2020年12月12日

不思議な人-2

自分史のつもりでブログを書いていると、昔のことが芋づる式に思い出される。時には粉飾されてね。ひょんなことから、半世紀以上前の大切な手紙が見つかった。中学時代に川野さんから来たものだ。冒頭にこう書いてあった。「トンボって、真夏の暑い時は涼しい山に居て、里が涼しくなると、おりてくるのですね」。

川野さんにとって、学校も文芸クラブも熱いバトルの場と思う。涼しい下界に降りたい時もあるだろう。それが週一回の二人勉強会なら幸いだ。私に文章の書き方を教えることが、夕涼みになってくれれば有難い。昔なら思いもよらぬ考えが頭に浮かぶ。今は退職して自由の身だから、束縛するものが何もない。考えれば考えるほど、自分に都合の好い方向へとなびいてしまうのだ。

次にこう書いてあった。「病院まで一緒に行ってくれてありがとう。こんなお願いは貴方にしか言えません。私の甘えです」。

二人勉強会の時、突然川野さんが黙り込んで、苦しそうな顔をした。最初は、やる気のない私に気づいたかなと心配した。短い沈黙の後で、「病院に行かなければならないけど、少し心配なの。一緒に行ってもらえない?」と、かすれた声で言った。

道々、川野さんには持病があって通院していることを聞いた。待合室で診察に呼ばれるまで一緒に待っていた。やや長い診察が終わると、待合室に居る私を見て「あら、まだ居たの」と言った。何だか悪いことしたような気がしてドギマギした。私にとっては、忘れたい出来事だが手紙を読んだら思い出した。

手紙には、「神経衰弱(昔の表現)で我が儘な気持ちを抑えられないことがあるのですが、貴方は何時も冷静に受け止めてくれていました」と書いてある。今にして思えば心の病かも知れない。

文芸が好きなフリして教えてもらっていたけれど、私には化学の実験とかアマチュア無線とか、他に好きなことがある。興味のないことにはどうしても身が入らない。ただ川野さんのそばに居ることが、とても心地よかった。

今、手紙を読むと、甘えとかの表現、あるいは、我が儘を許す私への感謝の言葉が拡大されて心に届く。教える時は無駄話をしない川野さんとは大違いだ。そういえば手紙には「良き友を持つ幸せをいつも感じています」と書いてあった。

少年時代の私にとって、川野さんは教え魔のような不思議な人。一方、自分自身のことは、恥ずかしながら片思いの人と思っていた。だが、今は違う。長い年月で嫌な思いはそぎ落とされて、いつの間にか少年時代の淡い幸せな記憶に変わっている。老人力の成せる業と思う。
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2020年12月05日

不思議な人-1

運動も勉強も苦手なのに、10年に1回くらいは褒められた。中学生のころ、国語の時間に私の書いた作文『夜明け前』が、佳作の一つとして発表された。それだけでも嬉しいのに、朗読してくれたのがクラスきっての文学少女、川野さんだから喜びもひとしおだ。彼女の朗読は先生より上手く、中学生なのに女性の雰囲気がある。私にとっては近寄りがたい存在だった。

ある日、憧れの川野さんから、文芸クラブに入らないかと誘われて大喜び。しかし、文章は書けないし、文芸に興味もない。それなのに入りたいから悩ましい。こんなことは正直には言えないから、「書くのは苦手ですがいいですか」かと聞いてみた。「『夜明け前』を書いたでしょ。あの調子でいいのよ。文章の上手い人ばかりだと、同じような作品ばかりになってしまうの」と言ってくれた。

川野さんは色白で細面、髪は後ろで束ねただけの、スラリとしたスタイルの生徒。私を書くのが好きな人と誤解してくれたようだ。週に一度の例会には欠かさず参加した。文芸とは全く縁がないのに、彼女に誘われると、コロリと入会してしまった。川野さんが好きと会員に気付かれたら恥ずかしいから、文芸好きのフリをした。

全く書けない人であることは直ぐにバレた。川野さんに「二人で勉強しましょう」と言われてワクワクした。皆に気づかれないように、やろうと言われて、何故かドキドキしてしまった。歩いていてもフワフワする。地に足が付かないとは、こんな感じかも知れない。

何もかもスッカリ忘れて大喜び。川野さんは文章の書き方について、手取り足取り一から教えてくれた。私は彼女の声に聴き惚れるだけで、中身はサッパリ頭に入らなかった。

川野さんは私の出来が悪くても少しも気にしない。手書きの資料を自分で作って持って来てくれた。凄く嬉しかったけど、私には難しすぎた。こんなことが1年以上も続いた。だけど私はさっぱり上達しない。ただ二人で過ごすことが夢のように楽しかった。

あれは一体何だったのだろう。川野さんは終始優しく、文章の書き方を教え続けてくれた。勉強だけで、ほとんど無駄話がない。私が上達しなくても、励まして教え続けてくれた。どうしてだろう。感謝の気持ちでいっぱいだが不思議にも思っている。今さらだが、大昔にもらった一通の手紙を改めて読み返してみた。
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2020年11月21日

高校はどうなんだろう?

80歳になるが、人生は常に二人連れ、情けない私と、それを見て面白がっている私。普通、学生時代と言えば大学だが、私の最終学歴は中学まで。家が生活保護を受けていたので、高校には行かないと決めていた。貧しくても保護を受けない家庭も多い。私だって自立したい。その為の就職だから迷いもなかった。

それでも中学は楽しかった。ユニークな友人もいた。化学と悪戯が大好きなオパーリン、大人の世界を知っているコメヤ、落語と無線が大好きな天才ユガワ君、彼等から多くの刺激を受けたし、勉強にもなった。中学は自由を満喫できる世界だった。

昔も苛めは多かった。安全保障がなければ楽しい中学生活は送れない。大ちゃん は友人と言うよりも、親分のような存在だった。ケンカの話をするのが大好きで、話の終わりは「苛めるやつが居たら俺に言えよ」と、締めくくる。この一言が有難い。

アルバイトをし、友人もいる。安全を保障してくれる親分までいて、中学生活はとても快適だった。もちろん勉強もした。社会と理科が好きで、放課後は図書室と実験室に入り浸っていた。

国語はつまらない、図書室で本を読んでいる方が楽しい。数学は根っから苦手、英語はABCが書ければ充分だ。実はアメリカ人(一人はアラバマ州で、もう一人はミシガン州)と文通をしていた。英語は知らなくてもコレスポンデンス協会とかで翻訳してくれる。私は翻訳された英語を写すだけだった。

家は貧乏なのでアルバイトのお金は半分以上、生活費の足しとして家に入れた。それでも学用品、昼食、映画に使う金は残った。テレビもパソコンもない時代は、アルバイトしながら学校にに行っても友人と遊ぶ時間はたっぷりあった。

友人と化学の実験をしたり、アマチュア無線をしたり、大ちゃんと10人くらいの仲間と街をブラブラしたり、一人で映画を観に行ったり、中学時代が一番楽しかった。人生は自分と二人連れ、自由に使える金が幾らかあれば、それで充分だ。大学に行ければもっと楽しかったと思うが、高校はどうなんだろう?
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2020年10月31日

夜明け前

何をやってもダメだがら、心ならずも無趣味となった。お粗末なので、趣味とは言えないけど、歌と駄文をやっている。ところで、退職したら凄く楽しくなった。苦手なことは、やらなくて良いのに、やっても良いからだ。今では楽しく歌って書いている。凄く古い話だが、作文「夜明け前」は私にとって最高の思い出となった。

歌はともかく駄文については、中学時代にホンの少し書いたことがある。夏休みの宿題に「文集」があったので、政治及び社会批判を書こうとした。気が小さいのに、考えることだけは大きかった。けん玉が上手くなれたら、もっと子供らしく生きられたと思う。

ところが、切手収集が趣味なので、文集にはこんなことを書いた。「吉田の切手があったなら、多分額面一万円、吉田はワンマン、一万だ」。吉田首相が長年にわたり指導力を発揮していた時代だが、ワンマンとして批判されていた。これを書こうと思い新聞を切り抜き、資料を集めたりして大奮闘したが、評価は最低。三日がかりで、一万円切手をデザインして描いたのにガッカリだ。

庶民にとって、テレビは高根の花だったので、一番人気のプロレスについて書いた。反則に腹が立って書いたのが「殺人スナブル」。同じくゼロ評価だが、「ショーだから本気にするな」と添え書きがしてあった。だけど私は、テレビがあるフリをしたかっただけ。実は、近所の食堂がテレビを導入、何も食べなくても、10円払うと立ち見をさせてくれたのである。

宿題の課題は「文集」だから、もう一つくらい書かなければと思い、提出前日に書いたのが「夜明け前」。午前4時に自転車に乗り、青山7丁目から並木橋S新聞販売所に行くまでの風景と体験を順々に書いただけ。スラスラ書けて、30分もかからなかった。

我が家には自転車はなかったが、ペンキ屋の息子が後ろに乗せてくれた。彼は猛スピードで坂道を下る。自分が運転していたら絶対に出来ないが、彼の腕を信頼していたので怖くない。空襲で破壊された道路は、復旧してもほとんどが砂利道のままだった。近所で唯一の舗装道路を猛スピードで走る気分は爽快だった。こんな気持ちを思うがままに書いたら、高評価を得てしまった。

努力は報われないものだ。「吉田はワンマン」は、一週間かけて資料を集め、整理して10ページに纏めたのにゼロ評価。一方、「夜明け前」は員数合わせにチョコチョコと書いただけ。決して、中学は不公平ではなかった。私の頭が変なのだ。
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2020年06月06日

お富さん

映画でもテレビでもドラマは大好きだ。つまらなくても最後まで観る。アッと言うような面白い結末があるかも知れない。お富さんと与三郎は、それぞれ日陰の身でありながら惹かれ合っている。死に苦しみに遭いながら、何故か気が合う。

春日八郎の歌う「お富さん」は、もともと歌舞伎から来ているので、短い歌詞に与三郎の気持ちが纏まれている。この歌は、アッと驚く場面から始まる。死に損ないの与三郎が、死んだはずのお富さんに、バッタリ会ってしまう。♪死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん♪ 

大店のドラ息子与三郎(切られの与三)が、木更津でやくざの親分の妾である、お富さんと深い中になってしまう。それがバレて、与三郎は親分らに滅多切りにされ、簀巻きされて海に投げ込まれる。それを見たお富さんは海に身を投げるが、何処かの大番頭に助けられ、その男の妾となる。

3年後、与三郎が訪れたのが大番頭だった男の妾宅。そこで死んだと思っていたお富さんに偶然の再会。歌はここから始まる。気になるのは、♪今じゃ呼び名も 切られの与三よ これで一分じゃ お富さん エーサオー すまされめえ♪ 

金一分は約2万円だそうだ。滅多切りにされ簀巻きにされて海に放り込まれた、お詫びにしては安過ぎる。この辺りの事情は歌舞伎になったのだから、知っている人は多いと思うが、私は知らないまま歌っている。

お富さんが流行った頃は中学生。体調を崩す前のことだった。つまり、元気だった時代だから、学校も、アルバイトも、友達と遊ぶことも、全てが懐かしくて楽しかった。

スマホもオンラインゲームない時代は、学校とアルバイトの掛け持ちでも、遊ぶ時間はたっぷりあった。中学では「のど自慢」をして楽しんだ。一番人気の歌は「お富さん」だった。

お富さん  昭和29年(1954年) 
作詞:山崎正 作曲:渡久地政信   歌唱:春日八郎

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店(げんやだな)

過ぎた昔を 恨むじゃないが
風も沁みるよ 傷の跡
久しぶりだな お富さん
今じゃ呼び名も 切られの与三よ
これで一分じゃ お富さん
エーサオー すまされめえ

かけちゃいけない 他人の花に
情けかけたが 身のさだめ
愚痴はよそうぜ お富さん
せめて今夜は さしつさされつ
飲んで明かそよ お富さん
エーサオー 茶わん酒

逢えばなつかし 語るも夢さ
誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
ついてくる気か お富さん
命みじかく 渡る浮世は
雨もつらいぜ お富さん
エーサオー 地獄雨
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2020年02月08日

恋人よ我に帰れ

恋人よ我に帰れ(Lover, Come Back to Me)
ネットほど便利なものはない。検索すれば60年以上前の昔にもたどり着ける。10代のころは「恋人よ我に帰れ」が大ヒットしていたのでラジオではよく聴いていた。映画のタイトルは忘れたので少し手こずったが、60年ぶりに思い出のシーンに巡り合えた。

タイトルは『我が心に君深く(Deep In My Heart)』だった。この曲の作曲者を取り上げた1954年の伝記映画である。デュエットだが、ほとんどトニー・マーティンが一人で歌っていた。女性は終わりの方でチョッピリLover, come back to meと歌って抱きつくだけ。私の記憶には男性ボーカルしかなかった。

以上は、最近のユーチューブと関連情報により知ったこと。当時の記憶は曖昧だが、盗み見したことは確かだ。映画館の前を通ると、横が路地になっていて、ドアが開いているのが見えた。当時は冷房がないので風を通すために、光が入らない程度に開ける場合がある。映画音楽に誘われるような気分で入ってしまった。そこで「恋人よ我に帰れ」を歌うシーンに出会ったのである。

半世紀以上前のことだから、全て忘れていたが、素敵な男性が「恋人よ我に帰れ」を歌うシーンだけは覚えていた。夕暮れの海をバックにして歌う、ゆったりした感じが凄く好かったから印象に残った。10代は子供であり大人でもある。

この歌のここが好き。意味はともかくメロディーが大好きだ。
When I remember every little thing You used to do I'm so lonely
Every road I walked along I walked along with you No wonder I am lonely
参考のため人様の日本語訳を読む。
私たちがいつもしていた 些細なことを想い出すたびに とても寂しくなる 
あなたに寄り添って歩いた道を独りで歩いていると寂しくなるのも当然ね
作詞:オスカー・ハマースタイン2世
作曲:シグマンド・ロンバーグ
日本語訳:東エミ

ラジオで何回も聴いてお馴染みのメロディーだが、美しいカラーの風景をバックにすると、感動もひとしおだ。しかも映画で一回観ただけで、後は頭で想像した。空想の翼は勝手に羽ばたき、歌はいっそう美しくなった光景と共に、心の中に焼き付きついた。

戦後、パティ・ペイジがアップテンポで歌って大ヒットした。今では、この曲をスローテンポで聴くことは滅多にない。

ネットで六十数年ぶりで映画で観たワンシーンに再会して、少しだけ感動。現実は想像の中で、美しく育って行ったシーン程ではなかった。昔、好きだった人に60年ぶりで会ったら、こんな感じかも知れない。それでも会えれば嬉しくて、少しは感動するだろう。Lover, come back?!
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2019年09月21日

隠していたこと

このブログ、「空白の22年間」は写真、文書、物品等が何も残っていない22年間を、記憶だけを頼りに書いている。開設して2年近くなるが、幼少期から現在に至るまでを書いているのに、まったく触れていない部分がある。最も書きにくい部分が残ってしまったのだ。私の人生に最大の影響を与えた部分だが、書くか書かないか未だに迷っている。

私と同年配の人達は、日本のどん底からバブル景気、そして長い低迷時代を生きて来た。家庭に電話が無い時代からスマホの時代まで駆け抜けて来た。汲み取り便所からシャワートイレまでの経験がある。仕事に使う自転車を買うのにに苦労した時代から趣味で車を買える時代に……。前置きばかり長くなり、なかなか本題に入れない。

書きにくくて書かなかったことは、我が家が生活保護家庭だったこと。先ず、高校に行くことなど考えられない。自分の意思として中学を出たら働いて、保護の要らない家庭にすることが第一と考えていた。当時は貧困の時代、友人の家庭を含め、多くの貧しい人々が体が弱くても栄養失調でも保護を受けずに頑張っていた。命がけで働く時代だった。

2歳年上の次兄は成績優秀なので、先生が進学を勧めに何回も来た。金持ちの同級生も父が金銭的援助するからと進学を勧めに来た。次兄は彼が家に来ることを凄く嫌がっていた。先生も同級生も保護を受けていたら進学など出来ないことは知らないらしい。あるいは我が家が生活保護家庭であることを知らないのかも知れなない。先生は担任ではなく、自らも夜間の大学に通う苦学生で、貧しい生徒の進学に情熱をもって支援していた。

法的には知らないが生活保護を受けていたら高校には行けない、ただし働きながら定時制高校に行くことは目をつぶる、と言うのが当時の空気だった。私は次兄の進学騒動を見ていたので最初から高校に行く気はなかった。目をつぶると言うような曖昧なことでは、定時制高校にも行きたくなかった。

そんなときガキ大将の大ちゃん が雑誌を持って来た。そこには自衛隊の制服を着た少年が整列している写真があった。大ちゃんは「格好いいだろう。俺と一緒に受けないか」と言った。結局、3年生4人が受けることになった。受かったのは私一人。大ちゃんは商船高校も落ちて、水産高校に行き、他の二人は普通の高校に行った。

これで私は、生活保護の子供と知らない世界に行けると喜んだ。しかし未成年だから入隊には親の許可が必要だ。母は最初は渋っていたが、5400円の給料の内4000円を送金すると言ったら許可してくれた。働きながら定時制に行っている兄も二人いるし、これで生活保護から抜け出せると、私も前途に期待することが出来た。中学で就職する最大の理由は、生活保護家庭の子供と言う恥ずかしいレッテルを剥がすことだった。
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2019年08月31日

You’d Be So Nice To Come Home To

勘違いのユード・ビー
音痴だから音楽については語れない。初めて読む方もおられるかも知れないので、繰り返し書いている。とにかく腹の中は音楽のことでいっぱいだ。漏れそうなので書いている。話すのは電車の中で漏らすようなものだが、書くのは太平洋の真ん中で漏らすのと同じ。だから話してはいけない、書くのはかろうじてセーフ。

1943年にコール・ポーターが作詞作曲した名曲、「You’d Be So Nice To Come Home To」はカタカナで書くと長すぎるので、ここではユード・ビーと省略して書くことにした。歌はハスキー・ヴォイスのヘレン・メリルだが、クリフォード・ブラウンのトランペット・ソロも素晴らしい。

ところで、小・中学生の頃は洋画が大好きで、渋谷のテアトルSSに通っていた。古い洋画を40円で観れるのだ。少なくとも百本以上は観た筈だが殆ど覚えていない。しかしユード・ビーのお陰でコール・ポーターの自伝映画「夜も昼も」を思い出した。なぜか戦地でピアノを演奏するシーンが浮かんできた。

真偽のほどは不明だが、映画でのコール・ポーターはフランス外人部隊として参戦したことになっている。これで何とか私の記憶と繋がった。私にとってはユード・ビーも懐メロだが、古い歌は忘れたことを思い出させてくれるので有難い。

ユード・ビーは第二次世界大戦という時代背景を抜きにしては語れない。私が特に好きなのは次のフレーズだ。
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin'above

このフレーズを聴くたびに、戦場で戦う兵士の姿が目に浮かぶ。寒いだろう、暑いだろう、怖いだろう、故郷に帰りたいだろうとか考えてしまう。ところがこれが大間違い。音痴は歌だけでなく英語へと範囲は限りなく広がっている。

私の考えを確認するために、ネットで検索していたら、ユード・ビーの正確な和訳にたどりついた。以下は、"You'd be so nice to come home to 歌詞 正確な和訳 高知学芸塾"、ジャズの世界へご招待より引用。

『映画の中で男性がこの歌を歌いながら女性を口説いているシーンで使われたのをヘレンメリルが歌ってヒットしたのです。この詩はもとは男が、「君キャワイイねえ!君最高!君は理想の人だ!君は天国だ!」とべた褒めしている歌なんです』。女性を口説いている歌とは知らなかった。愚かにも勘違いして感動!

興味がございましたら、"You'd be so nice to come home to 歌詞 正確な和訳 高知学芸塾"で検索して、参照元にアクセスしてみてください。私には難しかった。
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2019年02月09日

学生時代は楽しかった

学生時代は楽しかったなぁとか言っても、私の場合は中学生時代のことである。アルバイトはしていたし、好きな科目だけ選択して勉強していた。つまり、授業によっては居眠りしたり好きな本を読んだり、あるいは空想したりして過ごすのだ。放課後は理科室に入りびたりで化学の実験に熱中した。宇宙旅行協会とかいう怪しげな会に入って、空想みたいな勉強ごっこを楽しんだ。会誌にロケットの作り方など書いてあったがデタラメだった。

映画を観たり買い食いをしたりする自由があった。親しい友人も何人かいた。驚くべきことに成績最優秀の友人もいた。天才ユガワ君ある。一番好かったことは、頼りになる親分肌の同級生に出会ったことである。彼のお陰で苛めにも遭うこともなく自由を謳歌した。嘘みたいな話だが事実に基づいて書いたつもりだ。訳あって高校に行く選択肢はなかった。しかし、(中)学生生活は最高に楽しかった。

中学時代一番の思い出は、大ちゃんと呼ばれていた加藤大輔君との出会いである。体格が良く歌や絵の上手い親分肌の生徒。クラスの人気者でもあるが、何故か、取り巻きは私のような情けない感じの同級生ばかり10名くらいだ。表の特技は鉄棒等の器械体操、裏の特技は喧嘩だが、体格と威勢のよさでで相手を圧倒する猛者である。

大ちゃんは授業中に退屈すると精密にしてワイセツな絵を描く。そして教室内で回覧させたりする不良生徒でもあった。しかし、違う面も持っていた。校内で放送劇を上演するとき、先生の推薦で主役をやると、まるで声優のような語り口で女生徒たちを魅了した。勉強以外は何でも出来る人だなと思った。

テレビも一般家庭には普及していない頃なので、よく大ちゃんの家でお喋りをした。その後で街をぶらついたが、時々貧民窟に行く。そこには私が終戦後に住んでたような焼けトタンのバラックが無秩序に建っていた。そこに大ちゃんの彼女が住んでいると言う。

「中山が住んでいるんだよ。好きなんだ。アイツ可愛いだろう?」と同意を求めるが、そうでもない。中山さんは隣のクラスの女生徒だが、ごく普通で目がデカいだけだ。大ちゃんはクラスの人気者で女生徒にもモテモテだ。それが何故あの子にと不思議でならなかった。

世話になった大ちゃんの人となりについては、一番思い出の深い同級生として、大ちゃん〜幻の決闘に書いた。中学時代に苛めに遭わなかったのは大ちゃんのお陰と今でも感謝している。楽しく過ごすには欠かせない存在だった。コソ泥と苛めは自己責任で対応する時代だった。新聞は毎日読んでいたが、なぜか苛めが記事になった記憶はない。
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2019年02月02日

ハイヌーン

ハイヌーン(真昼の決闘)
私は音痴だから音楽を語れない。ただそれにまつわる思い出はある。映画「真昼の決闘」のテーマソングはハイヌーン。この映画は主役より脇役の悪玉の方が格好いい。最初に観たのは中学生の時、その後の再上映、最近はビデオで観た。

小学高学年の頃から映画は観ていたので、中学に入ったら豆評論家みたいな気分になっていた。洋画専門で邦画は観ない。愚かな私は邦画は貧乏くさいと思っていた。新聞配達で稼いだ貴重な金だから外国の夢のような世界を見たかった。それに邦画は夜の校庭で開催される無料映画会でも観れたのだ。

同じクラスに洋画の大好きなY君が転校してきた。彼はパリッとした歯医者の息子で、私は薄汚れた貧乏人だが直ぐに仲良くなった。と言うか他に洋画を日常的に観ている生徒などいなかったのだ。年を取って3秒前のことも忘れるようになったが、洋画のことは今でも覚えている。多分、Y君も同様と思う。

さっそく、二人で観にいったのは異色の西部劇として話題になった「真昼の決闘」である。異色とはありふれたものと違うこと。中学生の私はもの凄く迫力のある決闘シーンを期待した。しかし決闘は最後にちょっとあっただけだ。私たちは「大したことなかったね」とか言いながら映写室を出たところで警察に捕まった。

ロビーで中年男二人に声を掛けられた。「お前ら中学生じゃないか?」と威圧的だ。頷くと「学校さぼったのか」と畳みかけて来た。私服警官の職務質問と分かり怯えてしまった。Y君は黙って下を向いている。蚊の鳴くような声で「日曜が運動会だったので代休です」と答えた。学校はどこだ、住所氏名はと聞かれた。

帰りは黙り勝ちでとぼとぼ歩き、映画の話どころではなかった。Y君は家に電話を掛けられて両親に知られることを凄く心配していた。遊びに行ったことがあるが、子供部屋を与えられ裕福な暮らしをしていた。一方、私は6畳大のバラックに親子6人だ。職務質問は二人の家庭環境の違いを思い知るできごとだった。

私はひたすら学校のことを心配していた。今までだって叱られてばかりだったのに、警察沙汰を起こせば先生に目を付けられる。先生には絶対に知られたくなかった。それなのに、嘘ついてバレることを恐れて住所氏名学校名をあっさりと言ってしまった。

凄く心配したが、学校では朝礼で一般的な注意があっただけで済んでしまった。当事者である私たちには、何のお咎めも無かった。多分警官は事実関係を確認しただけで氏名は知らさなかったのだと思う。その後、Y君とは疎遠になってしまった。

大人になってから観ると確かに異色の西部劇だ。保安官が年寄り臭くて悪玉の方が若くて格好いい。悪玉が復習に来るから助けてくれと多くの市民に頼んでも誰も助けてくれない。結局、一人で4人と戦う羽目になる。最後は悪玉4人を夫婦でやっつける。そして新婚旅行に行く。現実から始まり非現実で終わる。これがリアリティのある大人向きの作品に仕上がっているから面白い。ハイヌーンと言えば「真昼の決闘」、それに関する個人的な思い出を書いてみた。
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2017年12月23日

初めての酒

私の人生は酒とパソコン抜きには語れない。酒には弱いし、算数が苦手なのでコンピュータのことも全く分からない。それなのに何故? この二つに共通しているのは一人でも出来ること。誰もがそれなりに楽しめること。つまり孤独で不器用でもやれるのだ。

年の暮れになると大ちゃんちの新年会を思い出す。あの日初めて酒を飲みゲロを吐いた。中学卒業を前にしてのことだった。大ちゃんの家は空襲に遭わなかったので古くて大きい家だが、生活は苦しいようだ。美人で快活なお姉さんはバスガールをして家の生活を助けていた。お母さんは本当に優しそうな人だった。

新年会は男子同級生数人でミカンなどを食べながらの雑談で始まった。話題が途切れると大ちゃんはニヤリと笑い奥の部屋に行こうと言った。北側で炬燵も無いのでジャンパーなどを着てしのいだ。彼は「寒いな飲もうぜ」と言って押し入れから一升瓶を出した。

オヤッと思ったがビックリはしなかった。冬休みだし正月だ。それに皆は経験があるようだし、私にも好奇心はある。初めて飲んだが不味かった。湯呑に注いだ酒を早く片づけたいと思い一気に飲んだ。大ちゃんは行けるじゃないか、もっと飲めと言って並々と注いだ。よせばいいのに飲めるふりした。心臓がドキドキして頭に血が上って敢え無くダウン。

起こされたが酔いは醒めない。お母さんが皆さんで召し上がれと言ってお汁粉を持ってきてくれた。酒は止めなさいと言うサインだと思う。お汁粉を食べたら胸がムカムカして吐き気がしたので、窓から首を出して吐いた。食べたばかりのお汁粉が勢いよく口から飛び出し、少しだけ気分が良くなった。しかし庭が汚物で汚れたと思う。

後で考えると大ちゃんの家には随分迷惑をかけたものだ。今思うと不思議だが叱られたり非難されたりした記憶がない。愚かな私は酒に酔って吐くのは当たり前と考え、特に反省もしなかった。嘔吐物の後始末の経験もないので、後片付けの苦労にも考えが及ばなかった。初めてなのに酒飲みの悪行をシッカリとやってしまった。しかも未成年者飲酒禁止法違反である。今になっては遅いけれど深く反省。

今日の物忘れ:エレベーターの扉が開かない。故障? 実はボタンの押し忘れ。

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2017年12月02日

大ちゃん〜幻の決闘〜

中学3年の頃だが忘れられない同級生がいた。大ちゃんと呼ばれた親分肌の生徒である。友人と言うよりも親分子分の関係に近い。彼の呼び掛けで10人くらいの子分が集まる。15歳の大ちゃんは体格がよく大人並だった。

中学時代当時も苛めが多かった。大ちゃんは「苛める奴がいたら俺に言え、片をつけてやる」と頼もしい。彼はアルバイトでトラックの助手をしていた。運転手が生意気だからぶん殴ってやったとか武勇伝を面白可笑しく聞かせてくれる。

ある日、意地悪なA君に呼び付けられた。毎度のことだが放課後氷川神社に来いと言うのだ。大ちゃんに相談すると、一緒に行くから心配するなと言った。A君は神社の近くの林の中で空気銃を持って立っていた。彼が無理難題を押し付けるときは必ず空気銃を持ってくる。私はそれを見ただけでビビッてしまうのだ。

気が弱いので空想の中で仕返しをする。A君をメタメタにやっつけて「ゴメンナサイ。もう決して苛めません」と泣かせて謝らせる夢を見る。今回は空想でなく大ちゃんが付いている。夢は正夢となるだろう。「お前はここで待ってろ」と言い捨てて大ちゃんはA君に向かって行った。いよいよ始まるぞとワクワクした。大ちゃんにとって同学年のA君なんか朝飯前だ。何しろ大人のトラック運転手だって叩きのめすのだから。

期待に胸を膨らませて二人を見ていると。あれれ、まるで仲良しだ。A君も大ちゃんも笑っている。まさか二人で私を笑い者にしているのではないだろうな。一体どうなっているんだ。疑念がわいてきた。しばらくすると大ちゃんは意気揚々と引き上げてきた。「話しつけて来たからな。もうAはお前に手出しはしない」と厳かに言った。その後苛めはなくなった。

安心はしたがガッカリもした。解決はしたものの大ちゃんはA君を懲らしめてはくれなかった。私を苛め尽くしたことは、無かったことになったのだ。助けてくれた大ちゃんに感謝したのは大人になってからである。

A君は空気銃、大ちゃんは腕力、お互いに強力な武器を持っているが、話し合いで解決をした。「子分」のもめ事でいちいち喧嘩をしていたら「親分」をやって行けないだろう。大ちゃんの様な生徒は今も居るに違いない。事件にならないから報道されないが。そして私の様な愚かで恩知らずの生徒もいるだろう。助けてもらったのにお礼も言わない。自分の思い込みが強すぎて助けられたことに気付かないのだ。その代り今でも時々思い出す。

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