2017年09月16日

地下資源で映画を観る

「高校時代から洋画ばかり観ていたよ」と先輩。
「私はアメリカ映画が大好きでね。小学生の頃から観てましたよ」
「金はどうした? 貧乏人なんだろう」
「お金は米軍空襲の残骸を掘り起こして作りました」

1950年には私も10歳になっていた。一面の焼け野原は復興され、生活は苦しいが地域社会は機能していた。そんな状況でも得体の知れない人々があちこちに点在していた。彼らは町内会にも入らず、地域住民は嫌っていた。養父は土地の人だが、私ら母子4人はよそ者だ。得体の知れない人と思われていたかも知れない。

「腹減ったなぁ。車庫にでも行くか」と次兄に誘われた。東京都交通局が運営している青山車庫のことである。戦争で焼け残った金属やガラクタも在る所には有った。その一つが青山車庫である。家から徒歩10分くらいだ。ガラクタ集積所は都電教習所の線路から少し離れた所にあり、時々訓練用電車が通過するだけだった。

電車は通過したばかりで人気のないことを確認して、二人でやっと持てる大きさの鉄棒を持ち出した。一人で持てるような廃材は既に持ち去られていた。銅なら金になるが鉄は安い。馴染みのクズ屋に持って行くと、足元をみられて8円しかくれなかった。甘く味付けされた小さなパンを買って半分ずつ食べた。この「仕事」も終わりだなと思った。

ところが状況が変わった。朝鮮戦争が始まると景気が良くなり、金属やガラスの値段が上がった。人々は食料不足対策でやっていた畑を止めて、その下を掘り返した。焼け跡の廃材目当てだ。電線は銅を使っているので高く売れるが滅多に掘り出せない。ガラスはザクザクと出てくるが資源としては一番安い。

ガラスを二貫目(7.5kg)集めると50円になるので、一番安い映画館(百軒店のテアトルSS)に行って、40円で洋画を観て10円でパンフレットを買った。今になると集めたパンフレットを無くしたのが痛恨の極みだ。職を求めて住居を転々とする中で全ての物を失ってしまったのだ。気づいてみれば手元に残ったのは母子で写った1枚の写真だけだった。

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2017年09月09日

ボートは漂っている

中島公園の近所に転居して早くも16年たった。夏のレジャーとして人気の高いボートだが苦手なので乗ったことがない。ただテレビに出たときに1回だけ乗る機会があった。たった15分だが嬉しい体験だ。8年前、UHB「トークDE北海道」の「豊平川花火の穴場、中島公園」という番組を収録した時のことである。

よせばいいのに「花火を見るにはボートからが一番ですよ」とか言ってしまった。地元では新住民とか言われていたのに、突然中島公園の達人とか紹介されてテンションが上がってしまったのだ。案内人の立場もわきまえず、いつの間にか想像でものを言っていた。いつもボートに乗って花火を見る人を羨ましく思っていたからだと思う。

リポーターさんに「じゃあボートに乗りましょう」と言われて焦った。ボートに関しては恥ずかしい思い出がある。例の転覆事故以来ボートに乗ったことがないのだ。蚊の鳴くような声で「漕げないのですが」と言ったら、「いいですよ。私が漕ぎますから」と、あっさり言ってくれた。有難いけれど情けない。

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たった15分だがボートに乗った。「中島パフェ」:中島公園から見る花火大会の変遷

本来ならば中島公園の案内役である私が、ボートを漕いで花火鑑賞スポットを案内すべきである。「達人」としてはとても恥ずかしい。私が名乗った訳ではないがカメラの前では否定もできない。煮えきらないまま達人を演じた。人生は芝居のごとしと言う人もいるが。

「芝居をしています」
「アンタがねぇ。嘘だろう」
「三分間のステージです」
「なんだ、カラオケかぁ」
「私にとっては楽しい猿芝居です」
「主役、脇役、悪役、いろいろあるだろう。アンタの役は?」
「子役です」
「ずうずうしい奴だな。年寄のくせに」
「幼児と老人は下手でも許される。自慢じゃないけど老人中の老人、最高齢です」

伴奏を付け、拍手までしてくれるのだから有難い。オマケに金もかからない。みっともないから止めろと言われても止められる訳がない。代りがあれば話は別だ。何かあるかな?

ところで半世紀ぶりにボートに乗る機会に恵まれた。乗ってみるとやっぱり楽しい。中島公園が違うアングルから見られるのだ。ボートを漕ぐ練習をして、ボート上から中島公園を撮ってみたい。そう思っても嫌な記憶が足を引っ張っぱり未だに実現していない。今年こそやるぞと思って8年たった。年を取ると年月が急速に過ぎて行くのに、私のボートはゆっくりと漂っている。進んでいるのか止まっているのかさえ分からない。

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢

2017年09月02日

百年以上続いた貸しボート

菖蒲池にボートが浮かぶ風景はなんとも言えない風情がある。しかし、私は60年前のボート転覆事故以来乗ったことがない。不本意ながら遠くから写真を撮って楽しんでいる。ボートもボート乗り場も好きだが未だに近づき難い存在だ。

前回の「ボートは怖いよ」に書いたが、「ボートの予約はできますか?」と聞くと管理人さんは自宅の住所氏名電話番号を書いてくれた。電話が無いとは意外だが丁寧な対応に感謝した。数日後、北海道新聞に「涼をはこぶ 中島公園のボート管理人 岩倉孝一さん」という人物紹介の記事が載っていた。私がもらったメモと同名だった。

記事によると乗客の半数以上は初心者だそうだ。安全第一で漕ぎ方も教えてくれると書いてあった。これなら私も乗ってみたいと思った。ボート乗り場が100年以上続いていることは本で読んで知っていたが、今あるチケット売り場が1943年に建てられたとは知らなかった。戦争中に設置された施設が今なお残っているとは驚きだ。
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青色の小屋が1943年に建てられたチケット売り場。

ところで岩倉孝一氏の名前はどかで聞いたことがあると思い、探してみたら我が家の本棚にあった。鴨々川と中島公園の年刊誌「Bocket第1号(2014年9月発刊)」のインタビュー記事である。「札幌のデートスポットを見守り続けてきた貸しボート屋さんのはなし」とういうタイトルの4ページにわたる読み物だ。

「菖蒲池の深さは180センチくらい。ボートから落ちたときは無理に泳ごうとしない方がいい。ボートは浮遊剤が塗ってあって水に浮くようになっているからボートにつかまるといい」。これを読んで更に安心した。文末に略歴。「いわくら・こういち 1938年生まれ。和食花月兼中島公園観光株式会社取締役。中央区中島公園出身。西区在住」とある。

ところで「Bocket第4号」が9月1日の鴨々川ノスタルジア開催に合わせて発刊された。私は「薄野生まれで中島育ちの子鴨」について2004年当時の思い出話を書かせてもらった。
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古民家「鴨々堂(南8条西2丁目)」で売っているが千円もするのでお勧めできない。
と書いてはみたものの気になったので、札幌市公文書館に伺いました。Bocket4号はあるそうです。カウンターで聞いてみてくださいと言うことでした。(2017年9月9日追記)

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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 後期高齢

2017年08月26日

ボートは怖いよ

先日、HP「中島パフェ」宛にメールが来た「ボートは予約できますか?」との問い合わせだった。時々中島公園の管理人と間違えられるのだが質問には答える。ネットで調べれば直ぐ分かると思ったが検索しても何も出てこなかった。

ボート乗り場に行って聞くと電話は無いと言う。予約のために自宅の住所氏名と電話番号を書いてくれた。親切な対応に感謝してボートに乗ってみようかなと思った。実は17歳の頃ボートを転覆させてボート屋の小母さんに大目玉を食らって以来ボートは敬遠していた。

60年も前のことだが鮮明に覚えている。転覆した現場を毎年テレビで見せられるからだ。そこは原爆ドームの前を流れる川だった。8月6日には必ずテレビに出るから忘れられない(貸しボートはかなり前に廃止)。そのたびにカンカンになって怒っていたボート乗り場の小母さんを思い出す。もちろん悪いのは私だが、いろいろ事情があった。

ボートは三人で乗っていて漕ぎ手を交代するために立ち上がって位置を入れ替わろうとした途端にバランスを失って転覆した。映画のスローモーションの様にゆっくりと水が入ってきた。小母さんは「何で転覆したボートをほったらかして泳いで遊んでるんだ」と怒っていた。それでも救助用のボート繋いだボートを漕いで助けに来てくれたのだ。感謝!

泳いで遊んでいたのではない。大切な身分証明書とお札の入った定期入れが川下に流れたので取りに行ったのだ。毎年8月6日にテレビに出るので分かると思うが原爆ドームの近くに大きな橋がある。泳いでる最中に「泳いでる泳いでる」と声が聞こえたので橋の上を見ると黒山の人だかりだ。沢山の人から声援を受けているような気がした。ガンバレ!

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タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 求職時代

2017年08月19日

故郷は他人の街

心の故郷は物心がついてから成人になるまで暮らしていた渋谷区金王町である。しかし、「ただいま」とか言って帰れる場所ではない。40歳半ばの頃だが、勤務地の札幌から東京への出張があった。つい懐かしくなり魚屋真ちゃんの家を見に行った。

魚屋は5階建てのビルになっていた。一階が店で二階以上は住居のようだ。真ちゃんとは売れ残りの魚を売りに歩いた仲だった。詳しくは「子供はつらいよ」に書いたので省略する。彼も当時のことを覚えているだろう。私のことは死んだと思っているに違いない。

しかし、私に限らず、我家の人間が近所だった人に会いに行くことはない。合わせる顔がないのだ。親はあちこちに借金をして、全部返したのかどうかも分からない。子供の私だってどんな迷惑をかけて来たかも分からないのだ。これは我が家に限ったことではない。

戦後の発展に取り残されて渋谷から去った貧乏人共通の状況である。出た人間が戻れるわけがないのだが懐かしい。情けないけれど故郷に対する片思いだ。お金持ちは占領軍、城を失った住民は敗残兵のように都内某所、国内某所へと逃れて行った。 

我家だった場所はビルになり一階は居酒屋になっていたので入って飲んだ。もちろん知らない人が営業している。飲んでいる内にいろいろ思い出した。だが私は一見の客。「ここに住んでいたのです」とか言えない。まして昔話などできるわけがない。

ふるさとは遠きにありて思ふもの訪ねたものの募る寂しさ(笑)

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タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 在職時代