2019年10月19日

恐怖の金縛り

改めて私の生い立ちから振り返ってみたい。5歳の時に終戦を迎えたが、自分は金持ちの子と思い込んでいた。母は仕事で忙しく可愛がられた記憶も、躾を受けた記憶もない。私は贅沢で我が儘な甘えん坊で、若い女性に面倒を見てもらっていた。後で知ったことだが、1946年ごろから複雑な家族関係になっていた。全ては戦争のせいだ

戦後の混乱の中で父親は自分の命を守るため、妻子と生活資金を残して北海道に逃亡した。そして、母は再婚のため三人の子を連れて東京に行った。養父となる人は、渋谷を焼き尽くした「山の手大空襲」で家と妻子を失い、侘しいバラック暮らしだった。母の金で焼け跡に家を建てる計画だったが、彼が肺病に架かり建築資金を失った。

ところで、70歳を過ぎてから勘違いと分かったことがある。それは5歳のとき豪邸に住んでいたと思い込んでいたことである。久しぶりに東京から来た兄に本当のことを聞かされた。母は金持ちの奥様ではなく女子寮の管理人、そして海軍さん相手の宴会を取り仕切って、忙しく働いていたそうだ。今さらの壊された思い出話を聞かされたてガッカリした。

このブログでも隠していたことがある。それは我が家が生活保護を受けていたこと。何とかして保護を受けるのを止めたいので、中学を出たら働くことにした。ただ勉強もしたいと思っていたので、発足2年目の自衛隊生徒を志願した。給料をもらえるから家に送金もできる。4年間勉強して中堅幹部になるそうだが中堅幹部って何だろう?

ところが入隊を前にして体調に異変があった。今までスイスイ歩いていた街中の坂を上るのに、息苦しく感じるようになったのだ。何か変だが自衛隊で鍛えてもらえば治るだろうと楽観していた。これは滅茶苦茶な勘違いだが、15歳の時はそう思った。

赴任地である舞鶴練習隊で、最後の関門たる入隊前身体検査が行われた。肺に陰があり再検査となった。故郷を遠く離れていたので、病気で落ちたら行く所がない。何でもいいから入隊したいと思った。幸い再検査で合格になったが、それからが大変だった。

街中の坂を上がるにも息切れがする私にとっては、毎日が猛訓練のように感じだ。就寝時の金縛りにも悩まされた。金縛りについては何も知らないので、いつも死の恐怖に怯えていた。はっきりと意識があるのに体が動かない、圧迫されて地獄に落ちて行くような感じがするけど動けない。助けを呼ぼうにも口が動かない。最初は突然に強い恐怖、何回も続くと、そのうち来るかもという弱い恐怖、とにかく病気と考えていたので治したいと思った。

金縛りを知ったのは何年も後になってからだ。「本人は目が覚めているのに、身体を動かすことができない。この状態が、完全に覚醒するまで続く。2割の人がこの症状を経験する」と、何かに書いてあった。なんだ5人に一人は経験者か、死ぬと思っていた私はバカだった。しかし15歳の時は真剣に死にたくないと考えた。そして医務室に行った。続く
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2019年07月13日

六本木ヒルズの原点

六本木ヒルズとか表参道ヒルズとか聞いても私には全く関係のない別世界の話と思っていた。森ビルは高さ330メートルの超高層ビルを建てる計画があり、2022年度の完成時には日本一高いビルになる見通しである。私が森ビルの一室で働いていたのは、4階建てで空調なしのビル。しかも屋上に建てたプレハブ小屋なので、夏はうだる様な暑さだった。

ウェブサイト森ビルの歴史の冒頭に「森ビルの歩みは、今の感覚から言えば比較的小さな、1棟のビル建設からはじまりました」と書いてある。1955年森不動産設立、最初に竣工したのが西新橋2森ビル、1956年のことである。零細な貸しビル会社と思っていたが、66年後には日本一の高層ビルを建てる会社になるのだから驚きだ。

西新橋2森ビルは後に第2森ビルと呼ばれるようになった。その後、森ビルは発展し続け2003年には六本木ヒルズオープン、2018年にMORI Building DIGITAL ART MUSEUM: EPSON teamLab Borderlessオープン となる。この辺りになると私にはサッパリ分からない。しかし、マスコミを賑わす大した不動産会社になったことは間違いない。

航空管制官として札幌管制部で働いていた頃、札幌に整備される予定の「航空路レーダー情報処理システム」の実験システムが出来た。我々田舎の管制官は東京まで見に行った。そこは立派な高層ビルなのでビックリした。第○○森ビルとかの名が付いていたが、ここでも私には全く関わりのない世界と思っていた。

思い返してみると、私が管制官になる前に働いていたのはインド通信であり、事務所は第2森ビルの中にあった。何となく気になるので念のため森ビル 歴史・沿革で検索すると、一番最初のページに私が働いていた第2森ビルの写真が載っていたのでビックリした。

とても懐かしい。6年間も職を転々として苦労が多かったが、ここだけは天国のような働き場所だった。「ビルには、フランスの香水メーカー、インドの通信社、米国オレゴン州小麦生産者連盟などが入居」と書かれていた。

1957年くらいの写真と思う。なんと古い長屋の隣だ。私が勤め始めた1961年でも近所に長屋が残されていた。このあたり一帯は空襲に遭わなかったようだ。4階建てのビルの屋上にプレハブ小屋が建っていて、インド通信を含め3社が入っていた。空調が無いから夏は猛烈に暑かった。

森ビルは屋上にプレハブを建てたりして、地味な商売をしていたが、今は六本木ヒルズ等多数の高層ビルを持つ大不動産会社になっている。ウェブサイト森ビルには「国際的に評価される品質を提供することで外国企業を多くテナントに迎える、という森ビルのオフィス事業の特色も、この賃貸ビル第1号から始まっていました」と記されていた。

偶然にも私は、この賃貸ビル第1号で働いていたことになる。そのことを58年後に知った。大したことではないが無職の爺さんとしては、好い思い出を掘り起こした気分だ。今度は何が出てくのかな。ブログを書くのが次第に楽しみになって来た。
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2019年07月06日

運が一番努力は二番

中卒以来職を転々として6年もたつと、自分がいかに肉体労働に向かないか分かって来る。職業安定所に行って、給料は安くてもいいから楽な仕事を、と言ったら「楽な仕事なんてない!」と一蹴された。本当はあるのに一々相談に乗るのが面倒なのだ。

ところで、兄の紹介で凄く楽な仕事にありつけた。別に好意からではない。学生だった兄が高い時給のアルバイトに移る為に、私を後釜に据えたのが「インド通信東京支局」だった。

私は英語を使いものになるまで勉強して、苦手な肉体労働から脱出する夢を描いていた。学校に行く金はないから勉強は一人でするつもりだ。仕事は留守番と簡単な配達だけだから信じられないほど楽だった。この状況なら出来るとヤル気もりもり湧いてきた。

インド人の支局長は取材のため出歩き、顔を合わすことは少ない。一人勤務だから時間を自由に使える。気疲れしないし、時間を有効に使える、それに食べるもの以外に金を使う必要がない。その結果、金が貯まれば夜間の英語学校にも行けるだろう。

21歳になっていたけれど勉強するには遅いとか考えたこともなかった。別に大したものになりたい訳ではなく、食えればいいのだ。インド通信のアルバイトでは、先の保証はないし健康保険もない。何とかして定職につかなければならない。

仕事は数か所の配達と留守番だけで月収1万5千円だ。休みはないけれど行く所がないから要らない。一人だから好きなことが出来る。全ての時間を就職試験勉強に使った。お金をもらって広い個室を得たようなものだ。自由に使えるタイプライターまである。

配達は都電に乗って新橋(NHK)、有楽町(朝日新聞)、九段坂(インド大使館)、霞が関(外務省)とまわるだけだから、1時間もあれば充分だ。配達時は単語カードを持って単語を暗記することにした。都電は学生が乗ると満車状態だが立ってても出来る。

事務所の仕事はテレタイプ情報を受けて整理するだけ、電話も客も滅多に来ない。支局長でさえ毎日は来ないし、来ても直ぐに取材に出かけることが多い。机に向かって受験勉強をしていれば、仕事をしているように見える。それが英語の勉強と分かっても、支局長は仕事の為と誤解してくれる。インドでは月収1万5千円は高給取りだそうだ。

有楽町と聞いて思い出すのは、ビルのほとりのティー・ルーム。そこでとった昼食代わりのホットケーキとミルク。美味しくて安いのが気に入って、毎日のように食べていた。中卒以来苦節6年、世の中にこんな楽な仕事があるとは夢にも思わなかった。

楽な仕事は探しても見つからない。運が全てと思う。兄がしていたアルバイトだから詳しい事情を知っていた。だからやる気にになったのだ。使用者は英語しか通じないインド人、一人勤務で休みなしと聞いただけで怖気づく。しかしその実態は、留守番と配達だけだから英語はカタコトで充分だ。人は運さえ好ければ生きられるし、その逆もある。
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2019年01月12日

インド通信

1962年当時の東京は空気が汚れているとか言われていた。ところが、気がついたら喘息は出なくなっていた。密閉された地下の穴倉に比べれば、東京の空気は素晴らしく良かったのだ。皮肉にも自衛隊を依願退職をした頃には換気装置も設置され、穴倉も改善された。私の喘息は広く知られていたので人柱の役目を果たしたのかも知れない。

任期を全うしないで1年半で退職、その間に埼玉県北部、愛知県、埼玉県南部、神奈川県と4回も転勤しているので貯金もない。その代わり喘息が出なくなったので前途に希望がわいてきた。アルバイト生活なので無保険だが病気するような気もしなかった。

ともかく辞めて好かった。オリンピックを1年後に控えた東京は空前の好景気だった。ここに居れば何か職が得られるだろうと楽観的になれる。ふと、かっての同僚のことを思い出した。彼は「俺、退職したらブラジルに行くんだ」と熱っぽく語っていた。「そんな遠くに行かなくても東京があるじゃないか」と言いたくなるほど、東京は元気いっぱいだった。

兄の紹介で凄く楽な仕事が見つかった。世界は広いが東京は更に広くて深いのだ。プレス・トラスト・オブ・インディア(PTI)と言うロイターの子会社である。短く「インド通信」と呼んでいた。東京支局はインド人の支局長と日本人のアルバイトが二人。日勤と夜勤が一人ずつで私は日勤だった。

支局長は日本語が出来ないが、それで当たり前と思っている横柄な人だ。彼らから見ると日本は英語圏の国なのだ。顔見知りのドイツ人技師も自分は英語が出来るから日本に派遣されたと言っていた。とにかく月給1万5千円ポッキリ、ボーナス諸手当一切なし。ただし業務用に都電全線定期が支給される。私一人養うには充分の金額だ。

中学卒業以来8年間にいろいろ仕事をした中で一番楽な仕事だった。ここで自習して就職の機会を待つことにした。1日24時間の内、実働はせいぜい2時間で残りは全て自由時間の感じだ。一人勤務だから誰にも気兼ねしないで好きなことができる。そして、親類も友人も居ない暮らしは金がかからない。毎月5千円くらいは貯金していたと思う。

定職に就こうとすると、肉体労働以外は殆どの職が受験資格を高卒以上としている。このような学歴社会の中で、国家公務員だけが中卒でも大卒程度の上級職試験も受けられる。もちろん受かるはずはないと思うが、誰もが能力に応じて受験できることが気に入った。慎重に検討した結果、航空管制官採用試験を受けることにした。当時はマスコミ報道で仕事が厳しく給料が低いと知られ、人気が無かったので絶好のチャンスと考えたのだ。この辺りの事情は「運が好かった」に詳しく書いたので重複をさけるため省略する。
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2019年01月05日

喘息で依願退職

英語で躓き飛行管理隊を出て、着いたところは陸上自衛隊駐屯地だった。たった1年で航空自衛他の制服を脱いで陸自の制服を着ることになった。陸自と空自は初めて導入する地対空誘導弾の帰属をめぐり対立し、両隊は大隊編成に当たり競って要員を差し出した。空自の隊員はとりあえず陸自隊員となった。この辺りの事情は陸自と米陸軍の関係が影響していると思う。米陸軍からA誘導弾発射訓練を受けた隊員が日本初のA誘導弾要員となる。彼らが何も知らない私たちを訓練することになった。

全国から集められた編成要員は、まさに寄せ集め、私の様に仕事が出来なくて出された者、あるいは協調性がなくて手に負えないから出された者も少なくはない。梱包された誘導弾が届くまでは草むしりとか雑用ばかりしていた。A誘導弾が到着すると、その梱包資材を解体して自分たちが座るためのベンチを作った。古ぼけた隊舎は雨漏りがするので屋根の修理もしたり、雑用は続く。一番活躍したのは元大工の隊員だった。

日本初の大型誘導弾の要員というのに勉強した記憶が全くない。高射砲の隊員は夜になっても教室で補習させられているのに不思議でならなかった。後で考えるとマニュアル作りが間に合わなかったのだと思う。A誘導弾が設置されると訓練が始まったが、ちょっと滑稽だった。訓練は班長の「アテーンション」の号令から始まるのだ。つまり、日本語マニュアルが出来てないのだから、班長は自分がアメリカで訓練を受けた通りにやるしかなかったのだと思う。

訓練中は英語とも言えないカタカナばかりだ。ちょうど野球でストライクバッターアウトと言うような感じだ。手順は暗記しているから英語の意味が分からなくても、カタカナで応答できるのだ。ある隊員から「セブリセブンオアレスのオアレスはメキシコの地名か」と聞かれてビックリした。多分 Seventy seven or less のことと思う。

意味はわからなくてもスラスラと早く言うことが出来れば優秀と言う事になる。彼は退職して演歌の流しをするのが夢だから、口は良くまわるのだ。私はもっと早く喋れといつも注意されていた。以前勤めていた飛行管理隊は相手が米兵だから何とか通じさせようと努力したが、ここは全て日本人だから早さが大切だ。それに同じことがくり返されて馴れ合っている。誘導弾発射準備は一秒でも早く完了しなくてはならない事情もある。

私の役目は地下の穴倉で司令官から受けた指示を地上の発射員に中継することだった。最初は楽だ楽だと喜んでいたが、換気が悪く喘息になってしまった。穴倉は休憩部屋を兼ねていて多くの発射員がタバコを吸うのだ。彼らは誘導弾のある地上では吸えないから必ず私の穴倉で吸う。結局喘息は益々酷くなり依願退職する破目になった。ところで、班長に「タバコの火を貸しては何て言うか知ってるか」と聞かれたので「知らない」と言った。「サンバリライトよ」と得意顔で教えてくれた。カタカナから英語を推測するのも面白い。
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2018年12月29日

ハイドパーク

ハイドパークと言ってもロンドンでもニューヨークでもなく埼玉である。ところで、1945年の終戦後に米軍家族用住宅ワシントンハイツが造られた。空襲で焼き尽くされ、瓦礫と貧困の街となった渋谷区内に、夢のようなアメリカ村が出現したのだ。そこは後にアメリカ文化のショーウィンドウとも言われるようになった。愚かな私が影響を受けない筈がない。

それから5年後の1950年に朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の前線基地となり兵力も大幅に増強された。そのような状況下でジョンソン基地内にハイドパークと呼ばれる住宅地が整備され、124戸の米軍家族用住宅が建設された。日本占領の為にワシントンハイツが必要になり、朝鮮戦争の為にハイドパークが必要となってきたのである。

渋谷区立常磐松小学校時代は貧乏のどん底だったから、豊かなアメリカに憧れた。 渋谷百軒店にテアトルSSと言う、40円で古い洋画を見せる映画館があった。映画を観ての帰りは必ずワシントンハイツに寄った。入ることが出来ない夢の世界を金網越しに見て楽しんだ。グリーンの芝生で遊ぶカラフルな服装のアメリカの子供たちを飽きもせずに眺めていた。そこが映画で観たアメリカの現在風景と思っていたのである。

それから約10年たった1961年、ワシントンハイツと同じようなハイドパークがあるジョンソン基地内の飛行管理隊に赴任した。嬉しかったが制服を着て住宅街をウロウロするわけには行かない。有難いことにアメリカ人用の図書館とかプールは利用することが出来た。図書館では同僚の姿を見た記憶がないので私が勝手に入ったのかも知れない。

日本の古ぼけた図書館とは雲泥の差だ。新しくて綺麗で広々としている。本の貸し出しぶりにも驚いた。金髪の女性が車で来て、両手で抱えられる限りの本を借りて車に積み込むのだ。日本の図書も片隅に少しだけあったが、そこだけは古ぼけていた。人も車も施設もアメリカのものは全てカラフルで美しかったが、日本のものは全てが薄汚れていた。

図書館に入ろうとすると、前からアメリカの少年が来たので遠慮してドアの前で待っていた。少年はドアを開けて開けて「どうぞ」と言って通してくれた。そんなことする日本の子供など見たことないのでビックリした。いい気分にもなったけどね。

基地内を歩いていると車が来たので交差点で待っていると、意外にも車の方が止まった。運転しているアメリカ人は歩くように手つきで促した。後で知ったことだが、道路にはストリートとアベニューの二種があり、車であれ、歩行者であれストリートが優先ということだった。当時の日本社会では車は道路の王様、人の為に止まるなんて考えられなかった。

マナーの違い、ルールの違い等、いろいろあるが、ジョンソン基地の生活で一番の驚きははトイレだった。一言で表現すると大便用トイレに間仕切りがない。横一列に並んでいる6個の大便器が、トイレの両側に向かい合って並んでいるだけ。人と人が向かい合って用を足すのだからやりきれない。これが米軍式かと文化の違いを痛感した。

たった半年しかいなかったが、いろいろ思い出深いジョンソン基地での勤務だった。しかし、飛行管理隊の仕事は英語で躓き、早くから転勤希望を出していた。願い叶って、A編成大隊に行くことになってホッとした。上の人も喜んだことだろう。役立たずを一人出せば、役に立つ可能性のある人を一人受け入れられるのだ。
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2018年12月22日

ジャスダフ クリア

21歳の時は米軍家族住宅を含むジョンソン基地内で働いていた。その頃アメリ人の子供らから言葉の暴力を受けて心ならずも危険なことをした。言葉の意味は未だに分からず、折に触れて何だったんだろうと考えることがある。勘違いかも知れない。Jasdf Clear と記憶しているが、私の脳に入ると全てはカタカナに変換されてジャスダフ クリアとなる。

ジョンソン基地で一番の思い出は、10mの飛び込み台から飛び込んだこと。本当に10mあったかは分からない。台から下を見たらそう感じたのだ。夏は時間のある限りプールで遊んだ。水が透き通っていてとても綺麗だから気に入ったのだ。当時の日本のプールは濁っていて汚かった。少なくとも私の利用できる所はね。

このプールに入るのには時間と忍耐力が要る。入れる日本人の数に制限があるからだ。アメリカ人がすいすい入って行くのを横目で見ながら、日本人は炎天下に行列して空きができるのを待たなければならない。それでも入れてくれるから有難い。無料だしね。

プールの中は殆どアメリカ人だった。一番目立つのは子供たちだが、飛び込みが大好きなのだ。一番高い10mも有りそうな4段目から次々と飛び込むのを見て驚いた。鼻をつまんで走りながら飛び込み、空中で足をバタバタさせて足から水に突入するのである。

私は何時も2段目から飛び込んでいたが、少し物足りなく感じていた。4段目に上がって子供たちに大人の飛び込みを見せてやりたいと言う衝動に駆られた。一番高い所に上がると子供たちでいっぱいだ。順番が来て飛び込み台に立ち、下を見るとプールがマッチ箱くらいの大きさに見えた。一瞬、プールから外れたら命はないと思い立ちすくんだ。

後ろからアメリカの子供たちの声が聞こえる。甲高い声で口々に「ジャスダフ・クリア、ジャスダフ・クリア」と叫んでいた。ジャスダフは分かる、Japan air self-defense forceの短縮形でJASDFである。初めて知ったことだが、アメリカ人は航空自衛隊員を纏めてそう呼んでいたのだ。子供たちは生意気にも大人の私に気合を入れていた。

クリアは直感的に「邪魔だ。さっさと飛び込め」との意味と捉えた。慌てて飛び込んだせいか水に入る姿勢が悪い。水面に突っ込むとき下半身に猛烈な痛みを感じ、思わず水中でうずくまってしまった。これでは子供たちのお手本にはなれない。合わせる顔がないので水中でモジモジして時間をつぶした。プールと言っても飛び込み台下あたりは水深5mもある。綺麗なプールは水の中も綺麗に見える。潜るのは大好きだ。

下から見ると大したことないと思うのだが、上から下を見下ろすともの凄く高く感じる。もし子供たちの「ジャスダフ・クリア」がなかったら飛び込まないで梯子でスゴスゴ降りたと思う。無事に終わったから良い経験をしたと思える。怪我をする可能性も半分くらいあったろう。10mから飛び込むと水面には時速50kmで激突するそうだ。痛いはずである。

そのとき私は「どけー」と言われたと思ったが、後で考えると「許可されているから飛び込んでいいよ」と教えてくれたのかも知れない。4段ある飛び込み台は衝突防止のため、飛び込み許可を指示する人がいる。その人がピーと笛を吹き、数字を書いた団扇みたいなものを示す。そこには「4」と書いてあった。その意味は「4段の人、飛び込み支障なし」。クリアは米空軍では許可の意味でよく使われる。いずれにしろ未だに意味は分からない。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
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2018年12月15日

飛行管理隊の人たち

フライトサービスと呼ばれていた飛行管理隊での6ヶ月は、苦い思い出が山ほどあった。苦しかったけれど、とても懐かしい。ところで、ジョンソン基地にある秘密の防空壕(名前は知らない)に入るとき、自衛隊員はID番号を伝え米兵が確認し、ドアに付いた鉄棒を引き中に入れる。鉄棒は鍵の役目をしているが幅が1mもある頑丈なものだ。

米兵は単調な仕事が退屈なせいか、愛想よく話しかけてくることもある。時には短いジョークを言って笑わせたりもする。しかし仕事は厳格だ。10人まとまって来ても一人ずつ確認し鉄棒を引いて通してから閉める。これを10回繰り返すのだ。顔見知りならまとめて通せばお互いに楽なのに、そんなことは決してしない。確実第一が徹底している。

話は変わるが、それから2年後に航空管制官試験に合格し、羽田の航空保安職員訓練所(後に航空保安大学校)に入ると顔見知りがいた。私が落ちこぼれた飛行管理隊の先輩だった。思わぬ偶然で机を並べて勉強することになった。嬉しかったが、考えてみれば当たり前のことである。管理隊は転職希望者の巣なのだから。詳細は後述する。

同期生の変わり種としてはラオス空軍のP少尉がいた。なぜ米国より10年以上遅れていた航空管制後進国の日本でという疑問はあった。それはさておき英語で自己紹介をした。簡単な質疑応答もあったが私たちは片言だ。先輩だけはペラペラと話が弾んでいた。管理隊出身者は大したものだと思った。出来る人だったが、研修中に外国のエアラインに受かったとか言って辞めてしまった。管制官は念のための滑り止めだったのだ。

飛行管理隊は他の自衛隊とはだいぶ違っていた。遊ぶことより勉強の方が好きな人が多いのだ。若い隊員の多くは東京にある夜間の大学に通っていたし、中には勤務の都合をつけて昼間の大学に通う者もいた。皮肉半分で「ヤマちゃんは自衛隊はアルバイトだからなぁ」とか言われていた。英語の達者な隊員は貴重だから我儘も通るらしい。

ほとんどの隊員は辞めるための勉強をしていた。話題の中心は再就職のこと。誰が何処のエアラインに入ったとか、あの会社ならテレタイプ職種で入ってもディスパッチャーになる道があるとか云々。酒も女もギャンブルも話題の中心にはならない風変わりな隊だった。

飛行管理隊では新人一人に対して指導役の隊員一人が付く。私の指導役はKさんと言って真面目でで静かな人だった。宿舎で寝台の上に収納箱を机代わりに置き、向き合って座り熱心に仕事のやり方を教えてくれた。そのKさんが自殺したことを知った。再会した管理隊の先輩が教えてくれたのだ。私が仕事に行き詰って転出して間もない頃と言う。

いつも「英会話は経験だ。そのうち慣れるよ何とかなるよ」と励ましてくれた。Kさんは何とかならなかったのだろうか。ふと私の出来が悪いのも一因かな、との思いがよぎった。その頃の私は職場から逃げることだけを考えていた。私を何とかして一人前にしよう、と努力しているKさんのことは何も考えていなかった。困難に遭うたびに、転職・転勤することにより乗り越えて来たつもりだが、傍迷惑だったかも知れない。
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2018年12月08日

ジョンソン基地の思い出

ジョンソン基地の防空壕内にある飛行管理隊には6ヵ月間勤務したが、限られた部署と廊下を歩くだけで豪内の米軍施設には入ったことも覗いたこともない。かなり大きな防空壕と思う。飛行管理隊の隣は航空関係の日本施設だが、行けるのはそこまでだった。その先の米軍施設に用事がある時はポストから書類を入れるだけなので中は見えない。米軍の将兵が日本施設に入るのは自由だ。防空壕内は完全に米軍管理下にあった。

先輩たちは殆ど高卒なので隣の日本人が気になるらしい。「彼らは大卒で英語の試験を受けて入ったのに会話は下手だ」と言って実際に話しているのを聞かせてくれた。隣同士は両方とも米空軍から引き継いだ施設だから回線を相互にモニターできるのだ。本当に下手だった。私もこんな調子で喋っているのかと思うと恥ずかしくなった。

この回線は不思議なことに専用回線と一般の電話を繋ぐことが出来るのだ。某国人はこの機能を利用して無料で国際電話を使おうとする。仕事中は決して日本語を使わない某国人が夜中に「名古屋の親戚と話したいのだけど繋いでくれないか」と頼んできたのでビックリした。聞き覚えのある声だ。なんだ日本語ペラペラではないか。仕事の時にはこっちが英語で苦しんでいる時に一言も日本語を使わなかったのを覚えている。最大級の拒否のつもりで「Negative,Negative」と言ってやった。何を隠そう、これは私が米兵に何度も言われて悲しい思いをさせられた言葉だ。江戸の敵を長崎で討つ心境だった。

某国軍と自衛隊は米軍の指揮下で働いていたような気がする。飛行管理隊は選抜された引き継ぎ要員が米軍と一緒に働いてソフトを引き継いだ。そして部屋と電話設備とタイプライターと言うハードを引き継いだ。これは空自が米空軍の一部分を担当することになったのと同じだ。英語ペラペラの引き継ぎ要員の補充は、自衛隊の訓練施設で三ヶ月の速成教育を受けた私たちだった。中学の英語もろくろく出来ないのだから試験、試験で叩かれても、たかが知れている。5人の新人は苦労した。一番先に逃げたのは私だけどね。

新隊員教育を受けた同期は殆どが失業中に自衛隊の募集担当者に勧誘されて入った若者である。当時は量を確保するのが精一杯の状態で、特に英語の出来る新隊員が少なかった。米空軍から引き継いで間もない空自では、職種によっては英語が必須なのに出来る隊員は少ない。そのため英語で仕事に行き詰まる隊員もいた。私もその一人である。米兵相手では三年も我慢できない。憧れの飛行管理隊も1ヶ月で嫌になり、半年で逃げることに成功した。人生には無駄と言うものがない。良い経験になったと思っている。
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2018年12月01日

聞いて極楽みて地獄

三ヶ月の専門訓練が終わり、赴任先がジョンソンのフライトサービスと決定したときは小躍りして喜んだ。当時のジョンソン基地内にはハイドパークと呼ばれる米軍用の家族住宅があった。真っ先に思い出したのが決して中に入ることの出来なかった、渋谷にあるワシントンハイツ(合衆国空軍ワシントンハイツ団地)だった。10年前には入りたくても入れなかった禁断の地と同じような場所に入ることが出来るのだ。喜ばずにはいられなかった。

ハイドパークはワシントンハイツと同じように、アメリカの生活スタイルがそのまま日本に持ち込まれたアメリカ村である。飛行管理隊もハイドパークもジョンソン基地内にあった。緑の芝生に洒落た家、カラフルな車とカラフルな男女と子供たち、まるで夢の世界だ。そんなことに思いを馳せて仕事のことなど何も考えていなかった。

新人の仕事は電話でフライトプラン(飛行計画)を受けながらタイプすること。タイプもフライトプランについても訓練中に習得した。模擬実習も完璧に出来た。フライトプランを送ってくるのが日本人の教官だから簡単だったのだ。現場に行ったら相手は米兵だからまったく勝手が違った。後で考えると模擬実習など子供の汽車ごっこみたいなものだった。

米兵にもいろいろなタイプがある。日本人に分かるような英語で話す親切な人も少なくはない。自分のペースで話して分からないと他の人と代われと言う人もいた。この人たちが悩みの種だった。先輩に「代わって下さい」と言って代わってもらえるのは初めの1ヶ月、それを過ぎたら知らんぷりされるか、「代わったと言え」と言われてしまう。

これを乗り越えるには英会話能力が要る。三ヶ月の速成訓練ではどうにもならない。ベテラン隊員と仲良くなることも極めて有効だ。困った時に気軽に代わってもらえるからね。私にはこの二つの能力が欠けていた。もう駄目だと思った。逃げるより他はない。

45年間、数え切れないほどの職場を渡り歩いた。何故かと言うと困った時の逃げ道に転職、転勤を選んだからだ。皮肉なことに、それが人生を豊かにしてくれた。まさに人生いろいろ正解はないと、つくづく思う。ある程度の我慢は必要だが限界を超えてはいけない。

困った困ったと思っていると、折に触れ逃げ道が見つかるから有難い。この時はA編成大隊の募集だった。苦手な仕事から逃れたい一心で応募したが、他にも理由があった。それは憧れのアメリカに行くことだった。Aの実射訓練は日本では出来ないのでアメリカでやることになっていた。これはチャンスと前向きに捉えた。

フライトサービスには6ヶ月いたが最後まで悩み続けた。仕事の70%は定型的で簡単だが、思い違いが生じると英会話能力を問われる。電話だと凄く難しい。3日に一度くらいは顔も見たこともない米兵に悩まされた。親切な人が多いのだけど、意地悪な人が3人もいると仕事に行くのが辛くなる。こんなことで憧れのハイドパークともお別れとなった。
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2018年11月24日

英語9歳の壁

英語の発音が悪いのと音痴は生まれつきと納得していた。しかしRとLを区別して聴けないことが不思議だった。rightもlightも私の脳に入るとカタカナに自動変換されてライトになってしまうのだ。それが日本人として普通なのだと知ったのは最近のこと。「英語9歳の壁」である。理解したわけではないが、皆と同じと思ったら気が楽になった。

ところで、虚弱体質で一番苦しいのは零細企業での肉体労働。比べれば自衛隊は楽だ、万一倒れても病気休暇があるから安心である。しかも1年半の勤務で身体を動かしたのは新隊員教育の3ヵ月だけだった。

専門教育は飛行管理だが、この3ヶ月が一番楽しかった。中学卒業後6年、初めて肉体労働から解放されて前途に希望をもつことが出来た。最初の1ヵ月は英語、教材はアメリカンランゲージコースと言うタイトルで全て英語、ひょっとして米空軍が作成した外国人に教えるための教材だろうか。当時としては珍しく内容の全てが録音されていた。

ブースと呼ばれる教室には最先端の語学練習機がズラリと並んでいた。発音はそこで学ぶのだが、中学で教わった発音とは大きく違っていた。おはよう、こんにちはのグッモーネン、グラフトヌーンはいいとしても、センクサラーッ、ナラローウが、"ありがとう"と"どういたしまして"なのかサッパリ分からない。何回聴いてもそう聴こえる。

教材に一番多く載っている語句だが、私の脳を通すと途端にカタカナに変換される。Thanks a lotは センクサラーッに、Not at allはナラローウと聴きとれる。その頃はRとLの発音を厳しく注意されるので口真似はしたが、聴き分けられなくて悩んでいた。日本人の教官がライトと二回言えばどっちがRか口先を見れば分かるけどね。

最近知ったことだが「英語の音をとらえる力 というのが、実際に9歳ごろから失われていくと言われている」。9歳の壁だそうだ。私が経験した57年前と比べると今は英語環境はかなり違ってきている、壁の無い人、薄い人、いろいろあると思うけど、私の壁は原子炉並みだから英語は入れない。無理して入って来てもたちまちカタカナになってしまう。

訓練中の3ヶ月だけだが朝から晩まで英語漬け、最初の1ヶ月は一般英語、後の二ヶ月は業務用英語。毎日試験はあるし英語、英語で頭はいっぱいだ。それなのにゲートの前には自衛隊反対のデモ隊が押しかけて来て「銃を捨てて働こう」とか叫んでいる。職が無いから入ったのにね。仮に銃を捨てるとしても何処にあるかも知らないのだ。

終了試験も良い成績で終了、いよいよ実施部隊に行くことになった。訓練期間は21歳までの人生で一番楽しい三ヶ月だった。行先はジョンソン基地にあるフライトサービス、そこでは沢山の英語ペラペラ隊員が働いていると聞いていた。私も行って1年もすればそうなれるだろうと希望に胸を膨らませていた。次回のタイトルは「聞いて極楽みて地獄」。

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2018年11月17日

自衛隊体験記

職を転々し定職に就くのに9年もかかった。行き場がなくて自衛隊に入ったこともある。体験入隊みたいなもので、国民の為には何の役にも立てなかった。今まで内緒にしていたが、自分史のつもりなので包み隠さず全てを書くことにした。話さなかったことも書き易い事から徐々に明かすつもりだ。1年半の間に4か所も転々とした。おまけに任期を全うしない中途退職だから情けない。ともかく運よく食いつなぐことが出来のである。

1960年頃は自衛隊採用難の時代である。積極的に志願する人は少なく、殆どは募集担当者による一本釣りだ。「大型免許も取れるよ」とか言ってね。彼らは人集めに凄く苦労していた。時にはポン引きの疑いで逮捕されたりした。職業安定法違反だそうだ。こんな状況だから虚弱体質の私も採用され、新隊員教育を受けることになった。当時の教育担当者は厳しい訓練をしなければならないけれど、辞められても困るという微妙な立場だった。お陰で三か月の新隊員教育は無事終了した。

次の課程は専門教育だが、再就職に役立てたいと言う私の願いとは異なり飛行管理とかいう世間に無い職種だった。運転適性検査にも合格していたが、英語試験の結果上位15人は否応なく飛行管理に指定された。後になってその必要性がよく分かった。上位といっても後ろの方は20点程度だそうだ。百人以上はいたと思うけれど、中学程度の英語が分かる人は三人もいなかったと思う。あとで一緒に教育を受けてそう思ったのだ。

発足6年の航空自衛隊は教育資料にアメリカ空軍のマニュアルをコピーして使っていた。したがって専門教育終了試験も全部英語だ。5答択一式だから手紙を書く力が無くても受かるし、専門用語をキチンと覚えていれば合格できる程度の部内試験だった。しかしほとんどの隊員は中学の英語もろくろ知らないのだから極めて高いハードルである。

毎日がぺーバーテストから始まる。昨日習ったことは翌日にデイリーチェック、そして週末にウイークリーチェック、月末にマンスリーチェック、教育終了時はファイナルチェック。ファイナルに受かることが唯一の目的で、自衛隊らしい訓練をした記憶はない。私にとっては一番幸せな三か月だった。不器用でノロマだが暗記だけは得意なのだ。それに中学の英語も出来ないけれど英語は大好きなので授業が楽しい。

配属先は飛行管理隊、ここで働くために訓練を受けたのだが実務に就いたら全然ダメだった。仕事は日本各地の米軍基地からのフライトプランを電話で受けるのだが、米兵の英語を聴きながらタイプするのは凄く難しかった。好きな英語で飯が食えると思ったが大間違い。半年たっても出来なかったが、自衛隊はいろいろな職種があるから首にはならない。転属を希望したら直ぐに許可された。出来る人は絶対に放さないのにね。
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