2021年06月19日

消えた鯉8--推測

後で考えれば、鯉全滅の前兆はあった。2006年初頭、百羽を超えるカモがN公園上空を彷徨っていた。飛んでるカモのせいで薄暗く感じたほどだった。カモ川が氷結して、カモの大群が水場を求め、狂ったように飛び回っていたのだ。

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この異常事態を記憶に残したいと思い、貴重な写真として別に保存した。結局、大事にし過ぎて見失った。手元に残ったのはウェブ用に縮小した画像だけ。1枚の写真に百羽以上写っていたが、縮小したら点になった。一部を切り取ったのがこの画像。やや首長でカモ(マガモ)の特徴が伺える。

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コチンコチンに氷結したカモ川の表面には足跡も見える。

異常事態は新聞社も知ることになり、2枚の写真と共に大きく報道された。「水場消えカモ受難」と言う見出しだった。河川工事の影響で川が凍ったのが原因かも知れない(住民談)と書かれていた。
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画像は2006年1月6日の北海道新聞。参考のため一部分を撮影して掲載。このような事実もあり、私が目にした事実もある。それらを参考に、曖昧な部分は推測して書いてみた。

小さな水場が地下鉄H駅近くのカモ川に残された。そこに群がるカモに気を取られ、S池の底で音もなく進行していた悲劇には、全く気が付かなかった。表面氷結したS池でも水は静かに流れている。流れが止まれば鯉は酸素欠乏死する。工事関係者に生き物についての配慮は、あったのだろうか?
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エサを求めてカモはカモ川の僅かの水場から、地下鉄H駅方面に上って来た。空を飛べるカモには水場とエサを求めて移動する自由がある。一方、氷で閉ざされた池の底では鯉絶滅の危機が刻々と迫っていた。

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温かい時期ならホースで流れる水が少なくても、S池の鯉は生存に必要な酸素を得ることができる。鯉は水面に顔を出し、空気と水を一緒に吸い込むことで酸素を得る。

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しかし、厳冬期になれば話は別だ。果たして、ホース内の水は順調に流れていたか? 鯉全滅の原因は病気等いろいろあるが、当局の説明もマスコミの報道もなかった。2006年春、散歩のオバさんは「酸欠で鯉が皆死んじゃったのよ」と言った。私も2006年と2007年は一匹の鯉も見ていない。

不都合な事実は関係者によって隠蔽される場合も少なくない。人々は大なり小なり、理不尽な事実に遭遇する。それが人知れず消え去ることに、我慢できない。そして、人に話したり書いたりするが、話題が広がることは稀である。殆どの不都合な事実は無かったことにされる。
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2021年06月12日

立入禁止バラの園

言い方変だが60代は無邪気な老人だった。見知らぬ人にも気軽に話しかけた。半世紀ぶりに仕事から解放され幸せいっぱいだから、よそ様も自分のように幸せに見えた。

16年前、道庁でカメラの達人と偶然出会って写真の話をした。達人は立派なカメラで親子鴨を撮っていた。「子ガモは何羽ですか?」と話しかけると「さっきまで6羽だが、カラスにやられて今は5羽」と気軽に応じてくれた。

「カメラ長いんですか」と聞くと、「50年以上やっている」と達人。思わず「家一軒建つぐらい使ったでしょう」と口が滑った。遠い昔だがカメラに凝ったら身上潰すとか言われていた。達人は、こともなげに「写真屋だからな」と言った。聞いてビックリ、プロなんだ。

プロは気を悪くする風でもなく「カメラは空間処理と時間処理だから」とか、難しいことを教えてくれた。そして、「中島公園にはよくバラを撮りに行くよ」とも言ってくれた。

いつも鉄パイプとロープで囲まれているバラが気になっていたので、「中島公園のバラはロープが邪魔じゃないですか」と聞くと「ロープは撮らない、花だけ撮る」と当然の返事が返ってきた。

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中島公園「香りの広場」2004年7月撮影。

「だけど、全体の景観を撮るとき邪魔でしょ」とたたみかけた。すると思いがけない答えが返ってきた。「公園は造園技師が造ったもので、作品にはならんのだよ」と。

私はバラの花壇も景観の一部と思っていた。しかし、写真のプロは作り物の景観など目もくれずバラだけを撮ると言うのだ。流石はプロだと思わず感動した。そして、わざわざプロが撮りに行くのだから、中島公園のバラも被写体として、捨てたものではないのだなと見直した。

2006年4月に札幌市も施設の指定管理者制度を導入、競争入札の結果、公園管理者は代わった。そして、鉄パイプ、ロープ、立入禁止札の三点セットは撤去された。以後、現在に至るまで、バラは何ものにも邪魔されずに、いっそう綺麗に育って、その美しい姿を見せてくれている。
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2012年6月25日撮影、彫刻は「笛を吹く少女」。
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2021年06月05日

八十にして惑わず

60代は若かったと言っても、体力や風采ではなく気分の問題だ。ふと毎月恒例のカラオケ会のことを思い出した。メンバーは女性二人に男性三人の高齢者。そこでは私が最年少だった。周りが私の気分若くしてくれた。

65歳でカラオケを始めた私は温室育ち。年上のお仲間は優しく、下手でも拍手をしてくれる。厳しいことも、お世辞も言わない。評価は一切抜きだから、心地よく歌えるが進歩もない。楽しいから毎月欠かさず参加した。

それでも音痴は楽じゃない。気分よく歌えば必ず恥をかく。この自覚があるから、不動の姿勢で、何とか伴奏から外れないように気を配る。ところが、気分次第で体が勝手に動いたり、喉が勝手に気分を出したりするから困る。

歌っていると、だんだん気分がよくなり、自己陶酔に陥ってしまう。こんなことだけ一人前で情けない。上手ければ、それも好いのだがオンチじゃあダメだ。その場の人たちは、異様な熱唱に違和感を覚える。心ならずも、場の気分を壊してしまうのだ。一瞬にして変わるから怖い。

ある時、突然我に返り恥ずかしさで身が縮んだ。こんなことになったのも、伏線はある。だから余計恥ずかしいのだ。あの一言がなければ、こんなことにはならなかった。

伴奏の合間に「あなた、幾つまで生きたいの」と聞かれて、「あなたが生きている間は生きていたいですね」と思いつくままに答えたら「あら、そんなこと言ってくれて嬉しいわ」と言う。意外な反応に、年甲斐もなくドキドキワクワク。60代は外見はともかく気持ちが若かった。あらゆる束縛から解放され自由になったからだと思う。

なにぶん愛だの恋だのと歌っている最中だから、気分がハイになっていた。声を震わせ身体を波打つように動かしての絶唱だ。皆さんと私との温度差は一挙に開いた。熱い感動と冷たい知らけの二極となってしまったのだ。

「今日は疲れたわ。このへんでお開きにしましょ」のひと言で我に返った。「嬉しいわ」の一言は、一体何だったんだろう。ただの合いの手か? こんな経験を重ねている内に、少しづつ落ち着いてきたと自分では思っている。遅まきながら八十にして惑わず。何をやってもノロマで(^-^;) ゴメン

話変わって中島公園一口メモ
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今は無きポプラの巨木。詳細 → ランドマークの木
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年05月29日

消えた鯉7--真実

突然起きた2006年鯉全滅事件のことだが、鯉の死骸を見た人がいないのは何故か? 事実は見た人が非常に少なかっただけ。当局の発表はないし、マスコミ報道もないので、何もなかったことになった。

個人がいくら声を大にしたところで、信じる人はいない。私自身も、散歩のオバさんから「鯉が酸欠で全滅した」と聞いたときは、信じられなかった。その後、数日間池を見て歩き、多数から「見ていない」という情報を得て、初めて信じたのだ。普通の人は、こんな面倒なことはしない。

目撃したオジさんは、こうも言っていた。「大きな鯉の死骸がゴロゴロ転がっていたので、ビックリしたが、こんなことは初めてなので写真を撮ろうと思った。家にカメラを取りに行き、戻ったら何もない。この間20分くらいだと思う」。

トラックもゴミ収集車も来ていたと言う。この時期はまだ寒く散歩の人も少ない、20分程度では、偶然通りかかった人数も知れている。片付け作業に気付いたとしても、ほんの数人程度だろう。作業員は関係者だから口が堅いと思う。

都心に近いN公園は通行人が多い。ごみ収集車やトラックが来ていても、通常の清掃作業と思う人がほとんどだ。そばに行って見る人など少ないと思う。もともと通行人は公園の管理作業には無関心なものだ。

状況から推測すると、鯉の死骸や片付現場を見た人は、ほんの僅かに違いない。全員が喋りまくったとしても、彼らの生の声が届く範囲は限られている。しかも信じる人は少ない。関係者が隠蔽できると判断したことも頷ける。

私は目撃者の3人と話したことになる。最初はオバさんから聞いた。そのときは鯉の全滅を信じなかった。次は目撃者のオジさん。記者に連絡しようとしたが、出来なかった。そして死骸を片付けるのを始めから終わりまで見ていたパクさん。87匹まで数えていたけど面倒になって止めたそうだ。しかし、これは事件後2ヶ月たってから聴いた話だ。

その他にも友人を通して、あるデパートの店員が沢山の鯉の死骸を見たことを聞いた。その人を加えると、目撃者の内4人を突き止めたことになる。私が直接聞いた三人の話は、その場に居た人しか語れない具体的な内容だった。彼らの話は彼らの見た事実、それぞれの真実と信じる。

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2006年には画像左上に見えるボート小屋もあったし、池に映り込まれた大木もあった。しかし鯉は消えていた。
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2021年05月22日

実物見本

なけなしの髪に慣れるのに40年もかかってしまった。80歳になって、やっと、これはこれでいいじゃないかと思えるようになった。今さら増えても困ると思っている。ただ、ここまでに至る道のりは長かった。失って初めて分かるのが髪の大切さ。かなり先のことと思っていたが甘かった。

遠い昔のことだが、髪の毛が増えたと褒められたことがある。大喜びして4月15日は「髪の毛記念日」とした。とても嬉しかったので今でも覚えている。褒めた人はエライ。よくぞ気付いて下さった。実は髪の毛が少しだけ増えたように見せる為、ちょっとした細工をした。いきなり毛が増えたら不自然なので、ホンの少しだけ増えたような感じにしたのだ。

この試みは大成功! 気づいてくれる人がいたのだから成功だ。と思ったのは束の間、1ヵ月ぶりにあった人はどう思うか。1年ぶりにあった友人なら「カツラ作ったのか。新車買った方がいいんじゃない」と言うかも知れない。余り知られていないけれど、現実はそれ以上の金額になる。

髪は長い友達以上だ。自然に見せる水準なら、その後の維持費も考えれば、家も建つほどの金額だ。髪は財産、気分的にも実用的にも財産である。志高い貧乏な若者が貯金するように、髪の貧乏人はコツコツまめに手入れすることが大切だ。

遠い昔の若いころ、褒められたことがある。「優しそうに波うっているね」と言ってくれた人がいた。後で考えると、遠まわしの警告だったかもしれない。いつの間にか波間に漂うタコになってしまった。

若い頃から髪の手入れを一切しなかったことが原因だ。子供には髪の大切さを懇々と説いた。少年の頃から髪の手入れが如何に大切かを教えた。そのため50歳過ぎても禿げる気配はない。思春期の子は親の言うことなど聞かないものだが、これだけは素直に聞いてくれた。目の前に血を分けた「実物見本」が居たら、反駁もできまい。自慢して(^-^;) ゴメン
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2021年05月15日

そとづら仮面

勘違いかも知れないが、仮想空間とか言って、日常ではありえない世界を体験できるそうだ。何でもできるなら、歌って踊れるモテモテの人気者になりたい。しかし、それは無理と思うので、ドラマを観て空想して楽しんでいる。

私にとって玄関は国境線、一歩外に出れば、そこは日本国統治下の世界。法を守ることはもちろん、常識ある日本人として行動しなければならない。一方、我が家は「お母さん帝国」のようなもの、一応支配されている格好にはなっている。だが、実効支配しているのは人民である私だ。

お母さんは私が二重人格者とは気付かない。支配下で絶対服従作戦を続けて数年後、立場が逆転した。彼女は勝手に私の支配下に入ってしまった。つまり、私がして欲しいことを先回りしてやってくれるのだ。図らずも、楽する夫になってしまった。悪知恵を働かせて(^-^;) ゴメン

お母さんは「アンタは常識がない」と言う。外では私が仮面をつけて、常識的に振舞っていることを知らないのだ。玄関には傘と同様、外出用仮面が置いてある。名付けて「そとづら仮面」。笑顔と正直者の顔に変身して外出する。

この仮面を付けて出歩くのは、けっこう辛いものだ。自由が束縛されているような気がする。世間の人たちはどうなのだろうか。仮面と顔がビッタリ合って、痛みを感じないのかな。そうでなければ常識人にはなれないと思う。

一方私はどうかと言えば、なかなか仮面と顔がピッタリ合わない。いつまでたっても仮面と顔が別々である。困ったものだ。世間標準に自分を合わせるのは楽じゃない。人間という超精密機械をバラバラにして組み直すようなものだ。そんな事は不可能なので、外出するときは「そとづら仮面」をつけて行く。とかくこの世は住みにくい。

「その仮面ウチに帰っても脱がないで」
「いえいえそれはなりませぬ」
「なんで」
「家の中でそとづら(外面)はできないでしょ」
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タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 11:40| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2021年05月08日

消えた鯉6--記者

もし百年以上生息していた多数の鯉が、ある日突然一挙に消えたらどう思うだろう。こんなことが15年前にSP市N公園のS池で起こった。しかも殆ど誰にも知られずに。余りにも不可解で忘れられない。今回は6回目を書いている。80歳にもなれば、記憶力に反比例して思い込みが強くなることは自覚している。それでも黙っていられない。

ところで、マスコミは報道のかなりの部分を官庁に依存している。そうすれば、取材費用を安く抑えることが出来る。大新聞といっても経営は楽ではない。購読料、広告で収入を確保する一方、支出も抑えなければならない。これを無視したら会社は成り立たない。 

新聞と官庁は、時には対立することもあるが、基本的には相互依存関係にある。事実を書くのが新聞の義務、そして書かないのは新聞の権利? 官庁が特定の記事を抑えることはよくあることだと聞いている。

今まで謎と思っていたことも、そう考えれば当たり前。着任早々のA記者は積極的に取材を進めてきたが、ある日突然、豹変した。記者である前に社員と考えれば、当然の行動と理解できる。 

当初は新聞記者として積極的に行動した。しかし、上からの圧力を受けて、社員であることを自覚した。大きな新聞社に勤めていれば、沢山の読者に読んでもらうことが出来るし、生活も安定する。社員の身分を棄てられる記者は滅多にいない。これがドラマと現実の違うところだ。

最初に、A記者が公園管理事務所、SP市公園課を取材したときには、関係者の間で、既に隠蔽することが決まっていた。だから、そんな事実はないと直ちに否定した。普通だったら、大新聞の記者が取材に来たら「調べてみます」くらいは言うはずだ。

余りにも不思議だから、毎日のように池に鯉がいないか見て歩いた。2006・7年の2年間、一匹の鯉も見たことがない。事件前は鯉が居るのが当たり前のS池だが、以後は探しても見つからない。音もなく消えてしまったのだ。

全般的には記憶は曖昧だが、2年間観察し、記録していたのだから間違いない。これだけは断言できる。だが、これは私の記憶。見た人が居るかも知れない。自分の体験による記憶が正しいとは限らない。証明するのは至難の業、ノンフィクションを読むたびにそう思う。

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乗り手いない、鯉いない、記者もいないので記者ごっこ。
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2021年05月01日

私のユートピア

中学までは自由に生きていたから夢もシンプルだった、「楽をして御飯を食べられること」。そうすれば余暇は、心置きなく自由に好きなことができる。約半世紀後に夢は叶えられた。もちろん、幸せいっぱいである。もう夢は要らない。

中卒の仕事は、体力、器用さ、頭の回転、人付き合いの良さ、この中の一つは優れてなければやって行けない。残念ながら全部苦手だ。そのせいで8年間も職を転々、やっと定職についても、苦手なことは苦手のままだった。

世の中は労働基準法通りには回らない。仕事が苦手なら不満を言ってはいけない。クソ真面目に、人の嫌がることは率先してやらなければいけない。元々おっちょこちょいの怠け者だから、真面目なフリは楽じゃなかった。

40年以上の我慢の人生は、意外にも定年後の二人暮らしで凄く役に立った。妻を優しいお母さんに改造することに成功したのだ。方法は我慢一筋、絶対服従だが、いつの間にか主従は入れ替わってしまった。全く不思議、奇跡的と言ってもいいほどだ。ついに楽をして食うと言う長年の夢は叶った。

お母さんは何故か、私のして欲しいことを先回りしてやってくれるようになったのだ。ところで、ガンで入院しても、私は食って寝ているだけなのに、病院が手術をして治してくれた。これ以上望むものは、何も無い。好きなジョークは言えぬままだが、ブログに書いて発散している。

小学校入学時の新品の教科書に書いてあったことは今でも覚えている「おはなを かざる, みんな いい こ. きれいな ことば, みんな いい こ. なかよし こよし, みんな いい こ」。これをみんなで歌うのだ。楽しかったな。

それまでの教科書は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ(進め、進め、兵隊進め) 」。一体どう歌ったらいいのだ。古い教科書を黒塗りにして使っていたようだ。つまり私は民主主義教育体制が整って、初の小学生。本当に運がいいと思う。

10年早く生まれていれば、終戦時15歳、死ぬ覚悟をしながら生きなければならなかった。20年早く生まれたら戦死者が一番多い世代だ。80歳で年金生活、若い時は想像も出来なかった夢の世界に生きている。私にとってのユートピア。
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2021年04月24日

優しい誤解

誤解されて悔しい時は人生真っ暗だが、誤解されても幸せな時は何も感じない。ただ自由に生きていたような気がして、誤解されていることさえ分からない。何十年もたってから、ふとしたキッカケで思い出す。何回も思い出しているうちに誤解に気づく。優しい誤解をみつけると心豊かになる。

常磐松小学校では皆に親切にされ、学校が楽しかった。渋谷を襲った「山の手大空襲」被災者と誤解されたのだと思う。母は三人の子連れで養父と再婚したが、養父は空襲で妻子を失っていた。そして、戦争直後に建てたバラックに住んでいた。三年たったら近所で唯一のバラックになってしまった。こんな状況が誤解を生む原因になったと思う。

太平洋戦争前の1940年度における渋谷区の人口は256,706人(国勢調査)だった。それが戦争末期、1945年6月の推定人口は47,000人程度と5分の1以下に激減した。それが終戦と共にうなぎ上り、1年もたたない内に倍増。その後も増加が続き、流入人口は増え続けた。そして、空襲の経験のない人たちが多数を占めるようになった。

そのような状況の中で、私は空襲で家族を失った気の毒な子と、優しい同級生に誤解されたようだ。貧乏人は沢山居たから、ただの貧乏人では助けてもらえない。ふと約3年前の胆振東部地震を思い出した。疎遠の兄から優しい電話があった。昔話との共通点は「誤解」である。

地震後の混乱が落ち着いた頃、東京の兄から「大丈夫かい?」と電話がきた。一瞬何のことか分からなかったが、直ぐに思い出した。私が被害を受けていると誤解されたのだ。住んでいる共同住宅では少し揺れを感じた程度だが、札幌の一部の地域では道路が陥没したり、家が傾いたりした被害があった。その映像が繰り返し東京で流されたのだ。

死者41名の大震災で札幌の一部でも大きな被害があったが、少し離れて居ると何の被害も無い。北海道は広いし札幌だって広いのだ。しかし、東京から見える札幌は狭い。私たちが陥没した道路と傾いた家のある、被災地区の真っ只中にいると誤解したようだ。
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2021年04月17日

優しい同級生たち

思い起こせば、小学校は不自由もあったが楽しかった。弁当は持って行けないし、遠足も手ぶら。学用品も不足し、写生会では同級生にクレヨンを借りて描いたりした。幸い、同級生は皆親切なので、学校に行くのが唯一の楽しみだった

弁当を持たせてもらえないので、昼食は給食(脱脂粉乳と肝油)だけ。それを見た親切な生徒が弁当のふたに、食べ物を乗せて分けてくれた。すると、他の生徒も次々と声を掛けてくれるので嬉しかった。腹も充分満たされた。

旨い話は長続きはしなかった。ある日先生が「弁当を人に上げてはいけません」と注意した。そして、生徒からの援助はなくなり、肝油と脱脂粉乳に逆戻りした。先生は嫌いになったが、同級生の親切は忘れない。だから、相変わらず学校が大好きな子供だった。

終戦後3年もすると、貧しいながら生活は安定し、お金持ちも僅かながら増えてきた。そのような背景もあって、貧しい人を助ける習慣も徐々に芽生えてきた。それに、常磐松小学校に通う子等は、比較的豊かな家庭の子が多かった。

小学校低学年の私は、無邪気なもので自分のことを人気者と思っていた。遠足に行っても昼食時間になると、親切な生徒からお呼びがかかる。一緒に食べないかと誘ってくれるのだ。手ぶらで行ってもアチコチ回れば腹いっぱい食えた。放課後に家に招待して、ご馳走してくれる生徒さえいた。

考えてみれば、弁当を持って来なかったり、遠足に手ぶらで行く生徒はクラスで私一人しかいなかったのだ。貧乏だからと言って、差別されたり苛められたりすることはなかった。数人の生徒が食べ物くれたり、学用品を貸してくれたりして、代わり代わりに面倒を見てくれた。

だから学校が大好きだった。借りたクレヨンで描いた絵が渋谷区主催の写生会で三等賞、渋谷駅直結の東横デパートに張り出されたこともあった。焼け残った唯一最高のビルである。先生が喜んでクレヨンを買ってくれた。これで先生も好きになり、ますます学校が楽しくなった。

しかし、同級生の友達は一人も出来なかった。考えてみれば当たり前、友達になりたくて親切にしてくれたのではない。小学生ではあるが、人間として正しいと思うことをしてくれたのだ。援助する生徒と私とに、適切な距離があったのが好かったのだと思う。もちろん、一番良かったのは運!
タグ:渋谷
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2021年04月10日

皇太子とすれ違い登校!

栄光とは何だろう? ドラマの中では毎日のように出会えるのに、私には無縁のもの。それでは余りにも寂しいので一生懸命探したらあった。渋谷区立常磐松小学校である。1925年12月、常盤松御料地払下げとなり、渋谷区最初の鉄筋校舎として落成、翌年開校した。

小学校に入学した頃、日本は占領下にあり、日米の生活格差は天と地ほどあった。通学路ではワシントンハイツの住人が、自家用車で颯爽と走り、道路の端を荷馬車が遠慮ぎみにトコトコ行く。大空襲で渋谷区は約80%が破壊されたが、この道路だけは修復されて完璧な舗装道路になっていた。アメリカ人が使うからだ。

終戦直後は極端な燃料不足でトラックは走れず荷馬車が復活した。私たち小学生は歩いて20分ほどの通学だが、道々いろいろ楽しんだ。遊び半分で馬車の荷台にぶら下がるのが一番楽しかった。しかし、束の間の楽しみで終わった。

数日たったある日、御者のオジサンが馬車を降り、血相変えて怒りに来た。私たちはビックりして悪乗りを止めた。オジサンは初めは気付かなかったらしい。注意しても馬を操りながらでは後ろまで声が届かなかったのかも知れない。ついに堪忍袋の緒が切れて、怒りが爆発したのだ。凄く怖かった。

渋谷は馬にとっては厳しい町だ。青山とか代官山とか地名でも分かるように坂の多い町である。オジサンにとって馬はかけがえのない財産。馬が倒れれば、飯が食えなくなる。渋谷は終戦後、5年もたっているのに飢餓の街のままだった。

常磐松という地名の由来は、「古くからのこの地に『千両の値打ちが付くほどの銘木』と賞賛されていた松の古木、『常磐松』があったことによる。もとの漢字表記は『常盤』であったが、『皿は割れるから』と、『常磐』と改められた。(Wikipedia)」

そして、小学校のご近所が凄い。第一は皇太子殿下(後の上皇様)が住む東宮御所だが、国学院大学、実践女子学園、そして広大な敷地を持つ青山学院がある。常磐松小学校は広尾を含めた文教地区の中心に位置していた。

皇太子殿下が東宮御所を出て学習院高等科に車で登校する時、私たちも登校する。その為いつもすれ違う。それはいいけれど、実践女子学園の生徒が邪魔だ。大勢が道路の右側を占拠して「皇太子さま〜」とか叫んで手を振るのだ。「車は左人は右」と教えられているのに左側しか通れない。ブツブツ不満を言っても多勢に無勢で敵わない。

何はともあれ、常盤松ではなく古の常磐松、皿は割れても石は割れない。やっと見つけた80年の人生で、ただ一つの栄光。それは常磐松で毎日、皇太子とすれ違い登校! 
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 小学時代

2021年04月03日

札幌シニアネットでズーム

4月2日はとても嬉しい朝だった。北海道新聞:さっぽろ10区に「オンラインで活動20周年」との見出しで、札幌シニアネット(SSN)理事長の記事が載っていたのだ。

一方、私は高齢で病弱な末端会員。それでもSSNライフを人一倍楽しんでいる。その喜びと感動をここで伝えたい。思い出すのは昨年の12月11日付けの北海道新聞。記事をみて、アッと驚く。ビデオ会議システムZoom(ズーム)の登場である。ズームなど企業や大学で使うものと思っていた。

見出しが私の目を引いた。「被爆体験、ズームで伝える」「札幌シニアネット 今年初のフォーラム」とある。冒頭の一部を要約すると「豊かなシニアライフを目指して活動しているSSNは、ズームを使ったフォーラムを初めて開催」。シニア団体としては、一歩先を行ってると思わず感動!

スッカリその気になった私は決意表明。
「お母さん、決心しました。私もズームをやります!」
「いつも、ズーズーグーグー、昼寝してるでしょ」
「ズームとはビデオ会議システムのことです」
「なにそれ?」
「パソコン上に皆が集まりワイワイ話せるのです」
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「小さくて何だか分からないよ」
「会員専用ですから、あなたは分からなくていいのです」
「ふん」

年は変わって3月22日付け北海道新聞夕刊「まど」に、理事長インタビューが掲載されたので一部抜粋。「SSNではズームを積極的に導入、操作方法など会員の技術向上に力を入れている。クラブ活動や会議に活用。4月に約30のクラブ紹介もズームで行う予定だ」。

振り返ってみると、SSNでズームを手掛けたのは去年の夏ごろと思う。会員の中には知識の豊富な人がいるものだと感心したが、自分には手が届かないものと諦めていた。それにしても、ズームを主催出来るSSNの能力は素晴らしい。他のシニア団体にはない強みだと思った。

多くのクラブがズームによる集会も開催している。例えば、ムービー倶楽部、PC絵画クラブ、ホームページクラブ、英会話クラブなど。私は「笑いヨガ」と「恋来落語会」に参加して、いろんな風に笑ったり、手真似をしたりして楽しんでいる。学習会が盛んだが頭が固まった私には無理だ。

以前、ズームに参加したくてネットで調べてみたら、いろんなことが沢山書いてあって何が何だかサッパリ分からない。だが、SSNの相談員にメールで聞いたら直ぐに分かった。これも会員になって好かったと思うことの一つである。

札幌シニアネットでは只今会員募集中!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(1) | 80歳以降

2021年03月27日

消えた鯉5--河川工事

前回のブログでパクさんが一部始終を語ってくれた。ただ誰にも言うなとの条件付きだ。個人間の約束は重く、15年たっても破る気になれない。傷害罪の時効なら10年なのにね。

驚くべき事実を、そのまま書く度胸はない。記憶にあることを淡々と書いてみた。強烈なパクさんの話だが、私が書くと穏やかなものに変わった。ともかく精一杯やってみた。

N公園の管理は長い間、SP市公園R協会(以下、R協会)が行っていた。しかし、2005年の入札でSPパークマネジメントグループ(以下、パークMG)が落札し、2006年4月から公園管理はパークMGに委任された。 

N公園百年の歴史の中で初めての、一般競争入札による管理者交代である。このような背景の中で「鯉の全滅事件」が起こった。交代したばかりのパークMGにとっては降って沸いたような災難だった。これからの仕事に大きく影響するので、明るみに出ないことを願っていた。

鯉の死骸が浮いて来たのは交替したばかりの4月だが、鯉の全滅は凍結した氷の下で起こったこと。当時、公園管理をしていたR協会に責任があるはずだ。パークMGとしてはこの点でも受け入れ難い出来事だった。

鯉の全滅はこうして起こった。河川工事を請け負ったカラス組は河川工事実施予定を、R協会など関係機関に通知した筈だ。カモ川から一部の水はS池に流れ込み、再びカモ川本流に合流する。表面は凍結しても水の流れは保たれている。 

このようにS池は、公園内を流れるカモ川から適量の水が流入することにより、池の生態系を維持してきた。しかし、工事により水の供給が極端に減り、池の中の酸素が欠乏した。その結果、鯉が酸欠を起こし全滅したと考えられる。

こんな事情だから、全滅事故当時の公園管理者であるR協会も隠して置きたい。原因を作った河川工事を実施したカラス組は、もちろん隠したい。

参考画像:川の下に導水管を敷設する工事
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川の水を止めて川底を掘る。水はホースで流す。

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川の底に埋める直径1メートルの導水管。

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河川工事の目的は、遥か彼方のバラ川を浄化する為、今までの5倍の水量を送ること。しかし、公園内の川は子供たちの水遊び場になっている。水難など危険防止の為、川底に導水管を敷設して大部分の水を流すことにした。

ところで、公園管理と河川工事の両方の監督官庁であるSP市も隠したい。こうした背景があって「鯉全滅事件」は隠蔽することで、関係者による意思統一がなされた。後はマスコミ対策だけである。

そこで思い出すのが鯉はどこへ--全滅で書いたH新聞A記者の言葉、要約すると次の2点である。N公園管理園事務所やSP市公園課を取材したら、そのような事実はないと直ちに否定したこと。管理事務所は公園内のS池なのに、池は関係ないと言ったこと。この二つが腑に落ちない。

新聞社が隠蔽に加わることはないと思うが、取材するかしないかは社の自由。このような状況下で鯉は全滅した。マスコミに載らないことは無いに等しい。次回はこの辺りを考えてみたい。(消えた鯉シリーズはフィクションです)

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2021年03月20日

消えた鯉4--証言者

あれから約2ヶ月たち、私の疑問はほぼ解消された。パクさんが「消えた鯉事件」の一部始終を教えてくれたのだ。本題に入る前に、私の想い、N公園の生い立ち、パクさんの人柄等について触れて置きたい。

老後はノンビリと過ごしたい。そう思って事実の追及は諦めた。事実は一つ、真実は複数。私なりの真実を語りたい。余生は穏やかに送りたい、と思いながらも気分は晴れない。

日本の代表的都市公園は東京都の日比谷公園と思う。1893年に東京市が軍から払下げを受け、跡地を日比谷公園と命名した。それから10年も遡るが、北海道SP市に隣接するY村の一部を公園にする動きがあった。そして、1886年にはSP市N公園の前身であるN遊園地が誕生した。

N公園は民意で誕生した公園として知られている。長い間地元の人々に愛されて来た、歴史ある公園である。現在も多くのボランティアによって支えられている。
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N公園内を流れる川とその周辺を清掃する近所の住民。札幌市公文書館所蔵

ユニークなのは、一人で活動する個人ボランティアの存在だ。パクさんもその一人、N公園を陰で支える代表的公園ボランティアである。仮名をパークさんとしたいが、縮めてパクさんとした。古くからN公園の近所に住み、公園とその関係者を熟知している。そして誰よりも親しんでいる。時には意見の違いで喧嘩もする、熱血公園爺さんである。

鯉の消滅から2ヶ月たち季節は夏になっていた。パクさんは何時も公園をブラブラして、いろいろな人と立ち話している。私もときどき話すことがある。その日は公園での自殺の話をしてくれた。
「ここではな、毎年のように自殺があるんだ、今年も二人死んでいるんだ。日本庭園とボート小屋近くであったな。あんたは知らないと思うが、自殺は絶対に新聞にでないよ」

知らないと決め付けられて、口が勝手に動き出した。
「新聞に載らない話はもう一つありますよ。S池での鯉の全滅です」と言って、話しはじめると、パクさんの表情がみるみる険しくなってきた。
「あんたかい?ラジオでぺらぺら喋ったというのは! みんなが迷惑しているんだ。どうゆうつもりで嗅ぎ回っているのか知らんが、公園で働いている人の中には生活がかかっている者もいるんだよ」

ああ、言うんじゃなかったと思っても、もう遅い。話しだしたら途中では止められない。
「子供たちが池の主と呼んでいた鯉が、全滅してしまったのです。原因が分からないから心配なのです。いいですか、鯉がいなくなっただけでは済まないのですよ! この公園が壊れ始めているのです。役所は無関心だし、新聞は知らん振り。こんなことで本当にいいのですか!」

「あんたの言うことも分かる。俺だって鯉がいなくなってガッカリしているんだ。本当のことを教えてやるから、誰にも言うなよ」と念を押しながら、一部始終を語り始めた。

その内容は経験した者でなければ語れない、多くの事実を含み、私の疑問はほぼ解消された。驚くべきことはその内容である。フィクションと言っても、そのままは書けない。一呼吸置かして欲しい。
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2021年03月13日

消えた鯉3--深まる謎

2006年から約4年間、10名ぐらいの仲間と共に地元について語るFMラジオ番組「Y町、毎日いい天気!」のボランティア放送委員をしていた。SP市N公園はY町の代表的施設なので、公園について語ることを頼まれたのだ。
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木曜夜の8時は、私が担当する番組「水と緑、歴史と芸術のN公園」の放送日だ。当然、この夜は「消えた鯉」の話題が中心となった。考えてみれば、鯉が消える筈はない。「N公園で鯉の死骸を見た人はいませんか?」と呼びかけたが、残念ながら目撃情報は得られなかった。

一時間の放送が終わると「喉が渇いたね」と言って、ゲストさんと二人でビールを飲みに行った。話も弾み時間を忘れ、帰りが少し遅くなった。家に帰ると妻が怒っていた。「あんた、何処に行ってたの! H新聞から何回も電話がかかって来て大変だったんだよ」と大さわぎ。

午後11時を過ぎたばかりだが、早寝の妻にとっては真夜中に起きた大迷惑。極めて機嫌が悪いが、何の電話だろう? 捉えようのない不安を覚え、なかなか寝付けなかった。

寝不足の朝を迎えた。不安を解消するには、行動しかない。A記者にコンタクトをとろうとして、H新聞社に電話したが不在だった。その後、メールを送っても返事は来なかった。こんなことは初めてだ。

今までは彼が積極的に動いて、私は協力する立場だった。一体何が彼を変えたのか? 解せないことばかりだ。ともかく、大量の鯉の死骸を見た人を探すのが先決だ。記者と連絡が取れても手ぶらでは話にはならない。

三日間必死に探して、やっと証言者を見つけることができた。「鯉は100歳まで生きるといわれているんだよ。でっかい死骸がゴロゴロしてたぞ! 何でこんなN公園始まって以来の不祥事が新聞にもでないんだ」。

新聞社に電話をかけたが何の反応もないと不満顔だった。オジさんは怒っていた。「H新聞のA記者がこの事件の担当です。差し支えなければ電話番号を教えて下さい。お宅に連絡させますから、今言ったことを記者に話して下さい」。

オジさんは喜んで電話番号を私の手帳に書いてくれた。これにて一件落着という気分で、意気揚々として新聞社に電話したが不在。「証人を見つけてくれたら、徹底的にやる」と言った記者の言葉を信じて、メールを何回も出した。だが返事がない。一体どうしたことだ。考えたくはないが居留守?

上からの圧力があったのだろうか。彼はは20代の駆け出しで着任したばかり。しかし、なぜそのようなことをする必要があるのだ。放送日の夜にかけてきた電話は一体何だったのだろう? 謎は深まるばかりだ。
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2021年03月06日

消えた鯉2--全滅

知識も能力も無いから、気の利いたストーリーなど思いもよらない。それに比べると事実は百倍も面白い。しかし、ノンフィクションは書けない。調べるのは大変だし、事実と証明するなんて、私には不可能。それなのに、書いたり空想したりするのは大好きだから、困ったものだ。

事件はこうして始まった。2006年の春、SP市N公園のS池で、大量の鯉が突然消えた。原因はおろか「いつ消えたのか」さえ分からない。ある日突然いないことに気がついたのだ。以後2年間、この池で鯉の姿を見ることはなかった。

以前は、いたるところで泳いでいた鯉が突然パッと消えた。当局からの発表もなければマスコミ報道もない。何故だろう? SP市S池に鯉が初めて放されたのは明治23年(1890年)のことである。画像は札幌市公文書館所蔵。
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それから116年たった春のことだが、凍結が融けてみると池の中の鯉が、一匹残らず消えていた。

春になると表面に張っていた氷が融け、水温は徐々に上がる。そして、S池にボートが浮かぶ頃になると、池の底に眠っていた鯉が目を覚まし水面に姿を現す。この時期になると、春の陽気に誘われるようにして、公園を散歩する人たちも次第に増えてくる。

デジカメで池に向って写真を撮っていると、見知らぬオバさんに声をかけられた。「鯉が見えないでしょ。みんな死んじゃったのよ。工事で水を止めたから酸欠をおこして死んじゃったの。子供たちが池の主といっていた大きな鯉が、一匹残らず死んじゃったのよ。悲しいよね」。オバさんは怒っていたが、私は信じられなかった。

「そんなことないでしょう。地下鉄工事で池の水を抜いた時だって、鯉は養鯉業者に預けていたんですよ。川の工事で酸欠が予想されるなら、その前に何処かに移すでしょ。ここの鯉は昔から大切にされてきたのです。心配ないですよ」。

とは言ったものの、気になって池のまわりを鯉を探しながら歩いたが、一匹の鯉も見つけられなかった。ボート小屋のオジさんに聞くと「寒いからまだ、池の底に潜っているのだろう」と気にする様子もない。何か変だ。既に温かくなっている。鯉が泳ぎだすほどの陽気になっているのだ。何か胡散臭い。オジさんが横を向きながら話しているのも気になった。

10人以上の「散歩の常連さん」に聞いてみたが、見た人は誰もいなかった。中には「私はウオーキングに専念しているから、池なんか見てないよ」という人もいたが、大部分の人は「不思議だ」と言って、首を傾げていた。いろいろ調べたが池に鯉がいないことがハッキリしたので、H新聞社に知らせた。さっそくA記者が取材に動いた。素早い対応に感謝。しばらくして記者から電話が来た。

「公園事務所やSP市公園課を取材したのですが、おかしいですね。まったく関心がないのですよ。住民も、なぜ騒がないのでしょうね。百年間続いた環境が破壊される可能性だってあるんですよ。原因が分からないのですからね!」

着任早々、この事件に遭遇した記者は義憤を感じているようだ。特に、公園関係者やSP市住民の無関心ぶりには呆れているようだった。

「公園事務所では池は関係ないと言うんですよ。公園の中の池ですよ。そんなことってあるんですかねぇ。取材に行っても何もないの一点張り、取り付く島もないんです。ともかく、現場を見た人がいなけりゃ話にならんですよ。見つけてくれたら徹底的にやりますよ!」

少なくとも100匹以上はいた筈だ。鯉がこんなに沢山一度に死んだのなら、死骸を見た人や、片付ける現場を見た人がいると思う。魔法じゃあるまいしパッと消えるはずがない。何とかして「証人」を見つけたいと思った。オバさんは現場を見たと言っていたが、その後会うことはできなかった。

2週間一生懸命探したが、現場を見た人にも死骸を見た人にも会えなかった。まったく不思議なことがあるものだ。大量の鯉が一匹残らず、誰にも知られずに消えてしまった。こんな不思議なことはない。この謎は絶対に解いてやろうと決意を新たにした。
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2021年02月27日

消えた鯉1--前書き

フィクション:鯉はどこへ--前書き
あれから15年もたつのに、忘れられないことがある。それは池の鯉が一挙に、一匹残らず消えた事件である。私は毎日のようにN公園を散歩して、その度にS池を見るので時々思い出していた。ところが、一年前にコロナ問題が浮上すると、A記者の名をたびたびH新聞で目にすることになった。あの時、消えた鯉の謎を一緒に探っていた記者である。

今から15年前に、自然の営みを延々と続けていた池の鯉が一匹残らず一斉にに消えた。毎日、公園を散歩している私にとっては最大の事件。しかし、15年にわたり、日々事件を追い続けているている記者にとっては些細な出来事か。当時、地方から札幌に着任したばかりの記者は「なぜ札幌市民は声を上げないのだ」と怒っていたが、忘れたかも知れない。

大量の鯉が死ねば、大量の死骸が出るはずだ。不思議なことに死骸を残すこともなく消えたのである。池の鯉は冬期間、凍結した池底辺りの泥の中で眠っている。そして水温が上がり、氷が融け、しばらくすると水面に姿を現しエザを食べるようになる。そして産卵する。この自然の営みが、ある日突然断ち切られ、公園の池から鯉が消えた。繰り返しになるが一匹残らずである。

余りにも不思議なので、メモと当時の写真を手掛かりに、この15年前の事件について思い起こしてみたくなった。原因は河川工事ミスと考えられるが関係者は何も語らない。大昔から生息していた池の鯉が、春が来て氷が融けてボートが浮かぶ季節になっても姿を見せない。大量の鯉が一匹残らず消えたのだ。毎日のように公園を散歩しているのに、一匹の死骸も見ていない。魔法をかけれれた様にパッと消えたのだ。何故だろう?

当局の発表、マスコミの報道等は一切なく、事件は闇に葬られた。最近はコロナ関連の記事で、当時取材していた記者の名を度々新聞で目にする。その度に消えた鯉について思い出す。もちろん記憶は曖昧だ。証言者たちの言葉も、私の不確実な記憶に基づいている。それでも書きたいので、空想を交えたフィクションとした。ノンビリ暮らしたいから事実の探求は諦め、書くことを楽しむことにした。

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自然に生きる鯉は地味だった。2003年11月26日撮影。
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2021年02月20日

君は虚しくないか?

半世紀以上一緒に暮らしていても理解できないことがある。しかし、それをいちいち口にしていては、身が持たない。前回のブログ「投稿『いずみ』が怖い」で、無言の張り紙警告について書いたが、私にもお母さんから警告が来た。「カギを忘れないで」という穏やかなものだが、嫌味を感じた。何でこんな細かいことにイチャモン付けるんだと思ったのだ。いつものように我慢して、口には出さない。
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二人共通の習慣として、出かけるときは必ず、自分で玄関のカギをかける。たとえ、一人が家に居たとしてもかける。これは忘れっぽい二人にとって良い習慣と思う。家に残った人は外出の人が鍵を持っていることを確認できる。外出する人とっては、はカギを忘れることの防止になる。

お陰でオートロックのマンションに転居して以来、一度もカギを忘れたことがない。ただし、私の唯一の家事である、ゴミ出しについてはその限りではない。忘れた時は玄関のインターフォンで呼び出せばすむことだ。

それなのに玄関の取っ手に「忘れるな」と、注意書きを下げた。多分、いずみ投稿記事の影響と思う。大切なことと、無視してよいことの区別が付かないようだ。

それでも黙っているのは、我が家が分業制をとっているからだ。家事の95%は、お母さんの担当だが、我慢の95%は私の受け持ちである。お互いが、それぞれの特技を活かして楽しく暮らしている。

年がら年中、呼び出されたら嫌になるだろう。それは分かる。しかし、住んで20年になるが忘れたのは数回だ。つまり3年に一度くらいしか、呼び出してはいないはずだ。間の悪いことに、「いずみ」投稿があった翌日に、カギを忘れてインターフォンで呼び出してしまった。

突然、注意書きを見た私は、カギをしっかりと握って外に出た。ボタンを押してエレベーターが上がって来るのを待っていた。しかし、何かが足りないような気がした。そうだ、肝心のゴミを忘れたのだ。そして注意書きに「ゴミも」と付け加えた。
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その後、ゴミ捨ての日には、必ずカギの注意書きが玄関の取っ手にぶら下がっている。そして、ゴミ捨てが終わったら、何事も無かったように取り外されている。不思議なことに当事者の二人は、この件については一言も話題にしたことがない。

あれから二週間たつが、こんなことが未だに続いている。私は不思議に思っているが、口には出さない。相方はどうなのだろう。黙々と注意書きを下げたり外したりしていて、虚しくないのだろうか?

3年に1度、インターフォンで呼び出されない為としたら、労力の無駄遣いだ。聞いてみたいような気もするが、聞かぬが花かな。この習慣が何時まで続くか興味を持って見守っている。1年なら銅メタル、2年で銀、10年続いたら金メダルを与えよう。その時、私たちは90歳と91歳(*^-゜)んだ 
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2021年02月13日

投稿「いずみ」が怖い

なぜか、北海道新聞「いずみ」欄の熱心な読者なのだ。この欄には女性だけが投稿できる。子供の頃にも毎日新聞の「女の気持ち」を読んでいた。ところで、2月4日のタイトル「定年後の家事分担」を読んでゾッとした。これで私のノンビリらくちん生活も、終わりかなと思った。男はつらいよホントにね。

ある日、投稿者はグウタラ夫の生活態度に腹を立てた。張り紙に次のように書いて、無言の警告をしたそうだ。「自分の食器の洗い物、衣類の洗濯物は自分ですること」。ズバリ命令形である。

ビックリしたのは奥様の命令ではなく、ご主人の態度である。そんなに簡単に改心されても、私は困る。「以後は流しに汚れ物がたまっていることもないし、洗濯物は半分になった」そうだ。奥様は「ストレスがスーッと消えていくのを感じた」そうだ。行間を読むと、心温まる投稿で素晴らしい夫婦だなと思った。

一方私はズボラな夫、同様の張り紙を読んでも清く正しく素直に反省、とはいかない。私だったら、どうするだろう。警告張り紙は密かに消す。粉々にして台所の生ゴミに混ぜてしまうのだ。つまり、張り紙は無かったことにする。そして様子を見る。

1回目の張り紙は怒りに任せて書いたのだから、忘れるのを待つに限る。一時的な怒りで書いたことは、時の流れと共に風化する。2回目があれば重く受け止めるが、何もしない。3回目があって、初めて本気で考える。そして策を練る。

と言っても、あらゆる言い訳を考えて、逃れる道を探るだけ。そして、にっちもさっちもいかなくなってから、自分の非を認める。テレビで大臣らの答弁を見て、対応方法を勉強したのだ。こんなことを考えながら、お母さんの出方を見守った。

さっそく反応があった。
「アシタから自分の洗濯物は自分でやるんだよ」
「それも好いですね」

翌日になっても何も言って来ない。3回どころか2回目もない。せっかく、いろいろ対策を考えたが、実行する機会さえ与えられなかった。いつものとおり言うだけだ。私は何も当てにされていないのか。少し淋しい。
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2021年02月06日

カテゴリ「後期高齢」

カテゴリ「後期高齢」時代は75歳から、たった5年で終了することにした。この時代を振り返ってみると、洋楽カラオケを始めたことに尽きる。初めて洋カラに参加したものの、歌の上手い人ばかりの中で戸惑い、そしてモガイテいた。だがヤル気満々だった。

人目を気にしながら生きているのに、思わず我を忘れる。例えば、伴奏から大きく外れていれば、直るはずないのに直そうとして、滅茶苦茶になる。歌いたい気持ちが強すぎて、何もかも見えなくなってしまうのだ。しかし、これで好かったかも知れない。

この性格が幸いして、苦節4年後、無茶苦茶から下手へと進化した。そして、自分なりに面白くなりかけた。それなのに、舌癌に罹り、世の中もコロナ禍の時代に突入、カラオケは出来なくなってしまった。でも諦めてはいない。物心がついた10歳のころからの夢だから、歌ったら命はないぞ、と脅かされない限り止められない。

洋画が好きで10歳の頃から映画館通いをしていた。その影響でアメリカの歌が好きになった。歌の本を買ってきたら、歌詞が英語だった。中学で英語を習っている兄に、仮名を振ってくれと頼んだら、英語はカタカナにはならないと断られた。ペースボールでストライク、アウトとか言っているのに、歌がカタカナにならない筈がない。その時は意地悪な兄だと思った。

これが最初の挫折。その後も英語で歌を歌いたいと言う思いが頭から離れなかった。やりかけては出来ないので、そのたびに諦めの気持ちが強くなった。二十歳になると、洋楽は難しくて絶対に歌えないと諦めた。その代わり、英語の歌を凄くいい声で歌う友人ができた。私にとっては、叶わぬ夢を実現している友人に憧れた。

長い年月が過ぎて退職すると、幼児と老人は何をやっても許されると、自分本位の思いが、徐々に芽生えて来た。まことに身勝手な考えだが、それでも生きて行けるから有難い。65歳で音痴なのにカラオケを始めた。しかし、それだけでは収まらなかった。

そんなとき、最初で最後ののチャンスが訪れた。2015年の秋、Yowkaraの案内メールが流された。そこには「洋楽に興味のある方なら、どなたでも大歓迎」と書いてあった。大いにあるので参加した。音痴でも歓迎とは書いてなかったが、行間までは読めなかった。思わず、喜んで飛びついたのだ。

それから4年、音痴に加え、舌癌とコロナ禍の三重苦だ。残念ながらカラオケはお休み。そして80歳の誕生日を迎えた。既に、アルバイトやボランティア活動等からも徐々に手を引いていた。後期高齢時代は、動から静へと移行する時代となった。

私は無色無味無臭の水のような人間になりたい。あと一息だ。色を職に替えるだけでよい。依然として後期高齢者ではあるが、状況が変わったので80歳以降を切り分けることにした。積極的に活動していた「自由時代」、動から静に移行した「後期高齢」時代、そして、静かな「80歳以降」、これが最終カテゴリになると思う。あえてカテゴリを追加するなら「三桁時代」かな。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2021年01月30日

カテゴリ「80歳以降」

80代になっても年齢に応じた幸せがある。そう思うと人生は楽しい。1年前の今頃、新型コロナ問題が発生した。おまけに、10月の誕生日を前にして、初めて手術を受ける羽目になった。しかも、舌癌と言う珍しい病気だ。80歳になるのも楽じゃなかった。

ところで、カテゴリの区分を、退職後から74歳までを「自由時代」、75歳以降を「後期高齢」時代と一纏めにしていた。誕生日を迎える直前に、80代は70代とは明らかに違だろうと感じた。

それで新設したのが、カテゴリ「80歳以降」である。今までとは全く違う感覚だ。何となく穏やかで何となく、このまま生き続けるような気がする。少し投げやりで、少し明るい新しい幸せ感が芽生えてきた。風景に例えると、夕日がゆっくりと落ちる感じかな。

在職中は、人付き合いが好くなくてはいけない。退職後も人の輪に入るべきと考えていた。そして自分なりに、そのように努力してきた。今は極めて自然体、思うがままに生きている。生活環境が私の本心に、近づいて来たような気がする。

識者が言うように、三密を避けて、2メートルのソーシャル・ディスタンスを取っている。ごく自然に、そのように出来て、かつ、気持ちがいい。これでは食って行けないはずだが、年金と貯蓄と健康保険のお陰で生きている。幸せな80歳で(^-^;) ゴメン

人類史的にみると、人口が増えて経済成長を続けた時代と、それらが成熟ないし定常化していった時代があった。それが2回繰り返され、今は産業革命から始まった、三回目の成長期の最終段階にある。新型コロナと気候変動は、第三の成熟、そして定常化を迎える、切っ掛けになるかも知れない。

新聞記事「第三の成熟」読んで、このように感じた。そして、今が新時代への幕開け、そう思うと先が楽しみになってくる。誤解かも知れないが、楽しいことを考えながら生きてゆきたいと思う。80代は人生の晩年、心穏やかに過ごしたい。

世界のことは横に置いて、個人的には宮城道雄の言葉が好きだ。人生には不幸を通ってくる幸福があるように、落ち葉のかなたには春の芽生が待っている。すでに春の芽生えは来ているが、振り返ってみれば、しみじみとした好い言葉だと思う。

北海道新聞2020年9月24日
新型コロナと異常気象
京大こころの未来研究センター教授 広井良典
「第三の成熟」へ分岐点(抜粋)

「人類の歴史を大きく俯瞰すると、人口や経済が『拡大・成長』を続けた時代と、それらが『成熟ないし定常化』していった時代が、これまで3回繰り返されてきたことに気づかされる。

最初のサイクルは、私たちホモ・サピエンスの祖先がが約20万年前に地球上に登場して以降の狩猟採集段階である。第二のサイクルは約1万年前に農耕が始まって以降の拡大・成長期とその成熟で、第三のサイクルは主として産業革命以降ここ200〜300年前後の拡大・成長期だ。

このように見ていくと、私たちは今、いわば『第三の成熟・定常化』の時代を迎えるかどうかの分水嶺に立っていることになる」。

そして、終わりに次のように記されていた。
「『拡大・成長から持続可能性へ』の価値転換が今こそ求められている。新型コロナと気候変動は、それらを象徴的に示す現象なのである」。
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2021年01月23日

僕は運転士

80歳を過ぎたのに私の憧れは運転士、ちょっと変わった、ヘソ曲がりの運転士かも知れない。ところで、毎日ノンビリ暮らしていても、ケンカをすることもある。しかし、何が原因かは直ぐに忘れてしまう。幸せ本線に乗っているからだと思う。

お母さんと自称する、ひとつ年下の人と二人暮らしだ。一方、自分はお父さんとは思わずに、子供のフリをしている。家事労働は95%、お母さんがやってくれる。当人は、この状況を理不尽だと思っているようだが、なぜか改善しようとはしない。

だけど、言われたことなら何でもする。それが残り5%の家事である。その代わり、言われないと何もしない。時には口答えして、ケンカになることもある。そんなときは、僕が悪かったゴメンナサイ、と謝って終わらせる。これが私の唯一無二の仕事だ。

お母さんが何か言えば、大抵は御尤も御尤もと同調する。しかし、思わず口答えをしてしまうこともある。例えばこんな時だ。

「アメリカ人は白人でしょう」
「いろいろな人種が混じっています」
「だけど白人の国でしょ」

こんな時に、うっかり違うというとエライことになる。「そんな風にも見えますね」とか肯定しなければいけない。ケンカはだいたい否定から始まる。気を付けてはいるが、たまにはミスをすることがある。考えるより先に、口が動いてしまうのだ。

ところで私は、幸せ本線を走る運転士、脱線したら後はない。例えば、相手がへそを曲げれば、線路はカーブする。徐々に減速しなければならない。怒りの炎が見えたら線路上に危険物あり、そんな時は急ブレーキだ。そして、脱線を防ぐ究極の手段は停止。つまりケンカを終わらせることである。僕が悪かったゴメンナサイと言えば、直ぐに終わる。簡単なことだ。

幸せ本線に乗り続けたいなら、万が一にも脱線してはいけない。お母さんが、95%の家事を受け持ちながら暮らしを守り、私が95%の我慢をして、平穏な生活を守っている。いわば、平和維持軍の様な存在だ。事に臨んでは、危険を避けつつ任務遂行に努める。しかし、普段は食って寝るだけである。

お母さんは慣れたもので、家事を淡々とこなしているが、平和を守る私は、そうは行かない。我慢し続けることは、自分との戦いだ。自分を鼓舞しなければ、やっては行けない。その為に立派な作戦名を付けた、「オパレチオン--ピイス--キイピング」。少しなまっているけど、気に入っている。何故か響きがいい。気分が第一!
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2021年01月16日

二人の世界 後部電信室

「護衛艦あさかぜ」の前身はアメリカ海軍の高速駆逐艦エリソン、最大速力37.4ノット。第二次世界大戦中、北大西洋で活躍した艦は、選抜された海上自衛隊員により、米国から太平洋を越えて渡って来た。当時の主力、フリゲート艦の最速が18ノットと比べると雲泥の差だ。乗艦が決まると17歳の私は、小躍りして喜んだ。

3ヵ月後に、初めての戦闘訓練。電信員の戦闘配置は電信室に数名、艦橋電話に1名、そして後部電信室に2名だ。後部電信室は電信室が損害を受け、使用不能になった時のバックアップだから普段は無人。艦内旅行と称する見学で見ただけだった。因みに電信員で訓練中に海を見れるのは艦橋電話員だけである。

ところで、艦はプライバシーのない世界である。1,630トンの艦に約300人が乗っている。どこもかしこも人だらけ。その様な状況にも関わらず、後部電信室に配置される幸運に恵まれた。しかも、室は狭く二人でも密集、もちろん密着、密閉だ。たちまち、二人の世界になってしまった。憧れの先輩と一緒にね。

先輩は一つ年上の18歳、セーラー服姿が凛々しい紅顔の美少年、「君は東京の出身だね。仕事もいっぱいあるだろう」と入隊の動機に興味があるようだ。乗り組み以来艦内で二人きりに、なれたのは初めてだ。狭い室内には、心を開かせるような空気が漂っていた。先輩には何でも言えるような気がしてきた。

「生活保護を受けていたのが恥ずかしくて、知らない世界に行きたかったのです」。今では考えられないが、1950年代の渋谷区金王町の片隅は、職人と商人の町で物やカネの貸し借り等、助け合いながら暮らしていた。つまり、町内全住民が知り合いなのだ。生活保護を受ける身としては、極めて肩身が狭い思いをしていた。

「そうですか、僕といっしょだね」
「貧乏育ちにはみえませんが」
「妾の子なんだ」

制服を着て並んでいると個性が無いように見える。しかし、15歳で入隊し、「生徒」と呼ばれる少年には、複雑な事情を抱えている者が多かった。貧乏で親に仕送りが必要な子、複雑な家庭環境で悩む子、戦災で親を失い施設で育った子などだ。共通の入隊動機は、4年間勉強しながら給料をもらえること。ほとんど江田島の術科学校だが、約半年づつ、陸上通信隊実習と乗艦実習があった。

窓もなく密閉された後部電信室は別世界。一方、狭い艦内に300人もの乗組員、一人一人が耳も口もある人間だ。そこらじゅう人だらけ、この電信室だけが別世界である。時々ガン、少し置いてガンと、大砲を撃つ音がする。

音が聞こえても、見ることが出来ない世界は、無いのと同じだ。二人で静かに話していることが全てだった。訓練とはいえ戦闘配置、それなのに、ここだけが優しくて甘い香りに包まれていた。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2021年01月09日

新聞の見出し

新聞の見出しは、興味を引きつけ、読む気にさせるためにある。一方、操作手順書は、1から順番に読み、実行する。

毎日、朝夕の新聞を読んでいると、いつの間にか新聞を読む癖が身についてしまう。見出しをチラリと見て、興味があれば本文を読む。つまり、見出しを見るが読んではいない。困ったことに、他の文書を読むときにも、この癖が抜けない。

ところで、Zoomについては新聞で読んだが、自分には関係のないことと思っていた。それが、コロナ禍のせいで目の前に迫って来た。所属するシニアネットでも、Zoomを使ったイベントが、いろいろなグループで開くようになったのだ。

ウズウズしてきた私は、Zoomのイベントへの、参加方法を教えて欲しいとメールを送った。直ぐに返信がきた。さっそくやってみたが上手く行かない。新聞を読む時の癖が災いしたのだ。

その癖とは、大きな字で書いてある1行目は、チラリと見て読み飛ばす癖。Zoom参加の操作手順が書いてあるのに、1行目を飛ばした。そんなことでは出来るはずないのに、一生懸命取り組んだ。

2行目を読むと「URL をクリックする」と書いてある。クリックしたが反応がない。代わりにキーボードで長いURLを一字一字打ち込んだがダメだった。そして、Zoomは無理と諦めた。とりあえず、教えてくれた方に感謝と、お詫の気持ちを伝えた。

お詫びで一件落着と思っていたら、直ぐに返信が来たのでビックリした。そこにはURLが書いてあり、クリックすると簡単にZoom画面に入れたので驚いた。何故だろう?

読み返してみると、一番大切なことを読んでいないことが分かった。冒頭に「下記の招待メールが届きます」と書いてあるのに読まなかったのだ。私のやるべきことは招待メールが来るのを待つだけで良かったのである。

長い間、新聞ばかり読んでいたら、妙な癖がついてしまった。マニュアルなり、メールを読むときは、「これは新聞ではない」と、自分に言い聞かせなければならないと反省した。
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2021年01月02日

悲しみ本線さようなら

恥ずかしながら、文章どころか中学程度の字も書けない。それなのにパソコンで書くのが大好きだ。雑文ブログを書き続けて早くも13年、書いた雑文は千を超える。思い起こせば、腹を立てて夫婦ゲンカを書いてるころは賑わっていた。今はシーンとしている。

いつの間にか、夫婦間の長い争いは終わったが、負けてばかりで辛かった。私は筋道を立てて説得するのに、敵は「アンタが悪い!」の一点張りだ。ピストルでポンポンポンと撃つと、大砲でドカンとくる。私ばかりがヘトヘトだ。ところが、このバトル、意外な筋から反応があった。H新聞の記者から電話がかかって来たのだ。

「当社のコラム『朝の食卓』の執筆をお願いしたいのですが」
「まともな文章は書けないので無理です」
「ブログ読みましたよ。エッヘヘー、あの調子でいいのです。大丈夫ですよ」。10年余り前のことだった。

20名の執筆メンバーだが、それぞれ立派な肩書がある。無職の私はどうしようと悩んでいたら、記者が「HP中島パフェ運営」と付けてくれた。管理人よりエラそうだ。書き始めて13回目に、すすきのに触れた「歴史散歩」を書いた。これが縁で小説「すすきの六条寺町通り」の著者、Sさんと知り合った。

Sさんは文学館の特別展や講演会に、度々誘ってくれた。そして帰りがけに文学館の喫茶に寄る。Sさんは私のブログ「空白の22年」を読んでくれていた。そして、「貴方みたいな人を、同人誌の仲間は財産持ちというの」と言ってくれた。

その一言は私の背中を押した。財産持ちとは書く材料を沢山持っている人と解釈した。実際に幼年時代は終戦前後の混乱の真っ只中にいた。8年にわたる転職時代も、37年の正規雇用中も惨めなものだったが、全ては私の財産と考えることにした。

そう考えると夫婦ゲンカも財産だが、仲良しになった途端にスカンピンになった。つまり、大切なブログの材料を失ったのだ。それでも書くことは大好きだから悩ましい。そうだ!最愛の人を書こう。その人のことを想いながら書けば心が躍るではないか。

一生懸命考えたら最愛の人は自分だった(^-^;) ゴメン こうして、「空白の22年間」を開設、ひたすら自分のことを書いている。誇るべきことが何もなく、地べたを這いずるような人生が愛おしい。過去のお陰で今、幸せ本線に乗っている。たとえ嫌なことがあっても直ぐに、本線に戻る。悲しみ本線と同様いったん乗れば、長い幸せ本線だ。もう10年以上乗り続けている。

現在は無為無職で静かに暮らしている。そうすると昔のことを思い出す。道新コラム「朝の食卓」は全部で18回書いたので、お世話になっているシニアネットのことも書かせて頂いた。楽しく勉強している頃を思い出しては、皆様に感謝している。

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2010年2月17日道新コラム「朝の食卓」
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2020年12月26日

Zoomをやりたい

Zoomを使うと、ひとつの場所に集まって実施する集会がオンライン上で可能になるそうだ。是非やってみたい。私に出来るかな、と躊躇していたが、だんだんウズウズして来た

私の所属しているシニアネットは、会員約500人がネットで繋がっている。特に学習会、交流会、クラブ活動等、顔の見える活動が盛んだが、コロナ禍で集会を開くのが難しい状況になっている。

高齢会員が多いシニアネットだが、Zoomを使ったオンライン集会が次々と立ち上げられた。ある日、シニアネットのメーリングリストで「笑いヨガZoom例会」の案内が流れた。

以前、参加したことがあるので目に留まった。人前では上手く笑えなくて脱落したが、PCの前なら出来るような気がする。笑って健康になれるなら、こんな良いことはない。

メールで参加申し込みをすると、主催者から「事前に入室練習をしましょうか?」と、優しい申し出があった。「URLをクリックすればよいのでしょう」と返信した。これが間違いと後で気づいた。

待ちに待った「笑いヨガ」の日が来た。先ず、何かと煩い妻の許可を得なければならない。PCを触ったことのない人だから、Zoomとか言っても通じないので、結論だけ言った。
「私が一人で大笑いしても気にしないでください」
「毎日、オメガエイドを飲ましているのに、効かないの?」

3年前くらいから私の認知症を疑い、病院にも連れて行かれた。先生は私の脳の写真を妻に見せて、「年齢相応で心配ありません」と言って、認知テストもしないし、薬もくれない。それでも妻は納得しない。私に脳の健康をサポートするオメガエイドを与えた。せっかくだから、効きを良くするため信じて飲んでいる。

巣ごもり中で無精ひげが伸び放題だが、久しぶりに剃った。画面に顔が映るからね。家の中で厚着もミットモナイので室温を上げて薄着に着替えた。念のため部屋の片づけをして、準備万端整えた。開始30分前からPCの前でスタンバイ。URLを書いたメールが来るのを今や遅しと待っていた。

認知症ではないが、やることは認知並み、医者の診断より、妻の方が正しいようだ。時々エレベーターのボタンを押し忘れて、動かない、故障だ、閉じ込められた、大変だと慌てたりする。

申し訳ないけどURLの書いたメールはゴミ箱の中の様だ。最新のメールを読み返すと携帯番号も書いてあった。それなのに、電話もかけないでPC画面を一心に見つめ続けた。

何もかも忘れて、焦って、最終的には何もしないで欠席メールを送ってしまった。心ならずも暇な私が、忙しい主催者に迷惑をかけることになってしまった。(^-^;) ゴメン

「アンタはね、人に迷惑かけるから心配なんだよ」
「大丈夫、オメガエイドを飲んでるから良くなりますよ」
「オメガは認知の進行を止めるだけ。分かった」
「このままで幸せです」
「アンタの幸せ、アタシの不幸。よそ様もだよ!」
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2020年12月19日

珍しい野鳥

不謹慎かもしれないが、冗談半分で「僕が死んだら良い人見つけて結婚してください」と言ってみた。そして、反応は「冗談じゃない、毎日3食作って、掃除洗濯なんか、もうコリゴリだよ。飯付き、風呂付の『サ高住』に行って、一人でノンビリ暮らすんだ」。

全くジョークが通じない人だ。80と79では、あり得ないことを言ってみただけだ。相も変わらず、何か言えば真面目に答える。とは言え、ジョークで本音を引き出すことに成功した。今さら、私をどう思うかとか聞けないからね。

コロナ禍で巣ごもり暮らしだが、毎日1時間は近所の中島公園で散歩している。公園を散歩して野鳥などを撮る。とか言っても、池に浮かんだりしている水鳥しか撮れない。残念ながらオシドリもダイサギもアオサギも居なくなり、今はマガモばかりだ。

と思っていたら、珍しい水鳥が菖蒲池で泳いでいた。ありふれた野鳥かも知れないが、私にとっては珍しい。菖蒲池西岸のデッキの近くが融けていて、そこに1羽て泳いでいた。
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ネットの写真図鑑で調べるとホオジロガモの画像の中に、似ている写真があった。しかし、似ていない写真の方が多い。鳥の形から、その名を知ることは本当に難しい。結局、この鳥の名は分からなかった。以前にも見たことある様な気がしたが。

場所は変わるが、菖蒲池南側の河口付近は凍りにくい。常に川からの水が流入するからだ。殆どのマガモにとって、その冬最後の居場所となっている。

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マガモの群れの中に少し変わった水鳥が1羽だけいた。

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下からマガモ雌、マガモ雄、一番上の水鳥はネットの図鑑で比べてみるとコガモに似ている。

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念の為だが、子供のマガモではない。夏に巣立ったマガモの子は秋には成鳥になっている。

話は戻るが、最近はケンカをしなくなった。楽で好いけれど困ったことが一つある。本音を知る機会を失ったことである。ケンカをすれば嫌でも本音が聞けるのに、穏やかに暮らしていると、時が静かに過ぎて行くだけだ。

たまには本音を聞きたい。今日はジョークで上手く本音を引き出せた。不満は私が家事をしないこと。まあ、予想通りだ。それでも、病気で家事が出来なくなったら、私が全力でやるつもりだ。

コンビニ・スーパーの中食、お店の出前、コインランドリー、訪問介護、清掃サービス等を上手に利用するつもりだ。資金は酒タバコ、車も止めて、更に旅行も止めたから大丈夫。病人の世話をしながらも、ノンビリ楽しく暮らしたい。これが私の願いである。上手くいったら申し訳ない私の計画。贅沢で(^-^;) ゴメン
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2020年12月12日

不思議な人-2

自分史のつもりでブログを書いていると、昔のことが芋づる式に思い出される。時には粉飾されてね。ひょんなことから、半世紀以上前の大切な手紙が見つかった。中学時代に川野さんから来たものだ。冒頭にこう書いてあった。「トンボって、真夏の暑い時は涼しい山に居て、里が涼しくなると、おりてくるのですね」。

川野さんにとって、学校も文芸クラブも熱いバトルの場と思う。涼しい下界に降りたい時もあるだろう。それが週一回の二人勉強会なら幸いだ。私に文章の書き方を教えることが、夕涼みになってくれれば有難い。昔なら思いもよらぬ考えが頭に浮かぶ。今は退職して自由の身だから、束縛するものが何もない。考えれば考えるほど、自分に都合の好い方向へとなびいてしまうのだ。

次にこう書いてあった。「病院まで一緒に行ってくれてありがとう。こんなお願いは貴方にしか言えません。私の甘えです」。

二人勉強会の時、突然川野さんが黙り込んで、苦しそうな顔をした。最初は、やる気のない私に気づいたかなと心配した。短い沈黙の後で、「病院に行かなければならないけど、少し心配なの。一緒に行ってもらえない?」と、かすれた声で言った。

道々、川野さんには持病があって通院していることを聞いた。待合室で診察に呼ばれるまで一緒に待っていた。やや長い診察が終わると、待合室に居る私を見て「あら、まだ居たの」と言った。何だか悪いことしたような気がしてドギマギした。私にとっては、忘れたい出来事だが手紙を読んだら思い出した。

手紙には、「神経衰弱(昔の表現)で我が儘な気持ちを抑えられないことがあるのですが、貴方は何時も冷静に受け止めてくれていました」と書いてある。今にして思えば心の病かも知れない。

文芸が好きなフリして教えてもらっていたけれど、私には化学の実験とかアマチュア無線とか、他に好きなことがある。興味のないことにはどうしても身が入らない。ただ川野さんのそばに居ることが、とても心地よかった。

今、手紙を読むと、甘えとかの表現、あるいは、我が儘を許す私への感謝の言葉が拡大されて心に届く。教える時は無駄話をしない川野さんとは大違いだ。そういえば手紙には「良き友を持つ幸せをいつも感じています」と書いてあった。

少年時代の私にとって、川野さんは教え魔のような不思議な人。一方、自分自身のことは、恥ずかしながら片思いの人と思っていた。だが、今は違う。長い年月で嫌な思いはそぎ落とされて、いつの間にか少年時代の淡い幸せな記憶に変わっている。老人力の成せる業と思う。
タグ:ときめく
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2020年12月05日

不思議な人-1

運動も勉強も苦手なのに、10年に1回くらいは褒められた。中学生のころ、国語の時間に私の書いた作文『夜明け前』が、佳作の一つとして発表された。それだけでも嬉しいのに、朗読してくれたのがクラスきっての文学少女、川野さんだから喜びもひとしおだ。彼女の朗読は先生より上手く、中学生なのに女性の雰囲気がある。私にとっては近寄りがたい存在だった。

ある日、憧れの川野さんから、文芸クラブに入らないかと誘われて大喜び。しかし、文章は書けないし、文芸に興味もない。それなのに入りたいから悩ましい。こんなことは正直には言えないから、「書くのは苦手ですがいいですか」かと聞いてみた。「『夜明け前』を書いたでしょ。あの調子でいいのよ。文章の上手い人ばかりだと、同じような作品ばかりになってしまうの」と言ってくれた。

川野さんは色白で細面、髪は後ろで束ねただけの、スラリとしたスタイルの生徒。私を書くのが好きな人と誤解してくれたようだ。週に一度の例会には欠かさず参加した。文芸とは全く縁がないのに、彼女に誘われると、コロリと入会してしまった。川野さんが好きと会員に気付かれたら恥ずかしいから、文芸好きのフリをした。

全く書けない人であることは直ぐにバレた。川野さんに「二人で勉強しましょう」と言われてワクワクした。皆に気づかれないように、やろうと言われて、何故かドキドキしてしまった。歩いていてもフワフワする。地に足が付かないとは、こんな感じかも知れない。

何もかもスッカリ忘れて大喜び。川野さんは文章の書き方について、手取り足取り一から教えてくれた。私は彼女の声に聴き惚れるだけで、中身はサッパリ頭に入らなかった。

川野さんは私の出来が悪くても少しも気にしない。手書きの資料を自分で作って持って来てくれた。凄く嬉しかったけど、私には難しすぎた。こんなことが1年以上も続いた。だけど私はさっぱり上達しない。ただ二人で過ごすことが夢のように楽しかった。

あれは一体何だったのだろう。川野さんは終始優しく、文章の書き方を教え続けてくれた。勉強だけで、ほとんど無駄話がない。私が上達しなくても、励まして教え続けてくれた。どうしてだろう。感謝の気持ちでいっぱいだが不思議にも思っている。今さらだが、大昔にもらった一通の手紙を改めて読み返してみた。
タグ:ときめく
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2020年11月28日

幸せ本線乗ってるかい

息子が就職して、家を出て二人暮らしになったとき、「これからはハナ(花子)とサブ(三郎)で呼び合いませんか」と提案したら、「いい年して何言ってんの、私は正ちゃんの母親だから、お母さんでいいの!」と断られた。

その時から私は子供になる決心をした。お父さん役には飽き飽きしたからね。そして、次第にホンモノの子供らしくなって行った。今年80のお子様は、お池にはまってさあ大変。

朝ごはんが終わると、7時15分から自室で一人で朝ドラの二本立てを観る。今は「澪つくし」と「エール」だ。見終わると、お母さんに「歯、磨いていいですか」と聞く。この後の行動は返事次第、つまり、お母さんのイエスかノーで決まる。

この習慣は偶然、歯磨きと洗顔がかち合った時に始まった。「たまには一緒も楽しいですね」と言ったら、邪魔だから後にしてと言われた。それから事前に許可を求めるようになった。

つまり、生活の主導権をお母さんに明け渡したのである。そして、凄く楽になり、幸せになった。一度幸せになると、諍いがあっても、直ぐに幸せに戻る。一方、長かった不幸の時代を思い出すと、時々嬉しいことがあっても、直ぐに不幸に戻るから悲惨だ。

8月に手術のために入院しても、指示するのがお母さんから看護師さんに変わっただけ。幸せ状態は続いたが、苦しいこともあった。例えば舌の手術後一週間は、鼻から栄養、水分、薬をチュープで胃に送る。ところが、不具合があって苦しい思いをした。

調べたら、鼻から胃へのチューブが途中でこんがらかっていた。これで三日間苦しんだ。持病の喘息防止のため薬の吸入が必要だが、吸入後にウガイをしないと副作用で喉にカビが生える。無理やりウガイをしようとするけれど、とても苦しい。

結局、チューブを2回入れなおして、やっと、ウガイが出来て、水が飲めるようになった。苦しんで、看護師さんに優しくされて癒されて、幸せ係数が上がった。苦しみが去れば直ぐに幸せ状態に戻る。つまり、幸せ本線が私が戻るのを待っていてくれる。

幸・不幸はフレキシブルな線路のようだ。人生には幸せ本線と、悲しみ本線がある。どちらも線路から外れても、直ぐに本線に戻る。いったん乗ってしまうと、どちらも長い。幸せ本線乗ってるかい?
タグ:楽しい我家
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2020年11月21日

高校はどうなんだろう?

80歳になるが、人生は常に二人連れ、情けない私と、それを見て面白がっている私。普通、学生時代と言えば大学だが、私の最終学歴は中学まで。家が生活保護を受けていたので、高校には行かないと決めていた。貧しくても保護を受けない家庭も多い。私だって自立したい。その為の就職だから迷いもなかった。

それでも中学は楽しかった。ユニークな友人もいた。化学と悪戯が大好きなオパーリン、大人の世界を知っているコメヤ、落語と無線が大好きな天才ユガワ君、彼等から多くの刺激を受けたし、勉強にもなった。中学は自由を満喫できる世界だった。

昔も苛めは多かった。安全保障がなければ楽しい中学生活は送れない。大ちゃん は友人と言うよりも、親分のような存在だった。ケンカの話をするのが大好きで、話の終わりは「苛めるやつが居たら俺に言えよ」と、締めくくる。この一言が有難い。

アルバイトをし、友人もいる。安全を保障してくれる親分までいて、中学生活はとても快適だった。もちろん勉強もした。社会と理科が好きで、放課後は図書室と実験室に入り浸っていた。

国語はつまらない、図書室で本を読んでいる方が楽しい。数学は根っから苦手、英語はABCが書ければ充分だ。実はアメリカ人(一人はアラバマ州で、もう一人はミシガン州)と文通をしていた。英語は知らなくてもコレスポンデンス協会とかで翻訳してくれる。私は翻訳された英語を写すだけだった。

家は貧乏なのでアルバイトのお金は半分以上、生活費の足しとして家に入れた。それでも学用品、昼食、映画に使う金は残った。テレビもパソコンもない時代は、アルバイトしながら学校にに行っても友人と遊ぶ時間はたっぷりあった。

友人と化学の実験をしたり、アマチュア無線をしたり、大ちゃんと10人くらいの仲間と街をブラブラしたり、一人で映画を観に行ったり、中学時代が一番楽しかった。人生は自分と二人連れ、自由に使える金が幾らかあれば、それで充分だ。大学に行ければもっと楽しかったと思うが、高校はどうなんだろう?
タグ:渋谷
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2020年11月14日

黒シャツのドクター

舌がんの手術は、舌の材料にするため、内股の手術を伴う。内股の傷口は3ヵ月たった今でも治療中だ。そして手当をするごとに、あのガーゼ事件を思い出す。恥ずかしくて少し悲しい……

塗り薬とガーゼを使う簡単な手術後の手当だが、試行錯誤を重ねた末に、ようやく解決した。それは事件のように突然やって来た。ことの始りは手術して10日後の日曜日。病棟の処置室に黒っぽいシャツのような服を着た、見知らぬドクターが現れた。

ドクターは傷口に貼ったテープを見て言った。「これじゃあ駄目だ。毎日、傷口をきれいに洗って、薬を塗ってガーゼで抑えなさい」。言葉は分かるが、具体的に何をするのかサッパリ分からない。

帰りがけに「私は何をしたらよいか、教えてください」と言ったら、ドクターは呆気にとられたような顔をした。その時、病棟のナースが私を見ながら「私がやります。大丈夫ですよ」と優しく言った。

後でナースがーゼと塗り薬とテープを持って来てくれた。「自分でやるから、具体的な方法を教えて下さい」と言うと、彼女はニッコリ笑って「私がやります。任せなさい」と言った。

ナースは毎日、内股の傷口のチェックをしているので、自信があるようだ。しかし微妙な場所なので、シャワーで洗ってから、再び自分でやると言ったが、「大丈夫ですよ。寝て下さい」と微笑みながら指示をした。

上を向いて寝ているので、手当の様子は見れないが、なにやら手こずっているようだ。傷口チェックと同じように、パンツの裾を少しずらせば出来ると思っていたらしい。しばらく悪戦苦闘していたが、意を決して言った、「パンツを脱いでもらってもいいですか」。

翌日は男性ナースが来てくれて、懇切丁寧に説明してくれたので、自分で上手く出来るようになった。やってみて分かったことだが、パンツを脱げば簡単に出来ることだった。見知らぬドクターは、私がそんなことも出来ないとは、知らなかったのだと思う。

後で思ったことだが、日曜で担当ドクターが休日なので、当直のドクターに診察を頼んだのだと思う。その後、傷口の手当は黒シャツドクターが指示した方法に変わった。彼はその道の専門家かも知れない。日曜日に出会って幸運だった。私はただ、ご飯を食べて寝ているだけなのに、また運がついた。黒シャツ先生に感謝!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2020年11月07日

見知らぬ人と

コロナ禍でソーシャル・ディスタンスを気遣う今になると、気楽に人に近づけた昔を懐かしく思う。10年も前のことだが、所用で宮の沢方面に行った。昼食時なので、地下鉄駅直結のスーパーでサンドイッチと牛乳を買い、休憩コーナーのテーブルに座った。ちょっと離れた場所にオバサンが座ったが、少し混みだした。

「つめていい」と声をかけられた。
「どうぞ」
「近頃の人は冷たくて、話しかけても知らん振りするのよ」
「一人で食べるより二人で食べた方が美味しいのにね」

つい、余計なことまで言ってしまう。これは私の決まり文句。自然に口から出て来るのだ。他にもある。「いただきます」「これ美味しいですね」「ご馳走様」。これらに「二人で美味しい」を足し、4点セットにして、いつも使っている。

何の為に? 言うまでもなく、美味しく楽しくご飯を食べるためだ。この四つの言葉を怠らない限り、ご飯は自動的に出て来るし、食器は自動的に片付けられ、食器棚に収められる。つまり、お母さんに機嫌よく食事の面倒をみてもらう為には、少なくともこのくらいの配慮は必要と思っていた。もちろん、今もね。

オバサンは「このミカン小さいけど美味しいんだよ」と言って、買ったばかりのミカンをくれた。「美味しいですね。ご馳走様でした」と言った途端に、もう一つミカンを勧められた。「有難うございます。サンドイッチ食べませんか」といって勧めたが、「ダイエット中だから」と言って断られてしまった。

いくらサンドイッチを勧めても断るのに、こんどはバナナをくれた。結構ですと断っても、強く勧めるので食べた。オバサンが言うとおり甘くて美味しかった。オバサンは自分や家族のことを絶え間なく話していた。今ならコロナ感染防止のため絶対禁止だが、その頃は親しみさえ感じた。

食べ終わると、ミカンやバナナなどの皮だけでなく、私が買った牛乳パックやサンドイッチの入れ物まで、オバサンの手で片付けられた。ノロマの私が手を出す間もないほどの早業だ。有難いし、申し訳ないが、嬉しくも思った。

10年前までは宗教の勧誘や飲食店の呼び込み以外にも、街中でこんな無駄話をすることもあった。その後、少しずつ減り、今はソーシャル・ディスタンスを取らなければならない時代となった。不思議なことに私自身が意味不明な出会いを避けるようになった。コロナは私の行動も変えた。
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2020年10月31日

夜明け前

何をやってもダメだがら、心ならずも無趣味となった。お粗末なので、趣味とは言えないけど、歌と駄文をやっている。ところで、退職したら凄く楽しくなった。苦手なことは、やらなくて良いのに、やっても良いからだ。今では楽しく歌って書いている。凄く古い話だが、作文「夜明け前」は私にとって最高の思い出となった。

歌はともかく駄文については、中学時代にホンの少し書いたことがある。夏休みの宿題に「文集」があったので、政治及び社会批判を書こうとした。気が小さいのに、考えることだけは大きかった。けん玉が上手くなれたら、もっと子供らしく生きられたと思う。

ところが、切手収集が趣味なので、文集にはこんなことを書いた。「吉田の切手があったなら、多分額面一万円、吉田はワンマン、一万だ」。吉田首相が長年にわたり指導力を発揮していた時代だが、ワンマンとして批判されていた。これを書こうと思い新聞を切り抜き、資料を集めたりして大奮闘したが、評価は最低。三日がかりで、一万円切手をデザインして描いたのにガッカリだ。

庶民にとって、テレビは高根の花だったので、一番人気のプロレスについて書いた。反則に腹が立って書いたのが「殺人スナブル」。同じくゼロ評価だが、「ショーだから本気にするな」と添え書きがしてあった。だけど私は、テレビがあるフリをしたかっただけ。実は、近所の食堂がテレビを導入、何も食べなくても、10円払うと立ち見をさせてくれたのである。

宿題の課題は「文集」だから、もう一つくらい書かなければと思い、提出前日に書いたのが「夜明け前」。午前4時に自転車に乗り、青山7丁目から並木橋S新聞販売所に行くまでの風景と体験を順々に書いただけ。スラスラ書けて、30分もかからなかった。

我が家には自転車はなかったが、ペンキ屋の息子が後ろに乗せてくれた。彼は猛スピードで坂道を下る。自分が運転していたら絶対に出来ないが、彼の腕を信頼していたので怖くない。空襲で破壊された道路は、復旧してもほとんどが砂利道のままだった。近所で唯一の舗装道路を猛スピードで走る気分は爽快だった。こんな気持ちを思うがままに書いたら、高評価を得てしまった。

努力は報われないものだ。「吉田はワンマン」は、一週間かけて資料を集め、整理して10ページに纏めたのにゼロ評価。一方、「夜明け前」は員数合わせにチョコチョコと書いただけ。決して、中学は不公平ではなかった。私の頭が変なのだ。
タグ:渋谷
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2020年10月24日

豪華客船の旅?

2020年3月以来、入院期間を含めると7ヵ月以上の巣ごもり生活が続いている。年下なのに、お母さんと名乗る同居人と二人暮らしだ。社会と断絶された生活は少し不便なだけで、おおむね良好。ノンビリ楽しく過ごしている。窓から見える中島公園を海と思えば、豪華客船で世界一周の旅をしているようにも感じられる。

船は温帯から亜寒帯へと航行、風景は深緑から紅葉へと、徐々に変わる。もしこれが現実の船旅としても、私は上陸しない。飲み食い・タクシー、全てに金がかかると思うと、勿体なくて船から降りられない。船内の飲食は無料だ。

巣ごもり生活の想像だが、この船旅で与えられたのは、バス・トイレ、風呂、台所付きの特別室。私専用の寝室にはテレビ、オーディオ・ビデオ・パソコン等、何でもそろっている。スイッチ一つで各種娯楽室へと様変わり、時には書斎にもなるだろう。

お母さんは三度の食事と掃除・洗濯、おまけにナースの真似事までしてくれる。有難いけれどホンモノのナースのように優しくはない。それどころか以前よりも威張り腐っている。

深夜にナースが夢心地の私を揺り起こした。さては遭難、氷山にでもぶつかったかとビックリした。なんだ、お母さんか。

「アンタのラジオがうるさくて眠れない」と、叩き起こしに来たのだ。深夜だから静かに聴いていたが、そのまま寝てしまった。黙ってラジオを切ればいいのに、起こして説教。躾のつもりかも知れないが、明日にしてほしい。私だって夜中に起こされたくない。

「ドアを開けているから聞こえるのでしょ」と思わず反駁。
「閉めたら息苦しいよ」と、お母さん。
「窓を開ければいいでしょう」
「それは不用心だからダメ!」
「ロスナイ使えばいいでしょ」
「換気の音が煩いから嫌だ」
私がゴメンナサイと言うまで、口げんかは続く……

夜中に滾々と説教させてしまったのは、私のミス。直ぐに謝ればいいのに、ゴメンナサイの一言が遅すぎた。寝ぼけて口答えをしてしまったのだ。普段なら直ぐ謝罪、「注意してくれてありがとう。お陰で良い人になれました」とか、リップサービスも怠らない。皮肉のつもりだが、意外に受けたので癖になってしまった。

豪華船には乗っているものの、それは私だけの夢。巣ごもり7ヵ月で、現実と夢がゴッチャになっている。私は食べて寝るだけの船客だが、家事をしながら、私の面倒を見る人の気持ちを理解しなければいけない。快適な船旅を楽しむ為には、それなりのマナーを身に着けていなければいけないと反省した。

<<巣ごもり生活は船旅のようだ>>
およそ10年前、飛鳥Uで二泊三日の船旅をしたことを思い出した。個室で寝起きして船内をアチコチ散歩は、マンションに住んで、隣接する中島公園を散歩するのに似ている。
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見れば見るほどマンションみたいだ。

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個室のデッキもマンションのベランダのようだ。

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散歩して疲れたら座って、コーヒー・タイム(無料)。

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二人で旅行は15年ぶりなので、束の間の贅沢。それでも、今度こそは世界一周とか、叶わぬ夢を語り合った。それから10年たったらコロナ禍。巣ごもり生活は、世界一周の船旅に似ていると思った。これが旅行を知らない私の感想。窓から見る中島公園は紅葉真っ盛りだ。風景は船窓から見た景色のように、ゆっくりと変わって行く。
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2020年10月17日

無さそうで有る夢

光陰矢の如し、NHKの朝のドラマを観続けて55年。最初に観たのは1965年の「たまゆら」だった。職場で一番年上の所長が昼休みに毎回観ていたので、他にやることもなく一緒に観ていた。

1966年には自分から進んで「おはなはん」を観ていた。それからは、忙しくても苦しくても朝ドラを観た。酒やタバコと同じように毎回観る習慣がついてしまったのだ。もちろん、楽しいから観ている。酒やタバコだってそうだった。

先週の「エール」では戦争中の映画「決戦の大空へ」と、その中で歌われた「若鷲の歌」が話題になっていた。早速、ユーチューブで「決戦の大空へ」を観た。戦争中の作品は、当時の目線で鑑賞できるので、とても興味深く感じている。戦意高揚の宣伝映画としても、戦後の作品では知りえない事実が垣間見える。

そして、思い出したのが、海上自衛隊M練習隊時代のこと。当時、外出時に利用した「日曜下宿」のことだった。私は14歳だが、「決戦の大空へ」の練習生(海軍飛行予科練習生)と同じ年ごろだ。少年等が班員一同で日曜下宿に行くシーンが印象的だった。

下宿先の家族構成はおばさん、お姉さん、その弟と妹の4人。家族と練習生との交流が和やかで楽しそうだった。皆一緒になって食べたり話したり、歌ったりする。

1943年上映の映画だが、それから敗戦、占領下、朝鮮戦争、日本独立、自衛隊創設と、時代は目まぐるしく変化した。そして12年たった。私は日曜下宿にいたが、家族が居る気配はない。私達は日曜の昼しか行かないので、その時間は外出していたのだと思う。なるべく接触しないようにしていたのだ。私は知らなかったが自衛官は税金泥棒と言われる時代だった。

世の中も状況も随分変わったと思ったが、調べてみると、そうでもなかった。ネットで「日曜下宿」をキーワードにして検索したら、陸軍士官学校生徒について、次のようなことが書いてあった。

「日曜下宿で、生徒は、一日中、何をしていたか。いま思い出しても、ただ、ごろごろして飲んだり食ったり、新聞雑誌を読んだりするだけであった」。

それでは「決戦の大空へ」の日曜下宿風景とは何だろう、と考えてみた。何といっても、昭和を代表する「伝説の女優」原節子がお姉さん役だ。彼女を中心に夢を描いていたのだと思う。当時考えられる限りの最高の夢を。お姉さんのピアノ伴奏で練習生たちが「若鷲の歌」を歌うシーまであった。

現実の日曜下宿は士官学校生徒が感じたとおりと思う。猛訓練から解放されたら、外に出て畳でごろごろが一番の楽しみだと思う。夢の世界はドラマの中にしか存在しない。ただ、日常生活でも、ごく稀に夢の世界に浸れることもある。無さそうで有るのが夢。だから人生は面白いのだ。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2020年10月10日

これ一筋で大成功!

ついに、SSNカラオケクラブの例会が再開された。コロナ禍で休んでいたので、7ヵ月ぶりである。とても嬉しいニュースだが、残念ながら参加できない。ともかく、「おめでとう。久しぶりのカラオケ例会を楽しんで」と、心の底から祝福したい。私も、そのうち参加と思いながら、密かにイメージ・トレーニング中である。

もう一つのカラオケ例会、「洋楽を歌おう!(Yowkara)例会」も再開。こちらも参加したくてウズウズしているが、舌がおかしい。手術して2ヶ月近くなるが、元の舌に戻ったような気がしない。

タチツテトがスムーズに言えなくてラリルレロのようになってしまう。「かどのうどん屋」が「かろのうろんや」になってしまうのだ。舌に張り付けた内股の肉が、舌になっていない感じである

考えてみればYowkaraには、都合が好いかも知れない。多くのアメリカ人は横田をヨゥラと言うし、新潟をナィラとも言う。米軍のパイロットは、そのように発音する人が多かった。

舌が痛いといっても状態はいろいろ変化した。入院前の3月から半年くらいは、舌の右下が凄く痛くて左側だけで噛んで食べていた。入院してから5日間は、お粥と「柔らか食」になり、食べるのがだいぶ楽になった。手術後一週間は、口は使えないので鼻から管を通して、栄養を胃に送った。

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手術後、最初の食事は歯ごたえのない「ペースト食」だった。

そして、刻み食、柔らか食へ。ご飯の代わりに3分粥、5分粥、7分粥と、お米を少しずつ増やした。ペースト食は凄く不味かったので、次の日は刻み食に変えてもらった。そして分かったのは、ペースト食が不味いのではなく、私の味覚が戻っていなかったこと。

退院したころになると、入院前の刺すような痛みは無くなり、痛いけれど食べられる。痛くて食べられない状態と比べると、雲泥の差だ。痛み止めは必要に応じて飲んでいる。

手術後は活舌が悪くなると事前に聞いていた。しかし、味覚が変わるとは聞いていなかった。時間をかければ元に戻ると思う。一方、歌は音痴で活舌が悪いのに、更に悪くなるとは情けない。自分が楽しめれば好いと言っても限度がある。

幸い、二人で巣ごもり中。「幸せだなァ 僕は君といる時が一番幸せなんだ」とか、お世辞のつもりで、歌のセリフを言ってみた。

「私だって、座ったら、ご飯がデンと出て、掃除・洗濯もしないで、遊んでいられれば幸せだよ」と言われてしまった。下手なお世辞は言うものではない。しかし、「アンタは文句を言わないからいいよ」と付け加えてくれた。

こんな嬉しいことはない。10年来の努力が報われた一瞬である。家庭の平和のため、私がした唯一の努力は我慢。何を言われても「御尤も」、何をされても「いい気持」、これ一筋で大成功! また自慢してしまった(^-^;) ゴメン
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2020年10月03日

しラがいラい

以前、「音痴のカラオケ」に次のようなことを書いた。
「パラリンピックがあるように”パラのど自慢”もあっていいと思う。つまり、もう一つのオリンピックがあるように、”もう一つののど自慢”があってもいいと考えるのだ。もともとParalympic はparaplegia(下半身麻痺者)とOlympicsとからの造語だが、今ではparallelと改められ”もう一つのオリンピック”になった」。

昔は、もう一つどころか、日本列島北から南まで素人のど自慢で溢れていた。今もそうかも知れないが、身近には「のど自慢」が消えてしまったように感じている。カラオケの普及で歌の世界は平等になり、表面的には自慢が消えた。

しかし、パラのど自慢は私の心の中で現実味が増して来た。8月中ごろに舌の手術をして、現在快復途上にある。快復といっても元通りになるわけではない。内股の肉を切って舌に張り付けても、元の舌にはならないと思う。

今後は、目の不自由な人が、そのまま生きるように、舌に障がいを持つ身として生きるのだ。しかし、転んでも只では起きたくない。ここからも何かを得たいと思っている。それで思いついたのが「パラのど自慢」。NHK素人のど自慢に平行した、パラリンピックの様な、もう一つののど自慢である。

参加資格は口に障がいを持つ人、但し、虫歯と歯槽膿漏は除きたい。舌を切った人でなければ参加できないことにしたいのだ。虫歯と膿漏を入れると本物ののど自慢と明確に分けることは難しい。公平なパラレルのど自慢の運営が困難になる。

何事も始りというものがある。パラリンピックの始りは、1948年にイギリスの病院で開かれた競技大会。当時は第二次世界大戦後で負傷兵も多かった。競技はアーチェリーだけで、以後毎年開催された。1952年にオランダを含めた2か国になり、国際大会として開催されることになり、そこから世界へと普及したらしい。

やはり、パラのど自慢をやるとしたら、初めは病院からだと思う。例えば、「深海竜宮病院リハビリのど自慢大会」とかね。ドクターから舌の体操をしないと手術した部分が固まってしまうと言われ、一生懸命舌の体操している。しかし、何となく気分が乗らない。パラのど自慢大会があれば、より楽しく舌体操ができると思う。

ところで、手術して舌が回らなくなると、タチツテトはラリルレロになってしまう。「痛いです」は「イライレス」になってしまうのだ。

英語で歌えば、Got a one way…… ♪ はガ・ワン・ウェイ…… ♪  まるで舌が浮いた感じだ。 グッバイ・ジョゥ・ミィガラ・ゴゥ…… ♪ これでいいのだ! 今の私には「しラがいラいから、うラえないけロね」としか言えない。しばらくすれば治るとは思うけどね。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2020年09月26日

まだ運は尽きない

普段は「ついてないなぁ」と思うことが多い。しかし、本当に困った時には運がつく。だから、今年80歳にになるのに、まだ生きている。長生きは日本では普通でも、世界的には凄いこと。いったい運はいつ尽きるのだろう?

60歳半ばを過ぎてから3回目の入院たが、従来の入院と違って面会及び外出は禁止だった。これはコロナ感染防止のためだから仕方がない。入院前にPCR検査を受けて陰性の人のみが入院できる。これが前提だから面会・外出などはもっての外である。入院出来ただけでも幸運なのだ。

世界は今、コロナ感染の渦中にあるが、私の運はつき続けている。仮名を竜宮病院としたのは、ジョークではなく、そう感じたからだ。そこは社会と断絶した、優しさに満ちた世界だった。面会禁止だが、ナースたちは理想の家族みたいに優しく接してくれた。本当の家族なら文句タラタラ、ズケズケ言うのにね。

ナースは「検査に行くのですが、これから車椅子を用意して、ご案内します」と言ったが、しばらくして別な人が来た。しかし、私は気づかない。制服を着たスラリとした、孫のように若い女性は皆同じように見える。仕方がないので全部まとめて乙姫様と思うことにした。その方が竜宮病院に相応しいし、楽しい。

幸運はそれだけではなかった。相部屋はたった4日だけ、手術前日から退院までの3週間を重症患者用の個室が与えられた。手術後一週間もすれば軽症患者だが、部屋を移動する前に退院となった。多分次に入る重症者が居なかったのだと思う。

息子が用意してくれたポケットWiFiも強い味方になってくれた。せっかくのプレゼントだが、相部屋では使えない。そう思いながらもPC持参で入院した。思いがけず、使う機会がたっぷり与えられた。個室なので気兼ねせずにネット・サーフィンを楽しめたのだ。舌の手術後は話すのも楽じゃないので、いい気晴らしになった。

がんと言われたときは、運の尽きかと思ったが、竜宮城のような快適な空間と、乙姫様のような優しい人たちに恵まれた。入院後半になれば退屈してくるが、それも息子が用意してくれたネット環境に救われた。自分の幸せだけを求めて生きて来たのに、皆様のお陰で幸せになってしまった。本当に申し訳ない(^-^;) ゴメン
タグ:コロナ禍
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降

2020年09月19日

素晴らしい手術チーム

手術が終わり麻酔が覚めると手術室の風景が見えた。車窓から見える風景のように流れている。このビデオ欲しいなと思った。後で考えると、麻酔が効いている中で見た幻覚と思う。

その日は、朝から深夜に至るまで手術に追われていた。多数の医療スタッフが、私一人の為に、驚くべき熱意で働いていた。それを間近に見て心が震えた。見守られ、大切に扱われている感じが心地よい。思わず、感動して涙をを流した。

手術室では救命という一つの目的のため、若きドクターやナースたちが全力を尽くす姿を見た。まるでテレビドラマ「コード・ブルー」のワンシーンのようだった。この光景は私の脳裏に焼き付いた。

ところで、事件はこうして始まった。手術終了6時間後、ドクターと病室に居たとき、思わず声を発した。「痛い痛い、……アレっ!痛くない? 済みません痛くありません」、ベッドから洗面台に歩いた、ホンの一分間ぐらいの出来事だった。直ぐに治ったと思いホッとした。

しかし、ドクターの対応は素早かった。私をベッドに寝かし、一見すると迷うことなく、私をストレッチャーに乗せて診察室に運んだ。何のことだかさっぱり分からなかったが、ベッドのシーツに血が付いていたことを記憶している。

切った内股の付け根から出血していたのだ。それからが凄かった。夕方6時を過ぎたが、再手術決定、手術室臨時オープン。担当医療スタッフの非常呼集。私は診察台からストレッチャーに移され別の部屋に移動。隣室では再手術に関する協議をしているようだった。

再手術となったが、改めて手術室の規模の大きさに度肝を抜かされた。患者のくせに、テレビドラマ「コードブルー」の主役のような気分になった。私一人の為に手術チームが、それぞれの持ち場でテキパキと働いている。その姿を見ていると感動して目頭が熱くなった。

麻酔がかかるまでは、ドラマの様な手術室の風景に魅了された。とにかく、私の命を守るために多数のプロフェッショナルが関わってくれたことに心から感謝感激した。

麻酔で意識を失って見た幻覚は、同室の小父さんが見たという、綺麗な模様ではなかった。手術室の様子が電車の窓から見る風景のように、絶えず流れていた。麻酔方法は朝の手術では全身麻酔だったが、夜は全身麻酔相当だった。

幻覚を見たのは夜だけだったが、手術室で見た光景に強く感動して記憶に残ったのだと思う。私にとっては感涙にむせぶ手術台となった。人生最大の幸せ気分を、ここで、この歳で、こんな形で味わうなんて、夢にも思わなかった。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 80歳以降