2017年07月29日

自分探しの旅

妻をお母さんと呼ぶ夫は少なくないが、私は本気になって自分を子供と思い込もうとしている。いい歳して困ったもんだが仕方がない。人として対等と思っていたころは争いが絶えなかった。試みに「親子」になってみたら全てが解消された。こんな訳で子役を演じている。

「お母さん、ちょっと自分探しの旅に行ってきます」
「探しに行かなくても、アンタはそこに居るじゃない」
「ここに居るのは私の抜け殻です」
「ああそうかい。そんならご飯は要らないんだね」

私の旅は自分の脳の中を歩き回ること。過去ぬきで現在の自分を知ることはできない。生まれてから22歳に至るまで私の実在を示す証拠は二つしない。母に抱かれた写真と戸籍謄本だけだ。職を求めて転々としていた間に全ての物品を失ったのだ。

「ヒマならパン買って来て。ボストンベイクのイギリスパンだよ」
「はい、分かりました。行って来ます」

「遅かったね
「ボストンとかイギリスとかで探すのに骨折れました」
「自分探しより簡単でしょ」
「あ、そうだ。行かなくちゃあ」
「どこ行くの?」
「自分の部屋です」

自分探しと言う言葉をよく聞くが、私は文字通り自分を捜している。いかなる人間が今の私になったのか。自分を知るには自分の歴史を知る必要がある。うろ覚えの記憶だけが頼りの心の旅。空白の22年間を書くこにより自分を取り戻したい。抜け殻はごめんだ。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢

2017年07月22日

親子はつらいよ

何の取り柄もないないが運だけは強い。振り返ってみれば人並みにいろいろあったけれど、運よく乗り越えられた。一方、自分の意志で企画実行し成功したことは一つしかない。それは定年後の絶え間ない喧嘩に終止符を打ち、我が家に平和をもたらした事である。計画通りにことは運び大成功と思っていたが、なぜかスッキリしない。

私は東京渋谷区青山の焼跡育ち、米軍の空襲で渋谷区の77%が焼け野原になった。食うや食わずの人々の暮らしは悲惨を極めた。共通の願いは楽をすることだった。そして今、私は楽をしている。夢は現実となったのだ。だが定年退職をして無職になり、いきなり楽になった訳ではない。家に根を張った抵抗勢力がドンと構えていたのだ。老妻もまた、更に楽が出来ると期待していた様だ。

「定年おめでとう。やっと夢が叶ったね」
「お陰様で無事に定年を迎えました。今まで有難うございました」
「これからは家事も半分ずつにしよう」
「そうですね」

とは言ったものの内心は穏やかでなかった。慣れないことをやるのは苦行だ。それに私のやり方を気に入るはずがない。なんやかやとイチャモンをつけられるに決まっている。

その後の10年は悲惨だった。何をするにも意見が合わずケンカをしては負かされていた。私が筋道を立てて説明しても「悪いのはアンタだ。私は悪くない」と一蹴される。説明しては一蹴、説明しては一蹴を繰り返す10年だった。頭の回転が鈍い私は立ち止まって考えた。そして私ばかりが苦労する争いは止めることにした。

外では控えめだが家の中では千人力。こんなモンスターがウサギ小屋の中で粛々と育っていたとは夢にも思わなかった。人間は自由で平等と信じていた私がバカだった。二人だけの世界は弱肉強食の世界だったのだ。しかし徹底的に困れば知恵が出る。何年か真剣に考えていたら好いことを思いついた。子供になれば良いのだ。子供は働かなくても飯が食える。洗濯も掃除もしてもらえる。凄く楽だ。

さっそく老妻をお母さんと呼ぶことにした。何事も形から入らなければいけない。私は良い子になる決心をした。親が考える良い子とは親に逆わない子だ。次は挨拶だな。おはようございます、頂きます、ご馳走様、おやすみなさいを励行した。やる時は徹底的にやるのが好きだ。3年くらいかかったが全てを完璧にマスターして良い子になった。

苦節10年、私は良い子になり老妻を優しいお母さんに作りかえることに成功した。小さい頃からの夢が叶いのんびりと暮らしている。子供は何もしなくていいのだから楽だ。お母さんに家事一切を任せ、毎日自室にこもり勉強をした。子供の仕事は勉強だからね。

実は勉強は嫌いなのだ。代わりにジョークのブログを書いたり、中島公園のウェブサイトの更新をしている。時間つぶしの趣味をやってるだけだが、机に向かう姿は勉強に似ている。「ご飯だよ」と声がかかると「今行きます。有難うございます」と返事をする。ここがホンモノの子供とは違うところだ。亀の甲より年の功である。

年をとっても家事をするお母さんは大変だと思う。だから感謝の気持ちが口先だけでなく、身体全体から溢れ出て来る。それをお母さんが見逃すはずがない。お母さんは益々優しくなり私の感謝は深まるばかりだ。好循環が更に好循環を生み全てが上手く行った。行きすぎて気味が悪い。こんな時はそれとなく探りを入れる。

「私は貴女の夫なのにお母さんと呼ぶのは変ですよね」
「別に変じゃあないよ」
「好かった。なんか気になっていたのです」
「気にすることないじゃない」
「いつも優しいお母さんで居てくれて有難う」
「何言っても分からないから諦めたんだよ。屁理屈聞くのも面倒だしね」
「でもお母さんと呼んでいいのでしょう」
「正ちゃんの母親だからお母さんでいいんだよ」
「正ちゃんはもう直ぐ50歳ですよ。子供という年ではないですね」
「それでいいの。幾つになっても子供は子供」
「そうですか。それを聞いて安心しました。私も子供のままでいいのですね。お母さん」
「パカ言ってんじゃないよ! アンタなんかもう直ぐ80のジジイじゃないか」

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(5) | 高齢時代

2017年07月15日

自分史を書こうと思います

「自分史を書こうと思います」
「それは良いことだ。暇つぶしになるしボケ防止にもなる」と、先輩はうなづく。
「ブログで公開しようかな」
「誰も読まないよ。悪いけど俺もゴメンだ」

「グーグルが読んでくれるでしょ」
「マシンが自動的に索引を付けるだけだ。人が読まなくては意味ないだろう」
「歴史上の資料になります」
「腐るほどあるからアンタのは要らない」

今ある歴史は1%にも満たない勝者によって書かれている。事実かも知れないが極端に偏っていると思う。情報化以前の世界なら仕方がないが時代は変わった。現代はビックデータを解析する技術が進んでいる。更に技術が発展すれば思いもよらないなアイディアを実現できるようになるかも知れない。例えば歴史、勝ち組だけの歴史でなく敗者や普通の人々を含めた、幅広い事実を反映した歴史に変わるかも知れない。

「いったい何を言いたいのだ」
「私のブログも百年後には歴史データの一部になるかも知れません」
「なんで?」
「大量のデータを細かく分けて、組織的に論理的に調べるシステムが開発されました」
「それで自分史を含めた超ビックな歴史データを処理できると言うのか?」
「分かりません。できたらいいなと思いました」
「なんだ、また空想か」

科学的知識がないのだから空想するしか能がない。私のブログから空想を取り除いたら「起きて飯食ってウンコして寝た」の羅列になってしまう。なにしろ狭い範囲で暮らしているのだ。出掛けるといってもせいぜい中島公園から薄野までの範囲。今年一番遠くにいったのは滝野すずらん公園である。しかも唯一の遠出だ。

ところで1980年頃の私は「新しい物好き」だった。物珍しさでパソコンを買ったが、ここまで情報化が進むとは夢にも思わなかった。ブログ、フェイスブック等、既に個人が世界に向けて発信できるシステムは出来上がっている。世界中にテキスト・映像、音声等の情報が、収集可能な状態で溢れている。この情報に目を付ける人は各方面から出て来ているが、今後その傾向は更に進むだろう。

約10年前に中島公園の歴史のページを更新しようとして明治時代の写真を捜したが僅か数枚しか見つからなかった。もし百年あるいは千年後の人が、振り返って現在を調べようとしたら映像、テキスト、音声等の資料が溢れている。金も権力も無い普通の人が残した資料も歴史学の発展に貢献するようになるかも知れない。

現代は各国各民族ででいろいろ違う歴史が語られている。戦争で負けたり勝ったりする度に歴史観が変わったりもする。一体世界で何通りの歴史が語れているのだろうか。こんなにバラバラで見解の異なる歴史観があっていいのだろうか。ときには戦争の原因にもなっているではないか。こんなに歴史認識が不安定では安心して暮らせない。永い時間をかけても世界共通の歴史観を構築する必要はあると思う。

「世界共通の歴史観のためにアンタの自分史も必要と言うのか」
「そうなんです。エライ人の歴史だけでなく普通の人の歴史も必要です」
「考えられないほど膨大な量だぞ」
「それでいいのです」
「なんで?」
「世界共通の歴史観を持とうとする意識が大切なのです」
「意識だけじゃあ何もできないよ」
「話し合が出来るでしょ」
「話し合っても合意できない。このことは歴史が証明しているよ」
「意志さえあれば大丈夫です」
「なんで?」
「結論が出るまで戦争は止めようとか先延ばしが出来るでしょ」

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 13:05| Comment(0) | 高齢時代

2017年07月08日

ハッピー・リタイアメント

ハッピー・リタイアメントとは「定年以前に豊かな老後資金を確保して自適の引退生活に入ること」だそうだ。私は辛い仕事から解放されて幸せになることと勘違いしていた。無職だから自適だし、車は無いし酒もタバコも飲まないし、旅行、ゴルフ等金のかかる遊びは一切しない。だから暮らしには困らない。貧しいながらもハッピー・リタイアメントだ。

スポーツ、ゲームは全部ダメ、ノロマだから仕事もダメ、オマケに音痴。少しは暗い気持ちになってもよさそうなものだがなれない。自分の殻に閉じこもって世間を見ないからだと思う。知れば穏やかでは居られないだろう。何が幸せの種になるか分からないのが人生だ。私の場合は無趣味、無能力が経済的負担を軽くし幸せの種になってくれている。

井の中の蛙だから小さい話をしたいと思う。オタマジャクシを限りなく小さくした様な精子の話である。人間の感覚で言えば、精子は卵子に巡り会うまで6Kmの旅をするそうだ。誕生と同時に人生は始まると思っていたが違うようだ。実は生れる10ヶ月も前から始まっていたのだ。つまり胎内で6Kmの旅を始める精子の時から、私は私なのである。

言うまでもないことだが精子である私もノロマだった。ウジャウジャ居る精子が卵子を目がけて突進している。それらが足の引っ張り合いをして疲れ切って倒れた頃。胎内の片隅でジッとしていた私は、目の前が次第に明かるくなったことに気が付いた。ノロリノロリと進んだら卵子に到達してしまったのだ。そんな訳でノロマの私が生まれたのだと思う。

医学のことは良く分からないが精子は前向きだと思う。卵子目がけて一心不乱に全速力で胎内を泳いでいる。それに生まれる前だから赤ちゃんよりももっと純真無垢だ。限りなく清らかで、あえて言えば天使のような存在と思う。形だって頭が小さくしっぽが長くてとても恰好いい。人間に例えれば足が長いファイターズの大谷のような感じだ。

私も前向きに生きてきたつもりだ。失敗の連続だが何時もなんとかなるさと思い、何とかなって76歳まで生き延びた。これが私の唯一の自慢である。長い人生では辛いことも度々あったが、その時は逃げる。しっかりと前向きに逃げたのだ。そして生き残った。

「逃げるとは卑怯だぞ!」と先輩は厳しい。
彼は私より2歳年下だが職場では先輩だったので退職した今でも威張っている。
「だから前向きにと言ってるでしょう」
「逃げるのに前も後ろもあるか!」
「他人様に責任を押し付けて逃げるようなことは決してしません」
「それで前向き?」
「例えば東京がダメなら大阪があるさというようにですね」
「なるほど、前向きとは行き先のことか」
「まあいいでしょう。出来ないことから逃げて出来そうな方向に向かうのです」
「動くたびに収入が減るだろう」
「仕方ないですね。病気になるよりマシでしょ」

かって私が勤めていた職場は現場第一主義だった。現場を離れると収入がガタ減りになるので誰もが事務室勤務や訓練施設勤務を嫌がった。それどころか管理職になるのさえ嫌がる人が多かった。そんな職場だが現場が苦手の私は喜んで後方勤務に甘んじた。最後には管理職にまでなってしまった。仕事は苦手だが何とかして定年まで勤めたかったのだ。そしてハッピー・リタイアメント。 ああシンド死ぬまでお前と二人連れ(運)

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:札幌
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 高齢時代

2017年07月01日

管制官採用試験の思い出

1964(昭和39)年は東京はオリンピック景気で浮かれていた。私もしっかりと便乗、好景気に押されて航空管制官採用試験に受かってしまった。中卒で短大程度の試験を受けるのだから3年はかかると考えていたが、体験のつもりで受けたら合格してしまったのだ。実力など無いのだから運が好かったとしか考えられない。

先ずは時の運である。時代は東京オリンピック景気のさなかにあった。民間と比べて公務員、特に国家公務員の給料が著しく安いので人気がなかった。それでも贅沢しなければ食えるのだ。私にとってはそこが肝心。職を転々としてきたので安定こそ全てと考えていた。それで中級職の航空管制官採用試験を受けることに決めたのである。

理由は前回も書いたが20歳から27歳までの男子なら誰でも受けられること。しかも専門試験は英語だけだから頭が悪くても時間と熱意さえあれば合格出来ると考えた。インド通信東京支局にいても電話も滅多にかかって来ないし来客もほとんど居ない。しかも支局長はほとんど取材に出ているので留守番のようなものだ。自由時間はたっぷりある。それに私は公務員にならなければ生きて行けないのだから熱意も充分である。

他の専門試験なら学校に行く必要があるが、英語なら本とノートとラジオがあれば一人でも勉強できる。27歳まで受験資格があるので5回は受けられる。学校に行く金もないし肉体労働も出来ないのだから合格するまで受けるだけだ。極めて困難だがそれしか生きる道がないのだから話は簡単だ。迷いがなければ精神も安定し目標に向かって一直線に進める。仕事中も含めてすべての時間を英語の勉強に使うことに決めた。

勉強の中心はラジオ英語講座、事務所には机があるから勉強しやすい。テレタイプで送られてくるニュースの配信はのんびりと都電に乗っての配達だから車内や停留所でも単語の暗記などはできる。このようにして仕事中でも90%以上の時間を勉強に使えた。仕事が楽なこと時間に余裕があること。この二つの幸運が私に希望を与えてくれた。

退社後はトイレや食事時間を含め全てを勉強にあてた。疲れて横になったら何も分からないのに米軍のラジオ放送を聞いていた。Far East Networkという言葉が頻繁に出てくるが私にはファー・イースト・ナポリとしか聞こえない。聴いて分かった英語はドライブ・セイフリーとセイブ・ユア・マネーくらいである。アメリカ兵にはこの二つが大切なのだろう。

英語に集中したお蔭で悩みが消えた。病気で働けなくなって死ぬという妄想から解放された。気分が安定し充実した毎日を送ることが出来たのである。英語も教養試験も難しくて分からなかったのに、何故か試験に合格した。出来たのは多めに見積もっても半分くらいだった。実際は半分以下かも知れない。ともかく運がついたのだ。

最初の9ヶ月は羽田の訓練所での研修だが外国人留学生が一人居た。発展途上国の若い空軍中尉だった。彼は日本語が出来ないので休み時間には英語で雑談をするが、我々日本人研修生でまともな英会話ができ出来たのはアメリカの航空会社から転職したB君だけだった。出来ない私たちはみっともないカタコトで語り合い笑いあった。

それから約30年後のことだが、国内某所で管制に関する国際会議があった。かってのカタコト同期生がいつの間にか英語ペラペラになっていたのでびっくりした。大勢の前で堂々とスピーチをするし、懇親会では外国人管制官相手にホストとしての役目を立派に果たしていた。その機関では彼が所属長で私はヒラ、つくづく地位は人を作ると感じた。一方私は「枯れ木も山の賑わい」の木々の様に会場片隅の席に植わったままだった。

暇に任せて昔のことを思い出していた。失業していたのに運好く定職につけた。全ての社会環境が私の味方だった。餓えている時に天から飯が降って来た様なものだ。ノロマで体力がないので何処に行っても勤まらず職を転々としていたが、インド通信東京支局で働くようになってから運が向いて来た。支局では英語も少しは必要と言うことで大学生のアルバイトとして引き継ぎられて来たが兄が辞める時に私を入れたのだ。これも運。

人手不足は極まっていた。コツコツ一人勉強の私にまで知人を介してロイター通信社から声がかかったほどだ。それは大卒職種でないので大卒は採れないという理由からだった。しかし高卒の資格は必要と言う。中卒はホントにつらい。知人は私が管制官採用試験を目指して勉強していることを知っていたので高校ぐらい出ているだろうと思い込んでいたらしい。知人も私もガッカリした。

話しは戻るが管制官試験には60名が合格したのに半数くらいしか入って来なかった。しかも研修中に2名辞めたので半分しか管制官にならなかった。これらは後で分かったことで、当時の私は手放しで大喜びしていた。自覚していない才能が受験に触発されて芽吹いたとか勘違いをした。愚かな私は次の目標は上級職試験とか高望みした。

運が好過ぎて英語も身につかない内に採用されてしまった。それなのに目標達成ということで勉強する気がなくなった。根が怠け者の私は公務員なら病気になっても首にはならないだろうと安堵してしまったのだ。本当はそれからが勉強なのに困った性格である。

私は運動が苦手で碁将棋麻雀等のゲームも出来ない、しかも虚弱体質でノロマで音痴だ。それでも仕事が出来れば生きられるが、そんなことはあり得ない。それなのに安定した職に就き定年まで勤めることができた。現在は苦手な仕事からも解放されて幸せに暮らしている。私のように運のいい人はいない。

運悪く現在苦しんでいる人も多いと思う。そのような人たちにとって、私のような低学歴、低体力、低脳力の人間が幸せにノホホンと暮らして居るのを見ると目障りで腹が立つかも知れない。でも勘弁して欲しい。人生最大の苦しみに遭う日も近い。それまでのホンの一瞬のことだから。私はセミ、長い間真っ暗な土の中に居た。そして今、温かくて明るい緑の大地で大木にへばり付いて歌っている。ミーン、ミーンミン♪

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
タグ:都内某所
posted by 中波三郎 at 09:41| Comment(0) | 在職時代