2017年06月10日

家を出る

「自分史を書こうと思っています」
「年寄りは猫も杓子も自分史だな。書いてどうする」と先輩は冷ややかだ。
「ともかく、右サイドページのカテゴリを見てください」
「めんどくさいよ」
「順番は滅茶苦茶で書きたいことを書いています」
「そうかい」
「何年か後には幼児から老人時代まで繋がり自分史になるのです」

最初にこれまでの経緯を少しだけ説明
19歳のときは東京の家からは遠く離れて働いていた。家計を助けるためである。1959年の秋、母から手紙が来た。家業である経師屋の仕事が忙しくなってきたので家に帰って来いと書いてあった。家で働いて暮らしが成り立つなら、それに越したことはない。

家に帰って来たものの、仕事が忙しかったのは12月までの2ヶ月間だけだった。一体なんの為に私を呼んだのだろう。母は私が貯金をいっぱい持っていると思っていたようだ。勤め先から衣食住は支給されるが月給は5,000円だ。その内4,000円を約4年にわたり毎月家に送金し続けていたのだから貯金などある筈がない。

一方、母は私を買いかぶってくれたのだろうか。中卒で何の技能も技術も無い私が地方に出てバクバク稼いでいると思っていたらしい。まったく世間知らずの母だが、私が文無しだと知ると家を出ることに反対はしなかった。20歳になった私は、遅まきながら親孝行ごっこの夢から目を覚ました。 以上、「複雑な家族関係」の後段より抜粋。

家に帰れば事情もよく分かった。子供たちは誰も家に寄り付かないのだ。家には高校を中退して銀座の飲食店で働いている妹が残っているだけだった。中波さんは私にとっては養父だが妹にとっては実父だ。中波家の本当の家族は父母と妹の3人だけと感じた。この三人だけが深いところで繋がっている。結局母に頼まれて養子となり中波性になったのは、私だけで兄二人は伊吹性のままだった。正直言って母にハメラレタと後悔した。妹がこんなことを言っていた。

「家に金なんか送ったって何にもならないんだよ。母ちゃんがこれは三郎が私にくれたとか言ってパチンコして使っちゃうんだから」
「えっ!まさか? 餓死するとか一家心中とか手紙に書いて来るんだよ」
「三郎が中学を出て働きに行った時が最悪。その後いろいろ変わったんだよ」

家族全員がサブローと呼ぶので7つ下の妹は最初から私を呼び捨てにしていた。ところで東京オリンピックを前にして渋谷の地価は急上昇し担保にすれば金は幾らでも借りられた。しかし借りた金は返さなければならない。母にとっては返さなくても済む金も必要だ。高利貸から借りるのも、私に送金させるのも全て自分の才覚と思っていたようだ。

「食えないと言うから仕送りを続けたんだ。3年9か月もな。俺の小遣いなんかゼロだ」
「バカ見たね」
「月給前には必ずオフクロから手紙が来るんだ。生活が苦しいから助けてくれとな」
「今じゃ母ちゃんの言う事を信じる人は誰も居ないよ」
「帰ってから何か変だとは思っていたけど聞けば聞くほど酷いもんだ」

「私は父ちゃんが可哀想だから一緒にいるけどね。兄ちゃんたちも出て行ったし三郎も出たらいいよ。今は誰も相手にしてくれないから、貸してくれるのは高利貸だけ。土地は彼らに取られちゃあうと思うよ。私のことは心配ないよ。我家の男どもと違って強いからね」
「お前には悪いけど家を出るよ」
「送金しても何にもならないからね。借金は百万単位だから焼け石に水だよ」
「心配無用。自分が食うのに精一杯だ」

極貧の家を再興しようと思い、生活を切り詰めて送金したのに遊びに使われたと聞いてガッカリした。家の状況は著しく変わっていた。土地を担保にした借金財政だ。金貸しは十万単位で貸してくれるのだから4千円なんかパチンコ代に過ぎないのか。それなのに欲しいと言って手紙を送りつける。見栄と欲望に取りつかれた母に関わり合っていたら未来はない。自分の生きる道を考えなければならないと思い家を出た。20歳の時だった。

肉体労働する身体ではないのに仕事は肉体労働しかない。いくら頑張っても半人前の仕事しかできない。落ちこぼれの私は職を転々するしかなかった。困っている時にW大学に行っている兄の二郎が「インド通信」のアルバイトを世話してくれた。と言うか自分が止めるので後釜に据えたのだ。正確にはPTI(プレス・トラスト・オブ・インディア)の東京支局と記憶している。インド人の支局長とアルバイトが日勤と夜勤と一人ずつ。私は日勤を担当することになった。

家を出れば住む所が必要になる。兄の二郎と相談して目蒲線沿線に6畳一間を二人で借りることにした。1ヶ月の負担は一人3,000円だから何とか暮らせると思い一安心。ところが兄は3ヶ月もしない内に書置きも残さないで姿をくらました。風の噂によると大学も授業料滞納で除籍になったそうだ。私の収入は月15,000円のアルバイトだけ、6,000円の家賃が重くのしかかってきた。それでも仕事は楽だし全く遊ばないからやって行けた。家族も友達も居ない一人だけの生活は案外金のかからないものだと思った。

仕事はインドからテレタイプで送られてくるニュースを受け取って、インド大使館、外務省、NHK、朝日新聞、関連通信社に配るだけ、余った時間は事務所で留守番だ。身体は楽だし一人で就職試験の勉強が出来るので好都合だ。新任の支局長は日本語が出来ないが、ほとんど取材に出ているので顔を合わすことも少ない。話すことは簡単な命令と報告だけだから単語を並べるだけで充分だった。
毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!
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2017年06月03日

楽しい歩こう会

歩こう会は運動神経が鈍くても気兼ねなく参加できるので有難い。それに参加するたびに新しい発見がある。歩きながら話も出来る。タクシーに乗って帰れる範囲を歩くので万一体調を崩しても安心だ。しかも自然や郷土史の勉強にもなるので有意義である。

「SSN歩こう会」が主催する天神山ハイキングに参加した。天神山は火砕流の堆積物からなる火山灰台地で、かろうじて豊平川の浸食を免れた削り残りだそうだ。ところで私は、自然の恵みだけでは生きられず、文明の恩恵を受けて何とか生かされている。ひょっとして虚弱人間の削り残りかも知れない。先ずは幸運に恵まれたことに感謝。(*^-゚)

「何かと縁のある天神山に登ってきました」
「登った? 一体何メートルだ」と、先輩はあえて聞き返した。
「89メートルです」
「軽い散歩じゃあないか」
「山あり谷あり、危険もありました。低いからと言ってなめてはいけません」

昼食後、平岸天満宮や久保栄文学碑、石川啄木の歌碑のあるコースを歩いた。皆さんが立って石碑を見ていた時のことだが、疲れた私は座り場所を探していた。ふと遊歩道に沿って設けられた丸太の柵が目に入った。渡りに船とばかりにドッコイショと柵に座ると、勢い余って壊れてしまった。行き場を失った私の尻は地面に叩き付けられた。

柵は遊歩道と山の斜面との間に道なりに設けられたものだ。危うく転がり落ちるところだったが誰かが支えてくれたのか、起こしてくれたのか、あるいは自分で立ち上がったかは覚えていない。ただ帽子が脱げなかったことだけは覚えている。

一瞬のことだがスキンヘッドの俳優のことを思い出した。西部劇のアクション場面で転げまわっているシーンで何故かカウボーイハットが脱げないのだ。激しいアクション・シーンなのに立ち上がると帽子がちゃんと頭に乗っている。演じていたのはユル・ブリンナーだったと思う。私の帽子も西部劇の俳優の様に転がっても脱げなかった。

「帽子が脱げなかったのでホッとしました」
「いまさら気にすることもないだろう」と、髪の毛フサフサの先輩。
「先輩には私の気持ちなんて分かりません」
「分かりたくないね。そうはなりたくないんだよ」
「最近抜け毛が増えていませんか。そうなると後は早いですよ」
「おいおい、脅かすなよ」
「ところで、不思議な声が聞こえたのです」
「どんな声だ?」
「上から方から聞こえてきたので天使の声かも知れません」

ホンの一瞬かも知れないが転んだまま地面で仰向けになっていた。木々の緑の合い間に青い空と白い雲が見え、木漏れ日も差していた。神秘的な気分に浸っていると天から声が……。 これから佳境に入るのだが、先輩に話の腰を折られた。

「気は確かか? 頭打ったのか」
「シリモチつきました」
「そうかい。天使さんは何て言ったんだ」
「この事件をー、ブログに書きなさーい、とささやきました
「そりゃ空耳だよ。聞こえたような気がしただけさ」
「本当に聞こえたのです。はっきりと覚えています」
「それならオバサンの声だ。からかわれたんだよ」

木の柵は腐ってボロボロだった。誰が座ろうと一瞬の内に壊れたと思う。今まで壊れなかったのは誰も座った人が居なかったからだろう。何千人もの人たちがここを通り過ぎたのに座ろうとしたのは私一人とは情けない。

「それでも登った自分を褒めて上げたいと思います」
「登ったと言うほどでもないだろう。柵を壊した自分を褒めるのか?」
「悪いですか」
「市民の財産を壊したのだから弁償しなければいけない」
「柵は腐っていたのですよ」
「それが自然界の風情と言うものよ。座る奴が悪いんだ」

座りたがり屋の私が腐った柵で難を受けるのは分かる。しかし、滅多に旅行をしない私が、行けば必ず災難にぶつかることには納得が行かない。何かの祟りだろうか?

「アンタは大袈裟なんだ。天神山ハイキングは旅行じゃあないよ」
「面白くないから話題を変えたのです。東京とハワイと釧路の話をしてもいいですか」
「旅行は嫌いなんだろう」
「東京は結婚式、ハワイは所属グループの研修、釧路は葬儀です。嫌々行きました」

東京に行ったら、帰りの便が大雪で欠航になり翌日の昼まで待たされた。数十年ぶりの大雪だそうだ。何の因果で20年ぶりの東京で数十年に1回の大雪に遭うんだ。宿を探しに雪の大都会を右往左往したことは一生忘れない。空港のロピーで一晩過ごした方がマシだった。旅慣れない私はそんなことさえ思いつかなかった。東京も旅も大嫌いだ。

ホノルルでは一生に一度の海外旅行なのに知らない女性の夫と間違われ隣に座らせられた。キッカケは航空会社のおもてなし。つまり夫婦一緒に座らせてやろうという親心だ。原因は「後ろに並んでいるのは夫か?」と英語で聞かれた女性が意味も分からずに肯いたからだ。私の券は有無を言わさず書き替えられて隣に座る羽目になった。成田までの8時間、偉い夫のこと自分のこと豊富な海外体験等、自慢話を聞かされ続けてうんざりした。寝たふりをしても終わらない。海外旅行は何が起こるか分からない。

「去年の夏、釧路に行った時は帰りの特急が運休でした」
「よくあることじゃないか」
「水害で4ヵ月も運休なんて前代未聞です。何で私が行くとこうなるんですか。滅多に旅行などしないのに不公平です」 
「日頃の行いが悪いからじゃないか」
「そんなことありません」
「天神山の柵をぶっ壊したじゃあないか」
「あれは私が座りたがるからいけなかったと反省しています」
「じゃあ何の文句があるんだ」
「東京では50年ぶりの大雪、ハワイでは夫すり替え、釧路では旅行難民。遠出したのは、この40年間で5回くらいなのに当たり過ぎです」
「だからどうした」
「腐った柵を壊したくらいいいじゃあないですか」
「許せない。後ろの山に棄ててやる!」

歌を忘れたカナリヤが後ろの山に棄てられるように、旅を忘れた私も姥捨て山に棄てられるのだろうか。「寝るほど楽はなかりけり」と信じていたが、どうやら目を覚まさなければならない時期が来たようだ。どうしよう?

真剣に考えたら知恵が出た。「象牙の舟に銀のかい」を「月夜の海に浮かべ」てもらえばいいのだ。そうすれば私も旅の良さを思い出すだろう。そして旅行が楽しめる真人間になれるのだ。 早く来い来い象牙の船よ私祈ってます。

札幌シニアネット(SSN)は「学びあい 支えあい 助け合い」の組織なのにお世話になるばかりで大変申し訳なく思っている。私のような無能で世間知らずの老人でも何とか楽しく過ごして行けるのもSSNのお陰と感謝している。

毎週土曜更新、またの訪問をお待ちしています!

童謡「かなりあ」(詩・西条八十)
歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
タグ:札幌
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2017年05月13日

お知らせ

■ 管理人が出演する放送のご案内
AIR-G FM北海道のスタジオで中島公園について少しだけ話しました。
5月19日10時30分ころに放送されます。よろしくお願い致します。
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お土産に「札幌円山コロン」頂きました。美味しい!

番組は高山秀毅さんと中嶋あゆみさんのRep.ly.ze(リプライズ)、NEWS+スポーツ+北海道がキーワードで、7時30分〜12時55分にわたる充実した番組です。10時30分くらいに私の話もチョッピリ放送されると思います。


5月の更新は休みます
申し訳ありませんが都合により5月中の更新は中止します。年間誌「ぼけっと4号」の原稿執筆に専念したいと思います。何をやってもノロマです。まったくボケっとした話で申し訳ありません。次の更新は6月3日です。よろしくお願い致します。

参考
「ぼけっと1号」2014年10月発刊
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中島公園の歴史について書きました。

「ぼけっと2号」2015年10月発刊
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中島公園菖蒲池の東側に鎮座する「木下成太郎像」について書きました。

「ぼけっと3号」2016年10月発刊
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中島公園で子育てを完遂した11羽の子を持つオシドリママについて書きました。
4号については薄野で生まれて中島公園で育ったマガモ親子について書きたいと思います。
よろしくお願い致します。
ウェブサイト「中島パフェ」管理人nakapa(このブログの管理人でもあります)

毎週土曜更新、都合により5月中は休み、次回更新は6月3日です。
またの訪問をお待ちしています!
タグ:札幌
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2017年05月06日

洋楽カラオケは楽しい

「グッモーネン先輩、ハオユ?」
「ご機嫌よくないね。なまってるぞ」
「英語は大好きですが喋れないから歌ってます」
「コッソリ歌うのは勝手だが書くんじゃないぞ」
「喋れなくて歌えなくて書けなかったら、私はどうしたらいいのですか」
「そんなこと知るか」
「好きなことが出来ないのは辛いです。こうなったら先輩だけが頼りです」
「友達いないのか。うっとうしいな。好きなように書きな」
「書いていいのですか。有難うございます。テンクサラーッ

遊びも運動も苦手な私は仕事も苦手だった。それでも何とか工夫して定年まで勤めて上げてハッピーリタイアメント。そして、始めたのがカラオケである。恐るおそるの挑戦だが、歌うなと言う人は居なかった。それどころか健康にいいからと励まされた。1年後には上手くなったね」と言ってくれる人さえ現れたのだ。これでは面白過ぎて止められない。

演歌がダメなら洋楽があるさという気分で、洋楽カラオケを始めて早くも1年半たった。何を歌ってもダメなことは横に置いて、目先の気分を変えて楽しむことにした。そもそも音痴と言うものは、背が高いとか足が短いとかと同じようなもの。私の個性だから直らない。しかし背が高くて足が長ければ速く走れるとは限らない。逆も真ならいいのだが。

スポーツ・ゲームがダメな私は勝ち負けのない趣味としてカラオケを選んだ。もちろん私の手の届かないところでの勝負はあると思う。しかしゲームなら最初から勝ち負けを争わなければならない。私にとっては余りにも厳しすぎる。

「将棋だって自分なりに楽しむことができるだろう」
「そうでしょうか」
「レベルが同じような人と楽しめればいいんだよ。仕事じゃないんだから」
「そうですね」
「何故そうしない」
「碁・将棋・マージャンなど何でもやりました」
「やったのか?」
「だけど勝ったことはないし何時もビリ」
「自分なりに楽しめばいいんだよ」
「不可能です」
「なんで?」

「どうしても聞きたいと言うなら話しましょう。最初はね下手同士で楽しもうよとか言っている人がですよ。強くなると私との対戦を嫌がるようになるのです。誰もが同じです。そんなことを繰り返している内に、相手になってくれる人が誰も居なくなりました。一番下手とはそういうことです。まだ言いたいことの半分も言ってませんが、もっと聞きたいですか」

「分かった分かった。もういい。こんど一緒にカラオケ行こうぜ」
「有難うございます。ウウァンドフォウ! シンギン シンギン」
「素晴らしいと言ってるつもりか。お里が知れるぞ」
「独学ですから」
「学と言うほどでもないだろう」
「一人で楽しんで独楽ですよ。私の勝手でしょ,イズネッ?」

SSNカラオケクラブの洋楽カラオケがスタートして1年半たった。最近参加する方々は凄く上手い。早く入っていて好かった。歌の方は相変わらずだが場慣れしたのが何よりだ。それに音痴は治らないけれど繰り返せば口は動くようになる。ささやかな一歩に過ぎないが、私の心の中では月面着陸の第一歩くらいに増幅される。

テレビで歌が上手いと言われている犬が歌っていた。ただウォーとかアォーとか長々と唸っているだけだ。それでも犬は得意顔だ。私も歌っているつもりだが、そうは聞こえないかも知れない。犬のふり見て我がふり直すべきとは思う。しかし、心とは裏腹に1年半の成果を書きたくなってしまった。我ながら困った人だ。

QK牧場の決闘
好きな西部劇の主題歌を歌ってみたかった。しかし難しかった。楽譜が読めないのでCDでフランキー・レーンが歌っているのを聴いて真似しているつもり。真似できるはずがないのにそうしている。他に歌を覚える手段がないから仕方がない。
<思わず気分が出てしまうフレーズ>
Duty calls. My backs against the wall.
格好いいなぁと思う。歌っていると芝居をしているみたいな気分になる。実際には追いつめられる様な状況には陥りたくない。本音を言えば義務を負いたくないしドキドキもしたくない。のんびり寝ていたい。

16トン
意味は分からないが調子がいいから好きなのだ。アメリカの炭坑節かな? 毎日16トン積み込んで何になる。何年やっても借金がかさむばかりだと歌う。やるせないねぇ。数え切れないほど繰り返し口は動くようになったが、なかなか歌にはならない。難しいものだ。まったくやりきれないよ。
<しびれるフレーズ >
If you see me comin', better step aside.
テネシー・アーニー・フォードはここだけ特に小声で歌っている。何となく凄みを感じる。私を見かけた人たちがサーっと道を開けたとしたら、さぞかし気分がいいことだろう。まるで西部劇のワンシーンのようだ。
A lotta men didn't, a lotta men died.(lottaはlot ofの短縮形)
と続くのだ。凄いなあ。しかし分からない。”知らぬが仏”は英語で”What you don't know never hurts you.”だそうだ。私を傷つけないことだけ分かればそれで充分だ。

悲しき雨音
30年以上前、プランタン・デパートがあった頃の新札幌を歩いている時、ドラムの音で足を止めた。青空の下で演奏されていたのが「悲しき雨音」であることを後で知った。その時は軽快なリズムを刻むその曲が悲しい失恋の歌とは知らなかった。
<可哀そうと思ったフレーズ>
The only girl care about has gone away.
これなら私でも気持ちが分かる。ああ可哀想。
Looking for a brand-new start.
新しい人生を求めてか、いい気なもんだね。人の気も知らないで。男はつらいよ。

「その他に、どうにか口が回って歌えるものが30曲になりました」
「ホントか?」
「凄いでしょう」
「反応は?」
「笑ってくれますよ」
「ユーモアで笑いを誘う歌もいいもんだ」
「真剣に生真面目に歌ってますよ」
「なんだそれ?」
「テレビの犬だって真剣に歌っていました。決して笑ったりしません」
「感動したか?」
「ぜんぜん」
「なにも犬まで持ち出して言い訳することないだろう」
「と申しますと?」
「要するにアンタはドキドキしないで傷つかなけりゃ好いんだろう」
「そうですが、それで?」
「家で寝てればいいじゃないか」
「ダメです。筋肉が萎縮して寝たきりになり来年のサクラも見れなくなります」

中島公園のサクラ
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シダレザクラ

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エゾヤマザクラ

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ソメイヨシノ

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チシマザクラ

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ヤヱザクラ
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2017年04月29日

ゴミで財産を築いた人

8歳の頃だったと思う、午後3時ごろ学校から帰ると養父の常吉さんが頭と顔全体に包帯をグルグル巻きにして寝ていた。心配で胸がドキドキした。父とは呼べなかったが父と思っている人がミイラのような姿で横たわっていた。恐怖で歯がガチガチ鳴った。

子供たち三人は寡黙で良く働く常吉さんに敬意を抱き頼りにもしていた。もし母が「お父さんと呼びなさい」と言えば、喜んでそうしたと思う。5歳と7歳と9歳の子供にとっては居なくなった実父が父であり養父を何と呼んでいいか分からない。常吉さんが法的に養父になったのは同居してから14年目、私が19歳のの時だ。二人の兄は養子にもならず旧姓のままだった。それなのに私は、後に生まれた7つ違いの妹を含め6人家族と思っていた。

常吉さんの本職は表具師だが仕事がないので品川の旧国鉄品川駅操車場で掃除夫をしていた。日当は安いけれどゴミの中にはお宝が眠っているのだ。その一つが資源ゴミ、中でも一番人気はアカと呼ばれる銅である。常吉さんは銅を得るために電線を燃やしている時に突然噴き出した炎で顔を焼かれたのだ。

親方は仕事ではないのだから治療費を出せないとか言っていた。しかし掃除夫にしてみれば、このような余禄があるから安い日当で働いているのだ。余禄はもう一つあった。汽車弁の食べ残しである。品川には全国の至る所から客車が入って来る。列車を掃除するのが常吉さんたちの仕事だ。食糧難の当時は食えるものをゴミとは思えない。

世の中はいろいろ、片方に食うや食わずの人がいるかと思うと、もう一方には駅弁を残す人がいる。今も昔も格差社会だ。お蔭で北海道から九州までの弁当を食べたが、今覚えているのは名古屋の鯛めしくらいだ。食える食べ残し弁当が出る範囲は案外狭いのかも知れない。ともかく広範囲の味覚が家に居ながら食えるのだから有難い。

しかし、衛生的には危ない。ここでも目、鼻、舌による厳重なチェックが必要だ。そして蒸かしてから食べる。温かいご飯は美味しいし、熱でバイキンを殺せるので衛生的だ。私たちは文明人だから綺麗なものしか食えない。穢ければ綺麗にする。キレイに出来なければ捨てる。金が無くて医者にも掛かれないのだから腹は壊せないのだ。

品川駅操車場から運ぶのは常吉さん、目鼻舌チェック母、蒸かすのは子供たちの仕事だ。バラックには台所みたいな場所は有っても水道はないし火を使うスペースもない。母は見栄っ張りだから他人様の残り物を蒸かす姿を見られたくない。外と言っても街中である。道路の脇だから人通りもあるし、近所の人が挨拶したりする。

当時の弁当箱は経木で出来ているので燃料になる。包み紙も割り箸も経木も面白いようによく燃えた。水道も焼跡にニョロっと水道栓だけ出ているのを共同で使っていたので無料だったと思う。母は金が無い金が無いといつも言っているのに、水道料が大変だという話は聞いたことがない。

燃料費も水道料も弁当代もかからない。金が無くても案外暮らせるものだ。しかし、バラック暮らしで拾い食いでは格好がつかない。だから秘密にして普通の暮らしをしているフリをしなければならない。これが一番大変だった。世の中には楽しい秘密もあるけれど、こんな秘密は疲れる。いつもバレルのではないかと心配している。そしてバレたら大恥だと思っている。貧乏は決して呑気ではない。ストレスいっぱいの暮らしだ。

ところが、近所には拾って売って大儲けして、3年たったら大田区に大きな土地を買い、池に鯉が泳ぐ庭を造り豪邸を建てた人がいる。清掃員として常吉さんたちを雇った親方だ。シベリア帰りの請負師である。彼は国鉄から清掃の仕事を安値で請け負った。監督に賄賂を使いゴミを持ち帰ることを見逃してもらっていた。

一番いいゴミは進駐軍専用車にある。なんと当時極めて貴重だった肉の半端物がゴミとして放置されているのだ。アメリカタバコ、菓子類等いろいろなものをゴミとして放置、あるいは捨てられていた。一般掃除夫がそこに入ることはない。進駐軍専用車の清掃は親方夫婦とその子供たちだけでやっていた。親方にとっては日米の生活水準の差がそのまま儲けになるのだ。格差は大きければ大きいほど儲けが多くなる。

肉もアメリカ煙草も高く売れる。それに親方はアメリカ産のみならず大量の国産煙草吸殻を持って帰るのだ。もちろん空き箱も持ち帰る。吸殻をぼぐして巻いてタバコにして、拾ったピースなどタバコの空き箱に詰めて売る。私も子供なのに吸殻をほぐすのを手伝わされた。日当は放置されたパンや食料だから人件費もかからない。もちろん所得税なんか払わないから丸儲けだ。本当にいい商売をしていたものだ。

この仕事を続ける為には監督への賄賂だけではダメだ。ある意味で人格者でなくてはならない。度胸一筋で思い切ったことをやるけれど、義理人情に厚くなければ続かない。人には嫌われないで頼りにされなくてはもたないのだ。多くの人達が真似をしようとして失敗した。成功するのは難しい。天国と地獄とが背中合わせの仕事だ。

おかげで私はエライとばっちりを受けた。ある日友達に「お前タバコを吸ってるだろう」と言われた。むきになって否定した。それから3日したら、どこでバレたか「お前闇タバコ売るの手伝っているだろ。法律違反だぞ」と脅かされた。私は法律も社会常識も知らない子供だから、警察に捕まって牢屋に入れられると思って凄い不安に襲われた。家族皆が協力しなければ食って行けないのだから抜けられないのだ。

それなのに親方は堂々としている。「大蔵省は儲けすぎだ。だから俺が安く売って上げているんだ。人助けなんだ」とか言っていた。3年して家を建てたときは、家に呼んでくれたので行ってみた。応接間に、表彰状がいっぱい飾ってあった。教育に貢献したとか、街の安全に貢献したとかで学校や警察から表彰されたのである。
タグ:渋谷
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