2017年10月07日

謎のコレスポンデンス協会?

「小学6年くらいの頃アメリカ人と文通していました」
「嘘だろう。出来るはずない」
職場の先輩だから私の英語能力は良く知っている。困ったことに下手の横好なのだ。
「本当ですよ。アメリカのペンフレンドから誕生日プレゼントをもらいました」

双眼鏡のような形をしていて、覗きながらレバーをカチャカチャと押すと次々にイエローストーン国立公園の風景が立体的に映るのだ。当時(1950年代)の日本では見たことなかったので私にとっては宝物だった。

「大人になっても書けないアンタが何で小学生の時に……」
「英語ですか。ローマ字習いましたよ」
「ローマ字?」
「アルファベットだけで大丈夫です。協会からね。英文が何行か書いた文書が来て、この通り書いて次の住所に手紙を送れば外国から素晴らしいプレゼント……」
「ちょっと待った。協会って何だ?」と先輩は話の腰を折る。

確かユネスコ・コレスポンデンス協会と記憶しているが、違うかも知れない。65年以上前のことなので記憶が定かでない。意味も分からないまま書いて送ったら、忘れた頃に分厚い郵便物が届いてビックリした。開けて見ると美しい風景や華やかな若い男女の写真がいっぱい。全て外国語なので何のことかサッパリ分からなかったが嬉しかった。

郵便料金だけでこんなに綺麗な外国の写真が手に入るとは有り難い。大人になってから考えると私は知らずに観光パンフレットを要求したのだ。考えてみれば罪なことをしたものだ。日帰り旅行をする余裕もないのに海外旅行の資料を要求したのだ。それにしても汚いあばら家によく届けてくれたものだ。郵便配達員は首を傾げていたに違いない。

ユネスコ・コレスポンデンス協会?のサービスは海外ペンパル紹介、手紙の翻訳、そして特別企画「こう書けばコレがもらえる」だった。今考えると子供相手の怪しげな英語ビジネスとの印象だ。料金は子供の小遣いで払える程度。果たして儲かっていたのだろうか。それともボランティア? それにしても1950年代は混沌として何でも有りの時代だった。

「英語も分からないのにアメリカ人と文通してたのか」
「コレスポンデンス協会で翻訳してくれるので、それを見ながら書くのです」
「大袈裟に言えば詐欺だな」
「何でですか?」
「文通相手のアメリカ人に英語ができると思わせている。とんだ三角野郎だ」
「四角四面の真面目人間ですよ」
「その実態は怠け者」
「今じゃ動物園のナマケモノ」
「なるほど、エサは年金、家は檻(おり)」

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2017年09月30日

気分が一番大切

やってはいけない事をしてしまった。それは自分の歌を録音して聞くことである。12年前にカラオケを始めた時、これだけはやらないと決めていた。聞いたらガッカリして歌う気がしなくなると思ったからだ。やっぱりガッカリしたが止める気はしなかった。

12年とは途轍もなく長い時間だ。5歳でフィギュアスケートを始めた少女が世界の頂点に立つまでの時間である。それなのに私の時間は何も残さずにアッと思う間に過ぎ去った。馬齢を重ねるとは正にこのことだ。

ところで、65歳でカラオケを始めて10年たったとき、洋楽カラオケに手をつけた。そして2
年たった。結果として好かったと思う。音痴は直らないが言葉は繰り返すことにより口が回るようになる。何となく進歩したような気分になるから有難い。

将棋も玉突きも繰り返して練習したが何の成果もなかった。英語の歌は意味が分からなくても口が回れば、歌えたような気がするから面白い。私にとっては気分が一番大切だ。周囲の人には申し訳ないが聴いてもらえるような歌ではない。それでも人前で歌えば百倍も楽しい。我ながら困った性格だ。自分がこんな人間とは知らなかった。

スポーツや芸能・ゲーム一切できない。いろいろやった結果、自分には生まれつき能力がないのだと諦めた。当然仕事も出来ない。曲がりなりにも英語を使う仕事だった。口が回らない私は繰り返し繰り返し一生懸命練習した。そのせいで本当は怠け者なのに真面目な努力家と誤解された。退職後は化けの皮も少しずつ剥がれ、今は完全脱皮状態である。

当時は仕事だから口が回るようになるまで繰り返すより仕方がなかった。お蔭で繰り返す癖がついた。私にとっては良い癖だ。同じことを何回繰り返しても厭きることがない。そういうものだと思っている。お金もかからないしね。おまけに健康にも良いのだから止められない。

「アンタが英語の歌をね〜」
「ホンの真似事です」
「心配してるんだよ。大丈夫か?」
「訛っていますが何とか」
「そういえばインド人は訛っているな、タンキューとかティンクとかね」
「私の場合は国とか地方は関係ないのです。中波訛りですから」
「中波って何だ?」
中波をご存知ない方はお手数ですがこちらをClick! →複雑な家族関係

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2017年09月23日

子供たちの小遣い稼ぎ

前回ガラスを売って映画を観た話をすると先輩は異議を唱えた。
「何で、そこにガラスなんかが埋まっていると分かるんだ」
「小さな畑の片隅には焼け残った物を埋めた穴があるのです」
「何で畑に埋めるんだ肥料にもならんぞ」
「皆そうしてるよ。何でかな?」

元々狭い土地を無理をして畑にしているのだ。地上にガラクタを置いておく余裕は無いから埋めている。それが5年もして経済が上向けば資源に変わるのだから面白い。子供でも金が稼げることが何よりも嬉しかった。大人になった気分で映画館に行った。

最初に見たのが「毒薬と老嬢」、次に観たのが「夜も昼も」だったかな。いずれもケイリー・グラントが主演。内容などどうでもよかった。夢の国アメリカを感じれば好いのだ。英語も分からないのにアメリカ人と文通していた。「ユネスココレスポンデンス協会?」とかで翻訳をしてくれる。料金も安くガラスの稼ぎで間に合った。

ところで焼跡資源の掘り起こしは組織的に行われた。リーダーは子供はつらいよの魚屋真ちゃんだった。彼の家には商売で使うリヤカーと秤があったからだ。集めたガラス等を決められた日に真ちゃんの家の前に持って行く。彼はそれを量ってメモをする。グループは10人くらい居たと思う。ガラス、鉄、銅とか分けるが殆どガラスだ。種別に分けて全部まとめてクズ屋に売るのだ。

2,3人がリヤカーを押して、みんなゾロゾロと付いて行く。渋谷は坂が多いので上がり下がりは皆で協力して運ぶ。上がるときは皆で押し、下がるときは交代で引く。クズ屋は1キロほど先だが幾ら貰えるか楽しみにして頑張る。

売ったらその場で真ちゃんはメモに書いた重量に基づいてお金を分配してくれる。言えば簡単だが計算も必要だしつり銭の問題もある。真ちゃんはいつも魚を売りに行っているので手際がいい。このときばかりは15歳の真ちゃんが頼もしい大人に見えた。
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2017年09月16日

地下資源で映画を観る

「高校時代から洋画ばかり観ていたよ」と先輩。
「私はアメリカ映画が大好きでね。小学生の頃から観てましたよ」
「金はどうした? 貧乏人なんだろう」
「お金は米軍空襲の残骸を掘り起こして作りました」

1950年には私も10歳になっていた。一面の焼け野原は復興され、生活は苦しいが地域社会は機能していた。そんな状況でも得体の知れない人々があちこちに点在していた。彼らは町内会にも入らず、地域住民は嫌っていた。養父は土地の人だが、私ら母子4人はよそ者だ。得体の知れない人と思われていたかも知れない。

「腹減ったなぁ。車庫にでも行くか」と次兄に誘われた。東京都交通局が運営している青山車庫のことである。戦争で焼け残った金属やガラクタも在る所には有った。その一つが青山車庫である。家から徒歩10分くらいだ。ガラクタ集積所は都電教習所の線路から少し離れた所にあり、時々訓練用電車が通過するだけだった。

電車は通過したばかりで人気のないことを確認して、二人でやっと持てる大きさの鉄棒を持ち出した。一人で持てるような廃材は既に持ち去られていた。銅なら金になるが鉄は安い。馴染みのクズ屋に持って行くと、足元をみられて8円しかくれなかった。甘く味付けされた小さなパンを買って半分ずつ食べた。この「仕事」も終わりだなと思った。

ところが状況が変わった。朝鮮戦争が始まると景気が良くなり、金属やガラスの値段が上がった。人々は食料不足対策でやっていた畑を止めて、その下を掘り返した。焼け跡の廃材目当てだ。電線は銅を使っているので高く売れるが滅多に掘り出せない。ガラスはザクザクと出てくるが資源としては一番安い。

ガラスを二貫目(7.5kg)集めると50円になるので、一番安い映画館(百軒店のテアトルSS)に行って、40円で洋画を観て10円でパンフレットを買った。今になると集めたパンフレットを無くしたのが痛恨の極みだ。職を求めて住居を転々とする中で全ての物を失ってしまったのだ。気づいてみれば手元に残ったのは母子で写った1枚の写真だけだった。

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2017年09月09日

ボートは漂っている

中島公園の近所に転居して早くも16年たった。夏のレジャーとして人気の高いボートだが苦手なので乗ったことがない。ただテレビに出たときに1回だけ乗る機会があった。たった15分だが嬉しい体験だ。8年前、UHB「トークDE北海道」の「豊平川花火の穴場、中島公園」という番組を収録した時のことである。

よせばいいのに「花火を見るにはボートからが一番ですよ」とか言ってしまった。地元では新住民とか言われていたのに、突然中島公園の達人とか紹介されてテンションが上がってしまったのだ。案内人の立場もわきまえず、いつの間にか想像でものを言っていた。いつもボートに乗って花火を見る人を羨ましく思っていたからだと思う。

リポーターさんに「じゃあボートに乗りましょう」と言われて焦った。ボートに関しては恥ずかしい思い出がある。例の転覆事故以来ボートに乗ったことがないのだ。蚊の鳴くような声で「漕げないのですが」と言ったら、「いいですよ。私が漕ぎますから」と、あっさり言ってくれた。有難いけれど情けない。

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たった15分だがボートに乗った。「中島パフェ」:中島公園から見る花火大会の変遷

本来ならば中島公園の案内役である私が、ボートを漕いで花火鑑賞スポットを案内すべきである。「達人」としてはとても恥ずかしい。私が名乗った訳ではないがカメラの前では否定もできない。煮えきらないまま達人を演じた。人生は芝居のごとしと言う人もいるが。

「芝居をしています」
「アンタがねぇ。嘘だろう」
「三分間のステージです」
「なんだ、カラオケかぁ」
「私にとっては楽しい猿芝居です」
「主役、脇役、悪役、いろいろあるだろう。アンタの役は?」
「子役です」
「ずうずうしい奴だな。年寄のくせに」
「幼児と老人は下手でも許される。自慢じゃないけど老人中の老人、最高齢です」

伴奏を付け、拍手までしてくれるのだから有難い。オマケに金もかからない。みっともないから止めろと言われても止められる訳がない。代りがあれば話は別だ。何かあるかな?

ところで半世紀ぶりにボートに乗る機会に恵まれた。乗ってみるとやっぱり楽しい。中島公園が違うアングルから見られるのだ。ボートを漕ぐ練習をして、ボート上から中島公園を撮ってみたい。そう思っても嫌な記憶が足を引っ張っぱり未だに実現していない。今年こそやるぞと思って8年たった。年を取ると年月が急速に過ぎて行くのに、私のボートはゆっくりと漂っている。進んでいるのか止まっているのかさえ分からない。

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