読んだりするだけであった」。

それでは「決戦の大空へ」の日曜下宿風景とは何だろう、と考えてみた。何といっても、昭和を代表する「伝説の女優」原節子がお姉さん役だ。彼女を中心に夢を描いていたのだと思う。当時考えられる限りの最高の夢を。お姉さんのピアノ伴奏で練習生たちが「若鷲の歌」を歌うシーまであった。

現実の日曜下宿は士官学校生徒が感じたとおりと思う。猛訓練から解放されたら、外に出て畳でごろごろが一番の楽しみだと思う。夢の世界はドラマの中にしか存在しない。ただ、日常生活でも、ごく稀に夢の世界に浸れることもある。無さそうで有るのが夢。だから人生は面白いのだ。
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2020年07月25日

横浜ジルバ

何をやっても上手くいかない。歌って踊れれば人生はもっと楽しいはずだが、音痴で運動神経も鈍い。しかし、ジルバだけは昔取った杵柄と思っていたが、これもダメ。何かがおかしい。

所属する高齢者団体の文化祭でダンス・タイムがあった。テンポが早い曲がかかると踊りたがって身体がムズムズしてくる。気配を察したのか誘ってくれた親切な女性がいた。

これは有難いと踊ってはみたものの上手くいかない。運動神経が鈍いのは生まれつきだが、それだけではない。あれから半世紀以上もたっているが、何かが変わってる。

1958年の春、第5護衛隊(旗艦はたかぜ、僚艦あさかぜ)は修理艦としてドックに入っていたので仕事は減っていた。「乾ドック」生活は羽を伸ばす絶好のチャンスだ。エライ人の多くは休暇を取っている。二日に1回は入場料百円程度のダンスホールに行った。そこにはいつも乗艦実習中の同期生がいた。18歳の少年、数人が何となく集まる。

そこでジルバを教えてくれたのが、私と同じ護衛艦、あさかぜ水測員のS君と、旗艦はたかぜのF君だった。水測員は音波によって潜水艦を探知する職なので、音感の好い隊員が選抜されていた。S君は歌も上手いしダンスも得意だ。F君は通信設備の充実した旗艦の電信員でスポーツ万能。ダイナミックに踊るスタイルだ。

残りの同期生はダンスは初めてなので、素直に従った。今思うとかなり動きが激しく自由なジルバだった。片手を繋いで、もう片方は指先を下に向けてブラブラ。右手左手やたらに持ち替え、右に左にクルクル回る。

何も知らない私は、それがジルバと思っていたが、大間違い。話は半世紀後に戻るが、シニアの皆さんが踊っているのは、もっと優雅な感じだ。それは別にしても69歳のジイサンが18歳の気分になってはいけない。恥をかいて当然だ。

最近になって知ったことだが、ジルバは終戦(1945年)後、米軍兵士が踊るのを日本人がまねして踊ったのが始まりと言う。ジターバグ (Jitterbug) が転じて、ジラバ、更に転じてジルバで定着した。そして横浜で流行ったのが横浜ジルバ、通称ハマジル。横浜と横須賀は近い、横須賀とS市は米海軍基地をもつ軍港、S市の若者がハマジルの影響を受けるのはうなずける。

「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ」という歌が好きだ。セリフがいい。60年前の軍港、S市を思い出す。時代は違うが歌の背景が似ている。韓国に近いS市に居たのは「港のヨーコ」がリリースされる30年前。朝鮮戦争が休戦になってから5年たつが、戦争の影響が色濃く残っていた。歌は懐かしい遠い昔を思い出させる。

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2020年07月11日

映画「眼下の敵」を思い出す

何故か、上陸するのに制服着用を義務付けられていた(士官及び営外居住者を除く)。フネでは独自の「巡察隊」を組織して、上陸時の隊員が不始末をしないか監視・指導していた。私服着用まで取り締まりの対象になっているのだから嫌になる。

「巡察隊」は乗員が交代で当たるので、取り締まる方も上陸して遊ぶときは私服だから矛盾している。もう一つの決まりは深夜徘徊禁止である。上陸は私服を着て夜遊びできるから楽しいのにね。

ところで、30万トン型タンカーの乗員は23名なのに、千7百トンしかない、あさかぜ型護衛艦の定員は270名だ。単純比較は出来ないがギュウギュウ詰めであることは分かると思う。上陸員の帰艦時刻が朝なのは、狭い艦内生活を離れてゆっくり寝て欲しいからである。それなのに寝ないで遊ぶ人も多い。

同期の殆どは半年の陸上にある通信隊実習をしてからの乗艦実習だが、S君は陸上勤務の無い職種なので、6ヵ月早くフネに乗っていた。彼が数名の同期生にダンスや酒とかの悪い遊びを教えてくれた。先輩たちは少年隊員に悪い遊びを教えないように指導されたいたが、同期生が先生役になるとは盲点である。

防衛庁が用意した格安の宿泊所もあるのだが、私服も着るし深夜徘徊もしたいので、内緒で部屋を借りた。売春防止法が施行された年なので、廃業した遊郭がそのまま貸間になっていた。小奇麗で安い所が気に入った。それに、鍵一つで自由に出入りできる。

上陸すると先ず、そこに行って私服に着替える。そして、同室のS君と一緒にダンスホールに行く。そこに行けば同期の仲間がいる。来るときもバラバラだし、帰る時もバラバラという習慣がいい。皆で集まるのも楽しいが、そればかりでは窮屈だ。

ダンスホールは市内に5,6ヵ所あった。入場料は60円から100円くらいで、飲食もなくスピーカーから音楽が流れるだけ。最初はここで一緒に楽しむ。運よく相手を見つけた少年はデート、見つからない大部分の少年は、連れ立って飲み屋に行った。

最初は飲み屋について行ったが、何から何まで不潔な感じなのが嫌で1回で止めた。以前、先輩に連れて行ってもらった洒落たスタンドバーが気に入っていたので、一人でそこに行くことが多かった。部屋に帰っても、S君の帰りは遅いので独りぼっちだ。

ダンスホールで遊んで一杯飲んで帰るだけだが、私服を着て自由に街中を歩くだけでも凄く楽しかった。フネの居住区は三段の吊りベッドで座ることも出来ない。横になって入り横になって出るのだ。図体の大きいアメリカの水兵がよく寝てたものだと感心した。

私達が乗艦した米海軍の高速駆逐艦は、そんなものだった。第二次世界大戦では大西洋方面で戦たかい、1944年5月、地中海でドイツ潜水艦を撃沈する戦果を上げたと聞いている。駆逐艦対潜水艦の戦いを描いた映画、「眼下の敵」を繰り返して観ては艦内生活を懐かしんでいる。

7月15日NHKBSプレミアムTVで「眼下の敵」が上映されました。私がお馴染みの駆逐艦居住区のベッドは四段でなく三段でした。本日、お詫びと訂正いたします。思い出せば天井が低かったのです。横にならなければ出入り出来ない状況は同じです。映画の米水兵見ると本当に窮屈そうで気の毒です。私自身は平和だからこんなことが苦労でした。本当の苦労知らずです。(7月16日追記)

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2020年07月04日

「乾ドック」生活

朝だ夜明けだ潮の息扱き うんと吸い込むあかがね色の 胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務(作詞:江口夜詩)と、歌にあるように、少年にとっては素晴らしい艦隊勤務だった。

辛かったのは初めての航海で船酔いした時だけ。その後は修理艦として2ヶ月ばかり、ドックに入った。飲まず食わずで痩せ細った私にとっては地獄で仏である。砲弾・燃料を降ろしての、乾ドック入りだから、地震にでも遭わない限り揺れる心配もない。

食事もトイレも造船所のを使用。何よりも有難かったのは、ドブ板並べたようなトイレから解放されたこと。フネでは大便するのに横一列に並んでするのだから嫌になる。

仕切りの無いドブで、ドブ板に尻をつけて用を足す感じだ。ウンコを流す水がドブのように流れていて、階級が下の私は、いつも川下に座らなければならない。全てのウンコが私の尻の下を通過する。早もん勝ちで、上流に座っても良さそうなものだが……。

米軍払い下げの駆逐艦で一番嫌なことは、このドブ板トイレだった。狭い艦内を考えると、合理的な設計ではあるが日本人なら思いつかない。日米文化の違いに驚かされた。気に入ったのは、アイスクリーム製造機があって、無料で食べ放題だったこと。

ドックに入ったのは台風で損傷を受けた第5護衛隊の2隻(あさかぜ、はたかぜ)だった。生徒と呼ばれる少年隊員は、合わせて10名くらいが実習生として乗艦していた。

名目は実習だが、普通の乗組員と違うところは、7ヵ月したら術科学校に帰ることだけ。特別な実習スケジュールがあるわけでもない。新人として仕事を覚え、当直に入って働くだけ。分かり易く言えばアルバイト店員のようなものだった。

航海が終わってドックに入ったら急に暇になってしまった。修理中の乗員の基本的な作業は船体の錆うち作業だが、通信業務は24時間休みなく続く。だだし、業務量はかなり減った。オマケにエライ人は休暇等で居ないので、気楽な当直勤務だった。

艦内は居住区も電信室も極端に狭い。食って仕事して寝る以外は、何も出来ないスペースだ。そのような状況の中に、暇で懐に余裕のある同期の少年たちが暮らして居た。

親元を離れて、しかも修理艦としてドック入りで、上官の監視も緩んでいる。思春期の少年たちは、大人の遊びに熱中した。去年までは外出すると映画を観てぜんざいを食べていたのに、いつの間にかダンスと酒になってしまった。何が起きても不思議ではない。

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2020年06月20日

ボッタクリ

夜の街でのコロナ感染が話題になっているとき、何故か60年以上前のことを思い出した。キーワードは新宿の夜の街。独身の頃はどうしようもない淋しさに押されて、夜の街を一人でふらついたこともあった。そんな時、若い女性に「良い店あるから行ってみない」と声を掛けられた。

新宿の夜は初めてだ。先ずは、お手軽なスタンドバーにでも入ろうかと思っていた。そのことを呼び込みの女性に言うと。「ちょうど好かった。500円ポッキリよ。案内してあげる」と言った。ところで、19歳で失業して、4年ぶりに渋谷に帰って来たが懐は寂しい。それまでは仕事で地方都市を転々としていた。

路地裏をしばらく歩いたが、店の前で入店を躊躇した。小汚い店は嫌いなのだ。突然、ドアが開き赤ら顔したオジサンが飛び出して来た。「坊や、こんな店に入ったらダメだ」と言って走って行った。私もつられて走ったが誰も追いかけてはこなかった。

危うくボラれるところだったが、ポケットには千円札2枚と小銭だけ。全部取られてもボッタクリ料金には届かない。こんな時にボッタクラレ・オジサンが現れるなんて、なんと運が良いことだろう。早すぎても遅すぎてもボッタクられる。見知らぬオジサンに感謝。

酒飲む習慣がついたのは、艦隊勤務がきっかけだった。先輩から酒を勧められて断る勇気はなかったし、未成年を理由にすれば、飲んで仕事も一人前になれと言われるだけだった。最初は連れられてだが、一人でもバーとかに行くようになった。いろいろ理由はあるが、一番の理由は金余りである。

15歳で月給5400円で、毎月4000円を家に送金した。残り1400円といっても自由に使えるお金は500円程度だ。少しは昇給もあったが、大幅アップは艦隊勤務になった時だった。

乗船手当、航海手当等があるので月給は一挙に1万円以上にアップした。自由に使える金は500円程度から5000円程度へと10倍になった。映画を観て、ぜんざい食うぐらいでは使いきれない。何か買っても狭い艦内には置く場所がない。

家が貧乏なので、家族の生活を支える為の送金が主な支出だった。貯金する余裕がなかったので、18歳になっても貯金通帳も持っていなかった。もちろん、貯めれば纏めて家に取られてしまうという心配もあった。貧乏な家とはそういうものだ。

突然の収入アップで、飲み歩く習慣がつき、失業して懐が寒くなっても、夜の街をぶらついていた。歩くだけのつもりでも「5百円ボッキリ」とか言われると、ついフラフラとついて行ってしまった。

金余りでも素寒貧でも、結婚するまで夜の街をぶらついていたが、不思議なことに1回も怖い目に遭ったことがない。新宿のボッタクリもオジサンのお陰でセーフ。運だけは好かった。

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2020年05月30日

憧れの艦隊勤務

乗艦実習に入ったのは17歳のときだった。たった7ヶ月だが、私にとっては憧れの艦隊勤務。赴任先は護衛艦あさかぜ、米国から貸与された速力37ノットの高速駆逐艦、米国名はエリソン。ちなみに、当時保有の主力はフリゲート艦で最高速力は18ノット。

初めての航海は九州のS港より関東のY港だった。Y港では就役まもない新鋭護衛艦あやなみ艦長に同期生数人で挨拶に行った。艦長室に入ったのは後にも先にもこれ1回だけ。艦長は案内してくれたり、一緒に写真を撮ってくれたりして歓待してくれた。

実は、元術科学校の偉い人が新鋭艦あやなみの艦長になったのだ。離任の挨拶で「諸君とは海上で会おう」と仰った。まだ10代の少年たちは、その言葉を真に受けての訪問である。お相手して下さり良い思い出ができた。今になって艦長に感謝。

帰りの航海は、酷いものだった。土佐沖で台風に遭ってしまったのだ。その前から船は揺れ食べても皆、吐いてしまったが、当直交代で嵐の中を電信室に行くことになった。

居住区からハッチを開けて甲板に出てラッタルを上がり電信室に行くのだが、大きく揺れて歩くのが大変。ハッチを開けたら頭から海水をかぶった。外に出るときはゴム製の雨合羽を着る意味がやっと分かった。

海水の勢いでヨロケテ転んで、網にかかって命拾い。今度は両舷に網を張っている意味も分からせてもらった。こんな時でも吐き気が収まらない。もう吐くものが何もない。それなのに苦しんだ。

自分では何と表現していいか分からないので『爆釣遊撃隊シーゲリラ1号館のページ』を借用。そこにはこう書いてあった。「吐く物があるうちはまだいい。胃の中が空っぽになったときが船酔いの真骨頂、本当の苦しみが訪れるのである。胃が飛び出んばかりにこみ上げてくるも、嘔吐物がないため出てくるものは黄色い胃液。顔を真っ赤にし、目には涙を浮かべながら、もがき苦しむ」。

船でのゲロ吐きの作法は、絶対に甲板に吐いてはいけないこと。当直中に吐くときは、先ず帽子に吐く、次は靴の中と教わっていた。こんな時でも、ちゃんと思い出す。レジ袋の無い時代だ。

しかし、嘔吐物も胃液となると粘りが強くて顔面にへばりつき、落ちて行かない。たとえ落ちても甲板にぶつかる様に流れ込んで来る海水が、直ちに洗い流してくれる。この時は船よ沈め、転覆せよと心から願った。そうすれば楽になれる。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2020年05月23日

さすらい

音痴だから音楽そのものから受ける感動は、普通の人と比べて少ないと思う。恥ずかしながら、コンサートホールで、交響曲の名演を聴いて涙が出たことがない。しかし、歌の場合は話は別、歌詞には人並み以上に感動する。

「さすらい」とはさすらうこと。故郷を出て他の土地をさまよい歩くことを言うそうだ。ならば、生まれてから定職に就くまでの23年間は、まさにさすらいの人生だった。暇に任せて思い出し、数えてみたら21か所をさまよっていた。

平均1年の滞在では友達も出来ない。そんな人生を23年も続けていると自分だけの世界に閉じこもるようになる。定職に就いた後も付き合いは苦手だ。遊んでくれる人も居ないので、映画を観たり本を読んだりして楽しみ、足りなければ空想で補った。

さすらいの旅人の私は、映画の小林旭のように強きをくじき弱きを助けながらの旅ではない。ただ、「さすらい」の歌詞にあるように、どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ♪ と思うだけ。そして、歌うたびに いつになったら この淋しさが♪  消える日があろ 今日も今日も旅ゆく♪ と、さすらいの旅人の気分で生きて来た。

この歌の持つ孤独感が好きだ。歌のルーツを探ってみると、「ギハロの浜辺」という題名で、敗戦後、フィリピンの捕虜収容所で歌われていたと言う。作詞者は第十六師団(京都)の将兵と書いてあったが、その中の何方かの作詞と思う。

第16師団は敗戦の色濃い絶望的な1944年8月、レイテ島に移駐。10月、圧倒的な兵力の米軍がレイテ島に上陸。その結果、第16師団は壊滅した。13,000名で臨んだレイテ決戦の生還者は僅か620名と悲惨な結末を残して終わった。

「ギハロの浜辺」は、奇跡的に生き延びたフィリピン抑留の兵士たちの間で歌われていた。それを持ち帰った復員兵から、いくつかの変遷を経て、大ヒットした小林旭が歌う「さすらい」へと育って行った。原曲は異国情緒豊かでロマンチックな歌詞だった。戦争が激化する前に作られたと推測する。

作詞:西沢爽 補作曲:狛林正一 採譜:植内要
夜がまた来る 思い出つれて
おれを泣かせに 足音もなく
なにをいまさら つらくはないが
旅の灯りが 遠く遠くうるむよ

知らぬ他国を 流れながれて
過ぎてゆくのさ 夜風のように
恋に生きたら 楽しかろうが
どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ

あとをふりむきゃ こころ細いよ
それでなくとも 遙かな旅路
いつになったら この淋しさが
消える日があろ 今日も今日も旅ゆく
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)