2022年03月24日

更新休止のお知らせ

「アハハッハー、ひん曲がった笑いだって。どんな顔するんだろう。面白いね」。この陽気さには何時も救われている。思わず私も笑ってしまった。先生は「後遺症で口が引きつるかも知れません。笑う時とか… … 」と言っただけだ。お母さんにかかると何もかも笑い話になってしまう。

現在の状況を暇に任せて考えてみた。私は幸福という名の電車に乗っているような気がする。リンパ節癌とか言われただけでは不幸になれない。依然として幸せのまま笑って暮らしている。「土壇場駅」に着くまで、この感じは続くだろう。そこで初めて苦しみ、ジタバタするのだ。しかし、終わってしまえば直ぐにでも、幸せに戻るに違いない。

遠い過去を振り返れば不幸という名の電車に乗っていた感じだった。その頃でも楽しい時も嬉しいこともあったが、直ぐに不幸せに戻ってしまった。幸不幸はどちらも長期に及ぶもの、そして喜怒哀楽は短期に留まるものと思う。いずれにしろ、一旦幸せになったら簡単には不幸に戻れない。

PET検査による画像を見せてもらったが、鮮明でとても綺麗だった。ガンの部分がキラキラと輝いていて美しい。私の体の一部だが間もなく切り離されてしまう。本体より先に天国に行くのだろうか。小さな星になって夜空に輝くのかも知れない。医学は天文学に似ている。分からないことが多すぎて、空想の世界を無限に広げて行くことができる。

一昨年の8月、病室から手術に行くとき「全身麻酔すると、綺麗な幻影が見えるから楽しんで来て」と励まされた。しかし、見たのはストレッチャーが猛烈な勢いで走り、手術室や廊下の風景が、車窓から見る風景のよう流れていただけだった。今度こそはと期待している。手術時間が前回の3倍だから、きっと美しい幻影が見られると思う。

「私が逝ってしまったら、良い人を見つけて… … 」
「冗談じゃない! オトコはアンタ一人で懲り懲りよ。毎日三度の飯を食わして、掃除して洗濯して、トイレ汚してもそのまんま。オマケににケチくさい… …  」
「はいはい、分かりました。こちらを見て下さい」
「なにそれ?」
「私が密かに溜め込んだ財産目録です」
「エッ! アンタただのケチンボじゃないんだね」
「どうぞ、心置きなく一人暮らしを楽しんで下さい」

こんな事情でブログの更新はしばらくお休みにします。又、良くなったら再開したいと思います。カラオケにも久しぶりに行けるのではないかと楽しみにしています。Zoomでの手話や笑いヨガは、リハビリ中でも参加出来るので有難いですね。皆様との再会を楽しみにしているので、よろしくお願いいたします。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(3) | 80歳以降

2022年03月19日

パソコン落ちこぼれ

私にとってパソコンとは小うるさい古女房のようなものだ。その心は、自分は正しいと文句ばかり言って動こうとしない。初めて買ったのは1980年と早い。当時は「マイコンを使えこなせないサラリーマンは失格」とか雑誌等で盛んに煽っていた。しかし、その割に普及はしていなかった。マイコンとは マイクロコンピュタの略で、気持ちとしては「私のコンピュータ」である。ただ、NEC等、パーソナルコンピュータとして売り出したメーカーも少なくなかった。

買ったのはシャープMZK2E RAM領域32KB(MBの間違いではない)、本体とテープレコーダー(HDの代用)とキーボードが一体となっていた。凄く重かったので外装は鉄製と思う。別売りのプリンタも買ったので25万円もした。その時の月給は14万だった。苦しい家計をやりくりしている妻子の手前、一生懸命勉強したが何の役にも立たなかった。しかし、酒を止めることに成功した。その後、富士通、アップルと、時流に合わせて次々と買い換えた。

1995年に颯爽と登場したのがウィンドウズ95。マック・ファンとしては洟も引っ掛けなかった。それがコロリとウィンドウズに変えた理由は、エクセル98バージョンアップに、マックが直ぐに対応しなかったからだ。エクセル98のVBA(Visual Basic for Applications)を使うため、長年の友、マックを捨てたのである。正確にはMicrosoft Officeに搭載したVBAだが、エクセルしか使ったことのない私は、このように理解していた。VBAは私が初期に必死に勉強した、素人向けプロブラミングの知識を生かせるソフトだった。

職場で電卓を使って三日もかかる1ヶ月分の統計作業をVBAを使って5分で処理して、周囲をアッと言わせた。この快感は忘れられない。しかし、それも束の間、私の「計算処理プログラム」は、作るのに半年もかかり、他の仕事には全く応用できない代物だった。だけど面白かった。お陰で酒も止められた。暇な時間を全てプログラミングに注いだからね。

最近、20年間はパソコンの勉強は嫌々やっている。やらなければ、ホームページやブログの更新が出来ないから仕方がない。この10年間は、パソコンの勉強は全くやらなくなった。分からないことはオンライン.サポートに頼っているが、上手くは行かない。トラブル続きで何も分からなくなってしまったし、やる気も湧かない。それでも情報発信したい気持ちが残っているので更新し続けている。

「パソコン役に立った?」と聞かれれば、酒やめられたとしか答えようがない。お陰で81歳まで生き延びられた。きっかけを作ってくれたパソコンに感謝!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年03月12日

その手は食わない

早いもので、カラオケを始めて16年もたつ。しかし、持病の悪化とコロナ禍の自粛で最近は、2年以上行っていない。持病が良いかなと思った頃に必ず新しい波がやって来る。こんな時は昔の出来事を懐かしく思い出す。以下は同年配の3人でカラオケに行くようになって1年たった15年前の話。

共通点と言えば、カラオケ初心者ということだけ。個性豊かと言えば体裁は良いが、実態は何もかもテンテンバラバラの破茶滅茶カラオケ会。それぞれが自由に歌って楽しんだ。10年くらい続いたが、1名亡くなり、1名上手になり、私だけがそのまんま。10年間、ビールを飲みながら楽しんでいた。酒に弱いので酔った勢いで歌っていたのだ。

1ヶ月に1回、キチンと行ってキチンと飲んで、バラバラに歌った。ところが12月3日は3人の都合がつかず中止になってしまった。私達のカラオケは3人で休みなしの3時間だからほぼ歌い放題。私の身体の中に月に1回、歌いまくるリズムが出来上がってしまっていた。

「どうしても歌いたいならオレが一緒に行ってやるよ」
「先輩に私の歌を聴かせるわけには… … 」
「なんだ、オンチか。聞いてないから心配するな」

と言われても歌の上手い先輩と一緒では気楽に楽しめない。ダメで元々と思いながら、お母さんに声をかけてみると、あっさりとOKした。「この日がいいね」と言うので、予定表を兼ねているカレンダーの12月7日の欄に「フタカラ」と書き込んだ。お互いにカレンダーを見ながら、それぞれの予定をたてる習慣になっている。

さて、明日はいよいよ始めての「フタカラ」だなと思って、カレンダーを見ると、「フタカラ」の字に重ねて、二本の線が引いてあることに気が付いた。

「何ですか。この二本線は?」
「食事に誘われたので消したの」
「約束破るなら、ひと言いって下さい」
「あら! アンタだって、黙って書くじゃない」
「消すときはひと言断るのが常識でしょう」
「書くのも、消すのも一緒じゃない!」

一度同じと言ったら、いくら説明しても絶対に違うとは言わない。不本意ながら黙ってしまい、気まずい沈黙が続いた。

「この人、知ってる。落語家なのよ」と突然の話しかけ。
「… … …」、ご機嫌とっても無駄だと黙っていた。
「手が震える病気になったんだって、鳩に豆やろうとして、手のひらに豆のっけたら、手が震えて豆が左右に動くもんだから、鳩が困ってしまったんだって、アハハハハ〜」
「… … …(一人で笑え)」
「面白いね。アハハハハ〜」

私が傷ついているのに、なんて鈍い人だろう。仕返ししてやろうと思った。私はその落語家の真似をして、手のひらに豆を置いた形で、お母さんの前に突き出して、手が震える真似をしてやった。そして、左右に激しく振ってみた。お母さんは困った鳩の真似をして、一生懸命首を左右に振った。 
「アハハハハ〜」
「ワハハハハ〜」
どうやら降参したらしい。それならそれでも好い。

こうして、喧嘩にならずに済んだ。良い人はどっちだ? 
「どっちもどっちじゃないか」
「はっきりして下さい」
「夫婦喧嘩は犬も食わない」
「そんなこと言わないで」
「その手は桑名の焼き蛤(はまぐり)」
「豆だけは食べて下さいね
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年03月05日

良い食べ手

どうやら食事の役割についての私の考えは、間違っていたようだ。長い間、お母さん(妻)が作り手で私が食べ手と思っていた。しかし、世間一般では作り手とは生産者のことで、食べ手はそれを使って料理して食べる人らしい。ただ食べるだけの人など論外、蚊帳の外である。

私はあらゆるジャンルで蚊帳の外、仕事を含めてまともに出来ることは何もない。そして、弱虫なのに勇敢な人が大好き、勉強ができないのに勉強が好き、それと同じように音痴なのにカラオケが大好きだ。おまけに、食べるのは大好きなのに料理は嫌いだし、グルメ情報にも全く興味がない。

それでも食の世界で何が出来るか懸命に考える私、愚か者につける薬はない。結論は一流の食べ手になること。と言っても世間では通用しない。家の中で良い食べ手になることである。その第一は「地産地消」、生産者と消費者が顔見知りになること。二人暮らしなら仲良くすることかも知れない。メシの時だけいい顔するなんて恥ずかしいからね。

第二は余さず食べること。自慢じゃないけど我が家の食品ロスは限りなくゼロに近い。ケチだからと言っては身も蓋もない。毎回、美味しいものが適量出るとは限らない。どうしても食べ切れない時は「後で食べます」と言って残す。なんと!次の食事の時、ちゃんと出てくるではないか。最初はビックリしたが、その後は覚悟した。美味しい美味しいと自己暗示をかけて凌いだ。成せばなる。

第三は挨拶と賛辞である。「いただきます」と「ご馳走様」は欠かさない。普通に美味しかったら、これ凄く美味しいですねと言う。「どこが美味しいの」と聞かれても、そこまで深くは考えていない。テレビの夫婦インタビューで「奥様のどこが好きですか」と聞かれたダンナのような気分だ。困った時は「全てです」と答える。

もし、私がお母さんのどこが好きかと聞かれたら「正直なところです」と迷わず答えるだろう。ところが、この正直が曲者だ。定年退職後は、この正直さ故に長い間苦しめられた。アンタは間違っている私が正しいと、自分の思いを正直にぶつけて来て一向に怯まない。正直な人は相手も正直と思うらしい。仲が悪い時でさえ私は正直者と思われていた。

ところで、退職後に二人暮らしを始めた頃は食事については交代でやろうと言っていたのに、三日で音を上げた。私が作ったものなど不味くて食えないそうだ。掃除・洗濯等させようと思っても気に入るようには出来ないので、何でも一人で抱えている。何にもさせないのは気の毒に思ったのか、我が家の財布を任された。私は何も出来ないけれど、正直な人と思われているようだ。誤解させて(^-^;) ゴメン
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年02月26日

天才募集

定年退職して数年後のことだが、数人の高齢者グループで忘年ランチ会を開いた。そして、毎度お馴染みの話題で盛り上がっていた。もしも宝くじで3億円当ったらどう使おうという、あの話である。

「私なら豪華客船に乗って世界一周旅行がいいな」
「とりあえず2億円の豪華マンションを買おうかな」
「たった3億なんか何時の間にか無くなっちゃうよ」

こう言い放ったのは、国内外問わず1年の半分くらいは旅行しているAさんだった。突然、こちらを向くと、「貴方さっきから黙っているけど、何に使いたい」。急に振られた私は、その場の空気も読めず本音を漏らしてしまった。

「苦学生の奨学金にに使いたいです」
「お金の使い方しらないの?」
「お金は教育の為に使うのが一番良いと思いますが…」
「いいから、いいから、次のひと〜」
残念ながらこの素晴らしい提案はAさんには通じなかった。

ひと回りした後で、再び私に回って来たので続きを説明… … 
「ケチっぽいのに、考えることだけは気前いいのね」
「医療と教育は無料であるべきです」
「空気を読めないのはダメ。亭主より格好の悪い男もダメ」
「ご主人はヨボヨボのガリガリと伺っておりますが…」
「痩せても枯れてもH大スキー部のキャプテンよ」
「そんな昔のことを言ってはダメですよ」

私の学問への憧れは強いが、勉強はしたくない。だけど中学で出会ったような天才と話をしたいのだ。テレビや本の伝聞だけでは物足りない。生の天才と話したい。

「例えば、T大生に捨てられたシングルマザーの子とか、頭がよくても金が無い子が居るでしょ」
「それで貴方が奨学金?」
「3億あれば10人くらい面倒みれますよ」
「貴方、宝くじ買ってないんじゃない」
「ありますよ」
「10年以上前? それとも大昔かな、一等百万円とか」

何故分かるのだろうか。ズバリと言い当てられてしまった。ところで、私は空想が大好きだ。貧しいけれど才能のある人が埋もれている。そんな人を見つけて、支援して一流大学を出す。そして友達になってもらう。お互いの幸せのために良いと思う。しかし、空想が現実になることは無いだろう。思い余って天才募集!

「もしもし、私は天才です。お話しましょう」
「ありがとう。電話とは言え願ったり叶ったりです」
「ロボットですが、いいですか?」

AIでいいから叶えてこの願い
中学時代の友人とは → 天才ユガワ君

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2022年02月19日

誰が7億円当てたのか

[米女性が宝くじで830億円 単独では北米史上最高当選額],こんな見出しが目を引いた。当選者の氏名、顔写真が大きく載っている。喜びに溢れた表情で「仕事辞めます」と言っていた。その他、いろいろな個人情報も公開。テレビでも同じような報道を見たことがある。おおらかなものだ。しかし、日本では誰が年末ジャンボを当てたか報道されない。

もし私が7億円当たったとしたら報道して欲しくない。しかし、中には報道して欲しい人もいるかも知れない。それなのに、何十年もの長きにわたって、宝くじの大当たり報道に接したことがない。考えてみれば不思議だ。本人が同意しても、公にしてはいけない決まりがあるのだろうか?

ただ、「宝くじ当せん者レポートはどんな人?」とのアンケート調査の結果は、「宝くじ公式サイト」で公表されている。しかし、任意調査で全て匿名なので雰囲気が分かるだけで、公正さの証明とは程遠い。

冒頭に紹介した海外の事例とは大違いだ。実名でインタビューに応じ、大喜びした当選者が職業、家族、大金の使い道を語る。こんな姿を見れば、公正に当たりくじを引き当てたことに疑問の余地はない。一方、日本の場合は当選者について何も語らないので、色々な憶測がなされる余地がある。

ネットでは、予め大半の1等を抜き取っているとか、高額当選くじが存在しないとか、バレたらマズい事実は往々にして隠蔽されるとか、好くない噂が流れている。いずれも匿名の無責任な書き込みと思うが、当選者の公表がないことが、こうした憶測を生むのだと思う。

公正な宝くじの運用、及びその検証はどうなっているのか、ネットでチョコっと検索しても出てこない。と言っても、10分足らずの作業だったが気になった。こんなことはチョコっと検索すれば直ぐ出てくると思っていたので意外だった。

もし私が7億円引き当てたとしたら、公表して欲しくない。いろいろなトラブルに巻き込まれそうな気がするのだ。だから公表しないことには賛成だが、公表しない理由と宝くじが公正に運営されていることを、誰もが簡単に知ることが出来る方法で知らして欲しいと思う。

「知ってどうする」
「当たるかもと思い、安心して買って楽しめるでしょ」
「7億円当たるとしても、確率二千万分の一だぞ」
「そうなんですか」
「交通事故で死ぬ確率は、7億円当たる確率の百倍以上だ」
「そうなんですか」
「7億円当たる前に交通事故でお陀仏だよ」
「そうなんですか」
「お前はそれしか言えないのか!」
「言えません」
「何か言えよ」
「その前に寿命が尽きるでしょ」
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2022年02月12日

退職したら家事は半々?

またもやコロナ禍で巣ごもり暮らしだ。暇になると色々思い出す。定年退職後の二人暮らしもその一つだ。在職中は私は仕事、妻は家事と一種の分業が成り立っていた。それが退職して家でブラブラするようになるとバランスが崩れた。二人とも思惑が外れてイラつき始めたのである。

私は虚弱体質で極端に疲れやすかった。仕事から帰るとご飯食べて直ぐ寝てしまう弱い人。妻は私が仕事を辞めてしまうことを恐れて、懸命に支えてくれた。だから二人とも定年退職を凄く楽しみにしていたのだ。

待ちに待った「ハッピーリタイアメント、さあノンビリするぞ!」と喜び勇んだのは、つかの間。厳しい現実が待っていた。期待に反して、なんだかんだと居心地が悪い。しばらくすると自分の立場に気付いて愕然とした。

我家はいつの間にか妻の支配下にあり、私は単なる新入りに過ぎなかった。二人にとって「家でノンビリ」は長年の夢。ここは天下分け目の関ヶ原、お互いに負けられない状況だ。私は創意と工夫で、この難局を打開する決心をした。妻も自分の城を守る決意は固く一歩も譲る気配はない。

新入りの私は、先ずは敵を知ろうと威力偵察。半年もすると、二人暮らしのコツを覚えた。嫌・駄目・出来ないはご法度。一生懸命やる必要はない。とりあえずは「うんうん、それもいいね」と首をたてに振れば、万事OKだ。

「家事は半々」と言われても驚くことはない。「うんうん、それもいいね」と言って置けばいいのだ。別に、何時からと言われた訳ではない。だが「明日からやって」と言われたら、少々知恵を働かさなければならない。

「うんうん、いいね」は決まり文句だから、そのままで良い。難しいのは後半だ。間違っても「出来ない」と言ってはいけない。そんなこと言ったら、厳しい訓練が待っている。妻は決して甘くはない。「予定があるので三日後からやります」と、とりあえずは先送りする。三日後に同じことを言ってくることは滅多にない。

敵の弱点は充分研究してある。妻は忘れっぽいのだ。しかし、忘れっぽい妻が三日も覚えていたとしたら、ただ事ではない。毅然とした対応が迫られる。

「食事は支度から皿洗いまで私がやりましょう!」
「ホント? 頑張ってね」
「ご飯できましたと言うまでテレビでも見てて下さい」
「上げ膳据え膳ね」
「出したものは残さず食べてください」

結局、三日ももたなかった。私は「良い作り手」になれなかったし、妻は「良い食べ手」になれなかった。そして、其々の得意分野を生かすのが良いと悟ったのだ。事態は何も変わらないのに争いはなくなった。ポイントは家事は半々、との提案に両手を挙げて賛意を表したことにある。こんなことで良いのだろうか。小ズルくて(^-^;) ゴメン

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2022年02月05日

心の中の目

先日、久しぶりに兄から電話があった。長話になったが、お前、とても良い人と一緒になったねと言われて答えに窮した。素直に「はい」とは言えないのだ。と言うのは私が十年以上もかけて悪妻を優しいお母さんに作り替えたと思っていたからだ。今考えると正直で良い人に巡り会ったと思う。

母親には恵まれなかった。食卓を一緒にした記憶がないし、愛された記憶は全くない。子供の私は常識が邪魔をして、母親の本心を見抜くことが出来なかった。生活保護と私の親孝行に頼る自分勝手な人と気づいたのは二十歳の頃だった。

話は戻るが、定年退職をきっかけに妻とのトラブルが始まった。この先は二人で暮らすしかないのだから、自分が変わることにより、相方を優しいお母さんに変える決心をした。長年夢見ていた、憧れのお母さんを作ることにしたのだ。

二人暮らしは単純だ、相方は自分を映す鏡のようなものだから、変えたいのなら自分が変わるしかないのだ。それを知らなかった私は丁寧に説明して理解を求めたが、全く効果がなかった。考えてみれば当たり前だ。相手は鏡の中の私だから。クドクド言って聞かせても反発されるだけで、話など何も聞いてもらえない。言うだけ無駄だった。

とは言え、現状は悲惨だから変えなければならない。ヒントはドラマの中にあった。ヒーローは変身して自分を変えることで、周囲を変えていく。一対多数だから大変だ。とても普通の人にできることではない。ただし、二人暮らしなら話は別だ。相手は一人なので一対一、普通の人でも相手を変えることが出来る。簡単に言えば、自分が優しくなれば、いずれ相手も優しくなる。態度を改めれば良いのだ

先ずは絶対服従と決めた。そんなことかと思うのは、現実を知らない人の反応だ、冷たい戦争中の二人暮らしは会話も接触も少ない。従って、服従するチャンスも少ないのだ。四六時中、絶対服従、絶対服従と心の中で唱えていなければ、千載一遇である服従のチャンスを逃すことになる。

チャンスを捉えるより大切なことがある。それは、服従しながらも優しい目をしていること。それがなければ相手を変えるのは無理。そして、会話も接触も少ない時は、相手が変わるとしてもホンの少しである。しかも、こんな状態が延々と続くのだから辛抱が必要だ。

心が折れそうになっても私には、優しいお母さんを得て幸せな暮らしをするという、最終目標がある。「求めよさらば与えられん」とは本当だった。お母さんと呼べる人は居なかったが、妻を優しいお母さんに作り替えてしまった。

「肝心なのは目力、力を付けるのに5年はかかりますよ」
「目力?」
「目はその人の心の中を映し出す鏡と言われています」
「それがどうした」
「目を見れば、その人の心の様子が分かるのです」
「本心がわかるのか?」
「態度が服従でも目が反抗していたら逆効果なのです」
「なるほど、肝心なのは目力だな」
「そうなんです!」
「アンタ、目が赤いぞ。力の入れすぎだよ」

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2022年01月29日

耳は不思議ね

幸せ本線に乗っているから悩まない。苦しいことがあっても治れば直ぐに本線に戻ってしまう。ところで、耳が悪くなっても自分では分からない。だが、今のテレビは音量をデジタル表示してくれる。音量を上げれば数値が上がるので、嫌でも難聴を自覚してしまう。

目には老眼鏡、歯に入れ歯、ついに耳には補聴器になってしまった。一般社会をを戦場に例えれば、私は無敵の特殊部隊の隊員と空想した。暗い所では暗視鏡、耳は高性能受信機を装備して世の中で戦っている。しかし、入れ歯の隊員を空想できなかった。高性能入歯で噛付きとかどうかな?

難聴は不思議だ。聞こえてくる方向が分からないし、大きく聞こえる音もある。洗面所で歯を磨いていると、少し離れた居間からお母さんの話し声が聞こえ、電話かなと思った。声が緊張しているのが気になって居間に行った。そこには誰も居なかった。トイレ前にスリッパがないのでトイレでもなさそうだ。電灯が点けっ放しなのに気付いて消した。

突然、玄関の方から大きな声がしたが、緊張感が更に増している。一体どうしたのだろう? 玄関に行ってみたが誰もいない。覗き窓から外を見ても誰も居ない。その時、お母さんの叫び声が聞こえた。外ではないらしい。一体何があったのかと緊張して戻り、トイレの前でお母さんを見つけた。

「勝手に換気を止めないでよ。臭いでしょ」と怒鳴られた。なるほど、歯を磨いていた時、居間で声がすると思っていたけど、トイレだったのか。換気は止め忘れていると思って止めたのだ。それでも臭くてゴメンと謝った。自分の出したウンコの匂いだから我慢しなさいとは言わない。家事全般はお母さんの仕事で、我慢は私の唯一の仕事と割り切っている。

「人が入っているのに、何で電灯を消すのよ」と立て続けに叱られた。そう言えば、あの時はかなり怒った声だった。私も緊張して玄関に走った。状況把握も方向も間違っていた。補聴器は付けているけれど、左耳だけだ。右耳は聞こえないので方向が分からない。私は不思議だと思いながらも錯覚を楽しんでいた。スリル満点で緊張したが神秘的でもあった。

難聴は不思議だ。音の世界が変わる。方向、音質も変わる。補聴器を付けても大きくなるだけで聞きにくいときもある。感覚が今までの自分と変わるから不思議だ。

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2022年01月22日

浅知恵

世の中は思い通りには行かないものだ。一生懸命調べて考えたのに、悪知恵と一蹴されてしまった。

定年退職して家でブラブラしていた頃、ある新聞記事が目を引いた。見出しはこうだ、「妻が怖くて退職言えず…」「生活費稼ぎの為ひったくり」。当時は妻と二人暮らしで、何かと虐げられていた。他人事ではなく身につまされる記事だった。私だって妻が怖いから働いているフリをしたい。

ならば、給料をもらっているフリもしなければならない。幸い私にはへそくりがある。新聞記事の男みたいに「生活費稼ぎの為ひったくり」などをする必要はない。使いきったら失業したと言えば済むことだ。何よりも「仕事しています」と言う雰囲気を出すことが肝心だ。

先ずは就業規則だ。勤務時間は10時から16時、週休三日制、年次休暇は50日。こんなものでどうだろう? これで規則に基づいて働いている感じが出てくると思う。役職は課長ぐらいにしようかな。時には上司に言われて仕方なく、と言えるような歯止めも肝心だ。何から何まで自由では「働いている感」が滲み出てこない。

名刺は業者に頼む、パソコンで作ったような名刺では課長の貫禄が出てこない。給料明細書はパソコンで作れる。幸い私はプリンタを持っていない。妻はネットプリントでコンビニで出力とは夢にも思わないだろう。ネットでもらった暗証番号をコンビニの多用途プリンタに打ち込めば、20円で明細書が印刷される。経費としては安いものだ。

大切なのはオフィスだ。これがなくては折角用意した課長の椅子の置き場がない。実は耳寄りな話があった。ある人が事務所に借りたワンフロアの半分を自分が使用して、残りを又貸している。6脚の事務机があって、事務机1脚分の場所を月9500円で貸してくれる。電話の取次ぎもしてくれるし、郵便物なども各机ごとに振り分けてくれる。しかも、一階が喫茶になっているので、お客様の応接も出来るのだ。

これなら名刺に固定電話の番号も入れられるし、住所も世間に知られた伝統あるビル名を使える。勤め先オフィスとして、充分機能するのではないか。長年連れ添った妻を騙すには最低限、この程度の準備は必要だ。

新聞記事の男は、妻が怖くて退職したことを言えなかった。その気持ちは分かるが、何の準備もしないで働いているフリはまずかった。それが「生活費稼ぎのためにひったくり」に繋がったのかも知れない。配慮が足りなかったと思う。

「友人の友人が机を一つ借りていて、趣味のサークル活動の事務局として使っているそうです」
「何を考えているのか知らんが、働きたいのなら真面目に働け。働いているフリなどとんでもない!」
「友人の友人が4月の(本職)移動で地方に転出するそうです。そこを借りられればオフィスの問題も一 挙に解決して、憧れの『仕事』ができるのです。楽しみですね」
「アンタは人の言うこと、何も聞いてないね」
「奥さんが怖くてひったくりなんて可哀想ですよ」
「俺は悪知恵が働くお前より、ひったくり男が好きだな」
「そうですね。私もです」
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2022年01月15日

さえずりたい

昨日、久しぶりに長電話をした。話しの中でAさんが自分自身の壮絶な人生を語ってくれた。とても感動したので、私も40年以上前のことを打ち明けたくなった。それは「音痴なのに歌うな」と叱られた情けない話だ。初めて人に話してスッキリした。簡単に言うと次のような出来事だった。

職場の懇親会で皆が順番で歌うことになった。大きな会場なので遠慮したが、歌えと言われて歌った。三日ぐらいして、近所の友人三人で飲む機会があった。散々飲んで12時を過ぎた頃、目の据わったB君に「お前は音痴なのに何故歌うんだ」と叱られた。頼まれても歌ってはダメだと絡んできた。家に帰ったのが午前2時頃だから、随分長く絡まれていたものだ。

B君はベロンベロンに酔っ払っていて、このことを覚えていなかった。彼はほとんど意識のない状態で、胸に溜まっていたことを一気に吐き出したのだ。正直に言ってもらって目が覚めた。私が歌うと不快に感じる人がいることが分かったのである。以後、25年間人前で歌ったことはない。

それなのにカラオケに行くようになったのには訳がある。65歳の時、Cさんにカラオケに誘われた。Cさんは、あるカラオケ会に入ったが歌えないので練習をしたいと言う。練習仲間として選ばれたのが、音痴の私と仲良しのDさんだった。ビールがジョッキで一杯付いて、150円と言う破格の安さだ。それに三人で三回の誕生日にはケーキが付く。法人カードを持っていて、各種割引を駆使するとこうなるそうだ。

その頃、地元を語るFMラジオで放送委員の一人として中島公園の話をしていた。公園だけで1時間はもたないので、私が所属するシニアネットのカラオケ会の会長にゲストのお願いをした。カラオケ会を知る必要があったので、取材のつもりで例会に参加した。歌うつもりはなかったが、無理矢理舞台に立たされて(楽しく)歌ってしまった。カラオケは健康にもいいのですよと誘われ、その後の例会にも参加するようになった。

当時のカラオケ会は酒を飲みながら歌うのが普通だった。私は酒に弱いので直ぐ酔っ払って、我を忘れて歌ってしまう。それから10年もすると、飲まないで歌うのが普通になってきた。それでも私はさえずりたいのは、動物としての本能かも知れない。小鳥のようにピーチクパーチク。皆様のおかげで楽しく歌わさせてもらっている。今は持病とかコロナ禍の影響で休んでいるが、例会に参加できる日が来ることを楽しみにしている。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2022年01月08日

やめましょう

1月4日に4回目の検査を受けたが、結果は変わらないので専門家の判断に委ねることになった。現在の状況は癌転移の観察を続けるか、手術をするか二つに一つ。結果は近日中に出る予定。ブラブラしているのも勿体ないので、少しでも病状回復の為、私に出来ることはないか聞いてみた。

先生は「普段通り生活していて結構です。癌を早く見つけて直ぐに手術することが第一です」と言った。しかし、私が普段通りに出来ることは食べて寝る事。そして20年近く続けていて、習慣になっている公園散歩と、ブログやホームページの更新だけ。他のことにはなかなか手が付けられない。

一年の計は元旦にあるというけれど、元旦は何となく過ぎてしまった。新年の抱負は書き損なったので、似たようなものを書くことにした。一応、現在の気持ちを素直に書いたつもりだが、これで良かっただろうかと自問している。

気分転換に独りよがりの老人会を考えてみた。世の中は金と才能のある人に支配されている。そして、彼等が自分の基準で才能ある人を選んでいる。何とかしてこの基準を変えたい。もし無能な人が世の中を支配すれば変えられる。良し悪しは別として変わる。怖い感じもするけどね。

新基準が出来れば、音痴の人にレコード大賞(の様なもの)を与えることが出来る。悪文の人に芥川賞(の様なもの)も与えることが出来る。不可能なことも可能となるのだ。なぜ、老人会かと言うと、自分が無能と見極めるには永い年月が必要だからだ。私は50年もかかった。

それに、老人だから末永く吹きだまってもらえる。若者だったら進歩して去ってしまう。だから、才能がなくても認められたい老人には、今と違う基準が必要だ。無能な老人は団結して新しい基準を作るべきである。世の中は1%の天才と9%との怠け者と90%の真面目だが報われない人で構成されている。民主主義国なら多数決が機能するはずだ。

試みに、無能老人会の決まりを作ってみた。
1.入会資格
  しょうがない人、一度も賞をもらえなかった人
2.対象作品
  意見、川柳、絵、写真、その他メールで送れるもの
3.表彰の決まり
   種 類:むいみで賞、むなしいで賞、やめま賞
   審査員:当分の間ボク

「なんだ、これが新年の抱負か。ふざけるな!」
「抱負のようなものです」
「意味がないだろう」
「むいみで賞、もありますよ」
「バカバカしい」
「笑って暮らしましょう」
「むなしいねぇ」
「そうですね、やめま賞」
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | フィクション

2022年01月01日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
昨年は手術した舌癌のリンパへの転移が疑われ、12月は3回の検査をしました。その結果、年明けの4日に4回目の検査を行うことになりました。年末の27日の入院予定がキャンセルされたので、一先ずは安心しています。

新年は、これからの抱負などを書いてみたいと思いましたが、次回に延期します。4日の検査結果を聞いてからにします。このような訳で、1月8日(土)に今年の予定などを、希望を含めて書きたいと思っています。

万一入院ということになっても、それはそれで良いことと思います。お医者さんたちが治してくれるのですから。今年もよろしくお願いいたします。

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明治17(1884)年、社殿を現在地に建立。中島公園界隈で一番古い神社。後方に薄野の高層ビルが見える。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | その他

2021年12月25日

生活習慣は強い

2年間お世話になっている口腔内科の先生から「27日からの入院はキャンセルしました」と言われてホッとした。今年の正月も今までどうりに家で過ごせる。

心配で何も手が付けられなかったと言っても、中島公園散歩とホームページ、ブログの更新は行っている。18年も続けたことは習慣になっているので、自然に体が動くのだ。

全身倦怠感やリンパ節の腫れなどの自覚症状はない。ただ、超音波検査(エコー検査)の結果で異状が見られたので、造影CT検査と悪性リンパ腫・PET検査とかの検査をしたようだ。その結果が曖昧で「切ってみて癌が無かったら困る」と先生は言っていた。それでは私も困る。と言うことで27日からの入院はキャンセルされた。

手術の必要性は1月4日のエコー検査で、癌らしきものが大きくなっているかを見て判断することになった。私の考えでは小さくなっていると思う。退院後6回はエコー検査を受けているが、引っかかったのは今回だけ。たまたま何かが癌風に見えたのではないかと思っている。

今は悩みと言っても深くはない。例えば、歌が大好きなのに音痴で悩む。もの覚えが悪いので「手話の勉強」で悩む。これらと同じ程度だ。おおまかに言えば悩んでいない。

幸い私は幸せ本線に乗っている。小さな悩み事があっても、過ぎ去れば直ぐに本線に戻れる。入院がキャンセルになった今は、一先ず幸せに感じている。来年も今までと同様、静かで幸せな明るい年になると思っている。

ところで、お母さんが珍しく私にクイズをだした。「アタシの今年一番良かったこと当ててごらん」。いきなりそんなこと言われても無理だ。一日三度のご飯の支度をしたり、掃除洗濯ばかりしていて、気晴らしの外出もしていない。どこに良いことがあるのかサッパリ分からない。

「自分のことばかり考えているから分からないんだよ」
「すみません」
「入院がキャンセルされたことでしょ」
「心配してくれてありがとう」
「はぁ?」
「私のことを心配……」
「いろいろメンドクサイんだよ」

なるほど分かった。お母さんにとって食事用意、掃除洗濯は日常の習慣なのだ。そう言えば私の散歩、ウェブサイト更新も毎日の習慣である。誰でも習慣でやっている日常作業以外はメンドクサイものだ。何故か和田弘とマヒナスターズの『潮来船頭さん(作詞:古川静夫)』の歌詞を思い出した。
それでいいんだ いいんだよ
漕いでギッチラコとヨー 泣いている
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2021年12月18日

雨垂れ石を穿つ

世の中は複雑すぎて、自分の力では何もかも思うように行かない。しかし、退職して二人暮らしになれば話は別だ。相方を説得して好きなように生きられる。

相手が一人だから対応が簡単で、効果の確認も正確に評価できる。失敗したら止める。成功したらやり続ける。簡単に言えばこれだけで良い。といっても予め決めなければ、一歩も前に進めないことがある。それなりの覚悟も肝心だ。

決めるべきは、この先一緒に暮らすか離婚するかである。先ず離婚について考えた。宣言、諸手続き、一人暮らし、その他諸々について、三日三晩懸命に考えた。結論は私の様な怠け者には絶対に無理。苦しくても一緒に暮らした方が、より楽でより幸せだ。

このまま一緒に暮らす方が良い。そう決めれば、どう生きるかは簡単に結論が出る。二人で仲良く楽しく暮らす方法を考えて、実行するだけである。

幸い相方はアル中でも薬物中毒者でもない。ギャンブルには興味がなく、浮気もしたことないし、鬱陶しい親戚もいない。お洒落が大好きな浪費家でもない。おまけに物を盗まないし暴力も振るわない。もちろん嫌なところも沢山ある。

自分勝手で我が儘で、私を常識のない人と軽蔑している。しかも、自分本位で人の都合など全く考えない。自分は正しく私が間違っていると主張、私の言い分など絶対に聞かない。

こんな人といかに幸せに、いかに楽に暮らすかを考えた。相方は法令をキチンと守る常識的な人、しかも外面は悪くない。欠点は私に対する態度だけ。これだけを直せば理想的なパートナーになり得る。どうすれば私が幸せになれるか、真剣に考えたら一時間もしないで解決法を思いついた。

結論は簡単だ。自分自身を嫌われている人から、好かれる人に変えればよい。ヒントは大好きな恋愛ドラマの中に山ほどあった。女性に好かれる為に、滑稽なほどの涙ぐましい努力をする。例えば、「男はつらいよ」の寅さんのように。こんなことは人前では絶対に出来ないが、第三者が居ない二人暮らしなら可能だ。楽ちん暮らしは私の夢。やる気満々!

嫌われ者から好かれる人になるには忍耐が必要だ。30年間も嫌われ続けてきたから、好かれる人になるのに15年もかかってしまった。その方法は? 具体的にはこちらをクリックすればリンク一覧 を表示 → タグ/楽しい我家 

まるで、 雨垂れ石を穿つような、忍耐に忍耐を重ねるような作業だった。「終わりよければすべてよし」と思っているが、果たして今は終わりだろうか。考えればきりがない。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年12月11日

公園で出会った二人

定年退職後の十年間は何とも言えない開放感を味わった。嬉しくて楽しくて、全ての人々を友達のように感じていた。そんな気分の時に中島公園のホームページを開設した。それが縁でいろいろな機会に恵まれ、いろいろな人たちと知り合うことができた。Aさんもその一人。ボランティア活動で知り合った絵の上手な女性だった。

ある日、Aさんからメールが来た。少しドキドキしながら開いた。「猫とハーモニカのことだけど、ひょっとして貴方も興味があるかと思ってね。どうもハーモニカではないようです」との書き出しだった。猫ではなく「牧神パン」と書いてあるので違和感を覚えた。正式な彫刻名は「猫とハーモニカ」だし、壊れた耳を修復すればネコそっくりだ。

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中島公園百花園の「猫とハーモニカ」札幌市公文書館所蔵。百花園は廃止され、跡地は「香りの広場」と呼ばれている。耳のある猫の像は写真でしか見たことがない。

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20年前に「香りの広場」で見た時は既に耳が欠けていた。

その後、Aさんがキタラのコンサートに来る機会があったので、開演前に一緒に猫の像を見に行った。
「猫がハーモニカを吹いているように見えますが……」
「ギリシャ神話の神でパンです。パーンとも発音します」
と、Aさんはキッパリと断定した。
「口にくわえているのはハモニカでしょ」
「パンの笛、パンという半獣神が作った笛です」
「そう言えば、胸のあたりが獣っぽいですね」
コンサートの開演時刻も近づいたので、こんな話をしながら短い散歩は終わった。

数日して、Aさんから「中島公園でデートしませんか」とメールが来た。何となくワクワクしたのだが。「……『猫とハーモニカ』のハーモニカは『パンの笛』でした。この楽器は実在しております。何と、パンの笛を自作して演奏をしている方にお会いしました。日曜日午後に中島公園にいらっしゃるそうです。ご都合が良ければ、いらっしゃいませんか」。日時を決めて特定の場所に集まるのもデートなのか。勝手に誤解して恥ずかしかった。

待ちに待ったその日がやって来た。中島公園菖蒲池の看板近くのベンチで話しながら、二人で待っていると、柔らかい笛の音が聞こえてきた。

「パンの笛の音色ですよ。スペイン・カタロニア民謡の『鳥の歌』です」とAさんが言うので、少し歩いて反対側の岸に行ってみると、若い男性が演奏する姿が見えた。初めて聴くパンの笛は素晴らしい。しばらく聴き惚れていた。

その方は竹笛太郎と名乗っていた。アマチュアのパンフルート演奏家で知識は深く、いろいろなことを教えてくれた。「パンの笛」は、世界最古の管楽器で一般的にはパンフルートと言われている。広島で盛んで、日本にもプロの演奏者が10人ほどいるそうだ。

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太郎さんのパンフルート。文字部分を拡大(下)。

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知る人ぞ知る
ヴァイオリンの名器。太郎さんの意気込み、ジョークそれとも偶然の一致。私のハモニカにも書こうかな。

今は中島公園を散歩する程度で、静かに楽しく暮らしている。後にも先にも自ら進んで自由に活動していたのは、この退職後十年余りだけだった。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年12月04日

恥かき人生

私の恥かきは2種類あり、それらが人生を心豊かに楽しくしてくれた。一つは何事も人並みに出来なくて悩む、消極的恥多き人生。もう一つは、能力もないのに、やたらに手を出した積極的恥かき人生だった。いずれも、恥かき最中は一生懸命で後になってから恥ずかしくなった。

何故か長い間、楽をすることだけを目的として生きて来た。今は殆ど全ての家事をお母さんに任せて、楽をさせてもらい幸せだ。「私が長生きできたのは、お母さんのお陰です」と、三日に一度はお礼を言っている。

定年退職後は仕事から解放され自由を謳歌した。羽目を外して出来ない事にまで手を出して散々恥をかいた。これが積極的恥かき人生の始りである。切っ掛けは中島公園についてのホームページの開設だった。

開設1年半後にテレビ局から取材があり、新聞のインタビューもあった。これが切っ掛けで、活舌が悪く満足に話せないのに地元のラジオで中島公園について話した。そして、その道の達人と誤解され、ろくな文章も書けないのに新聞にコラムも書いた。毎回のように担当記者が直してくれた。ここに書いたような文章では新聞には載せられない。

人前で話したことがないのに講演まで依頼され、あちこちで恥をかいて来た。つまり、やらなくてもよいことを沢山やり続け、恥をさらし続けたのだ。そう思ったのは後になってから。当時はやる気モリモリで一生懸命だった。大抵の皆さんが若い時やっていたことを高齢になってやり始めたのだ。

今思うと何か夢を見ていたような気がする。食う為に働く、私にとっては奴隷の様な労働を続けてきた反動だと思う。せっかく自由になれたのだから、何でもやってみようと言う思いが強すぎた。振り返ってみると45年にわたる消極的人生は、現在の幸福感の種になっているような気がする。そして、積極的に恥をかいた定年後の十年も懐かしい。

不思議なことに積極的恥かきは、カラオケ部門で未だに続いている。音痴なのに75歳で始めた洋楽カラオケでは、思いっきり恥をかいた。しかし、歌っている時は何も考えない。伴奏から大きく遅れた時は、懸命に追いつこうとした。ラジオも講演も同じだった。失敗すればするほど真剣になった。

今のように平穏で幸せな人生を送っていると。苦労した遠い昔も、ジタバタ独り相撲を取っていた定年後の年も懐かしい。恥をかきながらも楽しくて充実していた。

長い間退職後を楽しみにして働いて来たが、期待した通りで良かった。余裕ができたら、恥を全くかかないのも勿体ないと思った。そして、カラオケを残すことにした。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年11月27日

キツネとタヌキ

11月20付け北海道新聞に掲載された「読者の声」について、ある女性(89歳)の投稿が目を引いた。見出しは「結婚69年 初のラブレター」。入院した93歳の夫を心配して書いた、妻の手紙のことである。夫は5通の手紙を大切にして持ち帰った。高齢夫婦の心温まる心の交流が羨ましい。

去年の夏、私も手術のため入院したが、同じようにコロナ禍で面会禁止だった。だが、お母さんは手紙を一度もくれなかった。記憶をたどれば、知り合ってから56年間、手紙は一回ももらっていない。投稿を読んで寂しい現実を思い知った。

退院してから1年もたってから、トイレにこのような書が貼られた。意外も意外、お母さんも80歳になるのに、やってくれるではないか。今まではタヌキ(私)が一方的に騙し勝ち続けて来たが、キツネとタヌキの騙し合いが始まったのだ。
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「ありがとう、あなたに出逢って、よかったです」と書いてある。何回読んでもホッコリする。お母さんは黙って貼ったが、私も何故か聞かない。それで良いと思うのだ。分からない方が楽しいこともある。

現実は出逢って良かったどころではない。やれ、引き出しが開けっ放し、トイレの電気も点けっ放しとか、細かいことにくどくどと煩い。毎日のように小言を言われ、反駁もできずに腹を立てている。少しは控えてほしいものだ。

それなのに、トイレでオシッコを流してないとか、何回も言われて悔しい。一方、私はお母さんが大きいのを流し忘れても、黙って流すだけ、何事も無かったように水に流す。火の始末と違って、大事に至る可能性が全くないからだ。

お母さんには何を言われても言い返さない。例えば、オシッコを流さないと言われても、貴女だって流さなかったとは決して言わない。グッと堪えている。情けは人の為ならず。

口で言うのは簡単だが、これに慣れるのに十年以上かかった。しかし、慣れてしまえば極めて簡単なことだ。独りよがりでいいから、自信を持つことが肝心だ。そして小言も排出物と一緒に、一気にジャーっと流せばスッキリする。この時背中を押してくれるのが画像にある2枚の書なのだ。キツネの計略かも知れないが、タヌキは黙って受けてたつ。
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2021年11月20日

念願の立派な病気

80歳を目前にして舌癌に罹り、手術の為入院することになった。初めて癌という世間でも認められる立派な病名を付けてもらって、ある意味で、とても嬉しかった。その喜びは深海竜宮病院に書いたので、ここでは省略する。

自慢するようで恐縮だが、珍しい癌だ。有名人としてはテレビドラマスチュワーデス物語の堀ちえみさんが罹っている。

幼少の頃は健康だった。10歳から元気よく走って新聞を配っていた。その頃は私が配達するのを待っている人がいて、「エライね」とか言ってお菓子をくれて励ましてくれることもあった。そんなことで、配達するのも楽しかった。

それから5年後の春、中学三年になっていた私は、坂を上るのが辛くなり走って配れなくなった。子供の頃、お菓子をくれた人に「新聞が遅い」と叱られた。体調は悪いが、学費は必要なので配達は止められない。今の常識では病院に行くべきだが、その頃、病院に行く人は滅多に居なかった。

働かなければ食ってはいけないが、体調が悪いまま働くのは凄く辛い。何をやっても続かず、8年ばかり職を転々。その結果肉体労働は、どうしても出来ないことが分かった。

何か事務的な仕事はないかと探したが学歴で無理。調べてみると、国家公務員試験だけは、受験資格で学歴を問われないことを知った。つまり、短大卒業程度の中級職も中卒で受けられる。20歳以上28歳未満の年齢制限があるだけだった。

年齢の関係で高卒程度の初級職は無理、27歳まで受けられる中級職を受けることにした。21歳のとき、兄の紹介で「インド通信東京支局」でアルバイトを始めた。実働2時間程度で、6時間は一人で留守番という、楽で暇な仕事だった。誰も居ないから一人で試験勉強ができるのだ。お陰で2年後に航空管制官試験に合格できた。

スポーツを楽しんだり、レジャーも盛んな職場だったが、私の健康状態は相変わらず悪い。仕事が終わったらさっさと寝る。目が覚めたら、本を読んだり、テレビを観たりの休養生活だった。付き合いで飲んだり旅行に行ったりするが、自由時間の全てを休養に当てた。

体調が悪く、息切れがして疲れ安い状態は続いていたので、病院にはよく行って、検査もよくやった。しかし、検査結果はいつも異常なしだ。その度に健康になるという望みは絶たれた。こんな状態が40年以上続き、虚弱体質と諦めた。

2年前は舌が痛くて飯も食えなかった。食える物もあるが塩気があれば痛い。牛乳、生卵、お粥、豆腐等いろいろあるが、塩気がなくては美味しくない。どうか立派な病名が付きますようにと祈った。舌が痛いのに異常なしなら心配だ。舌癌と言われてホッとした。これで痛いのが治る。病名が付くこと、これが快復の第一歩である。
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2021年11月13日

片付け恐怖症

忘れるスピードは若い時が歩く速さとすると、高齢になると飛行機ぐらい速くなる。例えば、用事があって部屋を出る。そして、さて何で出たのかなと考える。これが超高速物忘れ。あるいは、物を何処に入れたか忘れて年がら年中、探し物をするようになる。これは認知型物忘れだろうか?

整理整頓は好きだったが、60代で億劫になり、70代で次第に怖くなってきた。80歳になると、大切な物が行方不明になる。つまり、大事なものは泥棒に盗まれないように、慎重に場所を選んで仕舞い込む。そして分からなくなる。もう、こうなると病気である。だから私は「片付け恐怖症」。

以前は、テレビやラジオも好きな番組を選んで観たり聴いたりしていた。その結果、偏った好みと偏った考えを持つ偏屈な人になってしまった。その反省か、最近は番組名も分からずに流していることも多くなった。

坐っている時はテレビとビデオを楽しみ、寝ている時はラジオを睡眠薬代わりにしている。いずれも番組を選ばず、気ままに流している。自分では源泉掛け流し方式と思っている。しかし、知らずに放送に影響されて洗脳される場合もあるそうだ。落とし穴は何処にあるか分からない。

巣ごもり中は、それなりに日々の暮らしを楽しんでいた。しかし、コロナ緊急事態も解除、世の中は動き出している。身近なところでは、お母さんも買い物、習いもの、友達付き合いに動き出した。

一方、私は巣ごもりも留守番も大好きだ。特に楽しいこと、あるいは生き甲斐になる事もやってはいない。それなのに幸せだ。不安がないからだと思う。私はこの状態を汽車に例え、「幸せ本線」に乗っていると思っている。これに乗っている限り脱線しても直ぐに復旧、幸福になる。

70歳を過ぎた頃から、物を動かすと何処に移したか忘れるようになった。一見、ゴチャゴチャしていても、置いたままなら何とか探し出すことができる。残念ながら、「そのまま置いておく」以上の整理法は、未だに見つかっていない。

テレビでゴミ屋敷のような高齢者の部屋を見ると、いずれ、ああなるのかなと思ってしまう。それでも整理整頓するのは怖い。だが、不安を感じないから幸せである。片付けなければ良い。それでいいのだ!

「その内出てくるだろうと楽しみにしています」
「珍しく楽観的だなぁ」
「私が分からないのだから、泥棒も見つけられませんよ」
「おめでたいねぇ」
「11月ですから、おめでとうには早すぎます」
「長生きするよ」
「もう、しています。81ですからね」
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2021年11月06日

不安なければ幸せ

いきなり、むさ苦しい部屋の画像で申し訳ない。
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この部屋で幸せな余生を送っている。幸福とは不安の無いことである。二人暮らしの住居は80平方メートル余りだが、自由に使える空間はこの部屋だけ。居間、寝室等、その他の部屋は全てお母さんの管理下にある。私には鉛筆一本置く自由もない。それなのに幸せだ。不満はあるけどね

「誰? 洗面所に箸と丼、置いたの!」
「ごめんなさい。急用ができて下げるの忘れました」
「何で洗面所に丼なの!」
「お茶漬け食べていたら、暑くて汗がダラダラ……」
「夏だもん、暑くて当たり前でしょ」
「風が通る一番涼しい場所で食べたかったのです」
「アタシが居なけりゃゴミ屋敷になっちゃうね」

その日は、この夏一番の猛暑だった。それに、箸と丼の置きっぱなしぐらいで目くじら立てないで欲しい。整理整頓は良いことだが、やり過ぎは迷惑だ。居間も整然としていて、雑誌一冊置く余裕さえない。

私は雑然とした自分の部屋が大好きだ。一番のお気に入りはベッドだ。枕元には本、小型オーディオ、ラジオ、そして、鉛筆とメモ帳が置いてある。スマホも寝転んで楽しめる。

装飾品は何もないが、テレビとパソコンがあれば、いろんな画像を見せてくれる。それに窓からの景色は、春夏秋冬時々刻々と変わり、厭きることはない。

幸せ列車に乗っている限り、不幸な事態に遭遇しても直ぐに幸せに戻る。一年前は癌に罹り手術も失敗、一日で2回も手術をして苦しかった。手術後の治療にも不具合があり、三日三晩苦しんだ。しかし、終われば直ちに幸せに戻った。

全ての医療従事者が全力で取り組んでくれた。治る確信があり不安は感じなかった。どんな状態でも不安がなければ、苦しさは一時的。治った途端に幸せに戻ってしまう。

不安は退職して自由になったら消し飛んだ。新聞の見出しに「働く女性自殺3割増」とあった。不安に取りつかれるのは苦しい。一部の人は死を選ぶ。幸福とは不安のないことだ。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2021年10月30日

老人になれない事情

時が過ぎるのは早いものだ。明日が来ればもう81歳。自分が老人であることは分かっているし、ヒトとしても生きすぎた。それなのに老人である様な気がしない。何故だろう?

子供の頃に見た老人と違うからかな。その頃の老人は身体の動く限り働いていたし、働けない人は家で静かに大人しくしていた。老人が集団で歌って踊ったりして、遊んでいる有様を見たことがなかった。それなのに、今の私は歌って踊って楽しみたいと思っている。これで良いのだろうか?

10歳の頃から新聞を読んでいたのに、老人の殺人とか傷害、窃盗等の記事を読んだ記憶がない。「荒くれ老人」が増えたのは何時からだろう。その頃の犯罪の主流は若者だった。その若者が老人になって、老人犯罪が増えたのだろうか?

犯罪のような極端な場合は別としても、老人の自覚がないのは何故だろう。60歳の頃は80歳以上が老人かなと思っていた。80歳になったら90以上が老人と感じていた。90になれば95以上が老人と思うに違いない。いつまでたっても自分より年上が老人で切りがない。

最近、老人とは老人には見えない幻のようなものかなと感じている。あるいは自分の顔が見えないから自覚が出来ないのかと思い、手鏡を買って自室に置いた。

「鏡に向かって、これは老人であると言ってみました」
「そうかい」
「英語でティス・イズ・ロージンとも言ってみました」
「ロージンは英語でないぞ」
「カラオケが英語だからロージンだって……」
「発音はキャリ・オゥ・キィだ」
「ともかく、何を言ってもダメでした」

やはり、一人ではダメだ。比較の中で徐々に老人と自覚するようになるのだ。多分、祖父母、両親、子供の三世代で暮らせば、嫌でも老人と感じると思う。しかし、覆水盆に返らず。今になっては遅すぎる。

「どうにかなりませんか?」
「胴はは首から下だ」
「何ですかそれ?」
「島崎藤村は言った。人生は大いなる戦場である」
「意味が分かりません」
「胴が首に繋がっていれば良いじゃあないか
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 80歳以降

2021年10月23日

中島公園で失われた2景観

ある情報によると中島公園内には100種5,530本の樹木があると言う。倒木も植樹もあるが、現状もこの数値に近いと考えられる。時には台風に襲われ樹木が何十本も倒れることもある。それでも、周辺の木々は成長し続けるので、台風被害の痕跡は時がたてば分からなくなる。

ところが、台風や危険木伐採で様変わりした景観が二カ所ある。一つは地下鉄幌平橋駅から行啓通の西に延びている道路のポプラ並木。もう一つは中島公園西側を流れる鴨々川沿い遊歩道のヤナギ並木。共に素晴らしい景観だが消失した。

ポプラ並木は2004年9月8日の台風18号で一挙に倒壊し消滅した。一方、ヤナギ並木は30年以上かかってじわじわと減り、今年も危険木として3本が伐採された。1988年に64本あったヤナギは5本に激減、消滅寸前の状態である。

1.2004年9月8日、台風で消滅したポプラ並木
2001年に中島公園近くに転居して一番気に入ったのが、天を突くように林立する行啓通のポプラ並木だった。残念ながら、台風18号で一挙に倒壊し消滅、今は見る影もない。

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ポプラ並木は台風で全て折れた。そして、伐採された。
画像は公園近くに転居した2001年11月3日に撮影。

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20年たった今は、まるで別な道路の様だ。
2021年10月22日撮影。

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台風第18号で軒並み折れたポプラ並木は後に伐採された。
画像は台風翌日の2004年9月9日に撮影。
過去の詳細はこちらをクリック → 行啓通のポプラ並木

2.じわじわと消滅間近のヤナギ並木
『中島公園百年』 山崎長吉著に次のように書かれていた。「中島橋から川ぶちにシダレヤナギが続く。札幌で一、二といわれるヤナギの街路樹は詩情を誘うに十分なものがある。その数64本。(中略)鴨々川のヤナギは京都の鴨川のヤナギ並木を模して、川ぶちの料亭鴨川(南12条西6丁目)が植えたともいわれている」。転居して11年もたつのに何処の話か分からなかった。読後すぐに現場らしき所に行ってみた。

2012年秋深まる頃だった。川とは鴨々川で、中島橋とは中島公園北西側の入り口に架かる橋。そこから料亭鴨川跡地までは遊歩道になっている。ところが、64本あるはずのヤナギは21本しかない。詩情を誘うに十分な並木は大半のヤナギを失っていた。最早ヤナギ並木とは言い難い状況だ。その後も減り続け、2021年となった今は5本となり消滅寸前である。

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2002年8月にはヤナギ並木もかなり見られた。

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2002年10月2日の台風第21号でヤナギが倒木、その後、危険木と診断された木も伐採された。2002年10月15日撮影

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そして、ヤナギ並木は分断された。並んだヤナギの切り株が侘しい。2002年10月19日撮影

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その後も台風による倒壊と危険木診断による伐採が繰り返された。今年、2021年秋も危険木として3本伐採された。

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危険木はこのように表示される。

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2021年10月4日、かろうじて残ったヤナギ並木だが、右側の一本は危険木と決定され、既に伐採されている。64本あったヤナギは5本に減った。

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中島橋と公園橋の間(日本庭園・豊平館裏)はヤナギ5本、イチョウ5本で14カ所が樹木升のみの状態になっている。画像の両端がイチョウ、その間は樹木升のみ。

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一方、札幌コンサートホール・キタラ裏はほぼイチョウ並木に代わっている。遊歩道の左が鴨々川そしてキタラ。

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以前、倒木したヤナギの跡にヤナギの若木を捕植したことがある。多くを失い、残ったのは左端の一本だけだった。この環境でヤナギを育てる難しさを痛感させる出来事だった。
2012年11月5日撮影。
過去の詳細はこちらをクリック → 鴨々川のヤナギ並木

3.私が考えたこと
詩情豊かなヤナギ並木の復活を願う。と言うのは簡単だが実現は難しい。それでも何とかして復活させて欲しいと思う。元々あったのだから、何らかの方法があると思うのだ。キタラ裏(公園橋、料亭鴨川跡地間)は既に大部分がイチョウ並木に代わっているので、それでいいと思う。

しかし、日本庭園・豊平館裏(中島橋、公園橋間)はイチョウは5本だけ、そしてヤナギが5本、大部分は放置され、樹木升だけが残されている。その数は14カ所、並木にするには十分だ。これは放置しているのでなく、ここにヤナギ並木を復活する方法を真剣に検討しているのかも知れない。

現にキタラ裏には25本のイチョウが、ヤナギの跡に捕植されイチョウ並木になっている。何らかの意図があって樹木升がそのまま残されていると思う。この辺りの風景は国指定重要文化財豊平館、同じく日本庭園内の八窓庵、レトロな街路灯、そして、料亭鴨川が植えたと言われるヤナギ並木で構成される札幌の歴史ゾーン。何とかして復活させようと研究、努力中。私はそう思いたい。

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樹木升に咲く可憐な花はヤナギを待っている?

4.後書き
10年以上前と思いますが、中島公園の歴史を書きたいと考えいろいろ調べました。その結果、私のような素人には無理と思いました。専門知識、知力体力が必要です。私に出来ることは、唯一つ、「記録を残すこと」と考えました。自分が見たことを写真や文章で残すこと。これに尽きると思い、このブログを更新中。よろしくお願いいたします。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年10月16日

為せば成る

カラオケも行けない巣ごもり生活を始めて2年たった。舌癌発病にコロナ禍が追い打ちをかけたのだ。1年半前のことだが医師に癌と言われた。病名が付いた以上は治してもらえると思い、ホッとして「そうですか」と言った。看護師さんが微笑みながら「怖くないのですか?」とささやいた。痛くて飯が食えないのに異常なしと言われる方が怖い。

何であれ、病名を付けてもらうことが快復の第一歩だ。長年、体調が悪くて病院に行っても異常なしと診断され続けた。14歳の時、息苦しくなり、やたらに心臓がドキドキするようになった。それ以来、人並みの動きをすると、息切れがするし疲れが酷い。その状態は現在に至るまで続いている。その為、退職し無職になってとても嬉しかった。

数年は張り切っていろいろやったが、自由な活動といっても、やはり人並みの体力がないと難しいことが分かった。周囲の人に合わせられないと、心ならずも存在自体が迷惑になることがある。いろいろやって、いろいろ楽しんだが、いろいろと疲れた。自由な活動もやっぱりダメだった。

妻は家でゴロゴロしている私に家事をさせようとしたが、出来が悪いので諦めた。その代わり何をしてくれても、嫌味たっぷりだ。憂鬱な状態は十年以上続いたが、発想を変えて解決した。夫婦関係を母子関係に切り替えたのだ。私は子供になってお母さんを尊敬することにした。そして、言葉使いに気を付けて、言うことを聞く良い子になるように心がけた。

ある日、トイレで用を足していると、突然電灯が消えて真っ暗になり、いきなりドアが開いた。そして叱られた。
「臭い! 電気も点けないで何してんの!?」
「ごめんなさい」
と謝った。トイレに入るため、お母さんは電灯を点けるつもりで消したのだ。そして、開けたら私が座っているので驚いたのだろう。良い子を演じている私は、口答えをしない。

こんな対応を三年も繰り返していたら、とても優しいお母さんに変わってしまった。もちろん喜んで私の世話をしてくれる。私は、ことあるごとに「この歳になるまで生きてこられたのはお母さんのお陰です」と言う。体調が何時も良くない私としては、嘘偽り無い本当の気持ちだから素直に信じてもらえる。ちょっと変だが、80歳の母と81歳の子になった。二人暮らしなら何にでも成れる。為せば成る。
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2021年10月09日

内弁慶

内弁慶だから外では弱く、思ったことの千分の一も言えない。趣味はカラオケだが、ほとんど歌えない。ところで、人生は汽車の旅に似ている。本線と支線があり、本線は「悲しみ本線」と「幸せ本線」に分かれている。何れの本線も一旦乗車すると長い旅となる。悲しみ本線に乗っていても楽しいことも嬉しいこともあるが、遅かれ早かれ本線に戻る。

定年退職するまで、悲しみ本線に乗っていた。幸せな時もあったが一時的で、知らない内にに本線に戻ってしまう。何となく不安で悲しい世界に落ち込んでしまうのだ。たとえ良いことや楽しいことがあっても、不幸列車に乗っている限り、不安な気持ちから逃れることは出来ない。

ほぼ退職と同時に幸せ本線に乗り換えた。半年くらいかかったが、自然にそうなった。仕事の束縛から解放されたからだ。一人で街を歩いているだけで自由と幸せを感じた。

ところが高齢になってからの二人暮らしは思いのほか厳しいものだった。顔を合わせれば口喧嘩、いつも私が負けていた。しかし、一旦「幸せ列車」に乗り込めば、嫌なことがあっても一時的、直ぐに幸せ本線に戻ってしまう。

腹がたっても不安はないと言う状態は、どちらかと言えば幸せだ。二人暮らしの相方が不機嫌なので「何かストレスでもあるのですか」と尋ねたら、「アンタがストレス」と明快な答えが返って来た。

これなら解決は簡単と思った。反駁しないで合わせればよい。相手が一人だから簡単なのだ。意見の違う二人に合わせるのは殆ど不可能。三人になれば更に複雑な対応を迫られる。多様な人間が集まる職場では極めて難しいことでも、二人暮らしなら大丈夫。「負けるが勝」で必ず勝てる。

仕事では多数の協力を得て、成果を上げる能力が必要だが、私はゼロだった。だからといって悲観もしていない。今は幸せ列車に乗ってるからね。巣ごもり暮らしは私に向いている。相手が一人なので上手に対応できる。

コロナ禍も収束の方向で、相方も活動開始の気配だ。社会との接点ができると、私に不満を持つかも知れない。相変わらずマグロのように、家でゴロンと横たわっているからね。でも大丈夫、私は内弁慶。しかも幸せ列車に乗っている。
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2021年10月02日

過去からの贈り物

定年後に整然とした新興住宅街から山鼻のマンションに転居した。そこは少し破壊されたような感じがする旧市街だった。ふと、空襲で破壊された故郷、渋谷を思い出した。中心街に近い山鼻地区はモータリゼーションの影響で、発展から取り残され、寂れていた。車で買い物をする時代に、ついて行けなくなったのだと思う。

焼けトタンの屋根が、終戦後の暮らしを思い出させた。不揃いの住宅の中に寂しそうに建っていた地味な家。昔住んで居た渋谷のバラックに似ていて、無性に懐かしく感じた。
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1軒だけ変わった家があったが、人は住んで居るようだ。ふと昔のことを思い出した。自分だけが、未だにバラックに住んで居ることが恥ずかしくて、小学同級生にも隠していた。画像には転居したマンションも写っている。近くなのだ。

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曲がりくねった砂利道に辛うじて建っている暗い家、窓が無ければ、昔住んで居たバラックにそっくりだ。当時は嫌で嫌で仕方がなかったが、今になると凄く懐かしい。

バラックに住んで居た10歳頃から、15分ばかり歩いて映画館に通っていた。映画で見る夢の世界に憧れていたからだ。貧乏くさい邦画には全く興味がなかった。新聞配達をして稼いだ金は、夢の世界を見るために全部使った。

新居から15分くらい歩くと映画館があった。在職中いろいろな場所に住んだが、いずれも街から遠い所ばかりだった。歩いて映画を観に行くのは長年の夢だった。
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すすきのにあった映画館、東宝公楽。

渋谷の繁華街に古い洋画を上映する格安映画館があった。そこに週一回、作品が変わるごとに通った。そんな訳で、映画館とバラックに似た家屋が懐かしい。遠い昔を思い出させてくれるのだ。転居後は徒歩15分の位置に東宝公楽があった。

転居して早くも20年たった。あと20年もすれば百歳を超える。僅かに残る未来のことは分からないが、その先にあるものは誰も知らない。しかし、過去については膨大な記録があり、自分の記憶も残っている。一生懸命調べれば新しい発見があるので興味は尽きない。

若い時は現実に続く長い未来について考えていた。今は先が短くて出来ることは僅かだ。その代わり、過去はどんどん増えて行く、過去を考えると、毎日のように新発見がある。

ところで、バラックのような家も映画館東宝公楽も、今はない。このように、過去という素敵な贈り物はどんどん増えて行くから楽しい。現在・過去・未来、含蓄ある順番だ。
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2021年09月25日

信じても嫌いな人

先日お母さん(妻)は80歳の誕生日を迎えた。これで二人そろって80代。こんなに長生きできるとは、夢にも思わなかった。これで二人仲良く暮らせたら言うことはない。実はこれが一番難しい。しかし、何とか乗り越えた。
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かなり前の話だが、長年連れ添った夫婦が、感謝の言葉を綴る「60歳のラブレター」という企画があった。それなら、トイレに飾られた二枚の書は80歳の告白だろうか?

トイレに立つと目の前に見える二枚、黙って貼ったのは何故だろう? 定年退職後の3年間はケンカばかりしていて、離婚も真剣に考えた。凄く面倒臭くて巨大なパワーが必要と分かった。怠け者には無理なので、冷戦に切り替えた。

その後、静かで長い闘いが続いた。二人の闘いにルールは無いが、戦法はいろいろある。私の場合は無抵抗、無行動、絶対服従だ。つまり、何を言われようと御尤もと従う。自分からは何もしない、言われたことは必ず実行する。

ところで、無抵抗・絶対服従と口で言うのは簡単だが、現実は毎日が忍耐の連続だ。それが5年、10年と続く。些細な例で恐縮だが、水道を出しっ放しにすれば、たとえ10秒でも叱られる。相手が出しっ放しなら、私は黙って止めるだけ。一事が万事、こんな具合で我慢と忍耐の対応が続くのだ。

体力がなく不器用なので仕事では苦労した。いつの間にか、人の言うことに無条件で従う癖がついてしまった。もちろん、家でそうするつもりはなかった。ところが、絶対服従をやってみて、これが強情で我が儘な相手を変える、唯一の方法であることが分かった。

いつの間にか、お母さんは私がして欲しいと思うことを、先回りしてやってくれるようになった。成果が表れるまで長い歳月を要したが、憧れの楽チン生活に入ることができた。

ところで、二人とも、我が家の財布を握るのを面倒くさがり押し付け合って来た。私たちは漠然とした倹約はするが、金の勘定は苦手で嫌いだ。退職後は「アンタは暇だから」と言われ、不本意ながら私が財布を持たされてしまった。

10年以上に及ぶ長い喧嘩をしている時でさえ、お互いに相手は正直と思い込んでいた。これが唯一の絆かも知れない。連れ合いがギャンブル・アルコール依存症、あるいは浪費癖があったら大変だ。手の打ちようがない。

かなり我が儘だが私も同じだ。嫌いな人でも信頼できれば、いずれ和解する日も来る。お洒落で魅力ある浪費家と暮らすのは楽じゃない。平凡で安定した暮らしが何よりである。
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2021年09月18日

究極の早口言葉

思いっきり歌が下手で高齢な私は、絶対にカラオケ会でロックを歌ってはいけない。拙い英語はもっての外。凄く異様な感じがして周囲の人は凍りつくだろう。困ったことに、私はロックンロール時代の幕開けを象徴する名曲「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大好きだ。危ない人だから自粛が大切、変な人と思われたくなければね。

この歌は1955年の映画「暴力教室」の主題歌だった。映画を観たのは多感な少年時代、力強いリズムに魅了され、その思いを抱き続けて60年余り。ところで、不良少年役のヴィック・モローは、後に人気テレビドラマ『コンバット!』のサンダース軍曹となる。役の上でだが不良少年から戦場のヒーローへ。一方、私は何の進歩もない。

ふと歌いたいと思い、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の歌詞を見たら、1から12までの数字、とオ・クロック、ロック・ロック・ロックの羅列、後はデイライトぐらいかな。これなら英語の苦手な私でも大丈夫? 夜通し歌って踊って楽しもう、強烈なリズムに乗って心ふるえるかも知れない。

ところで、真面目なフリも45年も続けると、それが外から見える自分の姿になってしまう。定年退職して自由な身になると、心の中に押し込まれた熱い想いが噴き出して来る。しかし、外見は変わらないどころか益々老いて行く。極めて地味な外見とタガが外れて露出した派手な胸の内、とのアンバランスに戸惑っている。ホントに自由とは苦しいものだ。

自分が好きなことを自由にやると、著しい違和感が生じてしまう。ただ、変人と思われても「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を歌いたいと言う気持ちはある。年は取っても上手に歌えば違和感はない。現にそういう人は居る。しかし、下手な私には不可能だ。

色々考えたが、結論は平凡だった。陰でコッソリ歌ってみることにした。試しに少しだけ歌ってみると、外見とか内面とか、音痴とか英語とか以前の問題が浮き上がって来た。口が回らない。全く回らない。一体これは何だろう。なぜ口が回らないのだろう?

繰り返しても繰り返しても同じことだ。それなのに、歌にならなくても口が回れば楽しいだろう、との思いが浮上してきた。同年配の友人は健康に良いと言って懸命に早口言葉の練習をしている。それなら歌の方が絶対に楽しい。究極の早口言葉で健康にも良い、一石二鳥で更に良くて(^-^;) ゴメン
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2021年09月11日

似合わなくてゴメン

もうじき81歳なのに爺さんになったような気がしない。未だにお爺さんとは他所の人と思っている始末だ。ハゲて耳が遠く、動作もノロく、ヨボヨボなのに困ったものだ。

孫がいないと爺さんの気持ちになり難い。おまけに自分の祖父母は写真でさえ見たことがない。爺さんになるには環境が悪すぎた。しかも私は、爺さんになる為の努力を全くしなかった。これでは立派な爺さんに成れるはずがない。祖父母→父母→自分→子→孫、この循環の中でお爺さんの気持ちが徐々に熟成されていくのだろうか。

仕事や実生活にはルールがあるので、私自身も年齢に応じて変わって行く。その点、趣味の世界は自由だ。大きな声では言えないが音痴なのにカラオケをしている。曲の好みは十代のままフリーズしている。当時の歌が大好きだ。歌っている内に少年時代にタイムスリップしたような気分になる。

当時は好きになっては振られるばかりの、やるせない人生だった。歌は私の気持ちに寄り添ってくれた。例えば、「畜生恋なんてぶっとばせ♪(ダイナマイトが150トン)」とか、「夜通し歩いて諦めろ♪(女を忘れろ)」とか言って慰めてくれた遠い昔が懐かしい。

今は、こんな曲を歌えれば最高に幸せと思っている。
「なんでこんなに 可愛いのかよ 孫という名の宝物
じいちゃんあんたに そっくりだよと 
人に言われりゃ 嬉しくなって
下がる目じりが 下がる目じりが えびす顔 
(『孫』作詞:荒木良治 作曲:大泉逸郎)」

しかし、そうも行かない。温かくて、とても好い歌詞だけど孫のいない私が歌えば嘘になる。実生活なら嘘も方便、人を助けることも喜ばすこともある。歌の場合は、嘘にもリアリティを与えられるのはプロだけである。真逆の私は嘘丸出しになる。残念ながら『孫』は御法度だ

仕方がないので遠い昔を懐かしんで懐メロばかりだ。柄にもなく愛とか恋ばかり。事実ではないが嘘でもない。ノスタルジーと叶わぬ夢を歌っているつもりだ。孫とか母なら好いのにね。ホントにホントに似合わなくて(^-^;) ゴメン
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2021年09月04日

静かな暮らし

誤解を恐れずに白状すると、私の夢は楽をすること。退職して二人暮らしだが、お母さんに家事一切を任せ楽ちん生活に入った。夢は叶ったのである。長い人生だから、懸命に働こう、勉強しよう、真摯に生きよう、と思ったことは何度もある。しかし、いつの間にか本来の怠け者に戻っている。

少しは負い目を感じているので、頼まれたことは何でも喜んでする。例えば、散歩の帰りに牛乳をを買ったり、朝食の皿を並べたり、張り薬をペッタンコと張ったりね。あとはゴミを捨てること。何故かとても少ないので、頼み事は一切しないように心がけている。私は静かなネコ(*^-゜)

ところで、お母さんの喉は調子が好いらしい。いつも「のど飴」を舐めて、私にも分けてくれるのに、最近は滞っている。私は相変わらず喉の調子が悪いのでコンビニに買いに行った。買ったのは、19種類のハーブエキス配合の「R角散のどすっきり飴」。

一人で買って一人で舐めるのは気が引けるので、二つ買って一つはお母さんに上げたら、ニッコリ笑って有難うと言ってくれた。プレゼントを気に入ってもらったような気がして、とても嬉しかった。

これで、のど飴は双方一袋ずつだが、しばらくしたら私の分は無くなったので、お母さんのを頂こうとした。のど飴袋を手にすると何か違和感を覚えた。袋の中で飴と飴がくっついて一塊になっていたのでビックリした。

お母さんは、ほとんど舐めていなかった。しかも、袋の口は閉じずに開けたまま放置した。だから、湿気が入り飴同士がくっ付いてしまったのだ。喉を使い過ぎたことはなかったのか。喉の乾燥を感じたことは無かったのか。ニッコリ笑って有難うと言ったのは嘘なのか。疑問は次々と湧いて来た。

それだけなら我慢できるが、こともあろうに、自分の不始末は棚に上げて「アンタ、私のR角散盗ったでしょ」と抜かした。あんなに粗末に扱いながら所有権だけは、しっかりと主張するのだ。

「ついに堪忍袋の緒が切れました」
「面白いね。それでどうした」
「修繕しました」
「なに?」
「堪忍袋を修繕したのです」

堪忍の袋を常に首へかけ破れたら縫え破れたら縫え
道歌(道徳的な、又は教訓的な短歌)より
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2021年08月28日

あたたかきこと

ためらいのなきことなにかあたたかきこと」、ホッとする温かい言葉。朝食後のひととき、私はテレビを観ていた。相変わらずのコロナ禍報道だ。お母さんは新聞を読んでいた。

「私は無職だからいいけど、コロナがまん延する中で働く人は大変ですね」
「アッハハハ〜」
「何ですか、人が真面目に話しているのに」
「全裸の男が現れたけど、マスクしてたんだって」

お母さんは新聞の小さな記事に気を取られて、私の話は聞いていなかったらしい。顔を赤くして、全身で笑っていた。何とか気を取り直して話を合わせた。

「エッ!裸でもマスク、靴は履いてたんですか?」
「リックサックも背負っていたよね」
「どおして?」
「裸だったら電車に乗れないでしょ。アアッハハハ」
まだ、顔を赤くして笑っている。
「近所の人かもしれないでしょ」
「アンタ、常識無いね。裸で近所歩けないよ」
と言いながら笑い続ける。

以前は、家でお母さんが心の底から笑ったのを見たことがなかった。友人と電話で話すときは大笑いするのにね。もちろん、外で友達と会って、笑い転げていることもあると思う。しかし、その場に居合わさない私は知る由もない。

お母さんが家で顔を赤くして心の底から笑うようになったのは、ここ数年のこと。私が絶対服従に徹して、何事にも逆らわないことに決めてからだ。何かとギクシャクしている定年後の二人暮らしを、何とかして変えようと思ったのだ。苦節三年とか言うが、変えるのに十年以上かかった。

二人の世界は対応次第で、天国にも地獄にもなる。遅まきながら自分が変われば相手も変わることを知った。私は意図的だが、お母さんは、ごく自然に手のひらを返すように変わってしまった。幾つになっても分からない事ばかりだが、このような素晴らしい発見もあった。

妻のこと「母さん」と呼ぶ
ためらいのなきことなにかあたたかきこと
(「サラダ記念日」俵万智)
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2021年08月21日

消えた鯉10--私の夢

フィクションとは、一般には「事実でないことを事実らしく作り上げること」 。作り話も、その一つだ。ところで、事実だけに拘ると真実を語れないことがある。

例えば、SP市N公園S池に鯉が初めて放されたのは明治23年(1890年)。それから116年たった2006年の春、池の中の鯉が一匹残らず消えていた。にも拘わらず、当局の発表もマスコミ報道もなかった。

だが私は鯉全滅の一部始終を知っているつもり。しかし、事実とは証明できないので「作り話」として書いた。カテゴリ:フィクションをクリックすると10話まとめて表示される。見たこと聞いたことの隙間は空想で埋めた。

ところで、ここから先は実名表記で書くことにした。事実だけを書くのでフィクションにする必要がなくなった。と言っても私が見た事実であり、思い込みも含まれている。

消えた鯉を再び見たのは、全滅以来2年半ぶりの2008年6月だった。豊平館前の池、西側で約10匹の鯉を見た。
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鯉の全滅は突然だが、現れたのも予告なしだった。

半月ぐらいは、ほぼ同じ場所に居た。その後アチコチで見られるようにになったが、豊平館前の池、西端に居ることが多かった。日本庭園でも見かけたが、菖蒲池ではたまに見られる程度だった。池が大きいので遠くが見えない事情もある。

このような傾向は去年まで続いたが、今年はかなり変わった。菖蒲池で見ることが多くなったのだ。その分、豊平館前で見る機会は少なくなった。次の2枚は菖蒲池で撮影。
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2005年までの鯉は菖蒲池の底で越冬していた。豊平館前の池は水深が浅く越冬できないと思う。全面的に干上がることが、よくあった。動物の生態など殆ど知らないが、この池で鯉が越冬できないことは、池の底を見て分かった。
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2008年以降、一番多く鯉が見られるのがここだった。

ところで、すすきの鯉放流場のことだが、毎冬、鯉を養鯉業者に預けていた。費用も掛かるので、鯉を越冬させるため川の中央を掘り下げる工事をした。
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以後、すすきの鯉放流所の鯉は越冬している。越冬のためには、ある程度の水深が必要なことが分かった。

浅はかな考えだが、今の鯉はいつの間にか2005年以前のように菖蒲池の深い所で越冬するようになったと思う。越冬中は何も食べていないので、池が融けて水温が上がると、鯉はエサを求めて泳ぎまわる。そして行き着いたのが豊平館前の池。ここは行き止まりで、しかもエサがある。濁っていてゴミだらけだから、なんとなくそう考えたのだ。
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鯉は10年以上もエサを求めて池の中を泳いでいる内に、エサはいろいろな場所にあることを学習した。そして、あちらこちらに行くようになったのだと思う。

鯉が2006年の春に全滅したのも事実、2008年6月に再び姿を現したのも事実である。しかし、数が少なくて生息し続けるか心配だ。私の夢は菖蒲池で越冬した鯉が春には産卵をして命をつなぐこと。このような、自然の営みが中島公園で行われれば、素晴らしいと思う。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | フィクション

2021年08月14日

母と私-4(そして妹)

母は三人の子連れで東京渋谷の中波常吉と一緒になった。そして、春子が生まれた。終戦2年後の1947年のことだった。常吉さんはもちろん、年の離れた兄弟も春子を可愛がった。

とは言っても、バラック生まれの貧乏暮らし、惨めな思いも苦労もあったと思う。妹は父親似の小柄な美人に育ったが、真っすぐな人生は歩めなかった。

後になって偶然知ったことだが、妹は中学生のころ深刻な犯罪被害に遭い、これが転落の切っ掛けとなった。十代で二児の母となり、結婚・離婚を繰り返す波乱の人生を送った。それでも病気の父親の面倒を最後まで一人でみていた。

中年になってから年下で実直な、驚くほど良い人にめぐり逢い、二人の娘と共に幸せになった。だが、71歳で亡くなってしまった。人生の前半は苦労と波乱に満ちていた。そして、後半は愛する夫と娘、孫に囲まれて幸せに過ごした。

私は中卒後、地方で働いていたが、3年9ヵ月後に、退職して家に帰り、仕事(経師屋)を手伝うことになった。ところが仕事が忙しいというのは真っ赤な嘘。母は私が退職金や貯金をいっぱい持ってくると勘違いしたのだ。

退職金は旅費で消える程度だし、給料の大部分を家に送金していたのに貯金など出来るわけがない。1年も一緒に暮らせば、母も私がスカンピンであることが分かったし、させる仕事もない。私は母にとっても不要な息子となった。

妹は私が送った金を母がパチンコ代にしたと嘆いていた。この頃になると必要な金は金貸しのTさんから借りていた。妹は私の知らない家庭の事情をいろいろ話してくれた。

15歳のときは家を助けるために外に出たが、20歳のときは自分が生きるために家を出なけばならなくなった。ところで、文無しでも行ける場所がある。それは自衛隊、下着や靴下まで支給される。自分で用意するのはパンツだけでいい。

入隊した、その日から住む所と食事が与えられた。3年満期だから安定職とは言えないが、就職のための免許も取れると聞いた。それに虚弱体質の私は肉体労働が苦手だ。中卒の私にとって自衛隊は、事務的な仕事が出来る唯一の場所と考えた。常識に反するかも知れないが、正解だった。

令和元年に妹から来た年賀状に、次のような添え書きがあった。「この年になり大病し、私たちは変な家族だったから 今、兄の温かい手紙を読んで泣けて泣けて嬉しくて、本当にありがとう。感謝の気持ちでいっぱいです」。

妹の残した最後の言葉は「私たちは変な家族だった」。全く同感、我々家族は変だった。その中で一番人間らしく生きたのが妹だ。全ては優しく真面目、面倒見の良い夫の影響と思う。母の葬儀が滞りなくすんだのも彼のお陰だった。妹は私が少しは変でなくなったと思い、喜んでくれたのだろう。
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2021年08月07日

母と私-3(金貸しのTさん)

ドラマに出て来る金貸しは血も涙もない冷血漢。しかしTさんは違う。何でも親身になって相談に乗ってくれる優しい人だ。母がそう言っていた。ある日、Tさんが母と話し込んでいるのを見たことがある。革ジャンを着てハンチングを被った、浅黒い顔の人だった。何処かで見たことがある。なんと! 中学以来の友人Tのお父さんではないか。

確かTは米屋の息子だった。Tの部屋に遊びに行っても、家族に挨拶をしたことはない。中学時代は礼儀作法を全く知らなかった。だが、店先で何回もお父さんの顔を見たことがある。米屋が米も持たずに我が家に来た。何故だろう。

後から知ったことだが、米屋は副業として金貸しもやっていた。私は中卒後、ほとんど家を出て働いていたので、家庭の事情はほとんど知らない。妹の話によると、金貸しのTさんは、金だけではなく、渋谷の土地を活用して暮らしを立てる知恵も貸してくれたそうだ。

Tさんは借り手の身になって考える、思いやりのある人だった。土地がTさんのものになった後も、私の家族で彼を恨むような人は居なかった。住む家を失っても、良い借家を安く世話してくれたと喜んでいた。

Tさんは相談に応えるという感じで金を貸し、同時に活用の知恵を授け、生活が成り立つように援助した。何回も助け、最終的には担保物件を自分の土地にした。そして、感謝されるのだから大したものだ。10年間も借り手に寄り添ってくれた。これぞ本当のプロ! 米屋は副業かも知れない。

この親にしてこの子あり、息子のTもえらい。彼は大学を出るまで私と付き合ってくれた。中学から、3・3・4年と10年間、私の友人で居てくれた。丁度、母がTさんから金を借りて、土地がTさんのものになる期間と一致する。

私は母がTの父親から金を借りていたことを知らない。そして、母は私がTと付き合っていたことを知らない。だが、T家の父子は全てを知っていたと思う。金貸しとは大変な仕事と思う。10年間も家族が協力して、人間関係を築き信頼を得る。そして、機が熟するのを辛抱強く待つ。トラブルなく目的を達成するためには、知恵も忍耐力も必要である。
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2021年07月31日

母と私-2(求めよさらば与えられん)

関東大震災(1923年)で被災した母は、どん底に落ちた。だが25歳ごろからは幸運にも恵まれ、自由で贅沢な暮らしが出来るようになった。以後10年くらいはイソップ寓話のキリギリスのように、歌って楽しく暮らしていたようだ。ところが突然の事件をきっかけに、再びどん底に陥った。しかし、贅沢を知ってしまったらコツコツ働くアリには戻れない。

一方、私は6歳までは経済的には何不自由なく育ったのに、物心がついた頃はどん底だった。以後、浮き沈みはあったが、トレンドとしては右肩上がりの人生だ。特に定年退職後は、幸福度係数が急上昇。入院を三回したものの幸せ状態は持続している。一旦、幸せ本線に乗れば、厳しいことがあっても、直ぐに幸せに戻れることを知った。

母は横浜での豊かで楽しい暮らしが忘れられないのか、どん底に落ちてもキリギリスのままだった。日々の暮らしに困ると、頼る人を近所の奥さんから親戚、子供達へと次々に変えた。そして最終的には、何時もニコニコ笑顔で貸してくれる、金貸しのTさんを頼るようになった。

1960年代に入ると、オリンピックを控え渋谷の土地は急騰したが、戦災復興計画事業で土地は20坪に減らされていた。それでも、2階建てにして下を貸店舗にすれば、家族三人(親妹)充分に食べる収入を得られた。Tさんは母とその家族の生活を豊かにする知恵を、次々と提案してくれた。

ある日、丸ごと貸せば、家賃も三倍も入ると言う有難い提案があり、Tさんは家族三人の為に横浜の郊外に一軒家を借りてくれた。彼は「借金なんか返さなくていいから気楽に暮らしなさい」とも言ってくれた。いろいろあったが、土地はいつの間にかTさんのものとなっていた。

一方、私は働かなければ食えないので、アリの皮を被っているが、本心は母と同じキリギリスだ。職を転々とした後に、憧れの健康保険も年金もある定職に就いた。しかし私はキリギリス、働くことは苦手だ。右肩上がりの人生と言っても、幸せを感じたのは定年退職後だった。

退職したら幸せいっぱい夢いっぱいだが、何かが足りない。歌って踊れなければ、幸せであっても面白くはない。音痴なのに私の心はキリギリス、歌なしでは生きてる気がしない。高齢になって、気が付いたらカラオケをやっていた。一人じゃ面白くないが偶然、カラオケ会と言う場も与えられた。

しかし、踊らなければ、夢は半分しか叶っていない。ところが、手話を教えてくれる人が現れた。しかも歌いながら手話の練習をするのだ。やってみると歌って踊っているような気がして来た。「求めよさらば与えられん」と言うのは本当だった。本来の意味から離れた気持です(^-^;) ゴメン 
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2021年07月24日

母と私-1

母は明るくて社交的で歌が上手かった。それなのに私は陰気な音痴だ。イソップ寓話の「アリとキリギリス」に例えると、私はアリ。そうでなければ食っては行けない。一方、母は食えなくなってもキリギリスのままだった。大したものだと今でも感心している。

母は関東大震災でどん底に落ちてから結婚、直ぐに離婚して横浜で働いていた。その頃、背が低くて丸々としているが、精力的で気前の好い伊吹金吾と知り合い再婚した。彼は外航船でコックをしていて、高収入で留守勝ちだった。母は安定した生活と有り余る暇を手にして、たちまちキリギリスになってしまった。明るく社交的、いつも人の輪の中心にいた。

そして、私たち三人の男子が生まれた。戦争が激化すると夫(私の実父)は、船を降りて海軍関係の会社に就職した。戦後は米軍関係の仕事をするなど、時流に乗って稼ぐ抜け目のない人だった。その後、実父は闇物資を巡るトラブルに巻き込まれ、追われる身となった。母子4人の生活が成り立つ充分な現金を残して、姿をくらませた。

戦後1年たつと、母は縁あって渋谷に行った。三人の子連れで三度目の結婚をしたのだ。ところが、夫(私の養父)が肺病に罹り全財産を失い、どん底生活に陥った。母は10年に及ぶ贅沢な暮らしと、人を使うことに慣れ切っていた。そして、一度キリギリスになったら、二度とアリには戻れない。人を上手に使う人から、人に頼る人へと変わってしまった。

先ず最初に頼ったのが、近所の奥さん方、毎日のように家に呼んでは茶菓でもてなしていた貸しがある。一度は小金を貸してくれても、二度、三度とは行かない。当時、空襲で家を焼かれた、バラック暮らしの人たちの夢は、家を建てることに尽きる。そのため家族全員で懸命に働いて貯金した。ムダ金は1円も無かったのだ。

次に母が頼ったのは海外から引き揚げて来た親戚である。たった20坪の土地に、パラックを継ぎ足して、3家族、17人が暮らすことになった。夜寝ると足の踏み場もない。彼らも家族全員で必死に働いて土地を買って家を建て出て行った。最後の切り札は子供たちだが、これも頼りにはならなかった。

長兄は中卒後、証券会社の給仕なることが決まっていたが、身体検査で肺病と診断され、自宅療養となった。次兄は頭が良すぎて、都立の一流高校に行けと、先生や友人が次々と押しかけて落ち着かない。結局、自分を見失い全ての運に見放され、更にどん底に陥って30代で行方不明となった。

結局三男の私が中卒後、住み込みで働き、月給5,400円の内、4,000円を毎月送り続けた。しかし、これも徒労に終わった。母が最期に頼ったのは親切な金貸しだった。金の悩みは全て解決してくれたそうだ。紆余曲折を経た後、急騰した渋谷の土地は金貸しのものとなった。 続く、
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2021年07月17日

埋められた記憶の穴

前回の「ドウジュンカイの記憶」の続き
2006年私も66歳、報道で「表参道ヒルズ」誕生のニュースを知って驚いた。ドウジュンカイとは何かと言う、長年の謎が解けたのだ。報道では旧同潤会青山アパートの建替事業と言っていた。私の耳に響いたのは同潤会と言う単語である。

6歳の時、意味も分からずに記憶したのが同潤会と分かった。母親が近所の奥さん方とのお喋りの中で、よく口にしていた言葉だ。60年後の今分かったが、私は横浜の同潤会で生まれたのだ。これが同潤会との第一の関りである。

10歳だった1950年、日本は戦後混乱期の5年目。復興は遅々として進まず、我が家はどん底のままだった。必要に迫られて新聞配達をしていたたが、配達区域に表参道が含まれていた。これが同潤会との第二の関りである。

そこには古ぼけて、屋内が薄暗い三階建てのビルが並んでいた。あたり一面空襲で焼かれたが、鉄筋ブロック造の同潤会青山アパートだけは、焼け残っていた。

ネット情報によると「同潤会アパートはそれまでの所有・管理者だった同潤会から東京都に引き継がれ、さらに1950年になると各住民に払い下げられた」。新聞配達をしていたのは、まさにその頃だが、終戦直後の極端な住宅不足は依然として続いていた。

例えば、本来一家族で使うべき部屋に三家族が入居していた。室内にロープを張って、各家族の専有場所を区切っていた。まるで、避難所のような有様だ。配達する新聞は開けっ放しの玄関ドアから入り、ロープ内の購読者に手渡した。

こんなことは、住宅難の東京では珍しいことではなく、我がバラックでも20坪くらいの土地に平屋のバラックを継ぎたして3家族17人が暮らしていた。親戚が満州から引き揚げてきたからだ。親切と言うよりも食って行く為の工夫と思う。

同潤会との関り第三は中学の時だった。同級生が代官山アパートに住んで居たので、度々遊びに行った。終戦後10年くらいたち、庶民の生活もいくらか改善されていた。三階建て6畳4畳半の二室に台所で風呂はない。それでも、6畳くらいのバラックに6人家族で暮らしている私から見れば、夢の様な居住環境だ。

ところで、私が生まれたのは横浜の同潤会。関東大震災を経験した母にとっては、震災からの復興のシンボルであり、新しい夢の世界だ。戦後、バラックに住む身になった母は、繰り返し話しても厭きることはなかった。

そして戦後混乱期のスラムの様な感じの青山アパート。辺り一帯が空襲で焼け野原となったが、そこに残った鉄筋不燃構造の3階建てビル群。界隈唯一の住める場所になったのかも知れない。中は人でいっぱいの感じだった。

1950年から高度成長が始まり、私も中学生になっていた。そのころ出会ったのが代官山アパート。羨ましいほどの高級住宅と思った。今では同潤会青山アパートが、「表参道ヒルズ」に、代官山アパートが「代官山アドレス」に、それぞれが日本の代表的な再開発事例となった。時代と共に移り変わる同潤会は、私の記憶の大きな穴を埋めてくれた。
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2021年07月10日

ドウジュンカイの記憶

6歳の記憶は曖昧だがドウジュンカイと言う単語は、何回も繰り返し聞いていたので明確に覚えている。その後、時々思い出すが意味は分からない。60年後のテレビ報道で初めて、本当の意味が分かった。そして、いろいろ思い出した。

太平洋戦争前、1940年の渋谷区人口は約26万、それが戦争末期の1945年6月の推定人口は度重なる空襲の影響で約5万へと激減。そして終戦後は一転急増、一年で二倍を超えた。

焼け野原の渋谷で人口が急増。たちまち飢餓の街となった。食料が無いのに人口だけが増えたからだ。復員兵、引揚者、疎開の人たち、そして、何とかなるだろうと流入した人々。私たち母子4人も縁あって、横浜から渋谷にやって来た。

後に私の養父になる表具師、中波常吉は、1945年5月の「山の手大空襲」で妻子を失った。家も店も焼かれた常吉さんは、青山(東京都渋谷区)の焼け跡のバラックで、一人淋しく絶望の日々を送っていた。

一方、実父、伊吹金吾は横浜界隈で、戦前は海軍、戦後は米軍相手に要領よく稼いでいた。ところが運もそこまで。闇物資を巡るトラブルで、追われる身になった。5歳の私には何も分からないが、実父は母子に充分な生活費と家を建てる金を残して逃げ、行方をくらましたと聞いている。

母子、4人は縁あって常吉さんと一緒になった。狭くて汚くて不便なバラック生活が始まったが、渋谷区青山に家を建てるという希望があった。近所は貧しかったが、我が家だけは懐が豊かだった。何時の時代も都会生活は金次第、飢餓の街だがタップリ食って、それなりに楽しんでいた。

養父は働きに、兄二人は学校に行くと、母は近所のバラックに住む奥さん方を呼んで茶菓でもてなし、世間話しを楽しんでいた。小屋は狭いし、幼児の私は一人ぼっちで退屈していた。母たちの話し声だけが耳に入る。お喋りの中で、記憶に残っている言葉がドウジュンカイである。それは横浜にある夢の世界だろうか。ドウジュンカイって何?

バラックは狭く、世間話は全部聞こえたが、近所の奥さんの話は何一つ覚えていない。記憶にあるのは母の話すことだけだった。横浜での優雅な生活の話は、私の朧げな記憶と一致していたからだ。そして、ドウジュンカイの記憶?

場所のことか、遊び場のことか、大人の世界のことか、6歳の私にはサッパリ分からない。その後、小学生、中学生になって関りを持つことになったが、それがドウジュンカイとは知らなかった。それから60年後、テレビ報道でドウジュンカイの本当の意味を知った。--続く--
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代

2021年07月01日

海の日(祝日)とオリンピック

7月19日は海の日で祝日と思っていたが、知らない内にオリンピックで変更になっていた。ところで、今年は温かくサクラが咲くのも親子カモが現れるのも早かった。動植物はそれぞれが独自のカレンダーを持っているようだ。

それに比べると人間は、独自のカレンダーを持たずに、地球規模で決められた同一カレンダーに支配されている。それは一度印刷されたら梃子でも動かない。例え祝日が変わってもカレンダーは変わらない。と思わされる出来事があった。

舌の手術をして10ヵ月過ぎたが、未だに口腔内科に通っている。次回の診察を1ヵ月後の7月19日に予約をした。家に帰ってカレンダーに記入しようとしたら、祝日(海の日)だ。我が家の全てのカレンダーを見ても祝日だった。

さっそく病院に確認の電話をした。「7月19日の予約ですが、海の日です。診察は通常通りですか」。大きな病院なので交換手が出るが、開院を確認するだけだから、直ぐ答えてもらえると思っていた。だが、歯科受付に回された。

歯科受付でも同じ質問をしたが、担当の先生が休んでいるので明日電話してくれと言われた。病院が開院しているか聞いているだけなのに、変だと思った。いずれにしろ、大した手間でもないので翌日に掛けることにした。

翌日に電話をしたら、7月19日当日は開院しているから予約どおり来てくれれば良いということだった。ホッとしたけれど拍子抜けした。「お店開いてますか?」と言うような簡単な質問に答えるのに何で、こんなに手間取るのだろう?

理由を言ってくれたが、それを聞いたら、更にビックリ。7月19日は祝日ではないと言う。まるで狐につままれた思いだ。カレンダーは全部、「海の日」と書いたあるのに!

ネットで調べて、やっと分かった。「今年は『海の日』『スポーツの日』などの祝日が移動し、五輪開会式を挟んだ7月22〜25日が4連休」。それなら、去年の暮れに入手したカレンダーや手帳がなぜ修正されていないのだろうか?

オリンピックの延期が決定したのは、3月下旬の筈なのに何故? 12月に買ったり、銀行などからもらったカレンダーが、半年以上たっているのに修正されていないのだ。

ネット情報では更に次のように書いてあった。「法改正が昨年11月にずれ込み、カレンダーの多くは移動前の情報で印刷されたまま」。理由は分かったが、なぜ法改正が遅れたのかが分からない。知らなかったのは私だけだろうか?

病院の交換手も歯科受付の人も、更に先生も知らないようだった。親切丁寧な先生だから、知っていれば「この日は平日に変わったから大丈夫」とか付け加えてくれたと思う。予約用のパソコンでは既に修正済みだが、元「海の日」とは書いてないだろう。気が付かなくて当たり前と思う。

そもそも、意義ある祝日を移動させるのは良くないと思う。連休を作りたいのなら穴になっている日を「レク休」にすればよい。その上で労働時間全体の問題と捉えて議論すべきと思う。連休を作ることは良いとしても、最初から移動ありきなら安易すぎるかも知れない。
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 16:06| Comment(0) | 80歳以降

2021年06月26日

消えた鯉9--再会

2008年6月23日9時19分、これは私が豊平館前の池で2年半ぶりに鯉を見た日時である。その時なんでこんな所でと不思議に思った。そこはN公園内の池で一番水深の浅い所で、水不足の時に一番先に干上がる場所だった。
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ある日、突然の水枯れ。2009年4月10日撮影

この池で越冬したとは思えない。どこからどうやって来たのだろう。2年前に全滅した筈だが生き残りがいて、10匹が豊平館前の池にたどり着いた? とは考えられない。

誰かが鯉を放流したのだろうか。私は2年間以上にわたり池に生き残りがいないかと、毎日のように確認していた。それなのに一匹も見たことがないのだ。七百回以上は注意深く三つの池を見て歩いた。だから、全滅以前のように鯉が池の底で越冬していたとは信じられなかった。

こんな状況だから、鯉に再び出会って嬉しいと言うよりも不思議でならなかった。全滅の時は何の発表もしなかったので、放流もコソコソと? 思わず邪推してしまった。

2008年6月23日に、突然鯉と再会した時の状況。
朝散歩のとき豊平館前の池西端で沢山の鯉を見た。他の池も見てみたが、急いでいたのでざっと見ただけだ。しかし、S池(一番大きな池)の南西側でも1匹、大きい黒い鯉を見た。一回りすればもっと見れたかもしれない。

12時過ぎに再び行ってみると豊平館前の池に10匹ぐらい居たが、他の池では見られなかった。池は濁っているし、カメラも腕も悪いので全体を捉えることは出来なかった。それでも掲載することにしたのは、この時にこれらの鯉を撮った人は稀と判断したからだ。鯉再会一番乗りかも知れない。

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豊平館前の池、朝散歩の9時過ぎにはもっと多く見られたが、カメラを持っていなかった。

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池が濁っていて見にくいが、拡大してみた。

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近くに来ないと撮れないが、存在証拠写真のつもりだ。

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多い黒い鯉だが濁っていて近くでしか撮れない。

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池の真ん中、動いていたので撮った私は鯉と分かる。

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デンと坐ったオジさんの前あたりに沢山の鯉がいた。

2年以上も居なかった鯉がなぜ姿を現したのか。放流したのを見ていないし、話も聞いたことがない。とても不自然だが、自然にこうなったのかも知れない。

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2021年6月16日現在の豊平館前の池。鯉に再会した2008年から現在まで、鯉が見られるのは豊平館前の池7割、日本庭園の池2割、そして一番大きいS池は、岸から見える範囲が限られるので1割と言う感じだ。生き物の生態は私の理解を超えるので、見たこと思ったことをそのまま書いてみた。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | フィクション