2017年03月18日

終戦後の渋谷

「私が住んでいた渋谷区金王町は焼け跡の中の田舎という感じでしたね」
「焼け跡に田舎も都会もないだろう」
「それがあるから不思議です」
「そうかい」と、今日の先輩はやけに素直だ。
「焼け跡に闇市が出来れば都会、その他は田舎。つまり自給自足
ですね」

私の言う「終戦後」とは敗戦の影響を色濃く残していた1952年ごろまでのこと。言い換えれば連合国占領時代を指す。今回は1947年頃のことだが、空き地は全て畑になった。大きな土地は麦畑。その横を通るとき麦を一口失敬する。もみ殻ごと口に入れて噛んでいると粘々してくる。水道でもみ殻を取り流すとガムのようなものが出来る。これを噛んでチューインガムを楽しんだ。褒められた話ではないがこれも自給自足だと思う。

小さい空き地は野菜畑になっていた。他人の土地でも畑にしてしまうのだ。食料不足は深刻なので空き地の畑作については地主も文句を言わない。我家の前は地元では知られた金貸しの所有する土地だがウチの畑だった。許可を受けていたかどうか子供の私には分からない。たいていの家では卵を得る為にニワトリを飼っていた。一部の家ではヤギやウサギを飼っていたがペットではない。全ては飲食のためである。

極端な燃料不足でトラックの代わりに荷馬車が登場した。都電(路面電車)「青山車庫前」停留所より並木橋方面に延びる道路は「かいせん道路」と呼ばれていたが本当の名は知らない。ともかく舗装された立派な道路だ。のろのろ歩く荷馬車を追い越してカラフルなアメリカの乗用車が颯爽と走っていた。生活水準の差を見せつけられたシーンだ。しかし、道路をパカパカとゆっくり歩く荷馬車は子供たちに人気があった。

「通学のときは荷馬車の後ろにぶら下がるんですよ。御者の小父さんは怒るけどね」
「危ないから注意するんだな」
「馬が疲れるからです。子供でも5人もぶら下がれば重いでしょ」
「なるほど、馬への愛だな」
「凄い剣幕ですよ」

しばらくは楽ちん通学を楽しんだが、結局は怒る小父さんの怒号に恐れをなして止めた。馬が疲れれば弱る。馬は大切な財産だ。失えば自分の生存を脅かさられるから小父さんは全身で怒るのだ。子供になめられるようでは大人も生きていけない世の中だった。

暮らしがが安定して世の中が平和になると、「昔の大人は叱ってくれた」とか懐かしそうに言う人が出て来た。確かにそのような教育的指導をする大人も居たのだろう。それも一つの事実と思うが私の体験とは違う。

私にとってほとんどの大人は怖いだけの存在だった。毎日の「仕事」は親、先生を含めた怖い大人からの攻撃をかわすこと。それに尽きた。そうしなければ弱い子は潰されてしまう。しかし子供も相当悪かった。当時の子供である私は、これを書きながら反省している。

「アンタ案外ズルいんだな」と先輩はズケズケ言う。
 「そうですね。つい逃げたり嘘ついたりしちゃうのです」
 「一緒に仕事をしていたときは正直で真面目な奴と思っていたけどな」
 「仕事用の顔も必要でした。状況が複雑ですから」
 「単純な状況など何処にある?」
 「我家です。子供もとっくに独立して、老人の二人暮しですから」
 「なるほど」
 「攻撃側が1人なら簡単にかわせます。2人なら難しい。3人以上だったら不可能ですね」
 「それで真面目なフリをしていたのかい」
 「仕方がないでしょう。生きる知恵です」
「アンタ案外ズルいんだな」

「それは言わないルールです」
「なんだと?」
「話が元に戻って無限ループに入ってしまいます。お仕舞にしましょう」

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2017年03月11日

合衆国空軍ワシントンハイツ団地

「灰燼に帰した東京に忽然と姿を現した『ワシントンハイツ』へ。私は時空を超えて、その記憶を辿る旅に出た。アメリカ化の原風景−−。すべてはここから始まった」
と秋尾沙戸子さんは新潮社発行の『ワシントンハイツ』に書いている。

「先輩! 決心しました。私も時空を超えて記憶を辿る旅に出ます」
「ああそうかい。行き先はワシントンハイツ。記憶の旅なら運賃も無しか」
「私の原風景がそこにあるのです」
「だけど入ったことないんだろう。受け売りはダメだよ」
「ハイツの住民は外にも出てくるのです」
「ほぅ、国際交流でもあったのかい?」
「まぁ、何と申しましょうか。なにぶん占領下の日本ですからね」

10歳の私は金が無い。楽しみと言えば街をぶらつくくらいだ。宮益坂を歩いて下り右折すると渋谷公会堂がある。そこで無料の浪曲を聞き、少し歩いてワシントンハイツに行く。そして金網にへばりついて中を見る。そこには浪曲とはガラリと変わった夢の世界が広がっている。グリーンの芝生にしゃれた住宅、赤、白、グリーンの乗用車がある。カラフルなシャツとジーンズ姿の少年がエンジン付きの模型飛行機を飛ばしていた。

「少年を見ていると恐怖の体験を思い出しました」
「恐怖とは大袈裟だな」
「殺されるかと思いましたよ。震えて歯がガチガチです」

青山学院中等部辺りの荒れ地で一人で遊んでいたら、突然、鉄棒を持ったアメリカの少年が現れて意味不明なことを叫んで鉄棒を振り回した。恐怖に駆られて逃げ出したら追いかけて来た。全力で走りながら振り返ると姿が見えない。ホッとしていると実践女子大の塀を乗り越え、私の前に現れた。相変わらず鉄棒を持っている。

怖くて逃げると追いかけて来る。何とか振り切って常磐松小学校付近にある馴染みの文房具屋兼駄菓子屋に逃げ込んだ。恐怖に震えて歯をガチガチさせながら「アメリカ人に追われている」と訴えると。文房具屋の爺さんは血相変えて「すぐに出て行け!」と怒鳴った。怖いから出て行かないでいると、爺さんは馬鹿力を出して私を押し出した。

ノートを買うと飴一個オマケしてくれたりして、好いお爺さんと思っていたのだが、アメリカが絡むと態度豹変だ。後で考えれば関わりたくない気持ちも分かる。占領下だから仕方がない。アメリカ人相手では警察も何も出来ない世の中だった。

「ワシントンハイツの話ではなかったのか」
「ハイツの少年がフェンスの向こうで好かったな、と思ったのです」
「なんで?」
「少年は柵の中に居るのです。外に居る私を苛めることはできません」
「情けなくないか」
「動物園で虎を見る人は皆そうでしょう」

ワシントンハイツとは戦後に突如として現れたアメリカン・ドリームの世界。それは渋谷区代々木に建設された合衆国空軍ワシントンハイツ団地(U.S. Air Force Washington Heights housing complex)のこと。明治神宮に隣接したアメリカ村は、終戦1年後の1946年に建設され東京オリンピック開催の1964年に返還された。跡地は整備され、NHK放送センター、代々木公園、国立代々木競技場等に変わっている。

広大な敷地に造られたワシントンハイツの存在が10歳の私の人格形成に大きな影響を与えた。青山学院横の道路を金髪をなびかせた女性が運転する赤いキャディラックが走り、パカパカ歩く荷馬車も通る。極端な燃料不足が荷馬車を復活させたのだ。否応なくその差を見せつけられた。オマケに私たちが住んでいるのは焼けトタンの粗末なバラックだ。

夢と現実が交差する世界で、子供たちは空腹と貧困の現実と戦いながら夢を見た。ジープも小型トラックの様なウエポンキャリアも見飽きた。子供たちの憧れはカラフルなアメリカの乗用車へと変わって行く。今覚えているだけでもフォード、シボレー、ビュイック、キャデラック、スチュードぺーカー等、スラスラと口から出て来る。しかし、貧しい自分が20年後に車を持つ身になるとは想像できなかった。

子供の頃は道路脇で「車種の当てっこ」をして遊んだ。誰が一番先に見つけて車種名を発するか競うのだ。フォードやシボレーはありふれていた。珍しい車をみつけると「キャデラック!」とか思わず大声をあげる。ビュイックやスチュードぺーカーの場合も同様だ。夢は車だが自転車も買えないのが現実だった。

車はもちろん、すべてのアメリカ化はワシントンハイツから始まっている。日本人立入禁止の場所は文明の国、アメリカのショーウインドの役目を果たしていた。極貧の私たちにとっては、決して買えない超高級品のウインドウショッピングをしているような気分だ。夢の世界を前にして腹を空かしていた。遠い異国に憧れた私に出来ることはワシントンハイツの金網にへばりつくことと洋画を観ることだけだった。

「腹がへっているのに映画を観るのか」
と先輩は細かいことを気にしている。
「そんなもんですよ」
「映画観る金で食い物を買えばいいじゃないか」
「いいじゃないの今がよければ。両方できる時もあるんですよ」

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2017年03月04日

米兵に捕まり叩かれる

「先輩はアメリカ人に叩かれたことがありますか」
「ない。 二つも若いんだから先輩と言うな
「仕事では先輩だからいいでしょ。私はあるんですよ」
「屁理屈ばかり言ってるからだ」
「英語で屁理屈言えませんが……」
「顔を見れば分かるんだよ」
「なぜ叩かれたか知りたくないですか」
「ない。興味ない。聞きたくもない」

多分皆さんも先輩と同意見と思う。だけど私は話したい。例えば山で熊と出会い上手く逃げたら話したくなるだろう。私にとってはそれと同じくらいの大事件である。しかも覗きをしていたのは大ちゃんなのに、何も知らずに星を見ていた私が米兵に捕まったのだ。こんな理不尽なことはないから話して気を晴らしたいのだ。

「金王クレインズ」とはペンキ屋の大ちゃんをガキ大将とする10名くらいのグループだ。全員が金王町に住む渋谷区立常磐松小学校の生徒である。学校へ行くのも遊ぶのも一緒だった。大ちゃんは6年生だがペンキ屋の息子と言うよりも一端のペンキ屋気取りである。当時の子供たちは皆家の仕事をしていた。6年生ともなれば立派な働き手になる。

仕事が出来る大ちゃんは自分を子供とは思っていない。建築現場に行けば職人から面白い話を聞く機会もある。聞けば興味もわいて来る。仕事だけでなく悪いことも覚えて来るのだ。年の割にませた少年になったとしても不思議ではない。

多分小学1年の頃だと思う。その頃は何時も二人の兄の後を金魚の糞みたいにくっついて歩いていた。一応、クレインズの一員のつもりだったのだ。ある夕暮れ時、クレインズは冒険に行くことになった。何処に行くのか分からないままついて行った。着いた所は渋谷駅から徒歩10分くらいの位置にある美竹公園だった。公園といっても草木だけで何もない。近くに建築中の渋谷小学校があるだけである。

美竹公園は梨本宮家跡地の近くにあったと記憶している。梨本宮家の約二万坪は大空襲で焼き尽くされた。戦後は宮様が戦犯で逮捕され宮邸は草ぼうぼうの荒れ放題だった。子供たちにとって絶好の冒険広場だ。そこで遊んでいたら怪しげな男が現れて「お前達見たことないだろう」と言って拳銃を見せてくれたこともある。否が応でも子ども達の冒険心を刺激する場所だ。ともかく夕食後にその辺を目指して出発した。

建築中の小学校付近に着くと大ちゃんは「お前たちはここで待っていろ。俺たちは偵察に行ってくる」と言って6年生と二人で薄暗い草むらの中に入って行った。私たち三兄弟は草むらに寝ころんで星を見ていた。狭いバラックに5人も一緒に居ると嫌になる。外に出るだけで気分はいい。なぜか子供の夜遊びは親にも歓迎されていた。

ノンビリ寝ころんでいると遠くの方から女性の声が聞こえる。続いて英語の怒鳴り声が闇に響いた。男の声なのでビックリして起き上がった。大ちゃんが走って来た。「逃げろー逃げろー、見つかったー、逃げろー」と叫びながら全速力で走って来た。兄達は私にかまわず一目散に逃げてしまった。もちろん、大ちゃんは先頭を切って逃げている。

大ちゃんは登校グループのガキ大将だが、6年生だから年功序列でなったのだ。力でその地位を勝ち取ったガキ大将ほど強くない。遊び場を巡って他のグループと対決すると、何時も脅かされて譲ってしまう。そのくせ後で必ず悔し泣きをする情けない大将だった。それでも皆で一緒に学校に行く仲だから卒業まではガキ大将だ。

ビール瓶が飛んで来た、石も飛んできたし棒も飛んできた。皆いっせいに走り出した。私も走った。恐怖心に駆られて懸命に走っていると、突然身体が宙に浮いたように感じた。後のことは何も覚えていない。ただ、お尻をパンパンと何回か叩かれたことだけは覚えている。何で逃げるのか、さっぱり分からないまま逃げて捕まった。顧みれば子供の頃からノロマで愚かだった。

ところで、近所の子供たちは夕飯後は外に出て路地や空き地に集まってお喋りするのを楽しみにしていた。横浜から移住した二人の兄は共通の話題もなくニコニコしながら聞いているだけだ。その兄にくっついている私は推して知るべし、ただそこに居るだけだ。

世の中、何が幸いするか分からない。この「米兵お尻パンパン事件」以降は状況が変わった。捕まって叩かれたのは私だけ。この話題では最年少の私が、突然ヒーローになったのだ。少なくとも私はそう感じた。一人前になった様な気がして嬉しかった。

必死になって暗がりを走っているのに、何でビール瓶と石と棒が飛んで来たことが分かるのか? 実は上級生の一人が建築中の渋谷小学校に隠れ、私を見守ってくれていたのだ。釈放された私が月明かりの中で呆然としていると、彼が後ろから来て「おい大丈夫か」と声をかけてくれた。大ちゃんよりしっかりした少年だが5年生だった。

心配して一部始終を見ていてくれたのだ。私の記憶は彼の話に基づく部分が大きい。この話は子供たちが夕食後に集まって話す時、何回も話題になった。私が覚えていたのは走っていたら突然宙に浮き、尻をパンパンパン叩かれたことだけ。足りない部分は皆で付け足してくれたのだ。そして私の記憶として、脳の片隅に今でも格納されている。

「なんで親が子供の夜遊びを止めないんだ」
と、焼け跡の異常な暮らしを知らない先輩は怒っている。
「家が狭いからです。ウチは6畳に5人もですよ。時には子供は邪魔ですね」
「夜遊びは不良化のもとだぞ」
「でも親は喜んでいます」
「なんだと?」
「その時代はベビーブームで妹も生まれました。これ以上は申し上げられません」


     蛇足:ある日アメリカから手紙が来た。
前略
私はタラワ、テニアン、サイパンと転戦してきたので虫には強い。デートはホテルより草むらが好きだ。マリに愛を囁いているとガサガサゴソゴソ音がする。
状況を探ると草むらの中で覗いている奴が居た。無礼ではないか。許せない。追いかけて捕まえてみたが泣けてきた。子供が痩せてガリガリじゃないか。
私は啄木のファンだ。思わず一首よんでしまった。
追いかけて捕らえてみたが そのあまり軽きに泣きて お尻パンパン
興奮して忘れていたが今度会ったらチョコレート上げよう。
G.I.ジョー
     すみません、私の作り話です。

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2017年02月25日

羽柴の御殿

「アンタが書いているのはホント、それともウソ?」
「両方です。背景となる時代や場所についてはなるべく事実を……」
「ハッキリさせなきゃダメだよ」と、先輩は細かいことにこだわる。
「分かりました。氏名はウソ、つまり全て仮名。人様に迷惑をかけたくないのです」
「アンタの名前くらい実名でもいいだろう」
「繰り返しますが人に迷惑はかけられません。私も人です」

振り返って考えると、私たち一家が所属する渋谷区金王町の町内会は封建的な村社会だった。商人職人中心の町で皆で協力し合いながら暮らしていた。魚を買うのも町内の魚屋だし家を建てるのも町内の大工だ。排他的な地域社会だが、そこになぜ「よそ者部落」が出来てしまったか自分なりに考えてみた。

終戦直後は、辺り一帯は米軍の空襲で焼野原になっていた。そこに戦前から続く地域社会が蘇ったが傷だらけだったのだ。養父中波常吉も空襲で妻子を失っている。他にも家族を失った人は沢山いた。もし家族と一緒に暮らしていた障がい者が、家族を失い一人残されたら、どう生きて行けばいいのだろうか。

羽柴さんの姿を見ると、むかし観た映画「ノートルダムのセムシ男」を思い出す。羽柴さんは「背骨が曲がった人」なので働けない。だけど一人になっても生きて行かなければならない。それで狭い土地の半分を住処のない人に貸したのだ。そして「よそ者部落」が出来た。私はそう考えた。それぞれが狭い小屋を建てて10人くらい住んでいた。子供は裕次一人だった。羽柴さんは無口で内向的なので実際に営業したのは奥さんだと思う。

この地域の変遷を振り返ってみると、最初に得体の知れない人たちが来た。次に貧乏人が出て行き金持ちが入って来た。その繰り返しで地域の大部分がよそから来た人々により占められるようになった。この流れの中で我が中波一家は貧乏人として渋谷から弾き出された。大きく変わったのは1964年の東京オリンピック以後だった。場末の渋谷が華やかな渋谷へと大変身をした。広大な米軍施設が日本に返還されたことも発展に拍車をかけた。施設名はワシントンハイツ。東京の中のアメリカと言われていた。

羽柴さんは30代半ばくらいだが、かなり年上の奥さんと二人暮らしだった。多分戦後のどさくさの中で一緒になったのだと思う。奥さんが町内を歩くと風景が変わる。紫色のチャイナドレスを着てハイヒールをはき日傘を差してシャナリシャナリ歩くのだ。厚化粧の人で何となく気持ちが悪かった。

子供たちは陰でムラサキ婆さんと呼んでいた。悪ガキは日傘に当たるように小石を投げてからかい、怒って向かってくると逃げてはスリルを楽しんでいた。ハイヒールだから早く走れないと見込んでのことだからたちが悪い。地域の大人たちの悪意が子供たちに乗り移るのだ。ムラサキ婆さんも戦後にやってきたよそ者と思う。多分羽柴さんが一人で暮らせないので一緒になったのだ。

羽柴さんのバラックは外から見ても汚くて、何か臭うような気がして気持ちが悪かった。養父の常吉さんは「羽柴の御殿」と言っていた。中に入ると何でも棚に飾ってあって、汚物まで飾っていると言って笑っていた。狭いバラックなのに収入を得る為に半分を貸してしまったので置き場所に困って棚を沢山作ったのだと思う。

常吉さんは優しい人だ。羽柴さんが来ると楽しそうに話していたので昔からの知り合いと思う。羽柴さんの奥さんは何をしているか分からないけれど彼女自身は哲学士と称していた。テツガクって何だろうと子供の私は不思議に思った。後になって考えてもムラサキ婆さんと哲学が結びつかないのだ。いずれにしろ得体の知れない人だ。

羽柴さんは大人しい人だが、それは後で考えたこと。子供の私は背骨が曲がった羽柴さんが怖かった。無口な常吉さんが羽柴さんと楽しそうに談笑しているのを見て不思議な感じがした。私は汚くて臭いバラックに住む羽柴さんが嫌いだったが、自分も同じようなバラックに住んでいた。慣れた場所は何でもないのだ。

戦争が終わって2年もたつと、焼トタンで作られたバラックは、羽柴さんと我家だけになってしまった。それに羽柴さんの貸地に建つ数件の粗末な仮小屋を加えて、不本意ながらミニスラムを形成していた。中波家としてもスラムから脱出しなければ本当の意味で地域住民になることは出来ない。

不幸なことに常吉さんが肺病に罹り働けなくなった。母は夫の快復に全力を尽くした。そのため用意していた建築資金が医療費と生活費に使われ底を尽いた。もはや家どころではない。そんなとき幸か不幸か台風が来てミニスラムは木っ端微塵に潰れた。ところが我がバラックは生き残った。これが不幸の始まりなろうとは夢にも思わなかった。

羽柴さんと得体の知れない人々が居なくなくなると、移住してきた人が立派な家を建てた。ついに我が家は近所で唯一の焼トタン造りのバラックになってしまった。今で言えば河川敷にある様なホームレスの小屋みたいのが街中にあり、そこに家族5人で住んで居るようなものだ。皮肉にも台風に負けなかったことが裏目に出たのである。

「焼トタンの中でトタンの苦しみを味わうことになったのです。これ洒落ですが笑えますか」
「分かるよ塗炭の苦しみだろう」と先輩はうんちくを語り教養をひけらかす。
「意味なんかどうでもいいのです。笑えますよね。焼トタンの中でトタンの苦しみ」
「う〜ん、何だっけ」
「トタン トタン トタンです」
「そうかぁ。パダム パダム パダムっていうのもあったよな〜」

「先輩があくまでとぼけるなら話題を変えましょう。次回は米兵との戦いです」
「おっ! 勇ましいな。アンタ危機の対応では二種類の人間がいるとか言ってたな」
「はい、前回の『焼跡の裕次』で書きました。戦う人間と逃げる人間です」
「もちろん逃げるんだろう」
「ヘビー級とモスキート級では戦わないのが国際的ルールです。知らないんですか」

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2017年02月18日

焼跡の裕次

ドラマを観ていると「世の中には二種類の人間がいる」というセリフをよく耳にする。自分なりに二種類の人間について考えてみた。ふと頭に浮かんだのは困難な事態に直面した場合の対応だ。戦う人と逃げる人がいる。裕次は躊躇なく戦う子供だった。今にして思うと焼跡育ちのエネルギーを強く感じさせる子だ。

仕事の都合で各地を転々としていたが、二十歳の時は渋谷の実家に居た。ある日何の前触れもなく若者が訪ねて来た。スーツを着てアタッシュケースを手にしていた。
「ご無沙汰しております。仕事で近くまで来たのですが、つい懐かしくなり……」
と言われても誰だか分からない。こんな時は名前を聞きにくいものだ。一瞬ポカンとしていたが幼い丸顔が脳裏に浮かび、それが目の前にいる青年の顔に乗り移ってきた。

「あっ! 裕ちゃん。話し方違うじゃない。立派になったねぇ。見違えたよ」
「早いもので、あれから10年以上たちますね」
「心配していたんだよ」
「今は宝飾品のセールスをしています」

品物もカタログも見せようとはしない。ただ懐かしいから寄ってくれたのだ。子供の頃一緒に遊んだだけで、いつの間にか居なくなってしまった。無鉄砲でひょうきんな子と思っていたが好青年に成長している。お父さんはどうしたのだろうと一瞬思った。

話しは10年以上前に遡るが、裕次は父安藤輝造と一緒に移住して来た。当時は子供だったが、よそ者部落の得体の知れない人達の一人だった。父子二人が寝るスペースしかない仮小屋で暮らして居た。安藤さんは瓦職人だそうだが朝早くから夜遅くまで働いていた。そのせいで裕次はいつも一人ぼっちだった。瓦屋は忙しいのだなと思った。

安藤さんは挨拶がよく礼儀正しい人なので古い住民にも好感をもたれていた。共同水道はよそ者が地域住民に接触する唯一の場所である。一つの蛇口を複数で使うのだから譲り合ったり割り込んだりいろいろある。マナーが問われる場所でもあった。

マナーが良いからと言って、よそ者が地域に溶け込むことは容易ではない。この関係は子供の世界にも及んでいた。我が家は養父が地域住民で母子4人がよそ者と言う微妙な立場だった。既に小学校に通っている兄たちは積極的に地域に溶け込もうとしていた。私だけがよそ者同士の気安さで直ぐに裕次と友達になった。

裕次の家には鍋や釜などの所帯道具と言うものが一切ない。裕次はよく買い食いするし父に連れられて外食もするらしい。一方、焼跡のバラックに住む地域住民の唯一最大の願いは家を建てること。その為に爪に火を灯すようにして暮らして居るのだ。彼らにとって外食なんてもっての外、贅沢の極みである。瓦屋って儲かるのだなと思った。

寂しい父子家庭だが裕次は腹いっぱい食べていた。遊びに行けば私にも分けてくれた。それほど余裕があったのだ。ところが、ある日突然、どん底に陥った。しかし裕次は悠然としていた。地域の子等の執拗ないじめにも遭ったが憤然として逆襲した。

その事件とは自称瓦職人安藤輝造の素性が明らかになったことである。新聞社会面のトップ記事としてデカデカと報道された。見出しに「窃盗団の首領逮捕」と書いてあった。一番上に首領安藤輝造の写真、続いて団員の写真がズラリと並んでいた。

父が捕まってしまった裕次はしばらく一人で暮らして居た。食事等の面倒は、よそ者部落に住む満子さんがしていた。彼女は50歳くらいの満州(中国東北部)からの引揚者で身寄りもないようだ。これは想像だが、安藤さんが自分が捕まった場合のことを考えて、満子さんに対して生活面の援助をしていたのだと思う。ついに恩返しの時が来たのだ。

安藤さんは他の人に対しても気前が好かった。兄二人も渋谷のレストランでご馳走になったことがある。凄く羨ましかったので何時までも覚えていた。私も裕次を通してお菓子をもらっていた。地域の住民だって何かもらった人は少なくないだろう。よそ者部落の人たちを毛嫌いにして悪口ばかり言っていたのに安藤さんの悪口だけは誰も言わなかった。

しかし地域の子供たちは容赦ない。裕次を泥棒の子供として徹底的にいじめた。多勢に無勢だから裕次に勝ち目はない。だからと言って戦いを諦めるような裕次ではない。逆襲方法を密かに研究していたのだ。このことは後になって思い知らされる。

バラックを木造建築に建て替える戦後の建築ラッシュが既に始まっていた。アチコチに建てかけの家がある。テレビもないしラジオも自由に聞けない時代だから地域の子等は適当な場所に集まって雑談をするのが好きだった。その日は雨が降っていたので建てかけの家に無断で入り込んでお喋りを楽しんでいた。

話題は空襲の話と集団疎開の苦労話が多い。火の海の中をいかに勇敢に逃げたか。学校単位の集団疎開先で先生がいかにズルイことをしたか、散々聞かされた。いずれの経験もない私たち三兄弟には出番はない。幼い私は兄たちのそばに居るだけだった。

「おい、雨が吹き込んでるぞ」
「こんな所まで来るはずないだろう」
「おいおい、あったかいぞ何だこりゃ?」
「あっ! 裕次だ。このやろう!!」

裕次が2階からチンチン出して小便をかけていた。家は立てかけで1階の天井は無い。床も張ってないし材料もあちこちに置いてあって逃げ場も無い。裕次の奇襲作戦は大成功だったが、この後が大変だ。大勢で裕次一人をボコボコに叩いた。しかし、こんなことで怯む裕次ではない。恥ずかしながら怯んだのは地域の子等だった。あいつは何するか分からないからと恐れ、以後一切手を出すことはなかった。

時代は戦中に遡るが、1945年3月10日、深川は未曾有の大空襲に襲われた。裕次は熱風の中で母を見失った。後になって遺体の腐敗臭が漂う中を探し回ったが見つからなかった。父が南方の戦場から復員するまでの半年間、空襲で荒れ果てた食料不足の東京を生き抜いてきた。こんな裕次だから子供等に殴られて足蹴にされるくらいは屁とも思っていない。極限の困難に遭遇して大人より強い、戦う子供に育っていたのだ。

「久しぶりに懐かしい話ができて楽しかったよ。お父さんは元気?」
何気ないフリして聞いたが、勇気を振り絞って尋ねてみたのだ。
「立派な日本家屋も建つようになったので商売繁盛です。元々腕のいい瓦職人ですから」
「そう言えば最近は瓦葺の家が増えたね」
「職人の履歴書はやった仕事なのです」
「と言うと?」
「賞罰は関係ありません。良い仕事をすれば結果は必ず付いて来ます」

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蛇 足
読んで欲しいけれど、読んで下さいとは言えない私の屁理屈
この戦争で約300万人が死んだ。その10倍の3000万人の人たちが戦争の苦しみを味わったと仮定してみた。そうすると残りの7000万に近い人々は戦争の苦しみなんか味わっていなかったことになる。それどころか戦争で豊かになった人さえ居た。現に子供の私は戦争中は金持ちだったと錯覚していた。みんな苦労したと言う言葉に騙されてはいけないと思う。世の中はいつも不公平なのだ。事実に基づかない話からは何も生まれない。

戦場や空襲で塗炭の苦しみを味わった人の体験談を理解できる人は少ない。「硫黄島は地獄だった」と言っても「内地だって地獄だ。芋や大根ばかり食っていた」と返されれば、体験者は話す気を失う。こうして戦争で極限の苦労をした人は黙り込み、更にもっと苦しんで死んだ人は一言も発することができない。現在は情報に溢れているのに生死に関わる大切な情報は無いに等しい。あっても伝わらないからだ。

今、巷に溢れている書籍、マスコミを通して伝わる話は、売れる話だけで事実とはかけ離れている。なぜなら受け手の共感を得なければ書籍、新聞、テレビ番組等のメディアは売れないからだ。普通の人が極限状態を理解するのは極めて困難だ。並外れた忍耐と想像力が必要である。極限状態の体験者から聴き取れるのは、その道の専門家に限られている。現代史研究家による真実を追求した書籍も少なくない筈だが、売れている本の数に押されて下の方に押し込められているのだろうか。私たちには見えてこないのだ。
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