2020年09月12日

幻覚が見えるぞ!

ここは人里離れた深海竜宮病院(仮称)、いよいよ明日は手術だ。足の付け根あたりから肉を切り取って、手術で取った舌の部分に張り付ける。つまり、自分の足肉を舌にするのだ。私にとっては一世一代の大手術だが、大したことではないらしい。

現に同室の小父さんは足の骨を取って首の骨にして大変だったそうだ。歩けないし、首も回らない苦難苦闘が続いたが、リハビリを一生懸命やり、今は元気に歩き回っている。

世の中、私の知らないことばかりだ。舌の悪い所を切り取って、足の肉を接着するなんて、まるで接ぎ木だ。切ったり張ったり人間を植木のように扱ってしまうのが驚きだった。

ところで、新米の乙姫様が手術準備ということで、身体の真ん中あたりの毛を剃りに来た。「初めてなので、先輩に見てもらってもいいですか」と聞くのだ。えっ、二人で見るの? 私だって初めてだから恥ずかしい。

足の付け根と言っても隣は珍宝、ハッキリした境界線はない。新米乙姫様はこのくらいですか、このくらいですかと聞く。先輩乙姫様はもっと中、もっと中と言う。私はもういいよと思う。立場の違いで三者三様である。

剃っている内に、赤い点が見えた。血を見た新米さんは痛いですか、痛いですかと真剣な目つきで聞くのだが、私は痛くない。皮膚が弱いから、かいただけでも血が出るのだ。

この分では、痛くなくても、痛くされそうな感じなので真剣に見守る。新米さんも傷つけたら大変だと思い真剣に剃る。二人とも恥ずかしさなど吹っ飛んだ。先輩はどうだったのだろう。凄く冷静な感じだ。手術ではないのだから当然だ。

ところで、明日の手術は全身麻酔だから寝てるうちに終わるそうだ。同室の小父さんは、麻酔がかかると、幻覚が見える。凄く綺麗だぞと励ましてくれた。それを楽しみにして手術に挑みたい。

手術後のことだが、幻覚のようなものを見た。麻酔から覚めた時、手術室から廊下へとストレチャーで運ばれる間に、手術室風景のビデオを見た。それは、車窓から見る風景のように流れていた。これは幻覚だろうか。最初に見たときはリアルと感じ、次第に幻覚のような気がして来た。
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2020年09月05日

深海竜宮病院

定年退職後は静かに幸せに暮らしていたが、どうやら今年は、波乱含みのようだ。舌がんに罹り手術をした。今度こそは運が尽きたかなと思ったが、そうでもなかった。

入院先を深海竜宮病院と思うことにした。8月はうだる様な暑さというのに、ここは海底のように涼しい。コロナ禍で面会禁止なので、現実の社会と断絶した竜宮城みたいだ。

面会禁止は徹底されている。例えば家族が必要の物品を届けに来たとしても、直接渡されることはない。病院スタッフを介して渡される。中にいる私にとっては深海に居るのと変わりはない。

ところが、入院生活が大好きになった。そこには、私を看護してくれる大勢のナースたちがいたからだ。輪番制なので担当がクルクル変わる。お陰様で何十人ものナースのお世話になることができた。

ナースの皆さんはとても若くて優しい。制服を身に着けているので、どなたがどなたかサッパリ分からない。仕方がないので全部まとめて乙姫様と呼ぶことにした。もちろん、ここだけの話。

しかし、例外もある。二人のナースは特徴がハッキリしているのでよく分かる。一人は小さくて可愛いワカメちゃんのような方。もう一人はワカメの母親のサザエさんのような方である。

ワカメちゃんは「痛かったり、苦しかったりしたら、このボタンを押すんだよ。直ぐ行くからね」と頼もしい。丸ぽちゃで可愛くて、いつも優しくて一生懸命だ。

サザエさんは、私が手術後数時間で出血して、再手術が決まった時、ストレチャーで運ばれる私に寄り添ってくれた。「大丈夫だから、大丈夫だからね」と声をかけ続けて、励ましてくれた。私はマナ板の鯉だから、手術チームを信じて何の心配もしていなかったが、その気持ちがとても嬉しかった。

そして、その他大勢のナースは、昔のスチュワーデスのように、制服姿が凛々しく粒ぞろい、しかも優しい。私はワカメちゃん、サザエさん、乙姫様が行き交う深海の竜宮病院が大好きになった。

ところで、今年80歳にもなるのに、手術の経験がないことが、凄く恥ずかしかった。病気が話題になると、話すことがなくて隅で小さくなっていたものだ。退院した今は、自分も一人前の老人になれたような気がして誇らしい。

しかし、けっこう苦しかったのに軽いステージ2とは情けない。何をやっても人に負ける。病気の世界でも同じだった。ちなみにドラマ「スチュワーデス物語」の堀ちえみさんはステージ4から希望のステージへ。私も、いつの日かSSNカラオケクラブ例会のステージに立てることを楽しみにしている。
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2020年09月04日

乙姫様

乙姫様とは深海竜宮病院で働くナースの総称
深海竜宮病院(仮名)では多数のナースのお世話になったが、皆、スラリとした若い女性だった。しかも、同じユニフォームを着ているので区別がつかない。仕方がないので皆まとめて乙姫様と呼ぶことにした。

夜中に苦しんで優しく看護してもらっても、翌日になると何方が対応してくれたか分からない。お礼の一言も口に出せなかったことが気になっている。

遠い昔を思い起こせば、日頃付き合いの薄いお婆さんを見分けるのは難しかった。服装、体格、眼鏡、髪の色で判別した。その他は全て纏めてお婆さんと呼ぶしかなかった。歳が大きく離れている人を見分けるのはホントに難しい。

スラリとして小顔、孫ほど若くて同じ服をきていたから、見分けるのは至難の業だった。
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2020年08月10日

港のヨーコ

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は阿木燿子作詞で1975年のヒット曲。ある男が好きな女を探して歩く、セリフだけの曲。探しに行く先々で話を聞くたびに、女の素性が浮かび上がってくる感じが面白い。状況を自分なりに考えてみた。茶色の文字は歌詞からの引用。

ワルイなあ 他をあたってくれよ
夜の街で働くオトコは意外に優しい。ここにゃ沢山いるからねエとは言ったものの、傷心の男を気遣っている。
…アンタ あの娘の何なのさ
そのオトコにしてみれば、決して無関心ではいられない。

マリのお客をとったってサ
仁義を欠いちゃ いられやしないよ
オンナの嫉妬がアリアリだ。多分、ヨーコは優しくて美しく、モテる女性。お客を取られては自尊心を傷つけられるし、収入にも影響する。怒る気持ちはよく分かる。モテるヨーコに罪があるのだろうか。

ハマから流れて来た娘だね 
ジルバがとっても上手くってよお
エイトビートで激しく踊る横浜ジルバ、通称ハマジル。横浜から横須賀、更に佐世保まで流れて来た港のヨーコ。ネイビーの街にはハマジルがよく似合う。上手に踊る娘も多い。港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ、そしてサセボ。

あんまり何も云わない娘だったけど 
仔猫と話していたっけねエ
ジルバを激しく踊る、無口なヨーコ。動と静、その振幅が大きいのがヨーコの魅力。港のヨーコは踊りまくって、孤独感を吹き飛ばす! 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ〜♪♪

客がどこかをさわったって 店をとびだして いっちまった
ウブなネンネじゃあるまいし どうにかしてるよ あの娘

「おかしいのは、貴方です。酒場の女がアバズレばかりなら、誰も行きません。純情な娘も居るから店は繁盛するのです。それに、ヨーコは今時珍しい親孝行。兄が三人もいるのに、病に伏した両親の面倒を一人で見てるのです。分かりましたか!」
…アンタ あの娘の何なのさ
「お兄さんだ」
「しっかりせい! アホゥ」
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2020年08月05日

カテゴリの説明 〜私の半生〜

カテゴリの説明
自分史のつもりで書いているが、老後は穏やかに過ごしたいので事実に基づいたフィクションとした。人物は全て仮名、地名及び学校等機関名は一部仮名、時代だけは正確を心掛けている。

カテゴリ 家幼児時代
戦争から敗戦への激動の時代は、私にとっては激変の時代。国破れても個人の闘いは続く。生命の危険を感じた父は母子4人を残して逃亡、行方不明となる。残された4人は豪邸から焼け跡のバラックに転居。それでも幼児の私は苦しくも淋しくもない。一つひとつの出来事を一コマの絵として記憶していても、なぜか感情を伴っていないのだ。
 
カテゴリ 猫小学時代
小学校に入ってから3年間は金で悩んだが、4年生の時、中学生以上でないと採用されない新聞配達のアルバイトを得た。運がついたのだ。その代わり収入は中学生の半分以下だった。それでも学費の残りで映画も観れたし買い食いもできた。収入を得たら金で、うなされることは無くなった。何が何円、何が何円の連続の声、最後に「わー」と叫んで目を覚ます夢を見なくなったのだ。
  
カテゴリ 本中学時代
新聞配達の他に木工所でもアルバイトをした。テレビも電子ゲームも無い時代は、それでも遊ぶ時間があった。図書室と理科実験室のある学校は大好きだった。卒業したら就職するので最後の学校生活を思い切り楽しんだ。今でも友や先生のことを思い出す。

カテゴリ ふらふら転職時代(15-23歳) 
フルタイムの仕事は苦しかった。いろいろな仕事を一生懸命やった結果、肉体労働は無理な体と自覚した。意外にも国家公務員試験は学歴を受験資格としないことを知った。航空管制官試験は専門科目が英語なので独学も出来そうだ。この時も運がついた。世の中はオリンピック景気に浮かれ、英語が出来るのに安月給の公務員に応募する人は少なかった。後で知ったことだが大学(短大)新卒者は僅かだった。合格者の半数は採用を辞退した。お陰で採用された。

カテゴリ 飛行機定職職時代(24-60歳)
ノロマで不器用では管制官は務まらない。しかし9年間も職を転々としたので、世の中には絶対出来ないことと、我慢すれば出来ることがあることを知っていた。我慢に我慢を重ねて定年まで勤めると決めた。60歳6ヶ月で退職。運よくハッピーリタイアメント!
 
カテゴリ exclamation×2自由時代(61-74歳)
自由になったのだから何でもやってみようと意欲満々だが出来ることは何もない。そこで中島公園に関するサイトを開設した。5年たったら北海道新聞のコラム「朝の食卓」の執筆依頼があった。「HP中島パフェ運営」として2009年から2年間書いた。文章はろくろく書けないのに運がついた。中島公園についての新聞、テレビ、ラジオ、情報誌等の取材には積極的に応じた。

カテゴリ 眠い(睡眠)後期高齢(75-79歳)
退職後は自由で楽しいので、いろいろやってみた。はしゃぎ過ぎて体力以上に動いたせいで2回ばかり体調を崩して入院した。そこで考えたのが私自身の定年制。75歳定年と決めたが2年遅れて全てのボランティア活動を止めた。既にシルバーセンターのアルバイトも止めていたので、ひたすら駄文を綴りオンチに歌って楽しんだ。

カテゴリクリスマス80歳以降
80歳の誕生日は無事に迎えると思っていたら、2020年に初めて手術をした。無傷の時代は終わり、新しいステージにはいったと自覚した。70代と80代は全く違うと気づき、このカテゴリを追加した。
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2020年08月04日

悲しき80歳

去年79歳になった私は、80歳なんて軽くなれると思っていた。しかし、これは大間違い。病に罹り、8月いっぱいは入院することになった。次の更新は9月以降になる予定。それを含めての人生だが、続きは退院後に書きたいと思う。長い休みになるが、過去記事についても、読んで頂ければ大変有難い。

このブログは自分史のつもりで書いている。現在はネットの時代、普通の人が書く自分史も、好いのではないかと思っている。ブログだから、お金はかからないし、一人でも二人でも読んでくれる人がいれば幸せだ。ネットが無い時代なら、私の書いたものなど誰も読んでくれないだろう。

右サイドページのカテゴリが幼年時代から後期高齢までの自分史。お金持ちの幼年時代、一転ドカ貧の小学時代、アルバイトや交友関係で楽しんだ中学時代、職を転々とした転職時代、仕事が苦手で苦労した定職時代、この時代は、家族に対する義務で押しつぶされそうな感じの、不自由な時代だった

仕事から解放され自由に楽しんだ自由時代。そこから老境に至る後期高齢への流れを書いたつもり。ここからが現在進行形、自由だから自分の知恵が試される人生だ。自信はないけれど、何事も自分の責任で楽しめる。結果は悪くても自分のせいだと割り切れば、勉強になる。

…現在を生きながら、同時に過去を生きることは、どうしてこれほど甘美なのだろうか。…記憶の中の僕は、もう失われてしまっていて、二度と生きることが出来ない。だからこれほど、懐かしいのだろうか。(小説『本心』平野啓一郎より引用)

つぎの更新は9月以降になりますが、訪問をお待ちします。よろしくお願いいたします。
タグ:カテゴリ
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2020年08月01日

大人の話

山の手大空襲で渋谷の77%が焼失し、渋谷は瓦礫の街となった。被災者は焼け跡に残された焼トタンを主材料にして急場凌ぎのバラックを建てた。1年経過した1946年夏になると90%は安普請ながら、家らしい住まいに建て替えられた。

我が家も新築するつもりだったが、養父が肺病に罹り建築資金を失った。それから3年もたつと、町内唯一のバラックになってしまった。これは子供にとって凄く恥ずかしいことだった。病気だから仕方がないとは言えない。多くの家庭が途轍もない苦労を克服して、倹約に倹約を重ねて家を建てたのだ。

10歳の頃から新聞配達等のアルバイトをしたり、学校帰り区立図書館に寄ったり、街をブラブラして遊んだりしていた。惨めなバラックから離れることで、気分転換をしていたのだ。

そのころの私は、3時半に起きて新聞配達をしていた。我が家は6畳一間に6人寝る、超過密家族、そこに7人目が転がり込んできた。A子さんが親と喧嘩して家出したのだ。

A子さんは私より10歳上で、夜の街で働いていた。夜中に帰って来ると、母との話し声が聞こえる。いつも先輩のB子さんの話だ。当初はB子さんがいかに綺麗で、優しくて親切で、頼り甲斐のある女性か、嬉しそうに話すA子さんの声が耳に入った。

7人が雑魚寝している状況では、A子さんと母を除いて残りは5人。その内3人が鼾をかいていれば、皆が寝入っていると感じるのだろうか。ともかく、感情の赴くままに話に熱中していた。

それから、約1ヵ月後のある夜中、A子さんの泣き声で目が覚めた。B子さんにぼろ糞に罵られたと泣いていた。母が金に困っているとA子さんに言ったのだと思う。

だから、A子さんはB子さんに借金のお願いをして、拒絶されたのだ。彼女が、困ったときは何でも相談しなさいとか言ったのだと思う。「B子さんにアンタの宿六何してんだ!」と詰られたと母に訴え、悔しがって泣いていた。

実は、A子さんは妹の家庭教師と恋仲になり、交際を親に反対され、恋人と一緒に家出をしたのだ。学生さんとは清い交際なので同居はできない。そして、収入を失った彼を国家試験受験に専念させるため、夜昼掛け持ちで働いていた。

彼女は3年前まで隣に住んでいたのでよく知っている。凄く気が強い人で滅多に泣く人でない。貧乏な私にお菓子をくれたり、映画に連れて行ってくれたりした親切な人だった。

翌朝、いつもと同じように新聞配達で3時半に起きた。もちろん、皆、寝ている。突然声をかけられて驚いた。「おっす、早いね。頑張って来いよ」とA子さん。意外に元気なのでホッとした。夜中に泣いたことなどおくびにも出さない。

ところで、バラック時代は、小学生なのに、いろいろな状況で大人の話をよく聞いたものだ。人の悪口、金の話、きわどい話、ヒソヒソ喋っても六畳一間では全部聞こえた。
タグ:渋谷
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2020年07月25日

横浜ジルバ

何をやっても上手くいかない。歌って踊れれば人生はもっと楽しいはずだが、音痴で運動神経も鈍い。しかし、ジルバだけは昔取った杵柄と思っていたが、これもダメ。何かがおかしい。

所属する高齢者団体の文化祭でダンス・タイムがあった。テンポが早い曲がかかると踊りたがって身体がムズムズしてくる。気配を察したのか誘ってくれた親切な女性がいた。

これは有難いと踊ってはみたものの上手くいかない。運動神経が鈍いのは生まれつきだが、それだけではない。あれから半世紀以上もたっているが、何かが変わってる。

1958年の春、第5護衛隊(旗艦はたかぜ、僚艦あさかぜ)は修理艦としてドックに入っていたので仕事は減っていた。「乾ドック」生活は羽を伸ばす絶好のチャンスだ。エライ人の多くは休暇を取っている。二日に1回は入場料百円程度のダンスホールに行った。そこにはいつも乗艦実習中の同期生がいた。18歳の少年、数人が何となく集まる。

そこでジルバを教えてくれたのが、私と同じ護衛艦、あさかぜ水測員のS君と、旗艦はたかぜのF君だった。水測員は音波によって潜水艦を探知する職なので、音感の好い隊員が選抜されていた。S君は歌も上手いしダンスも得意だ。F君は通信設備の充実した旗艦の電信員でスポーツ万能。ダイナミックに踊るスタイルだ。

残りの同期生はダンスは初めてなので、素直に従った。今思うとかなり動きが激しく自由なジルバだった。片手を繋いで、もう片方は指先を下に向けてブラブラ。右手左手やたらに持ち替え、右に左にクルクル回る。

何も知らない私は、それがジルバと思っていたが、大間違い。話は半世紀後に戻るが、シニアの皆さんが踊っているのは、もっと優雅な感じだ。それは別にしても69歳のジイサンが18歳の気分になってはいけない。恥をかいて当然だ。

最近になって知ったことだが、ジルバは終戦(1945年)後、米軍兵士が踊るのを日本人がまねして踊ったのが始まりと言う。ジターバグ (Jitterbug) が転じて、ジラバ、更に転じてジルバで定着した。そして横浜で流行ったのが横浜ジルバ、通称ハマジル。横浜と横須賀は近い、横須賀とS市は米海軍基地をもつ軍港、S市の若者がハマジルの影響を受けるのはうなずける。

「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ」という歌が好きだ。セリフがいい。60年前の軍港、S市を思い出す。時代は違うが歌の背景が似ている。韓国に近いS市に居たのは「港のヨーコ」がリリースされる30年前。朝鮮戦争が休戦になってから5年たつが、戦争の影響が色濃く残っていた。歌は懐かしい遠い昔を思い出させる。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
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ブルーハワイ

私にとって歌は思い出、いつでもどこでも歌は思い出とともにある。Night and you and Blue Hawaii 夜ごと、君と ブルーハワイとでも言うのかな。とてもロマンチックだ。

だが、私が行ったのは老人福祉センター・ヒヨコ英語教室(仮称)御一行の団体旅行だ。あの頃、60代前半のメンバーは、若かった。その後の人生は、急坂を転げ落ちるように過ぎ去った。

2004年4月22日〜27日、ヒヨコ英語教室、恒例の修学研修旅行に参加した。場所は米国ハワイ州オアフ島。4月22日の午後、千歳空港に集合して、成田経由でホノルル空港には現地時間の9時ごろ到着した。先生を含め総勢16名の参加である。
  
ホノルル到着後、最初のイベントはホノルル市長室訪問。
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市長秘書と市の教育委員にご挨拶。そこで記念撮影。22日は時差もあり43時間に及ぶ、長い一日の最後は買物を楽しんだ。
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23日午前、訪れたホーリー・ネイティビィティ小中学校では、全校生徒による歌と踊りの歓迎を受けた。そして、南国風味のとても美味しいジュースを頂いた。思いもよらぬおもてなしに感動。
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午後はワイキキ公立小学校へ移動する。そこで授業参観させていただいた。研修旅行といっても内容は、観光旅行だろうと思って参加したので、心から感謝。二度と出来ない経験と思う。全員が学校からTシャツを頂き大喜び。女性たちはさっそく着こんだ。
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24日午前・午後オアフ島周遊観光、花木野鳥の多い島だ。夜はディナー・クルーズ、船上から見る夕陽がとても綺麗だった。
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このとき私は63歳、今年は80歳、時がたつのが早過ぎる。子供の頃、「憧れのハワイ航路」は叶わぬ夢だった。まさか自分が行くとは想像もしなかった。現在、世界中に行き渡る航空網は、温暖化の原因となり、コロナウイルスを世界中にばらまいている。海外旅行は「一生に一度の夢」の方が、環境にいいと思う。

25日午前はダイアモンドヘッド登山。
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午後はワイキキ・ビーチで海水浴を楽しんだ。
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そして自由行動、夜はフラダンスがあった。そこで聴くブルー・ハワイは格別だった。一度しか行ったことがないが、聴くごとに思い出している。私にとっては一生一度の夢。

26日(月)13時10分ホノルル空港出発、航空便のハワイ航路は満席だったので、16名はへとへとになって千歳に到着した。

ホーリー・ネイティビィティ小中学校で歓迎セレモニー、ワイキキ小学校での授業参観など、有意義な研修旅行だった。

今でもブルーハワイを聴くとき、そして歌うときも、楽しかったハワイ旅行を思い出す。16年前の私達は若かった。それがあっという間に80歳とは驚きだ。16年とは、生まれたばかりの赤ちゃんが高校に入るまでの時間だなんて、信じられない!
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2020年07月18日

七つの子ファミリー

今年は親子鴨が少ない。6月18日に9羽を連れた親子が居たそうだが見ていない。結局6月中に出会えたのは7羽の子を持つ親子だけ。寂しいけれど良いこともあった。それは親子の行動について知ることができたこと。僅かだが私にとっては新発見だ。

2020年6月4日 今年始めた見た親子鴨
地下鉄幌平橋駅近くの行啓通に沿って歩いていると、鴨々川岸辺の草むらの中に動くものが見えた。親子鴨だ。
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可愛い子が7羽居た。巣立ったばかりと思う。並んで泳ぐところを撮りたかったが、移動するときもバラバラに動き、一度も並んでくれない。親子と言ってもいろいろあるものだ。

6月6日 一昨日見たときと寝場所が同じだ
13時14分、以前見た同じ場所に親子が寝ていた。ここを寝場所と決めているらしい。20分くらい静かに見ていたら動き出した。先ず、母鴨が鴨々川に入り、子鴨が次々と川に入る。
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子等はエサを食べながら、母は子を見守りながら中洲を一周し、鴨々川本流に出て行った。時刻は13時54分、見つけてから40分の観察。ノンビリと親子と一緒に歩いて楽しかった。

6月7日 親子鴨は白鶴橋の下流までやって来た
この時期に鴨々川を見ている人がいれば、大抵は視線の先に親子鴨が居る。画像は自由広場の公衆トイレ裏あたり。
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昨日、この親子は幌平橋駅裏の鴨々川から護国神社参道方面に向かった。次は南14条橋から白鶴橋へと向かうと予想し、その辺りを歩いていたら見かけた。親子は白鶴橋の下流まで泳いで行った。ここは自由広場南側を流れる鴨々川分流。

6月8日 親子鴨は寝場所に帰っていった
地下鉄幌平橋駅横をスピードを上げて、行啓通方面に泳いで行く親子を見た。
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寝場所に着くと直ぐに寝てしまった。そこは一昨日寝ていた場所と同じだった。ここからエサを求めて鴨々川をブラブラして、ここに戻って寝たのかも知れない。

6月11日 水門に阻まれ菖蒲池行きを断念
今日も、白鶴橋下流まで来ていた。ここから中洲を挟んで二つに分かれる。鴨々川本流は中洲2号橋へ、そして分流は中洲3号橋下を流れ菖蒲池に向かう。

中洲3号橋下には水門がある。母鴨は子等を菖蒲池方面に誘導しようとしたが、子等にとって水門は高すぎた。先ず、母鴨が板を乗り越えて子等を呼ぶ。1羽も板を乗り越えることが出来なかった。この日は菖蒲池に行くことは断念した。
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水量が増えれば、相対的に水門は低くなり子等も越えることができる。母鴨は、この先に池があることを知っているのだろうか?

6月13日 戦う母鴨
ついに親子は菖蒲池にたどり着いた。そこから豊平館前の池に向かう。橋を抜け豊平館前の池に出た途端に雄鴨に遭遇、母鴨は威嚇して追い払う行動に出る。猛然と雄鴨に襲い掛かる。逃げる雄鴨、追う母鴨、子等も母について行こうと全速力で追う。
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6月14日 寝姿
13時17分、藤棚近くの橋下近くで寝ていた。皆さん静かに見守っていた。私も静かに見守ることにした。
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6月19日 人に近づく鴨の子等
豊平館前の池にいた馴染みの子等7羽の親子鴨。なぜか1羽が陸に上がる。次々に上がる子を見守る母鴨。母鴨が子等について行く。ベンチに座る足元に群がる5羽、少し離れて1羽、母親のそばに1羽、子等にもそれぞれの個性がある。
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6月22日 カモメもハトも鴨の子等に無関心
寝場所をいろいろ変えている。最初は幌平橋近くの鴨々川の草むらに身を隠すようにして寝ていた。次は中島公園の藤棚近くの橋下の草むら。今度は隠れずに寝ている。近くにはオオセグロカモメも、ハトも居たのに気にすることなくスヤスヤと寝ていた。
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目を覚ました1羽の鴨の子がベンチによって来た。ハトを気にしない鴨の子。カモメは少し離れた所に居続けたが寄ってこない。

例年の6月なら親子鴨が次から次へと現れるが、今年は一組だけしか見ることができなかった。お陰で親子鴨について、行動の片鱗を知ることができた。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2020年07月11日

映画「眼下の敵」を思い出す

何故か、上陸するのに制服着用を義務付けられていた(士官及び営外居住者を除く)。フネでは独自の「巡察隊」を組織して、上陸時の隊員が不始末をしないか監視・指導していた。私服着用まで取り締まりの対象になっているのだから嫌になる。

「巡察隊」は乗員が交代で当たるので、取り締まる方も上陸して遊ぶときは私服だから矛盾している。もう一つの決まりは深夜徘徊禁止である。上陸は私服を着て夜遊びできるから楽しいのにね。

ところで、30万トン型タンカーの乗員は23名なのに、千7百トンしかない、あさかぜ型護衛艦の定員は270名だ。単純比較は出来ないがギュウギュウ詰めであることは分かると思う。上陸員の帰艦時刻が朝なのは、狭い艦内生活を離れてゆっくり寝て欲しいからである。それなのに寝ないで遊ぶ人も多い。

同期の殆どは半年の陸上にある通信隊実習をしてからの乗艦実習だが、S君は陸上勤務の無い職種なので、6ヵ月早くフネに乗っていた。彼が数名の同期生にダンスや酒とかの悪い遊びを教えてくれた。先輩たちは少年隊員に悪い遊びを教えないように指導されたいたが、同期生が先生役になるとは盲点である。

防衛庁が用意した格安の宿泊所もあるのだが、私服も着るし深夜徘徊もしたいので、内緒で部屋を借りた。売春防止法が施行された年なので、廃業した遊郭がそのまま貸間になっていた。小奇麗で安い所が気に入った。それに、鍵一つで自由に出入りできる。

上陸すると先ず、そこに行って私服に着替える。そして、同室のS君と一緒にダンスホールに行く。そこに行けば同期の仲間がいる。来るときもバラバラだし、帰る時もバラバラという習慣がいい。皆で集まるのも楽しいが、そればかりでは窮屈だ。

ダンスホールは市内に5,6ヵ所あった。入場料は60円から100円くらいで、飲食もなくスピーカーから音楽が流れるだけ。最初はここで一緒に楽しむ。運よく相手を見つけた少年はデート、見つからない大部分の少年は、連れ立って飲み屋に行った。

最初は飲み屋について行ったが、何から何まで不潔な感じなのが嫌で1回で止めた。以前、先輩に連れて行ってもらった洒落たスタンドバーが気に入っていたので、一人でそこに行くことが多かった。部屋に帰っても、S君の帰りは遅いので独りぼっちだ。

ダンスホールで遊んで一杯飲んで帰るだけだが、私服を着て自由に街中を歩くだけでも凄く楽しかった。フネの居住区は三段の吊りベッドで座ることも出来ない。横になって入り横になって出るのだ。図体の大きいアメリカの水兵がよく寝てたものだと感心した。

私達が乗艦した米海軍の高速駆逐艦は、そんなものだった。第二次世界大戦では大西洋方面で戦たかい、1944年5月、地中海でドイツ潜水艦を撃沈する戦果を上げたと聞いている。駆逐艦対潜水艦の戦いを描いた映画、「眼下の敵」を繰り返して観ては艦内生活を懐かしんでいる。

7月15日NHKBSプレミアムTVで「眼下の敵」が上映されました。私がお馴染みの駆逐艦居住区のベッドは四段でなく三段でした。本日、お詫びと訂正いたします。思い出せば天井が低かったのです。横にならなければ出入り出来ない状況は同じです。映画の米水兵見ると本当に窮屈そうで気の毒です。私自身は平和だからこんなことが苦労でした。本当の苦労知らずです。(7月16日追記)

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:国内某所
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2020年07月04日

「乾ドック」生活

朝だ夜明けだ潮の息扱き うんと吸い込むあかがね色の 胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務(作詞:江口夜詩)と、歌にあるように、少年にとっては素晴らしい艦隊勤務だった。

辛かったのは初めての航海で船酔いした時だけ。その後は修理艦として2ヶ月ばかり、ドックに入った。飲まず食わずで痩せ細った私にとっては地獄で仏である。砲弾・燃料を降ろしての、乾ドック入りだから、地震にでも遭わない限り揺れる心配もない。

食事もトイレも造船所のを使用。何よりも有難かったのは、ドブ板並べたようなトイレから解放されたこと。フネでは大便するのに横一列に並んでするのだから嫌になる。

仕切りの無いドブで、ドブ板に尻をつけて用を足す感じだ。ウンコを流す水がドブのように流れていて、階級が下の私は、いつも川下に座らなければならない。全てのウンコが私の尻の下を通過する。早もん勝ちで、上流に座っても良さそうなものだが……。

米軍払い下げの駆逐艦で一番嫌なことは、このドブ板トイレだった。狭い艦内を考えると、合理的な設計ではあるが日本人なら思いつかない。日米文化の違いに驚かされた。気に入ったのは、アイスクリーム製造機があって、無料で食べ放題だったこと。

ドックに入ったのは台風で損傷を受けた第5護衛隊の2隻(あさかぜ、はたかぜ)だった。生徒と呼ばれる少年隊員は、合わせて10名くらいが実習生として乗艦していた。

名目は実習だが、普通の乗組員と違うところは、7ヵ月したら術科学校に帰ることだけ。特別な実習スケジュールがあるわけでもない。新人として仕事を覚え、当直に入って働くだけ。分かり易く言えばアルバイト店員のようなものだった。

航海が終わってドックに入ったら急に暇になってしまった。修理中の乗員の基本的な作業は船体の錆うち作業だが、通信業務は24時間休みなく続く。だだし、業務量はかなり減った。オマケにエライ人は休暇等で居ないので、気楽な当直勤務だった。

艦内は居住区も電信室も極端に狭い。食って仕事して寝る以外は、何も出来ないスペースだ。そのような状況の中に、暇で懐に余裕のある同期の少年たちが暮らして居た。

親元を離れて、しかも修理艦としてドック入りで、上官の監視も緩んでいる。思春期の少年たちは、大人の遊びに熱中した。去年までは外出すると映画を観てぜんざいを食べていたのに、いつの間にかダンスと酒になってしまった。何が起きても不思議ではない。

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2020年06月27日

風に吹かれて

半世紀前に流行ったクイズを紹介。豚と猿とお母さんが屁をたれた。どれが一番臭かったか三つの内のどれ? 答えは後段に書かせて頂いた。

2017年、ボブ・ディランが、ノーベル賞を受賞した。何故か文学賞だった。音楽賞も歌唱賞もないからかな? 彼はノーベル賞の受賞講演を次のように締めくくった。「私は今一度、ホメロスに戻っていく。『ミューズ(芸術の女神)よ、私の中に入って、物語を語ってくれ』と言ったホメロスに」。

風に吹かれて、作詞・作曲・歌、ボブ・ディランの歌詞の中には、いろいろな問いかけがあるが答えはない。問いは英語で、答えは風の中では、さっぱり分からない。まるで、「オイラは知らないから風に聞いてくれ」と言われたような感じだ。知識もなく英語も出来ないけれど、この歌は大好きだから、いろいろ考えた。

How many times must the cannon balls fly. Before they're forever banned? と問われた私は真剣に考えた。(cannon ball:砲弾)

砲弾の飛ばし合いは製造した時に始まる。砲弾が何発必要と予算要求をする。認められて砲弾を受領すると、使わなければならない。年度末までに余すと、無駄遣いとして、次年度からは砲弾予算は削られる。軍隊も一つの役所である。

もっと恐ろしいのは軍需産業。真の民主主義国なら砲弾要求を国会で止められる。一つだけ条件がある。それは相手も民主主義国家であること。一生懸命考えたが相変わらず間が抜けている。そんな両国が戦争するはずがない。やっぱり風に聞こう。

How many times can a man turn his head. Pretending he just doesn't see? この問は私にはとても厳しい。

顔をそむけないで、正面から見つめるばかりでは、のんびり静かに生きたいのに、戦いの人生になってしまう。大切なのは、自分と反対の意見、あるいは現実にも顔をそむけないことと思う。

「人はあと何回顔をそむけ、見ないフリをするのだろうか?」との問いと思うけれど、見ないふりだけは許して欲しい。トイレの電灯を点け放したからと言って、いちいち文句を言われちゃ、やりきれない。そんな時は、見てないふりをしてほしい。

How many deaths will it take till he knows. That too many people have died? どれだけ死んだら分かるんだ、との問いに対する答えは、映画「猿の惑星」の中にあった。人間が支配する地球は核戦争で消滅する。戦争後の地球は猿が支配している。チンパンジー、オランウータン、ゴリラ等だ。一部の生き残った人間は猿の奴隷になってしまった。

冒頭のクイズの答えもここにある。それは映画が大ヒットした結果の一つである。(猿の惑星→さるのわくせい→猿のは臭せい) この映画が上映されて半世紀、核戦争の不安は未だに消えていない。最近では核軍縮の話題さえ聞こえてこない。依然として、答えは風の中で舞っている。

歌詞では、問いに対する答えとして次のように書かれている。The answer, my friend, is blowin' in the wind.The answer is blowin' in the wind.
訳はいろいろあるけれど、「友よ答えは風にふかれている。答えは風にふかれている」ぐらいの感じかなと思っている。

以上、歌とか英語とか、全く分からないのに、あれこれ空想して書いてしまった。恥はいくらかいてもいいけれど、無責任と思い反省している。
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夜の街、新宿

最近、テレビを観ていると「宿主」という言葉を時々聞く。新型コロナウイルスに関する番組で、よく耳にするのだ。ウイルスを泊まらせる、宿の主人のことだろうか?

辞書には次のように書いてあった。「宿主(しゅくしゅ、英語:host)あるいは寄主(きしゅ)とは、寄生虫や菌類等が寄生、又は共生する相手の生物。口語では「やどぬし」と訓読されるが、学術用語としては「しゅくしゅ」読みが正式である」。

なるほど、英語ではhostか。思わず、話題の新宿、ホストクラブを思い出す。何となく華やかで、妖しげなムードを漂わす空間。もちろん、行ったことがないから空想を膨らませているだけだが。

あるサイトに、事実らしきことが、いろいろ書いてあって、とても参考になった。例えばこんなこと。「東京都は対策として店舗側にPCR検査に応じるよう協力を求めていた」。PCR検査は実施件数が少ないのに、なぜホストの感染者が多いか分かった。クラスターが発生すると店内に居た全員が検査対象となるからだ。

「新宿区内には238店舗のホストクラブがあり、ホストの人数はざっと数千人に上る」。以下、都福祉保健局の担当者談「新たに感染がわかった人のほとんどが無症状です。それも20代ばかりでした」。対照的なのが札幌の昼カラ、昼食込みで千円と格安、感染者は60歳以上だった。高齢者の殆どが巣ごもり中と思っていたが、そうでもない人も少なくなかった。

「シャンパンを仲間同士で回し飲み、同じマドラーを使い回し、一気飲みの際は大声を出してはやし立てる」。どういうことをすれば感染し易いか、具体的に書いてあり、やってはいけないこととして参考になった。「ホストたちは狭い店の寮で共同生活」という。優雅なマンション暮らしと思っていたが、意外に地味な暮らしだ。

「新宿には約250店ほどの性風俗店があり、風俗嬢がホストクラブの客というケースは非常に多い」。お客は高給取りや金持ちの奥様とか思っていたが、これは大間違い。同様な仕事仲間なら情報交換も必要。横のつながりも大切だ。ホストも風俗嬢も24時間働くモーレツ社員のようなものだろうか。

思い出すのが、「24時間戦えますか」との、栄養ドリンクのCM。それこそ、1年365日、聞かない日はなかった。イメージとして浮かんだのが、仕事一筋で働くホストと風俗嬢の姿。それとも何も考えていないのか。あるいは、人それぞれ。ある人は真剣、ある人は遊び半分。何も知らない世界に思いを馳せて興味津々、心臓ドキドキ。それでも今年で80歳。うかうかしてはいられない。

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2020年06月20日

ボッタクリ

夜の街でのコロナ感染が話題になっているとき、何故か60年以上前のことを思い出した。キーワードは新宿の夜の街。独身の頃はどうしようもない淋しさに押されて、夜の街を一人でふらついたこともあった。そんな時、若い女性に「良い店あるから行ってみない」と声を掛けられた。

新宿の夜は初めてだ。先ずは、お手軽なスタンドバーにでも入ろうかと思っていた。そのことを呼び込みの女性に言うと。「ちょうど好かった。500円ポッキリよ。案内してあげる」と言った。ところで、19歳で失業して、4年ぶりに渋谷に帰って来たが懐は寂しい。それまでは仕事で地方都市を転々としていた。

路地裏をしばらく歩いたが、店の前で入店を躊躇した。小汚い店は嫌いなのだ。突然、ドアが開き赤ら顔したオジサンが飛び出して来た。「坊や、こんな店に入ったらダメだ」と言って走って行った。私もつられて走ったが誰も追いかけてはこなかった。

危うくボラれるところだったが、ポケットには千円札2枚と小銭だけ。全部取られてもボッタクリ料金には届かない。こんな時にボッタクラレ・オジサンが現れるなんて、なんと運が良いことだろう。早すぎても遅すぎてもボッタクられる。見知らぬオジサンに感謝。

酒飲む習慣がついたのは、艦隊勤務がきっかけだった。先輩から酒を勧められて断る勇気はなかったし、未成年を理由にすれば、飲んで仕事も一人前になれと言われるだけだった。最初は連れられてだが、一人でもバーとかに行くようになった。いろいろ理由はあるが、一番の理由は金余りである。

15歳で月給5400円で、毎月4000円を家に送金した。残り1400円といっても自由に使えるお金は500円程度だ。少しは昇給もあったが、大幅アップは艦隊勤務になった時だった。

乗船手当、航海手当等があるので月給は一挙に1万円以上にアップした。自由に使える金は500円程度から5000円程度へと10倍になった。映画を観て、ぜんざい食うぐらいでは使いきれない。何か買っても狭い艦内には置く場所がない。

家が貧乏なので、家族の生活を支える為の送金が主な支出だった。貯金する余裕がなかったので、18歳になっても貯金通帳も持っていなかった。もちろん、貯めれば纏めて家に取られてしまうという心配もあった。貧乏な家とはそういうものだ。

突然の収入アップで、飲み歩く習慣がつき、失業して懐が寒くなっても、夜の街をぶらついていた。歩くだけのつもりでも「5百円ボッキリ」とか言われると、ついフラフラとついて行ってしまった。

金余りでも素寒貧でも、結婚するまで夜の街をぶらついていたが、不思議なことに1回も怖い目に遭ったことがない。新宿のボッタクリもオジサンのお陰でセーフ。運だけは好かった。

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2020年06月13日

ダメな親ほど子は育つ

孫が居ないから、お爺さんと呼ばれたことがない。もし何方かに「ちょっと、お爺さん」とか呼ばれても、自分のこととは思わないだろう。明らかに変だが、変なことはこれだけではない。

結婚前に「あなたの夢はなんですか?」と聞いたら「お嫁さん」と言った。それなのに夢が叶っても幸せそうではない。一方、私の夢は楽をすること。これだけは子供の頃から一貫して変わらない。よそ様から見ればこれも変だろう。

こうして、夢の無い二人が結婚をして子供が生まれた。お母さんは子供を可愛がり幸せそうだった。私は責任の重さを感じ、何があっても定年まで勤める覚悟をした。

仕事はチームワークだから、不安を抱かずに自信を持って仕事をしていることを、態度で示す必要があった。しかし、エラーを繰り返せば同僚の信頼を失う。私には、全ての同僚が落ち着いて自信をもって、仕事をしているように見えた。

定年退職して、10年以上たってから、かっての同僚と本音で仕事の話ができるようになった。彼は今でも仕事をしていてエラーをした夢を見ると言った。このとき初めて不安を抱きながら仕事をしていたのは、私だけでないことを知った。

苦手な仕事だが、努力と工夫で何とか切り抜けた。こんな状態だから妻子のことは、何も考えずに、定年まで無事に働ける方法だけを考えていた。それなのに息子は、私のことを良く思っていてくれたことを知って驚いた。

最近、お母さんが私にこう言った。息子がA子さん(息子の妻)に、「僕は両親に可愛がられていた。僕たちも両親のような夫婦になりたい」と言っていたそうだ。お母さんはすごく嬉しそうだった。両親とは私も含む、どうしてだろうかと不思議に思った。

退職後のことだが、息子が私にこう言ったことを思い出した。「他所の親はね、子供を旅行に連れて行ったり、プレゼントしてくれたりするんだよ」。思い起こせば、そんなことは考えたこともなかった。今頃になって苦情かと嫌な気分になったが、続きがあった。

「その代わり、いろいろ干渉して煩いんだって。僕はなにも言われたことないからね。お父さんで好かったよ」。今さら、それは誤解だ。何も考えてなかったとは言えない。親と言う自覚はなく、扶養の義務を果たすことだけを考えていた。ダメな親ほど子は育つとも言われている。これでいいのだ!

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2020年06月06日

お富さん

映画でもテレビでもドラマは大好きだ。つまらなくても最後まで観る。アッと言うような面白い結末があるかも知れない。お富さんと与三郎は、それぞれ日陰の身でありながら惹かれ合っている。死に苦しみに遭いながら、何故か気が合う。

春日八郎の歌う「お富さん」は、もともと歌舞伎から来ているので、短い歌詞に与三郎の気持ちが纏まれている。この歌は、アッと驚く場面から始まる。死に損ないの与三郎が、死んだはずのお富さんに、バッタリ会ってしまう。♪死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん♪ 

大店のドラ息子与三郎(切られの与三)が、木更津でやくざの親分の妾である、お富さんと深い中になってしまう。それがバレて、与三郎は親分らに滅多切りにされ、簀巻きされて海に投げ込まれる。それを見たお富さんは海に身を投げるが、何処かの大番頭に助けられ、その男の妾となる。

3年後、与三郎が訪れたのが大番頭だった男の妾宅。そこで死んだと思っていたお富さんに偶然の再会。歌はここから始まる。気になるのは、♪今じゃ呼び名も 切られの与三よ これで一分じゃ お富さん エーサオー すまされめえ♪ 

金一分は約2万円だそうだ。滅多切りにされ簀巻きにされて海に放り込まれた、お詫びにしては安過ぎる。この辺りの事情は歌舞伎になったのだから、知っている人は多いと思うが、私は知らないまま歌っている。

お富さんが流行った頃は中学生。体調を崩す前のことだった。つまり、元気だった時代だから、学校も、アルバイトも、友達と遊ぶことも、全てが懐かしくて楽しかった。

スマホもオンラインゲームない時代は、学校とアルバイトの掛け持ちでも、遊ぶ時間はたっぷりあった。中学では「のど自慢」をして楽しんだ。一番人気の歌は「お富さん」だった。

お富さん  昭和29年(1954年) 
作詞:山崎正 作曲:渡久地政信   歌唱:春日八郎

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店(げんやだな)

過ぎた昔を 恨むじゃないが
風も沁みるよ 傷の跡
久しぶりだな お富さん
今じゃ呼び名も 切られの与三よ
これで一分じゃ お富さん
エーサオー すまされめえ

かけちゃいけない 他人の花に
情けかけたが 身のさだめ
愚痴はよそうぜ お富さん
せめて今夜は さしつさされつ
飲んで明かそよ お富さん
エーサオー 茶わん酒

逢えばなつかし 語るも夢さ
誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
ついてくる気か お富さん
命みじかく 渡る浮世は
雨もつらいぜ お富さん
エーサオー 地獄雨
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穏やかな心

表面は穏やかに見えても心の内は複雑だ。今日も苦情を言われた。一体いつまで続くのだろうか。つくづく嫌になる。

「また浄水のままにしている。使い終わったら原水にしなければダメだよ」と、叱られた。去年の今頃、”浄水器内蔵シングルレバー混合水栓”に変えた。レバー、ひとつで「原水」「シャワー」「浄水」と切り替えて使える優れものである。
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便利にはなったが、毎日のように浄水のままだと叱られる。マニュアルには「レバーを切り替えて使う」と書いてある。どれを使うかは使う人の判断だ。当然のことだが、終わり方は書いてない。

しかし私は「使うとき切り替えればいいでしょ」とは言わない。自分は正しいと信じる人に、間違いを指摘するのは危険だ。とりあえず、リスクを回避する。もちろん、叱る当人も浄水のままにしていることは、度々あるが私は言わない。悪いことではないからね。

「何回言ったら分かるの。使った後で振り返らなければダメ」とも言われた。それでもゴメンナサイと謝る。「あんたは何も考えないから間違えるんだよ」とたたみかける。私は決して、「貴女だって間違えるでしょ」とは言わない。ドッチでもいいことだから。

もう1年も言われ続けている。そろそろ厭きてもいい頃だが、言い続けている。だから私はゴメンナサイと謝り続けなければならない。本人自身が気づくまで気長に待つつもりだ。別に意地になっている訳でもない。なんとなく心地よいからだ。

昔のことだが、喧嘩ばかりしている頃があった。しばらくしたら、静かになったが、大袈裟に言うと冷たい戦争の始りだった。これは長い闘いになった。続けるのもバカらしいので降参したら、手のひら返すように優しくなった。ホンの少しの我慢が幸せを呼び寄せた。

それからは、嫌われている感じがまったくしなくなった。あれこれ小うるさいけれど、好かれていると思うと気にならない。この自信は一体どこから来るのだろう。原因はトイレの書だ。一日に何回も小便をする。その度に便器を挟んで、この書と向き合っている。
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敵もさるもの、これで懐柔されたのかも知れない。ハンコまで押してあるから本心と思う。信じる者は幸いだ。決して、紙一枚で操られているとは思っていない。
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2020年05月30日

憧れの艦隊勤務

乗艦実習に入ったのは17歳のときだった。たった7ヶ月だが、私にとっては憧れの艦隊勤務。赴任先は護衛艦あさかぜ、米国から貸与された速力37ノットの高速駆逐艦、米国名はエリソン。ちなみに、当時保有の主力はフリゲート艦で最高速力は18ノット。

初めての航海は九州のS港より関東のY港だった。Y港では就役まもない新鋭護衛艦あやなみ艦長に同期生数人で挨拶に行った。艦長室に入ったのは後にも先にもこれ1回だけ。艦長は案内してくれたり、一緒に写真を撮ってくれたりして歓待してくれた。

実は、元術科学校の偉い人が新鋭艦あやなみの艦長になったのだ。離任の挨拶で「諸君とは海上で会おう」と仰った。まだ10代の少年たちは、その言葉を真に受けての訪問である。お相手して下さり良い思い出ができた。今になって艦長に感謝。

帰りの航海は、酷いものだった。土佐沖で台風に遭ってしまったのだ。その前から船は揺れ食べても皆、吐いてしまったが、当直交代で嵐の中を電信室に行くことになった。

居住区からハッチを開けて甲板に出てラッタルを上がり電信室に行くのだが、大きく揺れて歩くのが大変。ハッチを開けたら頭から海水をかぶった。外に出るときはゴム製の雨合羽を着る意味がやっと分かった。

海水の勢いでヨロケテ転んで、網にかかって命拾い。今度は両舷に網を張っている意味も分からせてもらった。こんな時でも吐き気が収まらない。もう吐くものが何もない。それなのに苦しんだ。

自分では何と表現していいか分からないので『爆釣遊撃隊シーゲリラ1号館のページ』を借用。そこにはこう書いてあった。「吐く物があるうちはまだいい。胃の中が空っぽになったときが船酔いの真骨頂、本当の苦しみが訪れるのである。胃が飛び出んばかりにこみ上げてくるも、嘔吐物がないため出てくるものは黄色い胃液。顔を真っ赤にし、目には涙を浮かべながら、もがき苦しむ」。

船でのゲロ吐きの作法は、絶対に甲板に吐いてはいけないこと。当直中に吐くときは、先ず帽子に吐く、次は靴の中と教わっていた。こんな時でも、ちゃんと思い出す。レジ袋の無い時代だ。

しかし、嘔吐物も胃液となると粘りが強くて顔面にへばりつき、落ちて行かない。たとえ落ちても甲板にぶつかる様に流れ込んで来る海水が、直ちに洗い流してくれる。この時は船よ沈め、転覆せよと心から願った。そうすれば楽になれる。
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2020年05月23日

さすらい

音痴だから音楽そのものから受ける感動は、普通の人と比べて少ないと思う。恥ずかしながら、コンサートホールで、交響曲の名演を聴いて涙が出たことがない。しかし、歌の場合は話は別、歌詞には人並み以上に感動する。

「さすらい」とはさすらうこと。故郷を出て他の土地をさまよい歩くことを言うそうだ。ならば、生まれてから定職に就くまでの23年間は、まさにさすらいの人生だった。暇に任せて思い出し、数えてみたら21か所をさまよっていた。

平均1年の滞在では友達も出来ない。そんな人生を23年も続けていると自分だけの世界に閉じこもるようになる。定職に就いた後も付き合いは苦手だ。遊んでくれる人も居ないので、映画を観たり本を読んだりして楽しみ、足りなければ空想で補った。

さすらいの旅人の私は、映画の小林旭のように強きをくじき弱きを助けながらの旅ではない。ただ、「さすらい」の歌詞にあるように、どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ♪ と思うだけ。そして、歌うたびに いつになったら この淋しさが♪  消える日があろ 今日も今日も旅ゆく♪ と、さすらいの旅人の気分で生きて来た。

この歌の持つ孤独感が好きだ。歌のルーツを探ってみると、「ギハロの浜辺」という題名で、敗戦後、フィリピンの捕虜収容所で歌われていたと言う。作詞者は第十六師団(京都)の将兵と書いてあったが、その中の何方かの作詞と思う。

第16師団は敗戦の色濃い絶望的な1944年8月、レイテ島に移駐。10月、圧倒的な兵力の米軍がレイテ島に上陸。その結果、第16師団は壊滅した。13,000名で臨んだレイテ決戦の生還者は僅か620名と悲惨な結末を残して終わった。

「ギハロの浜辺」は、奇跡的に生き延びたフィリピン抑留の兵士たちの間で歌われていた。それを持ち帰った復員兵から、いくつかの変遷を経て、大ヒットした小林旭が歌う「さすらい」へと育って行った。原曲は異国情緒豊かでロマンチックな歌詞だった。戦争が激化する前に作られたと推測する。

作詞:西沢爽 補作曲:狛林正一 採譜:植内要
夜がまた来る 思い出つれて
おれを泣かせに 足音もなく
なにをいまさら つらくはないが
旅の灯りが 遠く遠くうるむよ

知らぬ他国を 流れながれて
過ぎてゆくのさ 夜風のように
恋に生きたら 楽しかろうが
どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ

あとをふりむきゃ こころ細いよ
それでなくとも 遙かな旅路
いつになったら この淋しさが
消える日があろ 今日も今日も旅ゆく
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憂鬱な1週間

癌になったら何を楽しみにするか考えた。殆ど使っていない携帯電話をネットで使えるように契約変更しようと思い、会社に手続き方法を聞いた。電話で手続が出来て、6月の1日からネットに繋がる聞いて一安心。これで寝ながら楽しめる。

舌癌の疑いがあると言われて検査を受けた。そして、舌の白い部分が大きいので、入院は3週間は必要かな、とか何気なく言われた。手術しても活舌ば少し悪くなるだけで電話も掛けられるそうだ。歌えますかと聞きたいのはやまやまだが、聞くだけ無駄と思い止めた。まるで舌癌と決まり手術を受けるような雰囲気だ。

以上は、口腔内科のお医者さんらしき人4人に囲まれての話だ。若い女性が私に何か言ったが聞き取れない。聞こえないことを動作で示すと、耳に口を寄せて「怖くないですか?」と言った。おいおいまさか癌じゃあないよね。いろいろ検査は受けたが、結果が分かるのは一週間後の筈だ。

今まで検査は沢山受けたが、結果も出ない内に、入院3週間、とか手術後どうなる、はたまた、怖くないかとか聞かれたことは無い。おまけに「電話するかも知れません」とも言われた。まるで癌の宣告のような感じだが、ドラマの感じとだいぶ違う。雰囲気がやけに明るくて開放的である。しかも大勢の中で雑談の感じだ。

彼女には「怖くないですよ。癌だと思ってないから」と答えた。とてもじゃないけど、信じられない。と言うのは7年間もA病院の口腔外科に通い舌の診察を受けていたのだ。通院と言っても年に3,4回舌を診てもらうだけ。文字通り見るだけだ。その度に「このくらいなら、大丈夫、組織を取って調べる必要もないとのことだった。

7年だからいろいろあったが、簡単に言えば、前回までは、大丈夫、特に調べる必要もないとのことだった。それをいきなり、癌かも知れないと言われてもピンとこない。

ともかく1週間後には分かること。しかし、その前の電話が怖い。検査して電話するかも知れないと言われたのは初めてだから。しばらくはリンリンとなるたびに病院からかなと気にかかる。

運動神経が極めて鈍く不器用だから口が滑らかに動かないのだと思う。活舌は悪いし、まともに歌えない。いくら練習しても英語の発音は悪いまま。だから食べても舌を噛んで痛めてしまう。

若い時は噛んでも三日もすれば治るが、年を取って運動神経が更に悪くなった。今は、毎日のように、時には1日に何回も噛むこともあるから、痛くて食べられなくなる。舌の白い所は7年間も数人の先生に見てもらい、二人の担当医から大丈夫と言われていた。だから突然、癌かも知れないと言われてもねぇ。

それから1週間たち、検査の結果が分かる日が来た。今まで電話が無いのは、良い知らせと思っていた。大丈夫とは思うが、不安も少しはある。悪性腫瘍は見つからず、癌でないことが分かりホッとした。幸いなことに、1週間の癌気分だけで終わった。
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2020年05月16日

チャコ

キリコとかサチコとか女性の名の付く歌は多い。どれを歌っても私には似合わない。ただし、チャコだけは別だ。「夜霧に消えたチャコ」は大好きだ。これだけは似合わなくても歌いたい。

カラオケ(ライブダム)の画面を見ているだけでも懐かしい。映画の一部を使用したものと思うが、シーンが変わるごとに1950年代の東京の風景が映っているように見えて、とても懐かしい。ガード下とか省線の線路とか女給さん募集の張り紙とか、一つ一つが昔なじみの風景で、今は無い故郷の思い出と重なる。

チャコも思い出の人。本名は知らないので歌に合わせてチャコとする。掘っ立て小屋の様なスタンドバーをマスターと二人でやっていた。歌にあるような可憐な人ではなかった。意地と度胸で生きている不良っぽい人だが、それが魅力になっていた。なぜか、私に会うのを楽しみにしてくれた。

いつも開店したばかりの6時頃行くので誰もいない。マスターも居ないのでチャコと二人になれた。冷房もないので暑い日は、外で夕涼みしながら話した。チャコは余り笑わないで喧嘩の話をするのが好きだった。ビール瓶叩き割って一喝したら逃げてったとか、聞いていても面白い。

たまたま8時ごろに行ったことがある。チャコは珍しく酔っぱらっていた。アンタ、おどおどしてるからイラつくんだよと、絡んで来た。繰り返し同じことを言っている。悩みがあるらしい。ギターを持った流しがくると、頼まなくていいからねと大きな声で私に言った。

遅くなるとチャコにも流しにも迷惑かなと思って夕方に行くことにした。それで六時の人になってしまった。私は失業中で家の仕事を手伝っている有様だから貧乏丸出しだ。

だからチャコは金を使わないように、気配りをしてくれた。どう考えても客ではなく友達あつかいだった。金も無い、職もないから夢もない。こんなことがなければ淋しいばかりの20歳だった。

だから60年もたった今でも覚えている。私がどん底にいた時に、もう一つのどん底を教えてくれた人。私の知らない厳しくて暴力的な人生を語ってくれた人。ホントかウソかなど問題でない。話していてとても楽しくて慰められた。

これが私の「夜霧に消えたチャコ」の思い出。人には親切にするものだと、つくづく思う出来事だった。された人は何十年も覚えている。私は職を得て遠くに行った。夜霧に消えたような別れだった。会ってお礼をいいたくてもチャコだけじゃあ探しようもない。
チャコチャコ 忘れはしないいつまでも♪ 
あの日の悲しい悲しいまなざしを♪

夜霧に消えたチャコ
宮川哲夫作詞、渡久地政信作曲

俺のこころを知りながら なんでだまって消えたんだ。
チャコチャコ 酒場に咲いた花だけど
あの娘は可憐な可憐な娘だったよ

夢がないのが淋しいと 霧にぬらした白い頬
チャコチャコ 忘れはしないいつまでも
あの日の悲しい悲しいまなざしを

青いネオンが泣いている 紅いネオンも涙ぐむ
チャコチャコ 返っておくれもう一度
俺の切ないせつないこの胸に
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母、肝心な人

実父、養父、長兄、次兄、妹と、家族を一通り紹介したと思っていたが、肝心な人を忘れていた。それは母だった。考えてみれば、母も気の毒な人。恩知らずな子ばかりだった。

私は楽をして飯を食いたいという夢を長い間抱いていて、母のことはあまり考えていなかった。ただお金を納めなければならない人と記憶している。見返り求めずキチンと納めるのが子供の義務。大切な母の教えだが、素直に守れないこともあった。

義務教育でもお金が必要な場合があるが、母は持たせてくれない。先生から忘れちゃダメだと叱られる。恥ずかしくて母がくれないとも言えない。10歳になると新聞配達をして月千円もらった。そして、要求により母に700円納めて、残りを学費と小遣いにした。

中学を卒業すると、遠い所で住み込みで働いて、月給5,400円もらい、東京の母に毎月4,000円も納めた。要求されるから納めるのだが、子供として当然の義務と考えていた。もちろん、母に上げた訳ではない。貧しい家庭の生活費として送金したのだ。

19歳の時、送ったお金を母が自分の小遣いにしてパチンコ等に使っていることを知った。狭くても渋谷の地価はドンドン上がり、金貸しから好きなだけ借りられるようになっていたのだ。愚かな私は、状況も知らず4年近くも送り続けた。

その後、送金は止めたが、2,3年したら、金送れ頼むとの手紙が頻繁に来るようになった。仕方がないから送ると、また送ってくれと切りがない。結局、結婚するまで送金を続けた。

同世代ではこんな経験をした人は、少なくないと思う。書かないのが普通だが、私は書く。波乱万丈の人生を送った人ならともかく、普通の人として、普通に生きた私に、省略出来る過去はない。

母からは手紙を沢山もらった。全て金送れ頼むだった。もちろん困った困った、一家心中とか書いてある。送ってもお礼の手紙はもらったことはない。親孝行は子供の義務だから当然である。推測だが、土地は金貸しに取られて、再び貧乏になったらしい。

結婚して子供ができて数年後、福祉事務所から手紙が来た。母が生活保護を受けていて、私にも扶養義務があると書いてあった。扶養義務は充分過ぎるほど果たして来たが、過去は評価外。妻子を抱えて安月給の身だが送金した。ただし、本人に送ってパチンコ代にされては切りがないので、福祉事務所に送った。

福祉事務所は本人の金遣いと私の事情については、全て無視した。本人に送れと手紙で指示してきた。結局、亡くなるまで送った。振り返ってみれば、10歳から30年間くらい母に金を納めた。子供の義務から国民の義務へ変わっただけだった。

幼児の頃は優しい女中さんの世話になっていたことは覚えている。だが母については、お金を納めたこと以外、何も覚えていない。私は恩知らずだと思う。もし私が品物ならば欠陥品だ。母の恩を知る機能が壊れている。

実父養父長兄次兄妹、それぞれ思いを込めて書けたが、母のことを書くのは難しかった。何だか分からないが、私は間違っていると思う。生んでくれてありがとう。お陰様で今は幸せだ。

私には無いもの多すぎるが、諦めないで頑張った訳でもない。全て空想でごまかした。空想しながら歌えば、カウボーイにも、ガンマンにさえなれる。もちろん、モテちゃう人にもなれる。必要は発明の母。優しいお母さんまで作ってしまった。自分は子役に徹し連れ合いを母役にして、母子二人で幸せに暮らしている。
タグ:親・兄・妹
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2020年05月09日

我慢一筋

ハッキリ言うけど、命を懸けず金もかけず、我慢もしないで成功する道はない。そして、何らかの成功をした人は幸せと思う。実は私も最近は、幸せだなぁと感じている。

中卒以来、職を転々として定職についたのは24歳の頃だった。ところで、100mを10秒で走ったり、100Kgの荷物を担いだりすることは、普通の人には出来ない。転職時代に分かったことは、普通の人が出来る肉体労働が、どうしても出来ないことだった。

努力して肉体労働でない職に就いた。そして、頭の回転も人並み外れて悪いと分かったが、辞められない。健康に自信がないから健康保険のある職を辞めたら、病気の時に困る。

工夫と我慢で乗り切るしかなないが、工夫できるチャンスは5年に1度くらいしかない。日常的には我慢の連続だった。いくら我慢を重ねても慣れることはない。辛い日々が続くだけだ。

在職中は、自分は何のために生まれて来たのだろうと考えていた。楽しく遊んでいても、終わって暫くすれば、憂鬱な気分に戻る。ひたすら、退職後を楽しみにして定年まで働いた。もちろん再就職はすべて断った。

待ちに待った退職だったが、二人暮らしは思いのほか悲惨だった。先ず同居人は、私が家に居ることを好まないことが分かった。その為、何やかやと私のやること、話すことに反発した。

これを乗り越えるのは容易なことではないが、我慢我慢の在職中に比べれば楽だった。3年で不幸な生活にも慣れ、10年以上かかったが、完全に乗り越えることができた。二人暮らしの我慢は単純で楽だ。相手の言うことを聞いて反対しないだけでいい。こんな方便が通用するから面白い。

10年以上と言う歳月はかかったものの、思いがけない大成功を収めた。同居人の態度が少しずつ変わって来て、私の喜ぶことをしたがり、話したりするようになった。私も喜んで従っている。我慢はどこかに飛び去って行った。

私は母の愛というものを全く知らない。だからドラマに出るような優しい母に会ってみたいと夢見ていた。いつの間にか同居人が、そのような優しい母になっていた。

今ではお母さんと呼びスッカリなついている。お母さんは相変わらず小言ばかり言ってるが、以前と違って目が笑っている。私を出来損ないの子供のように思っている様だ。辛い過去が、今を凄く幸せに見せかける。もう空想と現実の違いが分からなくなった。 知らぬが仏。
タグ:楽しい我家
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2020年05月02日

OK牧場の決闘

札幌のコロナ感染者数が増えると何となく気になって来る。ステイホームが一番良いと言われると、引きこもっていても「やってる感」を覚えるから有難い。闘っている感じがするのだ。

去年までは人の輪に入りなさい。用事を作りなさい。行く所を持ちなさい。とか言われていたが、コロナ禍で逆になってしまった。ジッとして家に居るのが社会の為と言われている。

音痴なのにカラオケが趣味だ。暇なんだから歌の練習でもしたら良さそうなものだが、そうも行かない。つい、録画してある映画を観てしまう。「ハスラー2」「誰も知らない」「アラモ」等。そして、知りもしないことをブログに書いて楽しんでいる。

OK牧場の決闘(作詞:ネッド・ワシントン、作曲:ディミトリ・ティオムキン)について気になるところがあるのだ。カラオケクラブ例会ではライブダムでやっているが、歌詞の表示が気になっている。

There the outlaw bannd Made their final standのMadeについて歌手はMakeと歌っているし、歌詞もMakeになっている。しかし、カラオケ画面はMadeと過去形になっている。これから決闘をやろうというのにMadeでは勢いがない。英語も殆ど知らないのに、気分だけは西部劇のヒーローになり切っている。

私自身はMadeについてはカラオケ画面を作った人の間違いだと思っている。だから歌手の真似をしてMakeで歌いたい。それなのに目の前の画面がMadeになっていると凄く戸惑う。これには参った。画面表示にmade来ると目をつぶったりして、慣れるのに3年かかった。

Oh my dearest one musut I  lay down my gun or takeも同様、「I」については歌手も歌詞もdieになっているから、dieが正しいと思っている。私は凄く歌が下手なのに、この2ヵ所については、歌うごとにカラオケ画面の文字に足を引っ張られて悔しい思いをしていた。そもそも音痴で英語もよく分からないのに、洋楽カラオケをやっているのが間違い、と言われれば返す言葉もない。仕方がないんだ、私にもいろいろ事情がある。
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動くな!

新型コロナウイルス問題は日を追うごと厳しくなっている。特に札幌が厳しい。医学のことを全く知らない私でも、コロナだけは気になって来た。何と言ったって、私の全てである札幌シニアネットの会合が休止になったのだからエライことだ。

パチンコ問題は全店休業と言うことで解決の模様だが、来店者の的外れな言い訳が気になった。「俺は覚悟している」とか、感染の仲介者になる可能性など、無視して粋がっていた。それは違うぞ、と言いたいが、好く分からないので一生懸命考えた。

やはり食べ物がヒントになった。感染の仕組みは毎朝食べている「黄粉ヨーグルト」のようなものではないだろうか。ヨーグルトに黄粉をかけると、ヨーグルトの池に黄粉の浮島ができる。

これをコロナ感染に例えると、かき混ぜない限り黄粉とヨーグルトの接触は限定的だから、感染も限られている。しかし、かき混ぜてしまうと、接触面も膨大になり感染爆発が起こる。
kinakoyoguru.jpg

さて、黄粉の一粒が人間一人とすると、入れ物を小さくすればするほど感染拡散リスクは低下する。例えば、世界より日本、それよりも都道府県、更に家の中、という風にである。コロナ対策は「そこを動くな!」の一言で十分だ。全く動かないのは無理だから行動範囲を家の中に限定。そして、感染はいずれ収束に向かう。

ところで、暇になると私の悪い癖が出てくる。それは想像の翼を限りなく広げることである。今回は想像どころか空想の世界に入り込んでしまった。恐れ多くもコロナ退治を指揮する総理大臣になったのである。あの小さなマスクの方です。

恐れを知らぬ首相は「動くな! 2週間でコロナに勝つ」と言い切った。更に「医療や生活を支える為に働く人たちに感謝し、最大限の敬意を払え」と命じ、最後に「人間が動かなければコロナは滅亡する」と締めくくった。空想の中の首相は現実の私と違ってテキパキしている。

「動くな!」は当面の手段、いわゆる戦術である。動けば感染増で医療従事者を苦しめ、結果として医療は崩壊する。戦術的な勝利を重ねつつ次を考えることが大切だ。短期的にはPCR検査体制の整備、中長期的には抗体検査で現状を把握して、制限解除の時期を探る。決め手はワクチンと特効薬の開発である。

中長期的にはシッカリした戦略を立てること。そして、今やるべきことは、「動くな!」という戦術を徹底することである。三密、80%減、ステイホーム、ソーシャル・ディスタンス等、大切なことを繰り返して伝えるのは良いことだ。気になるのは、テレビで戦略的なことと戦術的なことをゴチャ混ぜにして、たれ流していることである。

現時点では、ウイルスへの対抗手段は動かないことに尽きる。生意気にもコロナウイルスは、人間と言う名の車に乗って走り回っている。乗せて上げなければ何も出来ないくせに、只で乗って暴虐の限りを尽くしている。なぜ人間をそんなに苦しめるのだ。

億単位の集団をつくり世界に君臨する人間が、そんなに憎いのか。それとも、行き過ぎた文明を調整する自然現象か。以上、空想の総理大臣は考えた。力も金も知恵もないから本物の足元にも及ばないけど、一生懸命考えた。

なぜ動く! 貴方はコロナの運搬車
気づいていても気づかなくても
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2020年04月25日

ゴメンナサイは万能薬

お母さん が怖いから出来ません」と言えば、恐妻家と思われるかも知れない。ところが、実際にはノンビリと幸せに暮らしている。在職時代は怖い人もいたし、怖いこともあった。

仕事を辞めたらお母さんが怖くなった。私は何時の間にか、怖い人が居ないと落ち着かない人になっていた。細かいことについて、繰り返して文句を言われて怖くなった。ご飯をこぼすな、爪を切れとか、トイレの電気が点けっ放しだとか、やたらに煩い。

言われるたびに腹を立てていたが、ある日試しに「ごめんなさい。これから気を付けます」とか言ってみたら、意外な反応があった。凄く嬉しそうな顔をしたので驚いた。今までは、無暗に謝ったりするのは、人をバカにすることだと思い、控えていた。

ところが違うのだ。人を喜ばす力があるとは知らなかった。そういうことならドシドシ使って、喜ばして笑顔になってもらいたい。

ところで、ご飯を食べる時以外は、それぞれ別々に暮らしている。お母さんは台所、居間、自分の寝室を自由に使えるのに、私は8畳一間に閉じ込められている。その代わり、家事一切をやってくれるのだから当然と思う。私はホテル住まいのようなものだ。

いつも寝る前に私の部屋に挨拶に来てくれる。15分程度、一緒にニュース観るのが習慣になっている。ある夜、ノックをし、ドアを開けて「寝るから」と、行ったきり帰ろうとした。「ニュースみないの?」と聞くと、「トイレが臭くて腹が立ったから寝る」と言った。

心当たりが全くないので、この時ばかりは「ごめんなさい。気を付けます」との言葉が出なかった。思わず口答えをしてしまった。
「ウンコしてません。臭くないはずですよ」
「二人しか居ないんだから、アンタのが臭いに決まってるの!」

これ以上の反抗は許されない感じなので、振り返って考えてみたら、全てを思い出した。
「ごめんなさい。オナラだけなんですが臭かったですか?」
「まるで毒ガス! ムッーと来たわ」
それでも顔は笑っていた。いつも通りで嬉しそう。ゴメンナサイは万能だ。正しかろうと、間違っていようと、何にでも効く万能薬。
タグ:楽しい我家
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2020年04月18日

乗艦実習の思い出

「あさかぜ」と言う艦名は、画期的な命名だった。当時、保有艦艇のネーミングはフリゲート艦が樹木、例えば、くす、なら、かし。そして、上陸支援艇には草花に由来する可愛い名が付けられていた。例えば、ゆり、すみれ、はまゆう、と言う風に平和日本に相応しい命名だった。初めて貸与された高速駆逐艦エリソンは、旧海軍の駆逐艦朝風を踏襲して「あさかぜ」と命名された(と思う)。

書くまでは深く考えなかったが、艦と船を微妙に使い分けていた。話すとき「艦に帰る」とか言わない。「船に帰る」である。同様に「うちの船ではアイスクリームが食べ放題」とかね。

護衛艦「あさかぜ」は米国製の駆逐艦だから、艦内の烹炊所にアイスクリーム製造機があり、夜食としてアイスクリームが無料で食べ放題だった。嬉しくて、食べ過ぎて、腹を壊したほどだ。

艦橋電話員として働くのは一番気分が好かった。電信室ではいつも叱られているのに、艦橋では叱られない。艦長に一番よく叱られているのは、意外にも船で艦長の次にエライ副長だった。

「スマートネイビー」の風格ある海軍兵学校出身の艦長は最年少の私が敬礼すると、いつも笑みを浮かべて答礼してくれた。一方、副長に操艦の指導をするときは厳しく、副長を怒鳴り付けるのでビックリした。後継者への教育だからと思う。

共同訓練EBBが終わるとドックに入る予定なので、艦を軽くするため砲弾を、ほぼ全員約250名が1日がかりで陸揚げした。一列に並んで一つずつ手渡しして運ぶのだ。終わったころはクタクタだったがホッとした。ところが、三日もしない内に、下ろした砲弾を積み込むことになった。無駄な苦労をしてガッカリした。

多分、何らかの事態が発生して米軍のディフェンス・コンディションが戦闘態勢を取るレベルまで上がったのだと思う。事態の重大性は全く分からないが、積み込んだ砲弾は再び下ろさなければならないことだけは、良く分かる。

砲弾を積んだままではドックに入れない。砲弾積み下ろしの苦労を忘れる間もなく、やるのだから嫌になる。私は全力でやっているのに、両隣の隊員は余裕たっぷりだ。彼らにとっては退屈極まりない単純作業に過ぎない。体力の差を嫌と言うほど感じた。

情けないことに、時々ある肉体労働がもの凄く辛かった。高速駆逐艦の乗組員は強くなければいけない。弱いと言うレッテルを張れたら、お仕舞だ。それなのに、力は無いしアンテナ塗装作業の際には恐怖を感じる。これではお粗末すぎる。これらの作業から逃れるには、辞めるしかない。職を転々は23歳まで続いた。

ドック - Wikipedia
船の建造、修理、係船、荷役作業などのために築造された設備及び施設の総称である。船渠ともいう。単にドックと言った場合は乾ドック(ドライドック)を指すことが多い。船体を水から上げることは「上架」と呼ばれる。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(3) | 転職時代(15-23歳)

2020年04月11日

電信員の仕事

前回、EBBは何の略? と思ってネット検索すると「……EBB(Exercise Base Ballの略)というニックネームが付けられ、海上自衛隊第5護衛隊(DD2隻)……」と書いた文書を見つけた。DDとは駆逐艦のこと。第5護衛隊の2隻なら旗艦「はたかぜ」と私が乗り組んでいた二番艦「あさかぜ」で間違いない。ただ、これだけではEBBがExercise Base Ballの略とは言えない。又、EBB自体が私の記憶違いかも知れない。曖昧だが書くことにした。

小さな船なら暗号も電信員の兼務だが、護衛艦あさかぜでは専門暗号員が別に配置されていた。電信員は意味も考えずに、モールス信号で送ってくるカナ文、英文、暗号文(数字)を受信した。そして、隣室の暗号員に渡すだけ。電文に基づいて読んで分かるような文書にするのは暗号員の仕事だった。

もう一つの仕事は艦橋電話員だが、英語による交信しか記憶にない。交信内容は旗流信号(国際信号旗による信号)を無電化したものと思う。誰もが経験のない米軍相手の仕事なので、ベテラン電信員が嫌がったのだと思う。下っ端が交代で当直に立った。

電信室では英語も分からないのにモールス信号の英文を聴きながらタイプを打つ。これは「ト・ツー」と聞いてAと打つだけだから鉛筆で書くより簡単だった。米国製の駆逐艦だから、通信卓にタイプライターが組み込まれ、スライドして引き出すようになっていた。

EBBと呼ばれる演習の訓練は全て乗艦してから始まった。それもたった1ヶ月で。中学の英語もろくろく知らないのに、カタカナでやってしまった。これが発足4年目の海自の状況だった。以上は60年以上前のことを思い出しながら書いてみた。記憶違いがあったとしても、記録しなければ訂正の機会さえ失うと思って書いた。

何もかも気に入った艦隊勤務だが、嫌というよりも、怖くて仕方がないことが一つあった。それは船で一番高い所にあるアンテナ付近の錆び落としとペンキ塗りだった。不幸なことにアンテナは電信員の受け持ちなのだ。仕事に怯えていては務まらない。任務は命を懸けた国防であることをスッカリ忘れていた。乗船実習が終わって暫くして、教育途中で依願退職した。何をやっても長続きしない。又失業だ、職を転々だった。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 10:54| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

2020年04月04日

EBBは何の略?

EBBと言っても何の略か分からないと思う。60年以上前の体験だが、600人を超える日本人が参加した。彼等もほとんど記憶にないだろう。私の記憶も曖昧だが、現代社会では考えられないような出来事だから書き残して置きたい。

18歳の誕生日を護衛艦「あさかぜ」艦上で迎えた。たった6ヶ月の乗船実習だが懐かしい思い出がいっぱいある。あさかぜは当時の海上自衛隊が保有する最高性能を誇る米国製の駆逐艦だった。最大戦速37.4ノットは当時保有していたフリゲート艦の倍以上のスピードである。体験できたのは28ノットまでだが凄く速い。

2隻の護衛艦で編成された第5護衛隊は海自の主力として、日米合同演習に参加した。それはEBB(Exercise Base Ball)というニック・ネームが付けられていた。当時は今と違って米国との合同演習は秘密にしていたと思う。事情通の話では日の丸で行くか、秘匿のため星条旗を掲げて行くか議論になったと言う。

米海軍の航空母艦を主力とする機動部隊との合同演習中に、空母からの洋上給油訓練も実施した。空母と護衛艦を併走させて給油してもらうのだ。とにかく小さな護衛艦が木の葉のように揺れているのに空母は微動もしない。多くの水兵が飛行甲板で腕を組んで見ているのだ。大きさの違いを感じさせる出来事だった。

私達3人の実習生は電信室勤務だが、交代で艦橋電話員もする。米軍との通話は言うまでもなく英語だが、出来ないのでカタカナでメモして一生懸命暗記した。今じゃあり得ないことだ。

「コンデム・ファイフ・ジス・イズ・コンサブロン・ツリー・シグナル(内容は旗流信号と同じ)・フォーローズ・オバー」とか、こんな風な感じで米海軍が護衛艦を呼び出す。

シグナルなら艦橋電話員が取り、そのまま伝える。メッセージなら、英語の分かる通信士(士官)に替わってもらうが、殆どシグナルの送受信だった。今でも覚えている信号用語は、デジッグ、イベント、スタンバイ、エクスキュートぐらいだ。

旗艦からの命令は旗流信号と無電で同時に伝えられる。それを受けて「スタンバイ、……エクスキュート」と艦長に伝えると、それが艦長の命令になり、艦が針路を変えたりする。まるで自分が艦を動かしているような錯覚に陥り、凄く気分がいい。

記憶をたどって書いている内に、つい長くなってしまった。私の古き良き思い出は皆さまにとっては退屈千万な話かも知れない。それなのに続きを書きたくなって(^-^;) ゴメン  …… 続く

タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(1) | 転職時代(15-23歳)

2020年03月28日

ローハイド

私は何を歌っても似合わない人。ローハイド(Rawhide)はメチャクチャ似合わない。意味も分からず、ローリン・ローリン、ロンハーイと、声を振り絞って叫んだら、皆さんに笑われる前に、自分が笑ってしまう。だから一生懸命意味を調べたが、いつものように分からない。仕方がないので空想と借用で補うことにした。

私の想像では、ローハイドとはカウボーイ。彼らに鞭とズボンカバーは欠かせない。ズボンの上に革製のズボンカバーを着用して、馬上で鞭を振る姿こそカウボーイである。

西部英語に詳しいEさんに聞くと「raw(生の)とhide(皮)で生皮(きかわ)だそうだ。水分を含んだ鞭は痛いと言う。rawhideには生皮のムチで打つという動詞としての意味もある。そこから派生してズボンカバーのことを指す言葉でもあるそうだ」。だが私は、ローハイドと聞けば鞭もズボンカバーも飛び越して、いきなりカウボーイ。根拠はないが、脳裏にカウボーイ姿が浮かぶのでだ。昔観たテレビドラマの影響と思う。

次はローリン(rollin')だが、冒頭で12回も繰り返される。Eさんの話ではrollという動詞には、31通りの意味があるそうだ。「進め進め進め」とか、いろいろ訳はあるが、ここは何も考えないでローリン・ローリン・ローリン、そのままでいいことにした。

真偽不明だが、作詞者がrawlinsの発音を聴き違えて rollin' としたと言う説もある。カウボーイには詳しくない人が作詞したとかも。色々あって本当のことは分からない。

ローハイドのサビの部分だが、ライブダムのカラオケ画面でのカタカナがフランキー・レーンの歌とかけ離れている。カタカナが違うのは仕方がないが、英文まで違っている。歌う人も少ないから適当にカナを振っているのかも知れない。
(ライブダム:の英語とカラオケの表記)
Move them on hit them up 
ムーブ ゼム オン ヒット ゼム アップ
Cut them out ride them in 
カット ゼム アウト ライドゼム イン

英語をカタカナで表現出来ないことは分かる。しかし、歌詞では head 'em upなのにカラオケではhit them upになってる。そして、どの歌詞でも 'emと書き、thは省略されている。それなのにカラオケではthemのまま、サビの部分だけでも12ヵ所もある。カタカナ振った人でもリズムに合わせてムーブゼムオン ヒットゼムアップとは歌えないと思う。合計1秒以下だからね。

音痴で口もまわらない、おまけに英語もよく分からない。それなのにローハイドは大好きなので歌おうとしたら全然歌えない。変だなと思ってフランキー・レーンの歌を何百回も聴いたら、Move them on hit them upとは歌っていないことが分かった。

ここだけでなくその他もろもろ。皆さんが既に御存知のことを、今頃になって分かったのだから情けない。そもそも75歳にもなって洋楽カラオケを始めるのは間違っている。と言われれば、返す言葉もない。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

妹、私達は変な家族

ある日、生まれて初めて妹から電話がかかって来た。何だろうと不思議に思った。10年以上は顔を見たこともないからだ。「地震大丈夫だった?」と聞かれたが、9月の胆振東部地震から2ヶ月もたっていた。地震見舞いにしては遅すぎる。何だろう?

妹とは疎遠だ。母が再婚し養父の子だが、生まれてから8年間、私が15歳にになるまで一緒に暮らしていた。その後は帰省したり、失業したりで、短期間家に帰ったことはある。だが、私が結婚してからは、家族の葬式と結婚式でしか会ったことはない。

父親が違うので美人だった。小柄なのでモデルには向かないが、顔写真のモデルには度々なっていた。狭い部屋に写真展の展示写真が無造作に置かれていた。小遣い稼ぎと思う。

当然のことだが、養父は妹を溺愛していた。そのことは養父の想い出に書いたのでここでは省略する。家族は転々バラバラだった。私は中卒で家を出て、長兄は大学の寮、次兄は職が定まらず、出たり入ったり、妹でさえ家出は何回もしている。

子供の頃の兄弟三人は年の離れた妹を可愛がった。中学生の長兄が負んぶして気晴らしに東横デパートによく行った。屋上は界隈で一番見晴らしがよかった。何階か忘れたが屋上まで階段を歩くのだ。子供だけではエレベーターガールに制止されて乗ることは出来ない。子供には手が届かない高級な乗り物だった。

そんなことを思い出しながら妹と話し続けた。「ありがとう。北海道は広いから、大地震でも何ともない所もあるんだよ」とか世間話をしたが、妹の声が替わっているのに気付いた。

「何かあったのか?」
「なにも無いと言えば嘘にになるけど話したくない」
何か言いたいことがあるのだと察してズバリと聞いた。
「体の具合が悪いんじゃないか?」

沈黙が続いたが話し出すと長かった。肺癌と打ち明けた。人と話すのが好きなので居酒屋の仕事は楽しかったし、自分が病気になるとは信じられないと言った。なんやかやと1時間以上は話していた。妹と初めて長話をしたが、これが最後となった。

妹からの年賀状には添え書きとして「私達は変な家族なのに、お見舞いもらって嬉しくて涙が出ました」と書いてあった。その時、初めて妹の苦労に思いを馳せた。何も知らないけれど、そう感じたのだ。今までは美人で交友関係も広い妹は、自由に楽しく暮らしていると思い込んでいた。

妹が中学から高校に上がるとき、私は失業中でアルバイトで食いつないでいた。中卒で22歳、虚弱体質で肉体労働が出来ない。何とかして健康保険のある所に就職したい。その一念しかなく妹のことは何も考えていなかった。その後も別世界の人と思っていたが、1時間の電話で距離が急速に縮んだ。

半年後、妹の夫から知らせが来た。妹が3月3日に亡くなり、葬儀がすんだことが書いてあった。その後、数枚のスナップ写真を送ってくれた。何故か1枚だけ50年くらい前に亡くなったはずの母の写真があった。不思議に思い、よく見ると妹の写真だった。享年71、「私達は変な家族」と、一言書き残して逝ってしまった。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(2) | 人生全般

2020年03月21日

お母さん

ブログについて読まれたら困るとか、いろいろな事情があって妻を家内とか、愚妻とか書くのを嫌っていた。それで、QPとかWF、D子とか書いていたが、今になればどれもしっくりしない。現実を踏まえれば「お母さん」と呼ぶのが一番いいと思った。

都合がいいことに、息子がとっくの昔に社会人になっているのに、妻の気分は「お母さん」のままだ。ズーっとそうなのだ。遠い昔、私は妻にこう提案したことがあった。

「これから二人暮らしになるので、お母さん、お父さんは止めましょう。サブちゃんと呼んでください。ねぇハナちゃん」
「いい年して冗談じゃない、あんたはショウちゃんのお父さんだからお父さんでいいの。分かった!」と一蹴された。

ガッカリしたが、そういうことならお母さんでよい。私自身は何と呼ばれようと「お父さん」は止めた。密かに子供になる決心をした。お母さんは子供に甘いから、その方が得だ。こんな場合、二人暮らしは凄く便利。三人以上いたら、やりたくても出来ない。さっそく子供になったら、とても快適だった。

子供は楽だ、凄く楽だ。子供の義務はお母さんの言うことを聞くだけでいい。自室にこもって大人しく勉強していればいいのだ。勉強は運動のように動きを伴わないので、いくらでも、やってるフリができる。こんな駄文を書くことさえ勉強と思わせている。

本物の子供なら、その時代特有の苦労があると思う。ところが私は、今年80のおジイさん、しかも無職だ。受験は無いしスマホも知らない。モバイル時代の落ちこぼれだが、まだ大丈夫?

こんな訳で、このブログで書くお母さんは母ではなく、ほぼ同年配の配偶者。やはり普段使っている言葉が一番しっくりする。

終わりに母子生活のエピソードを一つ紹介する。原則として別室生活で、食事の時は呼ばれたら食べに行く。普通、お母さんはノックもしないで入って来るが、ある日突然ノックをしてから開けるようになった。理由を聞くと「ご飯だよ」と声をかけると、私がビクッと肩を震わすのが気持ち悪いと言った。

確かに私は突然声を掛けられて驚いていたが、身体が動いているとは知らなかった。私は音痴なのに一生懸命歌う。それと同じように、誰にも読んでもらえないような駄文を書くのに集中している。そのとき声を掛けられると、突然現実に戻されて驚くのだ。

そのことを知ってからは、ご飯の時間が近くなるとドアを開けっぱなしにしている。遠くから「ご飯だよ〜」と聞こえたら「は〜い」と返事する。そんな疑似母子暮らしが気に入っている。一人で勝手にね。お母さんはジイさんが子供に変わっていることに気が付かない。小さな嘘は見破られても大きな嘘はバレない。(^-^;) ゴメン
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2020年03月14日

『妻のトリセツ』批判

『妻のトリセツ』批判、と言っても、ただ格好いいタイトルにしたかっただけ。何となくエラそうに思えたからだ。人前で見栄を張る度胸がないので、陰でコソコソ見栄を張ってしもうた。(^-^;) ゴメン

しかし、私にとっては、読む必要のない本だ。既に妻D子の取り扱いをマスターして、今ではノンビリ楽ちん生活を送っている。だからと言って自慢している訳ではない。マスターするのに10年以上かかってしまった。その本を読めば一週間だったかも知れない。

もし妻がアルコール・ギャンブル依存症、あるいは浮気者だとしても、その対処法が書いてあるのだろうか。もし書いてないとすると、本にするほどのことではない。妻の取り扱いは極めて簡単だ。言うこと聞いて反抗しないだけで充分。私はこの方法でD子の取り扱いに成功した。しかし、10年以上かかってしまった。もし『妻のトリセツ』を読んでいれば、一ヶ月でマスターしたかもしれない。

言うこと聞いて反抗しないだけで良いと、口で言うのは簡単だが、実行となると相当の忍耐力が必要だ。間違ったこと、理不尽なことを言われてもジッと耐えなければならない。これに慣れるのに3年ぐらいかかった。やはり『妻のトリセツ』は凄いと思う。これを読めば余分な苦労をしなくて好かったのだ。

気が付いてみれば、10年以上かかって変わったのは私かも知れない。いつの間にかD子の子供の様になってしまった。彼女をお母さんと呼び、それが大そう気に入っている。私も今年で80歳、ままごと遊びをする年より一桁多い。しかしままごとは楽しい。

D子を優しいお母さん役にして、良い子を演じるのが大好きだ。こんな心理は異常かも知れない。それでも母子二人暮らしを幸せに思い、楽しんでいたい。子供の時は苦しかった。それ以来半世紀以上「楽をしたい」と夢見ていた。そして、曲りなりに実現した。

人生は芝居、この世は舞台、人は皆役者。これでいいのだ。やっと生まれて好かったと思えるようになった。世の中にはそんな思いを一度もしないで、あの世に行く人も少なくないと思う。
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2020年03月07日

ジャンバラヤ

何時だったか忘れたが気楽で楽しい四人会でハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」歌った。
「この歌どういう意味なの」とBさんに聞かれた。
「何だか分からないんですよ」
「そう」
「調子いいから好きです」
「そうだね」

四人会では意味不明でも会話になるから有難い。一年前から一人来なくなっているが、今でも「四人会」。認知症気味なので会名変えると自分たちが混乱する。

ジャンバラヤは、分かり難い英単語でいっぱいだ。例えば、bayou.Thibodaux, Fontaineaux,gumboとか。それに分かり難い表現もある。"Son of a gun"って何だろう。一つ一つは分かっても、四つ並べると分からない。

英和辞典で調べると、「(親しみをこめて)君、お前、(驚き・失望などを表わして)おやおや, しまった, ちぇっ」だそうだ。歌って楽しければ意味は分からなくていいかな?

洋楽に詳しい人に聞くと「嫁さんをもらって故郷に連れて行き、皆に紹介する若者の喜びを歌にした。歌詞の中に地元の言葉や風物が混ざっている」そうだ。余計分からなくなってしまったが、食べたり飲んだり騒いだり、楽しい歌のように思っている。

分からなくても、歌っていて一番好きなのがここ。
Thibodaux, Fontaineaux, the place is buzzin',
kinfolk come to see Yvonne by the dozen.
Dress in style and go hog wild, me oh my oh.
Son of a gun, we'll have big fun on the bayou.
(1952年7月 作詞・作曲ハンク・ウィリアムズ)

ジャンバラヤとはクリオール 料理だそうだ。「クレオール料理 アメリカ合衆国のルイジアナ州ニューオーリンズを中心に食べられている、フランス、スペイン、西アフリカ、ドイツ、イタリア、アイルランドなど、様々な国や地域の食文化の影響を受けた料理。 またはそのスタイル」。
(クレオール料理 世界の食べ物用語辞典より抜粋)
posted by 中波三郎 at 20:20| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

気晴らし散歩

感染の条件は密室で濃厚接触と聞いてドキドキしたが、私には関係ないと思っていた。ところがカラオケ、飲み会、地下鉄が危ないと聞いてビックリ。見えなくて聞こえない、分からないから感染の不安に怯えるのだ。こんな時こそ健全な気晴らしが必要と思う。

2月28日、新型コロナウイルスの感染者を増やさないため、北海道知事から「緊急事態宣言」が出された。そして知事は外出を控えるよう呼びかけた。これを受けて臨時休校、スポーツ観戦等、多くの人気イベントも中止になり、様々な予定がキャンセルされた。

外出を控え家に閉じこもっていても、健康には良くない。そこで何か気晴らしがないかと考えた。前提としてコロナに感染する恐れのないことに限る。余りにも平凡な結論だが、人ごみでない近所の散策が良いと考えた。

私にとっての近所は中島公園だが、少し足を延ばして薄野鯉放流場まで行くことにした。そこはモノトーンの冬でも時々刻々と変化して、いろいろな姿を見せてくれる。今日はどんな風景に出会えるかな、と考えながら歩いていると楽しくなって来る。

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藻山橋(南8西4)から鴨々川上流を見ると高層ビルが映っていた。ビルに重なるように鯉が1匹見える。今は冬だから鯉は殆ど見られない。夏だったら沢山の鯉が泳いで生じるトレイルや波でビルの形を崩す。そして自然の力で戻ったりする。

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これも同じ橋から見た鴨々川だが一部凍っている。マガモは氷上でジッとしていたかと思うと、チャポンと川に飛び込み泳いだりするし、飛び去ることもある。そのたびに風景が変わる。川面が全面凍結した後に雪が降ると、純白で美しい世界に様変わりする。ところで、向こうに人道橋が見えるが橋の下辺りも融けている。

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画像は別の日だが、鯉は人道橋の下辺りに居る。頭を上流に向けて殆ど泳がない。この日は珍しくオシドリの雄が来ていた。鯉の他にも小魚が見られるが川面が凍っても、氷の下で生きている。

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この日は、人道橋から下流の藻岩橋を見ると薄氷が張っていた。マガモがそれを壊しながら泳いでいた。冬の鴨々川は水と氷とマガモと鯉で風景をつくっている。そして時々、オシドリやダイサギが来る。もちろん周辺にはカラス、ハト、スズメが居る。

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この日はダイサギが来ていた。以上の画像は去年の12月末から今年の2月末までに撮ったもの。

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3月2日に撮った一枚。薄野鯉放流場を後にして中島公園に向かった。この先にも遊歩道が続いている。公園まで約150m、放流場には柵があるから鯉は来れないが、水鳥は飛んで来れる。マガモはもちろん、ダイサギ、オシドリもこの先で見たことがある。

家を出て中島公園を通り抜け、ここまで来て帰るのに往復50分。人通りも少なくコロナウイルスの心配も無い。時々観光客グループに出会うこともあるが、避けるのは簡単だ。僅か1条の距離に3本の橋(藻山橋、人道橋、南8条橋)が架かっているから、簡単に対岸に行ける。本当は仲良くしたいけれど、こんな状況では仕方がない。ともかく安心して楽しめる場所があるのは有難い。

posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2020年02月29日

D子の取説

ドラマを観ていると、女が男に言った「私を優しさで包んでほしい」。いいなぁ、と思い続けている内に老人になった。あれから半世紀もたっているのに、未だに思い出すのは何故だろう。

優しさで包みたくても相手がいない。ドラマでは美男美女が演じていた。普通なら諦める。しかし、私の辞書に不可能という文字はない。ナポレオンに言っている「不可能という文字は愚か者の辞書にのみ存在する」。私は愚か者だが望みは小さい。

不可能なことは、はなから考えられない。優しさで包むのは私だから意志さえあれば出来ること、相手は誰でもいいから名前はD子でよい。こうして、人を優しさで包む人生ドラマが始まった。

舞台は我が家、主演が私なら、D子は誰かは想像に任せる。定年退職して二人暮らしになると、奥ゆかしいと思っていたD子は横暴極まるモンスターであることが分かった。仕事を辞めたらノンビリ気楽に暮らすのが長年の夢。モンスターは退治すべきだ。

本当に退治したら刑務所行きだ。何とかして優しい人に変えなければいけない。そのとき思いついたのがドラマのセリフ「私を優しさで包んでほしい」。年はとっても女と男、これだけは永遠不滅である。「北風と太陽」の太陽になって優しさで包むことにした。

と言っても、積極的に何かをすることではない。むしろ何もしないことが大切だ。絶対服従、口答えしない。この二つさえ守っていれば結果として優しさで包むことになる。

簡単そうだが実行となると、かなり苦しい。理不尽なことをされても、精神的虐待を受けても、素直に従うのだから大変だ。しかし、極貧の為10歳から働き手であった、私の生きる目的は、「楽をすること」である。目的達成までは耐えるより仕方がない。最初の1年は苦労の連続で、3年たったら効果が表れ出した。

楽で幸せを感じるのに10年以上はかかった。私の全てを掛けた戦いに勝利した。喜びに溢れてどうにもならないから、ここに書いている。成功した私は、D子を変えた自分を褒めてやりたい。心の底からそう思ったが、ちょっと違うような気もして来た。

D子は、私が収入の減る部署に変わっても、あるいは転勤しても、何一つ文句を言わなかった。賃金面では現場を離れると収入が大幅ダウンする。皆が事務室勤務や研修所勤務等で現場を離れることを嫌がった。だが、現場が苦手な私は大喜びだ。オマケに皆が断るので行き易かった。D子だけは収入が減っても喜んでくれた。今思えば驚くべき内助の功である。

D子は何時もグッタリとして現場の仕事から帰り、暗い顔をしている私を見て、中途退職を恐れていたと思う。実は、定年を私以上に喜び、開放感を味わっていたのは彼女だったのだ。

我慢に我慢を重ねて、私を支えてきたのだ。奥ゆかしい性格と思っていた私がバカだった。そんな性格な人などドラマの中にしか存在しない。

事情が分かっても、こんなモンスターと一緒に暮らすわけには行かない。先ず、離婚を考えたが無理。もの凄い労力を浪費しなければならない。ノンビリしたラクチン生活など夢の夢、宇宙の果てまで飛んで行く。

いろいろ試みて、最後にたどり着いたのが、優しさで包むことだった。十数年にわたり、星の数ほどの失敗を重ねて身に着けた、「D子操縦術」である。考えてみれば在職中、長きにわたり彼女がしてくれたことの、お返しに過ぎない。

それなのに得たものは極めて大きかった。夢にまで見たラクチン生活を気の向くままに楽しんでいる。不公平なはずだがD子は気にせず、すこぶる上機嫌。私も幸せで呑気な王子様に生まれ変わった。不適切な表現で(^-^;) ゴメン
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 20:56| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2020年02月22日

ブルーシャトウ

音痴だから正確な意味では歌を理解していないと思う。私にとっては歌は思い出。ブルーシャトウを聴くと霧の中でうっすら見えるフランスの城、あるいはボルドー地方のワイナリーを連想する。行ったことはないけれど、映画やテレビで見たことがある。

ところが、当時の小学生にかかると、「森と泉に囲まれて静かに眠る」は、「森トンカツ 泉ニンニク かコンニャク まれテンプラ 静かニンジン 眠ルンペン」となるそうだ。ブルーシャトウは小学生にも大人気、この替え歌を皆が歌っていたそうだ。

当時27歳の私は何も知らなかったが、この替え歌を口にすると意味も無く楽しい。ルンペンの後、どう続くか分からいのに面白がっていた。

ブルーシャトウは1967年3月に発売され、レコード売上150万枚の大ヒット曲、橋本淳作詞、井上忠夫(後に井上大輔)作曲だった。そして、私にとっては新婚時代の歌。

間違いかも知れないが、札幌市南3条西2丁目辺りに三条ビルがあり、高級喫茶ブルーシャトウがあったと記憶している。多分、今のKT三条ビルと思う。1961年の建造となっているので、時代がほぼ一致する。

思い出深い喫茶店なので、三つの出来事を今でも記憶している。まず最初は25歳で札幌に着任したころのこと。初対面の先輩が連れて行ってくれたのが、ブルーシャトウだった。先輩は札幌で最高級の喫茶店と言ったが、まさかと思う。私たちは安月給で、あらゆる最高級とは縁がなかった。

2番目は札幌で知り合った女性と初デート。ともかく先輩に高級と言われているので、その喫茶店にお連れした。「お砂糖幾つ」とか慣れないセリフを言ったら「二つ」と答えてくれた。そこまでは好かったが、袖がコップに触れて、バッシャっと水がこぼれ、慌ててしまった。喫茶店に同伴は初めてなので緊張して手元が狂ったのだ。最初のつもりが最後のデートとなった。

3回目は後に妻となる女性とデートした時だ。その時は同じ失敗をしなかった。ところが、控えめな人と思ったのが大間違い。見事に術中にはまった。今ではすっかり尻の下に敷かれている。しかし、有難い面もある。尻の下に敷かれると、相手が最大限の力を発揮してくれるのだ。

私の人生で唯一の成功は長生きだ。しかも日々幸せを感じながら生きている。これほど愉しく生きられるとは夢にも思わなかった。好きな曲ブルーシャトウについて書くつもりだったが、気が付いてみれば、思い出の喫茶店に変わってしまった。やっぱり歌はダメだ。日常を語る方が面白い。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

私はバカか?

二つ違いの次兄(以下、兄)とは助け合って生きて来た。ドカ貧の家では親は当てにならないので、兄弟は助け合わなければならない。二人は影響し合っていた。兄抜きで私の人生は語れない。

終戦後3年くらいまで渋谷は文字通り飢餓の街だった。産業がないから飯のタネがない。都電青山車庫の焼け跡には鉄くずが放置されていた。兄と私は腹が減ったので鉄板を拾って、くず屋(廃品回収業者)に売った。二人で運ぶのに精いっぱいの重い鉄板が8円にしかならなかった。菓子パンを一つ買い半分ずつ食べた。

朝鮮戦争が始まると、焼け跡のガラクタも資源として見直され、地中に埋まっていた金属やガラスが値上がりした。子供達は地中深く掘り返し、金属やガラスを掘り出して、くず屋に売った。銅はアカと呼ばれ高く売れたが、殆どはカラスの破片だ。1キロ掘りだせば平均で10円くらいになった。子供達にはいい小遣い稼ぎだ。

そして、東京の景気も次第に好くなり、子供でも働く気があれば仕事ができるようになった。私は新聞配達をし、兄は小さなDPE屋(写真の現像・焼き付け・引き伸ばし、 Development - Printing - Enlargement の略)でアルバイトを始めた。

話は前後するが、私は小学4年から新聞配達のアルバイトをしていた。6年生の兄が勉強している姿を見たことはないが、していたらしい? 6畳一間に家族6人だから、家では勉強をすることが出来ない。だから図書館か、どこか外でしていたと思う。

その頃、配達先のDPE屋でアルバイトを求めていることを知ったので、ブラブラしている兄を紹介した。私は年下だが、アルバイト情報では兄より一歩進んでいた。DPE屋は青山学院の学生が二人でやっていたが、一人が止めるので助手を求めていたのだ。

青学の学生は卒業すると豪徳寺で写真店を開いた。兄は中学を卒業すると、そこで働いた。写真の仕事が凄く気に行ったようだ。結果的に私は、兄の人生を変えてしまったようだ。彼は将来写真で身を立てたいと考えたが、現実は前回、次兄は何処へ?に書いたように滅茶苦茶な人生になり、未だに行方不明だ。

話は戻るが、兄は数年で写真屋を辞め、アルバイトをしながら早稲田大学に行っていた。その頃、私は体を壊し、自衛隊をを1年余りで中途退職して家の仕事を手伝っていた。だが、その仕事さえなくなり失業状態だった。その時、兄が仕事を紹介してくれた。

それが、「インド通信社. PTI(Press Trust of India) 東京支局」だった。配達と雑用だが、日本語の出来ない支局長とアルバイトの私しか居ない気楽な仕事だった。支局長は殆ど取材で外出だ。私は専用の勉強部屋を与えらたような気分だった。

国家公務員試験は、それぞれ、高卒、短大卒、大学卒程度の試験をするが、受験資格としては学歴をを問わないことを知り、受験することにした。当時は給料が安くて不人気の国家公務員を受ける人は少なかった。東京都職員に比べてもかなり安かった。

戦後の公務員は文字通りパブリック・サーバントとして始まり、それ故に待遇は悪かった。しかし、人事院のお手盛り勧告を重ねるうちに良くなり、「食うために働く」と言う目標は、知らない内に達成された。兄は私に良い影響を与えてくれたのである。

一方私は、兄に悪い影響を与えた。もし私が写真家志望の学生を兄に紹介しなければ、別の人生を歩んだと思う。学生は親が豊かなので写真店を開いた。兄には資金もないし、写真家になるセンスもない。数年間にわたる写真店修行は水泡に帰した。

ただ、言い訳をさせてもらうと、中学で秀才と言われた兄は、心の底では誇りに思い、それが人生の目標を高くさせたと考える。彼には普通の人とは違うという驕りがあったと思う。

一方、私の目標は「食えること」と「楽をすること」しかない。公務員になって安定して食えるようになった。しかも退職後は楽をしている。そして、これが一番肝心なことだが、心の底から幸せと思っている。他に何も考えていない。時々思う、私はバカか? 
タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2020年02月15日

次兄、何処に?

心が落ち着いて余裕ができると、何処にいるか分からない人、分かっていても事情があって会えない人のことを、毎日のように思い出す。次兄(以下、兄)は何処で生きているのだろう? 40年くらい音沙汰がないから分からない。兄7歳、私5歳で終戦を迎えた。終戦前後は激動の時代だから、2年違うと経験が全く違う。

父が暴漢に襲われて血だらけになって担ぎ込まれたのも、それが原因で家出したことも、5歳の私には深い傷を与えない。そんなことがあったな、と思うだけ。怖いとか悲しいとかの感情が伴わないのだ。困難に直面した父の気持ちも分かってあげられない。

私の人生はドカ貧から始まったが、次兄は長兄ほどではないにしろ、豊かな暮らしからどん底に落ちる気分を味わった。私のように貧乏当たり前、子供でも金が要るなら働くの当たり前、高校に行かないのも当たり前と割り切ってはいなかった。今考えると気の毒だが、当時は、二人の兄は自分勝手と思っていた。

次兄は中学の成績が良かったので、先生から一流都立高校への進学を勧められた。家まで次々といろいろな先生が説得にに来た。金持ちの親を持つ級友まで来て、学費は出すから行けと言う。兄は昼は働いて夜間の高校に行くと決めていたので、迷惑がっていた。今と違って生活保護を受けていたら高校には行けない。それを言えないから困る。その辺りが分からないようだ。

兄は写真屋で働きながら、定時制高校に行ったが、写真屋に専念したいと言って止めてしまった。3年くらいしたら写真屋にも厭きて大学に行く気になった。兄の話によると、当時は早稲田大学入学資格検定試験というのがあって、中卒でも入れたそうだ。後で考えると大検(大学入学資格検定試験)を受けるべきだった。

写真屋を辞めて、晴れて憧れの早稲田に入学したものの生活が苦しい。勉強する暇がないほどアルバイトに励んだが、授業料の滞納が続き、最終的には除籍となった。その後、職を転々としたが、安定を求めて都庁の採用試験を受けて合格した。

ところが、高校卒業の証明が必要と言われたが無い。兄は大学に3年以上行っていたので自分では高卒をクリアと思っていた。大学中退の証明があればよいと言われたので、早稲田に問い合わせると、そのような学生は存在しなかったと言われたそうだ。除籍とはそういうものなのだ。

支払った入学金と1年分の学費は丸損となった。手続きを怠った結果がこれである。運の無い人だ。その頃、二人で部屋を借りた。私が中卒でも航空管制官に採用されたことを知ると、俺も来年受けようとか言っていた。しかし、3ヶ月もしない内に部屋代も払わないで姿をくらました。それから15年後くらいして会ったとき、次のようなことを話してくれた。

どこかの工場で働いていた時に結婚し、子供もできたが、妻の様子がおかしい。後のまつりだが精神病だった。気分次第で包丁を振り回したりして怖い。子供のことも心配だが離婚は出来ない。病気の配偶者とは離婚は出来ないそうだ。仕方がないので子供を連れて家出した。結局子供は施設に預けて働くことになった。兄が40歳くらいのとき行方不明になって久しい。生きていれば81歳、この兄とは、お互いに助け合いながら生きて来た。
タグ:親・兄・妹
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般