2020年09月12日
幻覚が見えるぞ!
2020年09月05日
深海竜宮病院
2020年09月04日
乙姫様
2020年08月10日
港のヨーコ
夜の街で働くオトコは意外に優しい。ここにゃ沢山いるからねエとは言ったものの、傷心の男を気遣っている。
…アンタ あの娘の何なのさ
そのオトコにしてみれば、決して無関心ではいられない。
仁義を欠いちゃ いられやしないよ
オンナの嫉妬がアリアリだ。多分、ヨーコは優しくて美しく、モテる女性。お客を取られては自尊心を傷つけられるし、収入にも影響する。怒る気持ちはよく分かる。モテるヨーコに罪があるのだろうか。
エイトビートで激しく踊る横浜ジルバ、通称ハマジル。横浜から横須賀、更に佐世保まで流れて来た港のヨーコ。ネイビーの街にはハマジルがよく似合う。上手に踊る娘も多い。港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ、そしてサセボ。
ジルバを激しく踊る、無口なヨーコ。動と静、その振幅が大きいのがヨーコの魅力。港のヨーコは踊りまくって、孤独感を吹き飛ばす! 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ〜♪♪
客がどこかをさわったって 店をとびだして いっちまった
「おかしいのは、貴方です。酒場の女がアバズレばかりなら、誰も行きません。純情な娘も居るから店は繁盛するのです。それに、ヨーコは今時珍しい親孝行。兄が三人もいるのに、病に伏した両親の面倒を一人で見てるのです。分かりましたか!」
「…アンタ あの娘の何なのさ」
「お兄さんだ」
「しっかりせい! アホゥ」
2020年08月05日
カテゴリの説明 〜私の半生〜

戦争から敗戦への激動の時代は、私にとっては激変の時代。国破れても個人の闘いは続く。生命の危険を感じた父は母子4人を残して逃亡、行方不明となる。残された4人は豪邸から焼け跡のバラックに転居。それでも幼児の私は苦しくも淋しくもない。一つひとつの出来事を一コマの絵として記憶していても、なぜか感情を伴っていないのだ。
カテゴリ

小学校に入ってから3年間は金で悩んだが、4年生の時、中学生以上でないと採用されない新聞配達のアルバイトを得た。運がついたのだ。その代わり収入は中学生の半分以下だった。それでも学費の残りで映画も観れたし買い食いもできた。収入を得たら金で、うなされることは無くなった。何が何円、何が何円の連続の声、最後に「わー」と叫んで目を覚ます夢を見なくなったのだ。
カテゴリ

新聞配達の他に木工所でもアルバイトをした。テレビも電子ゲームも無い時代は、それでも遊ぶ時間があった。図書室と理科実験室のある学校は大好きだった。卒業したら就職するので最後の学校生活を思い切り楽しんだ。今でも友や先生のことを思い出す。
カテゴリ

フルタイムの仕事は苦しかった。いろいろな仕事を一生懸命やった結果、肉体労働は無理な体と自覚した。意外にも国家公務員試験は学歴を受験資格としないことを知った。航空管制官試験は専門科目が英語なので独学も出来そうだ。この時も運がついた。世の中はオリンピック景気に浮かれ、英語が出来るのに安月給の公務員に応募する人は少なかった。後で知ったことだが大学(短大)新卒者は僅かだった。合格者の半数は採用を辞退した。お陰で採用された。

カテゴリ

自由になったのだから何でもやってみようと意欲満々だが出来ることは何もない。そこで中島公園に関するサイトを開設した。5年たったら北海道新聞のコラム「朝の食卓」の執筆依頼があった。「HP中島パフェ運営」として2009年から2年間書いた。文章はろくろく書けないのに運がついた。中島公園についての新聞、テレビ、ラジオ、情報誌等の取材には積極的に応じた。

退職後は自由で楽しいので、いろいろやってみた。はしゃぎ過ぎて体力以上に動いたせいで2回ばかり体調を崩して入院した。そこで考えたのが私自身の定年制。75歳定年と決めたが2年遅れて全てのボランティア活動を止めた。既にシルバーセンターのアルバイトも止めていたので、ひたすら駄文を綴りオンチに歌って楽しんだ。

2020年08月04日
悲しき80歳
2020年08月01日
大人の話
2020年07月25日
横浜ジルバ
最近になって知ったことだが、ジルバは終戦(1945年)後、米軍兵士が踊るのを日本人がまねして踊ったのが始まりと言う。ジターバグ (Jitterbug) が転じて、ジラバ、更に転じてジルバで定着した。そして横浜で流行ったのが横浜ジルバ、通称ハマジル。横浜と横須賀は近い、横須賀とS市は米海軍基地をもつ軍港、S市の若者がハマジルの影響を受けるのはうなずける。
ブルーハワイ
ホノルル到着後、最初のイベントはホノルル市長室訪問。
23日午前、訪れたホーリー・ネイティビィティ小中学校では、全校生徒による歌と踊りの歓迎を受けた。そして、南国風味のとても美味しいジュースを頂いた。思いもよらぬおもてなしに感動。

このとき私は63歳、今年は80歳、時がたつのが早過ぎる。子供の頃、「憧れのハワイ航路」は叶わぬ夢だった。まさか自分が行くとは想像もしなかった。現在、世界中に行き渡る航空網は、温暖化の原因となり、コロナウイルスを世界中にばらまいている。海外旅行は「一生に一度の夢」の方が、環境にいいと思う。
2020年07月18日
七つの子ファミリー
2020年07月11日
映画「眼下の敵」を思い出す
2020年07月04日
「乾ドック」生活
2020年06月27日
風に吹かれて
夜の街、新宿
2020年06月20日
ボッタクリ
2020年06月13日
ダメな親ほど子は育つ
2020年06月06日
お富さん
お富さん 昭和29年(1954年)
作詞:山崎正 作曲:渡久地政信 歌唱:春日八郎
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店(げんやだな)
風も沁みるよ 傷の跡
久しぶりだな お富さん
今じゃ呼び名も 切られの与三よ
これで一分じゃ お富さん
エーサオー すまされめえ
かけちゃいけない 他人の花に
情けかけたが 身のさだめ
愚痴はよそうぜ お富さん
せめて今夜は さしつさされつ
飲んで明かそよ お富さん
エーサオー 茶わん酒
逢えばなつかし 語るも夢さ
誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
ついてくる気か お富さん
命みじかく 渡る浮世は
雨もつらいぜ お富さん
エーサオー 地獄雨
穏やかな心

2020年05月30日
憧れの艦隊勤務
2020年05月23日
さすらい
夜がまた来る 思い出つれて
おれを泣かせに 足音もなく
なにをいまさら つらくはないが
旅の灯りが 遠く遠くうるむよ
過ぎてゆくのさ 夜風のように
恋に生きたら 楽しかろうが
どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ
それでなくとも 遙かな旅路
いつになったら この淋しさが
消える日があろ 今日も今日も旅ゆく
憂鬱な1週間
2020年05月16日
チャコ
宮川哲夫作詞、渡久地政信作曲
俺のこころを知りながら なんでだまって消えたんだ。
チャコチャコ 酒場に咲いた花だけど
あの娘は可憐な可憐な娘だったよ
チャコチャコ 忘れはしないいつまでも
あの日の悲しい悲しいまなざしを
チャコチャコ 返っておくれもう一度
俺の切ないせつないこの胸に
母、肝心な人
2020年05月09日
我慢一筋
2020年05月02日
OK牧場の決闘
動くな!
パチンコ問題は全店休業と言うことで解決の模様だが、来店者の的外れな言い訳が気になった。「俺は覚悟している」とか、感染の仲介者になる可能性など、無視して粋がっていた。それは違うぞ、と言いたいが、好く分からないので一生懸命考えた。
「動くな!」は当面の手段、いわゆる戦術である。動けば感染増で医療従事者を苦しめ、結果として医療は崩壊する。戦術的な勝利を重ねつつ次を考えることが大切だ。短期的にはPCR検査体制の整備、中長期的には抗体検査で現状を把握して、制限解除の時期を探る。決め手はワクチンと特効薬の開発である。
2020年04月25日
ゴメンナサイは万能薬
「ウンコしてません。臭くないはずですよ」
「二人しか居ないんだから、アンタのが臭いに決まってるの!」
「ごめんなさい。オナラだけなんですが臭かったですか?」
「まるで毒ガス! ムッーと来たわ」
2020年04月18日
乗艦実習の思い出
船の建造、修理、係船、荷役作業などのために築造された設備及び施設の総称である。船渠ともいう。単にドックと言った場合は乾ドック(ドライドック)を指すことが多い。船体を水から上げることは「上架」と呼ばれる。
2020年04月11日
電信員の仕事
2020年04月04日
EBBは何の略?
EBBと言っても何の略か分からないと思う。60年以上前の体験だが、600人を超える日本人が参加した。彼等もほとんど記憶にないだろう。私の記憶も曖昧だが、現代社会では考えられないような出来事だから書き残して置きたい。
18歳の誕生日を護衛艦「あさかぜ」艦上で迎えた。たった6ヶ月の乗船実習だが懐かしい思い出がいっぱいある。あさかぜは当時の海上自衛隊が保有する最高性能を誇る米国製の駆逐艦だった。最大戦速37.4ノットは当時保有していたフリゲート艦の倍以上のスピードである。体験できたのは28ノットまでだが凄く速い。
2隻の護衛艦で編成された第5護衛隊は海自の主力として、日米合同演習に参加した。それはEBB(Exercise Base Ball)というニック・ネームが付けられていた。当時は今と違って米国との合同演習は秘密にしていたと思う。事情通の話では日の丸で行くか、秘匿のため星条旗を掲げて行くか議論になったと言う。
米海軍の航空母艦を主力とする機動部隊との合同演習中に、空母からの洋上給油訓練も実施した。空母と護衛艦を併走させて給油してもらうのだ。とにかく小さな護衛艦が木の葉のように揺れているのに空母は微動もしない。多くの水兵が飛行甲板で腕を組んで見ているのだ。大きさの違いを感じさせる出来事だった。
私達3人の実習生は電信室勤務だが、交代で艦橋電話員もする。米軍との通話は言うまでもなく英語だが、出来ないのでカタカナでメモして一生懸命暗記した。今じゃあり得ないことだ。
「コンデム・ファイフ・ジス・イズ・コンサブロン・ツリー・シグナル(内容は旗流信号と同じ)・フォーローズ・オバー」とか、こんな風な感じで米海軍が護衛艦を呼び出す。
シグナルなら艦橋電話員が取り、そのまま伝える。メッセージなら、英語の分かる通信士(士官)に替わってもらうが、殆どシグナルの送受信だった。今でも覚えている信号用語は、デジッグ、イベント、スタンバイ、エクスキュートぐらいだ。
旗艦からの命令は旗流信号と無電で同時に伝えられる。それを受けて「スタンバイ、……エクスキュート」と艦長に伝えると、それが艦長の命令になり、艦が針路を変えたりする。まるで自分が艦を動かしているような錯覚に陥り、凄く気分がいい。
記憶をたどって書いている内に、つい長くなってしまった。私の古き良き思い出は皆さまにとっては退屈千万な話かも知れない。それなのに続きを書きたくなって(^-^;) ゴメン …… 続く
2020年03月28日
ローハイド
Move them on hit them up
ムーブ ゼム オン ヒット ゼム アップ
Cut them out ride them in
カット ゼム アウト ライドゼム イン
妹、私達は変な家族
「なにも無いと言えば嘘にになるけど話したくない」
何か言いたいことがあるのだと察してズバリと聞いた。
「体の具合が悪いんじゃないか?」
2020年03月21日
お母さん
「いい年して冗談じゃない、あんたはショウちゃんのお父さんだからお父さんでいいの。分かった!」と一蹴された。
2020年03月14日
『妻のトリセツ』批判
2020年03月07日
ジャンバラヤ
「この歌どういう意味なの」とBさんに聞かれた。
「何だか分からないんですよ」
「そう」
「調子いいから好きです」
「そうだね」
Thibodaux, Fontaineaux, the place is buzzin',
kinfolk come to see Yvonne by the dozen.
Dress in style and go hog wild, me oh my oh.
Son of a gun, we'll have big fun on the bayou.
(1952年7月 作詞・作曲ハンク・ウィリアムズ)
気晴らし散歩

藻山橋(南8西4)から鴨々川上流を見ると高層ビルが映っていた。ビルに重なるように鯉が1匹見える。今は冬だから鯉は殆ど見られない。夏だったら沢山の鯉が泳いで生じるトレイルや波でビルの形を崩す。そして自然の力で戻ったりする。

これも同じ橋から見た鴨々川だが一部凍っている。マガモは氷上でジッとしていたかと思うと、チャポンと川に飛び込み泳いだりするし、飛び去ることもある。そのたびに風景が変わる。川面が全面凍結した後に雪が降ると、純白で美しい世界に様変わりする。ところで、向こうに人道橋が見えるが橋の下辺りも融けている。

この日は、人道橋から下流の藻岩橋を見ると薄氷が張っていた。マガモがそれを壊しながら泳いでいた。冬の鴨々川は水と氷とマガモと鯉で風景をつくっている。そして時々、オシドリやダイサギが来る。もちろん周辺にはカラス、ハト、スズメが居る。

3月2日に撮った一枚。薄野鯉放流場を後にして中島公園に向かった。この先にも遊歩道が続いている。公園まで約150m、放流場には柵があるから鯉は来れないが、水鳥は飛んで来れる。マガモはもちろん、ダイサギ、オシドリもこの先で見たことがある。