2020年02月08日

恋人よ我に帰れ

恋人よ我に帰れ(Lover, Come Back to Me)
ネットほど便利なものはない。検索すれば60年以上前の昔にもたどり着ける。10代のころは「恋人よ我に帰れ」が大ヒットしていたのでラジオではよく聴いていた。映画のタイトルは忘れたので少し手こずったが、60年ぶりに思い出のシーンに巡り合えた。

タイトルは『我が心に君深く(Deep In My Heart)』だった。この曲の作曲者を取り上げた1954年の伝記映画である。デュエットだが、ほとんどトニー・マーティンが一人で歌っていた。女性は終わりの方でチョッピリLover, come back to meと歌って抱きつくだけ。私の記憶には男性ボーカルしかなかった。

以上は、最近のユーチューブと関連情報により知ったこと。当時の記憶は曖昧だが、盗み見したことは確かだ。映画館の前を通ると、横が路地になっていて、ドアが開いているのが見えた。当時は冷房がないので風を通すために、光が入らない程度に開ける場合がある。映画音楽に誘われるような気分で入ってしまった。そこで「恋人よ我に帰れ」を歌うシーンに出会ったのである。

半世紀以上前のことだから、全て忘れていたが、素敵な男性が「恋人よ我に帰れ」を歌うシーンだけは覚えていた。夕暮れの海をバックにして歌う、ゆったりした感じが凄く好かったから印象に残った。10代は子供であり大人でもある。

この歌のここが好き。意味はともかくメロディーが大好きだ。
When I remember every little thing You used to do I'm so lonely
Every road I walked along I walked along with you No wonder I am lonely
参考のため人様の日本語訳を読む。
私たちがいつもしていた 些細なことを想い出すたびに とても寂しくなる 
あなたに寄り添って歩いた道を独りで歩いていると寂しくなるのも当然ね
作詞:オスカー・ハマースタイン2世
作曲:シグマンド・ロンバーグ
日本語訳:東エミ

ラジオで何回も聴いてお馴染みのメロディーだが、美しいカラーの風景をバックにすると、感動もひとしおだ。しかも映画で一回観ただけで、後は頭で想像した。空想の翼は勝手に羽ばたき、歌はいっそう美しくなった光景と共に、心の中に焼き付きついた。

戦後、パティ・ペイジがアップテンポで歌って大ヒットした。今では、この曲をスローテンポで聴くことは滅多にない。

ネットで六十数年ぶりで映画で観たワンシーンに再会して、少しだけ感動。現実は想像の中で、美しく育って行ったシーン程ではなかった。昔、好きだった人に60年ぶりで会ったら、こんな感じかも知れない。それでも会えれば嬉しくて、少しは感動するだろう。Lover, come back?!
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 中学時代

長兄

長兄9歳、次兄7歳、私5歳、母30歳の時、父が自分の命を守るため姿をくらませた。戦争中も終戦直後も豊かな暮らしをして来たが、こんな旨い話が続くわけがない。父の運もついに尽きたのである。残された母子は1年余りで、どん底に落ちた。

物心ついた頃がどん底の私は、だんだん良くなる 右肩上がりの人生を歩んできた。だが、三つ子の魂百までというのは本当だ。根っからの貧乏性になってしまった。宝くじで三億円当たっても、この性格は直らないと思う。しかし、9歳まで豊かな暮らしをした長兄は私とは違う。いくらか坊ちゃん風なところを残していた。

兄は豊かな暮らしから、どん底に落ちた。その後も貧乏生活は続き辛い思いをした。中学生のときは全国から列車の集まる品川駅で列車清掃のアルバイトをしていた。家に帰る途中で何らかの疑いをかけられて警官の職務質問を受けた。身体に似合わない大きなリュックサックを背負っていた為と思う。

警官にリュックの中身を見せるように言われて、拒否したので疑いを更に深め交番に連行された。中身は汽車弁の食べ残しだから、見られるのが恥ずかしかったのだ。家には腹を空かした弟妹が居た。食える物をゴミにするのは、もったいなくて見過ごせなかった。それで客車の中から食えるものを拾って来たのだ。経木の弁当箱の中身は少ないく容積ばかりが多い。リュックが膨らむわけだ。

リュックの中身は誰にも見られたくなかったのに、見せることを強制された。警官としては普通の仕事だが、見られる側はとても辛い。貧乏でもプライドはある。普通に食べてるフリをしているのだから、拾い食いは絶対に見られたくない。100%隠したいのだ。

兄は中学を卒業すると働きながら定時制高校に通い、寮費がひと月三千円という格安な大学を見つけ、大学院まで行った。アルバイトしながら、自力で卒業した。主に家庭教師をしていたが、人には恵まれ、いろいろ援助をしてもらっていた。落ちぶれた坊ちゃん風なので、同情してもらえたのかも知れない。

兄と一緒に暮らしたのは15歳まで、その後は遠く離れて暮らしていたので、会うこともほどんどない。何年間も会わないこともある。中卒以来65年で10回以下しか会っていないと思う。最後に会ったのは、はっきり覚えていないが10年前くらいと思う。

長時間、昔話をしたのは、そのとき1回だけだった。話し合って好かったのか悪かったのか、自分の記憶がいかに曖昧かは、よく分かった。意外な事実を突きつけられて驚いたので壊された思い出 としてブログに書いた。へ〜、そうなのかと思いながら書いていた。何もかも整理、記憶も整理、これが終活かなと思った。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 幼児時代

2020年02月01日

ホームページクラブの思い出

先日、ホームページクラブ(HPC)の新年会に参加した。懐かしい人、新しい人とお会いできてとても楽しかった。会員同士でホームページ(HP)作りを学ぶ会だが、長い間、勉強会には参加していない。約10年前からパソコンの勉強について行けなくなったのだ。

それでもHPと、それを作る人と話すのは大好きだ。新年会には毎年欠かさず参加している。実は最初の3年くらいは熱心に勉強していたから、今でもHPCを故郷のように感じている。

最初は、一人でHP作成の勉強をしていたが、上手くいかないので札幌シニアネット(SSN)に入会した。2003年のことだった。早速HPCに入り勉強を始めた。SSNのHP学習会にも参加したこともある。結局6年目くらいから、全くついて行けなくなった。

私は何をやっても上手く出来ない人、今はカラオケを楽しんでいるが、依然として音痴のままだ。これは仲間内のことだから勘弁してもらうことにしているが、HPは公開するので、ある程度の体裁が必要だ。10年くらい前から、自作を諦めて無料のテンプレートを使うようになった。

結局これが大失敗、私のHP「中島パフェ」は現在困った状態にある。グーグルでの検査結果に次のようなメッセージが付加されるのだ。「ページがモバイル フレンドリーではありません」。この為、アクセスは大幅減、現在も降下中だ。残念ながら他人様が作ったテンプレートだから直せない。困った、困った。

こうなるとHP作成は勉強の話を飛び越えて思い出の話になる。2003年にHPCに入り勉強していたころが懐かしい。教え合い学び愛していた頃が一番楽しかった。この楽しさを世間一般の皆様にも知って欲しいと思い北海道新聞コラム「朝の食卓」に書いたりした。今から約10年前のことだが、この辺りからHP作成が全く分からなくなるとは皮肉なことだ。

2010年2月17日北海道新聞「朝の食卓」掲載
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クリックすると本文が表示される → 第11回 シニアネット

私はスポーツ、芸事、ゲーム、何をやっても出来ない人。仕事も苦手だった。文章も書けないどころか、字も人並みには書けない。道新の担当者からコラム執筆を頼まれたとき、感謝感激は言うまでもないが、後でバレたらどうしようと言う心配もあった。

絶対に言いたくはなかったけれど、一応「文章は苦手なのですが」とお断りした。「かまいません。文章の上手い人を選ぶと結果として同じようなものばかりになります」と言っていた。勘違いかも知れないが私には、電話の声がそう聞えた。今回の人選はユニークな人が優先と理解した。実際、中島公園について毎日コツコツ更新しているような酔狂な人は居なかった。

世間の片隅で暮らす私にとっては大成功! それに気をよくして挑戦しているのがブログ「音痴のカラオケ」。「柳の下にいつもドジョウはいない」と言うけれど、私も今年で80歳、ドジョウがいたら、どうしよう。困ったちゃうな〜、空想 (^-^;) ゴメン
posted by 中波三郎 at 16:44| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2020年01月25日

羽田発7時50分

意外にもこの歌は10代の女性に人気があるらしい。カラオケに詳しいAさんの情報によると、フランク永井の歌う「羽田発7時50分」をよく歌う人は60歳以上の高齢者。およそ70%はそうだが、細かく分けて女性だけに限ると20%が10代と言う。意外な結果に喜んだりビックリしたりした。ご自身が生まれた半世紀以上も前の歌が好きとは。まさに名曲扱いである。

ひょっとしてお爺ちゃん対策かもしれない。気分をよくさせてお年玉の増額を狙うとか。しかし、それだったら他にもっと簡単な方法がある筈だ。陳腐な例で恐縮だが肩を叩くとか揉むとかね。殆ど聴いたことのない歌を覚えるのは大変なことだ。好きでなければ出来ないことである。

そう思うのは私が音痴だからだろう。普通は2,3回聞けば覚えるそうだ。私の百分の1、か千分の1程度の労力で歌えるようになるらしい。普通の子供にとっては案外簡単なのかも知れない。いずれにしろ私の知らない世界のことである。

ところで羽田はとても懐かしい。中卒以来8年間も職を転々として漸く就いた定職だから思い入れも人一倍だ。そこには懐かしい思い出がある。航空管制官になるために運輸省航空保安職員訓練所に入所した。先ず、新規採用者の氏名を呼ばれたが、私は最後に呼ばれた。多分、採用したい順だと思う。それでも何とか採用されたのは運がついていたからだ。

研修が終わり終了式のときは、トップで呼ばれた。多分成績順と思う。私は暗記が得意だが、仕事やゲームや運動で大切な頭の回転が人並み外れて悪い。迅速確実に実行しなければならない仕事には向いていないノロマでなのだ。

コンピュータに例えると、演算機能が極めて悪く記憶機能だけの頭なのだ。だから、覚えるのも遅いし忘れるのも遅い。職を転々とした私は自分の弱点をよく知っている。下積みの仕事の訓練とはマニュアルを暗記すること。だから私は訓練中は出来る人だが、現場に行くと途端に出来ない人になってしまうのだ。

訓練所の寮には羽田の管制官も入っている。お風呂では一緒になるが、仲間同士で「出来ないヤツが来たら追い出してやる。訓練所の成績がよくても駄目なヤツが多いんだよ」とか、大声で話している。まるで自分が言われているような気がした。自信のない人は来ない方が良いと知らせてくれたのかも知れない。

この一言で目が覚めた。羽田とか忙しい空港には絶対に行ってはならないと考えた。やっとありついた定職だから定年まで勤めたい。どこの空港が一番私に優しいか調べたら、結論として新設して間もない帯広空港がいいと考えた。そして北へ!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

養父

私が思う養父、常吉さんはとても気の毒な人。再婚後、唯一の救いは春子という実子に恵まれたことである。凄く可愛がっていた。小学校に入ると一生懸命勉強を教えた。学年が上がりついて行けなくなると、春子の鉛筆を綺麗に削ることに専念した。筆箱の中に並んだ鉛筆の美しさは芸術的だった。表具師なので小刀の扱いが上手い。削り方が一定の鉛筆を整然と並べていた。

常吉さんの最大の不幸は米軍による世界最大規模の無差別爆撃、「山の手大空襲」で愛する妻子を失ったところから始まった。長い間気力を失い呆然としていた。住んでいるバラックも年老いた父親が、他所から救援に来て建てたという話だ。

たまたま母の親類が近くに住んでいたので、常吉さんと三人の子持ちの母を引き合わせた。彼の土地に母の金で家を建てるのが双方の為になると考えたのである。その後、常吉さんは肺病に罹り長患い、計画は頓挫した。

不思議なことに、母と三人の子供たちが常吉さんをお父さんと呼んだ記憶はない。母の教育が無かったせいと思う。5・7・9歳の子は大人しい良い人とは思えても、自主的にお父さんと呼ぶことは出来ない。母がお父さんと呼びなさいと言えば、私はそうしたと思う。5歳のころは養父に親しみを持ち、アレコレ質問攻めにして困らせたほど懐いていたのだ。

春子だけがお父さんと呼んでいた。しかし素行が悪く、中学生で夜遊びはするし、高校は無断で止めて、常吉さんを悩ませ続けた。しかし小言一つ言えずに苦しんでいることは傍目にも気の毒だった。だが彼の春子への愛は人生の最終段階で報われた。

常吉さんを最後まで世話をして看取ったのは21歳の春子だった。50年後、彼女は71歳で亡くなり、来る3月3日に一周忌を迎える。春子、常吉さん共に享年71。彼が50歳のときに生まれたのが春子だった。血縁の強さを感じるが偶然の一致だろうか。

私は今でも常吉さんをお父さんとは呼べない。良い人だし法的にも養子にもなったのに、そう呼ぶ習慣がなかったので出来ないのだ。習慣とは恐ろしいものだ。神経と自立神経があるように、意識にも私がコントロールできない部分があるのだろうか?
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2020年01月18日

カネオクレタノム

母が私に身の上話をすることはなかったが、近所の人に話しているのをよく聞いた。我が家は6畳一間だから話は全部きこえる。終戦直後の渋谷は想像を超える住宅難の渦中にあった。近所には3畳間に9人住んでいる家族も居た。

母は十代で結婚したが、夫も義母も意地悪で自分勝手なので逃げ出したそうだ。そして横浜で働いていたときに父と知り合い再婚した。夫は船乗りなので留守が多かったが、3人の男の子を生んだ。終戦後の混乱期、父は裏社会での戦いに敗れ、30歳の母と、9・7・5歳の子を残して、遠くへ逃亡した。その時、当面の生活費と家を建てる程度の金を母子の為に置いて行った。

母は親類の紹介で東京渋谷のバラックに住む人と子連れで結婚した。彼は空襲で妻子を失っていた。これが母の3回目の結婚である。養父の土地に母の金で家を建てて、5人家族で幸せな暮らしをするはずだったが、彼が肺病に罹って夢ははかなく破れた。

母は養父の治療と生活費で全財産を失い、養父が治った頃は生活はどん底に落ちていた。人並みの貧乏は辛くはないが、どん底は悲惨だ。どん底の人間は普通の貧乏人から差別される。

養父が肺病に罹った後は我が家の生活は母が仕切るようになった。私は小学4年で新聞配達をすると月給1000円から700円を母に取られた。中学を卒業して、家を出て月給5400円をもらうと月に4000円送金させられた。家が困っているのだから当然と思い、何の疑問も感じなかった。

19歳のとき久しぶりに家に帰ったら妹こんなことを言われてビックリした。「送金しても無駄だよ。母は私がもらった金だと言ってパチンコで遣ってしまう」とこぼしていた。月々の送金は止めたが、「金送れ頼む」の手紙は止むことはなかった。

結婚してからは自分の妻子への責任があるから、母からの手紙は読まなかった。金が入っているかも知れないので開封はした。1964年の東京オリンピックの頃から、渋谷の小さな家の半分を事務所として貸して、家賃収入を得るようになっていた。

手紙では何時も貸してくれと書いてあったので、余裕が出来れば少しくらい返すと思っていた。しかし、遊ぶ金には限度は無いから、母は万年金欠病。不治の病だから治らない。

というような訳で母の記憶は「金送れ頼む」だけ。愛とか温もりだとか、他にも何か覚えていて良さそうなものだが、どうしても思い出せない。私はケチだから記憶もケチなのだろう。しかし、生んでくれたことには感謝している。生きているから今の幸せがある。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2020年01月11日

錆びたナイフ

音痴だから音楽については語らない。毎回カラオケ会に出ている人が、音楽について語れば上手い人と思われるだろう。そして私の歌を聴きたくてカラオケ会に来るかもしれない。それが恐ろしいから語れない。黙っていて腹に溜まった、ホンの一部をここに書き出している。こっそりと屁をするようにねヾ(^-^;) ゴメン

音痴のオッサンが「錆びたナイフ」を歌うシーンが一種のギャグになっている時代があった。オッサンが抑揚のないのっぺりした感じで歌うのが何となく可笑しいので笑ってしまった。考えてみればよそ事ではない、そのオッサンの30年後の姿こそ私なのだ。「錆びたナイフ」は易しいようで難しい歌だ。

この歌は意外に奥が深いから大好きだ。第一に映画が好かった。若さ溢れる石原裕次郎と小林旭の共演。しかも原作は兄の石原慎太郎が、裕次郎の主演を前提に書いたものである。従って裕次郎の魅力がたっぷり味わえる映画になっている。

おまけに、裕次郎が歌った主題歌「錆びたナイフ」(作詞:萩原四朗、作曲:上原賢六)は、184万枚を売り上げる大ヒットとなってしまった。しかも歌詞は意外なことに、石川啄木の短歌を再構成したものと言われている。

ここにホンの一部分を紹介。
石原裕次郎「錆びたナイフ」では、
砂山の 砂を 指で掘ってたら まっかに錆びた 
ジャックナイフが 出て来たよ
となっている。

一方、石川啄木の「一握の砂」では、
いたく錆びし ピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて 掘りてありしに
と歌っている。

これに続く十首の短歌が一連のドラマを構成している。作詞者が錆びたピストルを、錆びたナイフと言い換えたそうだ。

今考えると錆びたピストルはリアリティ欠けるかも知れないが、明治時代は現代ほど銃の管理が厳しいとも思えない。終戦直後も警察の目が届かない感じがあった。私も見知らぬ男に、珍しいものを見せてやると言われて、拳銃を見せられた記憶がある。念のため申し添えるが、その時代に精巧なモデルガンなどない。

B級映画と思われがちな日活無国籍アクションだが、「錆びたナイフ」はとても好かったし。歌詞も石川啄木の影響を受けてると知って興味津々、その主題歌をますます好きになってしまった。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

実父

5歳で別れた実父については記憶も薄い。ここに書く父は断片的な伝聞を頭の中で繋ぎ合わせたものである。父は私が5歳のとき仕事上のトラブルで暴漢に襲われ、命を守るために身を隠した。行先については母にも知らせなかった。決めずに逃げたのかも知れないが、後になって知らせてくることもなかった。

父は栃木県の貧しい小作人の子として生まれ、コックとして身を立て、N郵船で働いていた。戦争が始まる前は外国航路の船員はモテモテだった。そのころに横浜で働いていた母と結婚した。当時では珍しい核家族だから祖父母のことは全く知らない。

母の兄は横浜の請負師で父とは遊び仲間だった。戦争が激しくなると目端の利く彼は、船員は軍人より危険と予想し、収入が激減すると渋る父を、強引に説得して船を下ろさせた。父は糧食関係の仕事で海軍の飛行機製造会社に就職した。

父が採用されたのはN郵船での業務実績もあるが、船乗り仲間や請負師仲間を通じて、闇社会に精通していたからだと思う。戦争が激しくなって来ると正規のルートでは食料確保が難しくなってきた。普通の社員だけでは会社はやって行けないのだ。

父は戦時に作られた法律「食料管理法」違反で何回も警察に捕まった。捕まるたびに会社が貰い下げてくれた。既に会社にとって必要不可欠な人材となっていたのだ。最終的には課長になった。汚れ仕事で会社に貢献したのが認められたのだ。父は自分は学校を出ていないが、部下は学校出ばかりだと自慢していた。

戦後は何をやっていたか分からないが、家に来るお客さんが海軍軍人からアメリカ兵に変わったので、米軍相手の仕事と思う。父の変わり身の早さには呆れてしまった。ただ、終戦直後は混乱とアングラ経済の時代。清く正しく儲けた人は居ない。成功者は沈黙を守るし、失敗者の殆どは無力で発信力がない。当時のこうした状況が、いつの間にか忘れ去られている。

父のことは何も思い出せない。5歳まで一緒に居たのなら、何か覚えているはずだ。しかし、暴漢に襲われた父と、逃げる前に旅支度をしていた姿しか覚えていない。

理由は不明だが父が家に居た記憶は殆どない。居たような気もするが、毎日家に帰って来る、普通の父でないことは確かだ。事件以前の記憶として、父が川で泳いでいるのを見たこと、一緒に絵を描いたこと、他の記憶もいくらかあるが、いずれも断片的なワンシーンの様なもので、繋がりのある記憶は何もない。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(1) | 幼児時代

2020年01月04日

80歳へGO!

私は今年80歳になる。とても嬉しい。それはさておき、このブログは自分の経験に基づいて書いている。ただ、0歳から22歳の間は写真、文書、物品等は何も残っていないし、話し合える友人も居ない。自分の記憶だけを頼りに書いている。自由に遠慮なく書ける反面、昔を語り合えない淋しさもある。それを埋めてくれるのがこのブログである。

私の記憶は5歳から始まっている。その時起きた事件のことは鮮明に覚えている。「伊吹さんがヤラレター」との怒号と、玄関の引き戸を強く叩く音、そして血だらけになって担がれてきた父親の姿。家族と同居人、10人くらいが玄関に駆け付けて騒然となった。

現在は心理的に不安な時代だが1950年代までは、避けることの出来ない現実的不安に苦しめられた。一方、21世紀は私にとってバラ色の世界、全てのことから解放されて静かにノンビリ暮らしている。いつの日か、楽をしたいと言う長年の夢が叶ったのだ。

戦争中は父が海軍関係の仕事をしていて豊かだった。そして戦後になっても、仕事先が米軍に変わっただけで、豊かな暮らしは続いていた。しかし、混乱と裏切りの世界では状況は一瞬で変わる。身の危険を感じた父親は、母子を残して行方をくらませた。あの状況では逃げることが唯一の生きる道と、今は理解している。

ところで、退職後の二人暮らしで唯一のストレスは、何やかやと煩いP子だったが、3年がかりで懐柔した。他人様として丁寧に接しただけで十分だった。最初は仮面をつけている感じで鬱陶しかったが、今じゃスッピンで接するのが恥ずかしいくらいだ。静かでノンビリした二人暮らしに満足している。

再び終戦直後に戻るが、母子4人は豊かな生活からどん底まで急降下した。30歳の母は贅沢な暮らしに慣れ切っていたが、三男の私は5歳の幼児だったので、記憶はどん底から始まっている。それ以前の記憶もあるのだが、断片的で纏まりがない。

「三つ子の魂百までも」と言われているが、私の魂はドカ貧時代に作られている。今では毎朝ヨーグルトに果物を入れて食って、感動している。朝っぱらからご馳走攻めだなとか思ってね。ウオッシュレットは贅沢の極みだ。バラックで一斗缶にウンコしてたことを思えば夢のようだ。

30歳まで贅沢に暮らしていた母は、どん底生活に耐え切れず、いつもイライラしていて怒っていた。時にはヒステリーを起こして爆発した。一方、私の人生はどん底から始まっているので、経済的には右肩上がりの記憶しかない。

右肩上がりといっても、在職中は浮いたり沈んだりしながらジワジワと上がるだけ。それが定年退職から急上昇、今は頂点に居る気分だ。いつ落ちるか分からない不安も忘れて、ノンビリと幸せに暮らしている。今年は憧れの80歳になる。とても楽しみだ。

このブログで書く人名、地名等は殆ど仮名です。ただし背景となる時代、社会の状況については出来るだけ正確に書いています。初めて読んで下さる方もおられるので、重ねてお知らせします。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 人生全般

2019年12月28日

ダイナマイトが150トン

小心者の私にとっては、意地と度胸の世界は夢。せめて3分間だけ現実を忘れたい。「ダイナマイトが150トン」の柄ではないが、歌えば楽しい。独りよがりで申し訳ないと思っているヾ(^-^;) ゴメン

12月18日はシニアネット・カラオケクラブの忘年会、いつもと違って酒が出た。その勢いで歌った。ダイナマイトがヨ〜、ダイナマイトが150トン、チクショウ、恥なんて、ぶっ飛ばせ!

1958年11月にダイナマイトが150トンが発表。それから20年以上たった1981年、甲斐バンドで歌われた。歌詞の一部は著作者の承諾を得て、ロックミュージシャン:甲斐よしひろにより改変。更に10年後、THE BLUE HARTSの真島昌利がカバーした。

小林旭:異色のロックは、今なお若い世代に受け継げられている。浮き沈みはあるが半世紀も人気を保っている。名曲中の迷曲なのに、なぜかカラオケクラブでは歌われてない。私の夢はカラオケクラブ全員で声をそろえて歌うこと。50歳は若返る!?

ダイナマイトの3番は次のように勇ましい。
命もかけりゃ 意地も張る 男と男の約束だ いくぜ兄弟 カンシャク玉だ ダイナマイトがヨー ダイナマイトが150トン…… …… 
  
ところで、ダイナマイト発売の2年前にアメリカで「16トン」が大ヒットした。この曲から着想を得てダイナマイトがが作詞されたと言われている。二つの曲に共通しているのは、虐げられた者の意地と度胸と思う。一寸の虫にも五分の魂。

If you see me comin', better step aside
A lotta men didn't, a lotta men died
One fist of iron, the other of steel
If the right one don't a-get you, then the left one will

英語はほとんど分からないが、次ような意味と思っている。「俺が行くのを見たら道を開けた方がいい。そうしない多くの奴が死んだ。片方の拳は鉄、もう一つは鋼のように出来ている。右手でダメなら左手でヤル」。こんな感じでいいのだろうか?

大好きなダイナマイトだが、違和感をもっている部分もある。カックン、ショックだダムの月、意味が分からないので文中では …… …… とした。ネットで調べると「特に意味はない」そうだ。「見当識障害」とか分からない言葉も出てきて益々分からなくなった。

後になって、甲斐よしひろ氏もカックン、ショックだダムの月の部分を改変していることを知った。私も彼と同じくらい若い感性を持っているのかも知れない。来年は80歳になるのに自惚れが強くて困る。だけど放っておいても大丈夫。お仕舞は近いから。

ダイナマイトが150トン 作詞:関沢新一
16トン 作詞作曲:マール・ロバート・トラヴィス
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

酒は止められる

先ず、酒飲みの思いを歌った歌詞を紹介する。作詞者不詳、補作詞は野村俊夫。唄は久保幸江、大ヒットした『ヤットン節』の一番だけ。2番以降は酒とは関係ない。

お酒呑むな、酒呑むなのご意見なれどヨイヨイ、
酒呑みゃ酒呑まずにいられるものですか、ダガネ、
あなたも酒呑みの身になってみやしゃんせヨイヨイ、
ちっとやそっとのご意見なんぞで酒やめられましょか、
トコ姐さん酒持って来い

人に意見されても止められないのが酒。飲む習慣を断ち切るのは本当に難しい。酒に弱いので翌日まで酔いが残ることが多かった。何とかしなければいけないと考え、午後10時以降は自主的に禁酒とした。しかし、酔い心地は忘れられない。酔いが深くなって脳まで達すると、とても気持ちがいいのだ。

今までは、そこまで達したところで布団に入ったが、こんどは10時までに、そこに達するように飲み方が早くなってしまった。朝は相変わらずの二日酔いだ。今だったら仕事をさせてもらえないが、50年前のチェックは甘かった。

日々、自分の意志で動いていると思っていたが、大部分は習慣にによって動かされている。このことに気づいたのは30歳を過ぎたころ、必要があってタバコを止めたとき。5日間でタバコを止める方法が書いてある本を買って、その通りに実行したら止められた。

そこに書いてあることは、「あなたはタバコを吸いたいのではない。タバコを吸う習慣から逃れられないのだ」とのこと。その通りだった。吸わない習慣をつけたら吸いたくなくなった。酒を止めたいのなら、酒を飲む習慣を断つことが肝心と考えた。

しかし、断酒は禁煙とは比べらものにならないほと難しい。何と言ったって、脳まで酔いが来たら凄く気持ちがいい。この感覚はタバコでは味わえない。

星空の中を静かに泳いでような感じがするのだ。まさに酒という宇宙に飲まれて行くような気分になる。この状態を体験すると、飲んだらこの感覚になるまで飲むようになる。

酒量は人によって違うが酒に弱いから、毎日4時間飲んで3年たったらこうなった。この状態から脱出するには断酒会に入るしかない。もし、パソコンで断酒できなければ、断酒会に入っていたと思う。私は酒は止めたいと思いながら。飲んでいたのだから。

私の断酒は酒を飲む習慣を断っただけ。酒がないから客が来れば近くのコンビニで買ってくる。シニアネットの懇親会では飲んで楽しんでいる。断酒だからと言って楽しみを捨てたりしない。ただ飲酒の習慣を完全に断った。お陰で懇親会が凄く楽しみだ。

       断酒の誓い
1. 私たちは酒に対して無力であり、自分ひとりの力だけではどうにもならなかったことを認めます。
1. 私たちは断酒例会に出席し、自分を率直に語ります。
1. 私たちは酒害体験を掘り起こし、過去の過ちを素直に認めます。
1. 私たちは自分を改革する努力をし、新しい人生を創ります。
1. 私たちは家族はもとより、迷惑をかけた人たちに償いをします。
1. 私たちは断酒の歓びを、酒害に悩む人たちに伝えます。
  (全日本断酒連盟ウェブサイトより引用)
  
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posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2019年12月21日

パソコンで断酒

かなり年少のとき、友人宅で飲んで窓から庭にゲロ吐いた。その1年後、宴会中に火鉢の中に吐き、部屋中に灰を舞い上げて気絶した。更に1年後、寝ながら下宿の布団にゲロ吐いた。他にも酒の上の失敗はいろいろあったが、ほとんどお咎めなし。日本人は酔っ払いに甘すぎる! 仕事中は急げ急げ、力を入れろと皆が苛めると思っていた。しかし、迷惑をかけたのは私の方だと、遅まきながら反省している。

30代後半のとき、夜中に目を覚ましトイレに行ったつもりだが、ダダダダダッと言うような異常な音がした。途中で気づいたが止まらない。小便が居間のフローリングに当たる音だった。この時初めて深酒は止めなければならないと思った。

碁将棋、麻雀、スポーツが出来なくて楽しみは酒だけだが仕方がない。そんなとき転勤の話があった。飲酒習慣を断つ絶好の機会になると考えた。ところで1980年のことだが、パソコンが世の中を変えるとか言われ、新しいモノが大好きな私の心を捉えていた。

転勤を機にパソコンの勉強を始めれば、今までの飲酒習慣を止められると思った。当時パソコンは高いから買った以上、家族の手前、勉強しなければならない。酒を止めた夜の時間を埋めるのに最適だ。酒と共に過ごした毎日5時間を勉強時間に充てることにした。

40歳を過ぎてからパソコンを買った私は、何の役に立つのかと、冷やかし半分で聞かれた。口には出さないが、断酒に成功した。それにプログラミングは思った以上に面白い。命令した通りに動いてくれるからだ。いつか役に立つ日が来ると考えていた。

実は、当時の個人用パソコンは内部メモリ(RAM)が48キロバイトといもので、事務処理をしようと思ったら、電卓と帳面には敵わない代物。簡単なプログラミングの勉強にしか使えないのに、重くて大きかった。念の為だが48キロバイトで間違いない。実用性ゼロ。

18年後にはパソコンの性能も格段と進歩、自分が1日がかりでやっていた集計作業を、処理プログラムを作って5分で出来るようにした。そのプログラムを組むのに休日をつぶして3ヶ月もかかったが、充実感でいっぱいになった。オマケに何も知らない人は、100ページに及ぶプログラムリストを見て感心してくれた。知識も技術もないから長くなっただけなのに。この業務処理ソフトは転勤後も後継者に使われた。

こんなことで毎日深酒をする習慣を完全に断ち切った。付き合い酒は、その場限りにすれば習慣にはならない。タバコを止めたときも、そうだったが悪い習慣は止めてしまえば後に引かない。習慣ほど恐ろしいものはない。人を支配してしまうのだ。タバコと酒を飲む習慣を断った経験は、その後の人生を豊かにした。生き方上手になったと思う。

今は楽しむ為に酒は飲んでいる。ほろ酔いで幸せな感じになるので深酒になることもない。日本人の4人に一人は酒は飲めない体質と聞いたことがある。私は飲むべきでないのに深く飲み過ぎた。家に酒がない方が、飲むのが楽しみになる。正月も誕生日も懇親会も大好きだ。年に約10回、ほろ酔い程度に飲んでも楽しいだけで害はない。

時々は飲むが事実上、断酒には成功している。パソコンのお陰だが、長いことやっていると、次第に分からなくなって来た。徐々に落ちこぼれ、15年前に完全に落ちこぼれた。断酒の成功に導いてくれたパソコンだが、その後のバージョンアップが激しくて、とっくの昔について行けなくなった。今は文章を書いて画像を張り付けるだけしか出来ない。

24日は 大望年会で 酒が飲めるぞ〜 酒が飲める 飲めるぞ! 酒が飲めるぞ〜♪
断酒中の私は数少ないイベントが楽しみで、ビビディ・バビディ・ブーで歌っています。
posted by 中波三郎 at 21:23| Comment(0) | 人生全般

2019年12月14日

思い出

学生経験のない私には、この歌の歌詞は夢の世界であって現実ではない。恋や愛の歌もそうだが、浮世離れした夢の世界を歌うのは大好きだ。もう一つ「学生時代」が好きな理由は青山学院については思い出がいっぱいあるからだ。

子供時代に住んでいた渋谷区金王町は青山学院城下町と言ってもいいような町だった。終戦後のアオガクは子供の遊び場でもあった。巨大な敷地なので近道として通り抜ける人も多かった。

私が一番好きな歌詞は、ローソの灯に輝く 十字架をみつめて 白い指をくみながら うつむいていた友 その美しい横顔 姉のように慕い いつまでも変らずにと 願った幸せ(作詞:平岡精二)の部分だ。その美しい横顔 姉のように慕いの部分が私が先輩を慕う気持ちに重なる。

先輩と出会ったのは、黒髪豊かな色白の少年のころだった。職場は霞が関ビルにあり、宿舎は皇居近くの竹橋にあった。ルームメイトは6人いたが、仕事は24時間交代制。勤務や外出で居ない人が多く、部屋が狭いとは感じなかった。

外出から帰ると室内は先輩一人だった。無口だが制服姿が凛々しい憧れの先輩だ。「只今帰りました」と挨拶をすると、セーラー服を着た先輩は静かに近づいて来た。そしてオデコにキス。最初はドッキリ、次にジワジワと喜びが込み上げてきた。

あのとき先輩は18歳、海へ! 憧れの艦隊勤務を命ぜられた。私は17歳、東京通信隊で地味な陸上勤務。無口な先輩の別れの挨拶は、私にとっては青春時代の淡い想い出として心に残る。あれから62年たった。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

素敵なお店

家には酒を置いていない。正確に言えば5年くらい前にコンビニで買った飲みかけのジョニーウォーカーが、未練たらしく残っている。これはシニアネットのカラオケ用に用意したものである。カラオケクラブで酒が提供されていたのは5年前までだろうか? 私には強すぎるので、自分用の薄い水割りをポット型魔法瓶に入れて持って行った。

個人的に楽しんでいる三人で歌う会ではビールをジョッキ1杯飲むのが習慣となっていた。結局、10年間も一杯飲んで歌って来た。歌が苦手なので酒が入らないと歌う気がしなかったのだ。考えてみると飲んで歌っていた頃は音痴とか気にかけていなかった。失われた10年は楽しい10年でもあったが、今の方が更に楽しい。

今はカラオケで飲みたいとは全く思わない。楽しむだけでなく、ホンのチョッピリでもいいから改善したいと思っている。家に酒が無くても不便を感じたこともないし、飲みたいとも思わない。実は30代後半はアルコール依存症寸前だった。ここでは詳しく書けないが、パソコンで断酒に成功した。私の人生を変えた大切なことなので次回に書きたい。

先日洋楽カラオケの会で忘年会があった。二次会はいつもパスしていたが、酔い心地が良かったので参加した。地下鉄すすきの駅近くのビル内にあったが、とても素敵なお店だった。機会があれば、また行ってみたいと思う。

綺麗な店でマナーが良く居心地も好い。好みの店は無くなったと思っていたのは、私の勉強不足だった。夜の街には滅多に行かない。偶然連れて行かれた店が小汚かったので、全てがそうだと思っていた。先入観は恐ろしい。知ろうとする意欲を失う。ともかく、予想外の良い店に巡り合えて嬉しかった。もともと外で飲むのは好きなのだ。

若いころは地方で働いていたが、男ばかりの職場なので皆がよく飲みに行った。それぞれが好みの店に通っていた。60年も昔のことだから記憶は曖昧だが、スタンドバーと飲み屋とでは全てが違っていた。スタンドバーのBGMは必ずジャズやタンゴなどの洋楽、ゴタゴタした料理などないから料理臭がない。接客は静かでベタベタやキャーキャーがない。そうゆう雰囲気をしっかりと守っているバーで夜のひと時を過ごすのが好きだった。

貧しい時代だったが、スタンドバーの中には、精いっぱいの工夫をして高級感を出している店が、少なからずあった。その頃は貧しいが故に夢がほしかったのだ。その点、飲み屋は全く逆だ、先輩に連れられて行ったが、1回で嫌になった。料理臭プンプン、書くのもはばかれるが、サービスが余りにも直節的で夢が入る余地がない。おまけに凄く汚い!

思わず昔の好かった部分を思い出して、横道にそれてしまったが、先日はとても素晴らしいスナックに連れて行ってもらって楽しかった。空になった皿を直ぐに片づけてくれたことも、とても嬉しかった。全てが行き届き居心地が良かった。

もっと居たかったが、我が家の門番がうるさいから帰った。9時には寝てしまうので、それ以前に電話を掛けなければならない。こういうことをキチンと守るのが生活の知恵。何もしないでヌクヌクと暮らすためには大切なことだ。お母さんとの約束は守るから、子供は遊んで幸せにくらせるのだ。それと同じである。胸を張って言うことじゃないけどね。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2019年12月07日

お母さんごめんなさい

考えてみれば、在職中はずいぶん狭い社会で暮らして来たものだ。いろいろ転勤もしたが、何処に行っても職場中心の暮らしだ。地域住民と馴染むことはほとんどなかった。

言われるまでもなく「井の中の蛙」だ。世間のことは何も知らない。このままで一生を終わるのかなと思ったら心細くなった。「世間を知るとは人を知ること」と思う。先ずは身近なところから始めてみたが…。退職したからと言って、手の平を返すように「さあ、これからは地域と共に」と言ったところで、上手く行くはずがない。地域の壁は厚かった。

ところが、札幌シニアネットに入会すると状況は様変わり。退職後の解放感を満喫することになった。毎日が楽しい。入会して7年間で在職時代の100倍以上笑ったと思う。新しい友達も沢山できた。客観的には友達未満かも知れないが、何処に行っても笑顔に出会えるのが嬉しい。こんな楽しい経験は生まれて初めてのことである。

今までの人生では今が一番充実している。しかし、こう言い切ってしまっていいのだろうか。いかにつまらない人生を歩んできたか、告白するようなものだ。残り僅かだが70歳までは、何でも幅広く吸収したい。出来るだけ多くの人たちと接して、自分自身の幅を広げたい。失われた38年間をとり戻してみたい。60代の終わりまではこう考えていた。

「とり戻して、どうするんだ」
「普通の人になりたいですね。みんな普通にふるまって仲良くしているではないですか」
「そう言えばアンタは、どこか無理をしているように見えるな。何か不自然だぞ」
「仮面をつけています。外出用の仮面ですが、家でも付けることがありますよ」

孔子さまの言葉に「七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」とある。70歳になったら、自分の思い通りにふるまっても道に外れることがないような人になりたい。その為に、修行をしているのだ。修行中は表に出せる顔はない。だから仮面を付けている。70歳になったら、この仮面を外して自分の人生を堂々と歩みたいと思う。

60代のときはそう考えていたが、道に外れることが多いまま70代を通過しそうだ。それなのに、来年は80歳になる。今は思いのとおり仮面を外して家でノンビリ暮らしている。P子を母上に祭り上げて、「お母さん」と呼び、子供並みに面倒をみてもらっている。たとえ小さな争いがあっても。「お母さんごめんなさい」と言えば丸く収まる。まるで魔法の呪文だ。世渡りもこのくらい簡単ならいいのだが。いつまでたっても人間ができない。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年11月30日

人の輪に入る

金曜の朝は憂鬱だ。「今日は英語だよ」と言ってP子が尻を押す。一緒になる前は控えめな人と思っていたのに、どうしてこんなにお節介になってしまったのだろう。家を出ても、このまま図書館にでも行こうかと思ったことが何回もあった。しかし、仕事人間の習性もまだ残っていて嫌々ながらでも足が「ヒヨコ英語教室」の方に向いてしまう。

その英語教室に入って9ヶ月目にやっと話し相手に恵まれた。たまたま横に座ったAさんが話しかけてくれたのである。まさに地獄に仏だ。一人でダンマリも楽でない。Aさんは親分肌で教室中、全部自分の友人にしないと気がすまないようだ。お陰様で引っ込み思案の私も、晴れて友人の一人に加えさせてもらえた。

「いつも一人で寂しそうだから、声をかけて上げたのよ」と恩着せがましいのだが、大勢の中で一人ダンマリも、楽じゃないので有難かった。これがきっかけで皆さんとも打ち解けるようになり、2年後にはハワイ研修旅行にも参加した。小学校2校、ホノルル市役所等も訪問したから本当の研修旅行みたいだった。その後Aさんとは長い付き合いとなる

幸いなことに、世の中のいろいろな場所に人と人を繋ぐ、接着剤みたいな人が配置されている。私は一つの素材となって接着剤で繋いでもらうことを覚えた。その頃はどこに顔を出しても親しく話せる仲間がいるような気がしていた。

人慣れしてくると、長年趣味としてやってきたパソコンのグループにも入りたくなった。こうして入ったのが、札幌シニアネットである。最初はパソコンの勉強をしようと意気込んでいたが、生まれつき緻密なことと、素早い処理は苦手だ。3年間試行錯誤した末、ついにパソコンの勉強は諦めてしまった。早いもので、それから14年もたっている。 

その後、私自身が人と人を繋ぐ接着剤の役目を果たい、と思っていた時期もあった。引っ込み思案の私には、所詮ムリな「仕事」だが、できるだけのことはやってみた。しかし長くは続かなかった。今は元どおり孤独で静かな暮らしに戻った。前向きに活動した7年間は楽しくて、いい思い出になったが身体が持たなかった。一升枡には一升しか入らない。 
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年11月23日

仕事は辞めたが

定年後、半年して郊外の一戸建てから街中の共同住宅にに引っ越した。在職中は不便な所ばかりを転々としていた。その反動で、退職したら歩いて映画館に行けるような場所に住みたいと思っていた。自由になったし夢も叶ったが、二人暮らしは何かとギクシャクして楽しくなかった。反比例するように外での交流が次第に楽しくなってきた。

3年後は札幌シニアネットのお陰で豊かで愉しいシニアライフを送っていた。この喜びを友人と分かち合いたいと思い、入会を勧めたら「仕事でもないのに人の中に入って気を使うのはゴメンだね」と断られてしまった。

しかし、このセリフはどこかで聞いたような気がする。そうだ! 3年ほど前の、私自身のセリフではないか。その頃は、せっかく仕事を辞めたのだから、家でノンビリ暮らそうと思っていた。しかし、そうは問屋が卸さなかった。

1年もしない内に、P子に邪魔にされ、無理やり「老人福祉センター」に連れて行かれた。「あんたは、何処に行っても三日坊主だね。今度は易しいところにしたから、1年間は止めたらダメだよ」ときつく言い渡された。家でゴロゴロしているのが気に入らないらしい。

今度こそは押し込んでやろうというP子の意気込みに、押されるようにして入ったのが「ヒヨコ英語教室」である。これが残りの人生を大きく変えることになろうとは、夢にも思わなかった。英語とは名ばかりで、歌ったり雑談したりしていた。しかし、ここでも私はお客さん。教室の片隅で暗い顔してじっと座っているだけだった。

話しかけられることもあるのだが、「旅行しない・山登れない、カラオケ・釣り・パークゴルフ・囲碁将棋出来ない」ことが分かると、それでお仕舞。仕事一筋の人ではないので、いろいろ手を付けたが、何一つモノには出来なかった。音痴で不器用でノロマ、おまけに虚弱体質ではどうしようもない。

まさに捨てる神あれば拾う神ありだ。さすがに勝ち負けがハッキリしているスポーツやゲームには手を出せないが、カラオケに誘ってくれる人が現れた。教室でいつも隣に座ってアレコレ世話を焼いてくれるAさんである。

初心者3人で練習のためのカラオケに行こうという誘いである。私が音痴であることを知っている人からの誘いだから、喜んで参加した。自由とは有り難いとつくづく思った。何事もやってもいいし、やらなくても好いのだ。世間様に感謝!
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年11月16日

ムーンリバー

ムーンリバーと言えば思い出すのが、オードリー・ヘプバーン主演の「ティファニーで朝食を」。宝石店の前でショウウインドウを見ながら、パンとコーヒーの朝食をとるシーンが印象的だった。美人は得だな、何をやっても様になると思った。もう一つは窓辺でギター抱えてムーンリバーを歌うシーンがとても好かった。

ところで、英語で歌って意味分かるのと聞かれると、胸にグサリと突き刺さる。実はよく分からないからだ。例えばムーンリバーの歌詞は馴染みのある単語ばかりが並んでいるのに、初めから終わりまで意味が分からない。

先ず、Moon Riverとは何だろう? ある人は作詞者の故郷、ジョージア州にある川のイメージだと言う。又、渡ることが出来ない憧れのような存在と言う人もいる。海のように幅の広い実在の川の愛称と言う説もある。まだまだ続く。

ムーンリバーは恋心で虹は幸せという説もあり、ますます分からなくなってきた。面白いのは、ムーンリバーとは大河ミシシッピのこと。筏で漂っているのはハックルベリーとトムソーヤという話。従ってマーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」を読まないと、この歌の本当の意味は分からないと言い切る。

音痴の私は、歌が下手なだけではない。頭も悪いし運動神経も鈍い。ムーンリバーとは自分の人生と思っている。私は人生と二人連れで、この世をを漂っている。夢を見るのも、心を打ち砕くのも私自身だ。今まさに人生と言う大きな川を渡っている最中と思っている。こんなことをノンビリ考える余裕があって幸せだ。

ひもじくもなく苛められてもいない。こんな暮らしが18年も続いている。これも奇跡の一つと思う。幸せはある日突然、棚からボタモチが落ちるようにやって来た。いつまでも居てほしい。

Moon River Lyric:Johnny Mercer  
                  Music: Henry Mancini.1961
Moon River, Wider than a mile:
I’m crossin’ you in style Some day.
Old dream maker,You heart breaker,
Wherever your goin’,I’m goin’ your way:
Two drifters,Off to see the world,
There’s such a lot of world To see.
We’re after the same Rainbow’s end,
Waitin’ round the bend,
My huckleberry friend,Moon River,and me.
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見えるんですか? 

約18年前、退職したばかりの頃は、腰は痛いしP子は煩い。うんざりしていたが、家の中を修羅場にはしたくはない。なんとか静かに暮らしたい思っていた。

分からず屋のP子と喧嘩するかわりに自室にこもって、パソコンで悪口を書いていた。名案と思っていたが、この対応をマッサージ師のA子先生に「アンタ暗いね 、ホントに暗いね〜。奥さんの悪口書いてるってぇ。アッハッ、ハッ、ハ〜」と笑い飛ばされてしまった。

どこの世界でも意見の対立はある。順序立てて説明し、二三の裏づけになる証明をする。そうすれば少なくとも、そのことについては納得してもらえるものである。

大抵の場合は「君の言うことは分かる。しかし……」ということになる。しかし、P子の場合は全く違う。「それは違う。悪いのはあんた」の一点張り。何回も説明して、例を挙げて証明してみせても同じことである。

「男は外に出れば7人の敵がいる」と よく言われるが、私が働いている間に、家の中でこんな強敵が粛々と育っていたとは、夢にも思わなかった。二人っきりの喧嘩は仲裁が入らないので、限りなく続く。私は「説明と証明」。一方、P子は「あんたが悪い」の一点張り。両者のエネルギー消費量を考えれば勝敗の帰趨は明らかである。

「苛められて悩んでいるときはパソコンに語しかけると、答えを出してくれるんですよ」と私。「暗いね〜。パソちゃんは何て言ってたの?」と冷やかされる。
A子先生は話していても手は動いている。痛いところがほぐれて楽になると気分も良くなる。このまま話を続けたいので、パソコンに成り代わって真面目に答えることにした。

「P子は相手の身になって考えることが出来ないんだ。と言ってました」
「奥さんは正直なのね」
「そういえば、嘘つかないですよ。約束は守るし、時間も正確。それから……」 
気付いてみれば、P子の良い点ばかり口にしていた。

「だいぶ明るくなったじゃない。嬉しそうな顔して」
「えっ! 見えるんですか」と思わず言った。先生は目が不自由なはずだ。
「見えますよ。はっきりと。奥さんの勝ち誇った顔が」
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 自由時代(61-74歳)

2019年11月09日

女を忘れろ

かっての仕事の先輩から「女を忘れろ」は似合わないから歌うなと言われた。冷静に考えると居直るしかない。短足でハゲ、おまけに音痴の老人に似合う曲などあるのだろうか?

仕方がないから、何も考えずに好きな曲を歌うことにしている。「女をわすれろ:作詞:野村俊夫」のどこが好きかと言えば全てだが、あえて言えば歌詞が大好きだ。私の心の故郷である。

ダイス転がせ ドラムを叩け
やけにしんみり する夜だ
思い出すのは若いころ、港町のスタンドバーによく行ったこと。一緒に行くのは一つ年上のMさん。彼はダイスの名人、左手のジッポーのライターで、粋にくわえたピースに火を点ける。そして右手でダイスを振る。その仕草のカッコウいいこと、惚れ惚れする。

忘れろ 忘れろ 鼻で笑ってヨ
あきらめ切るのが 男だろ 
Mさんは「世の中半分は女だ。鼻で笑って諦めろ」と言うけれど、私の周りは男ばかりだ。お店に行かなければ女性と話すことさえ出来ない。デートする相手もいないのだから振られることもない。こんな状態は、男だからこそ諦めきれない!

呑んでくだ巻け グラスを砕け
男ごごろは 馬鹿なもの
歌詞には思い出がいっぱい詰まっている。米兵がバーで大暴れして巻き添えを食って米海軍憲兵に捕まった。米兵は歌詞のように呑んでくだを巻き、グラスを砕いた。

もちろん、それだけじゃない。店中メチャクチャにした。不思議なことに怖くはなかった。何だか映画のワンシーンを見ているような気がした。私も酔っぱらっていたからね。

忘れろ 忘れろ 女なんかはヨ
あの娘にゃあの娘の 恋がある
荒れてみたいぜ 荒れさせろ
米兵は振られて諦めきれないのだろう。一人でフラフラ歩いていたのを同行のMさんが声をかけたのだ。あんなに荒れたの初めて見たし、これからもないだろう。まさに歌詞のとおりだ。彼女には彼女の恋があるんだ。忘れなきゃあダメだよ。そのせいで私とMさんは米兵と一緒に憲兵に捕まった。歌うたびに思いだす。

闇を蹴とばせ 月みてわめけ
どうせあの娘にゃ 判らない
バーで大暴れなんかしないで、誰も居ない原っぱで月を見てわめけばいいのにね。日本人ならそうするよ。だからこの歌は好かれるのだ。アメリカでは絶対にヒットしないと思うよ。

忘れろ 忘れろ 何も言わずにヨ
夜通し歩いて あきらめろ
俺にゃあの娘は 用なしさ
私なら夜通し歩いて諦める。嫌われたのに好きにさせる方法なんか無い。来年で80歳にもなるのに、振ってくれる相手さえ出会ったことがない。淋しい人生だが、ドラマと空想で補ってきた。それでも生きることは素晴らしい。負け惜しみじゃあないよ。ほどほど健康で少しの金があればそれで十分である。
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身から出た錆

舞鶴地区病院での入院生活は、まだ14歳だった私にとって最高に幸せな1ヶ月だった。病気が治って健康になると言う希望を持てたからである。快復して退院したら全力で訓練に励み、更に強い身体にしようと心に決めていた。

ところが、1週間もしない内に悪ふざけが大好きなオッチョコチョイに戻ってしまった。屁をたれて同室の人笑われたら、わざと連続した屁を出して怒られたりした。気分が良くなると、受け狙いでバカなことをする悪い癖が出てしまったのだ。

誕生日が来ていない私は14歳、大人の中でただ一人の子供だった。屁で私を叱った人さえ、その後も優しく接してくれた。同室の人は仕事で大火傷をしたフリゲート艦の司厨員(飯炊き)、何故か毎日チンチンに包帯をしてもらっている優男、入隊前に横浜でバンドマンをしていた音楽隊員、この3人のことは何年たっても忘れない。

司厨員は船から上陸して喧嘩した話をよくするのだが優しそうな人だ。音楽隊員はバンドマンだった頃を懐かしみ、ステージに立つ興奮と喜びを楽しそうに話してくれた。優男とはへぼ将棋をして遊んだ。彼が席を外したすきに駒を動かすズルをしたら、ズルはいかんとネチネチタラタラ文句を言い続けた。悪ふざけを本気に捉えるとは大人げない。

後で優男が女学生三人と楽しそうに話しているのを見て腹が立った。悪い遊びで病気になりながら、国費で治療を受けているのが気に食わなかった。余裕が出来て来ると人のことにも批判的になるから不思議だ。細かい不満はあっても幸せな入院生活を楽しんでいた。

不幸は思わぬ方向からやって来た。看護婦さんは、凄く優しい人ばかりだが、Aさんだけは意地悪だった。不思議でならなかったが、その理由は後で分かった。彼女は私を苛めぬいたA教員の姉なのだ。病院でのハシャギぶりは、彼に筒抜けだった。入院したら別世界と思っていた私が間違っていた。姉弟は私のことを徹底的に嫌っていたと思う。

私は重い病気と思っていたので入隊後2ヵ月間、毎日が不安でならなかった。入院したら病気が治ると信じていたので、一挙に希望が溢れてきて、ハシャイデしまったのだ。

A教員とその姉から、仮病を使い医官を騙して入院に成功した、小狡い悪童と思われてしまった。内面の恐怖や希望は外からは見えない。自分の立場をわきまえて、一人静かに療養していれば、こんな誤解を受けなかったと思う。全ては身から出た錆びだ。
タグ:国内某所
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2019年11月02日

病院天国退院地獄

前途に希望を持てるほど幸せなことはない。希望とは病気が治って健康になり、更に強い体になることである。やっと夢を持てた。入院した舞鶴地区病院は、私にとっては極楽のようだった。まだ治療も受けてないのに、全てが解決したような気分になった。

三日目には悩んでいた自覚症状がない。毎晩悩まされた金縛りが嘘のようになくなった。奇跡みたいだが症状を感じた記憶がない。そして息苦しくもならない。訓練をやらないのだから当然だが、徐々に快復して行くように感じて嬉しかった。

看護婦さんは優しいし、患者の隊員もいろいろ話し相手になってくれる。食欲も旺盛になった。不思議なことに、どんな治療をしたか覚えていない。15年の人生で一番楽しい1ヶ月となった。退院したのは6月のことで、まだ3ヶ月の訓練期間が残っていた。

退院して訓練に参加すると入院前よりも更に苦しくなった。快復したと思ったが大間違いだ。相変わらずの息苦しさと金縛りに悩まされた。そして周囲の目も一段と厳しくなった。

後で知ったことだが、入院させてくれた医官は、やぶ医者との評判だった。診察しても何の病気か分からないと「心臓脚気」と診断して地区病院に送り込む。だからその病名で入院すると怠け者とのレッテルが貼られる。私は金縛りが何かを知らないので、このままでは死んでしまうと思って懸命に訴えた。その迫力が彼に診断書を書かせたのだと思う。

退院後は怠け者として多くの同期生と教員に無視され、一部の教員からは徹底的に苛め抜かれた。数人の怠け者の内、半分が苛めの対象となった。残り半分は気の荒い不良だから苛められることはない。気の強い筋金入りの怠け者である。

ただ救われたは、私の班長だけは、あくまでも優しかった。彼はミッドウェー海戦とレイテ沖海戦に参加し、九死に一生を得て生還した、30歳半ばの歴戦の勇士だった。「わしは死にぞこないだから、人の辛さはよく分かる。お前が真面目なことは分かっとる。もう少しだから辛抱せい。次は術科学校だから勉強で頑張れよ」と励ましてくれた。

6ヵ月で舞鶴練習隊の訓練は終了するが、ここまでは試用期間で本採用ではない。私は落ちこぼれだから辞めさせられても仕方がない立場だった。首になったら不安定な肉体労働しかない。健康保険もないので生きられる保証がない。幸い、上の人たちは生徒隊員数123名、イチニサンに拘った。凄く縁起の良い数と思っていたようだ。事ある毎にイチニサンでガンバレと言っていた。いつもギリギリのところで運がついてくれた。
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2019年10月26日

恐怖の金縛り2

恐怖の金縛からの続き
入隊前身体検査に引っかかって、凄く心配したが再検査で合格してホッとした。中学3年の3学期から何故か知らないが坂を歩くと心臓がドキドキして息苦しくなった。そのうち何とかなるだろうと思ったが、体調は悪いままの入隊となった。オマケに毎晩のように金縛りになる。思い余って医務室に行った。

数年も後になって金縛りで死ぬことなんか絶対にないと分かったが、この時は何の知識もなかった。生死の分かれ目と思っていたので医官に一生懸命症状を伝えた。

「寝るとジーンジーンという様な音がして、消灯して寝ているはずなのに、天井が見えるんです。そして心臓を圧迫するような感じがして、体がドンドン下に沈んで行きます。怖くなって隣の人を起こそうとするのですが、体も動かないし、声も出ないのです。懸命に目を覚まそうとするのですがダメでした」
「ああ、そう」
「時計を見れないので正確には分かりませんが、1時間以内に目を覚ましています。毎晩起こるので怖いのですが、治らないのでしょうか」
「大丈夫だよ。気のせいだ。だけど顔色が悪いな」

これでは治るかどうかサッパリ分からない。私は当時「金縛り」という言葉さえ知らなかった。数か月前から、少しの運動で心臓がドキドキして息苦しくなること、そして毎晩起こる金縛り、この二つは後で考えると別物だが、その時は結び付けて考えていた。これは重病の予兆で死ぬのではないかと恐怖を感じていた。ところが医官は、先入観を持って接していたようだ。こいつはやる気がないと。

数年後に新聞で読んで知ったことだが、金縛りとは5人に一人が経験する、ありふれたことらしい。私の医務室通いが頻繁なので、多くの教育担当者がいろいろアドバイスをしてくれた。しかし、誰も私の病状を知らないように感じ、恐怖は深まるばかりだった。

自分では入院が必要な生死に関わる重病と思っていた。クビになったら野垂れ死、しかないと思ったので一生懸命医官に訴えた。結局、心臓脚気と診断され入院を命ぜられた。とりあえず命は助かったとホッとしたが、これは大間違いの思い込みだった。続く
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2019年10月19日

恐怖の金縛り

改めて私の生い立ちから振り返ってみたい。5歳の時に終戦を迎えたが、自分は金持ちの子と思い込んでいた。母は仕事で忙しく可愛がられた記憶も、躾を受けた記憶もない。若い女性に面倒を見てもらっていたが、贅沢で我が儘な甘えん坊だった。後で知ったことだが、1946年ごろから複雑な家族関係になっていた。全ては戦争のせいだ

戦後の混乱の中で父親は自分の命を守るため、妻子と生活資金を残して北海道に逃亡した。そして、母は再婚のため三人の子を連れて東京に行った。養父となる人は、渋谷を焼き尽くした「山の手大空襲」で家と妻子を失い、バラックで侘しい一人暮らしだった。母の金で焼け跡に家を建てる計画だったが、彼が肺病に架かり建築資金を失った。

ところで、70歳を過ぎてから勘違いと分かったことがある。それは5歳のとき豪邸に住んでいたと思い込んでいたことである。久しぶりに東京から来た兄に本当のことを聞かされた。母は金持ちの奥様ではなく女子寮の管理人、そして海軍さん相手の宴会を取り仕切って、忙しく働いていたそうだ。今さらの壊された思い出話を聞かされたてガッカリした。

このブログでも隠していたことがある。それは我が家が生活保護を受けていたこと。何とかして保護を受けるのを止めたいので、中学を出たら働くことにした。ただ勉強もしたいと思っていたので、発足2年目の自衛隊生徒に志願した。給料をもらえるから家に送金もできる。4年間勉強して中堅幹部になるそうだが中堅幹部って何だろう?

ところが入隊を前にして体調に異変があった。今までスイスイ歩いていた街中の坂を上るのに、息苦しく感じるようになったのだ。何か変だが自衛隊で鍛えてもらえば治るだろうと楽観していた。これは滅茶苦茶な勘違いだが、14歳の時はそう思った。

赴任地である舞鶴練習隊で、最後の関門たる入隊前身体検査が行われた。肺に陰があり再検査となった。故郷を遠く離れていたので、病気で落ちたら行く所がない。何でもいいから入隊したいと思った。幸い再検査で合格になったが、それからが大変だった。

街中の坂を上がるにも息切れがする私にとっては、毎日が猛訓練のように感じだ。就寝時の金縛りにも悩まされた。金縛りについては何も知らないので、いつも死の恐怖に怯えていた。はっきりと意識があるのに体が動かない、圧迫されて地獄に落ちて行くような感じがするけど動けない。助けを呼ぼうにも口が動かない。最初は突然に強い恐怖、何回も続くと、そのうち来るかもという恐怖、とにかく病気と考えていたので治したいと思った。

金縛りを知ったのは何年も後になってからだ。「本人は目が覚めているのに、身体を動かすことができない。この状態が、完全に覚醒するまで続く。2割の人がこの症状を経験する」と、何かに書いてあった。なんだ5人に一人は経験者か、死ぬと思っていた私はバカだった。しかし15歳の時は真剣に死にたくないと考えた。そして医務室に行った。続く
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2019年10月12日

アンタ暗いね

18年前、中島公園の近くに転居したころの体調は最悪だった。とにかくアチコチが痛い。整形外科に行っても埒が明かないので、マッサージ治療を受けることにした。担当のマッサージ師は目の不自由な若い人で、A子先生と呼ばれていた。腕は確かだが、とにかく よく喋り よく笑う。痛みの緩和が目的だったが、次第に通院が楽しみになって来た。

A子先生はマッサージをしながら、耳だけを傾けてくれそうな気がして、とても話しやすい。つい言わなくてもいいことまで言ってしまう。それに頭のマッサージはないから有難い。私がハゲとは気づかないだろう。思わず話が弾む、この日の話題は家庭の事情である。

「喧嘩したのね。それで、どうしたの?」とA子先生。
「自分の部屋に入って鍵をかけたんです」
「奥さんから逃げたのね」
「P子は攻めて来たりしません。ただ、中で何をやっているのか見られたくなかったのです」
「見られたくないって、何をさ?」

と問われ、ちょっと答えを躊躇した。患者は私一人だが、院長先生も、受付もいる。彼らには聞かれたくない。それで、小さな声でボゾボソと答えると。

「えっえ〜!パソコンで奥さんの悪口書いているって〜! あんた暗いね〜。アッハッ、ハッ、ハ〜、こんなくらい人見たことないよ」
「見えるんですか?」
「手に取るように見えますよ、アッハッ、ハッ、ハ〜」

やれやれ、私の名案もA子先生に豪快に笑い飛ばされた。これを聞いた受付の若い子は一体どう思っただろうか。会計するとき嫌でも顔を合わすから気になる。それにしても何と明るい先生だろう。目の不自由な方は暗いと思っていた私の偏見は吹っ飛んだ。

振り返ってみると、私が先生と同じくらい若かったころは暗かった。高齢になったにも関わらず、今の方が明るい気持ちで日々暮らしている。私自身の性格は変わってないのだから、人の気持ちが明るくなるも、暗くなるも、周囲の状況次第だと思う。

A子先生は目が不自由だが、家族とか友人から良い影響を受けて、明るくて積極的な性格に育ったのだと思う。愚かな私は、さっそく空想にふけった。もし、水も滴るいい男なら、精いっぱい愛嬌を振りまいて、周囲を幸せにしたいとかエトセトラ。

良い影響を与えられる人になった気分で空想をしたが、相変わらず不細工で暗い人のままだ。それなのに何故か楽しい。穏やかで静かな暮らしが性に合っているようだ。

もしはもし もしもよくても もしはもし いつまでももし もしのままゆく
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2019年10月05日

オペレーションYUTORI

オペレーションYUTORIとか、意味の分からないことを書いて申し訳ない。少し長くなるが説明させて頂きたい。在職中は私が仕事、P子は家事と、明確な分業が成り立っていた。待ちに待った定年退職がやって来た。さあノンビリするぞと喜び勇んだのは束の間。厳しい試練が待っていた。期待に反して、なんだかんだと居心地が悪いのである。

しばらくすると自分の立ち位置が分かって愕然とした。我家はいつの間にかP子に占領されていたのだ。私は知らない内に敗戦国民のような立場になっていた。しかし、こんな現実に負けてはいられない。「家でノンビリ」は長年の憧れである。どうしても譲れない一線だ。創意と工夫で、この戦局を打開しようと決心した。

 「私はこの作戦の必勝を期してオペレーションYUTORIと命名しました」
 「P子さんの尻の下から脱出するのに、作戦とは大袈裟だな」
 「敵を甘く見てはいけません。作戦目標はノンビリした暮らしの確保です」

半年もすると、二人暮らしのコツも身についてきた。「嫌・駄目・出来ない」はご法度。何も一生懸命やることはない。とりあえずは「うんうん、それもいいね」と言っておけばよい。

「仕事を止めたんだから、家事は半々にしようね」とP子。
「うんうん、それもいいね」
別に何時からと言われた訳ではない。「うんうん、いいね」で充分だ。しかし「明日からやって」と言われたら、少々頭を働かす必要がある。

「うんうん、いいね」は決まり文句だから、そのままで良い。難しいのは後半だ。間違っても「出来ない」とは言ってはいけない。そんなこと言ったらお仕舞だ。厳しい訓練が待っている。P子は決して甘くはない、しかも強いのである。

「明日、あさっては予定があるので、3日後からで如何でしょうか」と、とりあえずは先送りする。3日後に同じことを言ってくることはない。P子は忘れっぽいのだ。

もし、忘れずに家事は半々と言ってきたら、どうするんだ? と言うような愚門には、もう三日待ってもらうと答えたい。理由なんて何とでも付けられる。嫌・駄目・出来ないと言わなければいいんだ。こうして、オペレーションYUTORIは成功裏に終了。世間は厳しいけれど我が家は甘い。だから、この穏やかで無思慮な作戦は二人の仲でしか通用しない。
タグ:楽しい我家
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2019年09月28日

親友募集?

前回のブログで長年隠していたことを書いてしまったが、書きにくいことを書くのは本当にシンドイ。本当は公開などしないで親友だけに話したかった。長い間叶わぬ夢を追い続けている。親友を作ろうとの試みは、全て失敗して現在に至っている。みんな自分が悪いのだ。それとも探し求める親友とは、ドラマの世界だけに存在する幻か?

地下歩行空間の休憩コーナーで高齢女性が二人で楽しそうに話し合っていた。用事を済ませての帰り道、同じ席を見ると今度は深刻な顔で話していた。あれから2時間半以上はたつ。あんな長い時間を退屈もしないで話せるなんて、二人は親友に違いない。私もあんな風に二人で長く深く話したい。

年を取ったら親友が出来ないのかも知れない。青少年時代は各地を転々としていたので26歳になるまで市区町村の選挙人名簿に登録されなかった。同窓会通知が来たのは中卒後1回だけだった。転々としている内に行方不明扱いになったらしい。何処に行っても人の輪は出来上がっている。孤独を感じても輪の中に割り込むのは容易ではない。

つくづく孤独な人間だなと思う。結婚して子供が出来たのも奇跡のような感じがする。振り返ってみれば、何でもいいから結婚したいと言う一念だった。それでも孤独の状態は変わらなかった。15歳で家を出て未だに地に足が付いていないような気がする。

このままで、一生フワフワと雲の上にいるような感じで過ごすのだろうか。私は諦めきれない人、今でも奇跡的に親友が出来るかも知れないと思っている。もし、そうなったらこのブログともおさらばだ。何でも話せるのだから書かなくてもよい。

ところで、地下歩行空間で見た高齢女性は、あまり幸せそうにも見えなかった。愚痴をこぼし合って、ストレスを解消していたのかも知れない。それなら私もやっている。このブログでね。自分史のつもりだが「愚痴こぼし史」のようになりそうだ。そうならないように注意するが、先ずはブログ訪問者に感謝! おかげさまで静かに楽しく暮らしている。
タグ:札幌
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2019年09月21日

隠していたこと

このブログ、「空白の22年間」は写真、文書、物品等が何も残っていない22年間を、記憶だけを頼りに書いている。開設して2年近くなるが、幼少期から現在に至るまでを書いているのに、まったく触れていない部分がある。最も書きにくい部分が残ってしまったのだ。私の人生に最大の影響を与えた部分だが、書くか書かないか未だに迷っている。

私と同年配の人達は、日本のどん底からバブル景気、そして長い低迷時代を生きて来た。家庭に電話が無い時代からスマホの時代まで駆け抜けて来た。汲み取り便所からシャワートイレまでの経験がある。仕事に使う自転車を買うのにに苦労した時代から趣味で車を買える時代に……。前置きばかり長くなり、なかなか本題に入れない。

書きにくくて書かなかったことは、我が家が生活保護家庭だったこと。先ず、高校に行くことなど考えられない。自分の意思として中学を出たら働いて、保護の要らない家庭にすることが第一と考えていた。当時は貧困の時代、友人の家庭を含め、多くの貧しい人々が体が弱くても栄養失調でも保護を受けずに頑張っていた。命がけで働く時代だった。

2歳年上の次兄は成績優秀なので、先生が進学を勧めに何回も来た。金持ちの同級生も父が金銭的援助するからと進学を勧めに来た。次兄は彼が家に来ることを凄く嫌がっていた。先生も同級生も保護を受けていたら進学など出来ないことは知らないらしい。あるいは我が家が生活保護家庭であることを知らないのかも知れなない。先生は担任ではなく、自らも夜間の大学に通う苦学生で、貧しい生徒の進学に情熱をもって支援していた。

法的には知らないが生活保護を受けていたら高校には行けない、ただし働きながら定時制高校に行くことは目をつぶる、と言うのが当時の空気だった。私は次兄の進学騒動を見ていたので最初から高校に行く気はなかった。目をつぶると言うような曖昧なことでは、定時制高校にも行きたくなかった。

そんなときガキ大将の大ちゃん が雑誌を持って来た。そこには自衛隊の制服を着た少年が整列している写真があった。大ちゃんは「格好いいだろう。俺と一緒に受けないか」と言った。結局、3年生4人が受けることになった。受かったのは私一人。大ちゃんは商船高校も落ちて、水産高校に行き、他の二人は普通の高校に行った。

これで私は、生活保護の子供と知らない世界に行けると喜んだ。しかし未成年だから入隊には親の許可が必要だ。母は最初は渋っていたが、5400円の給料の内4000円を送金すると言ったら許可してくれた。働きながら定時制に行っている兄も二人いるし、これで生活保護から抜け出せると、私も前途に期待することが出来た。中学で就職する最大の理由は、生活保護家庭の子供と言う恥ずかしいレッテルを剥がすことだった。
タグ:渋谷
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 中学時代

2019年09月14日

ゴミ捨ては辛いよ

25年間も全く別の世界で暮らしていた二人が偶然の出会いで結婚する。それが当然と思って何も考えずに年を取る。退職して家でゴロゴロ二人暮らし。そして、些細なことでも喧嘩するようにになる。それでは人生は楽しくない。平等とか思うからいけないのだ。そんなことは有り得ない。今まで主人だった私は家来になる決心をした。

二人居る以上は上下関係が必要だ。一番いい上下関係は親子と思う。それで私は子供になることにした。子供は凄く楽だ、お母さんにご飯とか家事一切やってもらって勉強してればよい。私はもう18年もやっている。子供の唯一の仕事はお母さんの言いつけを守ること。そうすれば叱られることもない。お母さんの尻の下で何不自由なく暮らせる。

ここで呼び方について少し説明、子供が家を出て二人暮らしになった時、お母さんと呼ぶことに違和感を感じた。それで名前で呼び合うことを提案したら一蹴された。しかし、今は喜んでいる。子供役の私にピッタリの呼び方である。

私がお母さんに言いつけられている仕事は朝のゴミ出しである。ゴミ出しは凄く厳しい仕事だ。他に何もやってないからね(笑)。共同住宅に住んでいるから、やたらに知ってるような知らない様な人に会うのだ。挨拶するのがもの凄く難しい。

昔は好かったとか言っても始まらない。今は挨拶するかしないか、顔を合わせるごとに判断を迫られる。これは案外つらい。この辛さから逃れるのは簡単だ。人に会わなければいいのだ。人に会わないテクニックを身に付けることにした。

我室は4階にある。先ず、乗るべきエレベーターが1階にあることを確認する。90%以上の確率で箱はカラである。問題は4階を通過する場合、人が乗っていれば好いのだが、カラの場合は上に行った箱は誰かを乗せて4階に降りてくる。そんな場合はゴミを持って階段を歩いて行く。こんなことを一瞬のうちに判断して行動に移すのである。

廊下で遭遇したら仕方ない。軽く頭を下げる、そして相手が「おはようございます」とか言ったら口頭の挨拶を付け加える。これが一番無難なやり方である。

上るときはエレベーターが1階に止まっていれば幸運だ。降下中の場合は階数を読む。もし8階ならば、玄関の反対に向かって、イチニーサンシーとハチまで数えながら歩き、それからエレベーターに向かって歩く。これで万全、カラの箱が待っててくれる。

家に帰るとお母さんが「今日は誰かに会ったかい」と聞いてくれる。私の苦労を知っていて労ってくれるのだ。そして「ごくろうさん、明日から連休だね」。そうなんだ。今日は金曜日でプラスチック、土曜日曜はゴミ捨てはない。
タグ:楽しい我家
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2019年09月07日

好きだった

人は好きだが付き合いは苦手だ。思い返せば歌は人、必ず人との思い出と繋がっている。歌は世につれ世は人につれ。

大勢の少年が大きな部屋に住み込んで働いていた。白鳥春樹君は私と同じ18歳、就職して3年、ようやく遊ぶ余裕が出来た頃だ。プライバシーなど無い。やってることは皆分かる。春樹はダンスばかりしていた。歌って踊るのが大好きだ。彼が大勢の前で一人で歌うときは鶴田浩二の「好きだった」を歌う。

そして、私の顔を正面から見ながら「俺、いい男だろう。鶴田浩二にそっくりだろう」と言う。しかし全然似ていない。どちらかと言うとキリギリスかバッタに似ている。それがダンスホールに行くと、ビシッとお洒落して格好よく踊るから不思議だ。

春樹は朝は歯磨き貸してくれと言い、夕方は靴墨貸してくれと言うが返してくれたことはない。給料は皆同じようなものだが、遊ぶのに遣い過ぎて万年金欠病だ。ある日、「お前をイカス男にしたい。一緒に服を買いに行かないか」と誘われた。

18歳の私は春樹のように格好よくなりたいと思っていたので、渡りに船だ。洋服店でブレザーとズボンを選んでもらい、部屋に帰って着ると春樹は「オ〜!イカスイカス」と言った。

実は二人で部屋を借りていた。売春防止法の影響で廃業した元遊郭なので洒落ていて家賃が安かった。普通の人は敬遠しても私たちは気にしない。職場は間借りを禁止していた。どこを借りようと見つかってはいけない。むしろ隠れ家として最適だ。

新しい服を着て気分良くしていたら、春樹は「何か足りないな〜」と言った、今は秋、私もそんな気がした。春樹が格好良く着こなしている薄いブルーのトレンチコートが目に入った。「気に入ったんなら着ていいよ」と言ってくれた。

それを着て二人で街に行った。踊って飲んで部屋に帰ると。「コート気に入った?」と聞かれた。気に入ってはいたが後になって考えると、私には派手なような気がした。しかし、そのときは春樹のよううに格好よく見えるかなと錯覚していた。

「新しいコート買うから、それで好ければ安く譲ってやるよ」と言われ、喜んで買った。新品の半値くらいと思う。少し得した気分だ。ところが、ある日「デートするので、あのコート貸してくれ」と言われた。あれっ!新しいコート買ってないんだ?

そう言えば、歯磨粉も靴墨も、その他諸々、貸してくれと言われたが、持っていなかったのだろう。服を選んでくれてから、トレンチコートを売るまで、全ては彼が描いたシナリオかな? 疑惑だらけの春樹だが、何故か金魚の糞のように付いて歩いて遊んでいた。遊びたいのに遊べない。昔も今も変わらない。

鶴田浩二の「好きだった」を書くつもりだったが、何故か春樹の話になってしまった。好きだったのか、そうでもなかったのか、よく分からない不思議な人。性格の違いが魅力だったかもしれない。器用に遊べない自分はつまらない人と思っていたからね。

好きだった 作詞:宮川哲夫 作曲:吉田正 
唄:鶴田浩二  1956年の発売
好きだった 好きだった
嘘じゃなかった 好きだった
で始まり、
せめて恨まず いておくれ
逢えるあしたは ないけれど
で終わる切ない歌。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)

笑うな

穂村弘のエッセイが好きだから、ときどき彼の現代短歌に触れることがある。NHKラジオ深夜便で彼が話すのを楽しみにしていた。午前4時からだが最初は楽しく聴いていた。その内インタビュアーの笑い声が気になって来た。更に頻繁に笑うようになると邪魔に感じるようになった。穂村さんの話はとても面白いのだが、クスクスするだけで、ケラケラ笑うほどのものではない。それに冗談は時々しか言わない。それなのに彼女は頻繁に笑う。

彼の話を聴こうとすればするほど、彼女の笑い声が邪魔になる。しまいには彼女が笑いを止めても、今に笑うのではないかと恐ろしくなる、そんなときに笑われると、嫌という気持ちを飛び越えて腹が立ってくる。ついに聴くのを止めてしまった。

ところが突然、変なのは彼女ではなく私だと気付いた。インタビュアーはアナウンサーと思う。そうでないとしても話のプロか、それに近い方と思う。話のプロがリスナーの嫌がることをする筈がない。そんなことをすれば仕事を失う。現に彼女は仕事をしている。どう考えても変なのは私だ。年を取って笑い声を嫌がる変人になったのである。あ〜ぁ、嫌になっちゃうね。ついに、偏屈老人になってしまった。私こそ世の中の邪魔者だ!

ラジオ深夜便を聴き始めてから20年以上たつ。深夜に静かに語られる深夜便が大好きだった。1時間のタイマーをかけて聞いていると、何時の間に寝てしまう。その感じも好きだった。まさに寝て良し起きて良しのラジオ深夜便。それが数年前から笑い声が増えて来た。笑い声は次第に増え、ついに違和感を感じる程にまでなったのである。

実際に笑い声が増えたのか、どうかは分からない。私だけが気に障るようになったのかも知れない。とにかく話すプロはリスナーを意識するから、わざと笑おうとするのはリスナーが歓迎する場合に限られる。笑いが人々に好感を与える。それを不快に感じる私は知らぬ間に変人になってしまったのだ。気づいても元に返れない。

年を重ねるに従って、だんだん変人になったのか、世の中が静かな時代から笑い声の時代に変わっのか、未だに分かりかねている。もう世の中の変化についていく気力もない。穏やかに静かに生きているつもりだが、いつの間にか頑固な変人になってしもうた(笑)。まあいいか。人生いろいろ人もいろいろ。いいじゃないの幸せならば。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 後期高齢(75-79歳)

2019年08月31日

You’d Be So Nice To Come Home To

勘違いのユード・ビー
音痴だから音楽については語れない。初めて読む方もおられるかも知れないので、繰り返し書いている。とにかく腹の中は音楽のことでいっぱいだ。漏れそうなので書いている。話すのは電車の中で漏らすようなものだが、書くのは太平洋の真ん中で漏らすのと同じ。だから話してはいけない、書くのはかろうじてセーフ。

1943年にコール・ポーターが作詞作曲した名曲、「You’d Be So Nice To Come Home To」はカタカナで書くと長すぎるので、ここではユード・ビーと省略して書くことにした。歌はハスキー・ヴォイスのヘレン・メリルだが、クリフォード・ブラウンのトランペット・ソロも素晴らしい。

ところで、小・中学生の頃は洋画が大好きで、渋谷のテアトルSSに通っていた。古い洋画を40円で観れるのだ。少なくとも百本以上は観た筈だが殆ど覚えていない。しかしユード・ビーのお陰でコール・ポーターの自伝映画「夜も昼も」を思い出した。なぜか戦地でピアノを演奏するシーンが浮かんできた。

真偽のほどは不明だが、映画でのコール・ポーターはフランス外人部隊として参戦したことになっている。これで何とか私の記憶と繋がった。私にとってはユード・ビーも懐メロだが、古い歌は忘れたことを思い出させてくれるので有難い。

ユード・ビーは第二次世界大戦という時代背景を抜きにしては語れない。私が特に好きなのは次のフレーズだ。
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin'above

このフレーズを聴くたびに、戦場で戦う兵士の姿が目に浮かぶ。寒いだろう、暑いだろう、怖いだろう、故郷に帰りたいだろうとか考えてしまう。ところがこれが大間違い。音痴は歌だけでなく英語へと範囲は限りなく広がっている。

私の考えを確認するために、ネットで検索していたら、ユード・ビーの正確な和訳にたどりついた。以下は、"You'd be so nice to come home to 歌詞 正確な和訳 高知学芸塾"、ジャズの世界へご招待より引用。

『映画の中で男性がこの歌を歌いながら女性を口説いているシーンで使われたのをヘレンメリルが歌ってヒットしたのです。この詩はもとは男が、「君キャワイイねえ!君最高!君は理想の人だ!君は天国だ!」とべた褒めしている歌なんです』。女性を口説いている歌とは知らなかった。愚かにも勘違いして感動!

興味がございましたら、"You'd be so nice to come home to 歌詞 正確な和訳 高知学芸塾"で検索して、参照元にアクセスしてみてください。私には難しかった。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 中学時代

挨拶はつらいよ

18年前に郊外の戸建てから都心近くのマンションに転居した。そして家事一切を仕切る、長年の同居人B子から、ゴミ捨て係を命ぜられた。私は真面目に実行した。ある日、B子は「朝の買い物に行くからゴミは持って行ってあげる」と言った。有り難くお言葉に甘えた。

次の日もそう言ってゴミを捨ててくれた、有難い。B子がゴミ捨てする日が次第に多くなり、私はゴミ係から解放されたような気分になってしまった。そして、いつの間にかB子から頼まれた時だけゴミを捨てに行くようになった。

こうしてゴミを捨てに行かない習慣が身についた。それから15年たったある日突然、「アンタは何でゴミ捨てに行かないの。アンタの仕事でしょ」と叱られた。一瞬、何のことかと耳を疑った。考えてみれば私はゴミ係だったのだ。15年も昔のことで忘れていたが確かにそうだ。こうして久しぶりにゴミ捨てを再開することになってしまった。

お安い御用と思っていたのに戸惑った。長い間にゴミ捨て環境は様変わりしていた。昔は顔を合わす皆が挨拶を交わす爽やかで清々しい朝だった。お父さんも、お母さんも、お子さんも例外なし。今は挨拶するか、しないか、顔を合わせるごとに判断を迫られる。これは案外つらい。何の悩みもない静かな生活をしていると、たかが挨拶でも悩みとなる。

15年の年月が住人を変えただけではない。実は、新築のマンションで遭った盗難事件をきっかけにして、住民同士が挨拶を励行するようになったのである。謳い文句は「不審者は挨拶が嫌い」だった。挨拶でお互いに不審者でないことを確認していたのかも知れない。だから事件の影が薄くなるに従って挨拶をしない人が徐々に増えたのだろう。

およそ18年前のことだが、私たちの住んでいる建物は危ないマンションとして知られていた。数か月の間に泥棒に3回も入られ、玄関を飾る大きな額と、ロビーのソファーと豪華すぎるゴミステーションの扉が盗まれた。まるで豪邸の門のような感じの扉だった。もちろん、数年たってからカラスが入れない実用的なものに替えられた。

窃盗事件は雑誌の記事にもなった。その後、防犯対策のための管理組合臨時総会も開いた。そこで生々しい窃盗体験談も聞きいた。不審者は作業服を着て車に乗って来る。掃除用具など持ち、一見運送屋風、堂々と盗むので手遅れになってから窃盗犯と知る。

防犯対策については、監視カメラを設置し、警察の見回りも実施されれることになった。不審者は挨拶が嫌いだから、住民どおしで挨拶を交わすことが大切と再認識した。そのような背景もあって、私がゴミ捨てをしていた当初は挨拶が励行されたが、15年の時の流れで不審者対策の挨拶はすたれ、知人同士の挨拶に変わったのだと思う。愚かな私は転居当時、皆が挨拶してくれるのを無邪気に喜んでいたのである。

家庭の躾のせいか、子供たちが積極的に挨拶し、朝のゴミ捨ても気分よくできた。今では雰囲気もずいぶん変わって戸惑っている。挨拶する人、しない人が入り混じっていると本当に気疲れする。今ではゴミ捨てに行って誰にも会わないと、思わずラッキーとつぶやいている。

●お知らせ:北海道新聞「さっぽろ10区」に「中島公園便り」執筆
管理人は「さっぽろ10区(トーク)」に連載される「中島公園便り」を担当します。
トークは毎週火・金に配達されます。1ヶ月半に一度の予定で書きます。
初回掲載は9月3日(火)です。是非お読み下さい。
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2019年08月24日

悲しき雨音

私は音痴だから歌とか音楽そのものついては語れない。ただ、歌にまつわるいろいろな思い出がある。例えば、「あじさいの雨」を歌えば、大昔、こいさんと呼ばれた年上のAさんを思い出す。同じように「くちなしの花」なら"遺稿くちなしの花"の宅島徳光海軍中尉を思い出す。私にとって歌は思い出、懐メロが全てだ。

ザ・カスケーズの「悲しき雨音」を聴けば思い出すのはプランタンデパートである。プランタンは1980年代に副都心を目指す新さっぽろに華やかにオープンした。その近くを歩いていると、アップテンポな素晴らしい音楽が聞こえて来た。その頃私は40歳を過ぎた中年だったが、若者向きの曲が好きだった。

「悲しき雨音」が発売された頃、私は22歳だがタイトルもザ・カスケーズも知らなかった。流行った曲なのでメロディーは、どかかで耳に入っていたのだと思う。青空の下でのコンボバンドの演奏が凄く素晴らしく感じた。その曲のタイトルを知りたくなったが、そのことは直ぐに忘れてしまった。

それから35年後に後期高齢者になった。所属のシニア団体に洋楽のカラオケ会ができた。何も歌えないのに参加したくなった。ともかく歌える歌が無いのでCDやネットで探していたら、プランタンの前で聞いた、あのメロディーに出会った。そして、青空の下で聞いた素晴らしい曲が「悲しき雨音」とのタイトルであることを初めて知ったのだ。青空の様な明るい歌と思っていたが雨だった。

洋楽を歌うのは初めて、しかも音痴で英語も苦手、音感が鈍いから発音も悪い。なんとか私でも歌えそうな易しい曲はないかと、一生懸命探したが見つからなかった。それなら好きな曲でも歌うかと思い、「悲しき雨音」がその一つとなった。その他「ローハイド」「16トン」「ロック・アラウンド・ザ・クロック」。並べてみると自分でも変だと思う、似合わない曲ばかりだ。

私は「心身異質障害者」、性同一性障害と同様に世間では理解されにくい。ハゲの短足老人という外見なのに、心の中はロマンチックな想いで溢れている。歌えば本人は幸せでも周囲を不快にする困り者。しかし、不治の病なので治せない。結局、周りに慣れてもらうのが唯一の解決策である。こんな調子では知らぬ場所では歌えないので、慣れた場所で歌わせてもらっている。

私にとって「悲しき雨音」は珍しい歌。チョコっと聞いてタイトルも分からないのに好きになった。街中で出会って一目惚れ、それから35年もたって曲名を知った。長い間の潜在的願いが突然叶ったのである。ところで"心身異質障害"とは、自分を正当化するための造語だからGoogleで検索すると次のように表示される。
"心身異質障害"との一致はありません。
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さらばA空港出張所

前回書いた事故については後日、週刊誌に「A市上空、恐怖の3時間」と言うような見出しで記事になった。今、忘れ去られているのは死傷者がゼロだったからだと思う。ところで事故直後、若い副操縦士は機長の冷静な対応を興奮しながら称えていた。機長がこの程度のことは戦争中は日常茶飯事だ、と言っていたことを今でも覚えている。

1年余りの勤務だが事故はいろいろあった。着陸に失敗してプロペラ破損、ヘリコプターが低空で浮力を失いドスンと落ちて破損、悪天候で着陸禁止の空港に緊急着陸もあった。雲の切れ目に滑走路が見えたので運を天に任せて着陸を強行したと言っていた。

空港は低い雲で覆われ着陸禁止、雲の中からヨロヨロしながら出てくる軽飛行機を見てビックリした。命拾いしたばかりの人の話を聞くのは、これで二度目である。以後このような経験は一度もない。小さな空港だから興奮冷めやらぬ事故後の肉声を聞けたのだ。

A空港に赴任して1年余りで転勤することになった。私の希望が叶ったのだが、空港出張所の人たちにとっては面白くない事態だった。いくら面白くないと言ってもやってはいけないことがあると思う。その頃、普通免許を取得するために自動車学校に自費で通っていた。私が知らない内に退学手続きがとられていたのである。

着任早々、転勤希望を本省に出していたことがバレたせかも知れない。一種の腹いせと思う。面倒見たのに裏切ったと思われたのだ。私が自動車免許を取りたいと言ったとき、所員一同とても喜んでくれ、全面的に協力してくれた。私は内緒で転勤希望を本省に出していた。しかし、直ぐに転勤できるとは思っていなかった。

同僚たちは空港の普通車を使って実技訓練の手伝いをしてくれたのだ。A市は農業の中心都市だから、私有地の農道で運転している人が、道路でで運転するために自動車学校に来る。実技でモタモタするのは、初めて運転する私ぐらいだ。多くの運転できる小母さんたちが街に買い物等の用事をする為に、免許が必要と考えて学校に来るのである。

小さな職場ではお互いが職種を超えて協力しなくてならない。免許取得者が少なかったので仕事のために取ると勘違いしての協力だった。仕事上の必要から無免許で空港内を運転することは多い。一方私はこんな暇なタワーに居たら、いつまでたっても仕事を覚えられない。万一の失業に備えて免許が必要と考えていた。

本人に断りなしで他人の意向で退学をさせられるなんて、頼む方も頼む方だが受ける自動車学校もどうかしている。ここでは私の常識では考えられないことが起こる。ともかく転勤できて有り難い。新任地で文字通り新人として一生懸命ガンバって仕事を覚える覚悟をした。仕事抜きで安定した生活などあり得ない。仕事、仕事、今度こそ仕事。
タグ:国内某所
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2019年08月17日

航空事故3-記者団が抗議

小説とかドラマが好きなのは、フィクションの中にしかない、真実に出会えるからである。一方、私が書くのは自分の曖昧な記憶と直接耳にしたことだけで、事実を示す裏付けが無い。それでも自分が思う真実を伝えたい。それでフィクションというオブラートに包んで語ることにした。根拠のない思い込みで人様に迷惑をかけることは避けたいと思う。

A空港での業務は何から何まで異常だった。一応、A市が管理する空港とはなっていたが、人的にも物的にも体制が整っていなかった。今なら有り得ないけれど、55年も昔のことだから仕方がない。1945年の敗戦で日本の航空業界は既に壊滅していて、再開したと言っても発展途上のヒヨコ程度だった。

元々この空港は緊急着陸に対応できない。故障した航空機が高度を取れなくなり、周囲の山脈を越えられなくなったのだ。当該機が陥った状態は草原に不時着するのに似ていた。ただ滑走路があることと何人かの係員が居ることだけが違っていた。

旅客機が緊急着陸すると言うのに、大きめの消火器を手押し車に載せて一人で滑走路に向かっている人を見た。まるで戦車に向かって竹槍を構えているような感じだ。胴体着陸に対応するには化学消防車が必要である。皆が想定外の出来事に遭遇して、右往左往していた。手に負えなくても何もせずには居られない心理状態に陥ったのである。

A空港出張所は鍵をかけて建物内立入禁止とした。もちろん忙しくて手が回らないことは確かだが、やましいことがなければ記者たちを中に入れても問題はない。見せるのも取材協力だが、見られたり聞かれたくないことがあるから鍵をかけて閉鎖したのである。

結局、正しい情報は東京が先に得ることになり、現地の記者たちは面目丸つぶれになった。後日、現地記者団が抗議のために出張所に押しかけた。そして口々に取材拒否はけしからんといった。

意外にも所長は平然としていた。そして大勢の記者を前にして「あなた方は出張所開設の時、挨拶に来ましたか」と逆質問した。記者たたちはキョトンとしていた。私も挨拶とはこの期に及んで何を言うのかと思った。しかし所長の言うことにも一理あった。

緊急事態で忙しい時は関係者とか記者とかは顔を見て判断している。顔を知らない人を記者と名乗るだけで入れる訳には行かないと、所長は言った。結局、お互いに連携を密にして緊急事態にも対処しようと言う前向きな話になってしまった。意外も意外、こんな言い訳がスンナリと通ってしまったのだ。

本当は事故の痕跡を消したり、口裏合わせなど、いろいろあったが伝聞だ。私が聞いた話が事実とは限らないので具体例を書くことは出来ない。記者団からは更なる追及はなかった。隠蔽の事実を裏付ける情報を持っていないのか、抗議活動が一定の効果を挙げたので良しとしたのか分からない。

大まかな事実関係は一応明らかになったが、具体的な隠ぺい行為は闇の中となった。以上は、今78歳の私が24歳の時、A空港着任二ヶ月の新人の時に遭遇した事故の記憶である。機長の冷静な対応で着陸後火災も起こさせずに死傷者ゼロ、まさに歴戦の機長(旧軍出身)の腕だけが頼りの緊急着陸だった。壊れた機体は後日、解体し撤去された。
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2019年08月10日

波止場のママ

誰か「波止場のママ」を知らないか

1958年、私が18歳のとき、音痴は大したことではなかった。カラオケがないから、庶民は自分流で勝手に歌うことが許されていた。よく友人同士で気晴らしに歌った。上手な人は感心されるが、下手でも気にすることもなく一緒に楽しんだ。それぞれが勝手に歌って何の問題もなかった。楽しかったなぁ。

私たち10代の有職少年は、自由時間に友達同士で同じ歌を歌って楽しんだ。その時の一番人気は「波止場のママ」、”こんな酒場の片隅で♪”で始まる曲だった。少年たちの憧れは外国に繋がる海、そして波止場のママ、そんな時代があったのだ。

職場は男ばかりで女性との接点は食堂とか売店でしかない。とても愛想の好い売店の少女をデートに誘ったら断られた。こんな状況では女性と話したければ酒場に行くしかない。そこには「男でしょ貴方は海の男でしょ」と励ましてくれるママが居る。酒場では海の男の気分になって、景気よく飲んで売店の少女を忘れた。懐は寒くなったけれど、酔って心は温かくなる。

次に洗濯屋の少女に思いを寄せたが振り向いてもくれなかった。こんな時は酒場のママに会いたくなる。「うぶなのね貴方はわりとうぶなのね」と、優しい言葉をかけてくれる。そして雪国と言う素敵なカクテルを作るから飲んで忘れなさいと言ってくれた。カクテルは高かった、何時も飲んでいるトリスの十倍もした。

退屈したのでママの顔を見に行った。今度は振られた話はしない。ジッとママの顔を見つめていたら、ママはつぶやいた「つもる苦労を白粉に 隠す私じゃもう駄目ね」。海の男の気分でママを励ました。「生きなくちゃ貴方は強く生きなくちゃ」。

その夜、ママは珍しく酔っていいた。「アタシのどこが嫌なんだ。生きようと死のうとアタシの勝手だ」とか何回も同じことを言っては絡んできた。酔っていても勘定は正確、トリスのストレート、シングル1杯とハイボール2杯で340円。今までで一番安かった。

波止場のママ 唄:鶴美幸 作詞:森くにのり 作曲:下川博省 
1957年4月発売
1. こんな酒場の片隅で 寝てるふりして泣くなんて 男でしょ貴方は海の男でしょ 浮気な女の名なりとも波止場のママに聞かせてね
2. 捨てて気取ったその手紙 しわを伸ばしてどうするの うぶなのね貴方はわりとうぶなのね 昔の誰かを見るようで 波止場のママも泣けてきた
3. つもる苦労を白粉に 隠す私じゃもう駄目ね 生きなくちゃ貴方は強く生きなくちゃ 呑むのはいいけどぐれるのが 波止場のママはこわいのよ

どこのカラオケ店にもない。探し探し続けても未だに見つからない「波止場のママ」。誰か波止場のママを知らないか。
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航空事故2-謎の鍵?

A空港出張所はたった6人、一応無線・通信・管制とか別れているが、清掃、除草、除雪、雑用等何でもこの6人でやらなければならない。この事故にも無い知恵絞って全力で対応した。役に立ったかどうかは別としてね。

警官に野次馬を着陸帯から退去してもらいメデタシ・メデタシとは行かなかった。管制塔に帰ろうとして、一階の事務所に入ったら、出張所員と知らない人が揉めていた。この所員は体格が好くて頭は短髪で、べらんめえ口調で話すヤクザ風の人だ。

「鍵かけてあったろ。どうやって入った」と、見知らぬ男を問い詰めている。
「開いてたよ。○○新聞の○○だ。事故の取材に来た。所長に伝えてくれ」
「俺が鍵をかけたんだ。開いてる筈はない。出て行け」
と言って記者を押し出してしまった。実はこれが後で問題になる。

「鍵かけたのにな〜」と所員は首をひねってブツブツ言っている。所長は気配りの行き届く人だった。こんな時こそ日頃お世話になっている航空会社にお返しをしなければならないと決心していた。良い意味でも悪い意味でも家族的、お世話したり、してもらったりの関係である。法令が介入する余地はない。それらは表向きの話と考えているようだ。

所長は会社の隠蔽工作に協力する決心をした。事故機は飛び続け、ニュースは全国に刻々と伝えられている。この時点での成り行きは流動的である。つまり隠蔽が成功するか失敗するか分からない。しかし、経験則では成功する確率が高い。全てが明らかにされるとしてもマスコミが騒いでいる今よりも、下火となった頃の方が良いとの判断である。

記者に対応した所員は所長の命令を素直に実行しただけ。所員は30歳近いが現地での新規採用だ。職を転々とした後で、この職に就いて1年もたっていない。こんな事故に遭ったら私同様、何も考えないで上司の判断に従うだけである。

ところで、新聞記者と所員が揉めていた鍵の問題だが、両方とも言い分は正しい。その時は気付かなかったが、鍵を開けたのは私だった。鍵は中からは簡単に開けらるが外からは鍵を持っていない限り開けられない。

言うまでもないことだが、所員が鍵をかけた → 私が外に出るために開けた → 記者が入って来た→ 私が帰った時に揉めていた、との順番である。この問題はA空港出張所の取材拒否問題としてマスコミから追及される切っ掛けとなった。
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2019年08月03日

初めての航空事故

1964年、A空港着任2ヵ月後、航空事故に遭遇。定期便が着陸に失敗し片側の車輪が破損、片車輪による胴体着陸を決行した。事故機は緊急着陸準備のため空港上空で旋回飛行を続けた。長時間の上空飛行で事故を知った沢山の野次馬が車でやってきた。この時代自家用車を持つ人は前任地東京では少しだけ、この地方の豊かさを知った。

大勢の野次馬は立ち入り禁止の着陸帯(安全のため設けられた滑走路周辺地域)に侵入した。管制塔に事故機から無線で要請があった。「危険だから着陸帯に入っている人達を退去させてください。片足で着陸するので滑走路を大きく外れます」。

なぜか、私が状況を知らせて立ち退かせる役目を命ぜられた。新人の私は管制塔に居ても何もできない。ようやく役目を与えられて張り切った。しかし、広大な着陸帯に散らばる大勢の群衆を退去させられる筈がない。愚かな私は、やってみて初めて分かった。

何百人のも野次馬に向かって声を振り絞って「危険ですから下がって下さい」と怒鳴っても何の反応もない。不思議な顔をして私を見る人がいるだけだ。「この人、気は確かかな?」と思われたらしい。無駄なことだが個別に説得を試みた。

「危険ですから下がってください」
「アンタ誰だよ」
「空港に勤務する管制官です」
「カンセイカンってなんだよ?」
「パイロットが緊急着陸するから危険だと言ってきたのです」
「危険なのは飛んでる方だろ」
「人が邪魔で着陸できないと、あなた方を退去させるように頼まれたのですよ」
「今、飛んでるじゃないか。話せるわけないぺ」
「とにかく、ここは立ち入り禁止です」
「もっと、前に沢山いるだろ。あいつらに言え」

私は普段着、制服も制帽もなくメガホンも、笛も持っていない。第一、訓練も受けていないし、こんな仕事は初めてだ。10人くらいに声をかけたが、クタクタになっただけ、一人も動いてくれなかった。このときは何かあったら私の責任と思って、必死になってやっていた。後で考えれば、本当にやるべきことは何らかの方法で警察に知らせることだ。

機長と交信しながら私に命じた先輩管制官も冷静さを失っている。機長の要請をそのまま見習管制官の私に伝えたのだ。交信は一緒に聴いているから分かる。電話もインターフォンも少人数では対応できない。すべては話し中だ。周囲はテンテコマイで何も機能していない。先輩は警官への伝令として私に命じたのかも知れない。私だってそのくらいの知恵はあるが、現場に行くと警官が一人も見えないのだ。

疲れ果てた頃、警官が何人か来た。ピーと警笛を吹いてメガホンで「ここは立ち入り禁止、あそこまで下がりなさい」といって、警棒で行先を示すと、近くの人達が下がり始め、その後はゾロゾロと付いて行った。警官は予め機長の要請を聞いているようだった。

警察に知らせるべき人は、私たちの他に、航空会社、市役所(A空港の管理者)、主な空港使用者である陸上自衛隊等いろいろある。そのうちのいくつかが機能したのだと思う。後で分かったことっだが、ドタバタして役に立たなかったのは私だけではなかった。

九割の関係者は役に立っていなかったと思う。それに緊急着陸の邪魔になった関係者も多かった。一例を挙げれば、街から駆けつけた消防車、滑走路の端で止まって着陸の妨げになっていた。消防車との通信手段がないので無免許の同僚が車を運転して退去させに行った。消防官は着陸した飛行機を後ろから追って消化するつもりだったと言う。

更に事態を拗らした人もいた。そもそもこの空港は人的にも物的にも緊急着陸を支援する体制はなかったのだ。以上は私の朧気な記憶に過ぎない。時の経過と共に記憶は薄くなり、それを補うように想像の部分が増えて行く。結局はフィクションとなってしまった。
タグ:国内某所
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 定職時代(24-60歳)

2019年07月27日

ライフルと愛馬

ハイヌーンは「真昼の決闘」、ローハイドは「ローハイド」、それぞれ歌を聴けば映画のタイトルが分かる。しかし「ライフルと愛馬」を聴いてもバンバン撃ちまくる西部劇「リオ・ブラボー」を連想できない。この歌からは恋人を思いながらライフルと馬だけを頼りに、夕暮れの荒野を行くカウボーイの姿が見えるだけである。

60年も前のことだが「リオ・ブラボー」を観に行った。しかし、内容は全く覚えていない。もちろん「ライフルと愛馬」が歌われたことも忘れた。と言うか、最初から頭に入っていなかったのである。

切符売りの少女に観賞を妨げられたのだ。「リオ・ブラボー」が封切になったころは、家業の手伝いをしていたが、仕事がなくて列車の清掃に行ったりしていた。それも時々だから懐は寒い。その日はポケットに百円玉と50円玉を一つずつ持って家をでた。

薄汚れたジャンパーに作業ズボンと言う、貧乏丸出しの格好で渋谷駅近くの映画館に行った。百円の入場料を払って観客席に向かって歩いていたら、後ろから走ってくる気配を感じた。まさか私を追って来たとは思わない。映画は始まっているので自然に足早となる。ところが突然腕をとられた。切符売りの少女が料金不足の容疑で私を捕まえに来たのである。

突然のことでビックリした。少女は「50円しか払わなかったでしょ」と、血相変えて腕を取って離さない。驚きながらも、そうかな〜と思いながら確認のためポケットに手を入れて硬貨を出して見た。50円だから、百円払ったことに間違いない。

そのことを言う間もなく、少女は私の手から50円玉を取り上げた。余りにも手早かったので驚いた。呆気に取られているうちに去って行った。まるで強盗に遭ったような気分だ。先手必勝、理不尽にも私は「50円誤魔化し少年」になってしまった。

映画館の少女に、その日の全財産を取られた。悔しくてたまらない。せっかく楽しみにしていたリオ・ブラボーだが、椅子に座って悔しがっていただけだ。事件は私が50円取られた時点で終わっている。何も言えない状態に陥ったことに気づいた。

そんな古いことをよく覚えていると呆れているかもしれない。思い出すには訳がある。洋楽カラオケ会に参加したものの歌える曲がない。「ライフルと愛馬」を聞いたとき、これならユックリしていて歌えるかも知れないと思った。こんなことっが切っ掛けで、この歌が「リオ・ブラボー」の中で歌われていることを知ったのである。

タイトルだけしか記憶にない映画を今になって観たくなった。さっそくビデオレンタルで借りた。映画の中で印象的なシーンはディーン・マーチンが「ライフルと愛馬」を寝転んで歌う姿。そしてリッキー・ネルソンの軽やかな「お帰りシンディ」へと続く。

音痴だから真の歌好きにはなれないのかも知れない。そのせいか懐メロが大好きだ。歌っていると歌にまつわる色々なことを思い出す。不幸な出来事もあるが、決して嫌ではない。すべてが懐かしい。懐かしさでメロメロになるから懐メロと言うのかな。
posted by 中波三郎 at 00:00| Comment(0) | 転職時代(15-23歳)