カテゴリの説明
自分史のつもりで書いているが、老後は穏やかに過ごしたいので事実に基づいたフィクションとした。人物は全て仮名、地名及び学校等機関名は一部仮名、時代だけは正確を心掛けている。
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幼児時代
戦争から敗戦への激動の時代は、私にとっては激変の時代。国破れても個人の闘いは続く。生命の危険を感じた父は母子4人を残して逃亡、行方不明となる。残された4人は豪邸から焼け跡のバラックに転居。それでも幼児の私は苦しくも淋しくもない。一つひとつの出来事を一コマの絵として記憶していても、なぜか感情を伴っていないのだ。
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小学時代
小学校に入ってから3年間は金で悩んだが、4年生の時、中学生以上でないと採用されない新聞配達のアルバイトを得た。運がついたのだ。その代わり収入は中学生の半分以下だった。それでも学費の残りで映画も観れたし買い食いもできた。収入を得たら金で、うなされることは無くなった。何が何円、何が何円の連続の声、最後に「わー」と叫んで目を覚ます夢を見なくなったのだ。
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中学時代
新聞配達の他に木工所でもアルバイトをした。テレビも電子ゲームも無い時代は、それでも遊ぶ時間があった。図書室と理科実験室のある学校は大好きだった。卒業したら就職するので最後の学校生活を思い切り楽しんだ。今でも友や先生のことを思い出す。
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転職時代(15-23歳)
フルタイムの仕事は苦しかった。いろいろな仕事を一生懸命やった結果、肉体労働は無理な体と自覚した。意外にも国家公務員試験は学歴を受験資格としないことを知った。航空管制官試験は専門科目が英語なので独学も出来そうだ。この時も運がついた。世の中はオリンピック景気に浮かれ、英語が出来るのに安月給の公務員に応募する人は少なかった。後で知ったことだが大学(短大)新卒者は僅かだった。合格者の半数は採用を辞退した。お陰で採用された。

戦争から敗戦への激動の時代は、私にとっては激変の時代。国破れても個人の闘いは続く。生命の危険を感じた父は母子4人を残して逃亡、行方不明となる。残された4人は豪邸から焼け跡のバラックに転居。それでも幼児の私は苦しくも淋しくもない。一つひとつの出来事を一コマの絵として記憶していても、なぜか感情を伴っていないのだ。
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小学校に入ってから3年間は金で悩んだが、4年生の時、中学生以上でないと採用されない新聞配達のアルバイトを得た。運がついたのだ。その代わり収入は中学生の半分以下だった。それでも学費の残りで映画も観れたし買い食いもできた。収入を得たら金で、うなされることは無くなった。何が何円、何が何円の連続の声、最後に「わー」と叫んで目を覚ます夢を見なくなったのだ。
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新聞配達の他に木工所でもアルバイトをした。テレビも電子ゲームも無い時代は、それでも遊ぶ時間があった。図書室と理科実験室のある学校は大好きだった。卒業したら就職するので最後の学校生活を思い切り楽しんだ。今でも友や先生のことを思い出す。
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フルタイムの仕事は苦しかった。いろいろな仕事を一生懸命やった結果、肉体労働は無理な体と自覚した。意外にも国家公務員試験は学歴を受験資格としないことを知った。航空管制官試験は専門科目が英語なので独学も出来そうだ。この時も運がついた。世の中はオリンピック景気に浮かれ、英語が出来るのに安月給の公務員に応募する人は少なかった。後で知ったことだが大学(短大)新卒者は僅かだった。合格者の半数は採用を辞退した。お陰で採用された。
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定職職時代(24-60歳)

ノロマで不器用では管制官は務まらない。しかし9年間も職を転々としたので、世の中には絶対出来ないことと、我慢すれば出来ることがあることを知っていた。我慢に我慢を重ねて定年まで勤めると決めた。60歳6ヶ月で退職。運よくハッピーリタイアメント!
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自由時代(61-74歳)
自由になったのだから何でもやってみようと意欲満々だが出来ることは何もない。そこで中島公園に関するサイトを開設した。5年たったら北海道新聞のコラム「朝の食卓」の執筆依頼があった。「HP中島パフェ運営」として2009年から2年間書いた。文章はろくろく書けないのに運がついた。中島公園についての新聞、テレビ、ラジオ、情報誌等の取材には積極的に応じた。
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自由になったのだから何でもやってみようと意欲満々だが出来ることは何もない。そこで中島公園に関するサイトを開設した。5年たったら北海道新聞のコラム「朝の食卓」の執筆依頼があった。「HP中島パフェ運営」として2009年から2年間書いた。文章はろくろく書けないのに運がついた。中島公園についての新聞、テレビ、ラジオ、情報誌等の取材には積極的に応じた。
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後期高齢(75-79歳)
退職後は自由で楽しいので、いろいろやってみた。はしゃぎ過ぎて体力以上に動いたせいで2回ばかり体調を崩して入院した。そこで考えたのが私自身の定年制。75歳定年と決めたが2年遅れて全てのボランティア活動を止めた。既にシルバーセンターのアルバイトも止めていたので、ひたすら駄文を綴りオンチに歌って楽しんだ。

退職後は自由で楽しいので、いろいろやってみた。はしゃぎ過ぎて体力以上に動いたせいで2回ばかり体調を崩して入院した。そこで考えたのが私自身の定年制。75歳定年と決めたが2年遅れて全てのボランティア活動を止めた。既にシルバーセンターのアルバイトも止めていたので、ひたすら駄文を綴りオンチに歌って楽しんだ。
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80歳以降

80歳の誕生日は無事に迎えると思っていたら、2020年に初めて手術をした。無傷の時代は終わり、新しいステージにはいったと自覚した。70代と80代は全く違うと気づき、このカテゴリを追加した。